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{{日本の歴史|Emperor Showa.jpg|画像説明=[[昭和天皇]]}}
 
'''昭和'''(しょうわ)は[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[大正]]の後、[[平成]]の前。[[昭和天皇]]の在位期間<ref>昭和天皇は父・[[大正天皇]]の病状を受け[[1921年]](大正10年)11月25日に「[[摂政宮]]」に就いている。</ref>である[[1926年]](昭和元年)[[12月25日]]から[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]まで。[[20世紀]]の大半を占める。
 
  
昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、[[清]]の[[康熙]](61年)および[[乾隆]](60年)しかない。
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'''昭和'''(しょうわ)
  
[[第二次世界大戦]]が終結した[[1945年]](昭和20年)を境にして[[近代]][[現代 (時代区分)|現代]]に区切ることがある。<!--明治憲法が天皇主権かは学説によってことなったはず。独自研究の恐れあり。{{要出典|1945年(昭和20年)以前は天皇主権体制の'''[[大日本帝国憲法]]下'''だった(戦前期)と呼ばれる戦争の時代、1945年(昭和20年)以降は[[連合国軍占領下の日本|GHQ占領期]]を含めて国民主権体制と[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]体制の'''[[日本国憲法]]下'''(戦後期)と呼ばれる[[冷戦]][[高度経済成長]]の時代という異なる政治体制である。}}-->
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[[日本]][[元号]]の一つ。[[大正]]の後、[[平成]]の前。[[昭和天皇]]の在位期間<ref>昭和天皇は父・[[大正天皇]]の病状を受け[[1921年]](大正10年)11月25日に「[[摂政宮]]」に就いている。</ref>である[[1926年]](昭和元年)[[12月25日]]から[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]まで。[[20世紀]]の大半を占める。
  
== 改元 ==
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昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、[[]]の[[康熙]](61年)および[[乾隆]](60年)しかない。
昭和は、[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]と[[登極令]]による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の[[元号法]]制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた<ref>旧皇室典範の廃止(1947年)によって元号に関する条文が削除され、元号は法的根拠を失った。しかし、その後も慣習として昭和の年号は公私を問わず広く使われ続けた結果、元号法の制定(1979年)に至った。</ref>。
 
 
 
「昭和」の由来は、[[四書五経]]の一つ[[書経]]堯典の「百姓'''昭'''明、協'''和'''萬邦」([[百姓]](ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。漢学者・[[吉田増蔵]]の考案。なお、[[江戸時代]]に全く同一の出典で、[[明和]]の元号が制定されている(「百姓昭'''明'''、協'''和'''萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
 
 
 
当時[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長だった[[倉富勇三郎]]の日記によれば、[[宮内省]](現:[[宮内庁]])作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「[[同和]]」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「[[同和]]」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「[[光文事件|光文]]」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
 
 
 
=== 開始 ===
 
{{Wikisource|昭和ト改元}}
 
1926年(大正15年)12月25日、[[大正天皇]][[崩御]]。同日、[[皇太子]]([[摂政|摂政宮]])裕仁親王([[昭和天皇]])の[[践祚]]を受け直ちに改元の詔書を公布して昭和に即日[[改元]]し、1926年の最後の1週間だけが昭和元年となった。[[西暦]]の[[1926年]][[12月25日]]は、大正15年であり昭和元年でもある<ref>「昭和改元の詔」の日付は大正15年12月25日であり、同じ日に公布された大喪使官制(昭和元年勅令第1号)の日付は昭和元年12月25日となっている。</ref>。なおこの際、[[東京日日新聞]]が「新元号は光文」と[[誤報]]した([[光文事件]])。
 
 
 
昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)
 
{{Quotation|朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)}}
 
 
 
=== 終了 ===
 
{{Wikisource|元号を改める政令}}
 
1989年(昭和64年)1月7日(午前6時33分)[[昭和天皇]]が崩御し、昭和64年は昭和元年と同様にわずか1週間で終了。そして、即日[[明仁|皇太子明仁親王]]が皇位を継承し、第125代[[天皇]]([[今上天皇]])となった。そのため、[[元号法]]の規定に基き、元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日[[政令]]第1号)を公布した。翌日の[[1月8日]]に同政令は施行されて、[[平成]]に改元した。
 
 
 
元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)
 
{{Quotation|内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
 
 
 
元号を平成に改める。
 
 
 
附則
 
 
 
この政令は、公布の日の翌日から施行する。}}
 
 
 
== 第一次世界大戦後 ==
 
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の[[世界大戦]]に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する[[国家総力戦|大規模近代戦争]]を伴う動乱の時代でもあった。
 
 
 
日本は国内的には[[立憲君主制]]の体裁をとり、当初の[[藩閥|藩閥政治]]を脱して、[[1920年代]]には[[政党内閣|政党が内閣を構成]]するようになり、[[大正デモクラシー]]の風潮を受け継ぐ形での[[政党政治]]が行われた。。
 
 
 
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。[[1920年代]]末から独立性を強めた軍部は、[[1930年]](昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事[[クーデター]]により、ついには政党政治を葬り去った。
 
 
 
== 金融恐慌 ==
 
[[第一次世界大戦]]では、[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]による稀に見る好況を迎え、[[日本の経済|日本経済]]は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後[[恐慌]]となった。
 
 
 
さらに[[1927年]](昭和2年)には、[[関東大震災]]による手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする[[銀行]]への[[取り付け騒ぎ|取りつけ騒動]]が[[1927年]](昭和2年)[[3月15日]]から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、[[昭和金融恐慌]]となった。昭和初期に[[東北地方]]が大[[凶作]]に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、[[間引き]]が盛んに行われた。[[冷害]]や[[貧困]]のために東北地方の[[農村]]では「[[娘]]の[[身売り]]」があり[[社会問題]]となった。
 
 
 
[[第1次若槻内閣]]([[若槻禮次郎]]首相)は[[鈴木商店]]の[[不良債権]]を抱えた[[台湾銀行]]の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の反対にあい、[[内閣総辞職|総辞職]]した。
 
 
 
あとを受けた[[田中義一内閣]]([[田中義一]]首相)は、[[高橋是清]][[財務大臣|蔵相]]の下で3週間の[[モラトリアム]](支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と[[日本銀行]]から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行([[三井銀行]]・[[三菱銀行]]・[[住友銀行]]・[[安田銀行]]・[[第一銀行]])への預金が集中した。
 
 
 
一方、[[中国]]([[中華民国]])では[[1925年]](大正14年)に死去した[[孫文]]の後を[[蒋介石]]が継ぎ、[[1926年]](大正15年)7月に[[中国国民党]]の[[国民政府]]軍は蒋介石を総司令として[[北伐]](中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始し、10月には[[武漢]]を占領し、ここに政府を移して、翌年の[[1927年]](昭和2年)3月には[[上海市|上海]]を占領、ついで[[南京市|南京]]も手中に収めた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店〈岩波新書355〉1959年 32ページ</ref>。
 
 
 
== 田中内閣と山東出兵 ==
 
田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回<ref>第1回は[[1927年]](昭和2年)[[5月28日]]「居留民保護」の名目で出兵。第一次大戦以来山東省には日本の各種の権益が多く、多くの日本人も居留していた。徐州に迫っていた国民政府軍(国民革命軍)の阻止が主目的で在った。第2回は[[1928年]](昭和3年)[[4月19日]]に一次出兵と同じ目的で一個師団を投入した。しかし、中国統一や民族運動に譲歩していた英米とは違って、日本は中国の民族運動を抑えるためであった。5月3日には居留民殺傷という理由で済南城を攻撃し占領した。第3回は9日後の[[1928年]](昭和3年)[[5月9日]]にさらに一個師団を増派し、合わせて15,000の大群で華北を抑えた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 39と44-45ページ)</ref>に及ぶ[[山東出兵]]を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて[[東方会議 (1927年)|東方会議]]を開き、[[満州|満]][[内モンゴル自治区|蒙]]の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は[[満州]]の実力者[[張作霖]]と交渉して、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、[[関東軍]]は張の乗る列車を[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]に爆破して暗殺した([[満州某重大事件]])。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀[[河本大作]]の仕業であった。このため国内の野党から「[[張作霖爆殺事件|満州某重大事件]]」として追及され、田中は[[昭和天皇]]に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、[[田中義一内閣]]はこのため[[1929年]](昭和4年)[[7月2日]]に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。
 
 
 
田中内閣は、[[護憲運動|第二次護憲運動]]で誕生した[[護憲三派]]の内閣である[[加藤内閣]]([[加藤高明]]首相)とりわけ、外相である[[幣原喜重郎]]が行った外交政策である中国内政不干渉政策([[幣原外交]])を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。
 
 
 
しかし、中国での武力行使に対する列国の批判を交わすためもあって、[[1928年]](昭和3年)、[[フランス]]の[[パリ]]で締結されたいわゆる[[不戦条約|パリ不戦条約]]には調印した。ただ、この不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、「[[国体]]をないがしろにするもの」とする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行われた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化を図ったことでも知られている。
 
 
 
== 普通選挙 ==
 
昭和初期は[[大正デモクラシー]]の成果で[[二大政党制]]([[政友会]]・[[憲政会]])の時代となり、[[日本政府]]の積極的な[[公共投資]]による経済復興を主張する[[立憲政友会]]と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から[[立憲民政党]]に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する[[議院内閣制]]のもと「[[憲政の常道]]」とも呼ばれる[[政党政治]]の時代であった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]20頁〜21頁</ref>、特に[[日本国民]]の2割に当たる1200万人の男性[[有権者]]が投票した[[1928年]](昭和3年)[[2月20日]]の男子[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙]])実施後、予想外の進出を示した[[無産政党]]や[[日本共産党]]に対する[[弾圧]]を強め、1928年(昭和3年)に[[三・一五事件]]、翌年に[[四・一六事件]]を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、[[勅令|緊急勅令]]により、[[治安維持法]]を改正して最高刑を[[死刑]]とした。
 
 
 
一方、文化や社会科学の研究では[[マルクス主義]]が隆盛となり、[[1932年]](昭和7年)には、[[野呂栄太郎]]らによる『[[日本資本主義発達史講座]]』が[[岩波書店]]から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「[[講座派]]」と呼ばれたが、それに対して批判的な[[向坂逸郎]]らは雑誌『[[労農]]』により、「[[労農派]]」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、[[国家主義]]的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束していくこととなった。
 
 
 
そのような状況下の[[1929年]](昭和4年)[[10月24日]]、[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]での[[ウォール街大暴落 (1929年)|株価の大暴落]]によって[[世界恐慌]]が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた[[濱口内閣]]([[濱口雄幸]]首相)が実行した[[金解禁]]を契機として[[昭和恐慌]]が引き起こされた。この[[恐慌]]は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。[[イギリス|英国]]・[[フランス]]・[[アメリカ合衆国|米国]]などが植民地囲い込みによる[[ブロック経済]]で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で[[天文学]]的[[戦争賠償|賠償金]]を負っていた[[ドイツ]]や、高収益な[[植民地]]を所有しない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことは[[ファシズム]]の台頭を招き、ドイツでは独裁者の[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。[[1930年]](昭和5年)、米国や英国が中心となり[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催された。これは第一に、主力艦を[[1936年]](昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものであった。全権大使[[若槻禮次郎]]はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した([[統帥権|統帥権干犯問題]])。
 
 
 
== 満州事変 ==
 
[[1931年]](昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の[[立憲民政党]]内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には[[長春市|長春]]付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満州問題解決方針の大綱」を決定していた。
 
 
 
同年9月18日には関東軍の謀略により[[満州事変|柳条湖事件]]を契機に[[満州事変]]が勃発した。関東軍は[[瀋陽市|奉天]]、長春、公主領、[[四平街]]などの[[南満州鉄道]]沿線の[[首都]]と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。このことが[[1945年]](昭和20年)の敗戦までにわたる大戦争の第一歩となった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 78-79ページ</ref>。政府は戦争不拡大の方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった([[塘沽協定]]で日中間は一旦停戦となる)。
 
 
 
日本の[[満洲国]]建国に前後して、[[国際連盟]]はイギリスの[[ヴィクター・ブルワー=リットン]]率いる[[リットン調査団]]を派遣して、その調査結果に基づいて、[[1933年]](昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1<ref>反対は日本のみ、ほかに[[タイ王国|シャム(タイ)]]のみが棄権</ref>で可決した。日本は2月20日の閣議で、満州撤退勧告案が可決された場合、脱退することを決めていたので[[松岡洋右]]代表は退場(2月24日)して、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された{{要出典|date=2011年12月19日}}。
 
 
 
また、[[1932年]](昭和7年)2月9日、[[第18回衆議院議員総選挙]]戦中に、民政党の[[井上準之助]](前蔵相)が選挙応援中に射殺され、[[3月5日]]には[[団琢磨]](三井合名理事長)が[[三井銀行]]本店の入り口で[[射殺]]された。いわゆる[[血盟団事件]]である。続いて5月には海軍将校らが[[犬養毅]]首相を射殺した[[五・一五事件]]が起こり、[[犬養内閣]]総辞職の後、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、[[帝人事件]]の贈収賄容疑が閣内に波及したため[[1934年]]、(昭和9年)[[7月3日]]に総辞職をし、[[7月8日]]に[[岡田内閣]]([[岡田啓介]]首相)が成立した。[[軍部]][[急進派]]や[[右翼団体]]を中心に、[[明治維新]]の精神の復興、[[天皇親政]]を求める[[国家革新]]の「[[昭和維新]]」を[[スローガン]]とする[[右翼]]思想が唱えられ、この思想の影響で[[1936年]](昭和11年)には[[皇道派]]の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した[[二・二六事件]]が起こった。このように軍部の暴走が顕著になり、その影響力が強まった[[1936年]](昭和11年)[[2月28日]]に[[岡田内閣]]は総辞職し、[[政党内閣]]は終焉に至った。
 
 
 
その後、同年3月9日に成立した[[廣田内閣]]([[広田弘毅]]首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で、実質廃止となっていた[[軍部大臣現役武官制]]を復活させた。しかしその制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。同内閣成立早々に閣議で審議決定した「重要国策」は、その後の日本の将来に決定的な影響を与えた。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の[[五相会議]]が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「国の基準」に基づいて、軍備大拡張計画が立てられた。陸軍は国防充実12か年計画<ref>飛行機、戦車、火砲などの近代装備の大幅な充実</ref>、海軍は第二次補充計画<ref>武蔵、大和などの世界最大の戦艦や航空母艦の建艦</ref>を立てた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 135-137ページ</ref>。
 
 
 
このため[[1937年]](昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 136ページ</ref>。このように軍備拡張と戦時体制への整備が急速に推進された。
 
 
 
同内閣は[[1936年]](昭和11年)[[11月]]に[[ドイツ]]の[[首都]]である[[ベルリン]]で[[日独防共協定]]を調印した。[[1937年]](昭和12年)[[1月29日]]に閣内不統一で総辞職して、[[2月2日]]に[[林内閣]]([[林銑十郎]]首相)が成立するが[[5月31日]]には総辞職となり、6月4日に[[第一次近衛内閣]]([[近衛文麿]]首相)が成立する。中国では[[西安事件]]で拉致された[[蒋介石]]と[[周恩来]]の間で[[国共合作]]が成立して、抗日闘争が進められた([[国共合作|第二次国共合作]])。
 
 
 
== 日中戦争(支那事変) ==
 
[[1937年]](昭和12年)には、[[盧溝橋]]で日中両軍が衝突し([[盧溝橋事件]])、停戦協定後も[[通州事件]]、[[第二次上海事変]]などが続き、[[日中戦争]]([[支那事変]])が始まった。戦線の拡大に従って[[廣田内閣]]・[[林内閣]]で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への協力を国民に求めるという「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して[[国家総力戦|総力戦]]を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果[[国家総動員法]]が成立した。国内の文化・思想に関しては、[[戦時体制]]が強化されるに伴って[[治安維持法]]による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、[[加藤勘十]]・[[鈴木茂三郎]]らの労農派の関係者が[[人民戦線]]の結成を企図したとして検挙される[[人民戦線事件]]が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。
 
 
 
近衛内閣(第一次)の後を受けて[[1939年]](昭和14年)[[1月5日]][[平沼内閣]]([[平沼騏一郎]]首相)が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。この職には首相を辞職したばかりの近衛が就くといった具合で、首相の選任も一部の宮廷勢力が軍部の意向に逆らわないような形で行われていた。2月には軍部は[[南シナ海|南支那海]]の中国領[[海南島]]を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島と名付けた。この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には[[天津]]の英仏租界を封鎖した。天津事件という。東京では、[[有田八郎]]外相と[[ロバート・クレーギー]][[駐日英国大使|英大使]]との会談が開かれた。7月になると[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領([[民主党 (アメリカ)|民主党]]政権)の[[アメリカ連邦政府|アメリカ政府]]が[[日米通商航海条約]]の破棄を通告したので[[ネヴィル・チェンバレン]]首相のイギリス政府の対応も変わり日英会談は決裂した<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 169ページ</ref>。満洲では日本とソ連は1939年(昭和14年)[[5月12日]]の[[ノモンハン事件]]などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満州から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。それは機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられ、敗北した。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。[[9月16日]]にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 171ページ</ref>。
 
 
 
時にヨーロッパでは、一触即発の危機に陥り、情勢は目まぐるしく変転し、8月には[[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[三国同盟]]問題を解決できなかった平沼内閣はここに至って混乱の極に達して、1939年(昭和14年)[[8月28日]]に平沼内閣総辞職をした。その理由を「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」と説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策を立てることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172ページ</ref>。
 
 
 
この後には同年[[8月30日]]に[[阿部内閣]]([[阿部信行]]首相)が誕生した。この後すぐに'''[[第二次世界大戦]]'''が始まった。内閣は[[9月4日]]に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら[[支那事変]]([[日中戦争]])の解決に邁進せんとす」との声明を出した。ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本支配層は、国際情勢に戸惑いを感じ、外交方針の見直しに迫られた。「防共」とか「東亜新秩序」のイデオロギーに縛られていた従来の外交方針を見直すよい機会となった。[[11月4日]]からは外相[[野村吉三郎]]はアメリカ大使[[ジョセフ・グルー]]と会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。
 
 
 
しかし、[[日米交渉]]は進展せず、[[1940年]](昭和15年)1月には[[日米通商航海条約]]は失効してしまった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172-174ページ</ref>。1月の第75回[[帝国議会]]で276人([[衆議院]]定員の過半数)の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議した。日中戦争が開始して以来3年、国民の不安と厭戦気分が広がり、また、官僚統制への不満が自然に広がっていった。閣内には解散論が渦増しだした。しかし、軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので、[[1940年]](昭和15年)[[1月4日]]に阿部内閣は退陣した。
 
 
 
続く内閣には海軍大将[[米内光政]]を首班とする[[米内内閣]]が[[1月16日]]に成立した。この内閣には民政党・政友党から2名ずつ、財界からは[[藤原銀治郎]]が[[商工大臣|商相]](現在の[[経済産業大臣|経済産業相]]にほぼ相当)として入閣した。
 
 
 
[[1940年]](昭和15年)[[11月10日]]〜[[11月14日]]に、同年が初代[[神武天皇]]が即位して2600年([[神武天皇即位紀元]])にあたるとして「[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年]]式典」(提灯行列、旗行列、音楽行進など)が全国で実施される。
 
 
 
== 第二次世界大戦 ==
 
ヨーロッパでは[[1939年]](昭和14年)[[8月23日]]に突如、[[独ソ不可侵条約]]が発表された。[[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド]]に侵入して、[[9月3日]]に[[イギリス]]、[[フランス]]がドイツに宣戦布告して[[第二次世界大戦]]が開始された。日本の当時[[阿部内閣]]([[阿部信行]]首相)は「欧州戦争に介入せず」と声明した。[[1940年]](昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ、[[イタリア]]の勢力が拡大するに及んで[[日独伊三国軍事同盟|日独伊三国同盟]]を締結した。[[大西洋憲章]]を制定したアメリカ、イギリスの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対して、日本、ドイツ及びイタリアは[[枢軸国]]と呼称されるようになった。また、ソ連との間に[[日ソ中立条約]]が締結されて、[[満洲国]]・[[モンゴル人民共和国]]の尊重と相互不可侵が約束された。
 
 
 
[[日中戦争]]([[支那事変]])開始後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、[[畑俊六]]陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず[[1940年]](昭和15年)[[7月16日]]に[[米内光政]]首相率いた[[米内内閣]]は総辞職した。
 
 
 
=== 大東亜戦争(太平洋戦争)への前夜 ===
 
[[画像:Second world war asia 1937-1942 map de.png|thumb|left|1937〜1942年の日本の版図]]
 
次期内閣は[[近衛文麿]]が[[第2次近衛内閣]]として組閣、[[1940年]](昭和15年)[[7月22日]]に成立した。近衛を中心とする[[新体制運動]]が進められ、同年10月には、[[大政翼賛会]]が結成されて、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する[[統制会]]・[[大日本産業報国会]]と並んで政治面で日中戦争(支那事変)および[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)と[[ナチス・ドイツ]]の組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の[[左翼|赤]]である、かつての武家政権・[[幕府]]の様に[[皇室]]を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。その組織の総裁は首相を兼任して、歴代総裁には[[近衛文麿]]、[[東條英機]]、[[小磯國昭]]、[[鈴木貫太郎]]が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の[[有馬頼寧]](ありまよりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、[[1941年]](昭和16年)には[[平沼騏一郎]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、[[内務省 (日本)|内務省]]および警察主導の行政補助機関となっていった。
 
 
 
1940年(昭和15年)1月に[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領([[民主党 (アメリカ)|民主党]])下の[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス・ドイツ]]や[[ベニート・ムッソリーニ]]率いる[[イタリア王国]]と1940年(昭和15年)9月に[[日独伊三国軍事同盟]]を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部[[仏印進駐]]によってアメリカ政府から[[石油]]禁輸を招くに至った。アメリカ合衆国・イギリス・[[中華民国]]・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとって[[ABCD包囲網]]と呼ぶ。
 
 
 
一方日本では、[[陸軍]]を中心として対ソ連戦争を目指す[[北進論]]と南方に進出することを目標とする[[南進論]]との二派があったが、国境線が紛争となっていた[[張鼓峰]]と[[ノムンハン|ノモンハン]]で偵察的な戦闘をおこなった際、[[ソビエト連邦]]陸軍の[[戦車]]部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を断念し、[[日ソ中立条約]]を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、[[外務省]]は1941年(昭和16年)晩秋まで[[日米交渉]]を続け、同年10月18日には[[第3次近衛内閣]]が総辞職し、[[東條内閣]]([[東條英機]]首相)が成立する。
 
 
 
しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であった[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|イギリス首相]]や[[中華民国]]の[[蒋介石]]らによる[[アメリカ合衆国]]の参戦の要望、および[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の動きに[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領]]が激怒したことにより[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称[[ハル・ノート]]、実際の草稿者は[[ハリー・ホワイト]]財務次官補)を受ける。これを[[日清戦争]]・[[日露戦争]]以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による[[最後通牒]]と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が開戦し、日本は[[第二次世界大戦]]へ参戦することとなった。アメリカ合衆国、イギリスは[[大西洋憲章]]を制定し、自陣営を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と称し、日本、ドイツ、イタリアの[[枢軸国]]と対抗した。
 
 
 
=== 大東亜戦争 ===
 
{{See also|大東亜戦争|太平洋戦争}}
 
[[画像:USS West Virginia;014824.jpg|thumb|[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[大日本帝国海軍]]は[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を奇襲攻撃し、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ太平洋艦隊]]に大損害を与えた。[[アメリカ合衆国]]は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を唱えて日本との戦争に突入。写真は攻撃を受けて炎上するアメリカ戦艦。]]
 
1941年(昭和16年)[[12月8日]](現地時間[[12月7日]])、[[ハワイ・アリューシャン標準時|ハワイ時間]]午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、[[マレー作戦|日本の英領マレー侵攻]]の後、[[大日本帝国海軍]]は、[[真珠湾攻撃]]を行った。しかし生産力の弱さなどから戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、[[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたといわれ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な[[航空母艦]](空母)の[[艦載機]]という[[航空機]]を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。
 
 
 
[[1942年]](昭和17年)、[[東條英機]]首相率いる[[東條内閣]]は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙([[第21回衆議院議員総選挙]])を実施し、翼賛政治体制を確立した。また[[大日本産業報国会]]・[[農業報国連盟]]・[[商業報国会]]・[[日本海運報国団]]・[[日本青年団協議会#太平洋戦争以前|大日本青少年団]]・[[大日本婦人会]]の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに[[町内会]]と[[町内会|部落会]]に世話役を、[[隣組]]に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の[[配給 (物資)|配給]]機構をも兼ねていたので、国民生活は隅々まで統制と監視に晒されることとなった。
 
[[画像:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|left|300px|[[1943年]](昭和18年)、[[大東亜共栄圏]]の結束を図るため[[大東亜会議]]を東京で開催。参加国は日本を含め7カ国。左から[[バー・モウ|ビルマ]]、[[張景恵|満州国]]、[[汪兆銘|中華民国]]、[[東條英機|日本]]、[[ナラーティップポンプラパン|タイ]]、[[ホセ・ラウレル|フィリピン]]、[[スバス・チャンドラ・ボース|自由インド]]の各国首脳。]]
 
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、[[東南アジア]]はまだまだ欧米諸国の[[植民地]]であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、[[1943年]](昭和18年)10月、東京で[[大東亜会議]]を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った[[大東亜共同宣言]]を発表した。これは[[東アジア]]で初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。
 
 
 
日本海軍は開戦当初は連戦連勝であったが、[[ミッドウェー海戦]]では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を損失し、開戦後初の大敗北を喫した。この敗北を機に日本海軍と[[アメリカ海軍]]による一進一退の攻防が始まり、戦線は次第に後退していった。
 
 
 
この時から国民には虚偽の戦況が伝えられ、国民は日本海軍が敗北していることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、[[制海権]]をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、[[1945年]](昭和20年)に解散し、[[国民義勇隊]]に改組された。
 
 
 
[[1944年]](昭和19年)7月9月には[[サイパン島]]が陥落しこの[[サイパンの戦い]]での敗退の責任を取る形で、7月22日に[[東條内閣]]は総辞職し、[[小磯國昭]]首相率いる[[小磯内閣]]が成立する。これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり([[日本本土空襲]])、[[1945年]](昭和20年)[[3月10日]]には[[東京大空襲]]が行われた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。同年[[4月7日]]に[[小磯内閣]]は総辞職し、元[[侍従長]]の[[鈴木貫太郎]]首相率いる[[鈴木貫太郎内閣]]が成立する。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は承認しない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年[[7月26日]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[ポツダム宣言]]を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず(黙殺)、結果戦争継続の意思を示した。
 
 
 
=== 原子爆弾の投下 ===
 
[[画像:Nagasakibomb.jpg|right|thumb|200px|1945年8月6日に広島、同年8月9日に長崎に[[原子爆弾]]が投下された。]]
 
1945年(昭和20年)、[[アメリカ軍]]の[[戦略爆撃機]]・[[B-29]]により、[[8月6日]]に[[広島市への原子爆弾投下]]が実施され、非戦闘員を含め十数万人が死傷した。[[8月9日]]には同様に[[長崎市への原子爆弾投下]]が実施され、さらに十数万人の死傷者が出た(以上、[[日本への原子爆弾投下]])。これは、世界初の[[核兵器]]による爆撃であった。[[大本営]]はこの真相を国民に知らせず「[[原子爆弾|新型爆弾]]」と発表した。
 
 
 
日本は、主要な国で当時唯一、[[日ソ中立条約]]により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦政府の仲介での和平工作を試みたが、[[ヨシフ・スターリン]]率いるソビエト連邦は[[ヤルタ会談]]での連合国の申し合わせに従い[[8月8日]]の夜に宣戦布告([[ソ連対日参戦]])。翌9日未明から[[ソビエト連邦軍]]が満洲や[[朝鮮半島]]北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった[[中国残留日本人|中国残留孤児]]問題は、この時に生じた。
 
 
 
ソ連参戦により講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議では、ポツダム宣言が要求している日本軍の無条件降伏を問題とせず、「天皇の地位の保障」を条件とする外相案と、それに加え「自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限など」の条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、[[昭和天皇]]の裁断によって「天皇の地位の保障のみ」を条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が天皇としての地位保障を求めたわけではない)。[[8月10日]]に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」[[ポツダム宣言]]を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 239ページ</ref>。
 
 
 
[[8月14日]]の[[昭和天皇]]臨席の[[御前会議]]で、いわゆる「[[聖断]]」によって[[ポツダム宣言]]を受諾するとの結論に達した。この決定は[[8月15日]]正午に、昭和天皇自ら「終戦の詔勅」を音読・録音し、[[日本放送協会]]のラジオ放送(いわゆる[[玉音放送]])により内地・外地の国民に伝えられた。その2日後の[[8月17日]]には[[鈴木貫太郎内閣]]は総辞職し、[[皇族]]の[[東久邇宮稔彦王]]首相率いる[[東久邇宮内閣]](日本の内閣史上、最短政権)が成立する。
 
{{See also|日本の降伏|降伏文書}}
 
こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2千万人から3千万人(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の[[占守島]]や[[樺太#南樺太|南樺太]]では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、[[8月23日]]のことだった。[[9月2日]]には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合軍 (GHQ)]] の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは[[9月5日]]である(同日までに[[北方地域|北方領土]]全てが占領される)。
 
 
 
== 戦後のGHQによる占領時代 ==
 
{{Main|戦後|冷戦下の日本}}
 
 
 
=== 概観 ===
 
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])後、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[日本国との平和条約]]発効まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]の軍事占領下に置かれたが、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、[[アメリカ合衆国]]政府による直接的な統治があった[[沖縄諸島|沖縄]]・[[奄美群島]]・[[トカラ列島]]の下7島・[[歯舞群島]]・[[小笠原諸島]]と、[[ソビエト連邦]]によって占領された[[歯舞群島]]・[[千島列島]]・[[樺太]]を除き日本国政府が行う[[間接統治]]が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は、出版停止や[[プレスコード]]と称される[[言論統制]]・[[検閲]]などを通じて[[軍国主義]]・[[反米]]・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。[[沖縄県]]および[[小笠原諸島]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の軍政が布かれた。
 
{{See also|アメリカ合衆国による沖縄統治}}
 
戦後、日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部は[[シベリア抑留]]され強制労働に従事した。外地からの日本人の引き揚げは困難を極め、[[通化事件]]のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、[[中国残留日本人]]問題を後に残した。また、[[インドネシア独立戦争]]、[[ベトナム独立戦争]]や[[国共内戦]]などに多くの日本人が加わった。旧満州国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地の人々に管理が引き継がれた。
 
 
 
[[吉田茂]]首相率いる[[第1次吉田内閣]]下の[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に公布された[[日本国憲法]]は[[大日本帝国憲法]]の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、[[象徴天皇制]]の下に[[主権]]は国民に存するとした「[[国民主権]](主権在民)」、[[法の下の平等]]および[[自由権]]・[[社会権]]・[[参政権]]・[[国務請求権]]などの権利を保障する「[[人権|基本的人権]]の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない「[[平和主義]]」を三大原理とした<ref>もういちど読む山川日本戦後史18頁</ref>。このため現在の日本では[[自衛隊]]への[[徴兵制度]]は憲法違反として実施されない。また、[[天皇]]は「日本国および日本国民統合の象徴」とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた([[象徴天皇制]])。[[1946年]](昭和21年)2月から[[1954年]](昭和29年)8月にかけて[[戦後]][[行幸]]で[[昭和天皇]]は[[沖縄県]]を除く46[[都道府県]]を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が[[1946年]](昭和21年)の[[流行語]]となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]94頁</ref>。しかし、昭和天皇は[[1947年]](昭和22年)[[9月22日]]にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望し<ref>
 
[http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2009/09/post-250.html 沖縄県公文書館「天皇メッセージ」]
 
</ref>、[[1975年]](昭和50年)[[10月31日]]には「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と云う日本国憲法で禁止されている政治的な発言をした。
 
 
 
さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。
 
#[[農地改革]]の実施<ref>『図説 日本史通覧』291頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史26頁</ref>。
 
#[[財閥解体]]の実施<ref>『図説 日本史通覧』290頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史25頁</ref>。
 
#結党の自由・結社の自由を保証させた。
 
#[[日本共産党]]などの[[政治犯]]の釈放をする。
 
#保守政治家の[[公職追放]]を行う。
 
#[[レッドパージ]]などの政治介入の実施。
 
#[[神道指令]]の実施。
 
#[[内務省 (日本)|内務省]]の解体。
 
#[[労働組合]]の結成を促進する。
 
#[[女性解放運動|婦人の解放]]と[[婦人参政権]]の寄与。
 
#[[華族]]制度・[[家制度]]の廃止と[[貴族院 (日本)|貴族院]]([[帝国議会]]上院)の廃止など[[封建制度]]の撤廃。
 
#[[シャウプ勧告]]による税制改革。
 
#新しい[[教育制度]]の[[6・3制|6・3・3・4制]]を導入する[[アメリカ教育使節団報告書]]に基づいた[[学制改革]]の実施<ref>もういちど読む山川日本戦後史30頁</ref>。
 
#[[教育基本法|旧教育基本法]]の制定。
 
[[日本の戦後改革|戦後改革]]が[[連合国軍占領下の日本]]で実施された。
 
 
 
[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に[[日本国との平和条約]](通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復。GHQの進駐が終わった。
 
 
 
太平洋戦争によって著しく落ち込んだ経済は、[[朝鮮戦争]]をきっかけに[[1950年代]]からの[[戦後復興期]]から昭和40年代の[[ベトナム戦争]]の時期に回復して、さらに[[1960年]](昭和35年)から[[1970年代]]初頭(昭和40年代後半)まで[[高度経済成長]]を遂げ、[[冷戦]]下の国際情勢で[[資本主義]]陣営の[[西側諸国]]において[[アメリカ合衆国]]に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、[[農地改革]]や[[労働組合]]の拡大によってかつては貧窮に喘ぎ、弱小の立場に置かれていた[[労働#労働者|労働者]]や[[農家|農民]]が大[[消費者]]層として解放され、[[国内市場]]が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、[[家庭用電気機械器具|家電]]、[[自動車]]などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。2度にわたる[[オイルショック]]を境に高度経済成長時代は終わり、安定成長時代を経て[[バブル景気]]へと突入した。
 
 
 
また、[[日本国憲法第9条]]で[[軍隊]]を保持しないことを定めたが、[[1951年]](昭和26年)に[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)と同時に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結し、[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]の駐留を[[在日米軍]]としてそのまま継続するとともに、翌年の[[1952年]](昭和27年)には[[警察予備隊]]から改称した[[保安隊]](その後の[[自衛隊]])も発足し、事実上の再軍備を行った。[[冷戦]]期には米国と同盟して[[ソビエト連邦|ソ連]]に対抗した。冷戦後には[[国際連合]]に協力して海外で[[国際連合平和維持活動|PKO]]部隊を展開するようになった<ref>もういちど読む山川日本戦後史62頁</ref>。
 
 
 
=== GHQによる占領 ===
 
{{See also|連合国軍占領下の日本}}
 
[[画像:Macarthur hirohito.jpg|thumb|200px|left|駐日米大使館に連合国軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]元帥を訪問した[[昭和天皇]]。]]
 
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、[[台湾]]・[[朝鮮]]・[[南洋諸島|南洋群島]]、日本本土([[内地]])の一部であった[[樺太|南樺太]]・[[千島列島]]および[[色丹島]]・[[歯舞群島]]・[[小笠原諸島]]・[[南西諸島]]の北緯30度以南を失った。このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカ合衆国から返還された。千島列島については、[[樺太・千島交換条約]]によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は、現時点では、千島列島のうち、南千島の[[国後島]]・[[択捉島]]の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、[[歯舞群島]]および[[色丹島]]の2島は北海道に属すると説明している。
 
 
 
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 ([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]) に占領され、最高司令官として[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]が着任した。マッカーサーは政治的には[[共和党 (アメリカ)|共和党]]右派で、本来[[反共主義]]的な傾向があったが、戦後直後の[[民主化]]は戦争直後の内閣として組閣された皇族の[[東久邇宮稔彦王]]首相率いる[[東久邇宮内閣]]の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮稔彦王内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず総辞職し、現在に至るまで歴代内閣の中で最短政権を記録している。[[アメリカ合衆国|米国]]の占領下で、[[幣原内閣]]([[幣原喜重郎]]首相)、次いで[[吉田内閣]]([[吉田茂]]首相)を通じ、[[農地改革]]・[[財閥解体]]・[[労働改革]]の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また[[女性参政権|婦人参政権]]が認められる一方で、[[治安維持法]]が撤廃されるとともに二次にわたる[[公職追放]]によって、社会の指導者層の20万人が[[軍国主義]]者として公職からの追放処分となったことに加えて[[被選挙権]]が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた[[鳩山一郎]]の場合、戦前の京大[[滝川事件]]時の文部相(現在の[[文部科学大臣|文科相]])であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また[[1946年]](昭和21年)には、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された([[A級戦犯]]・[[B級戦犯]]・[[C級戦犯]]とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)<ref>もういちど読む山川日本戦後史16頁</ref>。
 
 
 
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、[[直接統治]]方式による[[軍政]](アメリカの高等弁務官による統治)は[[沖縄県|沖縄]]に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]が拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「[[トルーマン・ドクトリン]]」を発表して[[ギリシャ]]での内戦に介入し、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]が「[[鉄のカーテン]]」演説で予測した東西「[[冷戦]]」が本格化した。
 
 
 
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割された[[ドイツ]]や[[オーストリア]]([[ウィーン]]、ソ連の単独占領となった[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]などとは異なった占領形態が採られた。[[1951年]](昭和26年)、マッカーサーは[[朝鮮戦争]]で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任に[[マシュー・リッジウェイ]]中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。[[第1次吉田内閣]]下の1946年(昭和21年)11月3日に[[日本国憲法]]が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後の翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。しかし[[在日米軍]]はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に[[アメリカ軍|米軍基地]]が残された。
 
 
 
[[日本国憲法第9条]]は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は「国際紛争を解決する手段としては」放棄する[[平和主義]]を定めている。そのため、[[日米安全保障条約]]や[[自衛隊]]の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の[[自衛権]]についても議論がある。
 
 
 
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが、[[1949年]][[10月1日]]に国共内戦に勝利した[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]により[[中華人民共和国]]が[[建国]]されて大陸に[[共産主義]]政権が樹立したことで中国革命が進展したことと[[朝鮮戦争]]の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を[[国連軍]]の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した<ref>[http://www.nids.go.jp/dissemination/senshi/pdf/200803/03.pdf] 朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―] 防衛研究所 防衛研究所戦史部石丸安蔵</ref>。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東の[[スイス]]を建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、[[1949年]](昭和24年)に中国大陸で[[蒋介石]]に代わって[[毛沢東]]政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「[[逆コース]]」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは[[労働運動]]の盛り上がりで、[[日本国有鉄道|国鉄]]や[[読売新聞]]等では[[労働組合]]による[[自主管理]]も行われた。
 
 
 
[[1952年]](昭和27年)[[1月18日]]に韓国が[[竹島 (島根県)|竹島]]の領有を主張する[[李承晩ライン]]を宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され<ref name=isibashigeru>[https://web.archive.org/web/20080801062054/http://www.jimin.jp/jimin/info/takeshima/index.html 竹島領有権問題について] 自民党領土に関する特別委員会委員長[[石破茂]] 2006年(平成18年)5月16日</ref>、翌年には[[竹島 (島根県)|竹島]]を軍事占領された。
 
 
 
文化面においては、[[日本映画]]が全盛時代を迎え、[[東映]]・[[大映]]・[[松竹]]・[[東宝]]・[[日活]]のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する[[映画館]]は最大の娯楽施設となった。また[[ラジオ]]放送も広範に普及し、[[歌謡曲]]やバラエティ、[[相撲]]や[[野球]]の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画や[[ジャズ]]・[[ポピュラー]]も急速に流入した。一方、[[ローマ字論|国語のローマ字化]]は断念され、[[1946年]](昭和21年)には[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]・[[当用漢字]]の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
 
 
 
=== 日本社会党政権による社会主義政策 ===
 
[[1947年]](昭和22年)の[[第23回衆議院議員総選挙]]で[[日本社会党]]が第1党となり、日本初の[[無産政党]]出身の[[片山哲]]が[[総理大臣]]となった<ref>もういちど読む山川日本戦後史40頁</ref>。[[右翼]]過ぎず、[[左翼]]過ぎない内閣の性格から「[[中道政治|中道]][[政権]]」と呼ばれた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[チャールズ・L・ケーディス]]も[[民主化]]推進の立場からこの中道路線を支持していた<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]100頁〜101頁</ref>。[[昭和天皇]]は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、片山哲の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていた。[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[日本社会党]]・[[国民協同党]]の連立政権である[[片山内閣]]と[[芦田内閣]]が以下の[[経済政策]]<ref>ビデオの『日本の記録の12巻〜映像100年史星条旗の下』説明→民主化の内容では[[アメリカ合衆国]]の[[ニューディール政策]]より[[大きな政府]]を目指す革新政策であった</ref>を実施した。
 
#[[労働組合法]]を成立させて[[日本教職員組合]]など複数の[[労働組合]]を結成させた。
 
#天皇の[[官吏]]から国民への奉仕者としての[[国家公務員法]]を制定させた。
 
#[[内務省 (日本)|内務省]]を解体させて、[[都道府県知事]]・[[市町村長]]の[[公選]]制度(直接選挙)や[[リコール]]制度を規定した。
 
#[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]を創設するなど警察制度の改革を実施。
 
#労働問題を扱う[[省庁]]として新たに[[労働省]]を設置。
 
#[[職業安定法]]を公布させた。
 
#[[社会保険制度]]として、[[失業保険法]]と失業手当法を成立させて[[失業保険]]を創設した。
 
#[[国民健康保険法]]を改正した。
 
#[[児童福祉法]]を公布させた<ref>『日本の記録の12巻〜映像100年史星条旗の下での民主化』</ref>。
 
#[[戸主]]制度・[[家督]][[相続]]など封建的な家族制度の廃止や[[男女同権]]の婚姻・男女平等の相続の規定を目標とした改正[[民法 (日本)|民法]]を制定した。
 
#[[刑法 (日本)|刑法]](既婚女性に対する[[姦通罪]]の廃止・皇室に対する[[大逆罪]]及び[[不敬罪]]の廃止)など刑法の大幅改正。
 
#人権尊重の精神にもとづき[[令状]]主義、[[黙秘権]]を認めるなど[[刑事訴訟法]]の改正。
 
#[[裁判所法]]を制定して、[[日本国憲法]]で定められた[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]や[[下級裁判所]]についての組織や権限を明記した。
 
#炭鉱の[[国有化]]を目的とする[[臨時石炭鉱業管理法]](通称「炭坑国家管理法」)を制定させた。
 
#[[優生保護法]]を成立させて[[人工妊娠中絶]]を[[合法化]]。
 
日本社会党は[[日本国憲法]]成立の際に、条文に[[社会権]]の[[日本国憲法第25条]]を追加して、[[生活保護法]]を成立させて、[[1950年]](昭和25年)に[[生活保護]]制度の運用を開始するなどの[[社会主義]][[政策]]が行われた<ref>『図説 日本史通覧』292頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref>。
 
 
 
[[東宝争議]]では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、[[三船敏郎]]、[[池部良]]、[[久我美子]]らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]88頁〜89頁</ref>。しかし[[戦後混乱期]]の頃は、国鉄の[[下山事件]]、[[三鷹事件]]、[[松川事件]]などの怪事件が次々と起こり<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]102頁〜103頁</ref>、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。独立回復後の[[1952年]](昭和27年)[[5月1日]]の[[メーデー]]の日には[[血のメーデー事件]]があった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]120頁〜121頁</ref>。同時に[[レッドパージ]]が行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだ[[マッカーシズム|マッカーシー旋風]]([[赤狩り]])に似ていた。[[芦田均]]が関与して逮捕された[[昭電疑獄]]で中道政権は崩壊する。
 
 
 
== 講和後・高度経済成長期 ==
 
[[画像:TaroTokyo20110213-TokyoTower-01min.jpg|thumb|250px|1958年(昭和33年)に竣工した[[東京タワー]]]]
 
自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、[[農地改革]]や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代([[1955年]](昭和30年) 〜[[1964年]](昭和39年))に続く驚異的な[[高度経済成長]](昭和30年代〜昭和40年代の名目[[経済成長率]]が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だった[[GNP]](国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の[[経済大国]]となる)を遂げるに至る<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁上段</ref>。
 
 
 
都市部には[[高層ビル]]が立ち並び、[[鉄筋コンクリート]]の[[アパート]]や郊外の高級建売住宅に住む人が急増した。日本中から[[蒸気機関車]]が消えて、綺麗で速い[[電車]]や[[ディーゼルカー]]が走り回るようになった。主要道路は[[アスファルト]]で舗装された。[[東海道]]筋には[[新幹線]]([[東海道新幹線]])と[[高速道路]]([[東名高速道路]]・[[名神高速道路]])が完成した。ほぼ全ての家庭に[[テレビ]]・[[電気洗濯機]]・[[電気冷蔵庫]]・[[電話]]が普及して、[[自家用車]]も珍しくなくなった。[[デパート]]や[[ホテル]]に行ったり、[[特急]][[列車]]に乗れば[[エアコン]]の恩恵を受けるようになった。[[パン]]や[[肉]]・[[ケーキ]]といった[[洋食]]や[[洋菓子]]も普段食べるようになった。[[平均寿命]]は世界有数となり、大学進学率も激増した。そのかわり大都市部では人口過密、農村部では過疎という現象が生じて、公害や交通戦争が社会問題となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁下段</ref>。
 
 
 
戦後の混乱期と戦後復興期には敗戦直後の[[インフレーション]](戦後インフレ)と経済も民主化などの戦後改革が行われた。[[傾斜生産方式]] を採用して、[[ドッジ・ライン]](安定恐慌)が起きる。[[朝鮮戦争]]勃発で[[朝鮮特需]]([[特需景気]])が起きる。[[1954年]](昭和29年)から[[高度経済成長]]が開始されて、[[ガチャマン景気]]による繊維産業の好景気があり、以下の経済現象があり[[好景気]]と[[不景気]]を繰り返しながら[[日本経済]]は順調に成長した。[[1955年]](昭和30年)に[[右派社会党]]と[[左派社会党]]による[[社会党再統一]]がされた[[日本社会党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]・[[日本民主党]]が合同した[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成されたことで、[[与党]]自由民主党と[[野党]]日本社会党の対立があった[[55年体制]]が成立した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]136頁</ref>。
 
 
 
=== 戦後経済史の流れ ===
 
#昭和30年代の[[神武景気]]の時代。三種の神器で注目された[[1954年]](昭和29年)12月から〜[[1957年]](昭和32年)6月までの好景気を指す。
 
#[[なべ底不況]] の時代。[[1957年]](昭和32年)7月から〜[[1958年]](昭和33年)6月までの不況を指す。
 
#[[岩戸景気]]の時代。[[1958年]](昭和33年)7月から〜[[1961年]](昭和36年)12月までの好景気を指す。
 
#[[所得倍増計画]]の時代。[[1961年]](昭和36年)から〜[[1971年]](昭和46年)までの経済計画を指す。
 
#[[オリンピック景気]]の時代。[[1962年]](昭和37年)11月から〜[[1964年]](昭和39年)10月までの好景気を指す。
 
#[[証券不況]](構造不況)の時代。[[1964年]](昭和39年)11月から〜[[1965年]](昭和40年)10月までの不況の時代。
 
#[[いざなぎ景気]]の時代。[[1965年]](昭和40年)11月から〜[[1970年]](昭和45年)7月までの好景気を指す。
 
#[[日本万国博覧会]]は[[1970年]](昭和45年)の出来事で通称は大阪万博である。
 
#[[ニクソン・ショック]]([[円切上げ]]) は[[1971年]](昭和46年)の経済ショックを指す。
 
#[[日本列島改造論]](列島改造景気)によって[[1972年]](昭和47年)に大型[[公共事業]]と[[インフレーション]](物価上昇)があった時代である<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁</ref>。
 
 
 
=== 家電ブーム ===
 
[[戦後]]期の昭和20年代([[1945年]]〈昭和20年〉 〜 [[1954年]]〈昭和29年〉)には、以下の家電製品がヒット商品となった。
 
*[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]と呼ばれ、一般家庭の[[主婦]]たちの憧れの的となった。
 
*#[[白黒テレビ]]
 
*#電気[[洗濯機]]
 
*#電気[[冷蔵庫]](他に[[炊飯器]]・[[掃除機]])
 
*[[高度経済成長]]期には'''新三種の神器'''と呼ばれた新製品として以下の家電があり、'''3C'''と呼ばれて憧れのヒット商品となった。
 
*# [[カラーテレビ]]<ref>もういちど読む山川日本戦後史102頁</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史130頁</ref>。
 
*#[[クーラー]]
 
*#[[自動車]]
 
*三種神器以外のその他の家電として、都市部の大卒サラーリーマンを中心に普及した家電は以下である。
 
*#[[レコードプレイヤー]]
 
*#電気[[炊飯器]]
 
*#[[トースター]]
 
*#電気[[コタツ]]<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]142頁</ref>
 
 
 
=== 昭和元禄文化 ===
 
'''昭和元禄'''<ref>{{Cite news
 
|url = http://www.asahi.com/information/db/anotoki/2009_0307.html
 
|title = あのとき!1967年 非核の誓い、国会答弁
 
|newspaper = 朝日新聞
 
|publisher = 朝日新聞社
 
|date = 2009-03-07
 
|accessdate = 2011-04-03
 
}}</ref>と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。[[手塚治虫]]・[[石ノ森章太郎]]・[[藤子不二雄]]・[[長谷川町子]]・[[水木しげる]]・[[赤塚不二夫]]など[[人気]][[漫画家]]の(子供向けの)[[漫画]]を原作とした[[アニメ]]などの作品<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]180頁〜181頁</ref>や[[黒澤明]]・[[円谷英二]]が[[映画監督]]となった[[邦画]]などの[[昭和文化]]や[[大衆文化]]が生まれた。[[流行歌]]が普及して[[美空ひばり]]・[[藤山一郎]]などの歌手や[[石原裕次郎]]<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]146頁〜147頁</ref>や[[渥美清]]などの俳優が[[スター]]となり戦後の[[芸能界]]で活躍をした。[[漫画]]・[[映画]]などの戦後文化と並んで[[テレビ放送]]も普及して、昭和40年代([[1965年]](昭和40年) 〜 [[1974年]](昭和49年))は[[プロ野球]]の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]時代であり、[[大相撲]]は昭和30年代から昭和50年代にかけて栃若時代〜柏鵬時代〜北玉時代〜貴輪時代〜輪湖時代〜北若時代で、[[プロレスラー]]の[[力道山]]の活躍などの[[格闘技]]人気があった。そのことから、当時子供たちから人気があった「[[巨人・大鵬・卵焼き]]」などの[[流行語]]が<ref>もういちど読む山川日本戦後史139頁</ref><ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]194頁〜195頁</ref>誕生した。[[東海道新幹線]]開業([[1964年]]〔昭和39年〕)[[名神高速道路]]開通([[1963年]]〔昭和38年〕)[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の開催([[1964年]]〔昭和39年〕)<ref>もういちど読む山川日本戦後史134頁</ref>[[日本万国博覧会]]([[1970年]]〔昭和45年〕の大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、[[中東戦争]]がもたらした[[オイルショック]]によって成長が終わる。
 
 
 
=== 防衛問題 ===
 
この奇蹟の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で[[警察予備隊]](後に[[自衛隊]])を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]と[[日米地位協定]]によって[[アメリカ軍|米軍基地]]が日本各地に残されており、駐留国負担(後の[[思いやり予算]])の出費も大きく、[[アメリカ軍|米軍]]犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に[[沖縄県]]ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という[[非核三原則]]が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。
 
 
 
=== 食糧問題 ===
 
若い人の農家離れによって、[[農民]](特に青壮年の男性)が[[農家]]から[[会社員]]になるようになり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「[[三ちゃん農業]]」が急増して、[[機械化]]が進んで[[専業農家]]より[[兼業農家]]の方が多くなった。[[学校給食]]がパン食になって育った戦後世代の[[日本人]]の[[主食]]が[[米]]から[[パン]]となり、米余りになると[[減反]]政策を行い、[[転作]]によって[[小麦]]の[[輸入]]が増加し、その結果日本の[[食料自給率]]が低下した。戦後期は[[捕鯨]]が盛んで[[鯨肉]]が主流の[[肉食]]であったが、昭和50年代以降、反捕鯨国の多数が加入をしていたIWC([[国際捕鯨委員会]])で商業捕鯨が禁止されたことによって[[牛肉]]・[[豚肉]]・[[鶏肉]]が主流の肉食となった<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』104頁老川 慶喜【著】</ref>。
 
 
 
=== 住宅問題 ===
 
戦後の住宅事情は、[[戦災]]による住宅焼失と[[復員]]や[[引揚げ]]による人口増加で住宅が不足する住宅難となっていた。[[1950年]](昭和25年)には、持ち家を建設することを支援するために[[住宅金融公庫]]が創設された<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』121頁老川 慶喜【著】</ref>。[[日本住宅公団]]を設立して、[[大都市]]近郊に[[鉄筋コンクリート]]の[[アパート]]群なる[[ニュータウン]]を建設して[[公団住宅]]が誕生した。[[1951年]](昭和26年)には[[田中角栄]]を中心とする[[議員立法]]で[[地方自治体]]が住宅を建設する[[公営住宅法]]が成立した。[[1955年]](昭和30年)には、[[第2次鳩山一郎内閣]]によって[[日本住宅公団]]が創設された。昭和30年代の[[高度経済成長]]期には、[[昭和一桁]]世代の[[夫婦]]2人と[[新人類]][[世代]]の[[子供]]2人の合計4人の家が[[平均]][[家族]][[モデル]]となった。[[核家族]]化した昭和一桁世代と新人類世代の親子家庭が都市部の郊外に購入した[[住宅]][[団地]]では、[[ダイニングキッチン]]と[[和室]]2つと[[水洗トイレ]]が完備されていて、団地で洋風[[生活]]をする団地族が出現した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]148頁〜149頁</ref>。
 
 
 
=== 女性史 ===
 
[[女性史]]では、[[1948年]](昭和23年)に[[優生保護法]]が成立して[[人工妊娠中絶]]が[[合法化]]されたことで中絶が容易となり人工中絶が急増して少子化が進行した。また[[離婚]]の自由や[[お見合い結婚]]から親の承諾がいらない[[恋愛結婚]]も許される結婚の自由を獲得した。[[民法]]が改正されて[[遺産]][[相続]]が[[男女平等]]となった。戦後になって[[女性参政権]]を獲得した日本女性が、更なる地位向上を目指して[[フェミニスト]]を中心に[[女性解放運動]]が活発化した。[[1970年]](昭和45年)に[[ウーマンリブ]]運動が開始されたことに続いて、[[1975年]](昭和50年)が[[国際連合]]が制定した国際婦人年とされて女性の地位向上が人類的な課題となった<ref name="ReferenceA">時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]272頁〜273頁</ref>。[[1956年]](昭和31年)に売春防止法が成立したことで[[公娼]]制度が完全に廃止された。[[1958年]](昭和33年)[[4月1日]]には[[売春防止法]]が施行されて[[赤線]]が廃止された<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]154頁〜155頁</ref>。[[1947年]](昭和22年)[[10月26日]]の[[刑法]]の改正で[[姦通罪]]が廃止された。[[1947年]](昭和22年)には民法の大幅な改正で[[男尊女卑]]だった[[家制度]]が廃止された。昭和20年代に主流だった[[産婆]]の補助による出産から、昭和30年代には[[産婦人科]]での[[出産]]が増加するなど多数の女性政策が実施された。
 
 
 
[[ファッション]]面では[[パンティー]]や[[ブラジャー]]などの洋風[[下着]]類が普及し、[[ナプキン (生理用)|ナプキン]]や[[タンポン]]などの[[生理用品]]が普及した。昭和30年代に戦時中の[[もんぺ|モンペ]]から[[アッパッパ]]と呼ばれる筒型の[[ワンピース]]が普及した。昭和40年代には[[団塊の世代]]の女性を中心に[[ミニスカート]]ブームがあり<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]210頁〜211頁</ref>、スカートや着物以外に女性が[[ズボン]]を着用することが公認された<ref>民俗学がわかる事典―読む・知る・愉しむ [単行本] 新谷 尚紀 (著)218頁</ref>。女性が肌を露出する[[水着]]の着用が認知されて、若い女性の間で水着が普及した。[[髪型]]では[[ショートカット]]が社会的に認知されて、[[美人]]になるための[[化粧品]]や[[美容院]]・[[美容整形]]などの[[女性]]ビジネスが普及した。
 
 
 
生活面では昭和30年代に[[ミシン]]が普及して、経済面では個人店や[[百貨店]]主流の[[ショッピング]]から主婦が買い物しやすい[[スーパーマーケット]]が普及した。男女平等や高学歴化が進んでいなかった戦後世代の[[昭和一桁]]世代から[[しらけ世代]]の女性は、夫が[[サラリーマン]]で子供が平均2人の家族が平均的なモデル家庭とされた。戦後世代の女性は[[専業主婦]]が主流だった。高等教育を受ける女性が急増した[[新人類]]世代以降の20代の高学歴女性では[[OL]]が増加するなどの変化があった。
 
 
 
=== 金の卵の時代 ===
 
急速な[[高度経済成長]]に合わせて高齢化の進行と[[乳児死亡率]]など[[病死]]の減少が進み、都市の人口の急増が進んで日本の人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次[[ベビーブーム]]を経て<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』120頁老川 慶喜【著】</ref>、昭和40年代には日本の総人口がついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は[[団塊の世代]]と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身を捧げることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ([[集団就職]])、彼らは「[[金の卵 (労働者)|金の卵]]」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の[[中小企業]]に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]144頁〜145頁</ref>。
 
 
 
=== 左翼運動 ===
 
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学して、高等教育の大衆化が進んだ。この時期に起こったのは、「60年安保」[[1960年]](昭和35年)[[安保闘争]]と、「70年安保」[[1970年]](昭和45年)安保闘争をピークとする[[左翼|左翼運動]]の高潮であり、それは欧米の[[ベトナム戦争]]反対闘争や[[五月革命 (フランス)|五月革命]]などと期を一にしていた。こうした時代の雰囲気の中で、[[全共闘世代]]と言われる若者たちの一部は、「既成左翼」(日本共産党および日本社会党)の[[平和革命]]路線に反発した[[日本の新左翼|新左翼]]運動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、[[右翼]]系の若者と暴力的な衝突を繰り返し、その激しい自己主張をぶつけ合った。新左翼運動は、[[団塊の世代]]などの戦後生まれの若者が行った[[東大紛争]]や[[日大紛争]]など[[全学共闘会議]]による[[日本の学生運動]]の挫折を経て<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]220頁〜221頁</ref>、運動は孤立化して、[[日本赤軍]]・[[連合赤軍]]・[[よど号グループ]]などの左翼は過激化して、[[内ゲバ]]や一般市民を巻き込む犯罪の[[日本赤軍事件]]・[[あさま山荘事件]]・[[成田空港管制塔占拠事件]]・[[連続企業爆破事件]]・[[よど号ハイジャック事件]]などの[[テロリズム|テロ]]活動へと追い込まれていった。彼らの起こした数々の事件は、それまで比較的同情的な面もあった世論の反発を引き起こした。若者たちの多くも東大紛争が失敗に終わると過激化した学生運動から距離を置くようになり、都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。
 
 
 
=== 社会問題(公害・福祉・交通戦争) ===
 
昭和30年代([[1955年]](昭和30年) 〜[[1964年]](昭和39年))には[[国民皆保険]]体制が整備されて<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』107頁老川 慶喜【著】</ref>、[[高度経済成長]]の弊害として、以下の4つの名称の①四日市ぜんそく②イタイイタイ病③水俣病④新潟水俣病の4つの公害裁判となった公害病を指す『四大[[公害病]]』と言う言葉が誕生した。<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』117頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』118頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』119頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』120頁老川 慶喜【著】</ref>昭和30年代から[[1970年代]]の昭和50年頃にかけて[[三重県]][[四日市市]]で発生した[[四日市ぜんそく]](別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・[[神奈川県]][[川崎市]]で発生した[[川崎公害]](主な公害病名は川崎ぜんそくである)などの大気汚染が深刻化した。[[熊本県]][[水俣市]]で発生した[[水俣病]](別名は熊本水俣病)・[[新潟県]]阿賀野川流域で発生した[[新潟水俣病]](別名は第二水俣病・[[阿賀野川]]水銀中毒)などの企業犯罪による水銀中毒が発生して、また、[[富山県]][[神通川]]流域で発生した奇病の[[イタイイタイ病]]も問題化した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]212頁〜213頁</ref>。深刻な公害に対応するために[[公害対策基本法]]が成立した。[[鉄道]]中心の[[交通]]から[[自動車]]中心の社会となり日本国有鉄道は[[ローカル線]]を中心に[[赤字]]経営となった。昭和30年代から昭和40年代にかけて鉄道の[[電化]]工事が行われて、[[気動車]]から[[電車]]に代わり、[[明治時代]]からの[[乗り物]]で、[[大日本帝国]]期に主流だった[[蒸気機関車]]が全廃された。[[モータリゼーション]]により子供や老人が犠牲となる[[交通事故]]も激増して<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』119頁老川 慶喜【著】</ref>、[[交通戦争]]と<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]202頁〜203頁</ref>言われるようになった。こうした時代状況で自民党以外の[[野党]]は、[[日本社会党]]や[[日本共産党]]が[[社会主義革命]]を唱える労働者政党から都会住民を支持基盤とする[[革新政党]]に変化して、[[中道政治]]を唱える[[民社党]]や[[創価学会]]を支持基盤とする[[公明党]]は都市部で支持者を増やして、労働者の地位向上や公害対策や高齢者などの福祉政策に積極的に取り組んだ。自民党以外の野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、[[サラリーマン]]などの都市住民に支持を広げた。[[大企業]]優先の成長路線だった[[保守]]勢力の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]も、[[佐藤栄作]]首相の強力なイニシアチブの下、[[1971年]](昭和46年)に[[環境庁]]を新設した。
 
 
 
=== 本土復帰 ===
 
[[臨時北部南西諸島政庁]]が設置されていた[[南西諸島]]地域が、[[1952年]](昭和27年)[[2月10日]]に[[トカラ列島]]がアメリカ合衆国から日本に返還されて、[[奄美群島]]が[[1953年]](昭和28年)に[[12月25日]]アメリカ合衆国から日本に返還された。[[1968年]](昭和43年)[[6月28日]]に[[南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定]]により[[小笠原諸島]]が[[アメリカ合衆国]]から返還された。[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]に、アメリカ合衆国によって[[琉球政府]]が創設されていた[[沖縄返還|沖縄県が日本に復帰]]した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]246頁〜247頁</ref>。県民の[[本土復帰|祖国復帰]]運動が実った結果だが、沖縄の米軍基地がそのまま[[在日米軍]]基地として残されたことは後に禍根を残した。
 
 
 
=== エネルギー問題 ===
 
高度経済成長の進展とともに[[燃料]]が[[石炭]]から[[石油]]へ転換する[[エネルギー革命]]が開始されて、これまで有力産業の一つであった炭鉱業界の合理化が迫られて[[1959年]](昭和34年)〜[[1960年]](昭和35年)に[[三井三池争議]]があった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]168頁〜169頁</ref>。[[1973年]](昭和48年)の第一次[[オイルショック]](石油危機)に伴い、[[狂乱物価]]抑制のための総需要抑制策が執行されて、高度経済成長は終焉することとなった。[[田中角栄内閣]]は[[石油]]や[[天然ガス]]など[[海外]]からの[[資源]]に依存する[[火力発電]]から脱却して[[原子力発電]]を推進するために、[[電源開発促進税法]]・[[特別会計に関する法律]]・[[発電用施設周辺地域整備法]]の[[電源三法]]を成立させた<ref name="ReferenceB">時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]150頁〜151頁</ref>。
 
 
 
== 安定成長期 ==
 
高度経済成長により日本は、世界有数の[[人口密度]]に由来する過剰人口問題を解決して、国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。2度のオイルショック後の急激な[[インフレーション]]([[狂乱物価]])と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の[[重厚長大]]産業は没落したが、[[省エネルギー]]化を推進して、[[ハイテク産業]]・[[サービス業]]が成長して、[[安定成長期|安定成長]]へと順調に移行することができた。欧米諸国が[[スタグフレーション]]に苦しむ中、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途を辿り、ついに日本の経済は昭和40年代に、[[ソビエト連邦]]・[[西ドイツ]]を抜き、世界第2位の[[経済大国]]となった。昭和50年代の[[1980年]](昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルでは[[アメリカ合衆国の経済]]に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは[[一億総中流]]と呼ばれた。この間、[[コンビニ]]・[[ウォークマン]]・[[カラオケ]]が普及して、昭和50年代に[[日米貿易摩擦]]が問題となった。日本の人口の増加は戦後急速に進んでいたが、[[団塊の世代]]の結婚が増加した影響で(昭和46年度〜昭和49年度)に第2次[[ベビーブーム]]が発生したのが日本の人口構造の転換点となった。出生数が一時的に増加した[[団塊ジュニア]]世代が誕生した直後の[[1975年]](昭和50年)以降の昭和50年代には[[しらけ世代]]の女性の未婚率の上昇で出生率が2人を下回った。昭和50年代から[[日本国]]は[[少子化|少子]][[高齢化社会]]へと移行していく。
 
 
 
=== 公共事業によるケインズ政策の実施 ===
 
都市部の人口流入と農村部の人口減少が続き、農村部における[[過疎]]と都市部における[[過密]]が社会問題となった。昭和40年代([[1965年]](昭和40年) 〜[[1974年]](昭和49年))には、大都市部を中心に革新勢力が台頭して、社会党と共産党の[[革新統一]]のための協定が結ばれ、[[東京都]]の[[美濃部亮吉]]を初めとして、[[京都府]]・[[大阪府]]・[[神奈川県]]などの主要地方自治体で続々[[革新自治体]]が生まれた。中でも[[京都府]]では、[[蜷川虎三]]が7期28年にわたり知事を務めた。こうした中、保守勢力([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])は[[三大都市圏]]や[[太平洋ベルト]]の[[工業地域]]で深刻化した[[過密]]と農村部で深刻化した[[過疎]]の人口問題や[[地域格差]]の解決と、革新勢力への対抗のため、都市部のインフラ整備を急ぐとともに、農村部にも道路や圃場整備などの[[公共事業]]投資を増加させ、農村部の保守層からの支持を取り付ける利益誘導政策を行った。[[社会保障]]面でも、[[1961年]](昭和36年)に[[国民皆保険]]が実現して、[[1973年]](昭和48年)には老人医療自己負担無料化が実現して、本格的な[[福祉国家]]実現への機運が高まった。こうしてGDPの約1割を占めるほどに膨れ上がった公共事業投資と高齢化に伴い増加した社会保障投資は、財政悪化の主な要因となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]214頁〜215頁</ref>。
 
 
 
=== 派閥政治と保革の対立 ===
 
[[1972年]](昭和47年)には、[[日本列島改造論]]を唱えた[[田中角栄内閣]]が成立した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]254頁〜257頁</ref>。[[ロッキード事件]]を経て、[[三角大福|三角大福中]]の[[自由民主党の派閥]]争い<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]288頁〜289頁</ref>や[[金権政治]]の時代となった。[[保革伯仲]]国会で[[中道政治|中道]][[政党]]([[公明党]]・[[民社党]])と[[革新政党]]([[日本社会党]]・[[日本共産党]])の[[野党]]が勢力を伸ばす中、影の実力者の[[田中角栄]]が'''闇将軍'''として君臨した。[[1976年]](昭和51年)以降は自由民主党出身の政治改革派が分離した[[新自由クラブ]]や日本社会党から構造改革派が分離した[[社会民主連合]]などの議員数が少数の[[新党]]が結成されて多党化が進んだ。[[一党優位政党制]]で[[複数政党制]]だったのが[[戦後]]の[[日本国]]の[[政治史]]であったが、昭和30年代の自由民主党と日本社会党の保守・革新の[[二大政党制]]の時代から、昭和40年代から昭和50年代にかけて中道政党や都市型新党が勢力を伸ばして多党化が進んだ。[[1980年]](昭和55年)の[[ハプニング解散]]による[[衆参同日選挙]]で自由民主党が大勝して保守政権が安定した昭和50年代に[[社共共闘]]が消滅したこともあり、保守勢力の巻き返しが顕著となる。昭和50年代になり政治的な思想面では[[靖国神社問題]]や[[歴史教科書問題]]で[[右翼]]と[[左翼]]の対立が激化して、[[朝日新聞社]]への[[赤報隊事件]]などの右翼によるテロ事件が起きた。昭和22年の時点で元号が法制度上廃止されていた。[[1947年]]から[[1979年]]までの昭和22年から昭和54年までの期間は昭和が慣習として広く普及していただけで法制度上は昭和ではない状態だったので、左翼の間で[[1970年代]]に元号廃止の動きがあった。元号の昭和に法的根拠を与えるために[[1979年]](昭和54年)[[6月6日]]に大平内閣が[[元号法]]を成立させて、元号法によって次の元号の平成改元の法的準備ができた。[[1979年]](昭和54年)[[6月12日]]に元号法が[[公布]]されて、即日[[施行]]された。
 
  
=== 芸能史 ===
+
[[第二次世界大戦]]が終結した[[1945年]](昭和20年)を境にして[[近代]][[現代 (時代区分)|現代]]に区切ることがある。
文化面では[[芸能界]]のニュースが注目されて、昭和50年代に[[森昌子]]・[[桜田淳子]]・[[山口百恵]]の[[花の中三トリオ]]や[[キャンディーズ]]・[[ピンクレディー]]・[[松田聖子]]などの昭和30年代生まれの[[芸能人]]が国民の間で話題となった。[[バブル景気]]が始まった昭和60年代には[[おにゃん子クラブ]]などの[[アイドル]]ブームがあった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]268頁〜269頁</ref>。
 
 
 
=== 教育問題 ===
 
教育面では、[[受験競争]]・[[学力偏差値|偏差値]]教育・[[学歴社会]]・[[管理教育]]が進行して、[[1986年]](昭和61年)の[[中野富士見中学いじめ自殺事件]]で注目された[[いじめ]]による自殺問題<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]290頁〜291頁</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』161頁老川 慶喜【著】</ref>・[[少年犯罪]]・非行などの教育問題が[[マスコミ]]から非難されて、[[詰め込み教育]]から個性重視教育への転換と[[平成時代]]に実施される[[ゆとり教育]]が唱えられて、[[子供]]たちの[[娯楽]]となった[[任天堂]]の[[テレビゲーム]]機「[[ファミリーコンピュータ]]」などの[[ゲーム]]が誕生した。
 
 
 
=== 新自由主義への移行とバブル時代 ===
 
[[鈴木善幸内閣|鈴木内閣]]から[[中曽根内閣]]時代に行政改革が叫ばれて[[第二次臨時行政調査会|臨調]]が設置された。中曽根内閣の[[行政改革|行革]]路線を皮切りに、老人医療の無料化制度を廃止するなどの福祉の縮小が行われた。[[三公社五現業|三公社]][[民営化]]([[日本専売公社]]から → [[日本たばこ産業]] に移行する。[[日本国有鉄道]]から → [[日本国有鉄道清算事業団]]と[[JR]]グループに移行する。[[日本電信電話公社]]から → [[NTTグループ]]に移行する)と[[消費税]]導入計画が構想されて<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』160頁老川 慶喜【著】</ref>、日本社会党など野党の猛反対があったが、[[1988年]](昭和63年)に[[消費税法]]案が可決した。福祉国家路線は見直されて[[新自由主義]]路線へと舵が切られた。[[西側諸国]]の[[イギリス]]の[[サッチャリズム]]政策と[[アメリカ合衆国]]の[[レーガノミックス]]政策の実施、[[東側諸国]]の[[ペレストロイカ]]や[[改革開放]]政策、そして[[アジア四小龍|アジアNIEs]]諸国の躍進などの世界経済の大転換期の中で、日本の経済は[[プラザ合意]]を発端とする[[円高]]の進行で[[日本銀行]]による[[円高不況]]対策が行われて[[内需]]拡大が続く[[バブル景気]]に突入した<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』164頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』165頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』166頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』167頁老川 慶喜【著】</ref><ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]302頁〜303頁</ref>。[[1986年]](昭和61年)に[[男女雇用機会均等法]]が執行されて、昭和60年代([[1985年]](昭和60年) から〜[[1989年]](昭和64年)まで)に女性の社会進出が進んだ<ref name="ReferenceA" />。学生は就職売り手市場であり[[バブル世代]]と呼ばれた。[[好景気]]の中、昭和の時代は[[平成]]へと移り変わり、[[冷戦]]の終結を迎える。
 
 
 
== 戦後体制 ==
 
戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする[[西側諸国]](自由主義陣営)に属して、[[日米安全保障条約]]に基づく同盟国として、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]を筆頭とする[[東側諸国]](社会主義陣営)に対抗して、[[冷戦|冷戦期]]を乗り切ることができた。[[政治体制]]・[[外交関係]]・[[日本の経済|経済構造]]・[[家族制度]]が[[太平洋戦争]]が終結した[[1945年]](昭和20年)を境に大きく変化をして、[[歴史学]]的には[[戦前]]は[[近代]]に、[[戦後]]は[[現代]]に属するとされる。戦前の[[国家体制]]は[[大日本帝国憲法]]下であり[[天皇主権]]体制の時代だった。戦後は[[日本国憲法]]と[[冷戦]]下にあって、[[国民主権]]体制と[[日米安保条約]]体制の時代となった。[[1956年]](昭和31年)に[[経済企画庁]]の『[[経済白書]]』が「もはや[[戦後]]ではない」と述べて、[[流行語]]となった。ただし、[[文化史|文化的]]・経済的には戦前と戦後の連続性も少なからずあり、むしろ[[戦時体制]]の時期([[十五年戦争]]が開始された[[1930年代]]の[[1938年]](昭和13年)の[[国家総動員法]]制定及び[[1940年]](昭和15年)の[[大政翼賛会]]と[[大日本産業報国会]]が結成された時期から 〜[[大東亜戦争]]が終結した[[1945年]](昭和20年)まで)の時期と[[高度経済成長]]を達成した時代の([[神武景気]]が始まった[[1954年]](昭和29年)から〜[[オイルショック]]があった[[1973年]](昭和48年)頃まで)の時期による変化も大きい。高度経済成長に伴い多くの伝統的な[[日本の文化|日本文化]]が変容を余儀なくされた。昭和後期には[[ハイカルチャー]]の[[教養]]主義的権威も緩やかに解体に向かい、商業的な[[昭和文化]]や[[大衆文化]]が隆盛を極める。
 
 
 
== 略年表 ==
 
=== 昭和初期から敗戦まで ===
 
;[[1926年]]([[:Category:1926年の日本|大正15年/昭和元年]])
 
:[[12月25日]]に[[大正天皇]]が[[崩御]]したことを受けて、[[昭和天皇|裕仁親王]]が践祚、12月25日から昭和と[[改元]]。
 
;[[1927年]]([[:Category:1927年の日本|昭和2年]])
 
:[[昭和金融恐慌]]勃発。[[南京事件 (1927年)|南京事件]]。[[第1次若槻内閣]]総辞職。[[田中義一内閣]]([[政友会]]内閣)成立。緊急勅令で金銭債務の支払延期等公布施行([[モラトリアム]])。金融恐慌対策のため第53回臨時議会招集。[[山東出兵#第一次出兵]]。[[東方会議 (1927年)|東方会議]]。[[岩波文庫]]刊行開始。
 
;[[1928年]]([[:Category:1928年の日本|昭和3年]])
 
:最初の男子[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙]])が実施される<ref>政友会217議席,民政党216議席,無産諸派8議席,[[実業同志会]]4議席,革新3議席,中立その他18議席</ref>。[[三・一五事件]]:1道3府27県に[[日本共産党|共産党]]・[[労働農民党|労農党]]・[[日本労働組合評議会|評議会]]・[[全日本無産青年同盟|無産青年同盟]]の関係者など千数百名を[[治安維持法]]違反容疑で検挙する。第55回帝国特別議会にて[[治安維持法]]の改正案を提出して審議未了となる。閣議で第2次山東出兵を決定。[[済南事件]]。[[張作霖爆殺事件]]・[[満州某重大事件]]。緊急勅令で治安維持法改正公布施行(死刑罪・目的遂行罪追加)。[[アムステルダムオリンピック]]で[[織田幹雄]](三段跳び)・[[鶴田義行]](水泳200メートル平泳ぎ)が日本選手初めての金メダル、女子では[[人見絹枝]]が800メートルで銀メダルを獲得し、女子初のメダリストとなる。
 
;[[1929年]]([[:Category:1929年の日本|昭和4年]])
 
:[[世界恐慌]]の発生。[[田中義一内閣]]総辞職、[[浜口雄幸内閣]]([[立憲民政党|民政党]]内閣)成立。
 
;[[1930年]]([[:Category:1930年の日本|昭和5年]])
 
:[[昭和恐慌]]。[[金解禁|金輸出解禁]]。[[ロンドン海軍軍縮会議]]開催。[[第17回衆議院議員総選挙]]<ref>民政党273,政友会174,国民同志会6,無産諸派5</ref>。婦人に公民権を認める市制・町村制改正案、衆議院で可決、[[貴族院 (日本)|貴族院]]で審議未了。
 
;[[1931年]]([[:Category:1931年の日本|昭和6年]])
 
:[[中村大尉事件]]。[[柳条湖事件]]、[[満州事変]]勃発。[[金解禁|金輸出再禁止]]。[[三月事件]]。[[十月事件]]。[[第2次若槻内閣]]成立。[[犬養内閣]]成立。
 
;[[1932年]]([[:Category:1932年の日本|昭和7年]])
 
:[[血盟団事件]]。[[第18回衆議院議員総選挙]]<ref>政友会301議席,民政党146議席,無産諸派5議席</ref>。3月1日、[[満州国]]建国宣言。[[五・一五事件]]。[[犬養内閣]]総辞職。[[齋藤内閣]]成立。[[第一次上海事変]]。
 
;[[1933年]]([[:Category:1933年の日本|昭和8年]])
 
:[[ヨーヨー]]が[[流行]]。[[東京音頭]]が[[ヒット]]。[[昭和三陸地震]]発生。[[12月23日]]に継宮[[明仁|明仁親王]](生まれながらの[[皇太子]]となり、後に今上天皇)が誕生した。3月[[国際連盟脱退]]。5月[[滝川事件]]、[[塘沽停戦協定]](柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突停止)。7月[[神兵隊事件]]。
 
;[[1934年]]([[:Category:1934年の日本|昭和9年]])
 
:[[室戸台風]]襲来。[[ベーブ・ルース]]ら米大リーグ選抜チームが来日。[[陸軍士官学校事件]]。[[帝人事件]]、斎藤内閣総辞職。7月[[岡田内閣]]成立。
 
;[[1935年]]([[:Category:1935年の日本|昭和10年]])
 
:[[天皇機関説]]問題。[[相沢事件]]。
 
;[[1936年]]([[:Category:1936年の日本|昭和11年]])
 
:1月15日、日本全権、ロンドン軍縮会議からの脱退を通告。[[第19回衆議院議員総選挙]]<ref>民政党205議席,政友会171議席,[[昭和会]]22議席,[[社会大衆党]]18議席,[[国民同盟]]15議席</ref>。[[二・二六事件]]。[[岡田啓介]]内閣総辞職。[[広田弘毅]]に組閣命令下る。[[日独防共協定]]締結。[[綏遠事件]]。[[西安事件]]。
 
;[[1937年]]([[:Category:1937年の日本|昭和12年]])
 
:広田内閣閣内不統一のため総辞職。[[林内閣|林銑十郎内閣]]成立。[[第20回衆議院議員総選挙]]<ref>民政党179,政友会175,社会大衆等37,昭和会19,国民同盟11等</ref>。林内閣総辞職。[[第1次近衛内閣]]成立。7月7日、[[盧溝橋事件]]、[[日中戦争]]([[支那事変]])勃発。7月11日、現地停戦協定成立。政府河北派兵を声明。7月28日、日本軍、河北で総攻撃開始。8月13日、上海で日中両軍交戦([[第二次上海事変]])。8月15日、全面戦争に突入。9月「挙国一致・尽人報國・堅忍持久・八紘一宇」をスローガンに国民の戦争協力を促す[[国民精神総動員運動]]が始まる。10月6日、[[国際連盟]]総会、日本の行動非難の決定を採決。11月20日、大本営設置。12月13日、日本軍が南京を占領<ref>占領時、中国人軍民や婦女子を暴行虐殺し、[[南京事件 (1937年)|南京事件]]起こす</ref>。11月[[日独伊防共協定]]締結。政府、朝鮮で[[皇国臣民ノ誓詞]]を配布する。内閣情報部が国民歌募集、「[[愛国行進曲]]」演奏発表会、レコード100万枚売れる。[[白白教事件]]。[[日本無産党]]が[[治安維持法]]により結社禁止(第一次[[人民戦線事件]])。
 
;[[1938年]]([[:Category:1938年の日本|昭和13年]])
 
:4月[[国家総動員法]]制定。7月、満州国東南端で[[張鼓峰事件]]勃発。[[1940年東京オリンピック]]の中止決定。
 
;[[1939年]]([[:Category:1939年の日本|昭和14年]])
 
:1月[[平沼内閣]]成立。5月ソ連・モンゴル連合軍と満蒙国境付近で軍事衝突、日本側大敗([[ノモンハン事件]])。7月[[国民徴用令]]制定。8月[[独ソ不可侵条約]]制定によって広田内閣以来の親独政策の根拠を失い、平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職。[[9月1日]]、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]により[[第二次世界大戦]]始まる。[[阿部内閣]]成立。[[賃金統制令]]・[[価格等統制令]](九・一八停止令)公布。
 
;[[1940年]]([[:Category:1940年の日本|昭和15年]])
 
:[[米内内閣]]成立。3月[[汪兆銘政権]]成立(11月[[日華基本条約]]で政権を承認)。7月[[第二次近衛内閣]]成立。9月[[日独伊三国軍事同盟]]締結、北部[[仏印進駐]]。10月[[大政翼賛会]]結成。11月[[大日本産業報国会]]結成。
 
;[[1941年]]([[:Category:1941年の日本|昭和16年]])
 
:[[ゾルゲ事件]]。4月[[日ソ中立条約]]締結、[[日米交渉]]開始。7月[[第二次近衛内閣]]成立、[[南部仏印進駐]]。[[ABCD包囲網]]によって対日石油輸出全面禁止。[[御前会議]]で[[帝国国策遂行要領]]決定。10月[[東條内閣]]成立。[[12月8日]]、[[南方作戦]]([[マレー作戦]]・[[真珠湾攻撃]])、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦。[[マレー沖海戦]]。[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]竣工。言論出版集会結社等臨時取締法公布、施行。
 
{{See also|太平洋戦争の年表}}
 
;[[1942年]]([[:Category:1942年の日本|昭和17年]])
 
:[[シンガポールの戦い]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピンの戦い]]。4月18日、[[ドーリットル空襲]]で米陸軍機が[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[三重県]][[四日市市]]、[[兵庫県]][[神戸市]]を初[[空襲]]する。[[第21回衆議院議員総選挙]]<ref>当選者、推薦381名,非推薦者85名</ref>。6月4日、[[ミッドウェー海戦]]。[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]開業。[[武蔵 (戦艦)|戦艦武蔵]]竣工。[[ガダルカナル島の戦い]]。
 
;[[1943年]]([[:Category:1943年の日本|昭和18年]])
 
:[[東京市]]と[[東京府]]が廃止、[[東京都]]が設置。[[ケ号作戦|日本軍ガダルカナル島撤退]]。[[アッツ島の戦い]]。[[ソロモン諸島の戦い]]。[[学徒出陣]]。
 
;[[1944年]]([[:Category:1944年の日本|昭和19年]])
 
:[[大陸打通作戦]]、[[インパール作戦]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[グアムの戦い]]、[[レイテ島の戦い]]、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)]]、[[昭和東南海地震]]。[[B-29 (航空機)|B-29]]による[[東京]]への[[空襲]]が始まる。
 
;[[1945年]]([[:Category:1945年の日本|昭和20年]])
 
:[[硫黄島の戦い]]、[[占守島の戦い]]。[[地方総監府]]を設置して[[本土決戦]]に備える。終戦まで各地で大規模な空襲が行われる。
 
:[[3月9日]]-[[3月10日|10日]] [[東京大空襲]]
 
:3月 [[名古屋大空襲]]、[[大阪大空襲]]、[[神戸大空襲]]
 
:[[4月1日]] 米軍が沖縄本島に上陸([[沖縄戦]])して地上戦となる。
 
:5月 [[横浜大空襲]]
 
:6月 [[静岡大空襲]]
 
:[[6月23日]] 沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わる([[慰霊の日]])。
 
:7月 [[北海道空襲]]
 
:8月 [[富山大空襲]]
 
:[[8月6日]] [[広島市への原子爆弾投下]]
 
:[[8月8日]]  [[ソビエト連邦|ソ連]]が[[日ソ中立条約]]を破棄して日本に宣戦布告。[[千島列島]]・[[樺太]]に侵攻。
 
:[[8月9日]] [[長崎市への原子爆弾投下]]
 
:[[8月10日]] [[ポツダム宣言]]受諾の決定
 
:[[8月14日]] ポツダム宣言受諾
 
:[[8月15日]] [[宮城事件]]。[[玉音放送]]により国民に[[終戦]]が告げられる([[終戦の日]])。
 
:[[9月2日]] [[日本の降伏文書|降伏文書]]調印
 
:[[9月17日]]被爆地の[[広島市]]などを中心に[[枕崎台風]]襲来
 
 
 
=== 昭和中期の年表 ===
 
;[[1946年]]([[:Category:1946年の日本|昭和21年]])
 
:[[1月1日]]に天皇が[[人間宣言]]。[[通化事件]]。[[飯米獲得人民大会|食糧メーデー]]。<ref>もういちど読む山川日本戦後史42頁</ref>[[11月3日]]、[[日本国憲法]]公布。[[農地改革]]。[[公職追放]]。[[12月21日]]、[[昭和南海地震]]。
 
;[[1947年]]([[:Category:1947年の日本|昭和22年]])
 
:[[二・一ゼネスト]]。[[5月3日]]、日本国憲法施行。[[地方自治法]]成立。[[皇室経済法]]施行の公布、[[旧皇族]]の11宮家51人が皇籍離脱。[[伊豆諸島]]が[[本土復帰#伊豆諸島|本土復帰]]。
 
;[[1948年]]([[:Category:1948年の日本|昭和23年]])
 
:[[昭和電工事件]]。[[朝鮮]]の[[済州島]]で大量虐殺([[済州島四・三事件]])、島民が日本に多数流入。[[阪神教育事件]]。[[福井地震]]発生。[[帝銀事件]]。
 
;[[1949年]]([[:Category:1949年の日本|昭和24年]])
 
:[[ドッジ・ライン]]実施。[[下山事件]]。[[三鷹事件]]。[[松川事件]]が相次いで発生。<ref>もういちど読む山川日本戦後史59頁</ref>韓国から[[対馬]]返還要求<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML 今日の歴史(1月7日)] 聯合ニュース</ref>。[[湯川秀樹]]が日本人初の[[ノーベル賞]]を受賞。
 
;[[1950年]]([[:Category:1950年の日本|昭和25年]])
 
:[[朝鮮戦争]]勃発。[[海上保安庁]][[日本特別掃海隊|掃海部隊]]を[[朝鮮半島]]近海に派遣する<ref>[http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/tyousennose.pdf 朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊] 海上自衛隊</ref>。日本は[[朝鮮特需]]により[[経済]][[復興]]が加速。[[警察予備隊]](現・[[陸上自衛隊]])発足。
 
;[[1951年]]([[:Category:1951年の日本|昭和26年]])
 
:[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]調印。[[ラジオ]]の[[民間放送]]が開始。
 
;[[1952年]]([[:Category:1952年の日本|昭和27年]])
 
:[[トカラ列島]]が[[本土復帰#トカラ列島|本土復帰]]。[[日米地位協定|日米行政協定]]が締結される。[[李承晩ライン]]が引かれる。[[日本国との平和条約|主権回復]]。[[インド]]と平和回復(後に[[インドネシア]]・[[ミャンマー|ビルマ]]も平和条約締結)。
 
;[[1953年]]([[:Category:1953年の日本|昭和28年]])
 
:[[1953年のテレビ (日本)|テレビ本放送開始]]。[[奄美群島]]が[[本土復帰#奄美群島|本土復帰]]。韓国に[[竹島 (島根県)|竹島]]が占拠される。
 
;[[1954年]]([[:Category:1954年の日本|昭和29年]])
 
:[[1月2日]][[二重橋事件]]。[[3月1日]]に[[ビキニ環礁]]で[[水素爆弾|水爆]]実験が行われ、[[第五福竜丸]]の乗組員が被曝。[[洞爺丸事故]]。
 
;[[1955年]]([[:Category:1955年の日本|昭和30年]])
 
:自由党と日本民主党が合同して[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、右派と左派が合併した[[日本社会党]]の成立([[55年体制]]、[[保守合同]]<ref>もういちど読む山川日本戦後史89頁</ref>・[[社会党再統一]])。[[神武景気]]。[[原子力基本法]]成立<ref name="ReferenceB" />。[[紫雲丸事故]]。[[トヨタ・クラウン]]発売開始。
 
;[[1956年]]([[:Category:1956年の日本|昭和31年]])
 
:[[原子力委員会]]設置。[[日本原子力研究所]]設置。[[ソビエト連邦]]と国交回復、[[日ソ共同宣言]]。[[国際連合と日本|国際連合加入]]。
 
;[[1957年]]([[:Category:1957年の日本|昭和32年]])
 
:[[なべ底不況]]。[[科学技術庁]]設置。[[五千円紙幣#C号券]]発行。
 
;[[1958年]]([[:Category:1958年の日本|昭和33年]])
 
:[[岩戸景気]]。[[東京タワー]]が竣工。[[長嶋茂雄]]が[[読売巨人軍]]へ入団。[[一万円紙幣#C号券]]発行。[[南海丸遭難事故]]。[[チキンラーメン]]発売開始。
 
;[[1959年]]([[:Category:1959年の日本|昭和34年]])
 
:[[4月10日]]に[[明仁|皇太子明仁親王]](今上天皇)が[[皇后美智子|正田美智子]]と結婚([[ミッチー・ブーム]])。[[王貞治]]が読売巨人軍に入団。[[伊勢湾台風]]発生。[[新潟日赤センター爆破未遂事件]]。
 
;[[1960年]]([[:Category:1960年の日本|昭和35年]])
 
:[[2月23日]]に[[皇太子徳仁親王|徳仁親王]](のちの皇太子)誕生。[[6月19日]]に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|(新)日米安全保障条約]]改定発効。[[安保闘争]]起こる。[[浅沼稲次郎暗殺事件]]。
 
;[[1961年]]([[:Category:1961年の日本|昭和36年]])
 
:[[農業基本法]]制定。[[嶋中事件]]。
 
;[[1962年]]([[:Category:1962年の日本|昭和37年]])
 
:[[オリンピック景気]]。[[三河島事故]]。
 
;[[1963年]]([[:Category:1963年の日本|昭和38年]])
 
:日本初の[[原子力発電所]]、[[東海発電所]]稼働。日本初の30分[[テレビアニメ]]シリーズ<ref>テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』の放映開始。
 
;[[1964年]]([[:Category:1964年の日本|昭和39年]])
 
:[[名神高速道路]]・[[首都高速道路]]、[[東海道新幹線]]開通。[[10月10日]]-[[10月24日]]、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催。
 
;[[1965年]]([[:Category:1965年の日本|昭和40年]])
 
:[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]調印。[[証券不況]](構造不況)。
 
 
 
=== 昭和後期の年表 ===
 
;[[1966年]]([[:Category:1966年の日本|昭和41年]])
 
:[[日本の人口統計|日本の総人口]]が1億人を突破。[[いざなぎ景気]]。[[ザ・ビートルズ日本公演|ビートルズ来日]]。
 
;[[1967年]]([[:Category:1967年の日本|昭和42年]])
 
:初の[[建国記念日]]の適用。[[公害対策基本法]]公布。[[四日市ぜんそく]][[裁判]]が提訴される。
 
;[[1968年]]([[:Category:1968年の日本|昭和43年]])
 
:[[小笠原諸島]]が[[本土復帰#小笠原諸島|本土復帰]]。[[三億円事件]]。[[東大紛争]]や[[日大紛争]]などの[[全共闘運動]]が激化。漫画『[[ゴルゴ13]]』の連載開始。
 
;[[1969年]]([[:Category:1969年の日本|昭和44年]])
 
:テレビアニメ『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』の放映開始。[[東名高速道路]]全線開通。
 
;[[1970年]]([[1970年の日本|昭和45年]])
 
:[[3月14日]]-[[9月13日]]に[[日本万国博覧会]](大阪万博)開催。[[よど号ハイジャック事件]]。[[三島事件]]。
 
;[[1971年]]([[:Category:1971年の日本|昭和46年]])
 
:[[7月1日]]に[[環境省|環境庁]]設置。[[ニクソン・ショック]]。[[カップヌードル]]発売。
 
;[[1972年]]([[:Category:1972年の日本|昭和47年]])
 
:[[札幌オリンピック]]開催。[[あさま山荘事件]]。[[山陽新幹線]]の[[新大阪駅]]-[[岡山駅]]間が開通。[[テルアビブ空港乱射事件]]。[[千日デパート火災]]。[[沖縄返還]]。[[日本列島改造論]]。[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]](日中共同声明、[[台湾]]断交)。
 
;[[1973年]]([[:Category:1973年の日本|昭和48年]])
 
:[[中東戦争]]による第一次[[オイルショック]]。[[金大中事件]]。[[大洋デパート火災]]。
 
;[[1974年]]([[:Category:1974年の日本|昭和49年]])
 
:[[連続企業爆破事件]]。[[田中金脈問題]]。[[セブン-イレブン]]日本第1号店開店。
 
;[[1975年]]([[:Category:1975年の日本|昭和50年]])
 
:[[3月10日]]に山陽新幹線の[[岡山駅]]-[[博多駅]]間が開通。[[沖縄国際海洋博覧会]]開催。
 
;[[1976年]]([[:Category:1976年の日本|昭和51年]])
 
:[[ロッキード事件]]。[[王貞治]]が[[ベーブ・ルース]]の本塁打記録を抜く。
 
;[[1977年]]([[:Category:1977年の日本|昭和52年]])
 
:[[北朝鮮による日本人拉致問題]]が盛んになる。[[王貞治#756号本塁打]]:[[ハンク・アーロン]]の本塁打記録を抜き世界一となる。[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]。
 
;[[1978年]]([[:Category:1978年の日本|昭和53年]])
 
:[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]調印。新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])開港。第一回[[隅田川花火大会]]。
 
;[[1979年]]([[:Category:1979年の日本|昭和54年]])
 
:[[イラン]][[イスラム革命]]による第二次[[オイルショック]]。テレビアニメ『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』(第2期)の放送開始。[[第5回先進国首脳会議|東京サミット]]。[[インベーダーゲーム]]が流行<ref>懐かしの昭和・平成流行事典2001年〜1945年の56頁</ref>。[[日本坂トンネル火災事故]]。
 
;[[1980年]]([[1980年の日本|昭和55年]])
 
:[[ハプニング解散]]。[[大平正芳]]が[[急死]]。[[原宿]]で[[竹の子族]]が出現<ref>懐かしの昭和・平成流行事典2001年〜1945年の52頁</ref>。[[新宿西口バス放火事件]]。
 
;[[1981年]]([[1981年の日本|昭和56年]])
 
:[[中国残留日本人|中国残留孤児]]が初[[来日]]する。[[建築基準法]]の施行令改正(新しい[[耐震基準]])。[[神戸ポートアイランド博覧会]]。
 
;[[1982年]]([[1982年の日本|昭和57年]])
 
:[[ホテルニュージャパン火災]]。[[東北新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]-[[盛岡駅]]間)、[[上越新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]-[[新潟駅]]間)開通。[[3月18日]]に[[川崎公害]]裁判が開始。
 
;[[1983年]]([[1983年の日本|昭和58年]])
 
:[[東京ディズニーランド]]開園。[[日本海中部地震]]発生。[[おしん]]ブーム。
 
;[[1984年]]([[1984年の日本|昭和59年]])
 
:[[グリコ・森永事件]]。[[高円宮]]家創設。
 
;[[1985年]]([[1985年の日本|昭和60年]])
 
:東北新幹線と上越新幹線・大宮駅-[[上野駅]]間が開通。[[4月1日]]、[[日本電信電話公社]]・[[日本専売公社]]が[[民営化]]されて、[[日本電信電話]](NTT)・[[日本たばこ産業]](JT)が発足。[[国際科学技術博覧会|つくば科学博]]開催。[[8月12日]][[日本航空123便墜落事故]]。[[G5]]で[[プラザ合意]]([[円高不況]])。
 
;[[1986年]]([[1986年の日本|昭和61年]])
 
:[[男女雇用機会均等法]]執行。[[第12回先進国首脳会議|東京サミット]]開催。[[日本社会党]]の[[土井たか子]]が議会政党としては日本初の女性党首に就任。[[三原山]]噴火。
 
;[[1987年]]([[1987年の日本|昭和62年]])
 
:[[バブル景気]](平成景気)が本格化。[[国鉄分割民営化]]で、[[JR]]グループが発足。
 
;[[1988年]]([[1988年の日本|昭和63年]])
 
:[[青函トンネル]]、[[瀬戸大橋]]が開業。[[リクルート事件]]が問題化。テレビアニメ『[[それいけ!アンパンマン]]』の放映開始。
 
;[[1989年]]([[1989年の日本|昭和64年/平成元年]])
 
:1月7日に[[昭和天皇]]が[[崩御]]。[[1月8日]]に[[平成]]に改元される。
 
 
 
== 西暦との対照表 ==
 
{|class="wikitable"
 
!昭和||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
 
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![[西暦]]
 
|[[1926年]]||[[1927年]]||[[1928年]]||[[1929年]]||[[1930年]]||[[1931年]]||[[1932年]]||[[1933年]]||[[1934年]]||[[1935年]]
 
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![[干支]]
 
|[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]||[[甲戌]]||[[乙亥]]
 
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!昭和||11年||12年||13年||14年||15年||16年||17年||18年||19年||20年
 
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!西暦
 
|[[1936年]]||[[1937年]]||[[1938年]]||[[1939年]]||[[1940年]]||[[1941年]]||[[1942年]]||[[1943年]]||[[1944年]]||[[1945年]]
 
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!干支
 
|[[丙子]]||[[丁丑]]||[[戊寅]]||[[己卯]]||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]]
 
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!昭和||21年||22年||23年||24年||25年||26年||27年||28年||29年||30年
 
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!西暦
 
|[[1946年]]||[[1947年]]||[[1948年]]||[[1949年]]||[[1950年]]||[[1951年]]||[[1952年]]||[[1953年]]||[[1954年]]||[[1955年]]
 
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!干支
 
|[[丙戌]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]
 
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!昭和||31年||32年||33年||34年||35年||36年||37年||38年||39年||40年
 
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!西暦
 
|[[1956年]]||[[1957年]]||[[1958年]]||[[1959年]]||[[1960年]]||[[1961年]]||[[1962年]]||[[1963年]]||[[1964年]]||[[1965年]]
 
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!干支
 
|[[丙申]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]
 
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!昭和||41年||42年||43年||44年||45年||46年||47年||48年||49年||50年
 
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!西暦
 
|[[1966年]]||[[1967年]]||[[1968年]]||[[1969年]]||[[1970年]]||[[1971年]]||[[1972年]]||[[1973年]]||[[1974年]]||[[1975年]]
 
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!干支
 
|[[丙午]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]||[[壬子]]||[[癸丑]]||[[甲寅]]||[[乙卯]]
 
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!昭和||51年||52年||53年||54年||55年||56年||57年||58年||59年||60年
 
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!西暦
 
|[[1976年]]||[[1977年]]||[[1978年]]||[[1979年]]||[[1980年]]||[[1981年]]||[[1982年]]||[[1983年]]||[[1984年]]||[[1985年]]
 
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!干支
 
|[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]]||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]
 
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!昭和||61年||62年||63年||64年
 
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!西暦
 
|[[1986年]]||[[1987年]]||[[1988年]]||[[1989年]]
 
|-
 
!干支
 
|[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]
 
|}
 
 
 
== 現代における昭和 ==
 
*[[国民の祝日に関する法律]]が一部改正され、[[2007年]](平成19年)から毎年[[4月29日]]は、[[昭和の日]]に変更された<ref>元々は昭和天皇の誕生日。戦前・戦中は「天長節」、戦後は「[[天皇誕生日]]」という名称であったが、昭和天皇崩御を受け「[[みどりの日]]」と改められていた。</ref>。祝日法には「昭和の日-激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定められている。
 
*「昭和ノスタルジー」、あるいは「昭和レトロ」という風潮が存在し、戦前期(昭和一桁・昭和10年代)の[[アール・デコ]]建築や、高度経済成長期(昭和30年代から昭和40年代)の古い町並みを活かして観光地化を進めている町もある。だがその一方で、ただの[[レトロ|懐古主義]]に浸っているだけという批判もある。また、「古臭い」や「時代遅れ」というネガティブな意味合いを込めた代名詞として「昭和」という言葉が使われるケースも出現している。
 
*昭和生まれの総人口は[[1984年]](昭和59年)に1億人を突破して、その後も1億人以上を維持していたが、昭和生まれが高齢化したことによって死亡が増加した影響で、[[2007年]](平成19年)に昭和生まれの日本の総人口が1億人割れをして、全人口比では78.2%(9997万人)となり、平成生まれが、全人口比で16.3%(2081万人)となり、平成生まれの人口が2000万人を突破した。
 
*昭和生まれは、以下の[[世代#日本の世代|世代]]に区分されている。<ref>『平成トレンド史』4頁~5頁著者原田曜平</ref>
 
*#[[昭和一桁]]世代([[1926年]](昭和元年)生まれ〜[[1934年]](昭和9年)生まれ)
 
*#[[焼け跡世代]]([[1935年]](昭和10年)生まれ〜[[1946年]](昭和21年)生まれ)
 
*#[[全共闘世代]]([[1940年]](昭和15年)生まれ〜[[1949年]](昭和24年)生まれ)
 
*#[[団塊の世代]]([[1947年]](昭和22年)生まれ〜[[1949年]](昭和24年)生まれ)
 
*#[[しらけ世代]]([[1950年]](昭和25年)生まれ〜[[1964年]](昭和39年)生まれ)
 
*#[[新人類]]世代([[1955年]](昭和30年)生まれ〜[[1964年]](昭和39年)生まれ)
 
*#[[バブル世代]]([[1965年]](昭和40年)生まれ〜[[1969年]](昭和44年)生まれ)
 
*#[[就職氷河期|氷河期世代]]([[1970年]](昭和45年)生まれ〜[[1982年]](昭和57年)生まれ)
 
*# [[団塊ジュニア]]世代([[1971年]](昭和46年)生まれ〜[[1974年]](昭和49年)生まれ)
 
*#[[ポスト団塊ジュニア]]世代([[1975年]](昭和50年)生まれ〜[[1984年]](昭和59年)生まれ)
 
*#ミニマムライフ世代([[1982年]](昭和57年)〜[[1986年]](昭和61年)生まれ)
 
*#[[ゆとり世代]]([[1987年]](昭和62年)生まれ〜[[2003年]](平成15年)生まれ)
 
*#[[さとり世代]]([[1987年]](昭和62年)生まれ〜[[2003年]](平成15年)生まれ)
 
など複数の世代で構成されている。
 
*[[大正]]生まれは[[大正世代]]のみで、現時点においては[[平成]]生まれはゆとり世代、さとり世代、脱ゆとり世代、新人類ジュニア等がある。
 
*平成時代の[[流行語]]として、[[昭和専]]と呼ばれる昭和生まれ(主に団塊ジュニア世代の男性から昭和60年代生まれの男性)の年上の男性を好んでいる平成生まれの若い女性を指す言葉が誕生した。
 
*平成になって相当の年数が経過した現在でも高齢者層に対する配慮から、[[カレンダー]]では昭和に換算すると何年に相当するかが併記されているものもある。
 
*[[2018年]](平成28年)[[1月]]現在、日本における[[国会議員]]は全員昭和生まれである<ref>ただし、平成生まれの国政選挙立候補者は2名存在した。</ref>。地方議員は[[京都党]]の女性議員など[[2015年]](平成27年)の[[第18回統一地方選挙]]で平成生まれの地方議員が誕生した<ref>http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20150413000022</ref>。
 
 
 
== 昭和を冠するもの ==
 
=== 企業・団体 ===
 
*[[昭和電力]] - 昭和と改元された2日後([[1926年]](昭和元年)[[12月27日]])発足
 
*[[昭和産業]]
 
*[[昭和電工]]
 
*[[昭和電線ホールディングス]]
 
*[[昭和飛行機工業]]
 
*[[ショーワ]]
 
*[[昭和シェル石油]]
 
*[[昭和プロダクション]] - [[大阪市]]を本拠とする[[芸能事務所]]
 
*[[昭和自動車]] - [[佐賀県]][[唐津市]]に本社を置く[[路線バス]]事業者
 
*[[昭和リース]]
 
*[[ショウワノート]]
 
*[[昭和信用金庫]]
 
*昭和被服総業 - [[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[西大寺 (地名)|西大寺]]にある老舗[[アパレル]][[製造業|メーカー]]
 
*[[昭和食堂]] - なつかし処をモチーフとする[[東海地方]]を中心に[[愛知県]][[名古屋市]]を拠点する[[居酒屋]][[チェーン]]
 
*[[昭和アルミニウム]]
 
*大昭和製紙 - 現在の[[日本製紙]]の前身の一つ
 
*昭和無線工業 - [[SMK (企業)|SMK]]の旧社名
 
 
 
=== 教育・学校 ===
 
*[[昭和鉄道高等学校]]
 
*[[昭和第一高等学校]]
 
*[[昭和音楽大学]]
 
*[[昭和音楽大学短期大学部]]
 
*[[昭和女子大学]]
 
*[[昭和女子大学短期大学部]]
 
*[[昭和大学]]
 
*[[昭和大学医療短期大学]]
 
*[[昭和薬科大学]]
 
*[[昭和学院短期大学]]
 
*昭和小学校(全国各地にある)
 
*昭和中学校(同上)
 
*昭和幼稚園(同上)
 
 
 
=== 地名 ===
 
*[[昭和基地]]
 
*[[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]]
 
*[[広島県]][[呉市]]昭和町
 
*[[山梨県]][[中巨摩郡]][[昭和町]]
 
*[[秋田県]][[南秋田郡]][[昭和町 (秋田県)|昭和町]] - 現在の[[潟上市]]
 
*[[山形県]][[新庄市]][[昭和地区]]
 
*[[徳島県]][[徳島市]][[昭和町 (徳島市)|昭和町]]
 
*[[福島県]][[大沼郡]][[昭和村 (福島県)|昭和村]]
 
*[[群馬県]][[利根郡]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]]
 
*[[栃木県]][[宇都宮市]][[昭和 (宇都宮市)|昭和]]
 
*[[香川県]][[さぬき市]]昭和
 
*[[佐賀県]][[武雄市]]昭和
 
*[[東京都]][[昭島市]] - 昭和町と拝島村が合併して成立
 
*[[昭和島]](東京都ほか)
 
*[[昭和新山]]
 
他にも昭和町という地名は日本全国の至る所に存在している。
 
 
 
=== 交通 ===
 
*[[昭和駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鶴見線]])
 
*昭和停留場
 
**現:昭和駅(上記)
 
**現:[[南大町駅]](JR東日本[[大糸線]])
 
**西鉄北九州線に1992年まで存在した停留場 - [[西鉄北九州線#電停一覧]]を参照
 
*昭和駅(廃止、[[留萠鉄道]])
 
*[[昭和町駅 (大阪府)|昭和町駅]]([[大阪市営地下鉄]][[大阪市営地下鉄御堂筋線|御堂筋線]])
 
*[[昭和町駅 (香川県)|昭和町駅]]([[四国旅客鉄道|JR四国]][[高徳線]])
 
*<!--厳密には冠していませんが-->[[土佐昭和駅]](JR四国[[予土線]])
 
*<!--厳密には冠していませんが-->雄鉄昭和駅(廃止、[[雄別鉄道]])
 
*[[昭和通り]](東京都ほか)
 
*昭和橋([[利根川]]ほか)
 
*[[昭和大橋 (桑折町)]]
 
*[[昭和大橋 (新潟市)]]
 
 
 
=== 公園 ===
 
*[[昭和の森]]公園([[千葉県]]ほか)
 
*[[日本昭和村]]-現在のぎふ清流里山公園の旧称([[岐阜県]][[美濃加茂市]])
 
*[[国営昭和記念公園]](東京都[[立川市]]、昭島市)
 
 
 
=== 曲 ===
 
*昭和おんなブルース([[青江三奈]]のシングル、1970年)
 
*[[昭和枯れすゝき]]([[さくらと一郎]]のシングル、1974年<!--7月-->)
 
*昭和ブルース([[天知茂]]のシングル、1974年<!--9月-->)
 
*昭和北前船([[鳥羽一郎]]のシングル、1987年)
 
*昭和舟歌([[小林旭]]のシングル、1988年)
 
*昭和([[長渕剛]]のアルバム『[[昭和 (アルバム)|昭和]]』収録、1989年)
 
*昭和夢つばめ([[石川さゆり]]のシングル、1996年)
 
*昭和残照([[杉良太郎]]のシングル、1999年<!--3月-->)
 
*[[昭和最後の秋のこと]]([[森進一]]・[[桂銀淑]]の競作シングル、ともに1999年<!--7月-->)
 
*昭和レジデンス([[クレイジーケンバンド]]のアルバム『グランツーリズモ』収録、2002年<!--8月-->)
 
*[[昭和の階段 Vol.1]]([[工藤静香]]のアルバム名、2002年<!--10月-->)
 
*[[雨上がり (レミオロメンの曲)|昭和]]([[レミオロメン]]のシングル「[[雨上がり (レミオロメンの曲)|雨上がり]]」、アルバム『[[朝顔 (アルバム)|朝顔]]』収録、2003年)
 
*[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜#収録曲|昭和モダン]]([[山崎まさよし]]、『[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜]]』収録、2007年)
 
*昭和の歌など聴きながら([[八代亜紀]]のシングル、2008年)
 
 
 
== その他昭和に関する事柄 ==
 
*大正天皇が崩御した際に、[[東京日日新聞]](現:[[毎日新聞]])が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され(結果として)大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている([[光文事件]])。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で[[1926年]](大正15年)[[12月8日]]時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していたことが明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年〔昭和51年〕9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」<ref>[http://www.ndl.go.jp/modern/column/06.html コラム 6 元号伝説 - ポスト「大正」は「光文」か?]、史料にみる日本の近代、[[国立国会図書館]]</ref>)。
 
*昭和の「'''昭'''」は今でこそポピュラーな[[漢字]]だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は<ref>[[室町幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義昭]]が一例で、その[[偏諱]]を貰って[[足利義昭#義昭の偏諱を受けた人物|名前に「昭」の字を用いた大名]]も各地に存在した。他には[[徳川斉昭]]、[[盛田昭夫]]も。</ref>、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという(元来は「照」の原字で、意味も「照」と同じ)。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「'''章和'''」とする変更意見が出された程である。しかし「[[章和]]」は過去[[漢]]と[[高昌]]で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。
 
*[[干支]]を見て分かるように、史上[[還暦]]を迎えた元号は日本の昭和と[[清]]の[[康熙]]だけである(昭和は[[丙寅]]で「還暦」している)。
 
*1926年(大正15年)12月25日に出生した[[赤ちゃん|新生児]]は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年(1927年)の昭和2年生)ケースが多発した。[[植木等]]、[[関根潤三]]らがこうしたケースに当たる。また、[[メリー喜多川]]は同じ日に生まれているが、出生地がアメリカ合衆国であったため、この事例には含まれない<ref>[[時差]]の都合で日付の差異が絡むため。</ref>。
 
*日本では'''嘗て使用した元号は二度と使用しない'''という慣例がある。昭和も例外ではないが、[[鎌倉時代]]に「'''しょうわ'''」と読む同音異字の元号「[[正和]]」を使用した例がある。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{cite book|和書
 
|author = 遠山茂樹・今井清一・[[藤原彰]]
 
|title = 『昭和史』[新版]〈岩波新書355〉
 
|publisher = [[岩波書店]]
 
|date = 1959-08-31
 
}}
 
*{{cite book|和書
 
|author = [[古川隆久]]
 
|title = 時代の流れが図解でわかる!『早わかり昭和史』
 
|publisher = [[日本実業出版社]]
 
|date = 2006-07-21
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Shōwa era}}
 
*[[昭和一桁]]
 
*[[昭和の日]]
 
*[[昭和史論争]]
 
*[[昭和モダン]]
 
*[[昭和の町]]
 
*[[光文事件]]
 
*[[元号一覧 (台湾)]]
 
*[[1960年代の日本|1960年代]]
 
*[[1970年代の日本|1970年代]]
 
*[[1980年代の日本|1980年代]]
 
  
== 外部リンク ==
+
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昭和(しょうわ)

日本元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間[1]である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。

昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代現代に区切ることがある。

脚注

  1. 昭和天皇は父・大正天皇の病状を受け1921年(大正10年)11月25日に「摂政宮」に就いている。


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