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{{Otheruseslist|1923年の地震の被害|本災害を引き起こした地震|関東地震|相模トラフ沿いの海溝型地震全般|相模トラフ巨大地震|南関東直下の大地震全般|南関東直下地震}}
 
'''関東大震災'''(かんとうだいしんさい)は、[[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]]11時58分32秒頃([[日本標準時|日本時間]]、以下同様){{Refnest|group="注釈"|当時の観測所の時計は13時間で2分ほど遅れることが指摘されており、必ずしも正確な時刻ではない<ref>{{Cite journal|和書|author =[[武村雅之]]|year =1993-1994|title =1923年関東地震の本震直後の余震活動-岐阜測候所の今村式二倍強震計記録の解析-|journal =地震 第2輯|volume =46|issue =4|pages =440-441|publisher =日本地震学会||issn =18839029|doi =10.4294/zisin1948.46.4_439|accessdate =2017-6-22}}</ref>。}}に発生した'''[[関東大地震]]'''によって、[[南関東]]および隣接地で大きな被害をもたらした[[地震]][[災害]]である{{Refnest|group="注釈"|この地震の震源の位置は研究者によって見解が異なっており、相模湾のほぼ中央部を震源とする説([[今村明恒]][1924]の北緯34.98度、東経139.37度、[[ハーバート・ターナー]][1927]の北緯35.0度、東経139.5度)、相模湾の北部を震源とする説(Matuzawa[1928]の北緯35.27度、東経139.33度、[[ベノー・グーテンベルグ]]、[[チャールズ・リヒター]][1954]の北緯35.25度、東経139.5度、宇佐美龍夫[1966]の北緯35.2度、東経139.3度)、神奈川県[[秦野市]]付近を震源とする説(金森博雄、宮村摂三[1970]の北緯35.4度、東経139.2度)、山梨県の[[河口湖]]付近を震源とする説(Hirano[1924])などがある。また震源の深さについては金森と宮村が0-10kmと推定している<ref name="金森宮村">{{Cite journal|和書
 
|author = [[金森博雄]]
 
|author2 = 宮村摂三
 
|date = 1970-06-10
 
|title = Seismomentricak Re-Evalution of the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923
 
|journal = 東京大学地震研究所彙報
 
|volume = 第48冊
 
|issue = 2
 
|pages = 115-125
 
|publisher = 東京大学地震研究所
 
|issn=09150862
 
|url = http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12506/1/ji0482002.pdf
 
|format = PDF
 
}}</ref>。地震の規模を表すマグニチュード(M)は、7.9から8.3の推定が有る<ref name="Kawasumi1951">Kawasumi(1951): [http://hdl.handle.net/2261/11692 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値], 東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.</ref><ref>Richter, C. F., 1958, ''Elementary Seismology'', W. H. Freeman Co., San Francisco.</ref><ref>Duda, S. J., 1965, [http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0040195165900351 Secular Seismic Energy Release in the Circum-Pacific Belt], ''Tectonophysics'', '''2''', 409-452.</ref>。}}。
 
  
== 概要 ==
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'''関東大震災'''(かんとうだいしんさい)
[[ファイル:東京15区1878年.png|thumb|当時の[[東京府]][[東京市]]([[東京15区]])]]
 
[[ファイル:Ford Model-TT Bus 01.jpg|thumb|[[円太郎バス]](旧・[[交通博物館]]蔵)]]
 
[[ファイル:Osaka Imperial University.jpg|thumb|[[1931年]](昭和6年)に開学した大阪[[帝国大学]](現・[[大阪大学]])]]
 
[[神奈川県]]および[[東京府]](現・[[東京都]])を中心に隣接する[[茨城県]]・[[千葉県]]から[[静岡県]]東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。
 
  
[[大震災]]と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では[[焼死]]が多く、[[阪神・淡路大震災]]([[兵庫県南部地震]])では[[圧死]]、[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])では[[水死|溺死]]が多い<ref>{{PDFlink|[http://www.fdma.go.jp/concern/publication/higashinihondaishinsai_kirokushu/pdf/honbun/03-04.pdf  3.4 過去の大災害との比較]}}(総務省消防庁)</ref>。本災において焼死が多かったのは、[[日本海]]沿岸を北上する[[台風]]に吹き込む強風が[[関東地方]]に吹き込み<ref>[http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/contribution/weather-chart/005.html.ja デジタル台風:関東大震災と天気 - 過去の天気図]</ref>([[風害]]参照)、木造住宅が密集していた当時の[[東京市]][[東京15区]])等で、火災が広範囲に発生したためである。
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1923年9月1日午前11時58分44秒,[[相模湾]]で起こった大地震(関東地震)による災害。この地震の[[マグニチュード]](<i>M</i>)は 7.9。[[震央]]は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方,三浦半島,房総半島南部であるが,震災は東京を中心に千葉,埼玉,静岡,山梨,茨城,長野,栃木,群馬の各県に及んだ。死者・行方不明者は従来,約 14万2000人あまりとされてきたが,近年の調査研究で 10万5000人程度であることがわかった。建物の被害は,全壊約 13万棟,半壊約 13万棟,焼失約 45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は 6万人をこえたが,これはおもに 122ヵ所から発生した火災によるものとみられた。地震に伴って大きな[[地殻変動]]があり,東京都内の[[水準点]]を不動点として,大磯 182cm,葉山 94cm,油壺 139cm,館山 157cmの[[隆起]]が記録された。[[丹沢山地]]では約 1mに及ぶ[[沈降]]がみられた。地盤の水平移動は相模湾を中心に時計回りの方向に認められ,最大水平移動量は 4m近くに達した。山岳部では丹沢,伊豆,箱根などで[[山崩れ]]が頻発し,[[山津波]]が起こり,断層ができ,海岸部では津波が発生した。この地震は,その後の地震研究,地震対策の大きな契機となった。
  
この災害は、[[2011年]]([[平成]]23年)[[3月11日]]に発生した東日本大震災以前の日本において、史上最大級の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲に渡る災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、[[帝都]]を直撃して国難に及ぶことから、国([[大日本帝国]])も対応に追われた。しかし、[[内閣総理大臣]]の[[加藤友三郎]]が震災発生8日前の[[8月24日]]に急死していたため外務大臣の[[内田康哉]]が[[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣を臨時兼任]]<!-- ×代理 -->して職務執行内閣を続け、発災翌日の[[9月2日]]に[[山本権兵衛]]が新総理に就任([[大命降下]]は8月28日)、[[9月27日]]に[[帝都復興院]](総裁:[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の[[後藤新平]]が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。
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地震の翌 9月2日午後,東京市と府下 5郡に戒厳令([[戒厳]])が布告され,9月3日には神奈川県下にも範囲が拡大された。この震災は組閣中のことであり,9月2日夕,急ぎ[[山本権兵衛]]内閣の親任式が行なわれ,9月7日に山本内閣は「治安維持ノ為ニスル罰則に関スル件」という緊急勅令第403号を公布,治安維持に努めた。9月9日には 3万2000人が焼死した本所被服廠で合同法要が行なわれた。政府は治安が乱れた背景に朝鮮人と社会主義者がいると宣伝し,朝鮮人虐殺,[[大杉栄]]らの虐殺,[[亀戸事件]],社会主義者弾圧などが起こった。
 
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金融の停滞で[[震災手形]]が発生し、[[緊急勅令]]による[[モラトリアム]]を与えた。復興には相当額の[[外債]]が注入されたが、その半分は、[[火力発電]]の導入期にあった電力事業に費やされた{{Refnest|group="注釈"|当時の電力会社の外債発行状況は以下のように英米向けである。復興に不必要な最新設備を[[ゼネラル・エレクトリック]]などから購入する費用も含まれている。NHK 1995.
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{{テンプレート:20180815sk}}
*[[東京電灯]] 大正12年(1923年)6月 300万ポンド
 
*[[大同電力]] 大正13年(1924年)8月 1500万ドル
 
*東京電灯 大正14年(1925年)2月 60万ポンド
 
*[[宇治川電気]] 大正14年(1925年)3月 1400万ドル
 
*[[東邦電力]] 大正14年(1925年)3月 1500万ドル
 
*東邦電力 大正14年(1925年)7月 30万ポンド
 
*大同電力 大正14年(1925年)7月 1350万ドル
 
*東京電灯 大正14年(1925年)8月 2400万ドル
 
*[[信越電力]] 昭和2年(1927年)12月 675万ドル
 
*[[日本電力]] 昭和3年(1928年)1月 900万ドル
 
*東京電灯 昭和3年(1928年)6月 7000万ドル
 
*東京電灯 昭和3年(1928年)6月 400万ポンド
 
*東邦電力 昭和4年(1929年)7月 1145万ドル
 
*日本電力 昭和6年(1931年)2月 150万ドル
 
*[[台湾電力]] 昭和6年(1931年)7月 2280万ドル
 
外債を引き受けた金融機関を発行元ごとに掲げる。[[日本興業銀行]] 『日本外債小史』 1948年 4章4節4-9
 
*東京電灯 - 1890年(明治23年)から死去まで[[リチャード・マーティン (オーヴァーベリ・コートの初代準男爵)|リチャード男爵]]が社長だった''Anglo-American Debenture''; ''[[ピアソン (企業)|The Whitehall Trust]]''; モルガンのギャランティ・トラスト; [[ラザード]]; [[C・ダグラス・ディロン|ディロン・リード]](ディロン債は信越電力より債務承継)
 
*大同電力 - ディロン・リード
 
*宇治川電気 - ''[[:en:Lee, Higginson & Co.|Lee, Higginson & Co.]]''
 
*東邦電力 - ギャランティ・トラスト; ''[[:en:Prudential plc|Pludencial Assurance Co.]]''; ギャランティ・トラスト
 
*日本電力 - ''[[:en:Harris, Forbes & Co.|Harris, Forbes & Co.]]''
 
*'''台湾電力''' - [[JPモルガン]]; [[クーン・レーブ]]; [[ロックフェラー家|ナショナル・シティー]]; ニューヨーク・ファースト・ナショナル; [[横浜正金銀行]]
 
ホワイトホール・トラストをつくったピアソンは、1999年(平成11年)までラザード株の半分を保有した。ピアソンの沿革は[[:en:Pearson PLC|英語版]]と[http://www.fundinguniverse.com/company-histories/pearson-plc-history/ Pearson plc History] を参照されたい。}}。[[ジョン・モルガン|モルガン商会]]は[[1931年]]([[昭和]]6年)までに占めて10億円を超える[[震災善後処理公債]]を引き受けたが、その額は当時の日本の[[年度]]別の国家予算の6割を超えるものだった<ref>NHK取材班 『金融小国ニッポンの悲劇』 角川書店 1995年 pp.48-51.</ref>。引受には[[ロスチャイルド]]も参加した<ref>日本興業銀行 『日本外債小史』 同行外事部 1948年 4章2節1</ref>。金策には[[森賢吾]]が極秘で奔走した。
 
 
 
[[日英同盟]]の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は[[国債]]・[[社債]]両面での[[外債|対外債務]]を急増させた。また[[#震災不況|震災不況]]から[[昭和金融恐慌]]([[1927年]](昭和2年)3月~)、[[1930年]]([[昭和]]5年)行われた金解禁<ref>昭和4年[[大蔵省|大蔵]][[省令]]第27号</ref>はそして[[世界恐慌]]([[昭和恐慌]])に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には'''金輸出(再)禁止'''<ref>昭和6年大蔵省令第36号</ref>になった。
 
 
 
なおこの震災により東京市・横浜市から[[都下|東京府下]]や[[埼玉県]]などの郊外に移り住む者も多く、「[[天災]]による[[ドーナツ化現象]]」が発生した([[日本三大都市#関東大震災後|参照]])。また、40年近く後の[[高度経済成長]]期に[[三大都市圏]]の中心となる[[大阪府]]や[[愛知県]]等に移住する者も多くみられ、特に[[1925年]]に近隣の郡部を編入した[[大阪市]]は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。[[阪神間]]では[[阪神間モダニズム]]後期の[[大大阪時代]]を迎え、[[六大都市]]の序列に影響を与えた。また[[東京都電車|東京市電]]の機能不全を肩代わりさせるため東京市が[[フォード・モデルT|T型フォード]]を約800台輸入して[[バス (交通機関)|バス]]事業を開始<ref>[http://www.bus.or.jp/mini/index.html 写真で見るバスの歴史Ⅰ]([[公益社団法人]][[日本バス協会]])</ref><ref name="energy">[http://www.atomin.go.jp/reference/energy/science_technology/index04.html エネルギー-科学技術の進歩と現代生活]([[財団法人]][[日本原子力文化振興財団]])</ref>([[円太郎バス]])。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入[[貨物自動車|トラック]]を利用した[[貨物]]輸送も始まって、旅客および物流における[[モータリゼーション]]が到来した<ref name="energy"/>。電話の[[電話交換機#ステップ・バイ・ステップ交換機|自動交換機]]も普及した<ref>田原啓祐 [http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_02.pdf 関東大震災後における逓信事業の復旧と善後策] 科学研究費補助金若手研究(B)「戦前期における郵便事業の展開と社会への普及過程」(研究課題番号:23730332)による研究成果の一部。p.36.</ref>。
 
 
 
== 状況 ==
 
[[東京帝国大学]]理科大学[[教授]][[寺田寅彦]]は、[[上野]]で開催されていた[[二科会]]の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家[[津田青楓]]と歓談中に被災。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。
 
{{Quotation| T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の[[安政南海地震|安政地震]]の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。
 
 
 
主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。|寺田寅彦|『震災日記』}}−
 
 
 
駐日フランス大使だった[[ポール・クローデル]]は罹災しながら、{{Quotation|被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。|ポール・クローデル|『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』 }}と当時の日本人の様子を書いている<ref>『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』 ポール クローデル、奈良道子 翻訳</ref>。
 
 
 
== 避難 ==
 
[[File:Kanto Great Earth Quake Nippori Station another version.jpg|thumb|260px|[[日暮里駅]](移転前)での[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形蒸気機関車]]牽引の避難列車。]]
 
[[File:Temporary houses in Yasukuni Shrine after Great Kanto earthquake.JPG|thumb|[[靖国神社]]に設置された[[仮設住宅]]]]
 
[[東京市]]内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査<ref>東京大正震災誌、大正14年4月</ref>によれば、9月5日に避難民1万2千人以上を数える集団避難地は160箇所を記録。最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、[[明治神宮外苑]]、[[宮城前広場]]などに設営が行われた。また9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が[[バラック|仮設住宅]](バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や[[財閥]]、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、[[明治神宮]]や[[日比谷公園]]などには、瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査<ref>東京市震災状況概要、1923年(大正12年)12月</ref>では、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部では[[スラム]]化の様相を見せた<ref>東京大正震災誌、1925年(大正14年)4月</ref>ため、翌年には内務省社会局、警視庁、[[東京府]]、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が[[月島]]、[[三ノ輪]]、[[深川区]]・[[猿江 (江東区)|猿江]]に、東京府が和田堀、[[尾久]]、[[王子 (東京都北区)|王子]]に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。
 
 
 
軍は橋を架け、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた<ref>[[鈴木淳 (歴史学者)|鈴木淳]] 『関東大震災』 [[筑摩書房]]、2004年、P224</ref>。
 
 
 
震災後日本で初めて[[ラジオ]]放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された<ref>平野聖; 石村眞一 『[http://sts.kahaku.go.jp/tokutei/pdfs/0411.pdf 大正・昭和前期における扇風機の発達]』 [[国立科学博物館#産業技術史資料情報センター|国立科学博物館 産業技術史資料情報センター]]、2004年。</ref>。
 
{{-}}
 
== 被害 ==
 
190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては[[全壊]]が10万9千余棟、[[全焼]]が21万2千余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源[[断層]]のある神奈川県内で、[[振動]]による建物の倒壊のほか、液状化による[[地盤沈下]]、[[崖崩れ]]、沿岸部では[[津波]]による被害が発生した。[[東京朝日新聞]]、[[読売新聞]]、[[国民新聞]]など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った[[東京日々新聞]]の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「[[日本橋区|日本橋]]、[[京橋区|京橋]]、[[下谷区|下谷]]、[[浅草区|浅草]]、[[本所区|本所]]、[[深川区|深川]]、[[神田区|神田]]殆んど全滅死傷十数万」、「[[電信]]、[[電話]]、[[電車]]、[[瓦斯]]、[[山手線]]全部途絶」といった凄惨なものが見られた。同3日付では「[[横浜市]]は全滅 死傷数万」、「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」…などという見出しが続いた。
 
[[File:Desolation of Nihonbashi and Kanda after Kanto Earthquake.jpg|thumb|left|700px|京橋の[[相互館110タワー|第一相互ビルヂング]]屋上より見た日本橋および神田方面の惨状]]
 
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right; white-space:nowrap; line-height:1.25em; margin-right:0px"
 
|+1923年 関東地震の状況別被害集計(諸井・武村 (2004) より引用<ref>[http://doi.org/10.5610/jaee.4.4_21 諸井孝文、武村雅之:関東地震 (1923年9月1日) による被害要因別死者数の推定]日本地震工学会論文集 Vol.4 (2004) No.4 P21-45</ref>)
 
!||colspan="7"|住宅被害棟数
 
!colspan="6"|死者行方不明者数
 
|-
 
!地域||全潰||非焼失||半潰||非焼失||焼失||流失埋没||合計|||住宅全潰||火災||流出埋没||工場等||合計
 
|-
 
|align="left"|神奈川県'''||6万3577||4万6621||5万4035||4万3047||3万5412||497||12万5577||5795||2万5201||836||1006||3万2838
 
|-
 
|align="left"|東京府||2万4469||1万1842||2万9525||1万7231||17万6505||2||20万5580||3546||6万6521||6||314||7万0387
 
|-
 
|align="left"|千葉県||1万3767||1万3444||6093||6030||431||71||1万9976||1255||59||0||32||1346
 
|-
 
|align="left"|埼玉県||4759||4759||4086||4086||0||0||8845||315||0||0||28||343
 
|-
 
|align="left"|山梨県||577||577||2225||2225||0||0||2802||20||0||0||2||22
 
|-
 
|align="left"|静岡県||2383||2309||6370||6214||5||731||9259||150||0||171||123||444
 
|-
 
|align="left"|茨城県||141||141||342||342||0||0||483||5||0||0||0||5
 
|-
 
|align="left"|長野県||13||13||75||75||0||0||88||0||0||0||0||0
 
|-
 
|align="left"|栃木県||3||3||1||1||0||0||4||0||0||0||0||0
 
|-
 
|align="left"|群馬県||24||24||21||21||0||0||45||0||0||0||0||0
 
|-
 
|align="center"|合計||10万9713||7万9733||10万2773||7万9272||21万2353||1301||37万2659||1万1086||9万1781||1013||1505||10万5385
 
|}
 
 
 
*非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。
 
*津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明。関東大震災では、建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で、津波の全体像が明確になっていなかった。津波の高さは、鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸では5mから7mの高さの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記「大正鎌倉餘話」で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が、由比ヶ浜滞留所にあったと書いている<ref>[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_28/HE28_071_084_Mannnen.pdf 神奈川県逗子市,鎌倉市,藤沢市における 1923 年大正関東地震による津波]</ref>。静岡県伊東市宇佐美、旭光山行蓮寺には、[http://izugeopark.org/maps/area-ito/usami/gyorenji/関東大震災つなみ浸水地点碑]が現存している。
 
 
 
この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]が所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:[[ヨコシネ ディー アイ エー]])の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および[[横浜市中央図書館]]に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない<ref>[http://committees.jsce.or.jp/avc/system/files/jsce2014cs_avc_sakamoto_final.pdf 関東大震災記録映像「横浜大震火災惨状」について] - 土木学会</ref>。
 
 
 
=== 人的被害 ===
 
[[File:Tokyo Station police box The Great Kanto Earthquake of 1923.jpg|right|thumb|220px|震災直後、尋ね人のビラが貼られた[[東京駅]]警備巡査派出所(1968年解体、1972年[[博物館明治村]]に移築)]]
 
2004年(平成16年)頃までは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり[[武村雅之]]らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、[[理科年表]]では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている<ref>[http://www.kajima.co.jp/news/press/200509/9a1fo-j.htm 鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂]</ref>。{{-}}
 
[[File:Nebukawa Station earthquake passenger car left.jpg|thumb|right|220px|[[根府川駅]]から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車]]
 
地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。[[津波]]の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と[[房総半島]]沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う[[土石流]]による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に[[神奈川県]][[足柄下郡]][[片浦村]](現、[[小田原市]]の一部)の[[根府川駅]]ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。{{Main|根府川駅列車転落事故}}
 
{{-}}
 
 
 
;関東大震災により死去した著名人
 
*[[寛子女王|寛子女王(閑院宮載仁親王第四王女)]]- [[小田原市|小田原]]・[[閑院宮]]御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊<!-- 宮号が付くのは当主である宮さま本人のみ -->
 
*[[師正王|師正王(東久邇宮稔彦王第二王子)]]- 避暑先の[[藤沢市|藤沢]]にある別荘が倒壊
 
*[[武彦王妃佐紀子女王|佐紀子女王(山階宮武彦王妃)]]- [[鎌倉市|鎌倉]]の山階宮別邸が倒壊
 
*[[松岡康毅]]([[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]・[[日本大学]]総長)- [[葉山町|葉山]]の別邸が倒壊
 
*[[園田孝吉]](実業家・[[男爵]])
 
*[[磯部四郎]](政治家・法学者・弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死
 
*[[厨川白村]](英文学者・評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去
 
*[[辻村伊助]](園芸家・登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子と共に犠牲となる
 
*[[富田木歩]](俳人)- [[向島 (墨田区)|向島]]の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死
 
*[[麗々亭柳橋 (5代目)|五代目麗々亭柳橋]](落語家)
 
*[[ウィリアム・ヘーグ (外交官)|ウィリアム・ヘーグ]]([[イギリス]]外交官・草創期の[[サッカー]]振興に関与)- 勤務先の横浜の領事館が倒壊
 
*[[ジェニー・カイパー]]([[フェリス女学院中学校・高等学校|フェリス和英女学校]]校長)
 
*[[伊東荘次郎]]([[新派]]の俳優、元[[落語家]]の[[古今亭志ん橋]])- 諸説あり。
 
*[[村岡斎]](日本の印刷業者・上記の村岡敬三の実弟)- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名共に犠牲となる
 
*[[當り矢信太郎]](元[[力士]]) - 死没地は不明。<!--また最期の様子も明らかにされていない--><!--諄々自明(そもそも死没地が不明ならば当然最期の様子も分かるはずがありません)-->
 
*[[梅垣直治郎]](元力士)- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。
 
*[[三遊亭花遊]](落語家、音曲師)- 死没地は不明。
 
*[[帰天斎小正一]](奇術師)- 被服廠跡で被災したという<ref>。[https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B0%E5%A4%A9%E6%96%8E+%E5%B0%8F%E6%AD%A3%E4%B8%80-1670998 新撰 芸能人物事典 明治〜平成]</ref>
 
*[[山田天心]]
 
*[[五明楼国輔]](落語家)- 諸説あり。
 
 
 
; 関東大震災犠牲者の慰霊施設
 
*[[東京都慰霊堂]](旧震災記念堂)身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納めその死者の霊も合祀している。
 
*[[「大正拾二年九月帝都震災殃死(おうし)者之霊供養碑」]] 東京大田区の[[池上本門寺]]境内。
 
 
 
=== 火災 ===
 
[[File:Robert L. Capp Great Kantō earthquake 7.jpg|thumb|right|220px|震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体]]
 
[[File:Gigantic cumulonimbus in the sky over Tokyo right after the Great Kanto Eartquake.jpg|thumb|right|220px|震災直後の火災により東京で発生した巨大な[[積乱雲]]]]
 
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の[[火災]]が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、[[工藤美代子]]が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、[[火薬]]類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張している<ref name="kudoh">[[工藤美代子]]「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」[[産経新聞出版]]</ref>。加えて[[能登半島]]付近に位置していた[[台風]]により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の[[天気図]]で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、[[本所区]]本所横網町(現在の[[墨田区]][[横網]])の陸軍本所被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]。他、現在の[[墨田区立両国中学校]]や[[日本大学第一中学校・高等学校]]などもこの場所に含まれる<ref group="注釈">陸軍本所被服廠跡地の面積が[[東京ドーム]]の1.5倍であるため。</ref>)で起こった[[火災旋風]]を引き起こしながら<ref>[http://doi.org/10.5026/jgeography.84.4_204 相馬清二:被服廠跡に生じた火災旋風の研究]地學雜誌 Vol.84 (1975) No.4 P204-217, {{DOI|10.5026/jgeography.84.4_204}}</ref>広まり、旧東京市の約43%を焼失し<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/seisankenkyu/55/6/55_6_577/_article/-char/ja/ 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について] 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, {{DOI|10.11188/seisankenkyu.55.577}}</ref>鎮火したのは40時間以上経過した2日後の[[9月3日]]10時頃とみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた)ともいわれている<ref>[http://www.asahi.com/special/saigaishi/1923shinsai/ 関東大震災 学ぶべき教訓] 朝日新聞DIGITAL</ref>。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた[[市川市|市川]]まで吹き飛ばされた人もあった<ref>{{Cite book|和書|author=[[竹久夢二]]|author2=[[川村花菱]]|author3=[[山村耕花]]|title=夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ|origdate=1923|date=2003-9-1|publisher=クレス出版|id={{全国書誌番号|20469876}}|isbn=4877331956|page=66}}</ref>。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は[[東京都復興記念館]]に収蔵され展示されている。
 
<gallery>
 
Great Kanto Earthquake9.jpg.JPG|大日本麦酒吾妻橋工場内鉄柱
 
Great Kanto Earthquake10.jpg.JPG|丸善ビル
 
</gallery>
 
{{-}}
 
 
 
=== 建物 ===
 
[[File:Ryounkaku.jpg|thumb|right|180px|半壊した[[凌雲閣]]]]
 
東京市内の建造物の被害としては、[[凌雲閣]](浅草十二階)が大破<ref>[https://www.kajima.co.jp/tech/seismic/higai/030608.html 小破・中破・大破とは] 鹿島建設 日本建築学会「1978年宮城県沖地震被害調査報告」</ref><ref>岡田成幸、高井伸雄、[https://doi.org/10.3130/aijs.64.65_5 地震被害調査のための建物分類と破壊パターン] 日本建築学会構造系論文集 64巻 (1999) 524号 p.65-72, {{doi|10.3130/aijs.64.65_5}}</ref><ref>高井伸雄、岡田成幸、[https://doi.org/10.3130/aijs.66.67_4 地震被害調査のための鉄筋コンクリート造建物の破壊パターン分類] 日本建築学会構造系論文集 66巻 (2001) 549号 p.67-74, {{doi|10.3130/aijs.66.67_4}}</ref>、建設中だった[[丸の内]]の[[内外ビルディング]]が崩壊し作業員300余名が圧死した。また[[大蔵省]]・[[文部省]]・[[内務省 (日本)|内務省]]・[[外務省]]・[[警視庁 (内務省)|警視庁]]など官公庁の建物や、[[帝国劇場]]や[[三越|日本橋三越本店]]など、文化施設や商業施設の多くを焼失した。[[神田神保町]]や[[東京大学総合図書館|東京帝国大学図書館]]、[[松廼舎文庫]]、[[大倉集古館]]も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。
 
 
 
震源に近かった[[横浜市]]では官公庁や[[ホテルニューグランド|グランドホテル]]、[[オリエンタルパレスホテル]](現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館の全てを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県[[房総]]地域の被害も激しく、特に[[館山市|北条町]]では[[古川銀行]]・[[房州銀行]](ともに現在の[[千葉銀行]]の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。
 
 
 
なお地震後も[[気象観測]]を続けた中央気象台(現在の[[気象庁]]、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している<ref>[[藤原咲平]]編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行</ref>。この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った<ref name="jgeography.108.4_440">[http://dx.doi.org/10.5026/jgeography.108.4_440 武村雅之:1923年関東地震の本震直後の2つの大規模余震 強震動と震源位置] 地學雜誌 Vol.108 (1999) No.4 P440-457</ref>。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
 
 
 
=== 首都機能の麻痺 ===
 
震災当時、通信・報道手段としては[[電報]]と新聞が主なものだった([[ラジオ]]放送は実用化前で<ref group="注釈">日本におけるラジオ放送開始は[[1924年]](大正13年)([[ラジオ#日本初のラジオ放送]])。</ref>、[[電話]]も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により[[活字]]ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。[[東京日日新聞]](現在の[[毎日新聞]]の前身)・[[報知新聞]]・[[都新聞]]は焼け残り、最も早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。
 
 
 
[[郵便]]制度も同様だった。普通[[切手]]や[[はがき]]、そして[[印紙]]も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の[[郵便局]]の在庫が逼迫することが予想されたため、[[糊]]や[[目打]]なしの[[震災切手]]と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社([[精版印刷]]・大阪、[[秀英舎]]・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。
 
 
 
さらに、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの[[昭和天皇]])と良子女王(のちの[[香淳皇后]])との[[結婚式]]の[[記念切手]]「[[東宮御婚儀不発行記念切手|東宮御婚儀]]」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本の委任統治領だった[[南洋庁]]([[パラオ]])へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は[[1924年]](大正13年)の1月に延期して挙行された。
 
 
 
関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、[[赤城山]]麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「[[伊豆諸島]]の大噴火による消滅」、「[[三浦半島]]の陥没」などといった[[噂]]やデマの情報が取り上げられた<ref name="草鹿反省176">[[草鹿龍之介]]『一海軍士官の反省記』176頁</ref>。
 
 
 
[[File:960SL buried at Sainome tunnel.jpg|thumb|220px|[[真鶴駅]]-[[根府川駅]]間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車]]
 
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の[[東海道線]])小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の[[内房線]]:岩井-富浦間)<ref>[http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/2000/659-0027.pdf 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム]</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
== 地震の混乱で発生した事件 ==
 
[[ファイル:Japan_LAJ_(1923_Great_Kantō_earthquake_report).pdf|thumb|255px|各地裁判所及び刑務所の処置を報告する法曹会雑誌(10月)]]
 
[[司法省]]及び[[法曹会]]の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの、解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。
 
 
 
なおこの9月7日は[[治安維持法]]の前身となる[[緊急勅令]]が出された日でもある。
 
 
 
[[File:関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団2.jpg|thumb|255px|政府による記事差し止めが解除されたことを受けて事件の詳細を報じる10月22日付[[東京時事新報]]<ref name="tokyoujiji19231022a">[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A31.jpg 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ:放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団(記事差止め昨日解除)』その1] [[東京時事新報]]1923.10.22</ref>]]
 
9月2日午後11時、[[下江戸川橋]]を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺<ref name=tokyoujiji19231022b>[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%B8%80%E5%B8%AF%E3%82%92%E9%A8%92%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C_%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%8E%A0%E5%A5%AA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%8E%E6%A9%8B%E6%A2%81%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%82%82%E4%BC%81%E3%81%A6%E3%81%9F%E4%B8%8D%E9%80%9E%E5%9B%A32.jpg 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ : 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団(記事差し止め昨日解除)』その2] [[東京時事新報]]1923.10.22</ref>。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した<ref name=tokyoujiji19231022b/>。
 
 
 
===軍活動===
 
同時に、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の中では、震災後の混乱に乗じて[[社会主義]]や[[自由主義]]の指導者を殺害しようとする動きも見られた。
 
 
 
[[甘粕事件]](大杉事件)では、[[大杉栄]]・[[伊藤野枝]]・大杉の6歳の甥[[橘宗一]]らが[[憲兵隊]]に殺害され<ref>[[#正午二分前]]252-253頁</ref>)、[[亀戸事件]]では労働運動の指導者[[平澤計七]]ら13人が亀戸警察署で、[[近衛師団]]に属する[[騎兵第1旅団 (日本軍)|習志野騎兵第13連隊]]に銃殺され、平澤が斬首された。
 
 
 
* 9月3日 [[甘粕事件]](大杉事件)、東京地方裁判所管
 
* 9月6日 [[福田村事件]]、千葉地方裁判所管
 
* 9月7日 『[[:s:治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件|治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件]]』(勅令第403号)が発布。
 
* 9月16日 [[亀戸事件]]、東京地方裁判所管
 
* {{要出典|[[佐原事件]]|date=2017年9月}}
 
=== 震災後の殺傷事件 ===
 
{{see also|本庄事件 (1923年)}}
 
{{see also|関東大震災朝鮮人虐殺事件}}
 
 
 
[[File:Osaka-AsahiShinbun (September3-1923).jpg|thumb|150px|朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞]](1923年9月3日号外)]]
 
[[File:Caution1923 NeverSpreadFalseRumors.jpg|thumb|150px|デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ]]
 
[[File:関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団1.jpg|thumb|150px|記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える[[時事新報|東京時事新報]](1923年10月22日)司法省が責任転嫁のために発表した実在性に疑問のある情報がベースとなっている。<ref name="kim2014p7" />]]
 
震災発生後、混乱に乗じた[[在日韓国・朝鮮人|朝鮮人]]による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり<ref>報知新聞1923年9月5日号外</ref><ref>報知新聞1923年10月20日</ref><ref name="tokyoujiji19231022a"/>、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した<ref name="bousai2008">{{cite web
 
|url = http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923-kantoDAISHINSAI_2/index.html
 
|title = 1923 関東大震災【第2編】
 
|author = 中央防災会議
 
|publisher = 内閣府
 
|date=2008-03
 
|accessdate=2014-11-17
 
}}</ref><ref name="morooka2013">{{cite
 
|title = ヘイト・スピーチとは何か
 
|author = 師岡康子
 
|publisher = 岩波書店
 
|date = 2013-12-20
 
|isbn = 978-4-00-431460-8
 
}}</ref><ref name="synodos2014">{{cite web
 
|url = http://synodos.jp/society/11601
 
|date = 2014-11-10
 
|accessdate = 2014-11-17
 
|publisher = 株式会社シノドス
 
|title = 関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか
 
}}</ref>。
 
 
 
これらに対して9月2日に発足した[[第2次山本内閣]]は、9月5日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊および警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した<ref>{{アジア歴史資料センター|A01200507700|鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件: 內閣告諭第二號}}</ref><ref>{{harvnb|東京市編 『大詔を拝して』|1923}} (一部に誤字・脱字・異字あり)</ref>。
 
{{Quotation|'''內閣告諭第二號'''
 
 
 
今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク&#xFA5B;アリト聞ク&ensp;鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ&ensp;民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困&#xfa68;ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ&ensp;刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精&#xFA19;トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ
 
 
 
大正十二年九月五日&ensp;&ensp;&ensp;&ensp;&ensp;&ensp;&ensp;&ensp;內閣總理大臣}}
 
 
 
この内閣告諭第二号と同じ日、官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ<ref name="kim2014p7">{{harvnb|金|2014|p=7}}</ref>。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである<ref name="kim2014p7" />。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った<ref name="kim2014p7" />。
 
 
 
====流言の拡散と検証、収束====
 
一方で震災発生後、[[内務省 (日本)|内務省]]警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた<ref name="synodos2014"/>。具体的には、戒厳令を受けて[[警保局]](局長・[[後藤文夫]])が各[[地方長官]]に向けて以下の内容の警報を打電した。
 
{{Cquote|東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし}}
 
さらに警視庁からも[[関東戒厳司令部|戒厳司令部]]宛に
 
{{Cquote|鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし}}
 
と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた<ref>『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』[[みすず書房]]</ref>。
 
また[[警視庁]]は「デマをばら撒くことは処罰される」というビラを貼り付けた。
 
 
 
当時はテレビはむろんラジオも日本にはなく、新聞のみが唯一のマスメディアだったが記事の中には、「内朝鮮人が暴徒化<ref group="注釈">[[関東大震災犠牲同胞慰霊碑]]を参照。</ref>した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、[[河北新聞]]で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された<ref name="bousai2008"/>。
 
 
 
これらの情報の信憑性については、2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている<ref>『東京震災録』 東京市役所編・刊、1926年、P292、303、305</ref>。5日になり、見解の統一の必要性に迫られた官憲内部で精査の上、戒厳司令部公表との通達において
 
{{Cquote|不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう}}
 
と発表<ref>報知新聞1923年9月5日号外</ref>。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。
 
 
 
====治安維持緊急勅令の発布====
 
こうした流言の存在を奇貨として、前内閣のとき廃案となった[[司法省]]作成の「過激社会運動取締法案」の替わりに、7日には[[緊急勅令]]「'''[[:s:治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件|治安維持の為にする罰則に関する件]]'''」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで[[大審院長]]だった[[思想検事]]系の[[平沼騏一郎]]、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長は司法官僚の[[清浦奎吾]]だった)。これがのちの[[治安維持法]]の前身である。8日には[[東京地方裁判所]]検事正[[南谷智悌]]が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した<ref>{{Cite web
 
|url = http://synodos.jp/society/14966
 
|title = 関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』への批判
 
|accessdate = 2016-09-04
 
|author = 山田昭次
 
|coauthors =
 
|date = 2015-09-01
 
|publisher =
 
}}</ref>。
 
 
 
震災後1ヶ月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある<ref name="kim2014p7" />。
 
 
 
一部の流言については[[正力松太郎]]が、[[1944年]](昭和19年)の警視庁での講演において、当時の情報が「虚報」だったと発言している<ref>[[石井光次郎]]『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
====戒厳令発布====
 
[[警視総監]]・[[赤池濃]]は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[水野錬太郎]]に「[[戒厳令]]の発布を建言」した。なお水野は[[朝鮮総督府]][[政務総監]]時代の1919年9月2日(地震の4年前)、[[開化派|独立党]]党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある<ref>[[#正午二分前]]149頁</ref>。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた<ref name="bousai2008"/>。この戒厳令発令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は[[後藤新平]]に引き継がれた<ref>[[#正午二分前]]149-150頁</ref>。また[[戒厳令]]のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・[[モラトリアム]]が施行された<ref>『経済学辞典・中』経済学全集、第57巻、改造社、1933年、545頁,大正大震災(関東)の項。</ref>。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制を行うまでになった{{要出典|date=2015年9月}}。陸軍は戒厳令の下騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる<ref name="bousai2008"/>。また戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある<ref name="bousai2008"/>。
 
 
 
====自警団による暴行====
 
軍・警察の主導で関東地方に4千もの[[自警団]]が組織され、集団暴行事件が発生した<ref name="morooka2013"/><ref>{{cite
 
|title = 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件調査報告書
 
|author = [[日本弁護士連合会]]人権擁護委員会
 
|publisher = [[日本弁護士連合会]]
 
|date = 2003-08-25
 
}}</ref>。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった<ref>[[#正午二分前]]152-150頁</ref>。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、[[中国人]]、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するために[[シボレス (文化)|シボレス]]が用いられ、[[国歌]]を歌わせたり<ref name="草鹿反省177">草鹿『一海軍士官の反省記』177頁</ref>、[[朝鮮語]]では語頭に[[濁音]]が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている<ref group="注釈">[[日本共産党]]員で詩人の[[壺井繁治]]の詩「十五円五十銭」による。ただし創作以上のものは未確認。</ref>。また[[福田村事件]]のように、[[方言]]を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者([[聴覚障害者]])も、東京ろうあ学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された<ref>1923年10月6日付読売新聞</ref>。
 
9月4日、埼玉県の本庄町(現・[[本庄市]])では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた([[本庄事件 (1923年)|本庄事件]])。同日、熊谷町(現・[[熊谷市]])、5日には[[妻沼町]]でも同様の事件が発生している。
 
9月5日から6日に掛けて群馬県藤岡町(現・[[藤岡市]])では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる([[藤岡事件]])<ref>[http://www.jichiro.gr.jp/jichiken/report/rep_aichi33/10/1003_jre/index.htm 藤岡町役場文書に残された「藤岡事件」行政文書に残された朝鮮人虐殺事件]</ref>。
 
 
 
[[横浜市]]の鶴見警察署長・[[大川常吉]]は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したという{{Refnest|group="注釈"|実際は、4合ビンに入った井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部との検証もある(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)}}。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている<ref name="synodos2014"/>。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時[[横須賀鎮守府]]長官[[野間口兼雄]]の副官だった[[草鹿龍之介]]大尉(後の[[第一航空艦隊]]参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」<ref name="草鹿反省176"/>等のデマに惑わされず、[[海軍陸戦隊]]の実弾使用申請や、[[在郷軍人]]の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった<ref name="草鹿反省177"/>。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している<ref>草鹿『一海軍士官の反省記』179頁</ref>。現在の[[千葉県]][[船橋市]]丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した<ref name="synodos2014"/>。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った<ref name="synodos2014"/>。
 
 
 
警官手帳を持った巡査が[[憲兵]]に逮捕され偶然居合わせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある<ref>草鹿『一海軍士官の反省記』177-178頁</ref>。当時[[早稲田大学]]在学中だった後の大阪市長[[中馬馨]]は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという<ref>中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会([[昭和]]47年([[1972年]]))、p.563</ref>。歴史学者の[[山田昭次]]は、残虐な暴行があったとしている<ref name="synodos2014"/>。
 
 
 
10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが[[執行猶予]]となり、残りのものも刑が軽かった<ref name="morooka2013"/><ref name="kagawajinken">[http://www3.ocn.ne.jp/~jinken/museum/fukudamura/fukudamura.html 福田村事件](香川人権研究所)</ref>。福田村事件では[[実刑]]となった者も皇太子(のちの[[昭和天皇]]。当時は[[摂政]])結婚で[[恩赦]]になった<ref name="kagawajinken"/>。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
 
 
 
====被害者数====
 
[[File:Internment Camp for protected Koreans, 13 Seprember 1923.jpg|thumb|200px|警視廳保護鮮人収容所 ([[目黒競馬場|目黑競馬場]]), 九月十三日]][[File:Retained weapons of vigilantes at Ushigome-Kagurazaka Police Station.jpg|thumb|200px|牛込神樂坂警察署ニテ領置セル自警團員ノ戎兇器]]
 
殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない<ref>[[#正午二分前]]156頁</ref>。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している<ref name="bousai2008"/>。[[吉野作造]]の調査では2613人余{{Refnest|group="注釈"|朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357)}}、[[上海]]の[[大韓民国臨時政府]]の機関紙「独立新聞」社長の[[金承学]]の調査での6661人という数字があり<ref group="注釈">この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2889人として、これも「虐殺数」に計算している。</ref>、幅が見られる<ref name="kioku">姜徳相『新版 関東大震災・虐殺の記憶』 青丘文化社</ref>。犠牲者を多く見積もるものとしては、[[大韓民国]]外務部長官<ref group="注釈">当時および2017年(平成29年)現在の大韓民国政府の「部」は日本の「省」に相当し、その長官は、日本の大臣に相当する</ref>による[[1959年]]の外交文章内に「数十万の韓国人が[[大量虐殺]]された」との記述がある<ref>[http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/honyaku/honyaku-2/766kara.pdf 在日韓人の北送問題に対する政府の立場]</ref>。[[内務省 (日本)|内務省]]警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名だった<ref name="kioku"/>。なお立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる<ref>司法省「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」</ref>。
 
 
 
2013年6月には、韓国の[[李承晩]]政権時代に作成された、被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された<ref>{{cite
 
|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2014/07/07/0800000000AJP20140707002900882.HTML
 
|title = 関東大震災時の朝鮮人虐殺名簿 韓国政府機関が検証開始
 
|date = 2014-07-07
 
|publisher = YONHAP NEWS AGENCY
 
}}</ref>。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した<ref>{{cite
 
|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2015/01/18/0200000000AJP20150118000200882.HTML
 
|title = 関東大震災時の朝鮮人虐殺名簿 第1次検証結果発表=韓国
 
|date = 2015-01-18
 
|publisher = YONHAP NEWS AGENCY
 
}}</ref>。最終的に2015年12月に検証結果報告があり、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した<ref>{{cite
 
|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/12/16/0400000000AJP20151216001000882.HTML
 
|title = 関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者 40人確認=韓国政府
 
|date = 2015-12-16
 
|publisher = YONHAP NEWS AGENCY
 
}}</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
== 復興 ==
 
[[File:Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page30.jpg|thumb|「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)]]
 
[[山本権兵衛]]首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理など[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に1万2765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には2万4333台<ref>『外国車ガイドブック1991』p.196</ref>、1926年(大正15年)には4万0070台となっていた<ref>『外国車ガイドブック1980』p.44</ref>。[[1929年]]の[[世界恐慌]]など逆風が続く中、その後も漸増した。
 
 
 
その一方で、[[第一次世界大戦]]終結後の[[不況]]下にあった日本経済にとっては、[[震災手形]]問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の[[昭和恐慌]]に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には[[緊急勅令]]による[[モラトリアム]]が出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制が採られたが、その過程で戦後恐慌に伴う[[不良債権]]までもが同様に補償され、これらの処理がこじれて[[昭和金融恐慌]]を起こすことになる。
 
 
 
震災復興事業として作られた代表的な建築物には[[同潤会アパート]]、[[聖橋]]、[[復興小学校]]、[[復興道路 (関東大震災)|復興道路]]、[[震災復興公園|復興公園]]、[[震災復興橋]]([[隅田川]])、[[九段下ビル]]などがある。また復興のシンボルとして震災前は海だった所に瓦礫により埋め立てられ[[山下公園]]が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会でメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場([[インド水塔]])が設置されているが、これは在留[[インド]]人の事業復活のため低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、[[イスラーム]]の[[モスク]]を思わせる屋根をした建造物が今も残されている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB1603O_X20C13A8000000/?df=3 せき止め湖・壁の亀裂…神奈川、関東大震災のつめ跡] 日経新聞 2013/8/31 6:30</ref>。
 
 
 
横須賀軍港では、[[ワシントン海軍軍縮条約]]に従って[[巡洋戦艦]]から[[航空母艦]]に改装されていた[[天城型巡洋戦艦]]「[[天城 (赤城型空母)|天城]]」が<ref>「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5</ref>、地震により[[竜骨 (船)|竜骨]]を損傷して修理不能と判定された。代艦として、解体予定の[[加賀型戦艦]]「[[加賀 (空母)|加賀]]」が空母に改装された<ref> 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1</ref>。「加賀」と「天城」の姉妹艦「[[赤城 (空母)|赤城]]」は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])緒戦で活躍した。
 
 
 
震災発生後、[[大連]]沖で訓練中の<!--[[長門型戦艦]]一番艦である--><!--脱線トリビア-->戦艦「[[長門 (戦艦)|長門]]」が「横浜、東京が壊滅している」と報告を受け[[鹿児島]]、[[大隅海峡]]を通り東京に救援物資を運んでいる。この時、「長門」が27ノットの速力を出していたのが[[イギリス海軍]]に目撃されている。
 
 
 
9月27日、[[帝都復興院]]が設置され、総裁の[[後藤新平]]により[[震災復興再開発事業#関東大震災|帝都復興計画]]が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、[[自動車]]時代を見越した[[100m道路]]の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、[[ライフライン]]の[[共同溝]]化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の[[政党]]間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては[[神田駿河台]]の住民が猛反発した。この復興計画の縮小が失策だったことは、[[東京大空襲]]時の火災の拡がり方や、戦後の[[高度経済成長期]]以降の自動車社会になって証明された。例えば道路については[[首都高速]]等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園([[隅田公園]])の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。
 
<gallery>
 
HIM the Empress' personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する貞明皇后(1923年9月15日)
 
HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日)
 
Yokosuka Naval Arsenal after Great Kanto earthquake of 1923.jpg|関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
 
</gallery>
 
1930年(昭和5年)には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。
 
{{Multiple image
 
|align = left
 
|direction = horizontal
 
|header = 帝都復興記念章
 
|image1 = Capital Rehabilitation Commemorative Medal case.jpg
 
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|caption1 = 箱
 
|image2 = Capital Rehabilitation Commemorative Medal 03.JPG
 
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|caption2 = 表面
 
|image3 = Capital Rehabilitation Commemorative Medal 04.JPG
 
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|caption3 = 裏面
 
}}
 
{{clear|left}}
 
9月には[[台風]]災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「[[防災の日]]」と[[1960年]](昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で[[防災訓練]]が行われている。ただし、[[宮城県沖地震]]を経験している[[宮城県]]、[[桜島]]を擁する[[鹿児島県]]などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練を行っている地域もある。
 
 
 
<!--(復興に対する貢献度において外債にかなわない部分をコメントアウト); 日本国外からの救援
 
[[File:Japan Relief Movement in US.jpg|thumb|[[シカゴ]]で行われた募金運動]]
 
地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ<ref>「米国救護作業」pp.15「諸外国の同情」</ref>。特に[[第一次世界大戦]]時に共に戦ったアメリカの支援は圧倒的で<ref>「米国救護作業」pp.27「米国の驚くべき供給品の数量」</ref>、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった<ref>「米国救護作業」pp.48</ref>。義捐金の多くは[[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]、[[中華民国]]から送られ、他にも[[インド]]、[[オーストリア]]、[[カナダ]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[ペルー]]、[[メキシコ]]などからも救援物資や義捐金が送られた<ref>「米国救護作業」pp.45-46</ref><ref>「大正大震災大火災」215-218頁</ref>。アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている<ref>「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)</ref><ref>「米国救護作業」pp.2、23</ref>。
 
 
 
この当時、即時に海外に伝達される情報手段は実用的でなかったが、日本から長波無線を使って[[憶・原町無線塔|磐城国際無線電信局原町送信所]]から米国に情報が伝達され、無線電信による非常時の情報伝達の有効性が日本で初めて確認された。
 
 
 
当時日本とアメリカと結ぶ通信線は海底ケーブルか長波無線だったが、この時地震で海底ケーブルは不通になっており、残るは長波無線しかなかった。アメリカと交信ができる長波無線は日本で福島県の磐城国際無線電信局しかなかった。当時磐城国際無線電信局では被害はなかったものの、大変な被害が関東で発生しているという情報が微かながら伝わってきた。電話等は全て不通になっているため急遽国内向けの無線情報を入手すべく機械を改造して情報を入手し、アメリカに向けて緊急情報を発信した。またこのアメリカ向けに発信された情報が、たまたま日本が中国北京に建設し試験中だった無線局で傍受されたため、その情報が中国国内、およびさらに欧州にも伝わることになった。結果的に唯一の海外への情報連絡局となった磐城国際無線電信局だったが、後に当時磐城国際無線電信局長だった[[米村嘉一郎]]は非常時の無線の活躍について、素晴らしい活躍をする手段だったが、日本では磐城一か所しか国際通信ができない設備不足、および非常時の通信体制をどのようにしておくべきか全く準備ができていなかったことを悔いている、とも述べている。<ref name="kyone11">米村嘉一郎「電波界50年」(連載「思い出の記」第11回)『電波時報』1959年9月号</ref><ref name="kyone12">米村嘉一郎「電波界50年」(連載「思い出の記」第12回)『電波時報』1959年10月号</ref>。
 
 
 
しかしこの情報により上記の各国による多大な援助が迅速に行われることになったのである。
 
;中華民国
 
[[清|清朝]]の元[[皇帝]]で、当時[[中華民国]]内で「大清皇帝」となっていた[[愛新覚羅溥儀]]は、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ<ref name=sikinjonotasogare254/>。溥儀は日本政府に対する[[義捐金]]を送ることを表明し、併せて[[紫禁城]]内にある膨大な[[宝石]]などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の[[芳沢謙吉]][[公使]]に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を[[皇室]]から拠出し、宝石などは[[皇室財産]]として保管することを申し出た。その後、1923年11月に日本政府は代表団を溥儀の下に送り、感謝の意を評した<ref name=sikinjonotasogare254>[http://books.google.co.jp/books?id=aiiz4H-sExkC&printsec=frontcover&dq=%E6%96%B0%E8%A8%B3%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E%E3%81%AE%E9%BB%84%E6%98%8F&hl=en&ei=JDDMTPyiBoqEvgOHu6UQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCUQ6AEwAA#v=snippet&q=%E5%9C%B0%E9%9C%87&f=false p254 『新訳紫禁城の黄昏』] レジナルド・フレミング・ジョンストン著 岩倉光輝訳 本の風景社 2007年</ref>。
 
 
 
溥儀は後に日本の協力の下で[[満州国]]皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師の[[レジナルド・ジョンストン]]は自著の中で回想している<ref>『紫禁城の黄昏(下)』レジナルド・フレミング・ジョンストン著 中山理訳 祥伝社 2005年</ref>。
 
;アメリカ合衆国
 
第一次世界大戦において共に戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模、内容ともに最大のものだった。有名な[[スローガン]]「''Minutes make lives''(数分が生死を分ける)」はこの時のもの。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地だった[[フィリピン]]の[[アメリカ陸軍]]基地からも様々な物資が送られた。さらに[[アフリカ系アメリカ人]]指導者の[[マーカス・ガーベイ]]は、[[大正天皇]]あてに電報を送る傍ら募金活動を行った。また[[アメリカ海軍]]は[[:en:United States Asiatic Fleet|アジア艦隊]]から多数の艦船を派遣、避難民や物資の輸送にあたらせている。
 
;;米海軍の主な対日被災支援艦船<ref>[http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/review/1-2/1-2-7.pdf 関東大震災における日米海軍の救援活動について]</ref>
 
::[[装甲巡洋艦]]
 
:::[[サウスダコタ (装甲巡洋艦)|ヒューロン]]
 
::[[駆逐艦]]
 
:::[[スチュワート (DD-224)|スチュワート]]、[[:en:USS Smith Thompson (DD-212)|スミス・トンプソン]]、[[:en:USS Barker (DD-213)|バーカー]]、[[:en:USS Tracy (DD-214)|トレーシー]]、[[:en:USS John D. Edwards (DD-216)|ジョン・D・エドワーズ]]、[[:en:USS Whipple (DD-217)|ホイップル]]、[[:en:USS Hulbert (DD-342)|ハルバート]]、[[:en:USS William B. Preston (DD-344)|ウィリアム・B・プレストン]]、[[:en:USS Preble (DD-345)|プレブル]]、[[:en:USS Noa (DD-343)|ノア]]
 
::[[駆逐艦母艦]]
 
:::[[:en:USS Black Hawk (AD-9)|ブラックホーク]]
 
::運送船
 
:::メリット、アバレダー、ベガ
 
::[[給炭艦|給炭船]]
 
:::[[ペコス (AO-6)|ペコス]]
 
;ベルギー
 
震災直後にベルギー政府は「日本人罹災者救援ベルギー国内委員会」を組織し、[[ベルギー王室]]の全てのメンバーとベルギー[[赤十字社|赤十字]]委員会がこれを支援し日本への支援を積極的に行った。民間もこれに応じて募金活動や[[コンサート]]、バザーによる多額の収益金を同委員会を通じて寄付した他、画家の[[エミール・バース]]は自らと友人の作品を提供し義捐金に充てるなど、官民一体となって支援活動が行われた。
 
 
 
; 弔慰金
 
[[拳骨拓史]]によると、朝鮮総督府は「精細に調査した結果」とした上で、地震による倒壊での圧死、火事での焼死など死亡や行方不明の朝鮮人を約830名と発表。この結果に基づき、震災のため死亡または行方不明になった朝鮮人の遺族に対し、一人につき200圓の弔慰金を贈り、地方官を派遣して弔門させている。その支給数は約830名分で、弔慰金の総額は16万6000円と発表した<ref>[[拳骨拓史]]『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』PHP研究所、P106</ref>。
 
 
 
一方日本人の場合は、
 
*死亡者・行方不明者 - 16円
 
負傷者 - 4円
 
住宅の全焼(1世帯)- 12円
 
住宅の全壊(1世帯)- 8円
 
住宅の半焼・半壊(1世帯)- 4円<ref>拳骨拓史『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』PHP研究所、P109、P110</ref>-->
 
 
 
<!--(特筆性に乏しいためコメントアウト)== 関東大震災に遭遇した著名人 ==
 
*[[井伏鱒二]] …早稲田界隈で下宿生活を送っていたが、震災に遭遇。食料の枯渇、流言飛語、等で心身疲労を患い、7日後に[[中央本線|中央線]]経由で[[広島県|広島]]に帰郷を決断。[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]から[[立川駅]]までを徒歩で6時間歩き、立川から汽車で長野県経由で関東を脱出した。この経験を50年後『半世記』に著している。
 
*[[宇野浩二]] …被災後、上野公園に徒歩で避難する。夜間の余震、震災後2日目に起こった大火災を目撃している。
 
*[[川端康成]] …[[本郷区]](現・[[文京区]])の下宿で震災に遭い、野外で寝泊まりした。水と[[ビスケット]]を携帯して[[今東光]]と共に[[芥川龍之介]]も見舞って3人で被災地などを歩き廻った<ref name="atogaki4">[[川端康成]]「あとがき」(『川端康成全集第4巻 [[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』新潮社、1948年12月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=75-100}}に所収</ref><ref name="yoshiwara">川端康成「芥川龍之介氏と吉原」([[サンデー毎日]] 1929年1月13日号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp= 232-235}}に所収</ref>。何千人もの遺体を見た川端は、「最も心を刺されたのは、[[出産]]と同時に死んだ母子の死体であつた」と語っている<ref name="taika">川端康成「大火見物」(文藝春秋 1923年11月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=7-10}}に所収</ref>。
 
*[[西條八十]] …宇野と同じく上野公園に避難。深夜に一人の少年がハーモニカを吹き、周囲の被災民が皆、耳を澄ませていた光景を見て、「こんな安っぽいメロディで、これだけの人が楽しむ。俗曲もまたいいもんだ」と大衆のための俗歌を書いてみたいと思うようになったという。
 
*[[田山花袋]] …震災当日の夕刻、[[新宿駅]]と[[代々木駅]]の間にあった自宅で、息子と共に東京市の火災を目撃する。田山の自宅周辺は比較的被害が少なかった。
 
*[[堀辰雄]] …一家3人で[[隅田川]]に命からがら避難したが、母親が水死してしまった<ref name="hori">「数学志望から文学志望へ」({{Harvnb|アルバム堀|1984|pp=2-13}})</ref>
 
*[[室生犀星]] …9月2日に上野公園で妻子と再会するも、妻が出産から6日しか経っておらず疲労が激しかったため、妻子の帰郷を決断。翌日の3日に[[赤羽駅]]に向かうも、2〜3万に膨れ上がっていた避難民のため乗車も帰宅もできない状態となり、偶然その場で知り合った小田切という少女の機転で自宅に泊めてもらう事態となる。その後5日になって田端行きの上り列車に乗車できたが、車内でも消防夫たちがスクラムを組んで室生の妻子を守ってくれたという。室生はこれら被災時の数々の厚意に対し、「世に鬼はなしの言葉やうやく(ようやく)身に沁む」と記している。その後10月に犀星も[[金沢市]]に帰郷した<ref name="hori"/>。
 
*[[北原白秋]] …小田原の山荘で被災。書斎にいた時に地震が発生。自身は頭部に傷を負うが妻と息子共に無事だった(一時は行方不明扱いになっていた)。家屋は大きな被害を被るが倒壊は免れる(「この山にかうした恵まれた家は他に一戸あるきりである」と震災手記断片に記す)。その後しばらく隣の寺の家族と共にすぐ近くの竹林で寝泊まりする。「実に一歩山を下れば、其処はもう惨たる地獄の象であつた」「私は山に踏みとどまつてよかつたと思つた」とも語る。
 
*[[河竹繁俊]] …本所被服廠跡にほど近い南双葉町の自宅([[河竹黙阿弥|黙阿弥]]旧宅)で被災。避難途中に家族とはぐれ、人の波に流され火の手に追われながら南下、月島を目指すが、黒江町で迷い、狭い路地を抜けて越中島の原へ逃れた。夜9時過ぎ、原の三方が火の海となったが、雨のように降りかかる火の粉で燃え上がる草や荷物を、翌9月2日明方まで水溜りの水で消し止め戦い通した何万人かの人たちと共に助かった。はぐれた家族のうち幼い長男が死亡した。<ref>河竹繁俊「遭難記」(山本美 編『大正大震火災誌』改造社、1924年)。小川益王 監修『東京消失 関東大震災の秘録』(文藝春秋企画出版部、2006年)に再録。</ref>
 
*[[横光利一]] …神田の[[東京堂書店]]にいた時に震災に遭った。火の海の街中、やっと駿河台に逃げて助かった<ref name="yoko">「懊悩と模倣――陽が昇るまで」({{Harvnb|アルバム横光|1994|pp=20-35}})</ref>。横光の身を案じていた[[菊池寛]]は、「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」という[[旗]]を立てながら、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の編集同人と一緒に各所を回って探したという<ref name="yoko"/>。
 
*[[横山エンタツ]] …巡業先で被災。鼻を骨折。
 
*[[桜井敏雄]] …演歌師。根岸の自宅で被災。家の下敷きになるも救助される。崩れた屋根から外を眺めると、普段は家々に隠れて見えなかった[[凌雲閣]]が八階から上が倒壊し、煙が上がっているのがはっきり見えたという。
 
*[[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]] …小石川雑司ヶ谷の自宅で被災。数日後に消息不明となった[[ドイツ語]]聴講生を探しに本所石原町に足を踏み入れた。この際の体験は後に『長春香』として著した他、いくつかの短編小説や随筆に記している。
 
*[[寺尾正・文姉妹]] …[[一卵性双生児]]の[[陸上競技選手]]。北二葉町の自宅で被災。本所被服廠跡で避難し、火災旋風に襲われるも、奇跡的に脱出し一家全員助け出すことができた。
 
*[[日高帝]] …19歳のときに被災し、被災者の救援などを行い県知事から表彰される。関東大震災の生き証人として知られる。
 
*[[村岡花子]] …[[大森町 (東京府)|大森町]]新井宿の自宅で被災。当時は、大森は田園地帯のため、半壊程度で倒壊を免れる。地震が起こる直前に大きな入道雲が見えたという。このエピソードは[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[花子とアン]]』で演出されている([[関東大震災#関東大震災に関する作品|関東大震災に関する作品]]を参照)。
 
*[[村岡敬三]] …村岡花子の夫。下記の村岡斎の実兄。[[銀座]]に構える職場先で被災。福音印刷が倒壊したことにより事実上倒産。社の役員の裏切りに遭う。
 
*[[清川虹子]] …[[東京音楽学校 (旧制)|上野音楽学校]] へ避難している。
 
*[[黒澤明]] …当時中学2年生<ref>参照文献 黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波書店、1984年</ref>。
 
*[[古今亭志ん生 (5代目)|5代目古今亭志ん生]](当時金原亭馬きん) …本郷の自宅の長屋で猿股姿で寝転がって雑誌を読んでるときに被災し慌てて浴衣を着て家を出ようと思ったが脳裏に「地震が起きたら酒が呑めまくなる」と思い妻の財布を持って近所のなじみの酒屋に行ってあるだけの金で酒を買って呑みながら鼻歌間交じりで陽気に自宅に帰った。
 
*[[柳家三亀松]] …当時アマチュアの芸人で夜の寄席の出番があったために地震が起きたときは自宅で寝ていたときに被災し避難先を転々とした。
 
*[[橘家圓蔵 (7代目)|7代目橘家圓蔵]](当時[[桂文雀]]) …師匠[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の自宅で修行中で師匠にもらった小遣いで浅草の宮戸座で「四谷怪談」の芝居を観劇中に被災し一晩御徒町の友人宅で避難した。その後師と共に仮住まいを持っていたが落語家としては仕事は少なくすいとん屋を営んだ。
 
*[[柳家蝠丸#初代|初代柳家蝠丸]] …前の日は吉原で過ごし地震が起きたときは[[浅草公園六区]]の瓢箪池にいた。その後妊娠中(五か月、のちの[[桂文治 (10代目)|10代目桂文治]])の妻と共に荷物をまとめ陸軍被服廠に避難しすぐに妻の弟の住む雑司ヶ谷に避難した。
 
*[[大辻司郎]] …被災し一時母が行方不明になる、上野の[[西郷隆盛]]像に「母を探しています 大辻司郎」という張り紙を張って探したらたちまち評判になって2、3日後に再会した。
 
*[[柳家金語楼]](当時[[柳家金三]]) …自身は巡業で東京にいなかったが家族・父三遊亭金勝、母、弟[[昔々亭桃太郎#先代(自称24代目)|昔々亭桃太郎]]が被災し急いで帰宅。
 
*[[国井紫香]] …堀の内のお寺でお経を唱えていたときに地震が起こり、慌てて自宅と当時出演していた駒込館に急ぎ無事であることを確認、その後生活費を稼ぐためにカレー屋を始めた。
 
*[[砂川捨丸・中村春代|砂川捨丸]] …8月21日から浅草六区観音劇場で「万才大会」と称して一門、芸人仲間を連れて巡業に来ていたが9月1日から10日間かけて帝京劇場でも出演予定だった。地震で慌てて逃げたが大阪出身で東京土地勘がわからなかったという。2、3日後日暮里駅から大阪に戻った、直後の高座では体験談を織り交ぜた「関東大震災数え唄」を披露している。
 
*[[桂小文治 (2代目)|二代目桂小文治]] …大阪出身の落語家で被災翌日には信越線で大阪に戻り新聞記者の取材を受け体験記をニットー・レコードより「関東大震災実見記」と題して[[漫談]]風の新作落語のSPレコードを残した。
 
*[[曾我廼家五九郎]] …被災し火の気が迫る中隅田川に飛び込んで逃げた。
 
*[[曾我廼家五郎]] …一門で新富座で出演中に被災和田倉門の中に逃げ込んだ。その後大阪道頓堀中座で「情火」と題した芝居を公演した。
 
*[[東喜代駒・駒千代|東喜代駒]] …浅草で「東喜代駒萬歳独演会」を開催直前の楽屋に被災。
 
*[[東武蔵]] …自身晩年に日記ノートに当時のことを「九月一日午前十一時五十八分。関東大震災、言語に言い尽くせない惨事。」記載している。この日記には自宅が全焼したことも記されている。
 
*[[木村若衛]] …10歳の時に横浜で被災、この時は友人と横浜の海水浴に行く予定だったが背中から倒れてきた2階建ての家に下敷きになりそうになり左腕を負傷。生家は倒壊した。けがの治療には4年かかった。
 
*[[コロムビア・トップ]] …生まれ間もない頃浅草橋で被災、火の粉を浴びながら母におんぶされて逃げた。大きくなって母からこの話を聞かされている。
 
*[[吉慶堂李彩#初代|初代吉慶堂李彩]]
 
*[[西塚十勝]] …11歳の時に奉公先の横浜市で被災。いつもの地震のように向かいの瀬戸物店の商品が揺れるのを見ようとした子供心が幸いし、外に出たところで奉公先の店舗が倒壊。
 
 
 
;文豪と自警団
 
当時の文豪たちも自警団に参加している。[[永井荷風]]は、震災で遊べる場所もなかったので、夜警で楽しく話をした<ref name="kodama78">{{harvnb|児玉|2014|p=78}}</ref>。1919年(大正8年)まで[[海軍機関学校]]で[[英語]]を教え、その後は作家業に専念していた[[芥川龍之介]]は、震災当時病気だったが、町会の手前もあり病身を押して自警団に参加した<ref>{{harvnb|関口|2010|p=52}}</ref>。芥川が参加した[[田端 (東京都北区)|田端]]の自警団は芥川が籐椅子を持ってきて寝そべったり、話術で人を惹き込んだり、およそ2か月の間、次第に親睦会の様相を呈した<ref name="kodama78" />。『[[中央公論]]』1923年10月号に掲載された芥川の随筆「大震雑記」<ref>{{Cite book|和書
 
|author = 芥川龍之介
 
|chapterurl = http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3762_27361.html
 
|chapter = 大正十二年九月一日の大震に際して
 
|title = 筑摩全集類聚 芥川龍之介全集 4
 
|publisher = [[筑摩書房]] ([[青空文庫]])}}</ref>における芥川の皮肉によると、この大震災における「善良なる市民」とは、[[ボリシェヴィキ]]と「○○○○」([[日本における検閲|検閲]]による[[伏字]])の陰謀を信じる者か、信じないまでも信じるふりをする者である<ref name="kodama79">{{harvnb|児玉|2014|p=79}}</ref><ref>当時に[[ソビエト連邦|ソビエト]]を研究していた著名人としては大審院検事[[小山松吉]]などがおり、[[法曹会]]の月刊機関誌『法曹会雑誌』には同年1月から6月まで小山松吉の『「ソヴイエト」露国の司法制度及び訴訟手続』が連載されていた。</ref>。自称・善良なる市民の芥川が盟友・[[菊池寛]](芥川によると菊池は善良なる市民の資格が乏しい)に大火の原因を「○○○○○○○○」(検閲による伏字)と言うと、菊池は「嘘だよ、君」と言った<ref name="kodama79" />。伏字には「不逞朝鮮人」等の言葉が入る<ref name="kodama79" />。菊池寛もまた自警団に参加した<ref name="kodama79" />。芥川は『[[文藝春秋]]』1923年11月号の「[[侏儒の言葉]]:&ensp;或自警団員の言葉」において、夜の自警の気楽さとともに震災の苦痛を書いている<ref name="shuju">{{Cite book|和書
 
|author = 芥川龍之介
 
|url = http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html
 
|title = 侏儒の言葉
 
|publisher = 青空文庫
 
}} (「或自警団員の言葉」は単行本『侏儒の言葉』刊行時に未収録)</ref>。「或自警団員の言葉」の中の「我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、&mdash;&mdash;尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」、この部分は朝鮮人殺害や大杉栄殺害を言っている<ref name="kawabata2015">{{harvnb|川端俊英|2015|p=58}}</ref>。[[川端康成]]は芥川を見舞い、災害跡を一緒に見て歩いた<ref name="yoshiwara"/><ref>[http://www.kawabata-kinenkai.org/nenpyo.html “川端 康成 略年表”]. 公益財団法人川端康成記念会.</ref>。
 
{{Quotation|[[吉原遊郭]]の池は見た者だけが信じる恐ろしい「[[地獄]]絵」であつた。幾十幾百の男女を泥[[釜]]で煮殺したと思へばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、[[遊女]]達の死骸が多いからであつた。岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンカチで鼻を抑へて立つてゐられた。|[[川端康成]]「芥川龍之介氏と吉原」<ref name="yoshiwara"/>}}-->
 
 
 
== 影響 ==
 
; 耐震建築と不燃化
 
上述の通り、大震災では[[煉瓦|レンガ]]造りの建物が倒壊した。また[[鉄筋コンクリート]]造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の[[内外ビルディング]]が倒壊したのをはじめ[[日本工業倶楽部]]や[[丸ノ内ビルヂング]]なども半壊するなど被害が目立った。そんな中、[[内藤多仲]]が設計し震災の3ヶ月前には完成していた[[日本興業銀行]]本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。すでに1919年(大正8年)には[[市街地建築物法]]が公布され1920年(大正9年)施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、後の[[建築基準法]]の基となった。
 
 
 
一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを[[区画整理]]し、燃えにくい建物を要所要所に配置し広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれるようになった。内藤と対立していた[[佐野利器]]らが主張し、後に[[後藤新平]]によって[[震災復興再開発事業#関東大震災|帝都復興計画]]として具体化する。
 
 
 
[[鉄道省]]でもこの震災で多くの木造客車が焼けた教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになり、1926年9月に発生した[[山陽本線特急列車脱線事故]]で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車共に1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。
 
 
 
; 遷都論議
 
震災直後には、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの[[遷都]]が検討され、当時、参謀本部員だった[[今村均]]は[[京城府|京城]]近郊の[[龍山区 (ソウル特別市)|竜山]]、[[加古川市|加古川]]、[[八王子市|八王子]]を候補地として報告したと述懐している<ref>『今村均回顧録』 今村均、芙蓉書房、1980年</ref><ref>『遷都 - 夢から政策課題へ』八幡和郎、中央公論社、1988年</ref>。しかし、震災発生から11日後の9月12日には、東京を引き続き首都として復興を行う旨を宣した[[詔|詔書]]が発せられ<ref>[http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/st12.htm#関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日) 関東大震災直後ノ詔書]</ref>、遷都は立ち消えとなった。
 
 
 
; 人口動態
 
震災によって概して被害の大きかった[[東京市]]・[[横浜市]]の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から[[田園都市 (企業)|田園都市会社]]によって[[洗足田園都市]]住宅地の分譲が始まり、同じ年には[[箱根土地]]による[[目白文化村]]の分譲が始まったが、何れも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには[[常盤台 (板橋区)|常盤台]]や[[国立市|国立学園都市]]など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。被災した芸術家や文豪たちは[[鎌倉市|鎌倉]]や[[浦和区|浦和]]などに移住し、以後「[[鎌倉文士]]に[[浦和画家]]」と言われた。
 
 
 
その一方で[[大阪市]]は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった<ref group="注釈">大阪市は1925年(大正14年)に近隣の[[東成郡]]・[[西成郡]]全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。</ref>。[[名古屋市]]・[[京都市]]・[[神戸市]]も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は[[1932年]](昭和7年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。
 
 
 
; 歴史認識問題
 
[[File:Tragedy at New Yoshiwara Park.jpg|thumb|150px|[[岡田紅陽]]撮影による、[[吉原遊郭|吉原]]遊女犠牲者の写真。2013年(平成25年)に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの解説とともにこの写真を公開した<ref name=gazet20130203/>が、岡田紅陽写真美術館は不明な情報とした<ref name=okadakoike201302/>。]]
 
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、[[歴史認識]]問題ともなっている。
 
 
 
[[横浜市|横浜]][[公立学校|市立]][[中学校]]の[[副読本]]の内容について、当該の副読本の出版社は[[2011年]](平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した<ref>{{Cite news
 
|url = http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=16006
 
|title = <関東大震災>虐殺の主体鮮明に…横浜市教委が中学生用副読本を改訂
 
|newspaper = 民団新聞
 
|publisher = Mindan
 
|date = 2012-06-13
 
|archiveurl = http://archive.is/bIl8I
 
|archivedate = 2013-05-03
 
}}</ref><ref name="mainichi20120929">{{Cite news
 
|url = http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
 
|title = 中学校副読本:誤解招く表現 横浜市教委が処分
 
|publisher = [[毎日新聞]]
 
|date = 2012-09-29
 
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20121031094537/http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
 
|archivedate = 2012-10-31
 
|accessdate = 2016-09-15
 
}}</ref>。市議会ではこの変更が問題となり、[[横浜市教育委員会]]は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月に[[戒告]][[懲戒処分|処分]]としたほか、当時の[[指導主事]]らも文書[[訓戒]]とした<ref name="mainichi20120929"/>。
 
 
 
[[2013年]](平成25年)[[2月3日]]、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、[[岡田紅陽]]が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真{{Refnest|group="注釈"|岡田紅陽写真美術館による<ref name=okadakoike201302>{{Cite web
 
|url = http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
 
|title = 美術館日記: 岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について
 
|date = 2013-02-04
 
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130208022232/http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
 
|archivedate = 2013-02-08
 
|deadlinkdate = 2015-12-26
 
|accessdate = 2015-12-26
 
}}</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|同写真は[[東京大学]]社会情報研究所[[廣井脩|廣井]]研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている<ref>[http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-tokyo_chokka_jisin-eha54.htm 東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページ内「災害情報資料室」の「02関東大震災絵葉書」写真54]</ref>。}}を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の[[聯合ニュース]]で報道された<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2013/02/03/0400000000AJP20130203000500882.HTML 関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開] 2013年2月3日</ref><ref name=gazet20130203>[http://getnews.jp/archives/287724 韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える 別の写真を使い捏造の可能性?] [[ガジェット通信]] 2013.02.03</ref>{{Refnest|group="注釈"|明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった<ref name=gazet20130203/>。}}。
 
 
 
; 文化
 
[[谷崎潤一郎]]など関東の文化人が関西に大勢移住して[[阪神間モダニズム]]に影響を与えたり、震災によって職を失った東京の[[天ぷら]]職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風の[[おでん]]種が関東に伝わったり<ref>[http://www.kibun.co.jp/enter/oden/o-oden.html おでんの変遷とこれから]、紀文食品、2013年6月18日閲覧。</ref>、客に相対しての[[カウンター]]文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。関東大震災に関するフィクションは以下。
 
*[[不思議な少年 (漫画)|不思議な少年]]([[山下和美]])…6巻 ムメキクと周平
 
*[[帝都物語]]([[荒俣宏]])…帝都・東京の滅亡を目論む魔人、[[加藤保憲]]が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。
 
*[[大虐殺 (映画)|大虐殺]](1960年、[[新東宝]])…映画。ビデオタイトルは『暴圧 関東大震災と軍部』。
 
*[[復活の地]]([[小川一水]]、[[ハヤカワ文庫]]、全三巻)…[[サイエンス・フィクション|SF]]小説。架空の[[惑星]]の大都市を襲った巨大地震とその後の復興を描く。後藤新平と[[帝都復興院]]をモデルにした人物・機関が登場する。
 
*[[連続テレビ小説]]
 
**[[おはなはん]](1966年放映)…大震災により一家と親戚付き合いをしていた細倉を亡くす。
 
**[[おしん]](1983年放映)…大震災によって事業財産を全て失うことになり、夫の故郷の[[佐賀県]]に家族共々身を寄せることになる。
 
**[[凛凛と]](1990年上半期放映)…同年9月1日放送分に大震災のエピソードとなった。
 
**[[あぐり]](1997年上半期放映)…岡山であぐりの「おめでた」が明らかになった頃に、大震災が起こる(夫のエイスケは東京で大震災に見舞われ消息不明になるが、森潤の計らいであぐりと再会した)。
 
**[[ごちそうさん (2013年のテレビドラマ)|ごちそうさん]](2013年下半期放映)…主人公・西門め以子([[杏 (女優)|杏]])の「おめでた」が明らかになり様子を見に行けないため、め以子の夫の大阪市職員・西門悠太郎([[東出昌大]])が救援のため上京する。その後め以子の親友・室井桜子がめ以子の高等女学校の恩師・宮本先生が火事に巻き込まれて亡くなったことを知らせる。
 
**[[花子とアン]](2014年上半期放映)…大震災により大森に居を構える村岡宅が半壊。近所の被災者に[[炊き出し]]を行い、被災した子供たちには[[童話]]の読み聞かせをしていた。また親戚付き合いをしていた郁弥(夫の弟)を亡くす。
 
**[[わろてんか]](2017年下半期放映)…東京にいる、藤吉の芸人仲間のキースの安否を確かめようと、主人公・北村てんの従兄・風太が被災地の派遣のため上京する。<!--
 
*[[東京マグニチュード8.0]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ノイタミナ]]で放送のアニメ)…2012年(平成24年)7月21日に発生した巨大地震に巻き込まれた姉弟を中心に、現代に発生した大震災による被害状況や対策の状況等をシミュレーションして描いた作品。-->
 
*タイムスリップ1923-守のミラクル地震体験-(1994年、[[日本シネセル]])…[[防災アニメ]]。小学5年生の主人公が突如、関東大震災当日の東京へタイムスリップしてしまう。
 
*[[はいからさんが通る]]([[大和和紀]])…物語のクライマックスで関東大震災が起こる。<!--
 
*[[RIM]]([[アレクサンダー・ベッシャー]])…西暦2026年に起こった関東大震災で行方不明になった[[ソニー]]の[[盛田昭夫|モリタアキオ]]会長を[[東京大学]]バークレイ校の教授が探すSF小説。-->
 
*[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)|風立ちぬ]]、[[風立ちぬ (2013年の映画)]]([[宮崎駿]])…物語序盤で主人公が関東大震災に遭遇し、ヒロインと最初に出会う。
 
*[[天皇の料理番]]([[杉森久英]])…同著者の小説を原作としたテレビドラマ。
 
**2015年版…6月28日放送分の第10話の劇中で関東大震災が起こり、[[皇居外苑|皇居前広場]]に避難した人々に炊き出しを行う。
 
*[[朴烈 植民地からのアナキスト]]…映画。
 
上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては[[南関東直下地震#関連作品|南関東直下地震の関連作品]]を参照。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"|2}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
;ルポルタージュ
 
*[[大曲駒村]]『東京灰燼記』(東北印刷株式会社出版部、1923年){{NDLJP|981826}} ([[中公文庫]]、2006年)ISBN 4-12-204733-1
 
*[[宮武外骨]]『震災画報』(半狂堂、1923-1924年){{NDLJP|981867}},{{NDLJP|981868}},{{NDLJP|981869}},{{NDLJP|981870}},{{NDLJP|981871}},{{NDLJP|981872}} ([[ちくま学芸文庫]]、2013年)ISBN 978-4-480-09567-1
 
*[[田山花袋]]『東京震災記』(博文館、1924年){{NDLJP|1183855}} ([[河出文庫]]、2011年)ISBN 978-4-309-41100-2
 
*[[夢野久作]](杉山萠圓名義)『街頭から見た新東京の裏面』『東京人の堕落時代』([[九州日報]]連載)
 
*加藤直樹『[[九月、東京の路上で]]―1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから、2014年)ISBN 9784907239053
 
*[[寺田寅彦]] {{青空文庫|000042|4671|新字新仮名|震災日記より}}
 
*[[西崎雅夫]]編著『関東大震災朝鮮人虐殺の記録:東京地区別1100の証言』([[現代書館]]、2016年)ISBN 978-4768457900
 
 
 
;公的資料
 
*<div id="china">『[[:s:治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件|治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件]]』(勅令第403号)、1923年9月7日 - ウィキソース。
 
*[http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00039364/ISS0000418999_ja.html 『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』(震災豫防調査會、1925年3月31日)]
 
*藤原咲平『関東大震災調査報告(気象篇)』(中央気象台編、中央気象台発行、1924年8月20日){{NDLJP|984965}}
 
*『大正大震火災誌』(警視庁、1925年7月31日){{NDLJP|1748933}}
 
*『大正震災志』(内務省社会局編、内務省社会局発行、1926年2月28日)
 
**上巻(内篇){{NDLJP|981915}}
 
**下巻(外篇・附録){{NDLJP|981916}}
 
**大正震災志写真帖 {{NDLJP|966765}}
 
*『震災叢書 第1編 震災後公布の新法令集』(新生社編、新生社刊、1923年12月2日){{NDLJP|981830}}
 
*[http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
 
**Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
 
**Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
 
**Ref.C08050971600「救護品輸送(其の他)」
 
**Ref.C08050982100「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
 
**Ref.C08050982700「米国救護作業」
 
*「[http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html 1923 関東大震災 第1編]」『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』中央防災会議、平成18年(2006年)7月
 
*{{アジア歴史資料センター|A01200507700|鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件: 内閣告諭第二號}}
 
*{{Citation|和書|author1=[[永田秀次郎]] |author2=[[穂積重遠]] |editor=東京市 |date=1923年 |chapter=内閣告諭第二號 |chapterurl={{NDLDC|977182/18}} |title=大詔を拝して |series=帝都復興叢書 ; 第1輯 |ncid=BA56201226|id={{全国書誌番号|43040575}}。{{NDLJP|977182}}|pages=17-18|publisher=帝都復興叢書刊行会 |ref={{sfnref|東京市編 『大詔を拝して』|1923}}}}
 
*『[{{NDLDC|976936/2}} 我国の震災に対する諸外国の同情と震災に関する諸名士の所感]』、[[国際連盟協会]]、1923年
 
;参照文献
 
*[[吉村昭]]『関東大震災』(文藝春秋、1973年)ノンフィクション(震災50年目に刊行){{NCID|BN02582117}}
 
*[[上山明博]]『関東大震災を予知した二人の男  ─大森房吉と今村明恒』(産経新聞出版、2013年)ISBN 978-4-8191-1224-6
 
*[[上山明博]]『地震学をつくった男・大森房吉 ─幻の地震予知と関東大震災の真実』(青土社、2018年)ISBN 978-4-7917-7081-6
 
*[[姜徳相]]編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年){{NDLJP|2990288}}
 
*[[高木隆史]]『大震災 1923年東京』(原書房、1983年)978-4562013722
 
*姜徳相『関東大震災』(中央公論社、1975年){{NCID|BN00851670}}
 
*姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)ISBN 4-87924-088-5
 
*[[草鹿龍之介]]『一海軍士官の半生記』(光和堂、1973年){{NCID|BN03239335}}
 
*{{Cite book|和書|author=ノエル・F・ブッシュ|coauthors=早川浩二訳|year=2005|month=8|origyear=1967-10|title=正午二分前 {{smaller|外国人記者の見た関東大震災}}|publisher=早川書房|isbn=4-15-208659-9|ref=正午二分前}}
 
*[[工藤美代子]]『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』([[産経新聞出版]]、2009年)ISBN 978-4-8191-1083-9
 
**加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(WAC、2014年8月 改版に当たって改題 加藤は工藤の夫)ISBN 978-4898317037
 
*{{PDFlink|[http://www.jaee.gr.jp/stack/submit-j/v04n04/040402_paper.pdf 関東地震(1923 年 9 月 1 日)による被害要因別死者数の推定 諸井孝文、武村雅之]}}日本地震工学会論文集 第4巻,第4号,2004
 
*『外国車ガイドブック1980』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
 
*『輸入車ガイドブック1991』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
 
*内田宗治『関東大震災と鉄道』(新潮社、2012年)ISBN 978-4-10-332561-1
 
*{{Cite journal|和書|author=金富子|year=|date=2014年7月|title=【特集】関東大震災90年 &mdash;&mdash;朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在 (2) &ensp;関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺 &mdash;&mdash;官憲史料と新聞報道を中心に|url=http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/669-01.pdf|journal=|volume=|issue=669|page=|pages=1-19|publisher=[[法政大学大原社会問題研究所]]|ref={{SfnRef|金|2014}}|authorlink=金富子|periodical=大原社会問題研究所雑誌|naid=120005524575}}
 
*{{Cite journal|和書|author=関口安義|authorlink=関口安義 |date=2010-10-30|url=http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBq0030004.pdf|title=恒藤恭と芥川龍之介 &mdash;蘆花『謀叛論』を介在として&mdash;|periodical=大阪市立大学史紀要|issue=3 |publisher=[[大阪市立大学]]|naid=120005266439|pages=40-55|ref={{sfnref|関口|2010}}}}
 
*{{Cite journal|和書|author=児玉千尋 |date=2014-03-15|url=http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/526/1/kokubun-47_56-86.pdf|title=関東大震災と文豪 &mdash;&mdash;成蹊大学図書館の展示から&mdash;&mdash;|periodical=成蹊國文|issue=47 |publisher=[[成蹊大学]]文学部日本文学科|naid=120005436758|pages=56-86|ref={{sfnref|児玉|2014}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=川端俊英|date=2015-01-08|url=http://books.google.com/books?id=yEgYBgAAQBAJ|title=人権からみた文学の世界【大正篇】|publisher=[[ゴマブックス]]|asin=B00RXHZ4M2|ref={{sfnref|川端俊英|2015}}}}
 
*{{Citation|和書|date=1970-10|title=[[川端康成]]全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=新潮社|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}}
 
*{{Citation|和書|date=1982-04|title=川端康成全集第26巻 随筆1|publisher=新潮社|isbn=978-4106438264|ref={{Harvid|随筆1|1982}}}}
 
*{{Citation|和書|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}}
 
*{{Citation|和書|editor=[[井上謙 (日本文学者)|井上謙]]|date=1994-08|title=新潮日本文学アルバム43 [[横光利一]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620647-4|ref={{Harvid|アルバム横光|1994}}}}
 
*{{Citation|和書|editor=[[小久保実]]|date=1984-01|title=新潮日本文学アルバム17 [[堀辰雄]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620617-7|ref={{Harvid|アルバム堀|1984}}}}
 
; 関連文献
 
*{{Google books|XiyuFPFpBykC|東京震災録 前輯(東京市役所、昭和2(1927)年)|page=|plainurl=}}
 
*{{Google books|GNsXF4FpjxkC|東京震災録 中輯(東京市役所、昭和2(1927)年)|page=|plainurl=}}
 
*{{Google books|jtQoeM6y9b0C|東京震災録 後輯(東京市役所、昭和2(1927)年)|page=|plainurl=}}
 
*{{Google books|G6y3R1mS47UC|東京震災録 別輯(東京市役所、昭和2(1927)年)|page=|plainurl=}}
 
*[[竹久夢二]] 「東京災難画信」『[[都新聞]]』(9月14日〜10月4日)<ref>[[竹久夢二美術館]]監修 『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』 [[河出書房新社]]、2014年1月</ref>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|1923 Great Kantō earthquake}}
 
{{Wikisource|Category:関東大震災に関する法令|関東大震災に関する法令}}
 
{{Wikisource|臨時震災救護事務局官制|臨時震災救護事務局官制}}
 
*[[震災内閣]]
 
*[[地震]]
 
*[[地震の年表 (日本)]]
 
*[[関東地震]]
 
*[[元禄地震]]
 
*[[南関東直下地震]]
 
*[[復興局疑獄事件]]
 
*[[東京大空襲]] - アメリカ軍は関東大震災の被害実態を検証し、爆弾・焼夷弾の選定や攻撃目標の決定に反映させた
 
*[[防災の日]]
 
*[[阪神・淡路大震災]]
 
*[[東日本大震災]]
 
*[[歴史教科書問題]]
 
*[[シャープ]] - 当時筆記用具を製造していたが関東大震災で工場を焼失、拠点を大阪へ移し家電メーカーとして再出発する。
 
*[[パニック]]
 
* [[仙山線]] - 関東大震災によって着工延期になった。
 
*[[大森房吉]]
 
*[[今村明恒]]
 
*[[寺田寅彦]]
 
*[[後藤新平]]
 
*[[佐野利器]]
 
*[[内田祥三]]
 
*[[乞食谷戸]]
 
*[[上原敬二]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災 第1編][http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html 第2編][http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_3/index.html 第3編] - [[中央防災会議]]-[[内閣府]]、平成18年、21年
 
*[http://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2003/tokushu/toku01.htm 特集:関東大震災を知る] 鹿島建設
 
*映像資料
 
**[http://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/03kanto/03kanto.html 関東大地震写真]
 
**[http://digicoll.manoa.hawaii.edu/earthquake/Pages/browselist.php?s=browse&tid=80&route=browseby.php&city=Kamakura-shi+%28Japan%29&by=city 1923年関東大震災写真集] - ハワイ大学マノア校図書館アジアコレクション
 
**[http://www.himoji.jp/database/db06/index.html 関東大震災・写真と地図のデータベース]
 
**[http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/video/kantodaisinsai.html 東京関東地方大震災惨害実況]大正12年(1923年)9月2日〜5日の記録シネマ 兵庫県篠山市
 
**[http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo13/index.html 武部正「関東大震災」写真資料] 京都府立総合資料館
 
**[http://das.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/infolib/supsearch/default 実写 関東地方大震災,1923.35mmフィルム] 京都帝国大学工学部建築学教室
 
*印藤和寛、{{PDFlink|[http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/7771/1/KU-1100-20130315-02.pdf 関東大震災時の朝鮮人虐殺はなぜ起こったか] 教育科学セミナリー (44), 15-28, 2013-03}}
 
*[http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/world/10_largest_world.php Largest Earthquakes in the World Since 1900(1900年以降の大地震上位10位)] アメリカ合衆国地質調査所 USGS
 
 
 
{{日本近代地震}}
 
{{戦前日本の経済史}}
 
  
 
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[[Category:関東大震災|*]]
 
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2018/8/25/ (土) 02:45時点における最新版

関東大震災(かんとうだいしんさい)

1923年9月1日午前11時58分44秒,相模湾で起こった大地震(関東地震)による災害。この地震のマグニチュードM)は 7.9。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方,三浦半島,房総半島南部であるが,震災は東京を中心に千葉,埼玉,静岡,山梨,茨城,長野,栃木,群馬の各県に及んだ。死者・行方不明者は従来,約 14万2000人あまりとされてきたが,近年の調査研究で 10万5000人程度であることがわかった。建物の被害は,全壊約 13万棟,半壊約 13万棟,焼失約 45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は 6万人をこえたが,これはおもに 122ヵ所から発生した火災によるものとみられた。地震に伴って大きな地殻変動があり,東京都内の水準点を不動点として,大磯 182cm,葉山 94cm,油壺 139cm,館山 157cmの隆起が記録された。丹沢山地では約 1mに及ぶ沈降がみられた。地盤の水平移動は相模湾を中心に時計回りの方向に認められ,最大水平移動量は 4m近くに達した。山岳部では丹沢,伊豆,箱根などで山崩れが頻発し,山津波が起こり,断層ができ,海岸部では津波が発生した。この地震は,その後の地震研究,地震対策の大きな契機となった。

地震の翌 9月2日午後,東京市と府下 5郡に戒厳令(戒厳)が布告され,9月3日には神奈川県下にも範囲が拡大された。この震災は組閣中のことであり,9月2日夕,急ぎ山本権兵衛内閣の親任式が行なわれ,9月7日に山本内閣は「治安維持ノ為ニスル罰則に関スル件」という緊急勅令第403号を公布,治安維持に努めた。9月9日には 3万2000人が焼死した本所被服廠で合同法要が行なわれた。政府は治安が乱れた背景に朝鮮人と社会主義者がいると宣伝し,朝鮮人虐殺,大杉栄らの虐殺,亀戸事件,社会主義者弾圧などが起こった。



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