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{{基礎情報 武士
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'''松平 容保'''(まつだいら かたもり)
| 氏名 = 松平容保
 
| 画像 = Matudaira Katamori.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明 = 京都守護職時代の容保
 
| 時代 = [[江戸時代]]末期 - [[明治]]時代
 
| 生誕 = [[天保]]6年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1836年]][[2月15日]])
 
| 死没 = [[明治]]26年[[12月5日]]([[1893年]][[12月5日]])
 
| 改名 = 銈之丞(幼名)→容保
 
| 別名 = 祐堂、芳山(法号)、会津侯
 
| 諡号 =
 
| 神号 = 忠誠霊神
 
| 戒名 =
 
| 墓所 = [[福島県]][[会津若松市]][[東山村 (福島県)|東山町]]の[[会津藩主松平家墓所|松平家院内御廟]]<br/>[[東京都]][[新宿区]]の[[正受院]]
 
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[侍従]]、[[若狭国|若狭]][[国司|守]]、[[肥後国|肥後守]]、[[近衛府|左近衛権少将]]、左近衛権中将、[[正四位|正四位下]]、[[参議]]
 
| 幕府 = [[江戸幕府]][[京都守護職]]、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後)
 
| 主君 = [[徳川家定]]→[[徳川家茂|家茂]]→[[徳川慶喜|慶喜]]
 
| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主
 
| 氏族 = [[尾張徳川家|高須松平家]]→[[会津松平家]]
 
| 父母 = 父:[[松平義建]]、母:古森氏<br/>[[養父]]:''[[松平容敬]]''
 
| 兄弟 = [[徳川慶勝|慶勝]]、[[松平武成|武成]]、[[徳川茂徳|茂徳]]、'''容保'''、[[松平定敬|定敬]]、[[松平義勇|義勇]]、義姉:''[[松平照|照姫]]''
 
| 妻 = [[正室]]:'''敏姫'''<br/>[[側室]]:佐久、名賀
 
| 子 = '''[[松平容大|容大]]'''、[[松平健雄|健雄]]、[[山田英夫 (伯爵)|山田英夫]]、[[松平恆雄]]、[[松平保男|保男]]<br/>養子:'''''[[松平喜徳]]'''''
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''松平 容保'''(まつだいら かたもり)は、[[幕末]]の[[大名]]。[[陸奥国]][[会津藩]]の第9代藩主(実質的に最後の藩主<ref group="注釈">容保の隠居後に、養嗣子の[[松平喜徳]]が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。</ref>)。[[京都守護職]]。[[高須四兄弟]]の一人で、血統的には[[水戸藩]]主・[[徳川治保]]の子孫。現在の[[徳川将軍家|徳川宗家]]は容保の男系子孫である。
 
  
== 生涯 ==
+
幕末の会津藩主。美濃高須城主松平義建の子。字はけい之允。号は祐堂,芳山。弘化3 (1846) 年会津藩主松平容敬の養子となり,嘉永5 (52) 年襲封。同6年ペリー来航に際して井伊直弼とともに国書受理に賛成し,安政7 (60) 年桜田門外の変で直弼が横死すると,幕府と水戸藩との調停にあたった。また幕府の命により[[松平慶永]]とともに幕政に参与し,次いで京都守護職。元治1 (64) 年の[[禁門の変]]において長州藩兵と戦い,これを撃退した。慶応4 (68) 年鳥羽・伏見の敗戦ののち,江戸に帰った。その後,奥羽越列藩同盟の中心となったが,[[会津戦争]]で敗れた。 1880年東照宮宮司。
[[ファイル:Matudaira Katamor Syouzougai.jpg|thumb|200px|松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)]]
 
 
 
=== 生誕 ===
 
[[天保]]6年([[1835年]])12月29日、江戸[[四谷]]土手三番丁の[[高須藩]]邸で藩主・[[松平義建]]の六男(庶子)として生まれる。母は側室の古森氏。幼名を銈之允と称す<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p7</ref>。
 
 
 
[[弘化]]3年([[1846年]])4月27日、実の叔父にあたる[[会津藩]]第8代藩主・[[松平容敬|容敬]](高須松平家出身)の養子となり、[[和田倉門]]内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは[[神道]](敬神崇祖における皇室尊崇)、[[儒教]]による「義」と「理」の精神、そして[[会津藩家訓]]による武家の棟梁たる[[徳川家]]への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった<ref>『松平容保』新人物文庫269/p24~p28</ref>。
 
 
 
[[嘉永]]4年([[1851年]])、会津へ赴く。文武を修め、追鳥狩を行い、[[日新館]]に至り文武の演習を閲す<ref name="p264">『松平容保』新人物文庫269/p264</ref>。
 
 
 
=== 会津藩主就任 ===
 
[[嘉永]]5年([[1852年]])2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主肥後守となる<ref name="nenpu_p7">『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/略年譜p7</ref>。
 
 
 
[[嘉永]]6年([[1853年]])4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る<ref name="nenpu_p7"/>。10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる<ref name="nenpu_p7"/>。
 
 
 
[[安政]]元年([[1854年]])10月3日、台命(将軍の命)により、駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる<ref name="p264"/>。
 
 
 
[[安政]]2年([[1855年]])10月2日、大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる<ref name="p264"/>。
 
 
 
[[安政]]6年([[1859年]])9月、品川の守備を解かれ、蝦夷地の守備を命じられる<ref name="nenpu_p7"/>。
 
 
 
=== 幕府水戸間の調停と幕政参画 ===
 
[[万延]]元年([[1860年]])、[[桜田門外の変]]が起こる。老中[[久世広周]]・[[安藤信正]]は[[尾張藩|尾張]]と[[紀州藩|紀伊]]に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手。家臣を水戸に派遣し[[武田耕雲斎]]・[[原市之進]]らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p5~p6</ref>。
 
 
 
=== 京都守護職就任 ===
 
[[文久]]2年([[1862年]])28歳
 
 
 
5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p6</ref>。
 
 
 
[[8月1日|閏8月1日]][[京都守護職]]に就任する。この時容保は時疫にかかって病の床にあり再三これを固辞した。容保は、「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命と藩祖の遺訓を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と、断り続けたが、しかし政治総裁職[[松平春嶽]]や幕臣達は日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p21~p23</ref>。
 
 
 
家老の[[西郷頼母]]、[[田中玄清|田中土佐]]らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。西郷・田中や家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p26~p27</ref>。
 
 
 
=== 幕府への建議書 ===
 
容保はまず、家老田中土佐、公用人等に先発させ、京の在任準備、情勢視察をさせた。国家混乱を治めるため目的は[[公武一和]](天皇と幕府が協力し国内の混乱を平定。その上で対外政策を取る)となり、そのため容保は幕府へ建議書を提出する。その内容は低頭謙虚な挨拶から始まり、天下の体制、朝廷の幕府への不信、上は孝明天皇の叡慮である鎖国、下は人民たちの主張の攘夷、これらを尊重しつつ、諸外国の長所を取ること、巨艦大砲の軍備の備え、などに至っている。孝明天皇が幕府と力を合わせることを望んでいることから、この時点で容保の考えは朝廷と幕府が力を合わせ(公武合体)、叡慮(天皇の考え)や世論は鎖国攘夷であるがこれを徐々に少しづつ開国に向かわせることとなっている。その上で次の対策を挙げている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p28~p33</ref>。
 
# 夷人の無礼や驕慢に毅然とした態度をとり、江戸府内の居住を制限する。
 
# すでに開港した三港(長崎・横浜・箱館)はそのままとし、その他の条約で定められた兵庫・新潟の開港と江戸・大坂の開市は延期するよう外国と交渉する。
 
# 朝廷より江戸へ下る勅使の待遇を改め、礼節をもって迎えること。
 
この容保の建白を幕府は採用し、開港を5年延期することに成功し、列国の公使館が品川の御殿山に新築され制限された。また、勅旨を携え江戸に到着した[[三条実美]]は好感をもって帰京し、[[孝明天皇]]はこの建議書の話を聞き「中正の卓見である」と嘉賞して喜んだ<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p34~p35</ref>。
 
 
 
=== 「言路洞開」と「策を用いるな」 ===
 
12月24日、会津藩兵を率いて上洛。この日は道の両側にその行列を見る市民が蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に本禅寺を休息所として旅装を礼装に改め[[関白]][[近衛]]邸にて天機(天皇の御機嫌)をお伺いし着任の挨拶をした。その後[[金戒光明寺]]に入った。この行動が折り目正しいと都人から好感と評価を得ることになった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p38~p39</ref>。
 
 
 
[[文久]]3年([[1863年]])29歳
 
 
 
1月2日、参内。小御所にて初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜う。「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔がある。これは前年に幕府へ意見した「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」に尽力した功であり、武士で御料の御衣を賜るのは古来稀有のことであった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p43</ref>。
 
 
 
2月、この頃容保は[[公卿]]の薄禄と窮乏の改善にも取り掛かっている。天皇家の御料は戦国以来旧習の定額にもかかわらず物価は何倍にもなり窮乏を極め、中には内職で生計を立てている者もいた。そこへ幕府の裕福へのねたみがあり、さらにはそこへつけいり利用する過激浪士がいたことから公武一和の障害となっていたためである。容保は天皇家の御料の見直しと定額制廃止を幕府へ建議する。孝明天皇の食卓にでる魚に関しても、食べられる品質のものではなく箸をつける素振だけすることが決められていた。それを聞いた容保は急ぎ大阪湾より新鮮な魚を直輸送し献上している。天皇は「これは肥後の魚か、これは肥後の魚か」と繰り返し、喜び、更にはほぼ魚の身を食べたというのに「次の食事の時に続きを食すのでそのまま出すように」と名残惜しんだという。
 
 
 
また、次に京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り暴徒の警戒を行った。この頃京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し治安の最も下がった状態にあり、日に2~3度は暗殺が行われその首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らない為、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出し発令し幕府へも建議した。しかしこの時[[徳川慶喜|一橋慶喜]]は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の[[轟武兵衛]]、長州の[[久坂玄瑞]]が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や[[松平春嶽]]は逮捕させようとしたが容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p44~p50</ref>。
 
 
 
2月7日、[[山内豊信]]の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して[[鷹司卿]]のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p52~p53</ref>。
 
 
 
2月22日、[[足利三代木像梟首事件]]が起こる。攘夷派浪士により[[等持院]]にある足利将軍三代の木像の首が引き抜かれ三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような兇暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命。
 
 
 
2月25日、すると過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。
 
 
 
以後治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい職の責任を重んじ尽くした<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p72~p76</ref>。
 
 
 
=== 孝明天皇の御宸翰 ===
 
3月、将軍家茂は[[和宮降嫁]]の御祝言上のため上洛。これに先立ち過激浪士たちはこれを妨ぐために伊勢奉幣使派遣を画策するが、容保はこれを事前に察知。未然に防ぐ。
 
 
 
3月10日、京壬生村の浪士残留組の差配を幕府より命じられ、[[近藤勇]]、[[芹沢鴨]]ら17名の浪士から会津藩へ嘆願書が提出される。12日には彼らを「会津藩お預かり」とする<ref>『会津藩庁記録』</ref>。
 
 
 
3月11日、過激派の企画により加茂社行幸が行われるが、容保、厳重な警戒により事なきを得る。家茂も行列に参加し、孝明天皇は将軍の頼もしさを語ったと容保は聞き、公武一和の成果に喜んだ<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p89~p90</ref>。
 
 
 
3月17日、この頃イギリスが横浜来航し[[生麦事件]]や[[英国公使館焼き討ち]]の賠償金を幕府に請求。応答によっては戦端が開かれそうな問題が発生。この混乱を理由に将軍家は江戸へ帰りたがり朝廷へ帰国を奉請した。これに容保は大いに驚き引き止めた。
 
「横浜の問題については、いよいよの際には代わりに後見職・総裁職に東下して頂き、それ以上に公武一和が重要であり将軍は京を離れるべきではない」として「天朝より御一和相整い、人心帰嚮するまでは長く御滞京あそばされ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州の治安の基本相立ち候よう。強いて御東帰あそばされては天朝に対しても御不都合の儀、深く心痛仕る儀に御座候。下は天下の人心を失い、救うべからざる事態に至るであろう」といっている。
 
 
 
賠償金問題に関して幕府は混乱し決定できぬ状況に陥り、慶喜は「今となっては攘夷と決定したので一文も払う必要なし」としたが容保は「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない。そもそも生麦のことはわが方に非があり相手はこれを責めているので理にかなったことである。攘夷にしても名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに要求を認め償い、しかる後に攘夷を決行すべきである」と、その由を朝廷に上奏した<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p91~p94</ref>。
 
 
 
この夜、将軍家を京に引留める勅旨が下ったが、その内容にあった「浪花港に英艦を引き入れ戦端を開き…」との部分に容保は不審に思い怪しんだ。のちに天皇自身から真勅が下り「浪花は帝都の要港。万一にも無謀な戦争はしないように。先の勅旨は朕の知らざるところ」と、先の勅旨が攘夷派の起こした偽勅であったことが判明した。また真勅には「万事幕府に委任する。なお滞京し諸侯を指揮するように。諸藩にもその指揮を受くべきと命ずる。公武一和は臆兆の安堵の基である。朕は特にこれに意を注ぐ」とあり、天皇は過激攘夷派を忌み嫌い憂いた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p96~p99</ref>。
 
 
 
4月11日、過激派の公卿の計画により石清水八幡宮への行幸が行われ、この時天皇を奪い将軍を暗殺するという噂が漏れたが、これもまた警戒を厳重にし事なきを得る<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p104~p105</ref>。
 
 
 
6月25日、京都守護職に江戸へ下るようにと勅命が下る。しかしこれは容保と会津藩を京から遠ざけるための過激派による偽勅であった。容保は八方に家臣を出したが状況をつかめず無駄に終わる。会津としては「今は公武一和の途上である。なぜこのような勅命が」と困惑した。孝明天皇はこの事態を大いに憂慮し決心する。宮廷の慣例を破る手段であるが、前関白を通じ容保に直接手紙を届けさせた。これが天皇直筆の御宸翰である。容保は衣冠束帯で文箱をおしいただき、内容には「今、守護職を東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。朕はもっとも会津を頼りにしている」とあり、容保は君恩の深さに哭きつづけ頭を上げることが出来なかった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p160~p166</ref>。
 
 
 
7月30日、建春門外にて藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に供す。孝明天皇は非常に楽しみにしていたが、3日程雨が続き、はじめ過激派公卿は「雨天順延」の命を出しておきながらが急に叡覧の命を出し会津の狼狽や不備をさらし容保に恥辱を与えようとしたが、会津は準備一つもかけることなく大軍の操練をした。天皇はこれを褒めたため(「いささかの差支えもなく、かねて武備充実、行届き候段、実に頼もしく」との恩賜)、8月5日、再度天覧に供した。終わったあと容保は天皇の御車寄に召され叡感の詔を賜る。
 
京都守護職時代の容保の写真はこの日のものである。天皇より賜わった緋の御衣にて作られた陣羽織を着ている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p181~p183</ref>。
 
 
 
この間、江戸へ帰りたがる将軍家やその首脳陣を引き留めるために家臣を奔走させている。容保は「国内を一つにまとめるのが先決。さすれば外交方針が一定し人心の不安は自然と鎮静することができる。目先の横浜問題は枝葉のことである」と考えたが幕府には伝わらず大いに困らされている。容保はこの先も京の政局において、伝わらぬ幕府と過激な攘夷派とに困らされ悩まされ続けていくことになる。のちに家臣[[山川浩]]は当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほどであった」と書いている。
 
 
 
=== 八月十八日の政変 ===
 
8月13日、[[大和行興の詔]]が発せられる。しかしこれは[[真木和泉]]による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗・武器を準備し、有力六藩に対し軍用金を醵出させる勅命(偽勅)も発せられる。容保は驚愕し、急ぎ公武合体派の[[中川宮]]に奏請。近衛前関白・二条右大臣の賛成を取り付ける。
 
 
 
8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。同日、孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が下る。
 
 
 
8月17日夜半、会津、薩摩、その他四藩にて御所九つの門を固め、翌朝事態に気づき出動した長州藩との激論にらみ合いになる。
 
 
 
戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は三万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何万居ようと我等会津の精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。結果、[[七卿落ち]]となり、謹慎蟄居を命じられた三条実美を始めとする過激攘夷派の七卿は逃亡し京から離れた。
 
 
 
8月19日、休まず御所を守護していた容保へ孝明天皇は特にその労を思し召され「引いて休むように。黒谷では遠いので施薬院を仮の住居にあてよ」とされた。それから容保は毎日参内ししばし朝議にも参画し、時には徹夜になるなど万一に備え力をつくし報じた。
 
 
 
8月26日、過激派公卿や浪士から「十八日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは中川宮、肥後守などの奸臣が勝手に作った偽勅である」との宣言があり、これに悩まされた孝明天皇は「十八日以前の勅命は預かり知らぬ。今後の勅命こそ真の朕の存意に候間、諸藩一同にも心得違いあるべからず」と発した<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p184~p209</ref>。
 
 
 
10月9日、孝明天皇より宸翰ならびに御製二首を賜る。(後述)「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難く、その方へ内命を下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦の余り…」と天皇は容保の忠誠を称えた。
 
 
 
10月11日、朝廷より将軍家の再度上洛の勅書が容保に伝えられ、家臣[[小室当節]]にこれを持たせ東下させたが幕府は鎖港商議を理由に辞退。
 
 
 
10月29日、さらなる将軍家上洛の勅書を賜る。容保は「公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第」と建言を添え家臣[[柴田太一郎]]にこれを持たせ、さらに詳しく書面を老中に送って早急な上洛を勧めた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p212~p214</ref>。
 
 
 
11月29日、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]、[[松平春嶽]]らとともに朝議参与を命じられる。しかしこれはもともと容保の素志ではなく、また、伝奏・議奏と相対峙し政令が二途に出るという弊害が生じたために翌年の3月には辞退<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p219</ref>。
 
 
 
12月15日、[[公武合体]]派の中心である[[中川宮]]は天皇の厚い信認を受けていたが、浮浪の徒がこれを除こうと策を按じ「中川宮は関東の兵力を利用し天位につく野心がある」と流言した。容保は「このような児戯は天皇の心を動かすに足らない」と知ってはいたが、噂の力を恐れ書を奉っている。「宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら社稷に換え死を誓って奏上し奉るべく候」<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p219~p221</ref>
 
 
 
12月、この頃、孝明天皇の島津へ残している手紙から天皇の意思と方向性が確認でき、容保と天皇が意思疎通させていたことがうかがえる。以下宸翰より抜粋。
 
:一つ、攘夷の一件、今更申すまでもなく、神明神州に盟って皇国の輝照を汚穢せず、永代限りなく万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争に相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。
 
:一つ、関東への委任と王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。深く心得もらいたく候。
 
:一つ、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。
 
:一つ、八月十八日脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、従来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、きっと厳重の所置に致したく存じ候。なにぶん大胆の輩ゆえ厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p221~p227</ref>。
 
 
 
12月30日、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]、[[松平春嶽]]らとともに朝議参与を命じられる。
 
 
 
=== 一統の一和を懇望 ===
 
[[元治]]元年([[1864年]])30歳
 
 
 
1月21日、将軍家の参内に病をおしてこれに従う。孝明天皇より将軍家茂に勅を賜る。この勅には国内の現状を憂う心情や将軍家茂を信頼し依頼し、容保など公武合体派の藩主達と協力して事に計るようにと書かれている。以下抜粋「上下の解体、百姓の苦しみ、瓦解土崩の色をあらわし、これを思いて夜も眠れず。朕は汝を愛す。汝も朕を愛せよ。その親睦の厚き薄きが天下挽回の成否に関係す。無謀の征夷はじつに朕が好むところにあらず。然るゆえんの策略を議して朕に奏せよ」<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p6~p10</ref>
 
 
 
2月8日、孝明天皇より「[[深秘の宸翰]]」が届けられる。これはこの日の夜、[[野宮定功]]が来て「容保つねに和歌を好む由が天皇の耳に入り、特別に御製を数首送る」と、一封の書を渡して帰っていった。感激した容保が開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「極く密々に書状を遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦の到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方の忠勤、深く悦服、深く頼みにしています…」といった調子で書かれた長文の手紙で、「密々の面会も難しいので手紙にて…」といって別紙に細々と容保に依頼するところを述べ、「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p13~p17</ref>。
 
 
 
2月10日、上洛以来の功により5万石を増封される<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p17</ref>。
 
 
 
2月11日、陸軍総裁(のちに軍事総裁と改め)に任じられる。これは長州征伐のための転任であり京都守護職には[[松平春嶽]]が任命された。するとさっそく天皇から手紙が届き「容保が京都守護職を辞めるのははなはだ残骸の至り」と残念がり、慶喜からは「天下のことには替えられません」と言われても天皇は「それにしても守護職を免じる話は深く残骸に候」と繰り返し残念がり、「長州の件が済めば戻ってくれるだろうか、そのように周旋できないだろうか、春嶽に相談してみようか」と迷いつつも、本当に容保に頼り切っている有様が手紙の行間に溢れている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p18~p29</ref>。
 
 
 
2月12日、参議就任の詔があったが容保はこれを辞退。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖[[保科正之]]公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日に重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。これにより保科正之に従三位が追賞された。
 
 
 
2月16日、病の容態悪く、辞退したが幕府より召命がしきりに下るので、やむをえず抱きかかえられながら二条城に登り、その際家茂手ずから備前秀光の刀を賜り、守護職の労を労い「現職の軍事総裁も勉励するように」と命じられる。しかしこれより病状は悪化。この後数十日の間起き上がることも出来なくなる。
 
 
 
2月18日、会津国元の重臣たちに自身の親書を届ける。この親書には京都の現状の報告や、会津領内民衆の困窮を心配する容保の心情、「会津も海軍を持つように、財政のやりくり、倹約には特に気をつけるように」など、今後の方針や国元の方針などが細かく書かれ「繰り言ながら…頼み入り候」と念を押して依頼している。またこの親書に天皇より将軍家茂に賜った年始の勅諚の写しを付けて、「この書状、江戸藩邸・蝦夷領内・国元領内、士分以上のものには漏れなく見せ、それ以下、領民に至るまで下々にも本文の趣意を見せ、また聞かせるように」と依頼し、会津の気持ちを一つにと願う容保の心情が伺える<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p31~p33</ref>。
 
 
 
2月24日、幕府からの命により会津の兵制を革新。軍備更張し西洋式を伝習。
 
 
 
2月28日、家臣[[小室当節]]、[[秋月胤永]]らに命じて摂海の砲台築造工事を監督。この日容保は職の辞退を願い出る。病の身で寝たきりのまま職を全うできず時を過ごすことを恐れたためであり、同時に時事の意見を建議した。しかし幕府は慰め諭し許さず。また、この頃、会津の家臣達は容保が慶喜の指揮を受けることについて「これが実に難儀、切に憂慮である」と心配している<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p34~p39</ref>。
 
 
 
4月7日、京都守護職に復職。復職の要望は天皇始め幕府内にも多く、[[板倉勝静]]からは「当時の急務は肥後殿の復職」、[[徳川茂承]]からは「皇国の安危に関係仕り候」とあり、[[新選組]]に至っては春嶽の支配下を嫌がり容保の下で働きたいと願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。
 
 
 
しかしこの頃には病が重く、食物は喉を通らず衰弱甚だしく、医者も手をこまねいて術の施しようがなかった。家臣たちは皆呆然として明日はどうなるかと憂慮するのみで、家臣達から「天朝と幕府の寵命は感銘にたえないけれども、真にいかんともすることもできない」として職の辞退の書面を呈した。書面には「たとえ家来ども力を合わせて周旋仕らせ候とも、行き届き候見込みこれなく、かえって公辺御為筋に相成らず」とある。
 
 
 
4月14日、幕府から命があり辞職は許されず。
 
 
 
4月17日、事務の渋滞を恐れて重ねて辞職を願い出る。「心外千万ながら何とも致し方御座なく候」
 
 
 
しかし幕府は懇切にさとして、あえて願いを聞こうとしなかった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p40~p49</ref>。
 
 
 
4月21日、容保は朝廷より賜った横浜鎖港と長門藩処置についての勅諚を見て、「慄然として痛心にたえず、絶命重大、病気保養している時ではない、むしろ職に斃れて祖宗に報ずべきだ」と決意。守護職の命を拝した。
 
 
 
4月28日、天皇の将軍家への恩遇は厚く公武一和が結ばれつつあったが、参与となった雄藩諸候と幕府有司との間に溝があり容保を困らせた。幕府有司としては旧来の権威にこだわり、諸侯の声望が上回るのを恐れ参与の連中を嫌悪し、幕府の不利を謀るもののように疑い、権威の失墜を恐れた。参与もまた幕府有司の大勢に暗いことを侮り、有司の意見を退けることが多く、このため大議の度に議論の場は紛然とした。これにより幕府側は江戸への帰国を謀り、将軍家東帰につながった。国内の安定を願った容保は愕然痛嘆するばかりであった。
 
 
 
5月6日、将軍家は東帰の途に就き、容保は続けて京を任された<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p50~p55</ref>。
 
 
 
=== 蛤御門の戦い ===
 
6月5日、[[池田屋事件]]起こる。配下の[[新選組]]が京都の大火を未然に防ぎ、容保の暗殺も阻止した。
 
 
 
容保は将軍家に人材の登用を勧め、先に賠償金問題で職を引いていた[[小笠原長行]]など有能な諸有司の名を上げ力を合わせるようにと書面にしたためた。「いずれも長ずるところこれある人物に候間、国家の急を重んじ、銘々の存意を張らず、一致一和にて合力致し候よう、直に仰せ付けられたく存じ奉り候」<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p70~p71</ref>
 
 
 
6月27日、長州兵襲来の気配アリとの知らせが入る。容保は隊を従え参内。守護し奉るようにと詔をたまい兵を九条河原まで向かわせた。
 
 
 
6月29日、孝明天皇より宸翰が守衛、総督に伝わる。「昨年八月十八日の議、且つその後申し出候件々、真実に候。偽勅との風説これあり候えども必々心得違いあるまじきこと。守護職の議、肥後守へ申し付け候、同人忠誠の周旋、決して私情をもって致し候にてはこれなく、その旨心得べきこと。長州人の入京は決して宜しからざること」
 
 
 
7月6日、数日の間撤兵を勧告したが長州兵は従わず、容保は「長州人の主のために哀訴しようというのは臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵で禁裏に迫るのは実に不臣も甚だしきもの。再び諭して、もし応じなければすみやかに掃蕩すべきである」としたが慶喜は「おだやかに事を運ぶに越したことはない。追討のことはやむをえないという時になってからで遅くはない」と意見が割れた。これをみて会津兵と新選組の面々が「慶喜卿が優柔不断で大事を誤る」と憤り、慶喜の屋敷に直談判しようと乱入する事件がおこる。これには会津の首脳や新選組組頭らも鎮撫に方法がなく、容保に急使を馳せて奉じ、容保が[[外島義直]]を出して諭し、ようやく事なきを得た。
 
 
 
7月18日、長州兵より送戦状が届く。内容には「肥後守はその性剛腹にて庸劣、名分等を相弁えず、神州崩裂の勢を醸し候はまったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、国賊を誅除仕り候ほかは御座あるまじく、尋常に天誅を請け候よう」とある。
 
 
 
7月18日夜、[[禁門の変]]([[蛤御門の戦い]])起こる。容保は玉座を守護し奉ろうと常御殿の廊下まで進み孝明天皇に拝謁。そこで天皇へこの騒動に至った止むをえぬ事情を奉り「数刻で沈めます。どうかご心配なさらぬよう」と述べた。天皇はこれを諒承。容保は小御所の庭に席を設けて宿衛し天皇を守った。もともとこの半年程前から病にて伏せていた容保はこの日も両肩を家臣に抱えられながらの戦となり、庭上での露営は徹宵すること数夜に及び病は悪化した。
 
 
 
7月24日、京の地がようやく静まり幕府方の宿衛を免じたが会津の兵は尚も禁門を守り、朝廷から容保と会津兵へ連日の宿衛をねぎらい御饌を賜わる。また、この戦において起きた六角獄舎の悲劇について容保は後になってこれを聞き、大いに憂い厳しく町奉行らを戒めた。
 
 
 
容保はこの時「公武一和の基礎を作ろうとするならば、戦勝の余威に乗じて将軍家自ら進発して征長の任に当り、一挙に長防を破り、傾きかけた幕府の威信を張るに如くはない」として関東の幕閣に建議書を送った<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p68~p98</ref>。
 
 
 
=== 征長問題 ===
 
8月2日、将軍家上洛を促すため家臣[[野村直臣]]、[[広沢安任]]を江戸へ派遣。しかし老中の人々からは謁見の許しも出ず。
 
 
 
8月19日、容保は再び書面にて関東に提出。「…なにとぞ一刻も早々御進発あそばされ候よう仰望奉り候。万一御遅延に相成り候ようにては、自然気勢相弛み、顧慮、傍観の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速を貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に御進発…」
 
 
 
8月28日、江戸へ派遣中の家臣[[柴太一郎]]よりの報告には「着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて未だ閣老方へ拝謁も仕らず、遂に激論に及び候えども、いつも空しく帰り候次第。せっかく諸藩憤発候とも瓦解の懸念あり」<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p100~p106</ref>
 
 
 
9月2日、容保の病気を心配した[[孝明天皇]]より「天下多事の今日、一日も早く全快するよう」と内々に煎薬と菓子を賜わる。
 
 
 
9月5日、[[孝明天皇]]より[[禁門の変]]の戦功として勅賞と御剣を賜わる。
 
 
 
9月6日、[[孝明天皇]]は内侍所へ出向き容保の病気が早く治るよう祈り、その洗米を容保は賜わる<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p110</ref>。
 
 
 
9月17日、将軍家進発は幕府の死活に関わると考える容保は、老中の人々が形勢にうとく征長を重要視しないことを深く憂え、将軍[[徳川家茂]]に直に書を奉った。以下抜粋「…禁門へ発砲致し候程の者を御征伐のための御進発御遅緩に相成り候ては、天朝御尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して勇躍奮起仕り諸藩も追々瓦解致すべく、中興の御大業いかがあらせらるべきかと…」
 
 
 
しかし、江戸にある会津の重臣からの知らせにも「昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子もいちじるしく相見えざる段、当惑の事に候」とあり、「あまりに迫って申し上げたら閣老方にもっとも嫌われ、目付にも嫌な顔をされる」とまで言っている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p112~p118</ref>。
 
 
 
10月25日、[[孝明天皇]]より短刀と勅状を賜る。「国家のためじつに励忠、出格の廉、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事」<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p120~p121</ref>
 
 
 
10月29日、朝廷では「将軍家へ再三長州征討の勅命を下しているのに未だその様子もない。もはや専命の勅使を将軍家へ発するほかはない」と朝議にて決定。容保はこれを聞き「しかしながらそれにては将軍家の御威光が立たず」と、勅使を引き留めるよう願い出、再度将軍家へ親書を奉る。「この上御延引に相成り候ては勅使いよいよ差し下され候」
 
 
 
しかし幕府内では財政難や士気の低下などから、互いに責任転嫁し、軍勢を見せれば降伏するだろうという、旧態依然の権威に捉われた風潮のままであった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p120~p134</ref>。
 
 
 
12月27日、容保の意に反し征長総督[[徳川慶勝]]が解厳の令を発し、長州攻めの陣払いを命じる。
 
 
 
[[元治]]2年([[慶応]]元年・[[1866年]])31歳
 
 
 
1月4日、[[徳川慶勝]]から朝廷へ[[毛利敬親]]父子伏罪の状を上奏。よって長州の処置のために、朝廷より将軍家へ再度上洛を要請。しかし幕府では「ひたすら悔悟、伏罪致し、長防共に鎮静したならば上洛の必要はない」とした上に、「毛利父子、三条以下脱走公卿を江戸へ護送せよ」と命じるなど勅に反した。一方、朝議では諸大名を召して意見させようとした。
 
 
 
容保はこの状況を見聞し憂悶に絶えず「幕府有司達が朝旨を顧みず、みだりに旧態の権威に依存し得意になっている迷夢は厳しく警告し覚まさなければならない。と同時に、朝議もまた、先に幕府に政治を委任すると聖詔を出しておきながら今また勅を下し諸侯を召さば、政令が二途になり物議紛乱を招くだろう。幕府有司の京の事情に暗いことは、遂には朝令に反し、結果、公武の間の不協和をきたすこと図り知れない」として、諸侯を召す命の延期を請い、同時に幕府の有司の無経験を陳弁。そして「みずから江戸へ出向き、天皇の真意をよく説き諭し、将軍家と相携え速やかに上京する」旨を内奏。許可される。
 
 
 
1月、幕府より[[阿部正外]]と[[松平宗秀]]が上京。二名に京の情勢や上洛征長の重要性を説き、正外が将軍家上洛の任に、宗秀が大阪にて征長のことにあたることになり、これにより容保の東下は見送られた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p136~160p</ref>。
 
 
 
4月28日、召により参内、[[孝明天皇]]に拝謁し、病気快癒について優渥な恩詔を賜る。容保は感泣してこれを拝した。
 
 
 
5月22日、将軍家入京。将軍家へ征長の勅書を伝えられる。容保も参内し迎え入れる。
 
 
 
閏5月24日、将軍家は[[二条城]]を発して[[大阪城]]へ。容保も28日大阪に至り一心寺に館を決め日々登城する。
 
 
 
6月15日、帰京。
 
 
 
9月1日、京の官邸が完成しここに移る<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p166~p168</ref>。
 
 
 
10月2日、老中[[小笠原長行]]らが突然伏見まで来て何かを上奏しようとしていることを聞き、容保が馬を飛ばし駆け付け「何事か」と問うと、「一つは兵庫開港の勅許、一つは将軍職を慶喜卿にゆずることの奉請である」と答えた。その様な重大事を慶喜や自分に説明も相談もなく朝廷へ奉じようとしたことに容保も家臣も茫然自失した。この日この件が将軍家から上奏される。
 
 
 
10月3日、将軍[[徳川家茂]]が大阪を発して東帰すると報告が入る。容保は愕然として立ち上がり「今将軍家が東帰すれば大事はことごとく去る。引き止めねばならぬ」として馬を飛ばした。「陸路である」「海路である」など、定まらぬ情報が飛び交う中、[[淀]]橋・[[伏見]]を駆け回り、ようやく翌日未明に伏見にて家茂に拝謁。容保は「開港の事は天皇へ至誠を尽くして情勢を説明し奉請すれば必ず理解頂ける。また、征長を中途にして東帰すればたちまち天下の人心を失いこれを挽回するのは不可能である。願わくば[[二条城]]にて朝旨を奉じ庶績を上げるように」と再三申し上げ、家茂もようやく心を開き東帰を取りやめた。
 
 
 
10月4日、条約勅許を奉る。
 
 
 
10月5日、容保は家臣を諸藩に遊説させ遂に十余藩の会議に持ち込み、開港の勅許をえることに成功。容保は守護職就任してからこれまで、攘夷の不可能なことを知りながらも天皇の意思が攘夷であったことから、心中では天皇の意思が変わることを望みながらも謹んで天皇に奉従してきた。この日、初めて条約問題は解決した<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p170~p182</ref>。
 
 
 
12月22日、西国視察に出た[[近藤勇]]から「長州は表向きは謹慎恭順しているが裏では戦闘の準備を進めている」との報告<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p183</ref>。
 
 
 
[[慶応]]2年([[1866年]])32歳
 
 
 
1月に幕府では長州処分を「十万石取り上げ」と決まり朝廷においても裁可されたが、長州ではその命を奉じず備中倉敷などで挙兵の行動に出たために幕府軍が進発。6月には戦端が開かれた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p184~p194</ref>。
 
 
 
7月20日、将軍[[徳川家茂]]が[[大阪城]]で病死。容保は哀痛の情の中であったが、情勢は一変し、薩摩藩は挙動を変え、征長軍と長州の戦闘は敗報がしきりに続いた<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p194~p202</ref>。
 
 
 
7月22日、薩摩藩が幕府の失体を条挙し長州の救解を上奏。容保は奮然として「長門藩兵が勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば京の薩摩兵は必ずこれに応じるであろう。しからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。座して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない。すなわち京師の守護を所司代に譲り、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、慶喜卿は山陽道の軍を監督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も軍気を挽回することができよう」として、慶喜や老中に出征を催促した。しかし慶喜は「肥後守が京から離れれば朝議がたちまち一変する恐れがある」としてひたすらに許さない<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p204~p205</ref>。
 
 
 
8月11日、更に続く敗報に慶喜は休戦の評議にかかる。容保は大いに不可として慶喜と争ったが容れられず。
 
 
 
容保は書簡を呈する。以下抜粋、
 
:一つ、将軍家御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せ付け、粉骨をつくし藩あり、城を失いし藩あり。しかるに今に至り、筋道に反していない幕府側が解兵を言い出せば、上は天朝、中は諸侯、下は万民への信義立たせざること。
 
:一つ、奉命尽力の諸藩を見殺しなされ武道筋に於いていかがこれあるべきや。
 
:一つ、違勅をもって賊名負いし者に、再勅出しては、義賊分明せず。忠否乱れ、天下の耳目違乱致し事。
 
:一つ、長州が休戦に応じず勢いに乗じ押し寄せるに至りては、一度惰気に相成り人衆の奮発、これあるまじき事。
 
:一つ、これまで天幕の命に応じ攻めかかり諸藩へ長州より報復致し候わば、いかがいたすのか。
 
:一つ、天前において仰せ立てられ件々にことごとく相反し、節刀をも賜り、申訳これなく。勅諚を改めとなってはこれまでのことも皆偽勅と相成り申すべき事。
 
 
 
しかし慶喜も老中も容保の意見は聞かず、容保はただただ慨嘆するのみであった<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p205~p206</ref>。
 
 
 
10月17日、容保は「中納言(慶喜)は京に於いて内外諸制の革新を実行に移す。不肖、守護職が嘱望を集めて対立するようなことがあっては新立の将軍家にとって有害であろう」として守護職の辞職を申請。しかし老中より却下される。この間、過激派公卿が勢い付き巻き返しを図り、二条殿下・中川宮を威嚇し辞職に追い込むよう画策し、また、八一八の政変の際に追放された公卿の復権など上奏したが孝明天皇の怒りに触れ退けられている<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p208~p219</ref>。
 
 
 
12月25日、[[孝明天皇]]が突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義を尽くしてきた二人を続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥の聖詔が髣髴として今なお耳にあり、当時を追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している<ref>『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p225~p226</ref>。
 
 
 
=== 鳥羽・伏見の戦い ===
 
[[慶応]]3年([[1867年]])2月12日、容保は辞表を提出。この頃会津藩士達の幕府への怒りは怫然として高まる。以下は抜粋「いったい幕府は先帝の叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力の発揚もできず、尽言を進めても採用もしない。わが公に大政に参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた。天恩の万分の一は報い宗家への義務も尽くした。藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土に帰る、今が時期である」との気運が怫然とした。容保は重臣を集め、「国に帰ろう」と言い、重臣等は一人も異議はなかった。しかし所司代[[松平定敬]]、老中[[板倉勝静]]らは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。2月13日、幕府より「将軍家に代わり征長の解兵を奏上せよ」と命じられるが容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退{{sfn|山川|1930|loc=下巻|pp=236-238}}。
 
 
 
4月8日、幕府へ書面にて賜暇を申請。「昨年国元大火にて城下の過半焼失し、加えて非常の凶作にて四民飢餓離散の程、千万心配仕り候。止むをえざる都合、御察し御許容なされ候よう相願い候」しかし帰国の件は何かと引き伸ばされ、やがて政変に際し実現せずに終わる{{sfn|山川|1930|loc=下巻|pp=243-244}}。
 
 
 
4月23日、朝廷より勅を賜り参議に就任。この勅は元治元年2月に一度辞退しているが、勅には「先帝の叡慮を尊奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず」とあり、また「再度の推任であるから固辞は許さない」とあり、重臣達からも「先帝の叡慮云々とあり、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」として5月2日にこれを受けた{{sfn|山川|1930|loc=下巻|pp=245-246}}。
 
 
 
10月、慶喜より大政奉還の意中を聞き、容保はその英断を賞揚。10月14日、15代将軍・[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を上表、[[江戸幕府]]が消滅。同じ日に出された「[[討幕の密勅]]」には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書も出されていた。12月8日、朝議にて長州藩の罪が許され毛利家の官位が復旧。12月9日、王政復古の詔勅下る。この勅をもって守護職は廃止された。蛤御門の守衛も解かれ土佐藩が代わった。朝廷から幕府へは「大政奉還の至誠を嘉賞し天下と共に同心して皇国を維持するように」とあったが会津など幕府側は政権からは疎外され朝議があっても参加させず、実権を握った諸藩士や過激の徒は公卿を誘惑して会津を仇敵視しされた。会津藩士達は憤慨し「君辱しめらるれば臣死す、という言葉があるが今がその時である」と一触即発の気勢を見せたために容保は家臣をなだめ諭した。しかし長州兵が入京するにおよび会津藩士の憤慨は度を高めた。慶喜は容保、[[松平定敬]]を従え二条城より大阪城へ移る{{sfn|山川|1930|loc=下巻|pp=255-274}}。
 
 
 
[[慶応]]4年([[1868年]])1月3日、慶喜、京師の奸を除かんとして大阪を出発、[[鳥羽・伏見の戦い]]が勃発する。旧幕府軍が敗北。
 
 
 
1月6日、[[大坂城|大坂]]へ退いていた慶喜が戦線から離脱し夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命によりこれに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)であるが、容保にとっては大切な家臣達を戦場に残し逃げる形となってしまう。家臣誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の[[開陽丸]]に連れられたという<ref>『昔夢会筆記』</ref>。
 
 
 
2月4日、容保は大阪脱出の責任を取るために藩主を辞任し家督を養子である喜徳に譲る。2月15日、容保は藩兵全員を江戸の和田倉邸内に集め鳥羽伏見戦争における奮戦を慰労、同時に自身の大阪城脱出を大いに恥じて謝罪。会津を回復したいと藩士を励ました。
 
 
 
2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も会津の人間のほとんどが江戸を後にした。2月22日、会津に到着。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の二方向へ動く。
 
 
 
3月、奥羽鎮撫総督[[九条道孝]]は参謀[[世良修蔵]]らとともに東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命ず。4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られてしまう。横暴な態度が目立ち奥羽の反感を買った世良は仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不可避となった。
 
 
 
=== 奥羽越列藩同盟 ===
 
5月、東北諸藩34藩からなる[[奥羽越列藩同盟]]が成る。
 
 
 
7月、13日に[[磐城平城]]、26日に[[三春藩]]、29日に[[二本松城]]、29日に[[長岡城]]が落城する。
 
 
 
=== 会津戦争 ===
 
8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出し守備に付かせていたが石筵口である[[母成峠の戦い]]にて東軍が敗れ、西軍は破竹の勢いで進行した。
 
 
 
8月22日、容保、[[滝沢本陣]]にて宿陣。戸ノ口原の守備を固めるため[[白虎隊]](士中二番隊)もここより出陣。8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入。城下の戦いと籠城始まる。これより一ケ月余りの長い籠城戦の中で会津藩の家臣達は婦女子や子供に至るまで戦い、又は自決をし、会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生んだ。[[西郷頼母]]の家族に代表される婦女子の自刃は140家族239名にのぼり、白虎隊の飯盛山での自刃、[[中野竹子]]ら[[娘子隊]]の戦いなどがおこり、その他多くの会津藩士が胸に辞世の句を入れるなどして戦った。対する西軍は32藩からなり大砲100門、3万ないし4万人に上り城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた。
 
 
 
9月22日、会津藩降伏。鶴ヶ城開城。容保は[[妙国寺 (会津若松市)|妙国寺]]へ移される。10月19日、容保、会津を発し東京へ護送、池田邸に永預けとなる。
 
 
 
=== 戦後 ===
 
[[ファイル:Katamori Matsudaira 3.jpg|thumb|200px|晩年の容保]]
 
明治2年([[1869年]])5月18日、家老[[萱野長修]]、戦争責任を一身に負い自刃。6月3日、容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。11月4日、容大に家名相続が許され華族に列し子爵を授かり、陸奥の国3万石の支配を命じられる。12月7日、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。
 
 
 
明治3年([[1870年]])5月15日、容大が[[斗南藩]]知事に任じられ、青森県[[五戸]]へ向かうこととなる。
 
 
 
明治4年([[1871年]])、容保も斗南藩預け替えとなり、7月~8月の約1カ月間田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。
 
 
 
明治5年([[1872年]])1月、蟄居を許される。
 
 
 
明治13年([[1880年]])2月、[[日光東照宮]]の[[宮司]]に任じられる。3月、[[上野東照宮]]祠官を兼務し保晃会会長に就任。6月、[[土津神社]]の祠官を兼務。
 
 
 
明治26年([[1893年]])12月5日、東京小石川の自邸にて[[肺炎]]のため薨去。享年59歳。神号は忠誠霊神。
 
 
 
=== 死後 ===
 
[[昭和]]3年([[1928年]]・[[明治維新]]から60年目)、[[秩父宮雍仁親王]]([[大正天皇]]第2皇子)と[[雍仁親王妃勢津子|松平勢津子]](容保の六男・[[松平恆雄|恆雄]]の長女)の婚礼が執り行われた。[[会津松平家]]と[[皇族]]の結婚は、[[朝敵]][[会津藩]]の復権であると位置づけられているといわれる。
 
 
 
== 官職および位階等の履歴 ==
 
※日付は明治4年までは旧暦
 
* [[天保]]6年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]、[[美濃国]][[高須藩]]主・[[松平義建]]の六男として[[江戸藩邸]]で誕生。
 
* [[弘化]]3年([[1846年]])
 
** [[4月27日 (旧暦)|4月27日]]、[[陸奥国]][[会津藩]]世子となる。
 
** [[12月16日 (旧暦)|12月16日]]、[[従四位|従四位下]]・[[侍従]]兼[[若狭国|若狭守]]に叙任する。
 
* [[嘉永]]5年([[1852年]])
 
** [[2月25日 (旧暦)|閏2月25日]]、藩主となる。[[肥後国|肥後守]]に転任。侍従如元。
 
** 12月16日([[1853年]][[1月25日]])、[[近衛府|左近衛権少将]]に転任する。肥後守如元。
 
* [[万延]]元年([[1861年]])[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]、左近衛権中将に転任する。肥後守如元(以後、会津中将の称が生じる)。
 
* [[文久]]2年([[1862年]])[[8月1日 (旧暦)|閏8月1日]]、[[京都守護職]]に補任。[[正四位|正四位下]]に昇叙。
 
* 文久3年([[1863年]])[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]、朝議参与に補任。
 
* 文久4年([[1864年]])
 
** [[2月11日 (旧暦)|2月11日]]、京都守護職を免じ、[[陸軍総裁|陸軍総裁職]]に補任。
 
** [[2月12日 (旧暦)|2月12日]]、[[参議]]に補任されるも固辞。
 
** [[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[3月20日]])、軍事総裁職に転職(陸軍総裁職の名称変更による)。
 
** 改元して[[元治]]元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]、朝議参与辞職。
 
** [[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[5月12日]])、軍事総裁職を免職。
 
** [[4月22日 (旧暦)|4月22日]]、京都守護職に復職。
 
* [[慶応]]3年([[1867年]])[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]、参議に補任(以後、会津宰相の称が生じる)。
 
* 慶応4年([[1868年]])
 
** [[1月10日 (旧暦)|1月10日]]、解官。
 
** [[2月4日 (旧暦)|2月4日]]、致仕。藩主の地位を降りる。
 
** [[2月8日 (旧暦)|2月8日]]、登城禁止処分となる。
 
** 改元して[[明治]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]、[[因幡国]][[鳥取藩]]に幽閉。
 
** [[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、鳥取藩に永預り処分となる。
 
* 明治2年([[1869年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、[[紀伊国]]和歌山に遷される。
 
* 明治4年([[1871年]])
 
** [[3月14日 (旧暦)|3月14日]]、[[陸奥国]][[会津藩#斗南藩|斗南藩]]に預替となる。
 
** 8月、東京に移住。
 
* 明治5年([[1872年]])[[2月14日]]、預り処分を免ずる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[11月1日]]、[[従五位]]に叙位。
 
* 明治13年([[1880年]])
 
** [[2月2日]]、[[栃木県]][[日光市]]山内鎮座の[[日光東照宮]]宮司に就任する。
 
** [[3月13日]]、[[東京都]][[台東区]]上野鎮座の[[上野東照宮]]祠官を兼務する。
 
** [[5月18日]]、正四位に昇叙。
 
* 明治17年([[1884年]])、日光東照宮宮司並びに上野東照宮祠官を免職。
 
[[ファイル:KatamoriGrave.jpg|thumb|250px|容保の墓]]
 
* 明治20年([[1887年]])
 
** 9月、日光東照宮宮司に復職。栃木県日光市山内鎮座の[[二荒山神社]]宮司も兼務する。
 
** [[12月6日]]、[[従三位]]に昇叙。
 
* 明治21年([[1888年]])、東京府皇典講究所監督を兼務。
 
* 明治22年([[1889年]])、栃木県皇典講究所監督を兼務。
 
* 明治26年([[1893年]])
 
** [[9月22日]]、二荒山神社宮司辞職。
 
** [[12月4日]]、[[正三位]]に昇叙。
 
** [[12月5日]]、薨去。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1887年]](明治20年)[[12月26日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。</ref>
 
 
 
== 家系 ==
 
[[ファイル:Takasu quartet.jpg|right|250px|thumb|高須四兄弟(明治11年9月撮影)<br/>左から定敬、容保、茂徳、慶勝]]
 
[[File:Nogi and Stessel.jpg|right|250px|thumb|[[水師営]]の会見 後列左4人目が五男の英夫、中段左2人目が[[乃木希典]]]]
 
* 父母
 
** 父:[[松平義建]]、母:千代([[古森義孝]]娘)
 
** 養父:[[松平容敬]](義建の実弟)
 
* 兄弟姉妹
 
** 弟:[[松平義勇]]
 
** 異母兄弟:[[徳川慶勝]]、[[松平武成]]、[[徳川茂徳]]、[[松平定敬]]
 
** 義姉:[[松平照|照姫]] - [[奥平昌服]]室、1854年に離縁
 
* 正室
 
** 敏姫(宝鏡院) - [[松平容敬]]娘<!--1843-1861-->
 
* 側室
 
** 佐久 - [[田代孫兵衛]]娘<!--1847-1920-->
 
** 名賀 - [[川村源兵衛]]娘<!--1844-1909-->
 
*子女
 
**男子
 
*** 長男・[[松平容大]](母:佐久) - 陸軍騎兵大尉、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員<!--1869-1910-->
 
*** 次男・[[松平健雄]](母:佐久) - [[伊佐須美神社]]宮司<!--1873-1927-->
 
*** 三男(母:名賀) - 1874年生、夭折
 
*** 四男(母:名賀) - 1874年生、夭折
 
*** 五男・[[山田英夫 (伯爵)|山田英夫]](母:佐久) - 陸軍歩兵中佐、貴族院議員、[[山田顕義|山田伯爵家]]養子<!--1875-1945-->{{Refnest|group="注釈"|[[日露戦争]]において[[乃木希典]]の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の[[山田貞夫 (陸軍軍人)|貞夫]]は陸軍中尉として[[インパール作戦]]に従軍し戦死。[[高木俊朗]]によると、その死は[[花谷正]]に自決を強要されたものであった<ref>『戦死 <small>インパール牽制作戦</small>』</ref>。}}
 
*** 六男・[[松平恆雄]](母:名賀) - [[宮内大臣]]、[[参議院議長]]<!--1877-1949-->
 
*** 七男・[[松平保男]](母:佐久) - 海軍少将、貴族院議員<!--1878-1944-->
 
**女子
 
*** 長女・美彌(母:名賀)<!-- - 1869-1909-->
 
*** 次女・泡玉院(母:名賀) - 1873年生、夭折
 
** 養子
 
*** [[松平喜徳]] - [[徳川斉昭]]十九男、1867年養子縁組、1873年養子縁組解消
 
** 著明な子孫
 
*** [[松平勇雄]] - 松平健雄次男
 
*** [[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]] - 松平恆雄長女
 
*** [[徳川恒孝]] - 松平恆雄長男[[松平一郎|一郎]]の子、[[徳川宗家]]18代
 
*** [[徳川慶朝]] - 松平保男四女和子の子、[[徳川慶喜家]]4代
 
<gallery>
 
Image:Matsudaira_Takeo.jpg|伊佐須美神社宮司・[[松平健雄]]
 
Image:Matsudaira_Hideo.jpg|歩兵中佐・[[山田英夫 (伯爵)|山田英夫]]
 
</gallery>
 
<!-- 既に項目がある人物をコメントアウト
 
Image:Matsudaira_Kataharu.jpg|騎兵大尉・[[松平容大]]
 
Image:Tsuneo Matsudaira.jpg|参議院議長・[[松平恆雄]]
 
Image:Morio_Matsudaira.jpg|海軍少将・[[松平保男]]
 
Image:Princess Chichibu Setsuko.jpg|[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]]
 
-->
 
 
 
=== 正室・婚約者(継室)・側室など ===
 
* 正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年(1843年)に[[会津若松城]]で生まれ、9歳で江戸に出府。安政3年(1856年)14歳で22歳の容保の正室となるが、文久元年(1861年)10月に19歳で死去した。先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組が予定されていたと考えられる。
 
* 敏姫の死の翌年、文久2年(1862年)10月、容保は[[加賀藩]]主・[[前田慶寧]]の長女・[[榊原禮子|禮姫]]と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年(1866年)12月に容保が慶喜の弟の余九麿(喜徳)を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年(1871年)の廃藩置県を機に正式に縁組を解消した<ref group="注釈">当時の慣習としては、婚約、幕府の認可、結納を経ていれば、婚儀の一部は成立しているとみなされるため、系図上は継室と記される。</ref>。禮姫は文久2年から明治4年まで[[金沢市|金沢]]に在住していたので、この間に容保と会った可能性は低い。明治6年に[[榊原政敬]]に嫁いでいる。
 
* 浦乃局(関山通子)は、[[柴桂子]]『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。
 
* 子供を産んだ側室は[[田代孫兵衛]]の娘の佐久と[[川村源兵衛]]の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年(1869年)で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子『銀のボンボニェール』で節子の父・[[松平恆雄]]が「(側室だったので)母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。
 
 
 
== 逸話 ==
 
=== 父への手紙 ===
 
1862年(文久2年)、[[京都守護職]]就任を幕府から迫られ迷っている際に、実家の実父である高須家[[松平義建]]へ次の歌を送っている。
 
 
 
''行も憂し 行ぬも辛し 如何せん 君と親とを おもうこころを''
 
 
 
これに義建は返歌にて答えた。
 
 
 
''親の名は よし立てずとも 君のため いさをあらはせ 九重の道''
 
 
 
=== 軍艦を調達 ===
 
京都守護職に就任し京へ着任する際、江戸から京へどのように行くかが討議された。京都の情勢探索にあたった藩士達たちは軍艦で大阪に入ることを主張した。これは藩校[[日新館]]より江戸の[[昌平黌]]に学んだ若手の秀才達の意見であった。当時としては時代の推移を捉えた斬新な意見であり、容保はこれに賛成。さっそく容保は幕府と交渉し二隻の[[スクーナー|スクーネル船]]を借用する。しかしその後この海路案は西郷頼母など家老たちから猛烈な反対にあう。「我等は山国に生まれ育ち航海の経験が浅い、主君に万一の危機が訪れたときはどのように守るのか」と轟々と反対され遂に陸路と決まった<ref>『七年史』北原雅長著</ref>。
 
 
 
=== 新選組の護衛 ===
 
京都の故老が残した回想録がある。「京都守護職であられた会津中将さんはとても美男子で、男が見ても惚れ惚れするような人でした。京都の人は容保さんのことを会津中将さんと呼んでおりました。何でも黒谷さん(会津本陣であった金戒光明寺)から御所さんにおいでの時を、私は一度烏丸通りで見たことがありましたが、真っ白い馬にお乗りになって、真っ赤な陣羽織みたいなものを着、烏帽子を冠り、槍を担いだ[[新選組]]を従えて、馬のお口は[[近藤勇]]が取り、右手には例の[[虎徹]]とか云う刀を、抜き身で持っておりました。会津中将さんのお通りだと云うと、若い女の子はわれ先にと、表に飛び出して行ったものですよ。」<ref>『会津こぼれ草』益田晴夫編『美男におわす松平容保』1952年</ref>
 
 
 
=== 家臣の心配 ===
 
元治元年5月頃、池田屋事件の直前のこの時期、長州勢が大勢京に入り込み不穏な空気のなかであった。この頃長い病に伏せていた容保は御所近くの浄華院にて守護し奉っていたが、黒谷の宿営に帰り保養することを許された。しかし浮浪の徒らがこのことを知って途中で襲撃するとの報が入った。[[神保内蔵助]]利孝など重臣達は大いに心配し途上の従者を増やそうとしたが、容保は「元より、自分の仕事は私心をもってのことではなく、天朝・幕府の命を奉じてのことなれば、道理に基づいてのことであり、何も心配する必要はない。万一暴発人が現れたとしても、それもまた天命。人数を増やしてもそれほど変わるまい。決してこれらは心配せず、人数など増やさないように」として許さなかった。重臣らはやむをえず容保が戻る道筋の所々に家来を手配し、目に触れぬよう忍ばせ容保を守った。こうして見守ると容保は、その言葉のごとく断然とした振る舞いで少しも懸念するところが見えず、家臣達は「まことに恐れ入った」と言っている。また小姓であった[[浅羽忠之助]]などは道中の道筋にて罷り出て、「久しぶりのお戻りにつき、御家来共にて有り難くお迎えに来ました」などと申し上げ容保を守りに行った<ref name="shimatsu">『京都守護職始末』山川浩著</ref>。
 
 
 
=== 孝明帝の占い ===
 
慶応元年4月8日、この日、長い病がついに完治し参内。孝明天皇に拝謁。翌日、二条殿下から「病気が全快致し候深くご満足に思し召され」との勅と共に杉折三重ね、文庫一個を賜る。また殿下は「孝明天皇は容保の病気を心配するあまり内侍所にて快復を祈祷し、日々その廊下を渡る際、鈴虫の声を聞き、病気の軽重を占った。始めは声がすこぶる陰気で凶なので大いに心配したが、日を経て響きが吉に転じたので、気持ちもようやく安らかになり、日々快復の知らせを待っていたところ、昨日参内の報せを聞き、御喜悦のあまりこの恩賜があったのだ」と説明した。容保は謹んでこれを拝承し、恐懼感激、おくところを知らなかった<ref name="shimatsu"/>。
 
 
 
=== 雀の和歌 ===
 
[[新島八重]]の回想談によると、鶴ヶ城での籠城中、八重が数えた中でも1日に1200発以上の砲弾が撃ち込まれ城中が轟音と惨劇に包まれている時の事。ふと見ると城内の月見櫓に雀が沢山とまっていた。その群れは天守閣の屋根に飛び移り天守閣の屋根は雀でいっぱいになった。同じ光景を主君容保も見ていた。砲声が轟く中で突然に容保は歌を一首詠んだという。八重はうまく聞き取れなかったが、砲声がしばし止んだ際に物怖じしない八重はなんと主君に声をかけ今一度聞かせて頂けないかとお願いした。容保はその求めに応じて今一度詠んでくれた。
 
 
 
''またも世に さかゆる春を しろしめす すずめ ちよ よぶ 若松の城''
 
 
 
知ろしめす(治めるの意)と城しめすを掛け、雀の鳴き声(ちよちよ)と千代に八千代にを掛けている。八重はこの即興の歌を聞き「この主君の為ならば命を捨てるのは惜しいことはない」と感嘆している<ref>『同志社談業』第20号『新島八重子刀自懐古談』</ref>。
 
 
 
=== 会津領民の請願書 ===
 
明治元年10月、会津戦争の敗戦後、容保容大父子は東京に護送され謹慎となった。会津領民達は驚愕し悲しみと失望に暮れ、容保を救うべく「御赦免御帰城」の請願書を会津においては民政局、東京に出ては太政官等に多く提出した。この請願書運動は翌年11月に容大が陸奥斗南へ移封となった後も続けられた。会津史談会誌にはその中から2通を資料として掲載している。
 
:一つは、百姓惣代として東谷地村、上西蓮村など5ヶ村、若松町人惣代として4名の連名からなり、内容には、数百年の御恩をうけ一途な直心より訴えること、悲しみに沈み日夜寝食を絶つ様子や、大勢の民衆が訴え出ることを代表の者が押し止め申し合わせの上での請願書であることなどが書かれ、領内の民の安堵のためにも何卒御領主の御帰城をお許し下さいますようにと、百姓町人惣代の者の泣血の嘆願としている。
 
:二つ目は、岩代國耶麻郡木曾組を筆頭に6ヶ村の連名からなり、容保や歴代藩主がこれまで領民のために行ってきた政策を34条(高齢者・病人・育児への福祉制度や、天明天保を始めとする飢饉や不作の年の援助など)書き連ねた上で、「御領主の儀は二百余年の事につき身に染みて片時も慕う気持ちを忘れずにいます。何卒哀憐の御沙汰をもって直ちに御帰城になりますよう」と訴えている<ref>『会津史談会誌』第21号『〇藩公の御帰城に関する領内民衆の請願書』</ref>。
 
 
 
=== 浅羽忠之助の記録 ===
 
藩主就任時から亡くなるまで長きにわたって容保に仕えた小姓[[浅羽忠之助]]の残した記録の中に容保の人柄に関する記述がある。忠之助は容保について、「喜怒の感情を表に出さない人柄だったが、先帝と先の将軍家(家茂)の御恩は始終胸中にあったようだ」「何十年御側にいても、切迫した様子を見せたことがなく、また他人が切迫しているのを見るのも嫌っていた。実に春風の中に座っているような方だった」さりながら「思い込んだらその意見は必ず通すという側面もあった」と書き残している<ref>『福島の進路』第392号:2015.4「戊辰戦争後の松平容保ー御小姓が記録した後半生ー」p45~p48</ref>。
 
 
 
 
 
* 細面の貴公子然とした風貌で、京都守護職の容保が宮中に参内すると女官たちがそわそわした、という逸話も残っている。
 
* [[京都見廻組]]は[[京都守護職]]だった容保の支配下にあったので、[[近江屋事件]]について[[磯田道史]]は「(見廻組与頭)[[佐々木只三郎]]の兄で会津藩公用人であった[[手代木勝任|手代木直右衛門]]が、松平容保の命で佐々木に実行させた」と、手代木が記した書を元に指摘している<ref>{{Cite book|和書
 
|author    = [[磯田道史]]
 
|year      = 2010
 
|title    = 龍馬史
 
|publisher = [[文藝春秋]]
 
|isbn      = 4163730605
 
}}</ref>。
 
* 家臣からの人望は厚く、若松城開城後、江戸([[東京]])に護送される容保を、家臣たちは断腸の思いで見送ったという。反面、下々には重税を課していたことから領民たちの恨みを買っており<ref group="注釈">会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした。</ref>、見送りにくる領民はほとんどおらず、農民たちに至っては護送されている藩主を見ようともせずに野良仕事をしていたという。当時、従軍医師として、その様子を見た[[ウィリアム・ウィリス]]は「松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能だろう」と手帳に記している<ref>[[中須賀哲朗]]・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より</ref>。
 
* 明治期になって、容保の実兄である旧[[尾張藩]]主・[[徳川慶勝]]から容保に[[尾張徳川家]]相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・[[山川浩]]が容保にその理由を訊ねたところ「自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない」と答えたと言う<ref>『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」</ref>。
 
* 明治26年(1893年)、[[孝明天皇]]の妃であった[[英照皇太后|九条夙子]]は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった[[橋本綱常]]を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという<ref>『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」</ref>。
 
* 会津松平家は容保の長男・[[松平容大|容大]]が子爵となったものの、[[山川健次郎]]の奔走が実るまで財政は苦しかった。旧臣たちは収入から幾許かを献上し、旧主家を支え続けた。
 
* [[磐梯山]]が噴火した際、旧領の[[猪苗代盆地|猪苗代]]、[[裏磐梯]]地域は大きな被害を受けた。旧臣の[[西忠義]]から事態の連絡を受けた容保は現地に急行し、被災者を見舞っている。被災者は旧領主の訪問を喜んだ<ref>『西忠義翁徳行録』</ref>。
 
 
 
== 孝明天皇下賜の宸翰・御製 ==
 
上述の通り、[[八月十八日の政変]]の際に孝明天皇より賜った宸翰([[孝明天皇宸翰]])には、京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、いかに孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。宸翰・御製の内容は以下の通り。
 
; 宸翰
 
{{Quotation|堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪
 
 
 
下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段 
 
 
 
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也 
 
 
 
文久三年十月九日}}
 
; 御製
 
: たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる
 
:* 和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)の まつの落葉のあらす栄へむ
 
:* 武士と こゝろあはしていはほをも つらぬきてまし世々のおもひて
 
 
 
== 登場する作品 ==
 
=== 小説 ===
 
* [[司馬遼太郎]]『王城の護衛者』[[講談社]]
 
* [[星亮一]]『松平容保 悲運の会津藩主』[[学陽書房]]
 
 
 
=== テレビドラマ ===
 
* [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]](NHK大河ドラマ、1963年)
 
* [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]([[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、1974年) <!--演:[[児玉泰次]]-->
 
* [[獅子の時代]](NHK大河ドラマ、1980年) <!--演:[[片岡秀太郎]]-->
 
* [[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]]([[日本テレビ系列|日本テレビ系]]、1986年) <!--演:[[風間杜夫]]-->
 
* [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]](NHK大河ドラマ、1990年) <!--演:[[若松武史|若松武]]-->
 
* [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]](NHK大河ドラマ、1998年) <!--演:[[畠中洋]]-->
 
* [[新選組!]](NHK大河ドラマ、2004年) <!--演:[[筒井道隆]]-->
 
* [[白虎隊 (2007年のテレビドラマ)|白虎隊]]([[テレビ朝日]]系、2007年) <!--演:[[東山紀之]]-->
 
* [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]](NHK大河ドラマ、2008年) <!--演:[[志村東吾]]-->
 
* [[龍馬伝]](NHK大河ドラマ、2010年) <!--演:[[長谷川朝晴]]-->
 
* [[白虎隊〜敗れざる者たち]]([[テレビ東京]]、2013年) <!--演:[[伊藤英明]]-->
 
* [[八重の桜]](NHK大河ドラマ、2013年) <!--演:[[綾野剛]]-->
 
*[[西郷どん (NHK大河ドラマ)]](NHK大河ドラマ、2018年)
 
 
 
=== ドラマCD ===
 
* 歴史ロマン朗読CD 城物語 松平容保と会津若松城(コズミックレイ、2013年)<!-- 演:[[福山潤]](声)--><ref>{{Cite web|publisher=|url=http://www.cosmicray.co.jp/shiro-monogatari/xncg-10025/|title=歴史ロマン朗読CD「城物語 松平容保と会津若松城」 - COSMICRAY|accessdate=2016-05-24}}</ref>
 
* 彼岸獅子の入城([[花春酒造]]、2014年)<!-- 演:[[大原崇]](声)--><ref>{{Cite web|publisher=萌えの桜|url=http://www.moeno.sakura.tv/?p=1595|title=ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)|accessdate=2014-10-08}}</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[相田泰三]]『松平容保公伝』会津郷土史料研究所
 
* [[渋沢栄一]]編『昔夢会筆記-徳川慶喜公回想談-』平凡社
 
* [[綱淵謙錠]]編『松平容保のすべて』新人物往来社
 
* 日高実業協会『西忠義翁徳行録』(1933年)
 
* [[高木俊朗]]『戦死 <small>インパール牽制作戦</small>』文春文庫
 
* [[飯沼関弥]]『會津松平家譜』国書刊行会
 
*『加賀藩史料 編外備考』侯爵前田家編輯部
 
* {{Citation |和書|last=山川|first=浩|author-link=山川浩|year=1930| title =京都守護職始末|publisher =郷土研究社|url={{NDLDC|1171002/17}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=|pages=}}
 
**{{Citation|和書|last=山川|first=浩|author2=遠山茂樹 校注, 金子光晴 訳|title=京都守護職始末: 旧会津藩老臣の手記1|year=1988|series=東洋文庫49|publisher=平凡社|pages= |isbn=4582800491}}
 
**{{Citation|和書|last=山川|first=浩|author2=遠山茂樹 校注, 金子光晴 訳|title=京都守護職始末: 旧会津藩老臣の手記2|year=1987|series=東洋文庫60|publisher=平凡社|pages= |isbn=4582800602}}
 
{{会津松平家|第9代|1852年 - 1868年}}
 
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[[Category:会津松平氏|かたもり]]
 
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松平容保.jpg

松平 容保(まつだいら かたもり)

幕末の会津藩主。美濃高須城主松平義建の子。字はけい之允。号は祐堂,芳山。弘化3 (1846) 年会津藩主松平容敬の養子となり,嘉永5 (52) 年襲封。同6年ペリー来航に際して井伊直弼とともに国書受理に賛成し,安政7 (60) 年桜田門外の変で直弼が横死すると,幕府と水戸藩との調停にあたった。また幕府の命により松平慶永とともに幕政に参与し,次いで京都守護職。元治1 (64) 年の禁門の変において長州藩兵と戦い,これを撃退した。慶応4 (68) 年鳥羽・伏見の敗戦ののち,江戸に帰った。その後,奥羽越列藩同盟の中心となったが,会津戦争で敗れた。 1880年東照宮宮司。



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