「松山事件」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{Otheruseslist|[[宮城県]]にて発生した松山事件|[[松山刑務所]]で起こった事件|松山刑務所事件}}
 
{{出典の明記|date=2015年3月}}
 
'''松山事件'''(まつやまじけん)は、[[1955年]]([[昭和]]30年)[[10月18日]]に、[[宮城県]][[志田郡]][[松山町 (宮城県)|松山町]](現[[大崎市]])にて発生した放火殺人事件と、それに伴った[[冤罪]]事件である。四大死刑冤罪事件の一つ([[免田事件]]、[[財田川事件]]、'''松山事件'''、[[島田事件]])。[[日本弁護士連合会が支援する再審事件|日本弁護士連合会が支援していた]]。
 
  
== 概要 ==
+
'''松山事件'''(まつやまじけん)
1955年(昭和30年)10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時6歳)の焼死体が発見された。遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置された。
 
  
事件発生後、1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、[[東京都]][[板橋区]]に勤務していた'''斎藤 幸夫'''(さいとう ゆきお、当時24歳)が浮上。12月2日、警察は斎藤の身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を傷害事件として別件容疑に、東京に勤務している事実を家出と偽り逮捕状を請求して逮捕した。同月8日以降、斎藤は警察の厳しい取調べで自白しては撤回を繰り返していたが、同月8日、警察は強盗殺人・放火の疑いで逮捕、12月30日に起訴した。
+
1955年(昭和30)10月18日未明、宮城県志田(しだ)郡松山町(現、大崎市)で、子供を含む一家4人が殺害された放火殺人事件。隣町に住む斎藤幸夫(ゆきお)(当時24歳)が、強盗殺人、非現住建造物等放火で死刑判決を受けたが、その後の再審で無罪となった。
  
*[[1957年]](昭和32年)10月29日、[[仙台地方裁判所]]で死刑判決。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
*[[1959年]](昭和34年)5月26日、[[仙台高等裁判所]]が控訴を棄却。
 
*[[1960年]](昭和35年)11月1日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が上告を棄却し、死刑が確定。
 
 
 
斎藤は無罪を訴えて[[再審]]請求を開始。やがて第2次再審請求が認められ、[[1979年]](昭和54年)12月6日に再審が認められる。警察は留置所に前科5犯のスパイを送り込み、「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤に言って自白に追い込んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。
 
 
 
[[1984年]](昭和59年)7月11日、無罪判決。28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消えた(再審請求以降の裁判費用は借金ができず、支援団体のカンパでまかなっていた)。故郷に戻り、仙台市の弁護士事務所で一時期、働くなどした。その後、鹿島台町の自宅に戻り、母と暮らしながら清掃員などとして働いた。アムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は[[生活保護]]を受給していた。精神的苦痛を理由に1億4300万円の国賠訴訟を起こしているが、訴訟内容は裁判費用の請求でなく精神的苦痛による損害賠償であるため、[[2001年]]([[平成]]13年)に棄却されている(一方、[[足利事件]]と[[布川事件]]の冤罪被害者は刑事補償金以外にも裁判費用を受け取っている。)。斎藤は[[2006年]](平成18年)7月5日に[[多臓器不全]]のため75歳で死去。母も[[2008年]](平成20年)12月24日、101歳で入所先の施設で亡くなった。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本弁護士連合会が支援する再審事件]]
 
* [[冤罪]]
 
* [[古畑種基]]
 
; 四大死刑冤罪事件
 
* [[免田事件]]
 
* [[財田川事件]]
 
* [[島田事件]]
 
 
 
{{Crime-stub}}
 
 
{{DEFAULTSORT:まつやましけん}}
 
{{DEFAULTSORT:まつやましけん}}
 
[[Category:昭和時代戦後の殺人事件]]
 
[[Category:昭和時代戦後の殺人事件]]

2018/12/28/ (金) 00:22時点における最新版

松山事件(まつやまじけん)

1955年(昭和30)10月18日未明、宮城県志田(しだ)郡松山町(現、大崎市)で、子供を含む一家4人が殺害された放火殺人事件。隣町に住む斎藤幸夫(ゆきお)(当時24歳)が、強盗殺人、非現住建造物等放火で死刑判決を受けたが、その後の再審で無罪となった。



楽天市場検索: