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{{Battlebox
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'''朝鮮戦争'''(ちょうせんせんそう)
| battle_name=朝鮮戦争<br />한국 전쟁(韓国戦争)<br />조국해방전쟁(祖国解放戦争)<br />{{lang|en|Korean War}}
 
| campaign=朝鮮戦争
 
| colour_scheme=background:#ffccaa
 
| image=[[ファイル:Korean War Montage 2.png|270px]]
 
| caption=上段:[[長津湖の戦い]]で撤退する[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|米第1海兵師団]]<br />中段左:[[アメリカ空軍]]の[[F-86 (戦闘機)|F-86]]<br />中段右:[[仁川上陸作戦]]で揚陸中の[[戦車揚陸艦|LST]]<br />下段左:仁川に上陸する[[:en:Baldomero Lopez|バルドメロ・ロペス]][[中尉]]率いる海兵隊員<br />下段右:[[M26パーシング|M26]]戦車の前に立つ[[韓国人]][[難民]]
 
| conflict=[[冷戦]]
 
| date=[[1950年]][[6月25日]] - [[1953年]][[7月27日]]<br />(休戦中)<br />[[2018年]]中の終戦が目指される
 
| place=[[朝鮮半島]]
 
| result=南北分断状態のまま休戦協定が結ばれ、現在に至る<br />[[2018年]]中の終戦が目指される
 
| combatant1= {{flagicon |UN}}''' [[国連軍 (朝鮮半島)|国際連合軍]]'''<br />{{ROK}}<br />{{USA1912}}<br />{{GBR}}
 
----
 
'''戦闘支援'''<br />{{COL}}<br />{{FRA1946}}<br />{{CAN1921}}<br />{{NLD}}<br />{{BEL}}<br />{{TUR}}<br />{{THA}}<br />{{PHL}}<br />{{LUX}}<br />{{GRC1828}}<br />{{AUS}}<br />{{NZL}}<br />{{ETH1897}}<br />{{ZAF1928}}
 
----
 
'''医療支援'''<br />{{DNK}}<br />{{IND}}<br />{{ITA}}<br />{{ISR}}<br />{{NOR}}<br />{{SWE}}
 
----
 
'''掃海及びその他支援'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[連合国軍占領下の日本|日本]]<br />{{SLV}}<br />{{CUB}}<br />{{ESP1939}}<br />{{ROC-TW}}
 
| combatant2={{PRK2}}<br />{{PRC}}<br />{{SSR1923}}(顧問団派遣及び物資支給)
 
----
 
'''医療支援'''<br />[[ファイル:Flag of the Czech Republic.svg|25x20px|チェコスロバキアの旗]] [[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]<br />{{HUN1949}}<br />{{BGR1946}}<br />[[ファイル:Flag of Poland (1928-1980).svg|border|25x20px|ポーランドの旗]][[ポーランド人民共和国|ポーランド]]<br />{{ROM1948}}
 
----
 
'''その他支援'''<br />{{IND}}<br />{{MNG1949}}
 
| commander1={{Flagicon|韓国}} [[李承晩]]<br />{{Flagicon|韓国}} [[蔡秉徳]]<br />{{Flagicon|韓国}} [[丁一権]]<br />{{Flagicon|韓国}} [[李鍾賛 (1916年生)|李鍾賛]]<br />{{Flagicon|韓国}} [[白善燁]]<br />{{Flagicon|韓国}} [[林富澤]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ハリー・S・トルーマン]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ドワイト・D・アイゼンハワー]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ダグラス・マッカーサー]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[マシュー・リッジウェイ]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[マーク・W・クラーク|マーク・ウェイン・クラーク]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ウォルトン・ウォーカー]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[ジェームズ・ヴァン・フリート]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[マクスウェル・D・テイラー]]<br />{{Flagicon|イギリス}} [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]<br />{{Flagicon|イギリス}} [[エリザベス2世]]<br />{{Flagicon|イギリス}} [[クレメント・アトリー]]<br />{{Flagicon|イギリス}} [[ウィンストン・チャーチル]]<br />{{Flagicon|オーストラリア}} [[ロバート・メンジーズ]]<br />{{Flagicon|CAN1921}} [[ルイ・サンローラン]]<br />{{Flagicon|フィリピン}} [[エルピディオ・キリノ]]<br />{{Flagicon|フィリピン}} [[フィデル・ラモス]]<br />{{Flagicon|コロンビア}} [[グスタボ・ロハス・ピニージャ]]<br />{{Flagicon|トルコ}} [[タハシン・ヤズシュ]]
 
| commander2={{Flagicon|北朝鮮}} [[金日成]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[朴一禹]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[朴憲永]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[崔庸健]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[金策]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[南日]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[金雄]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[武亭]]<br />{{Flagicon|北朝鮮}} [[方虎山]]<br />{{Flagicon|中国}} [[毛沢東]]<br />{{Flagicon|中国}} [[彭徳懐]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ヨシフ・スターリン]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ゲオルギー・マレンコフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ニキータ・フルシチョフ]]
 
| strength1={{Flagicon|韓国}} 590,911([[国民防衛軍]] 406,000<ref name="hani20100907">{{cite news
 
|url=http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/438726.html
 
|title=“국민방위군 수만명 한국전때 허망한 죽음”
 
|publisher = [[ハンギョレ]]
 
|date = 2010-09-07
 
|accessdate = 2010-11-27
 
}}</ref>)<br />{{Flagicon|USA1912}} 480,000<br />{{Flagicon|イギリス}} 63,000<br />{{Flagicon|CAN1921}} 26,791<br />{{Flagicon|オーストラリア}} 17,000<br />{{Flagicon|フィリピン}} 7,430<br />{{Flagicon|トルコ}} 5,455<br />{{Flagicon|コロンビア}} 5,100<br />{{Flagicon|NZL}} 3,972<br />{{Flagicon|フランス}} 3,421<br />{{Flagicon|ニュージーランド}} 1,389<br />{{Flagicon|タイ}} 1,294<br />{{Flagicon|ETH1897}} 1,271<br />{{Flagicon|GRC1828}} 1,263<br />{{Flagicon|ベルギー}} 900<br />{{Flagicon|ZAF1928}} 826<br />{{Flagicon|ルクセンブルク}} 44
 
| strength2={{Flagicon|北朝鮮}} 800,000<br />{{Flagicon|PRC}} 1,350,000(諸説有り)<br />{{Flagicon|SSR1923}} 26,000
 
|casualties1=韓国軍 281,161<br />アメリカ軍 40,677<br />イギリス軍 1,257<br />国連軍 1,831<br />民間人 676,811
 
|casualties2=北朝鮮軍 294,000<br />中国軍 135,600<br />民間人 1,086,000
 
|}}
 
{{韓国の事物|
 
|title=韓国での表記
 
|hangeul=한국 전쟁 / 육이오 사변
 
|hanja=韓國戰爭 / 六二五事變
 
|hiragana=かんこくせんそう/ろくにご じへん
 
|katakana=ハングク・チョンジェン/ユギオ・サビョン
 
|alphabet-type=[[文化観光部2000年式|ローマ字転写]]
 
|alphabet=Hanguk jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon
 
}}
 
{{北朝鮮の事物|
 
|title=北朝鮮での表記
 
|hangeul=조국해방전쟁
 
|hanja=祖國解放戰爭
 
|hiragana=そこくかいほうせんそう
 
|katakana=チョグッケバンジョンジェン
 
|alphabet-type=[[マッキューン=ライシャワー式|ローマ字転写]]
 
|alphabet=Chogukhaebang-chŏnjaeng
 
}}
 
'''朝鮮戦争'''(ちょうせんせんそう)は、[[1948年]]に成立したばかりの[[朝鮮民族]]の[[分断国家]]である[[大韓民国]](韓国)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の間で生じた[[朝鮮半島]]の[[主権]]を巡る[[国際紛争]]<ref name="nakath">[[中村隆英]]『昭和史 下 1945-89』 東洋経済新報社,p.565</ref><ref name="hand">[[半藤一利]]『昭和史 戦後編 1945-1989』 平凡社ライブラリー,p297-298.</ref><ref>[[神谷不二]]『朝鮮戦争』中央公論社, 1966年</ref><ref name="asi">芦田茂「[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/11.pdf 朝鮮戦争と日本]」戦史研究年報 第8号(2005年3月)防衛研究所</ref>。[[1950年]][[6月25日]]に[[金日成]]率いる北朝鮮が[[中華人民共和国]]の[[毛沢東]]と[[ソビエト連邦]]の[[ヨシフ・スターリン]]の同意と支援を受けて、事実上の国境線と化していた[[38度線]]を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した<ref>1950年6月27日の[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]の決議では、北朝鮮による韓国への[[侵略戦争]]と定義している。[[#国連の非難決議]]</ref><ref>http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659.html</ref>。
 
  
[[分断国家]][[朝鮮]]の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西[[冷戦]]の文脈の中で[[西側諸国|西側]][[自由主義]]陣営諸国を中心とした[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]と[[東側諸国|東側]]の支援を受ける[[中国人民志願軍]]が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を[[戦場]]と化して荒廃させた。[[1953年]][[7月27日]]に国連軍と中朝連合軍は[[朝鮮戦争休戦協定]]に署名し[[休戦]]に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
+
[[朝鮮民主主義人民共和国]] (北朝鮮) と[[大韓民国]] (韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする[[国連軍]]が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。
  
終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮と[[アメリカ合衆国]]との間に[[平和条約]]は締結されておらず、緊張状態は解消されていないが、[[2018年]][[4月27日]]、[[板門店]]で第3回[[南北首脳会談]]が開かれ、[[2018年]]中の[[終戦]]を目指す[[板門店宣言]]が発表された。
+
1950年6月 25日,北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと,[[38度線]]の南部に対する綿密な攻撃計画を発動した。国連安全保障理事会 ([[安全保障理事会]] ) は緊急会議を開き,北朝鮮の侵略を押しとどめるためすべての国連加盟国に支援を要請する決議を採択した。6月 27日,トルーマン米大統領は議会にはかることなく,宣戦を布告し,国連の警察活動の一環として韓国を支援するよう米軍に命じた。この間,韓国軍は北朝鮮軍に圧倒された。不十分な装備のまま応援に駆けつけた米陸軍の4個師団も南へと後退し,朝鮮半島の南端に押込められた。しかし,米軍は大量の援軍を得,さらに9月 15日,[[マッカーサー]]将軍率いる部隊が 38度線の南方およそ 160キロの仁川に上陸作戦を敢行した。主要戦線のはるか北方で上陸作戦を行なったことで,国連軍は北朝鮮軍の分断に成功し,北朝鮮軍は南北からの挟撃を受けて,完全に粉砕され,12万 5000人以上が捕虜となった。
  
== 概説 ==
+
国連軍が北上して 38度線まで押返したとき,中国は国連軍が北朝鮮に存在することは国家安全保障にとって受入れがたく,この戦争に介入せざるをえないと警告した。しかし,国連軍は警告を無視し,南北統一の意図を表明するとともに,北朝鮮に進軍した。 11月半ばまでに,国連軍部隊は北朝鮮と満州 (中国東北部) の国境である鴨緑江に接近しつつあった。 11月 24日,マッカーサーは「クリスマスまでには帰国」を実現するとして一大攻勢を発表,彼が率いる部隊は勇躍,鴨緑江まで進軍するはずだった。翌日,およそ 18万人の中国義勇軍が参戦し,冬季の苦しい戦闘と悲惨な退却のあと,国連軍は 12月 15日までに再び南の 38度線まで押返されてしまった。 50年 12月 31日,共産勢力はおよそ 50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻を開始したが,国連軍の絶え間ない空爆を受けて攻撃が鈍り,前線は最終的に 38度線沿いで動かなくなった。一方,マッカーサーは中国沿岸部の封鎖と満州の基地に対する空爆を当局に要求したが,それはソ連の参戦を招き,世界規模の紛争にいたると恐れるトルーマンはこの要求を却下。 51年4月,トルーマンはマッカーサーを国連軍司令官,極東軍司令官から解任し,[[リッジウェー]]将軍を後任に据えた。
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]11月に、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[カイロ宣言]]に於いて、[[1910年]]より日本領となっていた[[朝鮮半島]]一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表し、[[1945年]]2月に開催された[[ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ会談の極東秘密協定]]にて[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]][[中華民国|中]][[ソビエト連邦|ソ]]四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:4)]]</ref>。
 
  
1945年[[8月8日]]より[[ソ連対日参戦]]により[[満洲国]]に侵攻した[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]([[赤軍]])は[[8月13日]]に[[日本統治時代の朝鮮|当時日本領だった]]朝鮮の[[清津市]]に上陸していたが、同じく連合国を構成していた[[アメリカ合衆国]]は、[[1945年]][[4月12日]]に[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に昇格した[[ハリー・S・トルーマン]]の[[反共主義]]の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割[[占領]]を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は[[緯度|北緯]][[38度線]]を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
+
51年7月,停戦交渉が開始され,52年秋に[[アイゼンハワー]]が米大統領選挙に勝利するまで続いた。アイゼンハワーは北朝鮮,中国とひそかに連絡をとり,和平合意がならない場合,核兵器を使用する用意があり,対中戦争も辞さないと伝えた。 53年7月 27日,休戦が成立し,そのときの前線が南北間の事実上の国境として受入れられた。この戦争で,およそ 130万人の韓国人 (その多くは民間人) が死亡し,中国人の死者は 100万人,北朝鮮人は 50万人,アメリカ人は約5万 4000人が死亡したほか,連合軍側ではイギリス人,オーストラリア人,トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり,韓国の工業施設の大半が被害を受け,北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。
 
 
[[1945年]][[8月15日]]に[[日本]]は[[ポツダム宣言]]を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし[[8月24日]]に[[平壌]]に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の[[朝鮮建国準備委員会]]を通じた[[間接統治]]を実施し、朝鮮半島南部には[[9月8日]]に[[仁川広域市|仁川]]に上陸した[[アメリカ軍]]が[[朝鮮建国準備委員会]]を解体した後、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]による直接統治を実施、朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、[[朝鮮半島]]内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した[[左翼]]と[[右翼]]が衝突する[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合国による軍政]]を迎えた<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:4-8)]]</ref>。
 
 
 
その後、米ソ対立を背景に[[1948年]][[8月15日]]、南部に大韓民国が建国され、翌[[9月9日]]に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および[[1949年]]建国の[[中華人民共和国]]の支援を受けた北側が優勢だった。武力統一支配を目指す金日成率いる北朝鮮は[[1950年]][[6月]]、毛沢東とヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境の38度線を越えて侵略戦争を起こした<ref>http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659.html</ref>。
 
 
 
侵略を受けた韓国側には進駐していた[[アメリカ軍]]を中心に、[[イギリス]]や[[フィリピン]]、[[オーストラリア]]、[[カナダ]]、[[ベルギー]]や[[タイ王国]]などの[[国際連合|国連]]加盟国で構成された[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]](正式には「国連派遣軍」)が参戦、一方の北朝鮮側には[[抗美援朝義勇軍]](実態は金日成に韓国侵略を許可した[[中国人民解放軍]])が加わり、ソ連は[[武器]][[調達]]や[[訓練]]などで支援した。北朝鮮が意図的に起こしたため、「代理戦争」や「内戦」と表現する者には[[親北]]だと批判がなされている
 
<ref>http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659_2.html</ref>。
 
 
 
* <small>本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という[[政府]]([[国家]])そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「[[国境|国境線]]を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの[[領域 (国家)|領土]]を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。</small>
 
 
 
== 呼称 ==
 
呼称に関しては、[[日本]]では'''朝鮮戦争'''(ちょうせんせんそう)もしくは'''朝鮮動乱'''(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では'''韓国戦争'''あるいは開戦日にちなみ'''6・25戦争'''、北朝鮮では'''祖国解放戦争'''、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語で'''Korean War'''、北朝鮮を支援した中華人民共和国では'''抗美援朝戦争'''(「美」は[[中国語]]表記で「亜美利加(アメリカ)」の略)または'''朝鮮戦争'''と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「[[アコーディオン]]戦争」とも呼ばれる。
 
 
 
== 開戦までの経緯 ==
 
=== 第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況 ===
 
[[第二次世界大戦]]の連合国会議によって、降伏後の日本が朝鮮半島を含む海外領土の[[統治権]]を放棄することは既定方針であり、[[1945年]][[7月26日]]に発表された[[ポツダム宣言]]においてもその方針は明らかにされていた。
 
 
 
8月9日に行われたソ連軍の日本と[[満州国]]への侵略に伴う、日本領の朝鮮半島への侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に[[38度線]]での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍の[[ディーン・ラスク]]らによって30分間で策定されたものであり{{sfn|李圭泰|1992|pp=405-406}}、アメリカ軍占領域にその後大韓民国の首都ソウルとなる[[京城府]]が含まれる事も考慮されていた{{sfn|李圭泰|1992|pp=406}}<ref>J.ハリディ、B.カミングス共著「朝鮮戦争 -内戦と干渉-」1990 岩波書店</ref>。[[日本]]政府は[[8月14日]]にポツダム宣言受諾を[[連合国]]に通告、日本の降伏が決定された。
 
 
 
ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に8月16日に合意し、翌17日には[[一般命令第一号]]として、38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された{{sfn|李圭泰|1992|pp=405}}。合意を受けてソ連軍は8月16日以降に朝鮮半島内への本格的侵攻を開始、27日には38度線付近の都市[[新義州市|新義州]]に至った{{sfn|李圭泰|1992|pp=406}}。
 
 
 
[[9月2日]]、[[日本の降伏文書|日本は降伏文書に署名]]、正式に降伏。この際に一般命令第一号は日本側に伝達され、[[大本営]]は朝鮮半島に駐留していた日本軍に対し、一般命令第一号に従って降伏するよう通告した。
 
 
 
日本統治下の朝鮮半島内では[[独立運動]]を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあり、その勢力は小さく[[亡命]]先での活動が主だった。大きく分けると[[中華民国]][[上海市|上海]]の[[大韓民国臨時政府]]、[[中国共産党]]指導下にあった満州の[[東北抗日聯軍]]([[抗日パルチザン]])、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも朝鮮半島の住民から大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。
 
 
 
このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は全く醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった<ref>李景珉『増補版 朝鮮現代史の岐路』[[平凡社]]、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203。</ref><ref>[[金九]]は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、「自ら独立を勝ち取ることができなかったことが、今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろう」と述べたと言われている</ref>。[[朝鮮民族|朝鮮人]]が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた<ref>前掲李景珉、22頁</ref>。
 
 
 
=== 朝鮮建国準備委員会 ===
 
[[ファイル:Lyuh.W.H and Pak.H.Y.jpg|thumb|180px|left|朴憲永(左)と呂運亨(右)]]
 
[[ファイル:Preparatory Committee for National Construction in Chemulpo.JPG|thumb|250px|left|米軍の訪問を受ける建国準備委員会の済物浦(仁川)支部]]
 
諸勢力の中でも比較的統制のとれていた[[呂運亨]]の集団は、日本降伏を見越し[[8月10日]]、密かに建国同盟を結成していた。その2日前の[[8月8日]]、[[ソ連対日参戦|参戦したソ連]]は[[8月9日]]に[[豆満江]]を越え、朝鮮半島に侵攻してきた。一方、[[朝鮮総督府]]は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ[[8月15日]]、日本降伏の報を受けて直ちに'''[[朝鮮建国準備委員会]]'''を結成。超党派による建国を目指した。
 
 
 
呂自身は[[左右合作]]による朝鮮統一を目指していた。[[8月16日]]には一部の[[政治犯]]が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。[[9月6日]]、同委員会は'''[[朝鮮人民共和国]]'''の成立を宣言。その要人には[[李承晩]]、[[金日成]]、[[朴憲永]]、[[金九]]、[[チョ晩植|曺晩植]]らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。
 
 
 
一方、連合国はすでに戦時中の諸会談で、自身の主導による朝鮮半島の信託統治を決定していた(後述)。彼らにとって朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。また総督府も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱し、さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。[[9月8日]]、[[仁川]]にアメリカ軍が上陸。呂は面会を求めるが拒絶される。翌9月9日、総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲。[[9月11日]]、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカによる軍政]]が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。
 
 
 
建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。さらに反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、[[9月16日]][[宋鎮禹]]をトップとする[[韓国民主党]](韓民党)を立ち上げ、上海から[[重慶]]に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。
 
 
 
建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本の敗戦で朝鮮統治が終了した後、[[行政]]機構として一定の機能を果たしたとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であり、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。
 
 
 
朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を初めとする[[満州国|満州]][[抗日パルチザン]]出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちも次々に帰国し、独自の政治活動を展開していた。しかしこの過程で、朝鮮半島に発生した各政府はいずれも連合国全体からの承認を得られなかった。
 
 
 
=== 信託統治案 ===
 
[[ファイル:Teheran conference-1943.jpg|thumb|180px|left|[[テヘラン会談]]]]
 
[[ファイル:Anti-Trusteeship Campaign.jpg|thumb|180px|left|[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合国による信託統治]]に抗議する南朝鮮のデモ]]
 
アメリカ政府は第二次世界大戦前に行われたアジアの将来についての検討の中で、日本領となっていた朝鮮半島には信託統治を適用すべきと考えていた。さらに第二次世界大戦中の[[1942年]]には、「(日本の統治が終わった場合)[[朝鮮半島]]の住人は貧しく、文盲が多いため一世代は強大国の保護と支援が与えられなければならない」という、戦時中のためにきちんとした調査に基づかない報告書が出されており、しかしこれはアメリカの第二次世界大戦後の朝鮮半島政策の根幹となった{{sfn|李圭泰|1992|pp=393-394}}。
 
 
 
アメリカ大統領[[フランクリン・ルーズヴェルト|ルーズヴェルト]]は、1943年2月の[[アンソニー・イーデン]]英外相との対談でこの構想をはじめて明かした{{sfn|李圭泰|1992|pp=394}}。1943年11月22日の[[カイロ宣言]]では、朝鮮は自由かつ独立すべきとされていたが、「しかるべき手続きを踏んで」という、信託統治機関に含みをのこす形で発表された{{sfn|李圭泰|1992|pp=395}}。その後の[[テヘラン会談]]で「新設する[[国際連合]]によって40年間は[[信託統治]]すべき」とし、ソ連のスターリンもこれに同意した{{sfn|李圭泰|1992|pp=395-396}}。[[1945年]]2月の[[ヤルタ会談]]では「20〜30年間は信託統治すべき」とし、それに対してスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答していた{{sfn|李圭泰|1992|pp=396}}。日本の統治が終了した後の長期間の信託統治を提案したルーズヴェルトは1945年4月12日に死去したが、同月にモスクワでは米英ソ中の4カ国による信託統治が原則的に合意されている{{sfn|李圭泰|1992|pp=396}}。しかしその後、朝鮮問題についての詳細な打ち合わせは両国間で行われなかった{{sfn|李圭泰|1992|pp=396-397}}。
 
 
 
[[1945年]][[9月9日]]、アメリカ軍が朝鮮半島に入り、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島の日本軍の武装解除にあたった。先に米ソ両軍の間で締結されていた協定に即し、京城府(ソウル)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退し、半島の南側はアメリカ軍が受け持つことになった<ref>「つい先ごろ、中国戦線からペンタゴンに帰ってきた若い将校ディーン・ラスクが、38度選沿いの行政分割ラインを引いた」ディーン・アチソン回想録</ref><ref>「ダグラス・マッカーサー」ウィリアムス・マンチェスター 河出書房新社 1985年 205頁</ref>。
 
 
 
後の1945年12月、ソ連の[[首都]]の[[モスクワ]]でアメリカ、[[イギリス]]、ソ連は外相会議を開いたが([[モスクワ三国外相会議]])、朝鮮半島問題も議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として、暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。この提案は合意され('''モスクワ協定''')、[[12月27日]]に公表された<ref>[http://avalon.law.yale.edu/20th_century/decade19.asp 1945年12月27日のモスクワ協定] -[[イェール大学]]「アバロン・プロジェクト」(英文)</ref>。その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。
 
 
 
ところが韓国民主党系新聞の[[東亜日報]]が協定について「アメリカは[[カイロ宣言]]を根拠に、朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった([[東亜日報#捏造記事・疑義が持たれた報道]])。[[12月31日]]の集会とデモは空前の規模に達した。
 
 
 
信託統治に対してはほとんどの派が完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。右派は信託統治では反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。軍政庁にとって行政運営上、朝鮮人登用は必要であり、過激な運動を抑える治安問題の解決のため、即時独立に固執せずアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用した。さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認した。ここに李承晩が合流した。
 
 
 
ソ連軍占領区域のみならず、済州島など各地で自発的に生まれた[[人民委員会]]が1945年10月までに朝鮮総督府の統治組織を[[接収]]することも起こった。朝鮮の統一志向は米ソの思惑を超えて進んでいたと言える。ソ連は1945年11月に[[朝鮮民主党]]を起こした曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかったため、代わりに朝鮮共産党の北部分局のトップに過ぎなかった金日成の支援に回った。ソ連の正式な後ろ盾を得た金日成によってその後、国内の他の共産主義者たちは時間をかけて[[粛清]]されていく。
 
 
 
アメリカとソ連は、[[1946年]][[1月16日]]からの予備会談を経て、独立国家の建設を準備するための'''米ソ共同委員会'''を設置したが、李承晩などが反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張、ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、[[5月6日]]委員会は決裂、信託統治案は頓挫した。
 
 
 
=== 反米化する国内、米ソ対立 ===
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-38870-0003, Berlin, Otto Nagel, Otto Grotewohl, Kim Ir  Sen.jpg|thumb|180px|left|金日成(右)]]
 
[[ファイル:Syngman Rhee.jpg|thumb|180px|left|李承晩(左)]]
 
 
 
不調に終わった米ソ共同委員会の再開を目指すアメリカ政府は、軍政庁の[[親米]]派([[李承晩]]、[[金九]]など)に偏重した政策<ref>マッカーサーから任じられていた軍政長官の[[ジョン・リード・ホッジ|ホッジ]]司令官は生粋の軍人であり、政治や外交、朝鮮をとりまく状況などについての知識は皆無だった。これはホッジの失策というよりは、マッカーサーの朝鮮への無関心によるものだった。</ref>を批判、極左、極右を排斥して[[呂運亨]]などによる[[左右合作]]の親米政権の樹立を画策し始めた。
 
 
 
アメリカは常に朝鮮問題は東西対立の一部としてみなし、対立となる要素を国内からアメリカが主導して排除することに腐心した。一方ソ連は、朝鮮人自身の南北問題とみなし、ソ連と主義を一にする朝鮮人主導者を立てて統一を支援した。
 
 
 
ソ連占領下の北半部では、[[1946年]][[2月8日]]、[[金日成]]を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての'''北朝鮮臨時人民委員会'''を設立(翌年[[2月20日]]に'''[[北朝鮮人民委員会]]'''となる)、8月には重要産業国有法を施行して[[共産主義]]国家設立への道を歩み出した。これに対抗して[[李承晩]]は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた([[6月3日]]の「井邑発言」)。[[金九]]などはこれに反発して離反した。
 
 
 
朝鮮半島を近代化させた日本による統治が終わり、軍や政府、警察だけでなく企業も撤退して行ったことで、経済も治安も混乱した朝鮮半島はインフレが進行し失業者が急増。5月には水害と疫病([[コレラ]])が発生し1万人規模で死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生する。軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力で暴動鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネスト発生。10月には[[大邱10月事件]]が発生、全国で230万人が参加する騒乱となった。軍政庁は戒厳令を敷き鎮圧したが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁は一連の騒動の責任を左派、特に朝鮮共産党から11月に結成した[[南朝鮮労働党]]に求め、[[朴憲永]]などは弾圧を避けて[[越北]]した。
 
 
 
[[1947年]][[3月12日]]、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領は、イギリスが[[ギリシャ内戦]]への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言([[トルーマン・ドクトリン]])。それ以降、南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。そこへ反共活動のため渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。[[1947年]][[6月]]には軍政と対立したまま李承晩を中心とした'''南朝鮮過渡政府'''が設立。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂。それを機に北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
 
 
 
金日成は1948年3月に、南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(1910年から1945年の間、朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心に[[水豊ダム]]などの水力[[発電所]]を建設し、そのため南半部は[[電力]]を北半部に依存していた)。一方、李承晩は韓国内で朝鮮労働党を参加させない[[選挙]]を実施し、正式国家を樹立させることを決断した。1948年、[[済州島]]では[[南朝鮮労働党]]を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生([[麗水・順天事件]])。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件も発生した([[済州島四・三事件]])。
 
 
 
=== 分断の固定化と対立 ===
 
==== 南北の分離独立 ====
 
[[ファイル:Ceremony inaugurating the government of the Republic of Korea.JPG|thumb|180px|[[ソウル特別市|ソウル]]で行われた大韓民国の国家成立記念式典]]
 
1948年[[8月15日]]、[[ソウル特別市|ソウル]]で[[李承晩]]が'''大韓民国'''の成立を宣言。[[金日成]]はこれに対抗し[[9月9日]]にソ連の後援を得て'''朝鮮民主主義人民共和国'''を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「[[国境]]」となった。建国後、南北両政府の李承晩大統領は「[[北進統一]]」を、金日成首相は「[[国土完整]]」を主張し、共に[[政治体制]]の異なる相手国を屈服させることによる[[朝鮮統一問題|朝鮮半島統一]]を訴えた<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:9)]]</ref>。
 
 
 
その後、金日成は李承晩を倒し統一政府樹立のため、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。[[1949年]][[6月]]には、アメリカ軍も[[占領行政|軍政]]を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「[[祖国統一民主主義戦線]]」を結成した。その後大韓民国では[[8月12日]]に[[ジュネーヴ条約]]に調印し<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/07/21/9000000000AJP20090721003300882.HTML 今日の歴史(8月12日)] 聯合ニュース 2009/08/12</ref>、[[麗水・順天事件]]を受けて[[南朝鮮労働党]]をはじめとする国内の[[左翼]]、反[[李承晩]]勢力除去の為に[[11月]]に[[国家保安法 (大韓民国)|国家保安法]]が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。[[1949年]][[12月24日]]に韓国軍は[[聞慶虐殺事件]]を引き起こし[[共産匪賊]]の仕業とした<ref name="cbs20090806">{{cite news
 
|url=http://www.cbs.co.kr/nocut/show.asp?idx=1224709
 
|title= {{lang|ko|국가범죄 '문경학살사건' 항소심서도 패소 판결}}(国家犯罪'聞慶虐殺事件' 控訴審も敗訴の判決)
 
|newspaper = [[CBS]]
 
|date = 2009-08-06
 
|accessdate = 2012-01-09
 
|language = 朝鮮語
 
}}</ref>。
 
 
 
同じ頃、地続きの[[中国大陸]]ではソ連の支援を受けていた[[毛沢東]]主席率いる[[中国共産党]]が[[国共内戦]]に勝利し、[[1949年]][[10月1日]]に[[中華人民共和国]]が建国された。一方、アメリカからの支援が途絶え敗北した[[中国国民党]]の[[蒋介石]][[中華民国総統|総統]]率いる[[中華民国]]は[[台湾]]に脱出した([[台湾国民政府]])。親中派のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領率いるアメリカは、蒋介石率いる国民党政府を第二次大戦中に熱心に支援していたが、1945年にルーズヴェルトが死去するとともに大統領になったハリー・S・トルーマンは米国が仲介した[[双十協定]]や[[ジョージ・マーシャル]]による共産党との調停を国民党は破ったと看做して支援を打ち切り、[[1950年]][[1月5日]]には中国人民解放軍が国民党を追撃しても台湾に介入しないとする声明<ref name="truman1950">{{cite web|title=Harry S Truman, “Statement on Formosa,” January 5, 1950|url=http://china.usc.edu/harry-s-truman-%E2%80%9Cstatement-formosa%E2%80%9D-january-5-1950|publisher=[[南カリフォルニア大学]]|date=February 25, 2014|accessdate=2017-05-10}}</ref>まで発表して台湾に逃げた国民党を見放した。政府内の中国共産党共感者([[チャイナ・ハンズ]])や[[スパイ]]の影響も受けていた。
 
 
 
==== アメリカの誤算 ====
 
[[ファイル:Syngman Rhee 2.jpg|thumb|180px|right|韓国に到着した[[ダグラス・マッカーサー]]を迎える[[李承晩]]大統領]]
 
 
 
[[1950年]][[1月12日]]、アメリカ政府の[[ディーン・アチソン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、[[フィリピン]] - [[沖縄諸島|沖縄]] - [[日本]] - [[アリューシャン列島]]までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、[[台湾]]、[[インドシナ]]などとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「西[[太平洋]]の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、台湾や朝鮮半島は地政学上大陸と大洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。またアチソンは、広く知られる上記の発言のあとを「アメリカの安全保障に関するかぎり」(ここでアチソンが[[台湾]]と[[韓国]]を明らかに考えていた)「これらの地域への軍事的攻撃について何らかの保障ができる者はいない。そのような攻撃が行われた際には(略)最初は攻撃された人々に頼るしかないのだ。」とつづけ、彼らが断固として戦うならば国連憲章に基づき国連の裁定に訴えることができるだろうと、最後をあいまいに結んだ。<ref>『ダグラス・マッカーサー』ウィリアム・マンチェスター 河出書房新社 1985年</ref>
 
 
 
また、極東地域のアメリカ軍を統括していた[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]は占領下の日本統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった<ref>『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争(上)』デイヴィッド・ハルバースタム 文藝春秋 2009年</ref>。
 
 
 
中国大陸が共産化しても台湾不介入声明<ref name="truman1950"/>まで出したトルーマン政権の対中政策を観察していた金日成は朝鮮半島にもこれを当てはめて「アメリカによる[[西側諸国|西側陣営]]の南半部(韓国)放棄」を推察した。
 
 
 
==== スターリンによる侵攻容認 ====
 
これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と[[朴憲永]]に対し、金日成の働きかけ([[電報]]の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月にはモスクワで、T34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。
 
 
 
これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
 
 
 
==== 南北の軍事バランス ====
 
[[ファイル:Il-10 damaged Kimpo Korea 1950.jpeg|thumb|北朝鮮軍の[[イリューシン]][[Il-10 (航空機)|Il-10]]]]
 
{{Main|国境会戦 (朝鮮戦争)#作戦計画および戦力配置の概要}}
 
開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。[[韓国軍]]は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの[[粛清]]、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全くなく、戦車なし、砲91門、[[迫撃砲]]960門、航空機22機(それも[[練習機]])のみであった。
 
 
 
これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の[[歩兵]][[師団]]8個、未充足の歩兵師団2個、[[戦車師団|戦車旅団]]1個および独立戦車[[連隊]]1個の正規部隊と警備[[旅団]]5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製新鋭戦車[[T34]]/85戦車240輌、砲552門、[[迫撃砲]]1728門、[[イリューシン]][[Il-10 (航空機)|Il-10]]や[[O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体|アントノフ]][[An-2 (航空機)|An-2]]など航空機211機を有していた。また、上のソ連や中国との協定に基づき、1949年夏より独ソ戦で[[スターリングラードの戦い]]などに参加した[[高麗人]]ソ連軍兵士五千名が帰国、また中国からは、[[朝鮮族]]で構成された国共内戦の経験を持つ東北人民解放軍の3個師団と2個連隊が朝鮮人民軍に部隊ごと移籍され、3万を超える実戦を経験した兵士が増強された。
 
 
 
また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製[[M-30 122mm榴弾砲|122mm榴弾砲M1938]])に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製[[M3 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲M3]])と劣っていた。
 
 
 
== 参戦国一覧 ==
 
=== 国連軍 ===
 
* [[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]](22カ国)
 
** 大韓民国:兵力98,000人{{要出典|date=2010年1月}}(14歳〜17歳の少年少女14,400人<ref>[http://www.chosunonline.com/news/20100219000058 朝鮮戦争:少年・少女兵の実体認められる] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100221004702/http://www.chosunonline.com/news/20100219000058 |date=2010年2月21日 }} 朝鮮日報 2010/02/19 2010/02/19閲覧</ref>)
 
*** [[国民防衛軍]] 406,000人<ref name="hani20100907"/>
 
** [[アメリカ合衆国]]:兵力302,483-480,000 人
 
** [[イギリス]]:兵力15,700人
 
** [[フランス]]:兵力7,400人
 
** [[オランダ|オランダ王国]]:兵力7,200人
 
** [[ベルギー|ベルギー王国]]:兵力5,600人
 
** [[カナダ]]:兵力5,400人
 
** [[トルコ|トルコ共和国]]:兵力4,600人
 
** [[エチオピア帝国]](当時):兵力1,200人
 
** [[タイ王国]]:兵力1,100人
 
** [[フィリピン|フィリピン共和国]]:兵力1,100人
 
** [[コロンビア|コロンビア共和国]]:兵力1,100人
 
** [[ギリシャ王国]](当時):兵力1,000人
 
** [[オーストラリア]]:兵力900人
 
** [[ニュージーランド]]:兵力800人
 
** [[南アフリカ共和国]]:兵力800人
 
** [[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]:兵力400人
 
: その他[[インド]]など
 
:: 開戦当時に国連軍の占領下にあった[[日本]]は参戦国に算入されていないが、[[#日本の参加と日本特別掃海隊]]の節に記している通り、国連軍の要請(事実上の命令)により特別掃海隊などを派遣、死者も出している。
 
 
 
==== 在日義勇兵 ====
 
[[在日韓国人]]の団体である[[在日本大韓民国民団]]は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定した志願兵の募集を行ったが在日韓国人647名、日本人150名の志願者にとどまったため<ref>{{cite book
 
| title = 在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史
 
| publisher = 岩波書店
 
| author = 金賛汀
 
| pages = p13
 
| publishdate = 2007-01
 
}}</ref>、志願に応じた在日韓国人641名を選抜して韓国に送り込んだ([[在日学徒義勇軍]])(135名戦死、行方不明。242名韓国に残留)<ref>[http://www.mindan-kyoto.org/history/sub_01.html 「民団」と「朝総聯」、イデオロギーによる宿命の対決へ] 京都民団</ref>。
 
 
 
==== アメリカ海軍予備船隊 ====
 
アメリカ合衆国はこの戦争遂行に際し、[[国防予備船隊]]から第二次大戦時に大量建造して保管されていた輸送船舶の内、540隻を軍隊輸送支援のため動員した。また戦争期間中は世界的に海上輸送力に不足を来たした時期にも重なっており、1951年から1953年までは国防予備船隊より600隻以上が北欧への[[石炭]]輸送とインドへの[[穀物]]輸送(民需輸送)に使用されている<ref>「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月</ref>。
 
 
 
=== 北朝鮮・ソ連・中国連合軍 ===
 
* 朝鮮民主主義人民共和国:兵力135,000人{{要出典|date=2010年1月}}
 
* [[中華人民共和国]]([[抗美援朝義勇軍]])兵力780,000人
 
* [[ソビエト連邦]]:兵力72,000人(金日成に武器を援助している。また、ソ連軍パイロットが中国兵に扮し局地的な戦闘を行っていた)
 
 
 
== 戦争の経過 ==
 
=== 北朝鮮の奇襲攻撃 ===
 
{{Main|国境会戦 (朝鮮戦争)}}
 
[[ファイル:Korean war 1950-1953.gif|thumb|朝鮮半島を南北に移動する戦線]]
 
[[ファイル:SeoulWarDamage1.jpg|thumb|破壊されたソウル市内の建物]]
 
 
 
[[1950年]][[6月25日]]午前4時([[韓国標準時|韓国時間]])に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。[[宣戦布告]]は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が[[暗号]]命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、[[ゲリラ]]部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。
 
 
 
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車[[T-34|T-34戦車]]を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。
 
 
 
連合国軍総司令官マッカーサーは[[日本]]に居り、[[連合国軍占領下の日本|日本の占領統治]]に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。
 
 
 
トルーマン大統領も、[[ミズーリ州]]にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに[[国連安全保障理事会]]の開会措置をとるように命じて[[ワシントンD.C.]]に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明<ref name="truman1950"/>を撤回して[[第7艦隊 (アメリカ軍)|海軍第7艦隊]]が中立化を名目に[[台湾海峡]]に出動された。
 
 
 
=== 国連の非難決議 ===
 
[[6月27日]]に開催された[[国際連合安全保障理事会|安保理]]は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1の全会一致で採択した。[[拒否権]]を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「[[中国]]」を代表していた[[中華民国]]の[[中国国民党]]政府と、前年に誕生した[[中国共産党]]の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から安全保障理事会を欠席していた。
 
 
 
しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで、アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、[[ヨーロッパ]]における[[共産主義]]を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。これらのことは1950年8月27日付のスターリンから[[チェコスロバキア]]の[[クレメント・ゴットワルト]]大統領に宛てられた極秘電文によって、現在では明らかになっている<ref>{{Cite news |title= 朝鮮戦争のソ連安保理欠席 米の参戦図る|newspaper= [[産経新聞]]|date= 2008-06-28|author= [[黒田勝弘]]}}</ref>。
 
 
 
決議後、ソ連代表の[[ヤコフ・マリク]]は、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]の[[トリグブ・リー]]に出席を促されたが、スターリンから[[ボイコット]]を命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、[[粛清]]を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「[[平和のための結集決議]]」(国連総会決議377号)が制定された。
 
 
 
=== 保導連盟事件 ===
 
{{Main|保導連盟事件}}
 
[[1950年]][[6月27日]]、李承晩は[[南朝鮮労働党]]関係者の処刑を命じ、[[保導連盟事件]]が発生、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された<ref>[http://h21.hani.co.kr/section-021003000/2001/06/021003000200106200364040.html 60万人以上、120万人以下!( {{lang|ko|최소 60만명, 최대 120만명!}} )] The Hankyoreh Plus 2001年6月20日 第364号(朝鮮語)</ref>。
 
 
 
=== 韓国軍の敗退 ===
 
{{main|ソウル会戦 (第一次)|保導連盟事件|漢江人道橋爆破事件}}
 
[[ファイル:Execution of South Korean political prisoners by the South Korean military and police at Daejeon, South Korea, over several days in July 1950.jpg|thumb|韓国軍・韓国警察による政治犯等の処刑([[保導連盟事件]])。1950年7月アメリカ軍撮影]]
 
南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、[[6月27日]]に李承晩大統領による[[保導連盟員]]や[[南朝鮮労働党]]関係者の処刑命令が出された([[保導連盟事件]])<ref name="hani20100625">{{cite news
 
| url = http://h21.hani.co.kr/arti/special/special_general/27607.html
 
| title = {{lang|ko|60년 만에 만나는 한국의 신들러들 [2010.06.25 제816호]}} {{lang|ko|[특집] 김춘옥, 김노헌, 박청자, 이섭진, 안길룡, 백남길, 박남도…한국전쟁 당시 자기 목숨을 걸고 이웃의 생명을 살린 이들의 이야기}}
 
| newspaper = [[ハンギョレ]]
 
| date = 2010-06-25
 
| accessdate = 2010-07-07
 
| language = 朝鮮語
 
}}</ref>。同日、韓国政府は首都[[ソウル特別市|ソウル]]を放棄し、[[水原市|水原]]に遷都。[[6月28日]]、[[ソウル会戦 (第一次)|ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した]]。この時、命令系統が混乱した韓国軍は[[漢江]]にかかる橋を避難民ごと爆破した([[漢江人道橋爆破事件]])。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の[[士気]]も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
 
 
 
韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた[[朝鮮族]]部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは[[日本軍]]出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。
 
 
 
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備は旧日本軍の九九式小銃などが中心であり、米韓軍事協定の制約により、[[重火器]]はわずかしか支給されず[[戦車]]は1輌も存在しなかった。また、[[航空機]]も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製観測機(L-4、L-5)とカナダから購入した複座の練習機(T-6)が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍の[[Il-10 (航空機)|イリューシン Il-10]][[攻撃機]]などによる空襲で撃破されていった。
 
 
 
<!-- 註:以下2つの段落の記述は国連軍が介入した7月以降、または中国軍が介入した10月以降の話題であり「アメリカ軍の出動」節より前にあるのは記述位置誤り。何れも移動すべき先が不明のため一旦コメント化
 
 
 
ところが、韓国軍が総崩れの中で北朝鮮軍は突然南進を停止、3日間の空白の時を作った。結果的に韓国軍とアメリカ軍はこの間で勢力を巻き返すための貴重な時間稼ぎができたが、形勢有利の筈の北朝鮮軍が3日間進撃を停止した理由について明確な理由は現在も不明であるが、一説によると、韓国の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=256}}</ref>。
 
 
 
国連軍を率いた[[マシュー・リッジウェイ]]将軍は自著の「THE KOREAN WAR」の中で、退却する韓国軍が放棄した装備は、完全装備の数個師団を充分装備可能なほどだったと述べている。中国軍は、米軍、英軍ではなく韓国軍の担当区域を攻撃し総崩れとなった。リッジウェイ将軍は「韓国軍1個師団の崩壊によって、他の国連軍部隊の各側面が危険にさらされ後退を余儀なくされた」と述べている<ref>http://www.sankei.com/west/news/160429/wst1604290010-n3.html</ref>。
 
 
 
-->
 
 
 
=== アメリカ軍の出動 ===
 
[[ファイル:KoreanWar refugees2.jpg|thumb|国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民]]
 
[[ファイル:MacArthur and Sutherland.jpg|thumb|[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[ダグラス DC-4|C-54]]「バターン号」を背にするマッカーサー(右2人目)]]
 
マッカーサーは[[6月29日]]に[[東京]]の[[東京国際空港|羽田空港]]より専用機の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[ダグラス DC-4|C-54]]「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けた。
 
 
 
マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に[[在日米軍]]4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]]大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した[[金浦国際空港|金浦空港]]を[[空襲]]した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。
 
 
 
この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の[[1941年]]12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに[[徴兵]]された多くの兵士は実戦を経験していなかった。
 
 
 
一方の韓国軍は、[[7月3日]]に[[蔡秉徳]]([[陸軍士官学校 (日本)|日本陸士]]49期卒・元[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[少佐]])が参謀総長を解任され、[[丁一権]](奉天軍官学校5期卒、日本陸士55期相当・元満州国軍大尉)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。派遣されたアメリカ軍先遣隊は[[7月4日]]<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2009/06/11/0800000000AJP20090611003300882.HTML 今日の歴史(7月4日)] 聯合ニュース</ref>に北朝鮮軍と交戦を開始したが[[7月5日]]には敗北した([[烏山の戦い]])。
 
 
 
=== 国連軍の苦戦 ===
 
[[6月27日]]に[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、[[7月7日]]にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために[[西日本]]に駐留していたイギリスやオーストラリア、[[ニュージーランド]]などの[[イギリス連邦占領軍]]を含む[[イギリス連邦]]諸国、さらに[[タイ王国]]や[[コロンビア]]、[[ベルギー]]なども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に[[常任理事国]]のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。
 
 
 
[[ファイル:Hill303.png|thumb|朝鮮人民軍に射殺されたアメリカ兵捕虜([[303高地の虐殺]])]]
 
なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や[[国際連合の旗|国連旗]]の使用を許可している。しかし、[[国際連合憲章第7章|国連憲章第7章]]に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「[[国連軍]]」ではなく、「[[多国籍軍]]」の一つとなっていた。
 
 
 
準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が[[大田の戦い]]で大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている([[保導連盟事件]])<ref>[http://h21.hani.co.kr/section-021003000/2001/06/021003000200106200364040.html {{Lang|ko|최소 60만명, 최대 120만명!}}] The Hankyoreh Plus</ref>。
 
 
 
また、北朝鮮軍と左翼勢力は、[[忠清北道]]や[[全羅北道]]金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「[[右翼]]活動の経歴がある」などとして虐殺した<ref name="朝鮮日報 2008/11/28"/>。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「[[303高地の虐殺]]」が起きた<ref name="timeMonday, Aug. 28, 1950">[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,813074-1,00.html Massacre at Hill 303] Time Aug 28, 1950</ref>。
 
 
 
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し<ref name="朝鮮日報 2008/11/28">[http://www.chosunonline.com/article/20081128000046 「戦時中に後退、銃殺された将校の名誉回復を」] 朝鮮日報 2008/11/28</ref>([[離散家族]]発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる[[亡命政府]]を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている<ref>庄司潤一郎「[http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_03.pdf 庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本の対応」] 2006年 45p</ref>。金日成は「解放記念日」の[[8月15日]]までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国に[[ダンケルクの戦い|ダンケルク]]はない」と[[釜山橋頭堡の戦い]]で撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。
 
 
 
=== 仁川上陸作戦 ===
 
[[ファイル:Seoul Battle- Korean War.jpg|thumb|仁川上陸後にソウルで戦う国連軍兵士]]
 
[[ファイル:Korean War bombing Wonsan.jpg|thumb|国連軍機の爆撃を受ける[[元山市]]]]
 
{{Main|仁川上陸作戦}}
 
マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の[[9月15日]]、[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|アメリカ第1海兵師団]]および第7歩兵師団、さらに少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の[[仁川広域市|仁川]]に上陸させる[[仁川上陸作戦|仁川上陸作戦(クロマイト作戦)]]に成功した。
 
 
 
また、仁川上陸作戦に連動した'''スレッジハンマー作戦'''で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。
 
 
 
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに[[補給線]]が分断していたこともあり敗走を続け、[[9月28日]]に国連軍がソウルを奪還し、[[9月29日]]には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の[[高陽市|高陽]]では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される[[高陽衿井窟民間人虐殺]]([[:en:Goyang Geumjeong Cave Massacre|en]])が起きた<ref name="Hankyoreh111129">{{cite news
 
| url        = http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/507643.html
 
| title      = 고양 금정굴 민간인 학살…법원 "유족에 국가배상을"
 
| author    = Hwang Chun-hwa
 
| newspaper  = [[Hankyoreh]]
 
| date      = 2011-11-29
 
| accessdate = 2012-01-08
 
}}</ref><ref name="Hankyoreh100209">{{cite news
 
| url        = http://www.hani.co.kr/arti/english_edition/e_national/403731.html
 
| title      = Goyang Geumjeong Cave Massacre memorial service
 
| newspaper  = [[Hankyoreh]]
 
| date      = Feb.9,2010
 
| accessdate = 2012-01-08
 
}}</ref>。
 
 
 
この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、[[南部軍]]と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍[[脱走兵]]、南朝鮮での共産主義[[シンパ]]の活動家などから構成されていた。指揮官の[[李鉉相]]は[[済州島四・三事件|済州島「4・3蜂起」]]の指導者であった。南部軍の[[ゲリラ]]活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の[[1953年]]12月であった。
 
 
 
=== 国連軍の38度線越境 ===
 
[[1950年]][[10月1日]]、韓国軍は開戦以前から「[[北進統一]]」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。[[李承晩]]大統領は[[丁一権]]参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 286</ref>。
 
 
 
しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。しかし、[[ジョージ・マーシャル]]国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp. 65</ref>。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌[[10月2日]]にその事実がアメリカのマスコミに公表されると<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、 pp. 264</ref>、ついで[[10月7日]]にはアメリカ軍の[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7803</ref>また国連でも、ソ連が[[拒否権]]を行使できる[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で[[国際連合総会|総会]]により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、 pp. 264</ref>。
 
 
 
10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の[[周恩来]]は中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 288</ref>。
 
しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7644〜pp. 7655</ref>。
 
中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官の[[ディーン・アチソン]]はバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 288</ref>。
 
 
 
中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、[[トラック島]]において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1〜2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している<ref>ジェフリー・ペレット『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』鳥影社 pp. 1078〜pp. 1082</ref>。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。
 
 
 
その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、[[10月10日]]に韓国軍が軍港である[[元山市]]を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍が二方面より進撃する計画であった。[[ウォルトン・ウォーカー]]は、第10軍の指揮は今まで第8軍司令官として前線の作戦全般を取り仕切ってきた自分が任されるものと考えていたが、マッカーサーは第10軍団の指揮をマッカーサーを心酔している[[エドワード・アーモンド]]に継続して行わせる事とし、更にウォーカーの指揮下にあった韓国軍の半分をアーモンドの指揮下に移し、朝鮮半島の指揮権も二分、西部をウォーカー、東部をアーモンドの管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任は引き続きウォーカーが任される事となった。ウォーカーが現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問を感じ、また、第10軍団を時間がかかり危険も大きい水陸両用作戦で元山に上陸させる事に統合参謀本部の参謀らも疑問を持ったが、仁川の成功で国民的喝采を浴びているマッカーサーに対し、作戦の疑問を呈する事は憚られた<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 292</ref>。
 
 
 
10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の[[平壌]](1948年から[[1972年]]まで法的効力を有した[[朝鮮民主主義人民共和国憲法]]ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.278</ref>。平壌を脱出していた金日成は中国の[[通化]]に事実上亡命し<ref>下斗米伸夫『モスクワと金日成』岩波書店、2006年、103ページ</ref>、その息子と娘である[[金正日]]・[[金敬姫]]兄妹も中国に[[疎開]]して[[吉林省]]の中国人学校に通学していた<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/312896/1|title=金総書記訪問の中国・吉林省は「幼い頃の思い出の地」|newspaper=[[東亜日報]]|date=2010-09-24|accessdate=2017-12-19}}</ref>。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40〜60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp.66〜pp.70</ref>。
 
 
 
その様な過酷な環境下で先行していた[[林富澤]]大佐率いる韓国陸軍[[第6歩兵師団 (韓国陸軍)|第6師団]]第7連隊は[[10月26日]]に中朝国境の[[鴨緑江]]に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
 
 
 
=== 日本の参加と日本特別掃海隊 ===
 
[[ファイル:ROKS YMS-516 explosion 1.jpg|thumb|1950年10月18日、葛麻半島西側の元山港を掃海作業中に触雷して爆発する韓国軍の掃海艇YMS-516]]
 
{{Main|日本特別掃海隊}}
 
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された[[海上保安官]]や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上<ref name="total8000">ただしこの数字は、期間、場所、延べ人数など明確な定義を設定せず概数を加算したものである。(石丸、2010)を参照</ref>の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした<ref name="ishimaru">{{cite web|url =http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|title =朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―|publisher =[[防衛研究所]]|author =防衛研究所戦史部[[石丸安蔵]]|accessdate =2010-11-25|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110323030422/http://www.nids.go.jp///publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|archivedate =2011年3月23日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。
 
 
 
開戦直後から、北朝鮮軍は[[機雷]]戦活動を開始していた。[[アメリカ海軍]][[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]][[司令部|司令官]]は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、[[元山市|元山]]上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から[[山崎猛 (政治家)|山崎猛]][[運輸大臣]]に対し、日本の[[海上保安庁]]の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した<ref name="noseshougo">{{cite web|url=http://www.mod.go.jp/msdf/mf/history/img/005.pdf|title=朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊|author=[[能勢省吾]]|format=PDF|publisher=[[海上自衛隊]]|accessdate=2014-06-02}}</ref>。元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍[[掃海艇]]2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する<ref name="noseshougo"/>。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した<ref name="noseshougo"/>。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が[[制海権]]を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。
 
 
 
特別掃海隊に対して北朝鮮外相[[朴憲永]]は非難、ソ連も[[国連総会]]で非難した<ref>{{cite book
 
|author=[[金賛汀]]
 
|title=在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史
 
|publisher=[[岩波書店]]
 
|pages=156
 
|date=2007年1月}}</ref>。[[李承晩]][[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]も[[1951年]]4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた<ref>[[1951年]]4月、倭館駐屯の韓国軍部隊への演説。
 
{{cite book
 
|author=[[金賛汀]]
 
|title=在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史
 
|publisher=[[岩波書店]]
 
|pages=157
 
|date=2007年1月}}</ref><ref>金周龍「回顧録」</ref>。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという<ref>[[歴史群像]] 2005年4月号 p160 [[学研]]パブリッシング</ref>。
 
 
 
=== 中国人民志願軍参戦 ===
 
[[ファイル:ChineseKoreanWarPoster.jpg|thumb|朝鮮戦争中の[[中華人民共和国]]の[[1950年代]]前半の[[プロパガンダ]]・ポスター。「'''抗美援朝'''」([[アメリカ合衆国|'''美'''国]]に対'''抗'''して[[朝鮮民主主義人民共和国|'''朝'''鮮]]を'''援'''けることの意味)と大書されている。]]
 
金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7796</ref>。
 
 
 
当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた<ref>[http://www.wowkorea.jp/news/news_Read.asp?nArticleID=45645 スターリンが朝鮮戦争に米国誘導、当時の文書発見] [[韓国新聞]] 2008年6月25日</ref>。
 
 
 
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「[[中ソ友好同盟相互援助条約]]」に基づき、同盟関係にある[[中華人民共和国]]に肩代わりを求めていた。[[毛沢東]]主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、[[林彪]]や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。
 
 
 
# 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
 
# 長年にわたる[[国共内戦]]により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
 
# [[1949年]][[10月1日]]の中華人民共和国建国後も、「[[中国大陸|大陸]]反攻」を唱える[[中国国民党]]の[[蒋介石]][[中華民国総統|総統]]による「[[台湾国民政府]]」の支配下に置かれた[[台湾]]の「[[台湾問題|解放]]」や、[[チベット]]の「[[チベット侵攻|解放]]」など、「国内問題」の解決を優先すべき
 
 
 
しかし、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の[[朴憲永]]から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。
 
アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「[[義勇兵]]」として派遣することとした。「中国人民志願軍」('''抗美援朝義勇軍''')の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員[[林彪]]の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに[[彭徳懐]]が総司令官に指名された。副司令官は北朝鮮で要職を務めてた朝鮮族出身の[[朴一禹]]を任じ、12月の[[中朝連合司令部]]の設置からは朴一禹が朝鮮人民軍を主導することになる<ref> 田中恒夫「彭徳懐と金日成」『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、83頁</ref>。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 290</ref>。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、[[第二次世界大戦]]時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に[[日本軍]]の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。
 
 
 
参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである<ref>「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本[[軍国主義]]が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである。」</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Battle of Triangle Hill Chinese Infantrymen.jpg|thumb|left|[[中国人民志願軍|抗美援朝義勇軍]]の兵士]]
 
中朝国境付近に集結した中国軍は[[10月19日]]から隠密裏に[[鴨緑江]]を渡り、北朝鮮への進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。
 
 
 
中国軍の作戦構想は[[平壌]]-[[元山市|元山]]以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御戦を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった<ref name="zusetu85">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = [[河出書房新社]] |series=ふくろうの本| pages = 85}}</ref>。しかし中国軍が北朝鮮に進撃した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった<ref name="zusetu85"/>。そこで彭徳懐は[[亀城市|亀城]]-球場洞-[[徳川市|徳川]]-[[寧遠郡|寧遠]]の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった<ref name="zusetu85"/>。さらにこの時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった<ref name="zusetu85"/>。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした<ref name="zusetu85"/>。
 
 
 
それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。[[10月25日]]クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報を報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、[[中央情報局|CIA]]がこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 309</ref>。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は[[連合国軍最高司令官総司令部]]参謀第2部 (G2) 部長[[チャールズ・ウィロビー]]により、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.934</ref>。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1059</ref>。
 
 
 
マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.278</ref>。[[10月26日]]、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 290</ref>。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、[[迫撃砲]]を中心とした攻撃に[[大韓民国国軍]]はこれを[[朝鮮人民軍]]による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の[[鴨緑江]]を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した<ref name="zusetu86">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = [[河出書房新社]] |series=ふくろうの本| pages = 86}}</ref>。[[10月28日]]には[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|米第1海兵師団]]も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp.71</ref>。
 
 
 
前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに[[11月1日]]に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp.73</ref>。
 
 
 
さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた
 
清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した<ref name="zusetu88">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = [[河出書房新社]] |series=ふくろうの本| pages = 88}}</ref>。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した<ref name="zusetu88"/>。中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった<ref name="zusetu88"/>。
 
 
 
毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ<ref>ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp.332</ref>。
 
 
 
マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(下)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1467</ref>。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp.84</ref>。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、もっともあてにならないと思われていた<ref>[[マシュー・リッジウェイ]]『朝鮮戦争』恒文社 pp.85</ref>。
 
 
 
[[11月24日]]に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1503</ref>。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.291</ref>。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.2303</ref>。しかし実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の[[人海戦術]]の前に危機的状況に陥っていた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.2331</ref>。
 
 
 
ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.291</ref>またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった<ref>ジェフリー・ペレット『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』鳥影社 pp.1093</ref>。
 
 
 
中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.2392</ref>。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.2331</ref>。
 
 
 
マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った<ref>袖井林二郎・福島鑄郎『図説 マッカーサー』 ふくろうの本・河出書房新社、2003年 pp.122</ref>。退却した距離は10日で200kmにもなり、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|1940年]]のフランス軍や[[シンガポールの戦い]]のイギリス軍の崩壊に似たとも評された<ref>{{仮リンク|マックス・ヘイスティングス|en|Max Hastings}}『The Korean War 』Michael Joseph, 1987 pp.170</ref>。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.294</ref>。
 
 
 
[[ファイル:국민방위군 징집자들.jpg|thumb|大韓民国の[[国民防衛軍]](1951年1月)]]
 
 
 
[[12月11日]]、戦況が悪化した為、大韓民国の[[李承晩]]政権は[[国民防衛軍法]]を発効すると直ちに[[国民防衛軍]]を組織し40万人を動員した<ref name="hani20100907"/>。
 
 
 
=== LT636号沈没事件 ===
 
1950年11月15日、元山沖で大型曳船[[LT636号]]が触雷して沈没し日本人船員22名が死亡した<ref name="ishimaru"/>。
 
 
 
=== 初のジェット機同士の空中戦 ===
 
[[ファイル:Rf-86-korea-67trw.jpg|thumb|RF-86F]]
 
[[ファイル:MiG-15bis Kimpo Sep 1953.jpeg|thumb|MiG-15bis]]
 
また、中ソ友好同盟相互援助条約に基づいてソ連により中国に供与された最新鋭機である[[ジェットエンジン|ジェット]]戦闘機の[[ミコヤン]][[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]が中国軍の参戦で投入され、国連軍に編入された[[アメリカ空軍]]の主力ジェット戦闘機の[[リパブリック・アビエーション|リパブリック]][[F-84 (戦闘機)|F-84]]や[[ロッキード]][[F-80 (戦闘機)|F-80]]、[[F9F (航空機)|F9F]]、[[イギリス空軍]]の[[グロスター ミーティア]]との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。当時はまだ[[F4U (航空機)|F4U]]コルセア、[[P-51 (航空機)|P-51]]、[[F6F (航空機)|F6F]]などのレシプロ戦闘機が現役で、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。[[哨戒機]]や[[爆撃機]]はほとんどの機体がレシプロ機であり、第二次世界大戦時に使用していたボーイング[[B-29 (航空機)|B-29]]などの機体も投入された。
 
 
 
[[後退翼]]を採用したMiG-15は当初、速度差で国連軍の[[ノースアメリカン]][[P-51 (航空機)|P-51]]や[[ホーカー シーフューリー]]などの[[レシプロエンジン|レシプロ]]戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していた[[直線翼]]のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた<ref>これにより形成された空域を俗に「ミグ回廊」と呼んだ。</ref>ほか、レシプロ機であるボーイングB-29やボーイング[[B-50]]爆撃機の撃墜率を高めていった。しかし、すぐさまアメリカ軍も後退翼を採用した最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカン[[F-86 (戦闘機)|F-86A]]を投入した。旧式化したレシプロ戦闘機や直線翼のジェット戦闘機はその後の戦闘では対地攻撃などの爆撃任務や夜間戦闘任務に使用されたが、停戦後は多数の機体が退役し、[[練習機]]として運用されている。
 
 
 
初期のMiG-15は機体設計に[[欠陥]]を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国[[カナダ]]の[[カナディア|カナデア]]社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。
 
 
 
なお、中朝軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍[[パイロット (航空)|パイロット]]であったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、[[朝鮮人]]パイロットもある程度参加したと言われているが、低い練度のまま参戦したことで十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的にMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった<ref>この撃墜率には諸説あり、アメリカでは以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ソ連([[ロシア]])では2対1の損失であったとされているが、いずれにしてもF-86の勝利に終わっている。</ref>。
 
 
 
朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化された[[ヘリコプター]]が、初めて[[実戦]]投入された戦争ともなった。[[アメリカ陸軍|アメリカ陸]]・[[アメリカ海軍|海軍]]の[[シコルスキー]][[R-5 (航空機)|R-5]](HOS3E)などが配備され、敵の[[前線]]背後で[[撃墜]]された国連軍の操縦士や、前線で負傷した[[兵士|兵員]]の[[搬送]]に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。
 
 
 
なお、世界初の本格的なジェット爆撃機である[[B-47 (航空機)|ボーイングB-47]]は実戦投入されなかった。また、朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。
 
 
 
=== 国連軍の北進と中朝軍の攻勢 ===
 
[[ファイル:국민방위군 사령관 총살형.jpg|thumb|190px|[[国民防衛軍事件]]で処刑される国民防衛軍の幹部(1951年8月12日)<ref name="Newsis"/>]]
 
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は[[12月5日]]に[[平壌]]を奪回、[[1951年]][[1月4日]]には{{仮リンク|ソウル会戦 (第三次)|ko|1·4 후퇴|label=ソウルを再度奪回した}}。[[1月6日]]、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した([[江華良民虐殺事件]])<ref>{{cite news
 
|url=http://www.kyeongin.com/news/articleView.html?idxno=229411#
 
|title={{lang|ko|강화교동도 학살・1 '우익단체가 주민 212명 총살' 공식확인 유족 주장 사실로…}}
 
|newspaper = 京仁日報
 
|date = 2006-02-28
 
|accessdate = 2010-11-21
 
}}</ref>。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに[[忠清北道|忠清道]]まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、[[国民防衛軍事件]]などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した<ref name="Newsis">{{cite news
 
| url = http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=003&aid=0000623016
 
| title = {{Lang|ko|'국민방위군' 희생자 56년만에 '순직' 인정}}
 
| newspaper = Newsis
 
| date = 2007-10-30
 
| accessdate = 2010-04-22
 
| language = 朝鮮語
 
}}</ref>。[[2月9日]]には韓国陸軍第11師団によって[[居昌良民虐殺事件]]が引き起こされた。
 
 
 
37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ[[第1軍団 (アメリカ陸軍)|第1軍団]]、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国[[第1軍団 (韓国陸軍)|第1軍団]]を第一線に配置し、後方にアメリカ[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]を配置、アメリカ[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた<ref name="zusetu97">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 97}}</ref>。
 
 
 
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた<ref name="zusetu97"/>。
 
12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部[[マシュー・リッジウェイ]]副参謀長を後任として推薦した。トルーマンや統合参謀本部の評価はマッカーサーより高く「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」との評価で、アメリカ陸軍が得た最高の人物という評価であり、マッカーサーの推薦を承認しウォーカーの後任を命じた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.3431</ref>。
 
 
 
リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた<ref>デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.3571</ref>。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた<ref>ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.304</ref>。
 
 
 
リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた<ref name="zusetu97"/>。
 
 
 
1951年[[1月25日]]、[[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25師団]]と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した<ref name="zusetu97"/>。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に[[水原市|水原]]-[[利川市 (京畿道)|利川]]の線に進出した<ref name="zusetu97"/>。[[1月27日]]、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した<ref name="zusetu97"/>。北上するにつれて第50軍と[[第38集団軍|第38軍]]の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した<ref name="zusetu97"/>。
 
 
 
西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって[[洪川]]付近に中国軍が集結していることを掴んだ<ref name="zusetu97"/>。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-[[江陵市|江陵]]の線に進出するように命じた<ref name="zusetu97"/>。[[2月5日]]から北進を開始し、順調に進展していたが、[[横城郡|横城]]付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した<ref name="zusetu98">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 98}}</ref>。
 
 
 
[[2月11日]]夜、中朝軍が横城正面に[[第40集団軍|第40]]、[[第42集団軍|42]]、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の[[第39集団軍|第39軍]]で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した<ref name="zusetu98"/>。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した<ref name="zusetu98"/>。
 
 
 
攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、[[2月18日]]には後退の兆候も見られるようになった<ref name="zusetu99">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 99}}</ref>。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した<ref name="zusetu99"/>。[[2月21日]]、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅はかなわなかった<ref name="zusetu99"/>。
 
 
 
リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパ―作戦を命じた<ref name="zusetu99"/>。[[3月7日]]、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した<ref name="zusetu99"/>。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した<ref name="zusetu99"/>。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを収復した<ref name="zusetu100">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 100}}</ref>。
 
 
 
4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン([[臨津江]]-全谷-[[華川郡|華川]]-[[襄陽郡|襄陽]])を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した<ref name="zusetu101">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 101}}</ref>。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩ませながらもユタ・ラインに進出した<ref name="zusetu101"/>。各軍団は21日からワイオミング・ライン([[漣川郡|漣川]]-[[鉄原郡|鉄原]]-[[金化郡|金化]]-華川)を目指して北上した<ref name="zusetu101"/>。
 
 
 
4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した<ref name="zusetu101"/>。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた<ref name="zusetu101"/>。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した<ref name="zusetu102">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 102}}</ref>。新たに第8軍司令官として着任した[[ジェームズ・ヴァン・フリート|ヴァンフリート]]中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した<ref name="zusetu102"/>。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した<ref name="zusetu102"/>。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した<ref name="zusetu102"/>。
 
 
 
国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた<ref name="zusetu102"/>。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計30個師団を太白山脈沿いの韓国第3軍団に向けた<ref name="zusetu103">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 103}}</ref>。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた<ref name="zusetu103"/>。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した<ref name="zusetu103"/>。
 
 
 
カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した<ref name="zusetu103"/>。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた<ref name="zusetu103"/>。
 
 
 
7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した<ref name="zusetu107">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = 河出書房新社 |series=ふくろうの本| pages = 107}}</ref>。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した<ref name="zusetu107"/><ref name="paik445">{{citation |和書|author = 白善燁 | title = 若き将軍の朝鮮戦争 | year = 2013 | publisher = 草思社 |series=草思社文庫| pages = 445}}</ref>。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した<ref name="zusetu107"/>。
 
 
 
=== 膠着状態に ===
 
中国軍は[[日中戦争]]や[[国共内戦]]における[[中華民国軍]]との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。
 
 
 
それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し[[3月14日]]にはソウルを再奪回した<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/18/9000000000AJP20090218004200882.HTML 今日の歴史(3月14日)] 聯合ニュース 2009/03/14</ref>ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
 
 
 
中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した<ref name="zusetu108">{{citation |和書|author = 田中恒夫 | title = 図説朝鮮戦争 | year = 2011 | publisher = [[河出書房新社]] |series=ふくろうの本| pages = 108}}</ref>。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した<ref name="zusetu108"/>。
 
 
 
1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった<ref name="zusetu108"/>。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた<ref name="zusetu108"/>。
 
 
 
=== マッカーサー解任 ===
 
[[ファイル:Kainin6303.jpg|right|thumb|220px|マッカーサー解任・リッジウェイ着任を報じる新聞(世界通信)]]
 
[[1951年]][[3月24日]]にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に<ref>ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』新潮文庫&lt;第1部&gt;</ref>38度線以北進撃を命令<ref>[http://s01.megalodon.jp/2009-0324-2210-16/japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/27/9000000000AJP20090227003400882.HTML 今日の歴史(3月24日)] 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧</ref>し、国連軍は[[3月25日]]に東海岸地域から38度線を突破する<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/27/9000000000AJP20090227003500882.HTML 今日の歴史(3月25日)] 聯合ニュース 2009/03/25</ref>。
 
 
 
またマッカーサーは、[[満州国]]建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた[[満州]]の工業設備や[[インフラストラクチャー]]施設を、ボーイングB-29とその最新型の[[B-50 (航空機)|B-50]]からなる戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために[[放射性物質]]を散布する事をトルーマンに進言した。
 
 
 
この当時のマッカーサーによる、中華人民共和国国内への攻撃、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、[[原子爆弾]]の使用などの提言は、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまに[[シビリアンコントロール]]を無視した発言であった。
 
 
 
マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいては[[ヨーロッパ]]まで緊張状態にし、その結果として[[第三次世界大戦]]に発展することを恐れたトルーマン大統領は、[[4月11日]]にマッカーサーをすべての軍の地位から<ref>[[歴史群像]] 2005年4月号 p160 [[学研]]パブリッシング</ref>解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官の[[マシュー・リッジウェイ]]大将が着任した。
 
 
 
解任されたマッカーサーは、[[4月16日]]に専用機「バターン号」で家族とともに[[東京国際空港]]からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。
 
 
 
=== 韓国軍の強化 ===
 
1951年5月末、カンザスラインをほぼ確保した時点で、再び機動戦が展開されることはないと判断され、第8軍と韓国陸軍本部は協議して韓国軍の再訓練に取り掛かった<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 若き将軍の朝鮮戦争 | year = 2013 | publisher = 草思社 |series=草思社文庫| pages = 451}}</ref>。
 
 
 
1951年7月、野戦訓練団が[[束草市|束草]]の南側に創設され、アメリカ軍から第9軍団副軍団長のトーマス・クロス准将をチーフとする教官、助教あわせて150人が派遣された<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 206}}</ref>。訓練期間は9週間を予定し、各個教練、小銃射撃、分隊訓練の基本から師団司令部の幕僚勤務まで、あらゆる訓練をやり直した<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 207}}</ref>。最初の訓練対象は第3師団となり、9週間後の検閲で合格し、アメリカ軍第10軍団に編入されて第一線に復帰した<ref name="haku208">{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 208}}</ref>。1952年末までに全10個師団が訓練を受けた<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 若き将軍の朝鮮戦争 | year = 2013 | publisher = 草思社 |series=草思社文庫| pages = 452}}</ref>。
 
 
 
既存部隊の再訓練と並行して各兵科の専門教育の充実も計られた<ref name="haku208"/>。何千人もの将校、下士官がアメリカの陸軍歩兵学校や砲兵学校などの実施学校で受け、高級幹部は[[アメリカ陸軍指揮幕僚大学]]にも留学している<ref name="haku209">{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 209}}</ref>。5〜10ヵ月の短期課程を終えて帰国した要員は、17の各種実施学校の教官、助教となった<ref name="haku209"/>。済州島に開設された第1訓練所には負傷して前線勤務が出来なくなった者を教官や助教に充て、新兵には16週間の基本教練が行われ前線に補充された<ref name="haku453">{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 若き将軍の朝鮮戦争 | year = 2013 | publisher = 草思社 |series=草思社文庫| pages = 453}}</ref>。
 
 
 
1952年1月に正規4年制の陸軍士官学校が鎮海で開校され、4月から教育を始めた。また1951年12月には大邱に幕僚学校が開設されて参謀の育成も始まった<ref name="haku453"/>。
 
 
 
戦線では再訓練の効果が現れ、東部戦闘地区と中央東側戦闘地区における国連軍の攻撃作戦の多くは、ほとんど韓国軍の部隊で実行された<ref>{{cite book |和書|author = マシュウ・B・リッジウェイ |translator = 熊谷正巳,秦恒彦  | title = 朝鮮戦争 | publisher = 恒文社 | pages = 231}}</ref>。
 
 
 
将来予想される休戦線の長さ、韓国の国力、期待できる軍事援助などを考慮し、20個師団が必要と算定し、1952年11月から新師団の編成が始まった<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 210}}</ref>。1952年末の時点で前線部隊の4分の3近くを韓国軍が占めるようになり、前線に配備された16個師団のうち、11個師団は韓国軍、3個師団は米陸軍、残りの2個師団はそれぞれ米海兵隊と英連邦軍であった<ref name="m259">{{cite book |和書|author = マシュウ・B・リッジウェイ |translator = 熊谷正巳,秦恒彦  | title = 朝鮮戦争 | publisher = 恒文社 | pages = 259}}</ref>。他の韓国軍部隊は、韓国海兵連隊をアメリカ軍第1海兵師団に編入させるなどして、いくつかのアメリカ軍師団を補強した<ref name="m259"/>。またヴァンフリートは予備として韓国軍1個師団とアメリカ軍3個師団を用意した<ref name="m259"/>。20個師団体制は休戦後の1953年11月に確立した<ref>{{cite book |和書|author = 白善燁 | title = 指揮官の条件 | publisher = 草思社 | pages = 211}}</ref>。
 
 
 
== 停戦 ==
 
{{main|朝鮮戦争休戦協定}}
 
[[ファイル:US and North Korean negotiators initial maps showing the north and south boundaries of the demarcation zone HD-SN-99-03175.JPEG|thumb|休戦会談を行う両陣営(1951年10月11日)]]
 
この後、1951年[[6月23日]]にソ連の[[ヤコフ・マリク]][[国連大使]]が[[休戦協定]]の締結を提案したことによって[[停戦]]が模索され、1951年[[7月10日]]から[[開城]]において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
 
 
 
=== 休戦協定 ===
 
[[1953年]]に入ると、アメリカでは1月に[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年[[7月27日]]に、38度線近辺の[[板門店]]で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で[[朝鮮戦争休戦協定|休戦協定]]が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:[[金日成]]朝鮮人民軍最高司令官、[[彭徳懐]]中国人民志願軍司令官、[[マーク・W・クラーク|M.W.クラーク]]国際連合軍司令部総司令官。なお「[[北進統一]]」に固執した[[李承晩]]大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
 
 
 
停戦協定は結ばれたものの、[[板門店]]が[[ソウル特別市|ソウル]]と[[開城市]]の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
 
 
 
=== 中立国停戦監視委員会 ===
 
なお、その後両国間には[[中立]]を宣言した[[スイス]]、[[スウェーデン]]、[[チェコスロバキア]]、[[ポーランド]]の4カ国によって[[中立国停戦監視委員会]]が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、[[1958年]][[10月26日]]に完全撤収した。
 
 
 
== 犠牲と損害 ==
 
[[ファイル:Bodo League massacre mass grave US ARMY 1950.jpg|thumb|[[保導連盟事件]](1950年7月アメリカ軍撮影)]]
 
[[ファイル:DMZ_seen_from_the_north,_2005.jpg|thumb|板門店]]
 
{{出典の明記|date=2014年1月|section=1}}
 
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。しかしこれらの推計は発表者によって数値にかなりの差がある。
 
 
 
アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。これに対して、中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している。
 
 
 
また西側の推定によれば中国軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者を出している。一方中華人民共和国側の公式発表によれば、北朝鮮軍は29万人の犠牲を出し、9万人が捕らえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされ、中国軍については戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人となっている。これらの捕虜のうち約1万4000人が中華民国(台湾)へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。毛沢東の息子の一人[[毛岸英]]も戦死した<ref>毛沢東は[[文化大革命]]の際、司令官の[[彭徳懐]]を[[紅衛兵]]にいたぶり殺させ、その恨みを晴らした(高山正之『オバマ大統領は黒人か』)。</ref>。
 
 
 
戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人〜500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。民間人に対する惨劇の最悪の実行者は[[韓国警察]]であった<ref name="to20130712"/>。開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたもののアメリカ軍による[[検閲|報道検閲]]の実施により隠ぺいされるようになった<ref name="to20130712">H Patricia Hynes [http://www.truth-out.org/news/item/17533-the-korean-war-forgotten-unknown-and-unfinished The Korean War: Forgotten, Unknown and Unfinished] [[:en:Truthout|Truthout]] 12 July 2013</ref>。また、ソウルにいた[[金億]]や[[朴烈]]らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。
 
 
 
また、現在両国において[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の建造物が、同じく日本統治であった[[台湾]]に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。一方で、アメリカ軍によってアメリカに運ばれて難を逃れた文化財が多数あるが、韓国では御宝窃盗事件として報じられ、現在にいたっても返還を要求する運動がなされている<ref>[https://web.archive.org/web/20130827214539/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0826&f=national_0826_015.shtml 米兵に文化財盗まれた…「答えろオバマ」署名運動=韓国] Searchina 2013/08/26 《2017年7月23日閲覧;現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存》</ref>。
 
 
 
アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85パーセントは民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンの[[ナパーム弾]]が投下され、爆弾の総重量は60万[[トン]]以上にのぼり、第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍である。
 
 
 
中国人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、[[艦砲射撃]]により大きな損害を被った事が一因とされる。それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げた。
 
 
 
== 慰問団・慰安婦 ==
 
=== アメリカ軍慰問団 ===
 
国連軍の中で最大規模の軍隊を派遣したアメリカ軍に対して、アメリカ本国から慰問団の訪問が相次ぎ、[[ボブ・ホープ]]や[[アル・ジョルスン]]、[[ジェリー・ルイス]]などの当時人気の絶頂期にあった[[俳優]]や[[コメディアン]]が、日本国内の基地などを経由して前線に慰問に訪れ、兵士らを相手に公演を行った他、停戦後にも韓国に駐留するアメリカ軍に対して、日本を[[ジョー・ディマジオ]]との[[ハネムーン]]に訪れた[[マリリン・モンロー]]が訪れた。朝鮮戦争を通して、国連軍兵士のための[[在韓米軍慰安婦問題|国連軍慰安所]]が韓国の行政官によって運営された<ref name="Höhn5152">{{cite book |last= Höhn |first= Maria |title= Over There: Living with the U.S. Military Empire from World War Two to the Present |url=http://books.google.co.kr/books?id=PvwcGFI0C9sC&pg=PA46&dq=Yanggongju+prostitue&hl=en&sa=X&ei=-zdhUZbJDMWOige_t4HgCw&redir_esc=y#v=onepage&q=Yanggongju%20prostitute&f= |publisher= [[Duke University Press]] |year=2010 |ISBN= 0822348276  |pages= 51-52}}</ref>。
 
 
 
=== 韓国軍慰安婦 ===
 
{{Main|韓国軍慰安婦}}
 
韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった<ref>[https://web.archive.org/web/20020223225519/http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html 朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表] 朝日新聞 2002年2月23日</ref>。また、慰安婦で構成される「特殊慰安隊」と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達の中には拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった<ref>[http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635 韓国軍'特殊慰安隊'は事実上の公娼 創刊2周年記念発掘特集 韓国軍も'慰安婦'運用した 2] [[OhmyNews]] 2002-02-26(朝鮮語)</ref><ref>[http://www.ilyosisa.co.kr/SUNDAY/SUN_0323/TM_0302.html ミニインタビュー‘韓国軍慰安婦’問題提起したキム・ギオック博士“明かされたのはパズルの一部”] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111006141108/http://www.ilyosisa.co.kr/SUNDAY/SUN_0323/TM_0302.html |date=2011年10月6日 }} 日曜時報 2002年3月26日323号 {{ko icon}}</ref>。韓国軍やアメリカ軍の前線には第五品目補給物資としてドラム缶に押し込められた女性達がトラックで補給され夜間に利用された<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=157}}</ref>。
 
 
 
== 影響 ==
 
[[毛沢東]]は戦前には核兵器を「張り子の虎」と呼び軽視していたが、朝鮮戦争終了後には核開発を本格的に開始している<ref name="張小明"/>。
 
 
 
=== 朝鮮半島の分断と離散 ===
 
「夫が兵士として戦っている間に郷里が[[占領]]された」、というような[[離散家族]]が多数生まれた。マッカーサーは平壌に[[核爆弾]]を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(今日の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が[[独裁政治|独裁政権]]として安定することとなった。両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない。日本の地図でいう[[北方地域|北方領土]]や[[竹島 (島根県)|竹島]]と同じようなもの)。さらに国際法上では現在も戦闘が終結していない(休戦中)ままである。ここが、分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして[[ドイツ再統一|統一]]まで至った東西[[ドイツ]]との決定的な違いである。
 
 
 
なお[[日本]]も韓国と同じように北朝鮮を国家として正式には承認しておらず、外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と地域扱いしているが、国際政治の舞台では実質的に国家扱いしている。日本国内で発行されているほとんどの地図でも「朝鮮民主主義人民共和国」と国名が記されており、ひとつの国家として扱われている<ref>他の東西[[冷戦]]による[[分断国家]]も基本的に同様の扱いであった。なお、[[日中国交正常化]]以降の[[中華民国]]([[台湾]])については日本国内の民間地図においても国家として扱われていないが、これは例外的であり、日中国交正常化以前は[[中華民国]]、[[中華人民共和国]]の双方を実質的に国家として扱うのが一般的であった。</ref>。日本国内の[[在日本朝鮮人総聯合会]]は、主に[[日本社会党]](後の[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]])を通して、事実上の政府代表部として機能していた。
 
 
 
=== 日本への影響 ===
 
[[ファイル:Yokohama Koreanwar.jpg|thumb|横浜港に到着した連合国軍兵士の棺]]
 
[[ファイル:Suita Incident.jpg|thumb|[[在日朝鮮人]]による[[火炎瓶]]攻撃で負傷した[[警察官]]([[吹田事件]])]]
 
朝鮮戦争は戦争発生以来、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、[[オーストラリア]]や中華民国、ソビエト連邦などを中心とした連合国の占領下にあった戦後日本の政治、経済、防衛にも重要な影響を与え、一つの重大な転機とさえなった。
 
 
 
日本を占領しているアメリカ軍やイギリス軍からは韓国への援軍が順次送られていたが、劣勢が伝えられていた時期には士気が低下し、脱走兵による騒乱事件も発生した([[小倉黒人米兵集団脱走事件]])。
 
 
 
当時の国会では1946年1月に[[尾崎行雄]]が[[衆議院議長]]へ[[元号]]改元の意見書を提出したことを契機に、改元や廃止など元号問題が取り沙汰されていた。しかし朝鮮戦争の勃発により議題は棚上げされ、停戦以降も様々な問題への対処が優先されたため元号の議論は低調にとどまり、そのまま元号と西暦を併用し続けることとなった。
 
 
 
一時は国連軍が劣勢に立たされ、朝鮮半島の端まで戦線が下がったことから日本への上陸も憂慮されていたが、当時の防衛は占領軍頼みであり、民間でも自主的に対策が検討された。[[上野動物園]]では日本への戦闘拡大により飼育が困難となった際、戦時中の[[戦時猛獣処分]]の再現や空襲被害による動物の死亡・逃亡を避けるため、1950年末から1951年1月にかけてマニュアルを策定、[[伊豆大島]]への疎開を行う方針を固めていた。
 
 
 
==== 逆コース ====
 
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した[[共産主義国]]に対抗するため、日本の[[戦争犯罪|戦犯]]追及が緩やかになったり、賠償負担がにわかに軽減されたりした。日本を独立させる[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]締結が急がれ、1951年[[9月8日]]に[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安全保障条約]]と共に締結された。サンフランシスコ平和条約の発行に先立ち、[[SCAP]]覚書により賠償責任は完全免除された。さらに[[警察予備隊]]([[自衛隊]]の前身)の創設・発足が実現したことで事実上軍隊が復活した。これらの事象をまとめて[[讀賣新聞]]は「[[逆コース]]」と呼んだ。
 
 
 
もっとも、日本の再軍備自体は連合国軍による占領終了後には必要となってくることから、アメリカ陸軍長官[[ケネス・ロイヤル]]が1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していた。
 
 
 
==== 在日韓国・朝鮮人と日本共産党による武装蜂起、テロ事件、および左翼運動規制の強化 ====
 
{{See|在日韓国・朝鮮人|祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)|在日朝鮮統一民主戦線|中核自衛隊|山村工作隊|レッド・パージ}}
 
[[朝鮮総連]]と在日朝鮮人、その関係者、また[[日本共産党]]員などによる日本政府や警察に対する武装蜂起、テロ事件も多数発生し、[[1951年]][[3月21日]]には北朝鮮を支持する在日朝鮮人による[[浅草米兵暴行事件]]によって、日本の占領任務にあたっていた連合国軍兵士(アメリカ軍兵士)に死傷者が出て<ref name="shugin19510322">{{cite web
 
| url = http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/010/0488/01003220488012a.html
 
| title = 第010回国会 法務委員会 第12号
 
| work = [[衆議院]]
 
| publisher = [[国立国会図書館]]
 
| date = 1951-03-22
 
| accessdate = 2010-03-21
 
}}</ref>、[[1951年]][[12月1日]]に[[東成警察署襲撃事件]]、[[1951年]](昭和26年)[[12月16日]]に国連軍を支援する工場に対して襲撃が加えられた[[親子爆弾事件]]、[[1952年]]([[昭和]]27年)[[5月1日]]に[[血のメーデー事件]]、[[1952年]][[5月25日]]〜[[5月26日]]に[[高田事件 (法学)|高田事件]]、[[1952年]][[5月30日]]に[[大梶南事件]]、[[1952年]][[6月24日]]〜[[6月25日]]に[[吹田事件]]・[[枚方事件]]、[[1952年]][[7月7日]]に[[大須事件]]などが起こった<ref name="hyom">[[兵本達吉]]『日本共産党の戦後秘史』新潮文庫・2008年,p114-255.</ref><ref>[[森田実]]「[http://moritasouken.com/sC2242.HTML 森田実の言わねばならぬ 2013.9.6(その1)平和・自立・調和の日本をつくるために【584】]」</ref>。
 
 
 
これら一連の事件は、朝鮮戦争を有利に進める為に連合国軍の後方を攪乱しようとするソ連と、それに呼応した朝鮮総連と在日朝鮮人、日本共産党による計画的な騒擾事件であった<ref name="hyom"/>。これを受けて[[1952年]][[7月21日]]、[[破壊活動防止法]]が施行。
 
 
 
なお、在日韓国人側が引き起こした事件として、[[1959年]][[12月4日]]に[[在日朝鮮人の帰還事業]]を妨害するため、「[[在日義勇兵]]」によって[[新潟日赤センター爆破未遂事件]]が引き起こされた。
 
 
 
このほかに、戦火を逃れるために朝鮮半島から大量の密入国者が流入することとなった<ref name="shugin19501208">{{cite web
 
| url = http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/023/0488/02312080488003a.html
 
| title = 第023回国会 衆議院法務委員会 第3号
 
| work = 衆議院
 
| date = 1950-12-08
 
| accessdate = 2010-08-15
 
}}</ref>が、韓国政府が摘発された密入国者の送還を拒んだため、日本政府予算を逼迫する深刻な事態となった<ref name="shugin19501208"/>上に、多くがそのまま不法滞在を続けることとなった。これに関連し、在日韓国人と在日朝鮮人や避難民の間で騒乱事件が度々発生した。
 
 
 
==== アメリカ軍による朝鮮戦争特需とそれによる経済活性化 ====
 
{{See|[[朝鮮特需]]}}
 
朝鮮特需とは、朝鮮戦争に伴い、[[在韓米軍]]・[[在日米軍]]から[[日本]]に発注された物資やサービスを指す。また在日[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]、外国関係機関による間接特需という分類も存在する。日本はアメリカ軍の補給基地として重要な役割を果たした。朝鮮戦争勃発直後の[[8月25日]]には、[[横浜市]]に[[在日兵站司令部]]が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。その額は[[1950年]]から[[1952年]]までの3年間に特需として10億ドル、[[1955年]]までの間接特需として36億ドルと言われる。なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は'''[[特需景気]]'''、'''糸ヘン景気'''、'''金ヘン景気'''、'''朝鮮戦争ブーム'''、'''朝鮮動乱ブーム'''などと呼ばれた。日本はこの好景気により経済再建の機を掴んだ。
 
 
 
=== アメリカへの影響 ===
 
この戦争においてアメリカは国連軍の中枢として48万人に上る将兵と大規模な正規軍を送り、4万人を超える戦死者を出したが、その規模にもかかわらず政治や経済など国内情勢にほとんど影響を与えなかったことから「忘れられた戦争」とも呼ばれる<ref>アラン・ミレット「[http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2006/forum_j2006_08.pdf 朝鮮戦争とアメリカ-戦争と内政-]」</ref>。
 
 
 
=== 中華人民共和国への影響 ===
 
中華人民共和国では、戦時中に中ソ友好同盟相互援助条約を理由としたソビエト連邦からの空軍を中心とする多数の最新兵器の供与で、軍備近代化がおし進められた<ref name="張小明">張小明 「[http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2006/forum_j2006_06.pdf 朝鮮戦争と中国—戦略、国防及び核開発への影響—]」</ref>。また、北朝鮮との間に軍事同盟である[[中朝友好協力相互援助条約]]を結び、その関係はその後50年以上続いたが、ソ連との同盟関係は数年後の「[[中ソ対立]]」によって解消された。
 
 
 
=== インドシナ戦争への影響 ===
 
朝鮮戦争が起きると米中ソは朝鮮半島からみて中国沿岸部の反対側に位置するベトナムで起きていた[[第一次インドシナ戦争]]への介入を本格的に始めた。
 
第一次インドシナ戦争は朝鮮戦争休戦から約一年後の[[ディエンビエンフーの戦い]]により終結した。
 
 
 
== 休戦から現在まで ==
 
[[ファイル:Panmunjeom3.jpg|thumb|板門店の軍事停戦委員会本会議場]]
 
{{Main|朝鮮民主主義人民共和国の国際関係|朝鮮統一問題}}
 
 
 
; 韓国
 
: 韓国は停戦後も引き続き李承晩大統領による独裁が維持され復興が遅れていた。このため北朝鮮の呼びかけにより在日朝鮮人の帰国事業が行われると日本に工作員を送り込み[[新潟日赤センター爆破未遂事件]]を引き起こし帰国事業を妨害した<ref name="chosun20110430">{{cite news
 
| url = http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2011/04/30/2011043000063.html
 
| title = 50여년前 66인의 北送저지 공작대를 아십니까
 
| newspaper = [[朝鮮日報]]
 
| date = 2011-04-30
 
| accessdate = 2012-01-25
 
| language = [[朝鮮語]]
 
}}</ref>。クーデターにより政権を掌握した[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が日本と[[財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定|日韓経済協力協定]]を締結し多額の資金を得て、また[[ベトナム戦争#韓国軍の参戦|ベトナム出兵]]によって急速な復興と成長を成し遂げ、『[[漢江の奇跡]]』と称され、[[1980年代]]には日本に次ぐ[[アジア]]有数の[[工業国]]となった。北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、[[全斗煥]]の時代には3倍に開いた。[[1972年]]までに1万人を超える[[北派工作員]]と呼ばれる武装工作員を北朝鮮に送り込んだ<ref>{{cite web
 
| url = http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/426469.html
 
| title =천안함, 북파공작원 그리고 ‘국가의 거짓말’
 
| author = 김보근
 
| publisher = [[ハンギョレ]]
 
| date = 2010-06-19
 
| accessdate = 2012-01-25
 
}}</ref>。
 
[[ファイル:Abductee families of North Korean abductions.jpg|thumb|2006年、[[北朝鮮による日本人拉致問題]]について被害者家族[[横田早紀江]]らと会談する[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]。左に座っている少女は[[瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件]]の家族の一人]]
 
; 北朝鮮
 
: 戦争開始間もない1950年6月30日には[[北朝鮮労働党]]と[[南朝鮮労働党]]が合同して[[朝鮮労働党]]が成立し、その後も同党による一党独裁が継続している。休戦直後の1953年、旧[[南朝鮮労働党]]の勢力は[[朴憲永]]らの指導者が逮捕され消滅した。1956年の[[スターリン批判]]後にはソ連との関係が悪化し、朝鮮労働党[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]]の領袖である金日成が[[延安派]]・[[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]などの国内派閥の粛清を進め、党内での独裁権を確立した([[8月宗派事件]])。[[対南工作]]と呼ばれるゲリラ戦や[[スパイ]]を繰り返し、韓国を含む外国民の[[拉致]]を行った([[北朝鮮拉致問題]])。ほか、1968年の[[青瓦台襲撃未遂事件]]や1976年の[[ポプラ事件]]など緊張をもたらす事件が発生した。1980年代以降は度重なる経済政策の失敗により韓国との経済格差が広がるだけでなく、ソ連崩壊や冷戦終結により東側諸国からの援助も減り、飢饉による飢餓が起きるなど深刻な経済状況が続いた。
 
 
 
=== 現在 ===
 
韓国の[[金大中]]・[[盧武鉉]]両大統領時代には[[太陽政策]]により対立が緩和され、[[2000年]]には[[南北首脳会談]]が実現した。しかし[[2010年]][[3月]]に[[韓国哨戒艦沈没事件]]が発生して[[6月]]に北朝鮮が戦争事態を宣言、さらに同年[[11月23日]]に[[延坪島砲撃事件]]が発生して関係が悪化した。
 
 
 
両国は[[平和条約]]の締結や両国政権の相互承認などには至っておらず、2016年現在も準戦時体制にある。[[国際法]]上では「休戦」(戦闘の一時休止)であり、戦争は「継続中」である。北朝鮮は1994年、1996年、2003年、2006年、2009年、2013年の6回、もはや休戦協定に束縛されないと表明している<ref>{{cite web |url= http://english.yonhapnews.co.kr/northkorea/2009/05/28/46/0401000000AEN20090528004200315F.HTML |title= Chronology of major North Korean statements on the Korean War armistice |publisher= Yonhap |work= News |date= 2009-05-28 |archiveurl= https://www.webcitation.org/6F0QuE8HO?url=http://english.yonhapnews.co.kr/northkorea/2009/05/28/46/0401000000AEN20090528004200315F.HTML |archivedate= 2013年3月10日 |deadurl= no |accessdate= 2013-03-08 |deadlinkdate= 2017年10月 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-21709917 |title=North Korea ends peace pacts with South |publisher=BBC News |date=2013-03-08 |archiveurl=https://www.webcitation.org/6F0Qo2CpN?url=http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-21709917 |archivedate=2013年3月10日 |deadurl=no |accessdate=2013-03-10 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>が、国際連合は休戦協定は国際連合総会で採択されたものであり南北朝鮮のいずれかが感情的に破棄できるものではないとしている<ref>{{cite web|url = http://bigstory.ap.org/article/un-says-korean-war-armistice-still-force|publisher=Associated Press| title= UN Says Korean War Armistice Still in Force|date=2013-03-11|accessdate= 2013-03-28}}</ref>。
 
 
 
現在でも、軍事境界線上にある板門店の[[共同警備区域]]内に置かれた「中立国停戦監視委員会」と「軍事停戦委員」が定期的に確認し、韓国には[[在韓米軍]]司令官が司令官を兼ねる国連軍司令部が存在する。
 
 
 
この状況は両国間関係のみならず、韓国に基地を持ち、[[米韓相互防衛条約]]によって同盟関係にあるアメリカと、[[中朝友好協力相互援助条約]]によって北朝鮮との相互援助義務を持つ中華人民共和国との軍事的なバランスと対立がある。またこの四国にくわえて日本とロシアは[[北朝鮮核問題]]解決のための[[六者会合|六者会合(六カ国協議)]]の参加国であるなど、朝鮮半島問題に関与している。露朝関係はかつてソビエト連邦が締結していた[[ソ朝友好協力相互援助条約]]による相互援助義務規定は失効したものの、[[ロ朝友好善隣協力条約]]が締結されている。2010年には六者会合の元北朝鮮人民軍通訳がロシア亡命を求めたがロシア側が拒否するといった事件<ref>[http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010121401000132.html 元朝鮮人民軍通訳、韓国へ ロシアは亡命受け入れ拒否] 47NEWS > 共同ニュース > 記事詳細 共同通信 2010.12.14 09:51</ref>も起きている。一方で北朝鮮の核開発に対しては中国およびロシアもたびたび反対を明言している。また[[2010年]]、[[アメリカ外交公電Wikileaks流出事件]]で中国当局が北朝鮮を批判したとされる内容や、韓国による[[南北統一]]に言及したとされる内容を含んでいたことが発覚<ref>[http://www.asahi.com/special/08001/TKY201012030692.html 中国、外交公電暴露にピリピリ タブーの北朝鮮批判流出]asahi.com > ニュース > 特集 > 北朝鮮関連 >記事 2010.12.4 12:57</ref>、さらに北朝鮮も[[モンゴル]]政府との協議で中国とロシアへの批判を繰り返していたことも発覚した<ref>[https://web.archive.org/web/20101206082022/http://www.asahi.com/international/update/1203/TKY201012030630.html 北朝鮮「6者協議は5対1」中ロ批判、暴露の米公電に] - asahi.com 2010年12月3日22時12分付け記事《2017年7月23日閲覧;現在はインターネットアーカイブ内に残存》</ref>。国連制裁にも賛成していることから北朝鮮は中露を「米国に追従した」と批判している<ref name="sputnik1789">{{cite web|url= https://jp.sputniknews.com/politics/201708093974503/|title=
 
北朝鮮が中国、ロシアを「米国におじけづいた」と非難|work = [[スプートニク (通信社)|Sputnik]]|date=2017-08-06|accessdate=2017-09-29}}</ref>。
 
 
 
[[朴槿恵]]大統領と[[安倍晋三]]首相は2015年[[慰安婦問題日韓合意]]を交わし2016年には日米韓が対北朝鮮協力で一致<ref>対北朝鮮で協力強化確認=安倍首相「大きな成果」―日米韓」 [[読売新聞]]2016.3.31</ref>して初の[[ミサイル防衛]]合同演習を実施し<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ6Y65S5J6YUTFK00Y.html 日米韓で初の弾道ミサイル防衛の合同演習 ハワイ沖] [[朝日新聞]]2016.6.29</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20160517/k00/00m/030/087000c 日米韓:ミサイル防衛の初演習 6月下旬]毎日新聞2016.5.16</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ5H5J9SJ5HUHBI00G.html ミサイル防衛、日米韓が初の合同演習 今夏、ハワイ沖で]朝日新聞2016.5.16</ref>、朴槿恵政権は野党の反対も押し切って日韓初の防衛協力協定<ref>『日韓、初の防衛協力協定=機密共有を迅速化-北朝鮮に対抗』時事通信2016年11月23日</ref>である[[日韓秘密情報保護協定]](GSOMIA)も締結した。日本の[[中谷元]]防衛相も国連軍地位協定が現在も有効であることを述べている<ref>[http://www.sankei.com/politics/news/150217/plt1502170009-n1.html 自衛隊の防護対象国「米国以外、国連軍地位協定の締約国も含まれる」 グレーゾーンで防衛相] [[産経新聞]]2015.2.17</ref>。一方で[[THAADミサイル]]配備を進めていることに対抗して中国とロシアが初のミサイル合同演習を実施する<ref>[http://www.sankei.com/world/news/160429/wor1604290046-n1.html 中露が初の合同ミサイル防衛演習へ 対米念頭に共同行動を]産経新聞2016.4.29</ref><ref>[http://japanese.donga.com/List/3/03/27/533599/1 「韓半島THAAD」に中ロが共同対応へ] [[東亜日報]]2016.5.6</ref><ref>[http://www.sankei.com/world/news/160529/wor1605290007-n1.html 中露、コンピューターで初の合同MD演習 米に対抗…連携高める] [[産経新聞]]2016.5.29</ref>など中露からの反発を招いており<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042900510 中ロ、南シナ海めぐり結束=THAADに「重大懸念」] [[時事通信]]2016.4.29</ref>、朴槿恵政権が北朝鮮への牽制で国防相間でホットラインを開設する<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160113/k00/00m/030/098000c 韓国・つながらないホットライン…対中外交間違った?]、毎日新聞、2016年1月12日。</ref>など重視してきた中国との関係に影響が出ている<ref>[http://www.sankei.com/world/news/160304/wor1603040016-n1.html 米韓THAAD約定書締結に中国反発] [[産経新聞]]2016.3.4</ref>。また、朴槿恵政権は米国に1991年に撤去した[[戦術核兵器]]の再配備も要請していた<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/170911/wor1709110036-n1.html|date=2017-09-11|accessdate=2017-09-29|publisher=[[産経ニュース]]|title=朴槿恵政権、戦術核再配備を昨年要請 米は拒否}}</ref>。
 
 
 
2017年に米国で[[バラク・オバマ]]政権から[[ドナルド・トランプ]]政権に交代後は[[2017年北朝鮮危機]]が起きてるとされ、4月に米中首脳会談が行われていた中で内戦が続くシリアへミサイル攻撃を行った際、トランプ政権は北朝鮮に対するメッセージでもあることを明言した<ref>{{cite web|url= http://www.nikkei.com/article/DGKKASGM14H37_14042017FF8000/|title=シリア攻撃、北朝鮮への警告も 対抗措置取ると米長官| work = [[日本経済新聞]] |date=2017-04-10|accessdate=2017-05-10 }}</ref>。同時期に[[アフガニスタン]]の[[ISIL]]の拠点に[[Massive Ordnance Air Blast bomb|大規模爆風爆弾兵器]](MOAB)を投下したことも地下要塞を複数持つ北朝鮮への牽制とされた<ref>{{cite web|url= http://www.nikkei.com/article/DGKKASGM14H37_14042017FF8000/|title=「MOAB」投下、北朝鮮もにらむ 地下軍施設破壊に有効  | work = [[日本経済新聞]] |date=2017-04-15|accessdate=2017-05-10 }}</ref>。韓国では朴槿恵氏が大統領の解任決議により不在の状況下で、朝鮮半島は緊張状態に陥っていた。11日にアメリカは朝鮮半島沖に原子力空母を派遣し、イギリス、オーストラリアなど複数の同盟国に厳戒態勢に入るよう要請した。また、北朝鮮は最高指導者の[[金正恩]]委員長の斬首作戦の訓練が米韓合同軍事演習に盛り込まれているとして警戒しており<ref>{{cite news |title=米韓合同軍事演習、「斬首作戦」報道で朝鮮半島が緊迫―米メディア報道に、米国ネットは「作戦の唯一の問題は…」「金氏の髪の毛を切るべき」|publisher=[[Record China]]|date=2016-03-10 |url=http://www.recordchina.co.jp/b130787-s0-c30.html |accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=北反発の裏に「斬首作戦」への警戒 女性や子供動員し対決姿勢|publisher=[[産経ニュース]]|date=2017-05-05 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3127321 |accessdate=2017-05-10}}</ref>、5月には[[CIA]]と韓国の[[国家情報院]]が金委員長の暗殺を企んだと非難する声明を北朝鮮は発表した<ref>{{cite news |title=北朝鮮、金正恩氏の暗殺企んだとしてCIAを非難 スパイの存在に言及|publisher=[[AFP]]|date=2017-08-21 |url=http://www.sankei.com/world/news/170821/wor1708210060-n1.html |accessdate=2017-09-29}}</ref>。同時期に極秘に韓国訪問したCIA長官の[[マイク・ポンペオ]]は金正恩体制への反乱煽動などを[[脱北]]した北朝鮮の元駐英公使と協議し<ref>{{cite news |title=CIA長官、脱北元駐英公使と接触 反乱扇動、金正恩体制転覆の可能性など協議|publisher=[[産経ニュース]]|date=2017-05-19 |url=http://www.sankei.com/world/news/170519/wor1705190017-n1.html|accessdate=2018-01-18}}</ref>、特定の国を対象としたものとしては初めてである北朝鮮を専門とした部署を新設しており<ref>{{cite news |title=CIAに北朝鮮対応の専従組織 特定国対象は初めて|publisher=[[産経ニュース]]|date=2017-05-12 |url=http://www.sankei.com/world/news/170511/wor1705110026-n1.html|accessdate=2018-01-18}}</ref>、これに対して金委員長暗殺を目的とした動きとする見方もある<ref>{{cite news |title=金正恩抹殺に動くのか CIA「北朝鮮専従組織」新設の狙い|publisher=[[日刊ゲンダイ]]|date=2017-05-12 |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/205243|accessdate=2017-12-14}}</ref>。また、同年7月にはポンペオ長官は金委員長の排除を示唆している<ref>『金委員長排除狙う可能性も=北朝鮮問題でCIA長官-米』[[時事通信]]、2017年7月22日</ref>。
 
 
 
2017年4月16日、[[アメリカ太平洋軍]]と[[韓国軍]]の合同参謀本部の発表により日本時間の4月16日午前6時21分、北朝鮮が東部のハムギョン咸鏡、南道シンポ新浦付近から弾道ミサイル1発を発射したが直後に爆発し、失敗したことがわかった。度重なる北朝鮮のミサイル発射や核実験に対してトランプ政権は外交・軍事両面で「最大限の圧力」で対応することを方針に位置づけ<ref>{{cite web|url= http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO001479/20170415-OYT1T50102.html|title=北朝鮮に最大限の圧力、体制転換求めず…米政権|work = [[読売新聞]]|date=2017-04-15|accessdate=2018-01-18}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2017041500168|title=北朝鮮に「最大限の圧力」=トランプ政権、体制転換求めず-米紙|work = [[時事通信]]|date=2017-04-15|accessdate=2018-01-18}}</ref>、[[テロ支援国家]]への再指定<ref>{{cite news |title=トランプ政権、北朝鮮をテロ支援国家再指定 9年ぶり|newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2017-11-21 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23727000R21C17A1000000/|accessdate=2017-12-19}}</ref>、2017年だけでも4度もの国連での[[経済制裁]]強化決議<ref>{{cite web|url= https://jp.reuters.com/article/northkorea-missiles-un-idJPKBN18T30N|title=国連安保理、北朝鮮制裁を拡大 米中協力はトランプ政権下で初|work = ロイター|date=2017-06-03|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3138274|title=国連安保理、北朝鮮制裁決議を採択 石炭や鉄などの輸出を全面禁止|work = [[AFP]]|date=2017-08-06|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url= http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/09/12/0200000000AJP20170912000600882.HTML|title=北朝鮮制裁決議 石油関連輸出に上限・繊維製品は全面禁輸 |work = [[聯合ニュース]]|date=2017-09-12|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref >{{cite web|url= http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9192.php|title=安保理、北朝鮮への追加制裁決議を全会一致で採択|work = [[ニューズウィーク日本版]]|date=2017-12-23|accessdate=2018-01-18}}</ref>、国連軍派遣国の会合や[[海上封鎖]]の呼びかけ<ref>{{cite web|url= https://jp.usembassy.gov/ja/secretary-tillerson-dprk-missile-ja/|title=北朝鮮のミサイル発射に関するティラーソン国務長官の声明|work = [[駐日アメリカ合衆国大使館]]|date=2017-11-28|accessdate=2017-12-19}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2017120500557|title=国連軍派遣国会合、年内見送り=対北朝鮮、日本が難色|work = [[時事通信]]|date=2017-12-05|accessdate=2017-12-19}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.sankei.com/politics/news/171130/plt1711300030-n1.html|title=日本政府、米政府「海上封鎖」発言に困惑 手足縛られ協力できず「圧力強化」方針と矛盾|work = [[産経ニュース]]|date=2017-11-30|accessdate=2017-12-19}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.asahi.com/articles/ASKDH2D70KDHUHBI00H.html|title=「海上封鎖の強行、戦争行為と見なす」 北朝鮮が警告|work = [[朝日新聞]]|date=2017-12-15|accessdate=2017-12-19}}</ref>、各国に[[国交]]断絶など北朝鮮との外交・貿易関係の見直しを迫る圧力<ref>{{cite news |title=中南米諸国に北朝鮮との断交要請 米副大統領 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGT17H0J_X10C17A8EAF000/ |work=[[日本経済新聞]] |date=2017-08-17 |accessdate=2017-12-19}}</ref><ref>{{cite news |title=狭まる北朝鮮包囲網 国連制裁決議受け貿易停止・大使追放 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2017-09-26|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H1K_W7A920C1FF1000/ |accessdate=2017-12-19}}</ref>、米国民の北朝鮮渡航禁止と北朝鮮籍者の入国禁止や北朝鮮と取引する個人・企業のアメリカ経済からの締め出しといった独自制裁<ref>[http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASGT22H11_S7A920C1MM0000/ 米、対北朝鮮で経済封じ込め強化 追加独自制裁]日本経済新聞 2017年9月22日</ref><ref>{{cite web|url= https://jp.reuters.com/article/northkorea-usa-travel-idJPKBN1AI2WS|title=米政府、9月から米国人の北朝鮮渡航を禁止|work = [[ロイター]]|date=2017-08-03|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=トランプ政権が新たな入国禁止令、北朝鮮やベネズエラを追加 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3144120 |work=[[AFP]] |date=2017-09-25 |accessdate=2017-09-29}}</ref>、史上初のICBMを迎撃する実験<ref>{{cite web|url= http://www.sankei.com/world/news/170527/wor1705270022-n1.html|title=米が初のICBM迎撃実験 北朝鮮の脅威にらみ|work = [[産経ニュース]]|date=2017-05-27|accessdate=2017-09-29}}</ref>、韓国との戦術核再配備や軍事的選択肢の協議<ref>{{cite web|url= http://www.news24.jp/articles/2017/11/16/10378074.html|title=トランプ氏「北への軍事的選択肢を協議」 |work = [[日本テレビ]]|date=2017-11-16|accessdate=2017-12-19}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000301/20170919-OYT1T50056.html|title=韓国に戦術核再配備、米と協議…マティス氏表明|work = [[読売新聞]]|date=2017-09-19|accessdate=2017-09-29}}</ref>、朝鮮半島沖での[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]を越えた[[戦略爆撃機]]の威嚇飛行<ref>{{cite news |title=北朝鮮東方を飛行=米B1爆撃機-境界線越え、反発確実|newspaper=[[AFP]] |date=2017-09-23 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3144058|accessdate=2017-09-24}}</ref>や3個の[[空母打撃群]]<ref>{{cite news |title=超異例!米空母3隻臨戦 米祝日狙いミサイル発射、正恩氏“宣戦布告”か 「朝鮮戦争休戦以来、最大の危機」  |newspaper=[[ZAKZAK]] |date=2017-05-30 |url=http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20170530/frn1705301100004-n1.htm|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=空母3隻、米韓が演習 北朝鮮「理性失ったトランプ」|newspaper=[[朝日新聞]] |date=2017-11-11 |url=http://www.asahi.com/articles/ASKCB64W3KCBUHBI019.html|accessdate=2017-12-19}}</ref>と2隻の[[原子力潜水艦]]の展開<ref>{{cite web|url= https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapannews/cf-tdp?utm_term=.irjoGjvvO|title=トランプ大統領、北朝鮮近くに原子力潜水艦を配置していると漏らす|work = [[バズフィード]]|date=2017-05-25|accessdate=2017-09-29}}</ref>などといったありとあらゆる圧力行動で対応し、トランプ大統領は「米国は25年間も北朝鮮に脅されて強請られた。対話は答えではない」<ref>{{cite web|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-08-30/OVH0CL6S972801|title=トランプ米大統領:「対話は答えではない!」-北朝鮮の脅威に対し|work = [[ブルームバーグ]]|date=2017-08-30|accessdate=2017-12-19}}</ref>「軍事的な解決策の準備は完全に整っている」「米国を脅し続ければ世界が見たこともない火力と怒りに遭わせる」と発言した<ref>{{cite web|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-08-08/OUDWQE6K50XS01|title=トランプ大統領:北朝鮮は「炎と怒り」に遭う、米への脅し続けば|work = [[ブルームバーグ]]|date=2017-08-09|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.nikkei.com/article/DGXLASGT27H1C_X20C17A9MM0000/|title=トランプ氏、軍事力行使「準備は万全」 対北朝鮮|work = [[日本経済新聞]]|date=2017-09-29|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref name="reuters">{{cite news |title=Trump: military solutions 'locked and loaded' against North Korea threat |url=https://www.reuters.com/article/us-northkorea-missiles-trump-idUSKBN1AR15M |work=[[ロイター]] |date=August 11, 2017 |accessdate=August 12, 2017}}</ref>。トランプは初の国連演説で米国人大学生[[オットー・ワームビア]]の拘束や[[金正男]]の[[暗殺]]の他、[[北朝鮮による日本人拉致問題]]などを挙げて北朝鮮を批判し、「米国と同盟国を守ることを迫られれば、北朝鮮を完全に破壊する以外の選択はない」と強く警告した<ref>{{cite web|url= http://www.haaretz.com/us-news/1.813252|title=FULL TEXT: Donald Trump's First Address to UN General Assembly |work = [[ハアレツ]]|date=2017-09-19|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>[http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASGM19H7V_Z10C17A9MM8000/ トランプ氏国連演説、北朝鮮「完全に破壊」警告]日本経済新聞 2017年9月20日</ref>。これに北朝鮮の金委員長は「トランプが世界の面前で私と国家の存在自体を否定して侮辱し、我が共和国を滅ぼすという歴代で最も凶暴な宣戦布告をしてきた」として「老いぼれ」「犬」などと罵倒する北朝鮮史上初<ref>{{cite news |title=金正恩氏「声明」でトランプ氏への怨念をさく裂|newspaper=[[Yahoo!ニュース]] |date=2017-09-24 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20170924-00076113/|accessdate=2017-09-29}}</ref>の最高指導者名義の声明で猛反発し、トランプも「チビのロケットマン」「狂った男」「不気味な犬ころ」と貶すなど激化する米朝の応酬は国家間を超えて政府首脳同士の[[個人攻撃]]にも拡大した<ref>{{cite news |title=トランプ大統領と金委員長の罵倒合戦、われ関せずの中国―米メディア|newspaper=[[Record China]] |date=2017-09-24 |url=http://www.recordchina.co.jp/b188793-s0-c10.html|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=米朝首脳の応酬は「園児のけんか」 ロシア外相|newspaper=[[AFP]] |date=2017-09-23 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3143972|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=「宣戦布告」に行き着いた米朝非難合戦 出口見えず|newspaper=[[テレビ朝日]] |date=2017-09-26 |url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000110875.html|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=【北朝鮮情勢】「奴らは遠からず姿消す」 トランプ氏、北朝鮮の李容浩外相の演説非難|newspaper=[[産経ニュース]] |date=2017-09-24 |url=http://www.sankei.com/world/news/170924/wor1709240023-n1.html|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite news |title=トランプ氏、また金正恩氏を揶揄「チビのロケットマン」「あちこちにミサイル発射、のさばらせない」|newspaper=[[産経ニュース]] |date=2017-09-23 |url=http://www.sankei.com/world/news/170923/wor1709230015-n1.html|accessdate=2017-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.sankei.com/world/news/171130/wor1711300011-n1.html|title=「ちびのロケットマンは不気味な犬ころ」 トランプ大統領非難|work = [[産経ニュース]]|date=2017-11-30|accessdate=2017-12-19}}</ref>。トランプは初の[[大韓民国|韓国]]の[[国会 (大韓民国)|国会]]演説で空母3隻が朝鮮半島近海に展開してることを挙げて「我々をなめるな、試すな。愚かにも米国の決意を試して滅びた政権は歴史上いくつもある」<ref>{{cite web|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20171109/pol17110905030001-n1.html|title=ならず者政権!監獄国家!北の喉元でトランプ節さく裂|work = [[サンスポ]]|date=2017-11-09|accessdate=2018-01-18}}</ref>「北朝鮮は人が住むに値しない地獄だ、あなた(金正恩)の祖父が描いたような地上の楽園ではない」<ref>{{cite web|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110801003|title=北朝鮮は「地獄」=韓国と対比し糾弾-米大統領 |work = [[時事通信]]|date=2017-11-08|accessdate=2018-01-18}}</ref>と演説した。また、[[レックス・ティラーソン]][[アメリカ合衆国国務長官|米国務長官]]は朝鮮半島有事を想定して核の確保と難民対策や38度線を越えた米軍の撤退など具体的対応を中国と協議してることを初めて公表した<ref>{{cite web|url= http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/12/14/2017121400919.html|title=米、中国に約束「有事で休戦ライン越えても必ず韓国に戻る」|work = [[朝鮮日報]]|date=2017-12-14|accessdate=2018-01-18}}</ref><ref>{{cite web|url= https://mainichi.jp/articles/20171214/k00/00m/030/127000c|title=朝鮮半島有事で協議 核確保手段など詳細に|work = [[毎日新聞]]|date=2017-12-13|accessdate=2018-01-18}}</ref>。
 
 
 
2018年1月2日、「米国全土を射程におさめた核のボタンが私の机の上にある」「[[平昌五輪]]に向けた南北会談も可能だ」とする新年の辞を述べた金正恩に対して「制裁と圧力が北朝鮮に効いてきた。兵士は危険を冒して韓国に逃げてる。ロケットマンは韓国と交渉したいようだが、朗報かどうか様子を見よう」「食料が枯渇し、飢えた北朝鮮の体制よりも私は巨大で強力な核を持ち、私の核のボタンはちゃんと動くことを誰か彼に教えてやれ」<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/news/post-politics/wp/2018/01/02/trump-to-north-korean-leader-kim-my-nuclear-button-is-much-bigger-more-powerful/|title=Trump to North Korean leader Kim: My ‘Nuclear Button’ is ‘much bigger & more powerful’|work = [[ワシントン・ポスト]]|date=2018-01-02|accessdate=2018-01-04}}</ref>とトランプは述べて双方とも核威嚇を行った。1月16日、[[カナダ]]の[[バンクーバー]]でティラーソン米国務長官の呼びかけ<ref>{{cite web|url= https://jp.usembassy.gov/ja/secretary-tillerson-dprk-missile-ja/|title=北朝鮮のミサイル発射に関するティラーソン国務長官の声明|work = [[駐日アメリカ合衆国大使館]]|date=2017-11-28|accessdate=2018-01-18}}</ref>により国連軍派遣国を中心に日本や韓国なども参加した外相会合が開かれ、平昌五輪に向けた南北対話が非核化対話に進展することを期待しつつ「完全で検証可能かつ不可逆な非核化」まで北朝鮮に圧力を継続する方針を盛り込んだ議長声明が発表され<ref name=canadaca>{{cite web|url= https://www.canada.ca/en/global-affairs/news/2018/01/co-chair_s_summaryofthevancouverforeignministersmeetingonsecurit.html|title=Co-chairs’summary of the Vancouver Foreign Ministers’ Meeting on Security and Stability on the Korean Peninsula|work = Canada.ca|date=2018-01-16|accessdate=2018-01-18}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.yomiuri.co.jp/world/20180117-OYT1T50033.html|title=北朝鮮への圧力継続、20か国一致…外相会合|work = [[読売新聞]]|date=2018-01-17|accessdate=2018-01-17}}</ref>、北朝鮮に対する[[海上阻止行動]]の強化や国連安保理の枠を超えた独自制裁の検討でも一致した<ref name=canadaca/><ref>{{cite web|url= http://www.afpbb.com/articles/-/3158812|title=米など20か国、対北朝鮮の「海上阻止行動」強化で合意 外相会合|work = [[AFPBB]]|date=2018-01-17|accessdate=2018-01-17}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.yomiuri.co.jp/politics/20180118-OYT1T50028.html|title=20か国、「国連」上回る独自制裁検討で一致|work = [[読売新聞]]|date=2018-01-18|accessdate=2018-01-18}}</ref>。また、この会合に先立つ夕食会で[[ジェームズ・マティス]][[アメリカ合衆国国防長官|米国防長官]]は外交努力が失敗すれば外相会合から国防相会合に発展するとして「米国には北朝鮮との戦争計画がある」と表明<ref>{{cite web|url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180118/k10011293191000.html|title=米国防長官「北朝鮮との戦争計画ある」と発言|work = [[日本放送協会|NHK]]|date=2018-01-18|accessdate=2018-01-18}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.asahi.com/articles/ASL1L2JDWL1LUTFK001.html|title=米国防長官「戦争計画もある」 北朝鮮関係国の外相会合|work = [[朝日新聞]]|date=2018-01-18|accessdate=2018-01-18}}</ref>して国連軍の参加国・関係国と軍事面の連携で一致した<ref>{{cite web|url= http://www.sankei.com/politics/news/180116/plt1801160040-n1.html|title=国連軍参加国外相「軍事面の連携」重要性確認 河野太郎外相も出席「対話のための対話意味ない」強調|work = [[産経新聞]]|date=2018-01-16|accessdate=2018-01-18}}</ref>。
 
 
 
[[2018年]][[4月27日]]に行われた[[2018年南北首脳会談]]の共同宣言([[板門店宣言]])にて、韓国の[[文在寅]]と北朝鮮の金正恩の両首脳が、年内に終戦宣言を出すとの方針を表明した。
 
 
 
=== 軍事バランス ===
 
; 韓国
 
{{Main|大韓民国#軍事}}
 
[[ファイル:Registration of comfort women.jpg|thumb|[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]へ提供される慰安婦の登録実施を報道する[[東亜日報]][[1961年]][[9月14日]]付]]
 
: 韓国軍の装備はアメリカ製の[[ジェネラル・ダイナミクス]][[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]、同じくアメリカの技術協力を受け開発された[[K1 (戦車)|K1A1戦車]]や[[イージス艦]]の[[世宗大王級駆逐艦]]など、おおむね現在の西側先進国の水準である。また、[[男性|男子]]に対して[[徴兵制度|徴兵制]]が施行されている。これに更に[[THAADミサイル]]を含めた[[在韓米軍]]の戦力や、有事の際には[[在日米軍]]の戦力も加わる事になる。なお、韓国は首都ソウルが軍事境界線に近く、軍事境界線の北側からでも北朝鮮の長射程砲や[[スカッド|スカッドミサイル]]の射程内に収まる事が弱点で、北朝鮮から侵攻しやすい。また、現在に至るまでアメリカ軍を中心とした国連軍が駐留している。国連軍<ref>{{cite news
 
| url=http://ws.donga.com/fbin/kisaIdx?word=UN%CF%DA+%DF%D3%D3%DF+%EA%D0%E4%CC%DC%FE
 
| title=UN軍 相對 慰安婦 13日?? 登?實施
 
| publisher=[[東亜日報]]
 
| date=1961-09-14
 
| accessdate = 2010-11-28
 
}}</ref>やアメリカ軍<ref>{{cite news
 
|url        = http://ws.donga.com/fbin/kisaIdx?word=%DA%B8%CF%DA%EA%D0%E4%CC%DC%FE+%E3%F3%E1%A7%DD%E8%CE%BA%ED%BB%DF%AF
 
|title      = ? 美軍慰安婦 身勢悲觀自殺(釜山)
 
|publisher  = [[東亜日報]]
 
|date      = 1957-07-21
 
|accessdate = 2010-11-28
 
}}{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref>{{cite news
 
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| title=亞洲第二毒感 韓國?? 侵入 一次?? ? 惡性保健當局警告 全國? 蔓延? 氣勢//?? 三百餘名 感染 釜山? 猖獗一路 美軍慰安婦??? 傳染? ?
 
| publisher=[[東亜日報]]
 
| date=1957-11-29
 
| accessdate = 2010-11-28
 
}}</ref>には[[慰安婦]]が提供されていた<ref>{{cite news
 
|url        = http://ws.donga.com/fbin/kisaIdx?word=%DA%B8%CF%DA%EA%D0%E4%CC%E1%B6
 
|title      = 美軍慰安所? 大火 五棟全燒
 
|publisher  = [[東亜日報]]
 
|date      = 1957-02-26
 
|accessdate = 2010-11-28
 
}}{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref>{{cite news
 
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| title=慰安婦?? 變死 美兵? 阿片??(仁川)
 
| publisher=[[東亜日報]]
 
| date=1959-07-10
 
| accessdate = 2010-11-28
 
}}</ref><ref>{{cite news
 
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| title=慰安婦 66%? 保菌 ?? 接客女人檢診 ??
 
| publisher=[[東亜日報]]
 
| date=1959-10-18
 
| accessdate = 2010-11-28
 
}}</ref>。
 
[[ファイル:Yongbyon-5MWe-top-of-core.jpg|thumb|[[寧辺郡|寧辺]]の核関連施設]]
 
; 北朝鮮
 
{{Main|朝鮮民主主義人民共和国#軍事}}
 
: 北朝鮮の軍備は冷戦時代にソ連から供与されたものや、ソ連の技術供与を受けて中国で製造された物が主で、現行水準の通常兵器はほとんどないという。[[2003年]]3月に[[公海]]上で[[アメリカ空軍]]のボーイング[[RC-135 (航空機)|RC-135Sミサイル監視機「コブラボール」]]を2機のミコヤン[[MiG-29 (航空機)|Mig-29戦闘機]]が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の[[偵察衛星]]に写る北朝鮮機は、[[MiG-15 (航空機)|Mig-15]]や[[MiG-17 (航空機)|Mig-17]]のような骨董品レベルの古典機ばかりで、部品調達や燃料調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。<!--車両も同様で、一世代前の[[T-72]]でさえ満足に配備されておらず、大戦後第1世代である[[T-54]]が主力で、一部には[[T-34]]も残っているといわれる。-->こうした状況から核兵器の開発や化学兵器の配備を進めており、2006年には最初の核実験を成功させた([[北朝鮮の核実験]])。また韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な[[弾道ミサイル]]([[テポドン (ミサイル)|テポドン]]、[[ノドン]]、[[ムスダン]])の開発に熱心であると見られ、たびたび発射実験を行っている。なお、北朝鮮の[[羅先]]には[[中国人民解放軍]]が進駐しているとする情報もある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/110115/chn1101151250001-n1.htm 中国が羅先に軍を駐留、投資施設を警備か 朝鮮日報報道] [[産経新聞]]2011.1.15 </ref>。
 
 
 
== 研究と評価 ==
 
=== 韓国侵略説(北朝鮮の主張) ===
 
北朝鮮では、当時から現在に至るまで「韓国側が先制攻撃した」と主張し続けているが、これは国際的に全く支持されておらず、戦争当時北朝鮮を支援した[[ソ連崩壊]]後の[[ロシア]]や[[中華人民共和国]]でも、北朝鮮のいうような「韓国による侵略」という主張は全く認められていない。
 
 
 
日本国内の[[朝鮮学校]]教科書『現代朝鮮歴史高級1』には以下の記述がある<ref>{{Cite news|url=http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/detail/1342907.htm|title=資料8 主たる教材において留意すべき記述|newspaper=|publisher=[[文部科学省]]|5=|date=2013-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161124153718/http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/detail/1342907.htm|archivedate=2016年11月24日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://hrnk.trycomp.net/book.php?eid=00010|title=朝鮮学校教科書「現代朝鮮歴史 高級1」|newspaper=|publisher=[[北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会]]|date=2011-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100822202446/http://hrnk.trycomp.net/book.php?eid=00010|archivedate=2010年8月22日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
{{Quotation|米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争に拡大した。| {{Harvtxt|朝鮮学校教科書|現代朝鮮歴史}}
 
}}
 
{{Quotation|敬愛する金日成主席様におかれては、(25日の)会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国の奴らに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反撃に移るよう命令をお下しになった。| {{Harvtxt|朝鮮学校教科書|現代朝鮮歴史}}
 
}}
 
 
 
当時日本でも、1950年代から1960年代にかけて米国による陰謀説など、[[共産主義]][[イデオロギー]]による決め付け的な内容のものが多々あった<ref name="asi"/>。左派・革新系研究者[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]・[[今井清一]]・[[藤原彰]]共著『昭和史』(岩波新書、1959年)では、「[[米空軍]]戦闘機部隊は[[北九州]]に集結していた。そして北朝鮮が侵略したという理由で韓国軍が[[38度線]]をこえ進撃した」と主張した<ref>『昭和史 〔新版〕』 [[岩波新書]]、p276</ref>。親北派の学者[[寺尾五郎]]も北朝鮮による先制攻撃ではないと主張した<ref>『勝利なき戦争』三一書房、1960年</ref>。これについて[[井沢元彦]]は、北朝鮮は正義で、悪いのは韓国であり[[アメリカ帝国主義]]であると考えるように、近現代史学者の一部は、大切なのは「[[真理]]」ではなく「[[イデオロギー]]」であるだけであると批判している<ref>[[井沢元彦]] 『逆説のニッポン歴史観 <small>日本をダメにした「戦後民主主義」の正体</small>』 [[小学館文庫]] ISBN 978-4094023053、'''101p'''</ref>。[[家永三郎]]は、「朝鮮戦争」(アメリカの[[侵略]]による)と記した<ref>[[家永三郎]] 『太平洋戦争』([[岩波書店]]、[[1968年]])巻末牽引</ref>。[[高山正之]]は、[[マスコミ]]でも[[日本放送協会|NHK]]の[[磯村尚徳]]が番組で「北が南に攻め込んだ」と語ったことに在日朝鮮人が騒ぎ出し、彼らに同調する[[土井たか子]]が抗議、番組内で謝罪するに至ったと述べている<ref>[[高山正之]]『オバマ大統領は黒人か』 {{要ページ番号|date=2016年11月25日}}</ref>。
 
 
 
[[重村智計]]によると、日本では長く韓国とアメリカによる侵略説が支配的であり、それに反対すると、学界などの社会から抹殺されかねない雰囲気があり、[[共産主義]]・[[社会主義]]の北朝鮮を支持するあるいは[[シンパシー]]を持つ[[左派]]・[[革新系]]研究者は、韓国とアメリカによる侵略やアメリカの陰謀を主張したのに対して、[[リアリズム|リアリズム系]]の研究者は、北朝鮮による侵略を譲らなかったという<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=192}}</ref>。朝鮮戦争に関する最初の書籍は、{{日本語版にない記事リンク|I.F. ストーン|en|I. F. Stone}}の『秘史朝鮮戦争』であり、戦争は韓国とアメリカの[[共謀]]の可能性が高いと主張した。[[D・W・W・コンデ]]は、『朝鮮戦争の歴史』において、朝鮮戦争は韓国とアメリカによる侵略であると主張して、共産主義・社会主義の北朝鮮を支持するあるいはシンパシーを持つ左派・革新系研究者の韓国とアメリカによる侵略説のバイブルとなる<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=192}}</ref>。しかし、[[神谷不二]]が朝鮮戦争は、北朝鮮による侵略であることを客観的に分析した<ref>[[神谷不二]]『朝鮮戦争』([[中央公論社]]、[[1966年]])</ref>。他に、[[信夫清三郎]]がストーンとコンデの誤りを指摘した<ref>[[信夫清三郎]]『朝鮮戦争の勃発』([[福村叢書]]、[[1969年]])</ref>。その後、[[児島襄]]<ref>『朝鮮戦争 1〜3』(文春文庫、1977年</ref>、神田文人<ref>神田文人「占領と民主主義  昭和の歴史8」 小学館 1988</ref>などの研究を経て、現在、学術的には北朝鮮による侵略が一般的な見解となっている<ref name="nakath"/><ref name="asi"/>。
 
 
 
*[[中村隆英]]<ref>[[中村隆英]] 『昭和史 下 <small>1945-89</small>』 [[東洋経済新報社]] ISBN 978-4492061879、p565</ref>
 
{{quotation|1950年6月25日の朝、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国側に侵入したことによって始まった。当時、アメリカ軍は韓国から撤退しており、韓国軍の力は弱かったから、北朝鮮軍は無人の野を行くように南朝鮮を進撃し、たちまちソウルは陥落した。}}
 
*[[半藤一利]]<ref>[[半藤一利]] 『昭和史 戦後編 <small>1945-1989</small>』 [[平凡社ライブラリー]] [は-26-2] ISBN 978-4582766721、p297-298</ref>
 
{{quotation|今になってはじめのころの戦局を見ると、北の朝鮮民主主義人民共和国が十分に準備をして攻め入ったと考えざるを得ません。というのも当時、大韓民国(南)に駐留していた米軍はほぼ日本本土に移っていましたから、その空白を狙って、と言うと反論する人もいますが、とにかく北が38度線を越えていきなり攻め入ってきたのです。戦闘準備不足の韓国側は、38度線にほど近いソウルがあっという間に陥落してしまい、その後もガンガン攻められて後退に後退を続けました。}}
 
*[[倉山満]]<ref>[[倉山満]]『嘘だらけの日韓近現代史』、[[扶桑社]]、[[2013年]]、ISBN 978-4594069520、p190</ref>
 
{{quotation|ちなみに一番間抜けなのは日本のメディアと学界です。金日成は「韓国が国境線で挑発してきたので、反撃を行った」と声明を出しましたが、おそらく本気でこんな声明を信じたのは、日本のメディアと新聞くらいでしょう。朝日新聞と岩波書店、当時「朝日岩波文化人」と呼ばれた大学教授たちは、「南の侵略」と言い張っていました。しかし、十分な侵略準備もしていないのに、釜山以外の韓国全土を占領するなど不可能です。当事者の北朝鮮や韓国は真相を知っています。スターリンや毛沢東は笑い転げていたでしょう。}}
 
*[[李榮薫]]<ref>[[李榮薫]]著・[[永島広紀]]訳 『大韓民国の物語』 [[文藝春秋]] ISBN 4163703101、p334</ref>
 
{{quotation|朝鮮戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連が承認し、北朝鮮と中国が共同で実行した国際紛争戦争でした。}}
 
*[[重村智計]]<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>
 
{{quotation|旧ソ連の外交文書の公開で、朝鮮戦争の起源が明らかにされた。それによると、朝鮮戦争は『内戦』や『誘因』の展開ではなく金日成首相がソ連の指導者スターリンを説得し開始した、『金日成』の戦争だったのである。また、『ヤルタ体制の崩壊』が生んだ戦争でもあった。}}
 
*[[伊藤之雄]]<ref>[[伊藤之雄]]『昭和天皇伝』 [[文藝春秋]] ISBN 978-4-16-374180-2、p465</ref>
 
{{quotation|この間、6月25日に北朝鮮軍は38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争となった。突然の侵攻に韓国軍は劣勢で、ソウルは陥落し、釜山周辺にまで追い詰められた。}}
 
*[[木村光彦 (政治学者)|木村光彦]]([[青山学院大学]]教授)<ref>{{Cite book|和書|author=[[木村光彦 (政治学者)|木村光彦]]|date=2016|title=日本帝国と東アジア|publisher=[[統計研究会]]『学際』第1号|url=http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_06.pdf|
 
ref={{Harvid|木村光彦|2016}}}}p57</ref>
 
{{quotation|同軍(北朝鮮軍)は1950年6月25日、38度線をこえ韓国軍を奇襲した。こうしてはじまった朝鮮戦争は、金日成、スターリン、毛沢東が組んでおこなった国際共産主義運動の一大攻勢にほかならなかった。}}
 
*[[長谷川幸洋]]<ref>{{Cite book|1=和書|author=[[長谷川幸洋]]|date=2017|title=アメリカは北朝鮮に先制攻撃するのか?~浮上する3つの日付|publisher=[[現代ビジネス]]|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51350|7=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170330233439/http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51350|archivedate=2017年3月30日}}</ref>
 
{{quotation|北朝鮮は50年6月、韓国を奇襲攻撃した。当初、韓国軍は劣勢だったが、マッカーサーが指揮する国連軍が参戦して戦況を盛り返す。韓国・国連軍は中国との国境である鴨緑江まで北朝鮮軍を追い詰めたが、そこで中国は人民解放軍の義勇兵を大量投入した。}}
 
*[[宇山卓栄]]<ref>{{Cite book|1=和書|author=[[宇山卓栄]]|date=2017|title=67年前と同じ"朝鮮有事は起きない"の油断|publisher=[[プレジデント社|プレジデント]]|url=http://president.jp/articles/-/22678|7=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802192211/http://president.jp/articles/-/22678|archivedate=2017年8月2日}}</ref><ref>{{Cite book|1=和書|author=[[宇山卓栄]]|date=2017|title=67年前と同じ"朝鮮有事は起きない"の油断|publisher=[[プレジデント社|プレジデント]]|url=http://president.jp/articles/-/22678?page=2|7=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802192442/http://president.jp/articles/-/22678?page=2|archivedate=2017年8月2日}}</ref><ref>{{Cite book|1=和書|author=[[宇山卓栄]]|date=2017|title=67年前と同じ"朝鮮有事は起きない"の油断|publisher=[[プレジデント社|プレジデント]]|url=http://president.jp/articles/-/22678?page=3|7=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802192857/http://president.jp/articles/-/22678?page=3|archivedate=2017年8月2日}}</ref>
 
{{quotation|1950年6月25日午前4時に、約10万の北朝鮮軍は何の前置きもなく、突如、北緯38度線を越えて、侵攻してきました。この日は日曜日で、多くの韓国側の軍人は登庁しておらず、また、農繁期のため、帰郷していた軍人も多く、警戒態勢をとっていませんでした。大統領の李承晩をはじめとする政府首脳部も北朝鮮軍の侵攻を想定していませんでした。(中略)しかし、アメリカ軍も戦争の準備は全く整っておらず、その動きは緩慢で、トルーマン大統領が報告を受けたのは、北朝鮮の侵攻開始から10時間後というありさまでした。(中略)北朝鮮軍は侵攻作戦を綿密に計画していました。そして高度に統制された軍隊は抜け目なく正確に作戦を展開し、破竹の勢いでソウルへ向けて進撃していました。}}
 
 
 
=== 修正説(内戦説、統一説、解放説、誘因説)===
 
朝鮮戦争は、「朝鮮戦争=(統一のための)内戦説」「朝鮮戦争=誘因説」という学説がある。[[李榮薫]]や[[重村智計]]によれば、この動きは[[ブルース・カミングス]]の[[1981年]]の著書『朝鮮戦争の起源』が[[導火線]]であり、学界ではこれを「'''修正説'''」と呼んでいる<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=286}}</ref><ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。朝鮮戦争については伝統主義と修正主義(修正説)という相反する見解があり、朝鮮戦争は北朝鮮の南侵から勃発したと解釈するのが伝統主義であり、対して日本の植民地支配からの解放、アメリカ・ソ連による分割占領、南北政府の樹立へと連なる構造のなかで戦争が勃発したと解釈するのがカミングスに代表される修正主義となる<ref name="京郷新聞">『[[京郷新聞]]』2001年9月21日</ref>。修正説は、「学問的というよりは、政治的意図を含む研究」「北韓鮮と[[金日成]]首相に責任を負わせず、アメリカを非難するための理論であった。その政治的な目的と動機は、あきらか」な意図的に編み出されたものであるという指摘があり<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>、日本<ref name="姜尚中">[[姜尚中]] 半歩遅れの読書術「朝鮮半島の歴史」米国の研究書で興味再燃 『[[日本経済新聞]]』[[2009年]][[7月12日]]</ref><ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[木村幹]]|date=2004-10-09|title=冷静な認識が必要|publisher=[[図書新聞]] |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/90000402.pdf|ref={{Harvid|木村幹|2004}}}}p2</ref><ref name="mainichi20050722">{{Cite news | author = 下川正晴 | url = http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/archive/news/2005/20050722org00m030088000c.html | title = ソウル発!! 人&風(サラム&パラム) 第18回 日中韓副教材への疑問(その1) | publisher = [[毎日新聞]] | date = 2005-07-22 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20060619160816/http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/archive/news/2005/20050722org00m030088000c.html | archivedate = 2006-06-19 | accessdate = }}</ref>や韓国<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=286}}</ref><ref name="中央日報">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/322/144322.html?ref=mobile|title=「中国、韓国戦争で韓国民に与えた傷を謝罪すべき」(1)|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2011-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161117063233/http://japanese.joins.com/article/322/144322.html?ref=mobile|archivedate=2016年11月17日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="中央日報2">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/504/140504.html|title=【社説】パク・ミョンリム教授のカミングス批判、親北の終焉だ|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2011-06-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110607013453/http://japanese.joins.com/article/504/140504.html|archivedate=2011年6月7日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="東亜日報1">{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/427607/1|title=[オピニオン]米大使が再び読む「二つのコリア」|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2015-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161117180336/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/427607/1|archivedate=2016年11月17日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="東亜日報2">{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/294962/1|title=『韓国戦争の起源』の著者・カミングス教授が見る韓米関係|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2006-08-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161117180336/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/427607/1|archivedate=2016年11月17日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="Daily NK">{{Cite news|url=http://www.dailynk.com/korean/read.php?cataId=nk02400&num=57428|title=커밍스 ‘DJ 찬가’…“美北대화, 햇볕정책 정당성입증”|newspaper=[[Daily NK]]|publisher=|date=2008-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161122182646/http://www.dailynk.com/korean/read.php?cataId=nk02400&num=57428|archivedate=2016年11月22日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>はもとより、Boudewijn Walraven([[ライデン大学]])やDouglas J. Macdonald({{仮リンク|米国陸軍戦略大学|en|United States Army War College}})やJames Matray({{仮リンク|カリフォルニア州立大学チコ校|en|California State University, Chico}})やKathryn Weathersby([[ジョンズ・ホプキンス大学]])など欧米でも[[歴史修正主義]]という評価がある<ref>{{citation|title=The Parliament of Histories: New Religions, Collective Historiography, and the Nation|first=Boudewijn|last=Walraven|journal=Korean Studies|volume=25|number=2|year=2001|pages=157–178|publisher=University of Hawaii Press}}、p164</ref><ref>[http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/macdon.htm Communist Bloc Expansion in the Early Cold War: Challenging Realism, Refuting Revisionism] ''International Security'' 20.3 (1995): 152–168</ref><ref>[http://www.carlisle.army.mil/usawc/parameters/Articles/98spring/spr-essa.htm#Matray Korea's Partition: Soviet-American Pursuit of Reunification, 1945–1948] [[Parameters (journal)|''Parameters'']] Spring 1998: 139–68</ref><ref>[http://www.wilsoncenter.org/topics/pubs/ACFB76.pdf Soviet Aims in Korea and the Origins of the Korean War] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100620230103/http://wilsoncenter.org/topics/pubs/ACFB76.pdf |date=2010年6月20日 }}  Working Paper No 8 ''[[Woodrow Wilson International Center for Scholars]]'' November 1993</ref>。
 
 
 
修正説は「'''内戦説'''」と「'''誘因説'''」とに分類することができる<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=287}}</ref><ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。
 
 
 
; 内戦説
 
:「内戦説」は、朝鮮戦争は、植民地時代に始まる互いに異なる国家を建国する葛藤が、解放後に[[反乱]]と[[衝突]]とに引き継がれ、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|アメリカ軍政]]は民主化を抑圧する一方、少数の[[地主]]を擁護した。葛藤の核心は[[農地改革]]であったが、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|アメリカ軍政]]は地主を擁護して、農地改革を後回しにしたことにより、民主勢力は[[大邱10月事件]]、[[済州島四・三事件]]と[[麗水・順天事件]]、それに続くゲリラ活動で抵抗した。[[38度線]]では韓国と北朝鮮の武力衝突が続いており、最終的に戦争に発展したという説である<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=286}}</ref><ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。
 
 
 
; 誘因説
 
:アメリカは[[戦争特需]]を期して韓国から意図的に[[アメリカ軍]]を撤収させ、軍事的空白状態を作り出すことにより、北朝鮮が韓国に侵攻するよう罠を仕掛けたという説である<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=286}}</ref><ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。
 
 
 
カミングスは朝鮮戦争の[[起源]]を日本の[[植民地支配]]に遡り、朝鮮戦争の責任は日本にあり、北朝鮮にはないとする<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。[[1980年代]]以後研究の進化により欧米や韓国<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=192}}</ref>では「通説として受け入れられてきたのは北朝鮮による南侵説」「北朝鮮の金日成が民族統一の名分を掲げ、ソ連と中国の支援を受けて南侵を強行」したとする北朝鮮による侵略説が[[定説]]化するなかで<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=285}}</ref>、カミングスの修正説は、日本での共産主義・社会主義[[革命]]を実現したいあるいは北朝鮮の戦争犯罪への非難を回避したい共産主義・社会主義の北朝鮮に好意を抱く・支持するあるいは[[シンパシー]]を持つ日本の左派・革新系研究者を魅了し、大きくもてはやされ、受け入れ、便乗するようになり、カミングスの修正説を支持するようになったという<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。[[重村智計]]によると、[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]などの[[共産主義]]・[[社会主義]]は、[[アメリカ帝国主義]]を[[アジア]]から駆逐するため、アメリカ帝国主義の[[侵略戦争]]としての朝鮮戦争という[[図式]]が必要であり、これを[[中国共産党]]や北朝鮮政府が共産主義・社会主義の北朝鮮を支持するあるいは[[シンパシー]]を持つ日本の左派・革新系研究者を支援して、彼らは[[運動]]の手先となっていたという<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=192}}</ref>。
 
 
 
例えば、左派・革新系研究者[[藤原彰]]は、1989年6月に底本が発行された『<small>大系</small>日本の歴史15 世界の中の日本』において、以下のように記している<ref>[[藤原彰]]『<small>大系</small>日本の歴史15 世界の中の日本』[[小学館]]ライブラリー SL1015 ISBN 4094610154、134-135p</ref>。
 
{{quotation|朝鮮の南半分では一九八四年八月に大韓民国が成立したが、四八年四月から一年以上もつづいた済州島人民の武装闘争や、四八年一〇月の南海岸の麗水・順天での軍隊の反乱などがあって、政情が不安定なうえに、財政危機もつづいていた。李承晩政権は、国内の危機を北への武力挑発で解消しようとし、武力北進をとなえていた。一方北朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連軍の撤退後もその援助で急速に軍備をととのえ、南の政情不安に乗じて、いっきょに武力で統一を完成しようとしていた。こうして朝鮮の南北双方から準備された内戦として、戦火が開かれたのである。戦闘がはじまると、かねて南進の態勢をととのえていた北朝鮮軍は、三八度線をこえて進撃を開始し、韓国軍は一撃で壊滅し、三日後の六月二八日にはソウルも陥落した。}}
 
 
 
修正説は、[[ウィスコンシン大学マディソン校]]のアメリカ外交史講座の[[ウィリアム・A・ウィリアムズ]]が[[1958年]]に提唱した冷戦の原因がアメリカの拡張主義にあるとした[[ニュー・レフト]]史学・修正主義学派のいわゆる「ウィスコンシン学派」の影響を受けており、カミングスもこの系譜に繋がる修正主義学派として挙げられる<ref name="NewDaily"/>。修正主義学派のアメリカ責任論と南侵誘導説は、[[全国教職員労働組合]]や[[民族問題研究所]]や{{仮リンク|歴史問題研究所|ko|역사문제연구소}}など韓国左派に多大な影響を与え<ref name="NewDaily1">{{Cite news|url=https://www.newdaily.co.kr/news/article.html?no=151062|title=선제 정밀 타격, 북 위협 막는 최선책..美 NYT 기고 ‘화제’|newspaper=[[NewDaily]]|date=2013-04-15|5=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130424232338/http://newdaily.co.kr/news/article.html?no=151062|archivedate=2013年4月24日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>、カミングスの修正説は、韓国で大きな反響を呼び、[[1980年代]]の民主化の波を受け、韓国現代史を急進的に再解釈する[[梃子]]として作用して、[[毛沢東]]の[[新民主主義革命]]理論に基づく韓国現代史の左派的な解釈として発展した<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=287}}</ref>。しかし修正主義学派は、ソ連崩壊で公開された公文書に基づく、[[ジョン・ルイス・ギャディス]]に代表される「脱修正主義(post-revisionism)」研究が[[スターリニズム]]やソ連-北朝鮮の関係を明らかにした結果、アメリカ責任論や南侵誘導説などの修正主義学派は、「降伏した」「徹底的に壊された古い理論」「廃棄された理論」「学説として、すでに寿命が尽きた」というのが主流の研究者の見解であり、国際政治学界はもちろん、本国のアメリカでも居場所を失い、もはや学術的価値がないという<ref name="朝鮮日報1">{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|title="강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|archivedate=2005年10月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="朝鮮日報1">{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|title="강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|archivedate=2005年10月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。学界では、ウィリアム・A・ウィリアムズ、[[ウォルター・ラフィーバー]]、[[トーマス・J・マコーミック]]、[[ロイド・ガードナー]]ら「ウィスコンシン学派」の伝統を継承してきた総本山のウィスコンシン大学マディソン校のアメリカ外交史講座を脱修正主義の大家[[ジョン・ルイス・ギャディス]]の直系弟子で、修正主義学派を厳しく批判した正統主義派のJeremi Suriが教授が引き継いだことから脱修正主義学派の学術的勝利という評価を下している<ref name="朝鮮日報1">{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|title="강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|archivedate=2005年10月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。Jeremi Suriは、修正主義学派はアメリカが共産主義の脅威を誇張して、経済的利益のために[[軍備拡張競争]]を追求したと主張したが、ソ連崩壊後に公文書が公開されたことから根拠を失っており、アメリカの外交政策の欠点を明らかにしたことは、修正主義学派の学術的成果であったが、共産主義の侵略戦争であった朝鮮戦争においては、アメリカと韓国の合法性は損なわれず、脱修正主義の正統主義派の学界は、朝鮮戦争のアメリカの防衛的役割を認めており、1990年代に公開されたソ連の公文書は朝鮮戦争について議論の余地のない3つの事実を明示しているとして以下を挙げている<ref name="朝鮮日報3">{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510170388.html|title=강정구교수의 '한국전' 왜곡|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051220223726/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510170388.html|archivedate=2005年12月20日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
*金日成とスターリンと毛沢東は、韓国を奇襲攻撃する計画を[[1950年]]に互いに協議した。金日成とスターリンと毛沢東は、ソ連を盟主とする共産主義の影響力を[[東北アジア]]に拡大しようとして、共産主義の拡張について話し合い、1950年6月25日の攻撃を韓国解放のための内戦と見ておらず、共産勢力は明らかな侵略戦争を行った。
 
*金日成とスターリンと毛沢東は、アメリカの強力な対応を想定しておらず、そのことはアメリカが過度に介入主義でなかったことを示している。朝鮮戦争開始後の数週間は、アメリカは共産主義の拡大を撃退することができなかった。
 
*朝鮮戦争中、スターリンは、北朝鮮の戦略に多大な影響力を及ぼし、韓国に莫大な被害を負わせて、アメリカも巻き添えにするため、金日成に戦闘を継続するよう煽った。そして、スターリンは毛沢東と一緒に戦争を持続させるための広範な軍事的支援を行った。
 
 
 
[[李榮薫]]は、今日の研究水準として「[[農地改革]]のための民衆の革命的な要求が内戦につながり、これが朝鮮戦争に発展した」という修正説の抱えている問題点として、「韓国では、農地改革を後回しにしたのではなく、地主と小作農の間の事前販売が解放と同時に始まり、[[1949年]]の農地改革法を以てスピードを上げ、朝鮮戦争以前には完了していた」「[[スターリン]]が軍事活動を禁止する命令を下したことによって、[[1949年]][[8月]]以後は、[[38度線]]は軍事的に平穏な状態が保たれていた」ことを挙げた<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=288}}</ref>。ソ連崩壊後に機密解除された[[ソ連]]の公文書によると、1949年3月5日のモスクワ会談において、金日成がスターリンに南侵の提案をおこなった。スターリンは提案を拒否したが、その後の1950年1月17日、金日成は再度スターリンに南侵の提案を上申する<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=290}}</ref>。スターリンは同年1月30日、金日成の南侵の提案を受諾する電報を平壌に飛ばし、4月、極秘にスターリンを訪問した金日成に対し、アメリカが戦争に介入してきた場合の対策として毛沢東の支持・協力を取り付けることを指示した。5月13日、金日成は毛沢東を訪問して南侵の提案を明かして支持・協力を要求したが、毛沢東は別ルートからスターリンが提案を受諾していることを知っており、アメリカが戦争に介入してきた場合、中国が兵力を派兵して金日成を助けることを約束した後、毛沢東は[[瀋陽]]に9個師団を配置して、来たるべき戦争に備えてソ連と[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を締結する。その席上、スターリンは毛沢東に、「アメリカの介入を恐れるな」「アメリカが鴨緑江を越えて東北地区まで進撃してきたら、中国とソ連の挟撃を受けてアメリカは甚大な失敗を味わうことだろう」と激励した<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=291}}</ref>。結果、朝鮮戦争はアメリカとの[[冷戦]]において勝機を得ようとしたスターリンと毛沢東の支持・同意・協力を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備・企図した北朝鮮による先制攻撃であることが明らかとなった。従って、日本・韓国・アメリカなどの学界では修正説はまったく認められていない。しかしなお近年も修正説を主張する見解は提起されている。以下列記するが、韓国には韓国内で北朝鮮(北韓共産集団)・共産主義を賛美する行為及びその兆候は法的に取締る[[国家保安法]]があり、[[2005年]][[東国大学校]]教授の[[姜禎求]]が、「朝鮮戦争が革命的な民衆勢力と外国の勢力に依存する反革命分子とのあいだに起こった内戦<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=294}}</ref>」「北朝鮮の立場からすると、南朝鮮を外国勢力の植民地的な支配から解放するための民族統一戦争<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=294}}</ref>」と主張して、[[国家保安法]]違反で[[懲役]]2年、[[執行猶予]]3年、資格停止2年の[[有罪判決]]を受ける事件があった<ref name="東亜日報">{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/293406/1|title=姜禎求被告、「国保法違反」で有罪判決|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2006-05-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161122194653/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/293406/1|archivedate=2016年11月22日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
; 主張者
 
*[[ブルース・カミングス]]は「誘因説」と「内戦説」を育てた「開祖」であり、修正説の旗手として[[共産主義]]・[[社会主義]]の北朝鮮を支持する日本及び韓国の[[左翼]]から受け入れられた<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>。カミングスは、[[南北戦争]]において、[[アメリカ合衆国]]が侵略したのか、[[アメリカ連合国]]が侵略したのか特定することができないように、朝鮮戦争も内戦であるから、北朝鮮が侵略したのか、韓国が侵略したのか特定することができず、「朝鮮戦争の開戦責任などどうでもいいこと」だという<ref>[[萩原遼]]「東大教授か、デマゴーグか」『[[諸君!]]』1995年4月号、146頁</ref>。
 
*[[小此木政夫]]は、「北朝鮮が民族解放戦争の論理のもとソ連と共謀して朝鮮戦争を始めた」と説明しており、{{仮リンク|金学俊|ko|김학준 (1943년)}}([[ソウル大学]]教授などを歴任、朝鮮戦争研究の第一人者という評価がある<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=192}}</ref>)は、日本の修正主義学派に位置付けている<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。
 
*[[桜井浩]]([[久留米大学]]教授)は、「北朝鮮が韓国での土地改革が成功する事を憂慮し朝鮮戦争を開始した」と説明しており、同じく{{仮リンク|金学俊|ko|김학준 (1943년)}}は、日本の修正主義学派に位置付けている<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。
 
*[[日本]]・[[中国]]・[[韓国]]の研究者が編集した学校[[副教材]]『[[未来をひらく歴史]]』には朝鮮戦争について日本語版には、「北朝鮮の人民軍が半島南部の解放をめざして南下をはじめたのです。」(p188)とある。一方、韓国語版には、「北韓の人民軍が武力統一を目標に南侵したのである。」(p214)とある。[[下川正晴]]は、日本語版と韓国語版は正反対であり、「半島南部の解放」という朝鮮戦争史観について、「旧態依然たる共産党史観というべきか、B・カミングス教授らに影響を受けた“修正主義史観”というべきか」と批判している<ref name="mainichi20050722"/>。[[左翼]]政権([[盧武鉉]])の韓国でも学校副教材に「半島南部の解放」とする修正説を書くわけにはいかず、[[カメレオン]]のように姿を変える歴史修正主義者たちの奇々怪々さにはあきれるしかないと批判している<ref>{{Cite news | author = 下川正晴 | url = http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/archive/news/2005/20050726org00m030037000c.html | title = ソウル発!! 人&風(サラム&パラム) 第19回 日中韓副教材への疑問(その2) | publisher = [[毎日新聞]] | date = 2005-07-26 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20061209092932/http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/archive/news/2005/20050726org00m030037000c.html | archivedate = 2006-12-09 | accessdate = }}</ref>。
 
*[[ガヴァン・マコーマック]]の「朝鮮戦争を[[内戦]]と規定し、介入した米国と[[国連]]を批判<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>」「アメリカや国連を非難」<ref>{{Harvnb|木村幹|2004|p=2}}</ref>」する朝鮮戦争史観は、「北朝鮮側に立ち北朝鮮を弁護しようとの意図がうかがえる」という<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。[[木村幹]]は、カミングスと「同じ歴史修正主義の立場」であると評している<ref>{{Harvnb|木村幹|2004|p=2}}</ref>。[[重村智計]]は、カミングスと[[ジョン・ハリディ]]の歴史修正主義をさらに越える新歴史修正主義と評している<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。
 
*[[ジョン・ハリディ]]は、カミングスとの共著で、「二つの国内的勢力(反植民地闘争にもとづく革命的民主主義運動と、不平等な土地制度と結びついた保守派の運動)の闘争が別の形で継続されていった内戦」「1950年6月に突如として始まったとする通説を批判」しており<ref>{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ハリディ]]・[[ブルース・カミングス]]|date=1990年|title=朝鮮戦争-内戦と干渉|publisher=[[岩波書店]]|ISBN=978-4000013598|ref={{Harvid|ジョン・ハリディ・ブルース・カミングス|1990}}}}内容説明より</ref>、[[重村智計]]は、カミングスの系譜に繋がる歴史修正主義と評している<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>。
 
*[[姜禎求]]は、「朝鮮戦争が革命的な民衆勢力と外国の勢力に依存する反革命分子とのあいだに起こった内戦<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=294}}</ref>」「北朝鮮の立場からすると、南朝鮮を外国勢力の植民地的な支配から解放するための民族統一戦争<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=294}}</ref>」と「カミングスの修正説を越える<ref>{{Harvnb|李榮薫|2009|p=295}}</ref>」主張を行い、[[国家保安法]]違反で[[懲役]]2年、[[執行猶予]]3年、資格停止2年の[[有罪判決]]を受ける。姜禎求は、『[[朝鮮日報]]』によると、[[ウィスコンシン大学マディソン校]]の大学院で[[修士]]と[[博士]]を取得しており、ニュー・レフト史学・修正主義学派のいわゆる「ウィスコンシン学派」なかでも、大学院時代の教授の[[トーマス・J・マコーミック]]<ref name="朝鮮日報1">{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|title="강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|archivedate=2005年10月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>と著作や論文の引用・参考文献からカミングスの強い影響を受けているという<ref>{{Cite news|url=http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|title="강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2005-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html|archivedate=2005年10月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
*カミングスが著書『朝鮮戦争論―忘れられたジェノサイド』のp268で、「なかでもマリリン・ヤング、すでに故人となられたジェームス・B・バレー、[[和田春樹]]には深く感謝している」と謝辞を送っている<ref>{{Cite book|和書|author=[[ブルース・カミングス]]|date=2014年|title=朝鮮戦争論―忘れられたジェノサイド|publisher=[[明石書店]]|ISBN=978-4750339887|ref={{Harvid|ブルース・カミングス|2014}}}}</ref>[[和田春樹]]は著書『朝鮮戦争』で「朝鮮戦争は、南北両方の内部矛盾を解決するための避けられない選択」「北朝鮮の計画された先制攻撃で開始された『内戦』からはじまり、中国-日本-アメリカ-ソ連などが参戦することで、『国際戦』に拡大された戦争」と歴史修正主義的な解釈をしており<ref name="NewDaily"/>、韓国の保守派から「日本版ブルース・カミングス(일본 버전(version)의 브루스 커밍스 )」「朝鮮戦争を内戦と主張、[[姜禎求]]の主張と酷似(6.25전쟁은 “內戰”, 강정구와 동일한 역사인식)」と批判されている<ref name="NewDaily">{{Cite news|url=http://www.newdaily.co.kr/news/article_s.html?no=190868&rvw_no=1559|title=때가 되면 등장하는 日좌익 '와다 하루키(和田春樹)'|newspaper=[[NewDaily]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161124173722/http://newdaily.co.kr/news/article_s.html?no=190868&rvw_no=1559|archivedate=2016年11月24日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。和田は、朝鮮戦争を「内戦から始まり、中国・日本・米国・ソ連 などが参戦することによって国際戦へ拡大した戦争」「韓国戦争が勃発したのは解放後の韓半島で理念的に異なった南北の韓国分断政府が樹立されたことにともなう必然的な結果」「国連軍の参戦で韓国軍と米軍が38線を越えて進撃することで南北双方1回ずつ武力統一を試みた戦争」「当時韓国の李承晩政府も『武力による北進統一論』を積極的に進めた」と主張しており<ref name="京郷新聞"/>、『[[京郷新聞]]』は「韓国戦争は南北すべての内部矛盾を解決するための避けられない選択」というカミングスに代表される「修正主義と似た見解」と指摘している<ref name="京郷新聞"/>。ちなみに和田春樹は、朝鮮戦争は南侵(北朝鮮による韓国侵略)か北侵(韓国による北朝鮮侵略)なのかについては、「あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった」と述べている<ref>[[和田春樹]]「北朝鮮が決定してはじめた国土統一戦争」『[[世界 (雑誌)|世界]]』平成10年3月号</ref>。
 
*[[油井大三郎]]は、[[1985年]]が底本の論文では、朝鮮戦争が[[韓国]]が[[北朝鮮]]を侵略した「北侵」、もしくは韓国が北朝鮮に軍事挑発を行い、それに対して北朝鮮が反撃を加えた「南侵誘導」を示唆しており、{{仮リンク|I.F. ストーン|en|I. F. Stone}}『秘史朝鮮戦争』と[[D・W・W・コンデ]]『朝鮮戦争の歴史』の説を検討すべきと主張しており、朝鮮戦争が北朝鮮による侵略戦争であることを[[否認主義|否認]]、「解放戦争」「統一戦争」「防衛戦争」と主張、朝鮮戦争における[[アメリカ軍|米軍]]と[[国連]]の介入を「干渉」「[[ジェノサイド]]」「なぜ、内戦に外国軍隊が介入し、国際化されたのか、が問われるべき」、北朝鮮を「革命的民族運動」と主張していたが<ref>{{Cite |和書 |editor=歴史学研究会, 日本史研究会|title=「朝鮮戦争と片面講和」講座 日本歴史(11)|date=1985|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130250610|ref={{Harvid|日本歴史|1985}}}}</ref>、[[ソ連崩壊]]後の[[1998年]]が底本の著書では、カミングス『朝鮮戦争の起源』や和田春樹『朝鮮戦争』を引用・参考文献に挙げて、「戦争が北朝鮮による武力統一をめざした[[内戦]]の性格をもっていたことが明らかになっている」と主張している<ref>「第二次世界大戦から米ソ対立へ」『世界の歴史 28』p275、[[中央公論社]]、[[1998年]]、 ISBN 978-4124034288</ref>。
 
 
 
; 批判者
 
機密が解除された[[ソ連]]の公文書から、朝鮮戦争はスターリンと毛沢東の支持・同意・協力を取り付けた金日成が行った侵略戦争であることが裏付けられたことから、日本・韓国・アメリカなどの学界ではまったく認められていない。これについて、「統一のための内戦説」は、「彼らも世界の学界ではそうした主張を提起することはできない。せいぜいあざわらわれるのがおちだからだ」という指摘もある<ref name="朝鮮日報社説"/>。修正説を主張している人物に対しては、「内戦ならば、北朝鮮は開戦責任を問われることはなく、内戦に介入したアメリカを批判できる<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>」から「学問的というよりは、政治的意図を含む研究<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>」「その政治的な目的と動機は、あきらかであったと言わざるをえない<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=193}}</ref>」「北朝鮮側に立ち北朝鮮を弁護しようとの意図がうかがえる<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=194}}</ref>」「価値と威信を失った<ref>{{Harvnb|重村智計|2010|p=195}}</ref>」「日本や韓国の常識ではバランスを逸した歴史記述<ref name="mainichi20050722"/>」「北朝鮮と国内の偏向した修正主義史観の支持者だけが、韓国戦争を統一のための内戦というこじつけに執着している<ref name="朝鮮日報社説">{{Cite news |url=http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/22/20061122000003.html|title=【社説】「韓国戦争は内戦だった」と言う盧武鉉大統領|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2006-11-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070115021826/http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/22/20061122000003.html|archivedate=2007-01-15}}</ref>」「韓国社会でまだ北侵説や自然発生的な内戦論があるというのに驚く<ref name="中央日報"/>」「いまやカミングスの修正主義、80年代式歴史認識の枠を越える時になっているのは明らかだ<ref name="中央日報2"/>」「理論的基盤は崩れた<ref name="東亜日報1"/>」「韓国国内の一部の歴史学者たちは相変わらず1980年代の古い理念のフレームから脱け出せずにいる<ref>【コラム】中国学者が再考証する朝鮮戦争の歴史『[[朝鮮日報]]』[[2014年]][[5月4日]]</ref>」「いわゆる進歩とされる一部勢力は、依然として『南侵か北侵か分からない』、『内戦だ』と云々し、事実を受け入れない<ref name="東亜日報4">{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/413948/1|title=[社説]韓国戦争「カミングスのオウム」もはや消えなければ|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2011-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161123141252/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/413948/1|archivedate=2016年11月23日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>」「北朝鮮の共産集団が、民族に最大の悪行を犯したにも関わらず、北朝鮮政権を庇護し、反共を批判する勢力が堂々と大手をふるう<ref name="東亜日報4"/>」など指弾する見解が多数ある。{{main|ブルース・カミングス#評価}}
 
 
 
== 朝鮮戦争を題材とした作品 ==
 
「[[:Category:朝鮮戦争を題材とした作品]]」を参照。
 
 
 
直接の題材とはしていないが、TVアニメ版「[[機動警察パトレイバー]]」第10話「イヴの罠」同第11話「イヴの戦慄」は、「50年のクリスマスを探しに行く」と謎めいた言葉を残して失踪した登場人物の祖母を探す、というもので、朝鮮戦争勃発が事件解決のキーワードにされている。
 
 
 
「[[あしたのジョー]]」には朝鮮戦争での悲惨な経験から、胃が縮み、小食となったため減量しないボクサー金竜飛が登場する。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*芦田茂「[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/11.pdf 朝鮮戦争と日本]」戦史研究年報 第8号(2005年3月)防衛研究所
 
* [[神谷不二]]『朝鮮戦争 米中対決の原形』([[中公新書]]、のち[[中公文庫]]) 初期の研究
 
* [[児島襄]]『朝鮮戦争』 (全3巻、文藝春秋、のち文春文庫)
 
* [[小此木政夫]]『朝鮮戦争 米国の介入過程』([[中央公論新社|中央公論社]])
 
* [[平松茂雄]]『中国と朝鮮戦争』([[勁草書房]])
 
* {{仮リンク|I・F・ストーン|en|I. F. Stone}}『秘史朝鮮戦争』([[内山敏]]訳、[[青木書店]])
 
* [[朱建栄]]『[[毛沢東]]の朝鮮戦争 中国が[[鴨緑江]]を渡るまで』([[岩波書店]]、のち[[岩波現代文庫]])
 
* [[萩原遼]]『朝鮮戦争―金日成と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の陰謀』(文藝春秋、のち[[文春文庫]])
 
** 萩原遼『「朝鮮戦争」取材ノート』(かもがわ出版、のち文春文庫)
 
* A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』([[下斗米伸夫]]、金成浩訳、[[草思社]])
 
* [[ジョン・トーランド]]『勝利なき戦い 朝鮮戦争』 (上・下、[[千早正隆]]訳、[[光人社]])
 
* [[ブルース・カミングス]]、[[ジョン・ハリディ]] 『朝鮮戦争 内戦と干渉』([[清水知久]]訳、[[岩波書店]])
 
* [[デイヴィッド・ハルバースタム|ディヴィッド・ハルバースタム]]『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影』
 
*:金子宣子訳、上・下 ([[新潮社]]、1997年)、のち文庫(全3巻、2002年)
 
**新訳版『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影』 峯村利哉訳([[ちくま文庫]] 全3巻、2015年) 
 
* デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 ※著者の遺著
 
*: 山田耕介・山田侑平訳、(上・下、文藝春秋、2009年/文春文庫、2012年)
 
* ジョン・ブルーニング『クリムゾンスカイ-朝鮮戦争航空戦』(手島尚訳、[[光人社]]NF文庫、2001年)
 
* [[秦郁彦]]『昭和史の謎を追う〈下〉』、「朝鮮戦争と日本」(文藝春秋、のち文春文庫)
 
* [[軍事史学会]]編『軍事史学 特集朝鮮戦争』 (第36巻1号・通巻141号 [[錦正社]])
 
* [[木村幹]]『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房 2003年)。人文・社会科学叢書71
 
* 李圭泰「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000315675 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線]」(1992年)
 
* 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』([[学研ホールディングス|学研]] 上・下、1999年、新版1冊本 2007年)、図説本
 
* {{Cite book|和書|author=田中恒夫編 |translator= |editor= |others= |chapter= |title=図説 朝鮮戦争 |series=ふくろうの本 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版発行 |date=2011-04-30 |publisher=[[河出書房新社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=978-4-309-76162-6 |volume= |page= |pages= |url= |ref=田中(2011)}}
 
* ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー』 [[鈴木主税]]・高山圭訳、河出書房新社(上下)、1985年
 
*{{Cite book|和書|author=[[重村智計]]|date=2010|title=北朝鮮の拉致、テロ、核開発,有事の国際関係|publisher=[[早稲田大学]]社会安全政策研究所紀要(3) |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21565&item_no=1&page_id=13&block_id=21|
 
ref={{Harvid|重村智計|2010}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[李榮薫]]|date=2009-02|title=大韓民国の物語|publisher=[[文藝春秋]]|ISBN=4163703101|ref={{Harvid|李榮薫|2009}}}}
 
 
 
; 大部な研究
 
* 韓国国防軍史研究所『韓国戦争 第1巻〜第5巻』(同翻訳編集委員会訳 かや書房 2000年9月 - 2007年6月)
 
: ISBN 4906124410、ISBN 4906124453、ISBN 490612450X、ISBN 4906124585、ISBN 490612464X
 
* 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』(上・中・下、原書房)
 
* 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』(全10巻、[[原書房]])
 
* [[赤木完爾]]編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』([[慶應義塾大学]]出版会)
 
* 金東椿、崔真碩ほか訳『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(平凡社)
 
* 金学俊『朝鮮戦争 原因・過程・休戦・影響』([[論創社]])
 
* [[和田春樹]]『朝鮮戦争全史』(岩波書店 2002年) ISBN 4000238094
 
* 西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争』 (岩波書店 2004年) ISBN 9784000223782
 
* 金賛汀『在日義勇兵帰還せず』 (岩波書店 2007年) ISBN 4000230182
 
 
 
; 回顧録
 
* サー・セシル・バウチャー『[[英国空軍]]少将の見た日本占領と朝鮮戦争』
 
*: レィディ・バウチャー編、[[加藤恭子 (評論家)|加藤恭子]]・今井万亀子訳(社会評論社)
 
* [[マシュー・リッジウェイ]] 『朝鮮戦争』 熊谷正巳、秦恒彦共訳(恒文社)
 
* [[白善ヨプ|白善燁]]『若き将軍の朝鮮戦争』([[草思社]]、のち草思社文庫)
 
* 崔極 『実録朝鮮戦争』(光人社)
 
* 葉雨蒙『[[黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史]]』(同文舘)
 
* 大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会、1978年。
 
; 日本の特別掃海隊について
 
* 「朝鮮動乱特別掃海史」掃海OB等の集い世話人会(平成21年1月5日)[http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/tokubetusoukaisi.pdf]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[戦争一覧]]、[[代理戦争]]
 
* [[朝鮮統一問題]]
 
* [[朝鮮戦争休戦協定]]
 
* [[板門店]]
 
* [[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]、[[38度線]]
 
* [[老斤里事件]]
 
* [[保導連盟事件]]、[[済州島四・三事件]]、[[国民防衛軍事件]]
 
* [[朝鮮特需]]
 
* [[チュー・イェン・リー]]
 
* [[冷戦]]、[[新冷戦]]
 
* [[朝鮮戦争戦没者慰霊碑]]
 
* [[第1延坪海戦]]、[[第2延坪海戦]]
 
* [[大青海戦]]
 
* [[吹田事件]]
 
* [[延坪島砲撃事件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons&cat|Korean War}}
 
* [http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable2.htm 朝鮮戦争年表 仁川上陸まで]
 
* [http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable3.htm 朝鮮戦争年表 仁川上陸から]
 
* [http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4559/koreawar1950.html 朝鮮戦争の経過 フラッシュ前編]
 
* [http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4559/koreawar1951ver2.html 朝鮮戦争の経過 フラッシュ後編]
 
* [http://www.korean-war.com/ 参戦国別朝鮮戦争]{{en icon}}
 
* [http://qindex.info/Q_incld/drctry.php?id=movie&ctgry=938 Collection of Korean War videos]{{en icon}}
 
* [http://www.nids.go.jp/event/forum/j2006.html 平成18年度戦争史研究国際フォーラム報告書] - [[防衛研究所]]
 
* [http://life.time.com/history/korean-war-classic-photos-by-lifes-david-douglas-duncan/?iid=lb-gal-viewagn#1 LIFE IN THE KOREAN WAR: CLASSIC PHOTOS] - [[ライフ (雑誌)]]アーカイブ
 
 
 
{{朝鮮戦争}}
 
{{中華人民共和国の紛争}}
 
{{アメリカの戦争}}
 
{{日本の経済史}}
 
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2018/8/5/ (日) 20:34時点における最新版

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)

朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) と大韓民国 (韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。

1950年6月 25日,北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと,38度線の南部に対する綿密な攻撃計画を発動した。国連安全保障理事会 (安全保障理事会 ) は緊急会議を開き,北朝鮮の侵略を押しとどめるためすべての国連加盟国に支援を要請する決議を採択した。6月 27日,トルーマン米大統領は議会にはかることなく,宣戦を布告し,国連の警察活動の一環として韓国を支援するよう米軍に命じた。この間,韓国軍は北朝鮮軍に圧倒された。不十分な装備のまま応援に駆けつけた米陸軍の4個師団も南へと後退し,朝鮮半島の南端に押込められた。しかし,米軍は大量の援軍を得,さらに9月 15日,マッカーサー将軍率いる部隊が 38度線の南方およそ 160キロの仁川に上陸作戦を敢行した。主要戦線のはるか北方で上陸作戦を行なったことで,国連軍は北朝鮮軍の分断に成功し,北朝鮮軍は南北からの挟撃を受けて,完全に粉砕され,12万 5000人以上が捕虜となった。

国連軍が北上して 38度線まで押返したとき,中国は国連軍が北朝鮮に存在することは国家安全保障にとって受入れがたく,この戦争に介入せざるをえないと警告した。しかし,国連軍は警告を無視し,南北統一の意図を表明するとともに,北朝鮮に進軍した。 11月半ばまでに,国連軍部隊は北朝鮮と満州 (中国東北部) の国境である鴨緑江に接近しつつあった。 11月 24日,マッカーサーは「クリスマスまでには帰国」を実現するとして一大攻勢を発表,彼が率いる部隊は勇躍,鴨緑江まで進軍するはずだった。翌日,およそ 18万人の中国義勇軍が参戦し,冬季の苦しい戦闘と悲惨な退却のあと,国連軍は 12月 15日までに再び南の 38度線まで押返されてしまった。 50年 12月 31日,共産勢力はおよそ 50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻を開始したが,国連軍の絶え間ない空爆を受けて攻撃が鈍り,前線は最終的に 38度線沿いで動かなくなった。一方,マッカーサーは中国沿岸部の封鎖と満州の基地に対する空爆を当局に要求したが,それはソ連の参戦を招き,世界規模の紛争にいたると恐れるトルーマンはこの要求を却下。 51年4月,トルーマンはマッカーサーを国連軍司令官,極東軍司令官から解任し,リッジウェー将軍を後任に据えた。

51年7月,停戦交渉が開始され,52年秋にアイゼンハワーが米大統領選挙に勝利するまで続いた。アイゼンハワーは北朝鮮,中国とひそかに連絡をとり,和平合意がならない場合,核兵器を使用する用意があり,対中戦争も辞さないと伝えた。 53年7月 27日,休戦が成立し,そのときの前線が南北間の事実上の国境として受入れられた。この戦争で,およそ 130万人の韓国人 (その多くは民間人) が死亡し,中国人の死者は 100万人,北朝鮮人は 50万人,アメリカ人は約5万 4000人が死亡したほか,連合軍側ではイギリス人,オーストラリア人,トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり,韓国の工業施設の大半が被害を受け,北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。

脚注