ジョヴァンニ・ジェンティーレ
テンプレート:Fascism sidebar ジョヴァンニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentile、1875年5月30日 - 1944年4月15日)は、イタリアの哲学者、政治家。
生涯と思想
1898年から1906年までピサ大学に学び、1903年にナポリ大学の講師となる。当時はイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラの影響を受けた新ヘーゲル主義者であり、ベネデット・クローチェと協力して哲学雑誌《批評 Critica》を発刊した。1906年から14年にパレルモ大学、1914年から1917年にピサ大学、1917年から1944年にローマ大学の教授を歴任する。その間、1922年から24年にファシスト政府の文相として教育制度の改革を遂行。初等教育に宗教が導入・ラテン語教育が拡充される他、現在のイタリア教育法の主幹となる法律・複数の教育サイクル・学習への国家試験などが規定された。辞任後は上院議員、代表議会委員、イタリア大学連合会長となり、またジョバンニ・トレカーニ会会長として《イタリア百科事典 Enciclopedia italiana》を編集。その1932年版ではファシズムを規定して、以下のように記述する。「ファシズムでは、国家が自らの原理や価値観でもって個々人の意思や思想を律し、型にはめるための権威であるだけでなく、積極的に個々人の意思や思想を広く説き伏せていく強制力をもった機構となる。…ファシストはすべての個人及びあらゆる集団を絶対的な存在である国家のもとに統合する」
彼の国家尊重、意志を重視する哲学はフィヒテやヘーゲルに由来し、「純粋自我の思考活動こそが唯一の実在である」とする「行動的観念論(Idealismo attuale)」の立場をとる。哲学は歴史の自己展開と同一である、そして社会の歴史とは国家の歴史のことである、とも説く。自我はその発生と発展の全過程において社会性に滲透されており、単独の自己というものは存在しない。ジェンティーレの「自我の社会性」という理論は、個人主義の排撃と個人の自由の制限を正当化するものとして完成し、そのためファシズムと容易に同調し、公然と支持することができた。全体主義の理論家として彼はかつての友人クローチェと訣別し、フィレンツェでブルーノ・ファンチュラッチ(Bruno Fanciullacci)率いる反ファシストのゲリラに暗殺される。
同時期にファシストの獄中にいたグラムシはクローチェ哲学と比較しつつジェンティーレの観念論を批判している[1]。1930年代以降の日本ではアルフレート・ローゼンベルク、オトマール・シュパンやG・H・ミードなどと同様に関心を持たれたと考えられる[2]。
著書
- 『マルクスの哲学』 La filosofia di Marx (1899)
- 『近代主義、そして宗教と哲学との関係』 Il modernismo e i rapporti tra religione e filosofia (1903)
- 『純粋活動としての思考という活動』 L'atto del pensare come atto puro (1912)
- 『ヘーゲル弁証法の改革』 La riforma della dialettica hegeliana (1913)
- 『哲学としての教育学』 Sommario di pedagonia come scienza filosofia (1913-14)
- 『芸術の哲学』 La filosofia dell'arte (1931)
- 『イタリア哲学史』 Storia della filosofia italiana (1936)
- 『社会の発生と構造』 Genasi e struttura della società (1946)
ほか多数。