東晋
東晋(とうしん、拼音: )は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。
Contents
歴史
西晋から東晋へ
265年12月に曹魏から禅譲を受けて建国された西晋は、280年3月に江南の孫呉を滅ぼして中国を統一した。しかし始祖の武帝(司馬炎)が290年4月に崩御すると、後継者の司馬衷(恵帝)が暗愚な事もあって皇族間で流血の内紛、八王の乱が開始されて西晋は大混乱に陥った。八王の乱末期の304年には匈奴の大首長劉淵により漢(前趙)が河北に建国され、さらに蜀でも成漢が建国されるなど異民族の反乱、いわゆる永嘉の乱が激しさを増した。八王の乱は最終的に306年11月に東海王司馬越によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である懐帝司馬熾が第3代皇帝に擁立される事で終焉した[1][2][3][4]。以後、西晋では司馬越が政権を握り、彼を主導にして体制の再建が図られ、江南にはその命令で江南軍方面司令官・安東将軍・都督揚州諸軍事に任命された皇族の琅邪王司馬睿が華北第一の貴族王導と共にわずかな供回りと一部の皇族を連れて赴任した[5]。
孫呉が滅亡した後の江南は、西晋の支配の下でそれぞれの地元豪族が結束しており、八王の乱や永嘉の乱が華北で激しさを増す中で比較的平穏だった事から、戦火を避けて難民が移動する避難地域と化していた[6]。司馬睿赴任の前には西晋の下級官吏の陳敏が自立の気配を見せたが[6]、江南の豪族は協力を拒否して寿春にいた西晋軍と呼応して307年に陳敏を討ち、西晋に服従して社会の安定に務めていたのである[5]。
司馬越は漢・成漢等の異民族国家や叛徒の討伐、西晋の体制再建に尽力したが、一方で自らに独裁権を集中するために偽詔を発して自ら丞相を称し、さらに懐帝の側近や親族を粛清したりしたため、次第に懐帝と司馬越の対立が表面化した。311年1月になると両者の対立は頂点に達し、司馬越は洛陽から項城に移って対峙したが、懐帝は3月になると諸国の方鎮に司馬越討伐の勅命を発した。この中で司馬越は憂憤の内に病死した。司馬越の死で八王の乱後に辛うじて政権を保っていた西晋は大混乱に陥る一方で漢はこの好機を見逃さず、4月に漢の武将石勒は旧司馬越配下の10万の将士を攻め、これを破って王衍ら10万人を捕殺した[1]。これにより西晋軍の主力は完全に崩壊し、前年に劉淵が崩御した後に紆余曲折を経て即位していた息子の新帝劉聡は、311年6月に一族の劉曜、武将の王弥、石勒に命じて大挙洛陽を攻め、略奪暴行の限りを尽くさせた(永嘉の乱)[1]。
この永嘉の乱により、洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に前趙の都平陽に拉致され[7]、懐帝の皇后羊氏に至っては劉曜の妻とされた[1]。懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、酒宴で酒を注ぐ役をさせられ、杯洗いをさせられ、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ[7]、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて屈辱を嘗めつくした後の313年1月に処刑された[8][9][10]。こうして西晋は事実上滅亡した[1][2][9]。
懐帝が処刑されたことにより、長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢に抵抗した[9]。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された[1][8][9]。こうして西晋は完全に滅亡した[8][9]。愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の317年12月に漢の劉聡により殺された[1][8][9][10]。
この間、江南にあった司馬睿は愍帝から侍中・左丞相・大都督・陝東諸軍事に任命されていたが、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した[8]。そして殺されたことを受けると、318年3月に即位して建康に都して東晋を建国し、元帝となった[11][8]。
なお、首都の旧名は建業であったが、愍帝の名前である司馬「鄴」と重なるため、建康と改名される事になった。
元帝の時代
元帝は江南における政権確立のため、王導の政治力を借り、また華北から亡命してきた皇族・貴族等の人材を取り入れていく事になるが、これは元帝が即位前に名声を得ておらず江南の民衆を心服させられなかった事が一因している[12][13]。ただ元帝・王導らは政権確立の過程において将軍府の要職を在地の江南人ではなく北来の亡命人で独占するという体制をとったために在地の江南豪族の不満を買い[13]、江南随一の豪族周氏により反乱を起こされたりもしている。ただ、そもそも江南豪族も決して一枚岩では無かったため、これらの反乱は鎮圧された[13]。以後、王導の主導の下に東晋政権は確固たる地盤を築いていく事になる。
このような中で忠勇の軍人による北伐、中原快復運動も行なわれ、その中で最も気を吐いたのは奮威将軍・豫州刺史の祖逖であり、彼は華北に攻め入ると後趙相手に奮闘して河北の南部を奪取するまでに至ったが、当時の東晋の軍事力不足と元帝の消極政策、さらに内乱などもあり北伐は最終的には失敗した[14]。
元帝自身、華北から来た余所者であり、強力な権力・軍事力を有しているわけでは無く、反乱鎮圧等で軍権を得ていた王敦(王導の従兄)の勢力が強大化して「王と馬と天下を共にす」とまで言わしめるようになり、元帝は王敦と王導を中枢から遠ざけて王氏一族の勢力を押さえ込もうとした[15]。この施策に激怒した王敦は322年1月、挙兵して君側の奸である劉隗、刁協らを除くと称して武昌で挙兵し[15]、建康守備の要衝である石頭城を落として政府軍を大いに破った[16]。元帝は王敦に勅使を送って謝罪し、この反乱は一応の決着を見たが、それから程なく322年に元帝は崩御した[16]。
明帝の時代
元帝の崩御により、長男の司馬紹が明帝として即位した[17]。この明帝は勇決の人として評判が高く、そのため沈静化されていた王敦と明帝の間が再び緊迫しだした[17]。さらに王敦配下による粗暴な振る舞いが目に余るようになり、次第に多くの人々からの反感も買い、遂には同族の王導からも王敦は半ば見捨てられるようになった[17]。このような事態を見た明帝は、北方の淮水流域を守護していた祖約や蘇峻らを建康に召還して王敦討伐を命じた。この戦いの最中の324年に王敦は病死して明帝の勝利に終わり、王敦一派は悉く誅殺された(王敦の乱)[18]。
しかし明帝は325年に若くして崩御した[18]。
王導の時代
明帝は崩御にあたり、後継者に幼い息子の司馬衍を指名し、王導・庾亮・温嶠らに輔政せよとの遺詔を発していた[18]。司馬衍は即位して成帝となったが、輔政にあたる3人の内で庾亮は明帝の皇太子時代に侍講を勤め、妹が皇后となって寵愛を受けた人物だったため、成帝即位後は外戚として重きをなし、朝政を専断するようになった[18]。庾亮の政治は法律に厳格だったため、王導の穏健政策と真っ向から対立し、人心を次第に失った[18]。庾亮の施政には軍人の祖約や蘇峻らからも不満が高まり、327年には庾亮が蘇峻の軍権を解いて自らの弟に与えようとしたため、遂に不満が爆発して蘇峻は祖約や西陽王司馬羕まで巻き込んでの反乱を起こした(蘇峻の乱)[18]。歴陽(現在の安徽省和県)で挙兵した蘇峻は一気に建康に迫り、ここで大規模な略奪を行って放火した[18]。だが肝心の庾亮を取り逃がし[19]、蘇峻は建康で無闇に人民を襲っては苦しめたため、かえって人心を失った[18]。
江州に逃れた庾亮は、温嶠や陶侃、郗鑒らと協力して反乱鎮圧にあたり、329年に石頭攻防戦で蘇峻軍を大いに破って蘇峻を斬り、反乱を平定した[19]。だがこの反乱で建康は荒廃し、遷都するべきという議が起こった[19]。候補地は豫章(現在の南昌県)か会稽(現在の紹興市)であったが、王導が強硬に反対したために沙汰止みとなり、以後は王導が東晋を主導した[19]。
桓温の時代
339年に王導は死去した。そして340年には庾亮、344年には庾冰、345年には庾翼、346年には何充といった有力人物が相次いで没し、次に政権を握ったのは西府軍総帥として荊州の軍を率いた桓温であった。彼は桓彝の子で、父は王敦・蘇峻の反乱で功績を立てたが、後者の乱の際に戦死している[20]。桓温は345年に荊州刺史になると、当時既に皇室内の内訌で末期状態にあった四川の成漢を攻め[20]、347年にこれを滅ぼす大功を立てた[21]。これにより東晋は江南と蜀を合わせた一大国家となり、また桓温の権力も強大化した。
当時、華北では後趙が覇権を握っていたが、第3代皇帝石虎が崩御すると熾烈な後継者争いが始まり、大混乱の状態にあった。この中で華北における漢人勢力には東晋に帰属を願う者も多かったため、北府の殷浩らは北伐を行なおうとした[21]。この殷浩は桓温とは竹馬の友であったが、桓温同様に軍事力に長けていた事から成漢滅亡で権力を得た桓温に対抗するために擁立されていた人物だった[21]。桓温はこの北伐が失敗することを見抜いて自らは出陣せずに部下を送り、その見立てどおり352年に北伐した殷浩は許昌に至るも武将張遇の反乱により進軍を止められ、姚襄の軍に大敗し、責任を問われて流罪にされ、桓温は殷浩の軍権も掌握するに至った[21]。
その後、桓温は自ら北伐を行ない、湖北から長安にまで攻め入り、さらに東進して洛陽を落としてその帝陵を修復して356年に凱旋した[21]。これらの武勲により桓温の権力と権威は東晋において揺るぎないものとなる。一方で桓温は土断の実施など内政改革にも実力を発揮した[22]。だが365年、華北東部に進出した鮮卑の前燕の慕容恪により洛陽が奪われたため、桓温は再び北伐を開始した[22]。だが慕容垂の前に大敗し、辛うじて徐州に帰還するが、この大敗で前燕や前秦にかえって南侵されるようになり、桓温の権威と権力は大きく傷ついてしまった[22]。
このため桓温は自らの野望の達成を急いだ[22]。すなわち東晋皇帝からの禅譲による新王朝創設である[22]。だが桓温の軍府の司馬(副官)であり目をかけられていた謝安の禅譲引き延ばし工作などもあり実現せず、重病に倒れた桓温は373年に失意の内に世を去った[22]。
謝安の時代
桓温の死後、政権を握ったのは謝安であった[23]。この謝安は王導の再来とも言われるほど寛容な政策と巧みな政治バランスによる政権運営をこころがけた[23]。桓温没後の桓氏に対しては桓豁と桓沖ら一族に荊州の軍権を与える事で内乱を避けた[23]。一方で北府の総帥には一族の謝玄を登用して政軍のバランスを保つという老練な対応をとった[23]。
この頃、華北では376年に前秦の苻堅により統一政権が樹立され、東晋では前秦の南下が脅威となっていた[23]。383年には苻堅が親征し前秦の公称100万とも112万とも称される大軍の攻撃を受ける[23]。だが謝安により登用された謝玄・劉牢之・何謙ら勇将の奮戦もあり[23]、数で圧倒的に劣った東晋軍は見事に撃退した(淝水の戦い)[24]。
この勝利により、謝安は以後も東晋を運営していく。だが東晋皇帝の孝武帝が成長し、その弟の司馬道子が次第に謝安を政敵として対立したため、晩年の謝安政権は思うように運営がままならなかった[25]。そして385年に謝安は死去した[25]。
司馬道子の時代
謝安の死後、政権を握ったのは皇弟の司馬道子であった[25]。最初は兄の孝武帝も親政していたのだが、次第に酒色に溺れて政務に関心を示さなくなったため、実権は司馬道子が握った[25]。ところがこの道子も安楽の生活に溺れて権力を私物化したため、東晋は内部から腐敗と崩壊の道を歩みだした[25]。そして396年には、張貴人によって孝武帝が暗殺されてしまう。
このような政治情勢のため一気に社会不安が高まり、それが399年に五斗米道の指導者孫恩による宗教反乱という形で爆発した(孫恩の乱)[26]。この反乱で東晋首都建康は危機的状況に陥るが、北府軍の劉牢之と劉裕により鎮圧された[26]。この反乱で東晋皇帝の無力化が露呈し、以後は軍閥に皇帝が左右されるようになる。
この反乱を契機として、桓温の遺児桓玄は孫恩軍鎮圧を名目に西府軍を動かして首都建康に迫った[27]。司馬道子にはこれを撃退する力は無く、北府の劉牢之を動かして対抗しようとしたが、北府軍は西府軍に味方したため、建康は陥落して司馬道子は殺された[27]。
桓玄による簒奪と再興
桓玄は首都に入城して政敵を排除すると、東晋皇帝安帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を楚として親子2代に渡る宿願を果たした[27]。一方で桓玄は北府軍を圧迫して劉牢之を自殺に追い込んだため、北府軍の怒りを買った[27]。劉牢之の死後、北府軍のリーダーとなった劉裕は挙兵して桓玄を破って首都を奪回、さらに荊州に逃れて再起を図った桓玄を再び破り、荊州から蜀に逃亡しようとした桓玄を殺害、廃帝となっていた安帝を復位させて滅亡していた東晋を再興させた[28]。
劉裕の時代と滅亡
再興されたとはいえ、最早東晋皇帝に権力は全く無く、再興の功労者である劉裕が政軍を掌握した。劉裕は山東半島にあった鮮卑の南燕を北伐して滅ぼした[29]。さらに孫恩の妹婿盧循が水路から首都に迫ると、劉裕はこの反乱軍を石頭に迎え撃って大破し、さらに追撃して広東まで派兵して411年までに完全に滅ぼした[29]。417年には関中に進出して後秦を滅ぼしたが、この時は江南で不測の事態が起こる事を恐れて帰還し、奪った華北の領土もほとんどが異民族国家により奪取された[30]。
これらの武勲により強大な権力を得た劉裕は安帝を殺してその弟の恭帝を擁立した。そして420年、劉裕は恭帝から禅譲を受けて宋朝が開かれ、東晋は滅亡した[31]。
社会
帝権
東晋は非常に皇帝権力が限定的で、土着勢力及び西晋の亡命貴族が司馬氏を推戴する形式となっていた。これは初代の元帝自身が華北から来た余所者であり、土着勢力の協力なしでは何もできなかったためである。元帝はこのような事態を打開するため、新しい側近を得て西晋同様に要職を独占していた北来貴族出身である王氏、謝氏、桓氏など有力氏族を排除しようとしたこともあるが、逆に王氏に反乱を起こされて「王馬(王と司馬の両氏)天下を共治す」「直ちに兵をやめよ。朕は琅邪の地に帰さん」と述べるほどだった[16]。元帝没後も皇帝は有力者に左右されて廃立を繰り返され、ある時はその有力者に首都を落とされたりもしているが、これは東晋皇帝に権力が無い事を示しているといえる。魏から帝位簒奪した司馬氏の歴史も皇室権威の低下につながったが、これにはもともと東晋皇族は西晋皇族の直系ではなく傍流である事も一因している。
軍隊
軍事面では、国防上の必要から首都周辺と荊州北部に2大駐屯地が設置され、王敦と蘇峻の反乱鎮圧に功績を挙げた郗鑒・陶侃がそれぞれの場所に軍団を置き[32]、この両名の軍隊を母体として前者を北府、後者を西府と称していた[20]。この内、北府軍の長官すなわち総帥は鎮北将軍・征北将軍に任命されて東晋の北方の守備を、西府軍の総帥が安西将軍・征西将軍などに任命されて湖南・湖北等の肥沃で広大な領域を支配して軍政民政機関として大きな権力を握った[20]。この両府体制はバラバラで混成的政権であった東晋を二大軍事勢力の微妙な均衡により支えられる安定した政権構造へと変容させていった[32]。
経済・農民
漢代には江南(長江流域)は、中原(黄河流域)と比較すると人口の少ない後進地域であったが、三国時代より華北からの避難民によってその増加は始まり、永嘉の乱によって華北の荒れた西晋末には勢いを増した。こうした中で東晋は、これら流民に対して初年を免税にするなど税制上の優遇措置を設けたうえで戸籍につかせ(土断法)、その故郷の県や郡を江南各地で再建する(僑立する、ただし土断の過程でやがて合併)と同時に、開墾の奨励を行った。結果、元来温暖な気候と水資源に恵まれていたこともあって、同地域は経済的に華北に対抗可能なまでに急速に発展した。
東晋の皇帝
廟号 | 諡号 | 姓名 | 在位 | 年号 | 陵墓 | |
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1 | 中宗 | 元帝 | 司馬睿 | 317年 - 322年 | 建武 317年-318年 大興 318年-321年 永昌 322年-323年 |
建平陵 |
2 | 粛祖 | 明帝 | 司馬紹 | 322年 - 325年 | 太寧 323年-326年 | 武平陵 |
3 | 顕宗 | 成帝 | 司馬衍 | 325年 - 342年 | 咸和 326年-334年 咸康 335年-342年 |
興平陵 |
4 | 康帝 | 司馬岳 | 342年 - 344年 | 建元 343年-344年 | 崇平陵 | |
5 | 孝宗 | 穆帝 | 司馬聃 | 344年 - 361年 | 永和 345年-356年 升平 357年-361年 |
永平陵 |
6 | 哀帝 | 司馬丕 | 361年 - 365年 | 隆和 362年-363年 興寧 363年-365年 |
安平陵 | |
7 | 廃帝 (海西公) |
司馬奕 | 365年 - 371年 | 太和 366年-371年 | 吳陵 | |
8 | 太宗 | 簡文帝 | 司馬昱 | 371年 - 372年 | 咸安 371年-372年 | 高平陵 |
9 | 烈宗 | 孝武帝 | 司馬曜 | 372年 - 396年 | 寧康 373年-375年 太元 376年-396年 |
隆平陵 |
10 | 安帝 | 司馬徳宗 | 396年 - 403年 | 隆安 397年-401年 元興 402年 隆安 402年 大亨 402年-403年 元興 403年-404年 |
休平陵 | |
(403年、桓玄〈武悼帝〉が安帝を廃して楚を建国したため、東晋滅亡。 翌年、桓玄が殺害され、楚滅亡、東晋復活) |
(403年 - 404年) | (楚:建始 403年) (楚:永始 403年-404年) |
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安帝(復位) | 司馬徳宗 | 404年 - 418年 | 元興 403年-404年 義熙 405年-418年 |
休平陵 | ||
11 | 恭帝 | 司馬徳文 | 418年 - 420年 | 元熙 419年-420年 | 沖平陵 |
系図
西晋の琅邪恭王覲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
I中宗元帝睿 | II粛祖明帝紹 | III顕宗成帝衍 | VI哀帝丕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
VII廃帝海西公奕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
IV康帝岳 | V孝宗穆帝聃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
VIII太宗簡文帝昱 | IX烈宗孝武帝曜 | X安帝徳宗 | |||||||||||||||||||||||||||||||
XI恭帝徳文 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
- ↑ 2.0 2.1 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
- ↑ 駒田『新十八史略4』、P59
- ↑ 山本『中国の歴史』、P93
- ↑ 5.0 5.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P119
- ↑ 6.0 6.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118
- ↑ 7.0 7.1 駒田『新十八史略4』、P60
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 駒田『新十八史略4』、P61
- ↑ 10.0 10.1 山本『中国の歴史』、P94
- ↑ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P121
- ↑ 駒田『新十八史略4』、P81
- ↑ 13.0 13.1 13.2 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P120
- ↑ 駒田『新十八史略4』、P84
- ↑ 15.0 15.1 駒田『新十八史略4』、P85
- ↑ 16.0 16.1 16.2 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P122
- ↑ 17.0 17.1 17.2 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P123
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 18.7 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P124
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P125
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P127
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P128
- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P129
- ↑ 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 23.5 23.6 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P130
- ↑ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P131
- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P132
- ↑ 26.0 26.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P133
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P134
- ↑ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P135
- ↑ 29.0 29.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P136
- ↑ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P138
- ↑ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P141
- ↑ 32.0 32.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P126
参考資料
- 『晋書』
参考文献
- 塚本善隆『唐とインド 世界の歴史 4』中央公論社、1962年、のち中公文庫
- 川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大-魏晋南北朝』(講談社、2005年2月)
- 山本英史『中国の歴史』(河出書房新社、2010年10月)
関連項目
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