エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ(Étienne-Charles de Loménie de Brienne、1727年10月9日 - 1794年2月16日)は、フランス王国の政治家で、宰相および枢機卿である。
概要
15世紀から続く、リムーザン出身の名家の子としてパリで生まれた。神学校での優秀な経歴を経て、聖職者となり、1751年に神学体系論の教授となる。ローマ訪問後、1760年のコンドンの司教就任を経て、1763年トゥールーズ大司教に転じる。1766年から1769年にはモン・サン=ミシェル大修道院長となった。
テュルゴー、ヴォルテールらの著名な文化人を友人に持ち、1770年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出される。聖職者として役職に就くなど活躍する一方で、政治や社会思想にも興味を示し、テュルゴーに貧困に関するいくつかの覚書を送っている。
1785年、特権階級への課税を含む税制改革を計画したことで貴族からの反発により罷免されたカロンヌのあとを受けて、財政国務会議議長(財務総監は別人[1])として財政を指導し、次いで宰相となる。経済活性化のため、国内の生産物取引の自由化や、地方議会の設立などを実施するが、新たな税の設立では高等法院と対立する。このため、国王ルイ16世の臨親法廷によって、高等法院に新税の登記を強制するが、翌日には高等法院がこれを破棄。高等法院はこれにより、トロワ追放となる。この追放はすぐに撤回されるが、三部会の召集を呼び掛け世論を背景に強硬な態度を崩さない高等法院の前に、新税の代わりの公債の発行も止められ、ルイ16世によるラモワニョンの司法改革も挫折するに及んで、1788年、宰相を辞任した。
辞任後は、枢機卿となりイタリアに滞在したが、フランス革命 の勃発に伴い、1790年に聖職者民事基本法が制定されると、これに宣誓したことで、ローマ教皇からは枢機卿を罷免された。その後、フランスの修道院に隠棲したが、1793年に反革命の容疑でサンス(Sens)で逮捕され、獄中で服毒自殺した。