ダヌィーロ・ロマーノヴィチ

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ダヌィーロ・ロマーノヴィチ古ルーシ語Данило Романовичъウクライナ語Данило Романович、意味:ロマンの子ダヌィーロ、1201年 - 1264年)は、リューリク朝の公の1人で、ヴォルィーニ公(在位:1205年 - 1208年1215年 - 1238年)、ハールィチ公(在位:1238年 - 1261年)、キエフ大公(在位:1239年 - 1240年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公(在位:1238年 - 1250年)であり、初の全ルーシ(在位:1253年 - 1264年)でもあった。ルーシ年代記においては、「ソロモンに次ぐ人」として謳われている。ハールィチという町からハールィチ・ヴォルィーニ大公国を治めていた事にちなんで「ハールィチのダヌィーロ」(ウクライナ語:Данило Галицький、ダヌィーロ・ハールィツィクィイ)とも呼ばれている。

生涯

初代ハールィチ・ヴォルィーニ大公ロマン・ムスティスラーヴィチ東ローマ帝国の貴族の娘アンナの間に嫡男として生まれた。

1205年、父の戦死に伴って5歳で家督を継いだが、1206年ハールィチ公国の貴族達の陰謀によってハールィチ公国を失い、ヴォルィーニ公国のみを支配するようになった。1211年から1212年の間にダヌィーロは再びハールィチ公国に足を据えたが、貴族の反発のせいでまたもやハールィチから追い出された。1229年までにダヌィーロは、父の死後に諸公国に分裂したヴォルィーニ公国を統一し、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の再建するための足がかりをつくった。1223年、彼は南方のルーシの公達及びクマン人と共にモンゴル帝国と敵対し、カルカ河畔の戦いに参加して敗れたが、1237年にヴォルィーニ公国の北部を占領したドイツ騎士団を撤退させた。

1238年、ダヌィーロはハンガリー王国とハールィチ公国の貴族の野党を負かせ、ハールィチを奪い返した。その際、父が築いたハールィチ・ヴォルィーニ大公国を再建してハールィチ公国に座を据えながら、弟のヴァスィーリコにヴォルィーニ公国の支配を任せた。1230年代末までに、彼はルーシを統一する計画を立て、東方にあったトゥロヴ・ピンスク公国キエフ大公国を領内に加え、キエフ大公となった。

1240年にモンゴル人はキエフ大公国を滅亡させ(モンゴルのルーシ侵攻)、ダヌィーロの領地を荒らした。それに乗じた国内外の反ダヌィーロ勢力が立ち上がり、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を分裂させようとした。しかし1245年ヤロスラヴの戦いукраїнська版русский版polski版においてダヌィーロの軍勢はハンガリー・ポーランド・ハールィチ公国の連合軍に大勝利し、国内で自らの政権を安定させ、ヨーロッパ諸国に力を見せ付けた。一方で都市リヴィウヘウムの建設も進めた。

1246年、モンゴル帝国のジョチ・ウルスはダヌィーロの大公国を従属させたが、ダヌィーロは独立を取り戻すためにヨーロッパ諸国に軍事支援を求めた。彼はハンガリー・ポーランド・オーストリアボヘミア・ドイツ騎士団と同盟を結び、1253年にさらにローマ教皇インノケンティウス4世から王の冠を受け、1256年バトゥが死去すると、独立を宣言し、バトゥの部下であるクレムサが率いるモンゴル政権(この時ハーンが不在だった)と戦う道を選んだ。しかし、教皇は反モンゴル十字軍を呼びかけたにも拘らず、応じる国王や大公などいなかったので、ダヌィーロは自らの力で戦わざるを得なかった。ダヌィーロは最初はいくつかの勝利をおさめたが(1257年ベルケが即位)、1259年ノガイブルンダイрусский版English版率いるモンゴル軍に降伏した。1260年に再びジョチ・ウルスの支配から離脱し、小規模の合戦を繰り返しながら、1264年に病死した。

子女

1218年ノヴゴロドムスチスラフ・ムスチスラヴィチの娘アンナと結婚、8人の子を儲けた。

リンク

先代:
ロスチスラフ3世
キエフ大公
59代
1239年 - 1240年
次代:
先代:
ロマン
ハールィチ・ヴォルィーニ大公
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1238年 - 1264年
次代:
ヴァスィーリコ
先代:
ルーシの王
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1253年 - 1264年
次代:
ユーリイ1世

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