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(その他: カンボジアで2014年に発行された500リエル札には、日本の援助で作られたきずな橋en:Kizuna Bridge)とつばさ橋が日章旗と共に描かれている<ref>[https:…)
 
 
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{{redirect|日の丸|<br>日章旗を題材とした歌|日の丸の旗 (曲)|<br>1958年から1963年に集英社が発行した漫画雑誌|日の丸 (漫画雑誌)}}
+
'''日本の国旗'''(にっぽんのこっき、にほんのこっき)
{{精度|date=2018年6月}}
 
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{{国旗
 
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|制定日={{plainlist|1=
 
*[[1870年]][[2月27日]](明治3年)
 
*[[1999年]][[8月13日]](平成11年)改
 
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* {{Legend|white|[[白]]|border=1px solid #999}}
 
* {{Legend|#C22047|[[紅色]]|border=1px solid #ccc}}
 
}}
 
|根拠法令=
 
; 商船規則
 
: 明治3年[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第57号
 
; [[国旗及び国歌に関する法律]]
 
: 平成十一年法律第百二十七号
 
}}
 
'''日本の[[国旗]]'''(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は'''日章旗'''(にっしょうき)と呼ばれ、[[日本]]では古くから、また今日でも一般的に'''日の丸'''(ひのまる)と呼ばれる[[旗]]である。
 
  
[[1999年]](平成11年)に公布・施行された「[[国旗及び国歌に関する法律]]」(国旗国歌法)の規定によれば、[[旗]]の形は縦が横の3分の2の[[長方形]]。[[日章]]の[[直径]]は縦の5分の3で[[中心]]は旗の中心。色地は[[白|白色]]、日章は[[紅色]]とされている。上下・左右対称である。
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日本の国旗である日の丸の旗。嘉永6 (1853) 年の M.ペリー来航後,対外関係のうえから国旗の制定が不可避となり,薩摩藩主[[島津斉彬]]の考案に基づいて日の丸が採用された。明治3 (1870) 年1月明治新政府は郵船及商船規則 (太政官布告 57号) で商船の掲げるべき国旗として,さらに同年 10月の太政官布告 651号では軍艦用の国旗として日章旗の規格などについて定めた。しかし,これは日章旗を国旗と定める明文の法規定を伴ったものではなく,既成事実としてその後も使用されてきたものであった。そのため 1999年8月に「国旗・国歌法」を制定し,正式に日章旗を国旗と規定した。
  
[[日章]]と[[太陽光|旭光]]を[[デザイン|意匠化]]した旗については'''[[旭日旗]]'''を参照。
+
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== 国旗として扱われる以前の歴史 ==
 
=== 古代から中世 ===
 
[[日本人]]の古代信仰として[[古神道]]に分類される原始宗教では[[自然崇拝]]・[[精霊崇拝]]を内包しており、特に[[農耕]]や[[漁撈]]において[[太陽]]を[[信仰]]の対象としてきた。[[皇祖神]]・[[天照大神]]は[[太陽神]]である。[[弥生時代]]から[[古墳時代]]([[大和時代]])にかけて祭器として使われた[[内行花文鏡]]の模様は太陽の輝きをかたどったものと言われ、[[三種の神器]]の一つ[[八咫鏡]]をこの鏡とする説もある<ref>森浩一著「日本神話の考古学」(朝日新聞出版 1993年7月)</ref>。初代[[神武天皇]]は[[神武東征|東征]]の時に[[生駒山]]で敗北するが、私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう、と言って[[熊野]](または伊勢<ref>「日本古典文学大系 2 風土記」(岩波書店 1958年4月)の伊勢国風土記逸文に、神武天皇が[[伊勢国造]]の祖の天日別命に命じて[[伊勢国]]に攻め込ませ、国津神の[[伊勢津彦]]を追い出して伊勢を平定したとある。</ref><ref>熊野からでは北に向かって戦う事になる。このため[[鈴木眞年]]のように、伊勢まで行って西から[[奈良盆地|大和盆地]]に侵攻したとする説もある。</ref>)に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。第10代[[崇神天皇]]は、宮廷内に祀られていた[[天照大神]]を宮廷外で祀るようになり、第11代[[垂仁天皇]]の時に初代[[斎宮]]・[[倭姫命]]によって伊勢に鎮座した。[[伊勢神宮]]の祭祀は、未婚の内親王を天照大神の御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として[[斎王]]を立てるようになった。
 
 
 
第33代[[推古天皇]]の時に[[聖徳太子]]が[[隋]]の[[皇帝]]・[[煬帝]]へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っている。また、[[飛鳥時代]]末期に[[国号]]を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。<!--日章旗がただの太陽ではなく、「日が昇る」のを意匠した物であることを述べた文献を求む。2007.11.19--><!--日が昇るとは則ち神としての日の再生、神威の発現を意味してるのではないか? その意匠についての意味を言及した記事ではないように思えるけれども H19(2007).12.6--><!--「その意匠についての意味を言及した」のは誰?-->第40代[[天武天皇]]は[[壬申の乱]]の時に伊勢神宮を望拝した。これが勝利に結びついたと考えられ、在位中に伊勢神宮の[[遷宮]]を制度化し、第41代[[持統天皇]]の時に第1回目の[[神宮式年遷宮|式年遷宮]]が行われた。日本の国家統治と太陽の結びつきはますます強くなった。
 
 
 
この太陽を象った旗を用いるようになったのは、[[645年]]([[大化]]元年)の[[大化の改新]]以後、[[天皇]]による[[親政]]が確立された頃からと考えられる<ref>泉欣七郎、千田健共編『日本なんでもはじめ』ナンバーワン、1985年、149頁、ISBN 4931016065</ref>。文献としては、[[797年]]([[延暦]]16年)の『[[続日本紀]]』の中にある[[文武天皇]]の[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[朝賀]]の儀に関する記述において、正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、白地に赤丸ではなかったと見られている。
 
 
 
世界中で歴史的に[[太陽]]が[[赤]]で描かれることは少なく、太陽は[[黄色]]または[[金色]]、それに対して[[月]]は[[白|白色]]または[[銀色]]で表すのが一般的である<ref>強い傾向ではなく、[[バングラデシュの国旗]]では太陽を赤で示し、[[パラオの国旗]]では月を黄色で示している([[#日章旗とデザインが似ている旗]]参照)。</ref>。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。例えば[[高松塚古墳]]、[[キトラ古墳]]には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。第42代[[文武天皇]]の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、[[神宮文庫]]の『文安御即位調度之図』([[文安]]元年記録)の[[写本]]からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。また世俗的にも『[[平家物語]]』などの記述などからも[[平安時代]]末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。
 
 
 
赤い真円で太陽を表現する例としては、古くは[[中国の歴史|中国史]]上の[[漢]]時代の[[帛画]]にある(上記の日像幢と同様、内側に黒い烏を配するもの)。日本では[[法隆寺]]の[[玉虫厨子]]背面の[[須弥山]]図に、赤い真円の日象が確認できる。これは平安時代の[[密教]]図像などにも見出される表現であり、大陸から[[仏教]]とともにもたらされた意匠であろうと推測される。
 
 
 
日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。
 
 
 
一説には源平合戦([[治承・寿永の乱]])の結果が影響していると言われている。[[平安時代]]まで、朝廷の象徴である[[錦の御旗]]は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。
 
なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的に[[ハレとケ]]の感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。
 
 
 
現存最古の日章旗としては、[[山梨県]][[甲州市]]の裂石山[[雲峰寺]]所蔵のものが知られている<ref>[http://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4496.html 日の丸の御旗/富士の国やまなし観光ネット]</ref>。これは天喜4年([[1056年]])に[[後冷泉天皇]]より[[源頼義]]へ下賜されたという伝承があり、「[[楯無|御旗]]」(みはた)と呼ばれて、頼義三男の[[源義光|新羅三郎義光]]から、義光の系譜に連なる[[甲斐源氏]][[宗家]]の[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田家]]に代々伝えられて家宝とされてきた。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している。この伝承が事実であれば、遅くとも11世紀半ばには「白地赤丸」の日の丸が存在していたことになる。真偽のほどは不明ではあるが、中世前半に遡る遺例として貴重であろう。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、[[奈良県]][[五條市]]の堀家に伝わる[[後醍醐天皇]]下賜のものが知られる<ref>[http://www.asahi.co.jp/rekishi/2008-02-18/01.htm 日の丸御旗(堀家所蔵)]</ref>。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[江戸時代]]には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。[[江戸時代]]の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に[[狩野派]]なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。
 
[[ファイル:Edo_l54.jpg|200px|left|thumb|『江戸図屏風』(1624~1644。[[黒田日出男]]によれば1634~1635、[[松平信綱]]の命による製作。)。[[日本丸 (安宅船)|日本丸]]を改造した大龍丸などの幕府船団が日の丸の幟を立てている。]]
 
[[ファイル:Atakebune2.jpg|220px|right|thumb|『御船図』安宅丸。19世紀に描かれた想像図には、船尾部に複数の日の丸が見える。]]
 
 
 
[[近世]]における船旗関連の資料としては、[[寛永]]期(1624~1644年)に描かれた江戸図屏風<ref>[http://www.rekihaku.ac.jp/archives/promenade/e040906.html 「江戸図屏風」の最新事情|歴博プロムナード|歴博アーカイブズ|国立歴史民俗博物館] 2004年9月6日~2005年1月23日展示。"今までは不確かであった制作年代について、「寛永期」であることがほぼ確定できたことです。制作年代の確定は、炭素14年代測定研究の成果"。</ref>の幕府船団の幟がある。船団中央には、[[日本丸#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.B8.B8_.28.E4.B9.9D.E9.AC.BC.E6.B0.B4.E8.BB.8D.29|日本丸]]を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている<ref>江戸図屏風 江戸湊、向井將監武者船懸御目候所 [http://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/edozu/l64.html 左隻6扇下]、[http://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/edozu/l54.html 左隻第5扇下]</ref>。また、[[1635年]]([[寛永]]12年)に[[江戸幕府]]が建造した史上最大の[[安宅船]]「天下丸」(通称「[[安宅丸]]」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている<ref>[http://www.lib.tmu.ac.jp/minami-osawa/collection/mizuno-ke/picture/1992.html 貴重資料「御船印並諸国御船印之図」]、水野家文書、[[首都大学東京]]所蔵</ref>。[[東京国立博物館]]が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には[[徳川氏]]の家紋「丸に[[三つ葉葵]]」を用いたが、[[徳川将軍家|将軍家]]の所持船には日の丸を用いることもあった。
 
 
 
また、[[1673年]]([[寛文]]13年)に、江戸幕府が一般の[[廻船]]と[[天領]]からの[[年貢|年貢米]]([[城米|御城米]])を輸送する[[西廻海運|御城米廻船]]を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、[[幕末]]まで続いた。
 
 
 
[[18世紀]]末から[[19世紀]]にかけて[[ロシア帝国]]の南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた<ref>[http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/nenpo/No03/078-096.pdf 御用船長春丸―赤塗りの船(赤船)・日の丸の帆―]</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
== 日本の国旗としての歴史 ==
 
=== 幕末 ===
 
==== 船舶用国籍旗としての制定 ====
 
国旗としての日の丸は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化した。幕末における船舶用としての制定経緯としては、次の二つの説がある。
 
 
 
;薩摩藩主・島津斉彬提唱説
 
[[ファイル:ShoheiMaru.JPG|thumb|left|日の丸を掲げる[[幕府海軍]]の[[昇平丸]]]]
 
[[歴史学者]]の[[松本健一]]や[[国文学者]]の[[暉峻康隆]]など、複数の学者の唱えるこの説が定説とされている。
 
1854年([[嘉永]]7年)3月の[[日米和親条約]]調印後、日本船を外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗('''日本惣船印''')を制定する必要が生じた。[[幕臣]]達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である[[新田氏]]の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主[[島津斉彬]]、幕府海防参与[[徳川斉昭]]らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、1854年8月2日(嘉永7年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])、[[老中]][[阿部正弘]]により布告された<ref>暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照。</ref>。
 
 
 
島津斉彬は老中首座の阿部正弘に、日の丸を日本国惣船印に用いるべきだという[[建白書]]を提出するにあたって、[[水戸藩]]の徳川斉昭、[[宇和島藩]]の[[伊達宗城]]、[[佐賀藩]]の[[鍋島閑叟]]といった有力大名たちにも同意を得ていた。
 
しかし反対意見も少なくなかった。とくに守旧派の幕府体制にこだわる人々には「日本国」という意識が乏しく、惣船印は徳川の「中黒」 を用いればよいではないかとする意見も少なくなかった。しかし開明的な藩主たちの後押しを得て、「日の丸」が日本国の惣船印に定められたのである<ref>松本健一『「日の丸・君が代」の話』</ref>。
 
 
 
[[1854年]][[8月4日]]([[嘉永]]7年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]])、「日の丸」を日本国総船印に定める、とする布達には、次のように書かれている。
 
{{Quotation|大船製造については、異国船に紛れざるよう、日本国総船印は白地日の丸幟相用い候よう仰せいだされ候。かつ、公儀御船は白絹布交の吹き流し中柱へ相立て、帆の儀は白地中黒に仰せ付られ候。}}
 
 
 
島津斉彬は[[鹿児島城]]内から見た[[桜島]]から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また薩摩藩から洋式軍艦「[[昇平丸]]」を幕府へ献上するため、1855年1月([[安政]]2年2月)江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚された<ref>吉野真保編『嘉永明治年間録 四巻』安政二年二月薩州ニ於テ製造ノ船琉砲船江戸海ニ着ス琉砲船長十五間檣三本出し共裾黒の帆標帆三段ふ掛け中程ふ裾黒の吹流し付艫の方日の丸並轡の紋船標小織布交の吹貫を立つ</ref>。これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第一号とされる<ref>暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照</ref><ref>松本健一『「日の丸・君が代」の話』</ref>。
 
 
 
海事史学者の[[石井謙治]]は「斉彬提唱説」を取り上げつつも、日の丸が江戸幕府の御用船旗に用いられた事実から、日の丸が日本船の船印に提唱されたのは自然のこととしている<ref>石井謙治『和船Ⅱ』法政大学出版局、1995年</ref>。
 
 
 
;幕閣・徳川斉昭提唱説
 
[[ファイル:HouOuMaru.jpg|thumb|日の丸を掲げる[[幕府海軍]]の[[鳳凰丸]]。なお、白地中黒の帆は幕府船の標識。]]
 
海事学者の[[安達裕之]]は、上記の説を俗説に過ぎないとしている。『水戸藩史料』等の幕閣や斉昭の書簡・仕様帳といった当時の史料から、安達が考察した日の丸制定の経緯は次のようになる。
 
 
 
[[1853年]][[7月8日]](嘉永6年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])の[[黒船来航]]は、これまで低調であった[[大船建造の禁]]廃止による西洋船建造を推進させた。この際に問題とされたのが外国船との識別方法で、同年9月初旬(同年8月)に従前より「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を幕府船の船印にした[[浦賀奉行]]が、[[蒼隼丸]]・下田丸の代船(後の[[鳳凰丸]])へ白地中黒とは別に日の丸を掲げることを起工前に検討しており<ref>横須賀開国史研究会編『幕末浦賀軍艦建造記(横須賀開国史シリーズ 5)』横須賀市、2002年</ref>、日の丸を日本船の船印にすることを企図している。
 
 
 
1853年[[10月6日]](嘉永6年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]])に[[老中]]が浦賀奉行作成の鳳凰丸の図面を[[評定所]]一座・[[勘定奉行]]・[[大目付]]・[[目付]]に渡し、惣船印に日の丸を採用することを諮問している。これに対して[[評定所]]一座や[[大目付]]・[[目付]]は、白地中黒を惣船印、日の丸は幕府船の船印にすることを、また勘定奉行は惣船印に白地中黒の帆印、幕府船に白黒の吹貫を提案した。彼らが日の丸を不可とした理由は、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸を200年近く伝統的に用いたこと、日の丸の紅が退色し易いことを挙げている。
 
 
 
その後、外交問題処理が優先され評議は中断したが、鳳凰丸が1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工し、幕府は惣船印の決定を迫られた。幕府は、勘定奉行・[[勘定吟味役]]・目付からなる大船製造掛に昨年9月の評議案を審議させ、惣船印を白黒の吹貫、帆印を白地中黒、幕府船を日の丸幟との答申を得た。1854年[[6月29日]](嘉永7年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]])に老中首座[[阿部正弘]]が幕府海防参与[[徳川斉昭]]へこの答申を諮問した所、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である[[新田氏]]の印で、日の丸は国名である日本を示す印であり、逆にするべきと提言した。その後1ヶ月余りの間に斉昭と幕府の間で折衝が行われた結果、斉昭の意見が容れられ、1854年[[8月2日]](嘉永7年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])に白地日の丸幟を「'''日本惣船印'''」とすることが通達された<ref>安達裕之『異様の船 洋式船導入と鎖国体制』平凡社、1995年</ref>。竣工したばかりの「鳳凰丸」には日の丸の旗が掲げられ、白地中黒の帆が装備された。
 
 
 
また、石井行夫は安達説を踏襲しつつ、「鳳凰丸」が「昇平丸」よりも早く日の丸を掲げるため公試の一部を省略したこと、浦賀奉行から提出された日の丸の試案が存在したことを取り上げている<ref>石井行夫「国旗日の丸のルーツは」『開国史研究』4号、横須賀市、2004年</ref>。
 
 
 
==== 国旗としての汎用化 ====
 
[[1858年]](安政5年)、幕府目付[[岩瀬忠震]]と[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|下田奉行]][[井上清直]]は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中の[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン号]]に渡り、[[孝明天皇]]の勅許を得ないまま、[[日米修好通商条約]]に調印・署名した。
 
 
 
翌[[1859年]](安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「'''御国総標'''」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。
 
 
 
[[1860年]]([[万延]]元年)、[[日米修好通商条約]]の[[批准|批准書]]交換のため、[[外国奉行]][[新見正興|新見豊前守正興]]を正使とする[[万延元年遣米使節|幕府使節団]]が[[アメリカ合衆国]]に派遣され、アメリカ軍艦[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン号]]と日章旗を掲げた[[咸臨丸]]に分乗して[[太平洋]]を横断した。使節団は[[サンフランシスコ]]に到着後、更に陸路・海路を経由して首都[[ワシントンD.C.]]に到着し、当時の[[アメリカ合衆国大統領]][[ジェームズ・ブキャナン]]に謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行は[[ニューヨーク]]を訪問するが、日章旗と[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が掲げられた[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]を[[パレード]]する模様が伝えられている<ref>[http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/nyepi2b.htm 遣米使節団のブロードウェー・パレード]、在ニューヨーク日本国総領事館</ref>。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。
 
 
 
こうして、「日本国惣船印」は国旗とほぼ同様な使い方をされることになり、次第に「国印」(1863年(文久3年))と呼び方が変わっていった<ref>松本健一『「日の丸・君が代」の話』PHP研究所、1999年。</ref>。
 
 
 
==== 賊軍の旗 ====
 
[[ファイル:ShogunalTroops1864.jpg|thumb|日の丸を掲げる[[幕府陸軍]]の部隊(1864年)]]
 
幕府海軍に続き、[[1862年]](文久2年)に創設された[[幕府陸軍]]も軍旗に日の丸を採用したことが、2年後の[[第二次長州征伐]]頃の幕府陸軍を描いた[[1864年]][[10月8日]]付の英週刊新聞『[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]』の挿絵より伺える。以降も幕府陸軍は日の丸を軍旗として使用していた<ref>[[中西立太]]『日本の軍装-幕末から日露戦争-』大日本絵画、2001年</ref>。
 
 
 
[[戊辰戦争]]においては、[[鳥羽・伏見の戦い]]の2日目の[[慶応4年]]1月4日に、[[薩長同盟]]に基づく[[薩摩藩]]と[[長州藩]]を中心とする軍勢が朝廷から「'''[[錦の御旗]]'''」を授けられて正式に[[官軍]]([[天皇]]・[[皇室]]、[[朝廷]]の軍)になったのに対し<ref>但しこの時の錦旗は、事前に[[岩倉具視]]や[[薩摩藩]]が用意していたものである。錦旗を与える手続き自体は朝廷の正式な決定を経ている。</ref>、それ以降の旧[[江戸幕府]]軍は[[賊軍]]・[[朝敵]]となり、戦局に決定的な影響を与えた。旧幕府方の[[彰義隊]]、[[会津藩]]([[白虎隊]]など)、[[奥羽越列藩同盟]]の一部などは、自分たちの共通の旗として上述の「'''御国総標'''」たる日章旗を掲げて戦った<ref>[http://www.city.yurihonjo.akita.jp/www/contents/1232698927625/html/common/498bcef2240.htm 『戊辰戦争絵巻』(致道博物館蔵)]</ref>。
 
 
 
=== 明治・大正から昭和初期・終戦まで ===
 
==== 商船規則 ====
 
[[1870年]][[2月27日]]([[明治]]3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]])制定の[[s:郵船商船規則|商船規則]](明治3年[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第57号)に「'''御國旗'''」として規定され、上述の幕府による「'''御国総標'''」を継承して日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は[[1月27日#国旗制定記念日|国旗制定記念日]]を制定し、国旗掲揚の日としている。
 
 
 
==== 陸軍御国旗 ====
 
[[ファイル:大日本帝國陸軍 軍旗.svg|thumb|陸軍御国旗の意匠]]
 
[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]において、1870年[[6月13日]](明治3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]])制定の陸軍国旗章並諸旗章及兵部省幕提灯ノ印ヲ定ム(明治3年太政官布告第355号)に「'''陸軍御国旗'''(''陸軍御國旗'')」として'''[[旭日旗]]'''が定められた。
 
 
 
==== 海軍御国旗 ====
 
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、各種の旗章の一つとして艦尾に掲揚する'''海軍御国旗'''として白布紅日章が定められ、幕末から使用されていた日の丸が引き続き使用された。また、幕末には「国印」と呼ばれるようになっていた日の丸は、同布告のとおり、国際法にもとづいて「国旗」と呼ばれるようになった<ref>松本健一『「日の丸・君が代」の話』</ref>。
 
 
 
==== 国旗としての使用と法律制定の検討 ====
 
以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、[[法令]]として存在しなかった。[[1931年]]([[昭和]]6年)2月、第59回[[帝国議会]]において全11条及び附則からなる「[[s:大日本帝國國旗法案|大日本帝国国旗法案]]」が[[衆議院議員]][[石原善三郎]]により提案され、同年3月26日[[衆議院]]本会議において可決された。しかしながら[[貴族院 (日本)|貴族院]]送付後の3月28日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの[[衆議院解散]]により再度廃案となり、結局成立しなかった。
 
 
 
[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]においては、[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国外地の朝鮮]]出身の[[孫基禎]]が日本代表選手として[[男子マラソン]]に出場し優勝した際に、日本統治下の[[京城府|京城]](現在の[[ソウル特別市|ソウル]])で創刊された[[東亜日報]]は日章旗を黒く塗り潰した写真を掲載してそれを報じ11ヶ月の停刊処分を受けた。
 
 
 
=== 占領下における日章旗の掲揚禁止 ===
 
[[1945年]](昭和20年)、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、[[商船旗]]としては[[国際信号旗]]の[[商船旗|E旗に基づいた旗]]が代用された。[[祝日]]に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、[[1949年]](昭和24年)1月1日に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。
 
 
 
=== 国旗国歌法以前の法令による扱い ===
 
[[第二次世界大戦]]後から[[1999年]](平成11年)の[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗国歌法)制定までの間、「反・日の丸」を主張する勢力([[日本教職員組合]]、[[日本共産党]]などの革新勢力)は、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えてきた。これに対し日章旗を国旗と認める勢力([[自由民主党 (日本)|自民党]]、[[日本会議]]などの保守派)は、日章旗が日本国旗であることは一種の[[慣習法]]と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、[[大喪中ノ国旗掲揚方]]のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。[[旧字体]]新字置換)。
 
<!--法律より下位の命令は内閣又は各省限りで発出するもので国民の代表で構成する国会の審議を直接経ていないのでここではバランス上、表示させない(覚え書き的にコメントアウト状態とする)。なおコメントアウトで参考記述するのは政令のみとし省令・告示は多い(学習指導要領なども含まれてくる)ので割愛-->
 
* [[1899年]]:[[船舶法]](明治32年法律第46号)第2条「日本船舶ニ非サレハ'''日本ノ国旗'''ヲ掲クルコトヲ得ス」ほか複数条項に登場
 
* [[1948年]]:[[海上保安庁法]](昭和23年法律第28号)第4条第3項「[[海上保安庁]]の船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を附し、'''国旗'''及び海上保安庁の旗を掲げなければならない。」
 
<!--*引揚者の秩序保持に関する政令(昭和24年政令第300号)第6条第2項「引揚者を送迎する者は、日本国国旗以外の旗又はのぼり、広告板、宣伝板その他の標識であつて宣伝のため用いられるものを指定列車又は連絡船の発着する駅の構内又はふ頭に持ち込んではならない。」-->
 
* [[1952年]]:[[保安庁法]](昭和27年法律第265号)第83条第1項「[[保安庁]]の使用する船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を付し、'''国旗'''及び長官の定める旗を掲げなければならない。」
 
* [[1954年]]:[[自衛隊法]](昭和29年法律第165号)第102条第1項「[[自衛艦]]その他の自衛隊の使用する船舶は、長官の定めるところにより、'''国旗'''及び第四条第一項の規定により交付された[[自衛艦旗]]その他の旗を掲げなければならない。」
 
* [[1959年]]:[[商標法]](昭和34年法律第127号)第4条第1項第1号「'''国旗'''、[[菊花紋章]]、[[勲章 (日本)|勲章]]、[[褒章]]又は[[外国]]の国旗と同一又は類似の商標」
 
<!--*アメリカ合衆国からの[[沖縄返還]]による[[沖縄県]]の復帰に伴う[[運輸省]]関係法令の適用の特別措置等に関する政令(昭和47年政令第112号)第5条第6項本文「法の施行の際沖繩法の規定により登録を受けている大型琉球船舶(法の施行の際[[沖繩法]]の規定により航行することができないものを除く。)は、第四項の運輸省令で定める日までの間、船舶国旗証書の交付を受けないでも日本の国旗を掲げ、又は航行させることができる。」-->
 
 
 
=== 国旗国歌法の成立 ===
 
[[平成]]初期から学校の[[入学式]]・[[卒業式]]における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する[[日本教職員組合]](通称:日教組)・[[全日本教職員組合]]所属教職員と[[管理職]]教職員のトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と[[君が代]]斉唱に対する反対運動があった<ref>[[国旗及び国歌に関する法律#法律制定の背景]]</ref>。このことに対処するため、[[1999年]](平成11年)には[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。
 
{{main|国旗及び国歌に関する法律}}
 
なお、[[天皇]]の[[崩御]]による[[大喪]](一般でいう[[葬儀]])時の掲揚方法は、[[大喪中ノ国旗掲揚方]]([[1912年]]、[[大正]]元年閣令第1号)に定められている。
 
 
 
=== 教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事 ===
 
国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた{{Refnest|[[学習指導要領]]においては「[[入学式]]や[[卒業式]]などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と記されており、『学習指導要領解説』([[文部科学省]]著作物)には、「国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童(生徒)が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。(後略)」とも記されている<ref>[http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2009/06/16/1234931_014.pdf 小学校学習指導要領解説 特別活動編]、文部科学省</ref><ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chukaisetsu/013.pdf 中学校学習指導要領解説 特別活動編]、文部科学省</ref>。}}。このため、[[2006年]](平成18年)[[10月31日]]には衆議院の[[教育基本法]]に関する特別委員会において[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[稲田朋美]]議員から「学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の[[義務]]があるかどうか」との質問が出された。この質問に対して[[第1次安倍内閣]]([[安倍晋三]]首相)の[[伊吹文明]][[文部科学大臣|文科大臣]]と[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[藤村修]]議員の両名とも「教職員にはその義務がある」と答弁している。
 
 
 
== 日章旗のデザイン ==
 
[[ファイル:Construction sheet of the Japanese flag.svg|thumb|270px|日章旗の制式]]
 
[[ファイル:Merchant_flag_of_Japan_(1870).svg|thumb|right|150px|<!--{{FIAV|variant}}//従来品との継続のために存在しているのであって異形を求めていない-->附則の認める日章旗]]
 
=== 正式規格 ===
 
国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、[[縦横比]]を2対3、旗の中心([[対角線]]の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を[[直径]](縦を2とした場合[[半径|r]]=0.6)とした円(日章、日輪)を描き、白地に[[紅色]]の日章とするのが正式である。なお、日章の色に定められている「紅色」は、[[JIS慣用色名]]としては[[マンセル色体系]]で 3R 4/14 であるが、より明色に見える[[朱色]]系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。
 
 
 
=== 特例の日章旗 ===
 
長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則の方がやや横長(あるいは特例の方が縦長)となる。この違いを取り上げる意見には、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っている方が美しい、とするものもある{{要出典|date=2010年10月}}。
 
 
 
なお、[[1998年]](平成10年)の[[1998年長野オリンピック|長野五輪]]では、「円の直径が縦の2/3(本来は3/5)」の日の丸を掲げた。この比率は[[1962年]](昭和37年)の日本宣伝美術会展での[[永井一正]]ほか2名による提案でもあったが、[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]では採用が見送られた(2020年の[[2020年夏季オリンピック|東京五輪]]では1999年(平成11年)に法制化された「3/5」を使用予定)<ref>[http://blog.canpan.info/fukiura/archive/3207 日の丸の大きさ・解答] - 吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草 2007年12月31日</ref><ref>[http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20150421ddm035070055000c.html 月刊五輪:吹浦忠正の1964年東京五輪物語 「日の丸」基準に苦労] - 毎日新聞、2015年4月21日 東京朝刊([https://archive.is/MM3j9 アーカイブ])</ref><ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/10421278/ 東京五輪エンブレムのパクリ疑惑 原因はコンペ作品のコンセプトか] - ライブドアニュース(2015年8月2日 LITERA)</ref>。
 
 
 
=== 日章旗と軍用の旗 ===
 
[[ファイル:大日本帝國陸軍 歩兵聯隊軍旗.svg|thumb|right|200px|帝国陸軍の[[歩兵連隊]]の軍旗]]
 
{{main|旭日旗|軍旗#大日本帝国陸軍|軍艦旗|自衛隊の旗}}
 
大日本帝国の[[国軍]]および天皇の[[軍隊]]として建軍された[[日本軍]](陸海軍)の[[軍旗]]として、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]は1870年6月13日(明治3年5月15日)の明治3年[[太政官布告]]第355号とにおいて、日章旗とは別に「'''陸軍御国旗'''」として16条の光線(十六条旭日旗)を放つ図案を意匠とする旗(「'''旭日旗'''」、日章が旗の中央)を日本史上初めて考案・採用・制定した。[[1879年]]、明治12年太政官布告第130号においてこの「陸軍御国旗」は旭日の意匠はほぼそのままに、寸法を小さくし房をつけたものに変更され名称を「'''軍旗'''」とし改めて制定された。
 
 
 
他方、[[大日本帝国海軍|帝国海軍]]については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、艦尾用の'''海軍御国旗'''及び船首旗章として白布紅日章が定められ、幕末以来の単純な日の丸が使用されていた。しかし、帝国陸軍より19年後の[[1889年]]に、明治22年勅令第111号において帝国陸軍の軍旗である旭日旗を模倣するかたちで、日章位置が異なる十六条旭日旗(日章が旗の左辺寄り)を[[軍艦旗]]として、また艦首旗として日章旗を制定し直した。
 
 
 
[[ポツダム宣言]]受諾による日本軍の解体により軍旗及び軍艦旗は廃止されたが、[[自衛隊]]の設立に伴い[[陸上自衛隊]]は帝国陸軍の軍旗とは意匠を一部変更した'''八条旭日旗'''を「[[軍旗#陸上自衛隊|自衛隊旗]]」として、[[海上自衛隊]]は帝国海軍と同一意匠の「自衛艦旗」を[[1954年]](昭和29年)にそれぞれ制定した。自衛隊旗及び自衛艦旗は自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)の別表第一<ref>[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29SE179.html 自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)]、総務省法令データ提供システム</ref>で規定されている。なお、自衛隊の航空機等に記されている[[国籍マーク]]は、旧[[日本軍]]時代と同様の白の縁取りが施された日の丸が使用されていた(旧日本軍時代は白の縁取りが無い場合もあった)が、近年低視認性と[[ステルス]]性の為[[F-35]]では赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが行われるようになってきた。また自衛隊の戦闘服でも、近年低視認性の為、赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが取り付けられるようになってきた。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|旭日旗
 
ファイル:Naval Ensign of Japan.svg|{{FIAV|000001}}軍艦旗・自衛艦旗
 
ファイル:Flag of JSDF.svg|{{FIAV|001000}}自衛隊旗
 
ファイル:Roundel of Japan.svg|国籍マーク
 
</gallery>
 
 
 
=== 税関旗 ===
 
青は海・空、白は陸で、接点に税関があることを表している。[[1892年]](明治25年)に制定。
 
<gallery>
 
ファイル:Flag_of_Japan_Customs.svg|[[税関|税関旗]]
 
</gallery>
 
 
 
=== 日章旗の造形に関する逸話 ===
 
[[安津素彦]]の著作『国旗の歴史』に、[[明治]]時代に[[イギリス]]または[[フランス]]、[[オランダ]]が日の丸の意匠を買い取ろうとしたという記述がある。また、この日の丸買収の話は、[[伊本俊二]]の著作『国旗 日の丸』では、「[[1874年]](明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、[[寺島宗則]]外務卿を相手に交渉した」としている<ref>伊本俊二『国旗 日の丸』[[中央公論新社]]、1999年、176-177頁、ISBN 4122034639</ref>。ただしこの説は[[吹浦忠正]]が著書『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」<ref>吹浦忠正『「日の丸」を科学する』[[自由国民社]]、1995年、ISBN 4426745004</ref>と結論づけている。
 
 
 
=== 日章旗とデザインが似ている旗 ===
 
[[フィールド (紋章学)|フィールド]]が無地であり、無地の円のみが[[チャージ (紋章学)|チャージ]]された旗を掲載。
 
<gallery>
 
ファイル:Flag of Palau.svg|[[パラオの国旗]]
 
ファイル:Flag of Bangladesh.svg|[[バングラデシュの国旗]]
 
ファイル:ICS India.svg|[[国際信号旗]] I (India)
 
ファイル:F1 black flag with orange circle.svg|[[レース旗#黒地にオレンジ玉の旗(オレンジサークルフラッグ)|オレンジボールフラッグ]]
 
ファイル:ICS_Pennant_One.svg|[[国際信号旗]] 1 (数字)
 
</gallery>
 
{{Commonscat|Flags with sun|太陽が描かれた旗}}
 
{{Commonscat|Flags with circles|円が描かれた旗}}
 
{{Commons|Solid flags|無地の旗}}
 
<!-- コメント解除する場合は信頼できる情報源からの出典を附けて下さい。
 
 
 
=== 日章旗のデザインが取り入れられて作られた旗<ref>出典:[http://jp.youtube.com/watch?v=RLcUNIXsRvA&feature=related ]・[http://plaza.rakuten.co.jp/paradise55/diary/?ctgy=2 ]</ref> ===
 
<gallery>
 
ファイル:Flag of ASEAN.svg|[[東南アジア諸国連合]]旗
 
ファイル:Flag of Palau.svg|[[パラオの国旗]]
 
ファイル:Flag of Bangladesh.svg|[[バングラデシュの国旗]]
 
ファイル:Flag of Tibet.svg|[[ガンデンポタン|チベット亡命政府の国旗]]
 
ファイル:Flag of the Republic of China.svg|[[中華民国の国旗]]
 
ファイル:Flag of South Korea.svg|[[大韓民国の国旗]]
 
ファイル:Flag of the Philippines.svg|[[フィリピンの国旗]]
 
ファイル:Flag of Laos.svg|[[ラオスの国旗]]
 
ファイル:Flag of Australian Aboriginal .svg|[[:en:ファイル:Australian Aboriginal Flag.svg|アボリジニの国旗]][http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/54/0000079654/40/img82c3ae8ezik6zj.gif ]<br />([[アボリジニ]])
 
ファイル:Flag of Mengjiang.svg|[[蒙古連盟自治政府|モンゴルの騎兵隊旗]][http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/54/0000079654/74/imga651d34fzikbzj.gif ][http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage416.html ]
 
ファイル:Flag of PETA (Indonesia).svg|[[郷土防衛義勇軍|郷土防衛義勇軍の連隊旗]][http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/54/0000079654/38/imgd286f6d2zikbzj.gif ]
 
</gallery>ファイル:
 
-->
 
 
 
== 国民感情 ==
 
[[ファイル:Japanemperorbirthday.jpg|thumb|right|180px|年賀の皇居一般参賀で、日の丸の小旗を振り新年を祝う参賀者]]
 
 
 
日の丸は、[[国旗及び国歌に関する法律|国旗国歌法]]によって公式に国旗とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された[[内閣府]]・[[政府広報]]室の[[世論調査]]<ref>[[新情報センター]]が委託を受け調査した。</ref>において、対象者の84.1%が「日の丸は日本の国旗(国の旗)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは8.9%だった<ref>{{cite press release
 
|url = http://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html
 
|title = 年号制度・国旗・国歌に関する世論調査
 
|language = [[日本語]]
 
|publisher = [[内閣府]]・[[政府広報室]]
 
|date = 1974年
 
|accessdate = 2010年7月31日
 
}}</ref>。
 
 
 
[[テレビ朝日]]が1999年7月に行った世論調査でも、日章旗を日本の国旗とすることに賛成は83%、反対は8%だった。<ref>[https://web.archive.org/web/20010211204159/http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/research/990717/index.html ニュースステーション電話世論調査]、1999年7月、テレビ朝日([[インターネットアーカイブ]]参照)</ref>。
 
 
 
=== 積極的な掲揚 ===
 
[[ファイル:Japanese fan at FIFA World Cup 2006.jpg|thumb|right|180px|フェイスペインティング([[2006 FIFAワールドカップ|2006年FIFAワールドカップ]])]]
 
[[ファイル:Arita Station in national holidays.jpg|thumb|right|180px|国旗を掲揚しているJR九州[[有田駅]]]]
 
[[File:Osaka Metro national flag.jpg|thumb|right|180px|Osaka Metro([[大阪市高速電気軌道]])の車両内に掲揚される国旗]]
 
[[ファイル:Tokyu_Bus_7707.jpg|thumb|right|180px|国旗が運転台真上(前から見て左上)に掲げられている[[東急バス]]]]
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後、祝祭日や国際試合などでは積極的に掲揚されている。
 
 
 
[[沖縄県]]において日章旗は[[1945年]](昭和20年)の[[沖縄戦]]から[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]の[[沖縄返還]]までの[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ軍統治時代]]には多くの住民の間で[[本土復帰#沖縄県|本土復帰]]を求める象徴であり<ref>[http://www.archives.pref.okinawa.jp/press/kiyou/kiyou09/kiyou09_03.pdf オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ―1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって]、[[沖縄県公文書館]]</ref>、各家庭では日の丸を大切に所持していた。
 
 
 
[[サッカー]]や[[バレーボール]]の国際試合において日章旗をモチーフとした[[フェイスペインティング]]も[[2002年]](平成14年)の[[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]頃を境に一般化している。
 
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]:記者会見の際には会見席の横に必ず、党旗と共に2対掲揚。
 
* [[産経新聞]]:祝日には、朝刊一面の日付右に、国旗と祝日名を表示(国旗の表示は祝日のみであり、[[振替休日]]・[[国民の休日]]には、国旗の表示はない)。
 
* [[大丸松坂屋百貨店]]:[[大丸]]神戸店等で、祝日の際に社旗に代わって掲揚。
 
なお、[[天皇誕生日]]などの一般参賀での国旗は[[皇居外苑]]周辺で配布されているが、これは社団法人[[国旗協会]]の「皇居参賀協力委員会」で提供しており、[[宮内庁]]は無関係である。委員会の構成員は[[神社本庁]]や[[佛所護念会教団]]などの[[保守#日本における保守政治|保守]]団体である。
 
; 公共交通機関
 
* [[九州旅客鉄道]](JR九州):[[2002年]](平成14年)[[12月23日]]の[[天皇誕生日]]以降、全ての有人駅で祝日に国旗掲揚を実施。
 
* [[大阪市高速電気軌道]]・[[阪神電気鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]:営業中の全[[列車種別|種別]]全[[列車]]の、車内妻面([[貫通扉]]上)に小旗の日章旗を2本交差する形で、1両の客室内に計4本取り付けられている。
 
* 日本国内の多くのバス運営社局:祝日に[[路線バス]]の車体に国旗を掲揚して運行している。振替休日・国民の休日には国旗の掲揚はしない。このことからも、国旗掲揚の意味は、単なる休日ダイヤであることの告知ではなく、祝日を祝う意味であることが分かる(ただし、[[神奈川中央交通]]など、国民の休日や振替休日・年末年始などに、休日ダイヤや臨時ダイヤで運行していることを告知するために使用される場合もある)。また、[[バスの日]]に掲載される場合もある。
 
 
 
国旗掲揚は祝日に限られ、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日は祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためと思われる。
 
 
 
=== 反対意見 ===
 
{{see also|日本における国旗国歌問題}}
 
 
 
主に教育界([[日本教職員組合]]、[[全日本教職員組合]])や[[左翼]]活動家によって国旗掲揚が「強制」されているとする認識により、現在も日章旗に対する議論や批判が見られる。
 
 
 
過去には{{要出典範囲|[[朝日新聞]]・[[毎日新聞]]・[[中日新聞]]・[[東京新聞]]・[[琉球新報]]|date=2017年10月}}などでも[[国歌]]([[君が代]])とともに日章旗を国旗とすることに対して否定的な記事や投書が掲載されたことがあった。また、[[日本社会党]]・[[日本共産党]]・[[新社会党]]・[[公明党]]・日本教職員組合・全日本教職員組合・[[創価学会]]などが日章旗への批判を行うなど、日章旗への反発が存在していた<ref>[[国旗及び国歌に関する法律#国旗国歌についての議論]]</ref>。
 
 
 
== 国章損壊罪についての議論 ==
 
{{seealso|思想・良心の自由|表現の自由}}
 
アメリカ、フランス、ドイツ、[[イタリア]]、[[中華人民共和国]]、[[大韓民国]]などは公然と掲揚されているもしくは公衆の場での国旗の裁断や、焼却などの国旗・[[国章]]を冒涜する行為には刑罰を規定している。このうちアメリカ、イタリア、大韓民国はあらゆる場での国旗の損壊に対して罰則を設けている(→[[:en:Flag_desecration]])<ref>[https://web.archive.org/web/20080621182845/http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906i.htm 4 諸外国における国旗、国歌の取扱い]、文部省「国旗及び国歌に関する関係資料」、1999年9月(インターネット・アーカイブ参照)</ref><ref>[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2742720/6008003 国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス]、AFPBB News、2010年7月25日</ref>。ただしアメリカでは「[[:en:Texas v. Johnson|Texas v. Johnson裁判]]」において自国国旗を燃やした活動家([[:en:Gregory Lee Johnson]])に対しアメリカ合衆国憲法修正第一条([[言論の自由]])により無罪とする判決が出ている。日本では自国の国旗・国章を損壊することを処罰する法律は無い<ref name="sankei20090830">{{cite web |url=http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090830/trd0908301601006-n1.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年9月6日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090902084654/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090830/trd0908301601006-n1.htm |archivedate=2009年9月2日 |deadlinkdate=2017年10月 }} 【日本の議論】日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か]、[[産経新聞]]2009年8月30日</ref>。外国の国旗・国章の損壊に関しては[[外国国章損壊罪]]で規定している([[外国国章損壊罪]]は外国の在日[[大使館]]など公的な[[国章]]損壊にしか運用されていない。詳しくは[[外国国章損壊罪]]を参照)。
 
 
 
[[第45回衆議院議員総選挙]]における、[[2009年]](平成21年)[[8月8日]]に[[鹿児島県]][[霧島市]]で行われた[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[皆吉稲生]]候補の集会<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090818/elc0908181333044-n1.htm 【09衆院選】日の丸裂いて「党旗」に陳謝 鹿児島の民主候補陣営]、[[産経新聞]]2009年8月18日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090821075834/http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090818/elc0908181333044-n1.htm |date=2009年8月21日 }}</ref>で、国旗2枚を裁断して支持者が作成したとされる“党旗”を壇上に掲揚した<ref name="sankei20090830"/>。[[8月18日]]、皆吉は、衆議院議員総選挙出陣式で「国旗の使用方法としては不適切で深くおわびする」と謝罪した。同日、民主党[[幹事長]](当時)・[[岡田克也]]が皆吉を口頭注意した。皆吉の[[後援会]]は、党本部や県連および支援団体に「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなく、主催者の不手際が原因」と謝罪する文書を送付した<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090602-043585/news/20090818-OYS1T00698.htm 国旗で民主マーク、鹿児島の候補者 出陣式でおわび]、[[読売新聞]]2009年8月18日</ref>(詳しくは''[[民主党 (日本 1998-2016)#国旗切り張り問題]]''を参照)。この問題を受けて、[[百地章]]日本大学教授は、民主党の行為を批判しつつ「国旗への侮辱行為に[[刑罰|刑事罰]]が科されない日本が世界的に異常」とし、国旗に対する敬意は教育で教えることが最も良いが、日本の国旗に反対する日本教職員組合が力を持つ教育界ではそれも難しく、法で定める必要もあるのではないかと指摘した。
 
 
 
== 日本の国旗を参考にした国 ==
 
[[バングラデシュの国旗]]は、日本の国旗のデザインが参考にされている。初代首相[[ムジブル・ラフマン|シェイク・ムジブル・ラフマン]]が国旗を決める際に[[吹浦忠正]](聖心女子大学講師。ユーラシア21研究所理事長。初代バングラデシュ日本人会会長)は意見を求められており、日本の国旗の意味について解説している。吹浦は[[バングラデシュ独立戦争]]時に[[国際赤十字]]の仕事で現地に滞在していた<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=5R6ubLkCjAY 「ビーバップ!ハイヒール」国旗に秘められたミステリー2] [[朝日放送]] 2009年10月1日</ref>。初代バングラデシュ大統領[[ムジブル・ラフマン]]の娘の[[シェイク・ハシナ]]首相は、「父は日本の日の丸を参考にした。」と述べた<ref>{{cite news|title=バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2014-5-27|url=http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html|accessdate=2014-5-29|author=清水憲司|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140528005244/http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html|archivedate=2014年5月28日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
== その他 ==
 
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年7月}}
 
* [[弁当箱]]に[[白米]]だけを入れその真ん中辺りに[[梅干し]]を1個だけ乗せた状態が、日本の国旗と似ていることから「[[日の丸弁当]]」と呼ばれている。
 
* [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])中、アメリカ合衆国は日本の'''日章旗'''や[[国籍マーク]]を「ミートボール」と差別的に呼んでいた<ref>Morita, D. (2007-04-19) "A Story of Treason", San Francisco: Nichi Bei Times</ref>。
 
* 国旗に文字等を書く(寄せ書き)際、日の丸の部分には何も書いてはいけないという慣例がある。これは、日の丸の部分が神聖とされていたからである。{{要出典|date=2014年3月}}
 
* [[治承・寿永の乱|源平合戦]]の折、[[平氏]]は赤地に白、[[源氏]]は白地に赤の旗を使った。[[戦国大名]]の[[織田信長]]や[[武田信玄]]、[[徳川家康]]などが日の丸の旗を用いていた(18世紀の[[長篠の戦い|長篠合戦図屏風]]に描かれている)。
 
[[ファイル:Alpheus soror 2.JPG|thumb|ヒノマルテッポウエビ<br />(''Alpheus soror '')]]
 
* [[秋田県]]の一部地域では[[ウサギ]]肉のことを「日の丸肉」と呼ぶ。
 
* 『[[チャンプロード]]』を始めとする[[ヤンキー (不良少年)|ヤンキー]]雑誌の通販広告では、[[業界用語]]として別の旗である旭日旗を「日章旗」と呼ぶ例が多い。
 
* 写真撮影において、中央に主被写体を入れる構図を、日の丸写真と呼ぶ。
 
* [[甲殻類]]の中には、頭胸甲、腹節、胸脚に日の丸状の紋が入る種類があり、それぞれ、ヒノマルショウグンエビ([[ザリガニ下目]])、ヒノマルテッポウエビ([[コエビ下目]])、ヒノマルヒメヨコバサミ([[ヤドカリ下目]])と呼ばれる。
 
* 親方(経営者)が日の丸(日本国政府)という意味合いで[[特殊会社]]や[[国家公務員]]を[[親方日の丸]]と呼んだ。
 
* カンボジアで2014年に発行された500[[リエル]]札には、日本の援助で作られた[[きずな橋]]([[:en:Kizuna Bridge]])と[[ネアックルン橋|つばさ橋]]が日章旗と共に描かれている<ref>[https://www.jica.go.jp/topics/news/2014/20150326_03.html カンボジアで「つばさ橋」開通——ベトナム・カンボジア・タイが1本の道路でつながった] [[国際協力機構]]、2015年3月26日</ref>。
 
 
 
== 符号位置 ==
 
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
 
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|国旗(日本)
 
|}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{Refbegin}}
 
* 暉俊康隆『日の丸・君が代の成り立ち』(1991年、岩波ブックレット)ISBN 4000031279
 
* 高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』河出書房新社 1993年 ISBN 4309724825
 
* 与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』新星出版 2006年 ISBN 4902193485{{出典無効|date=2018-06-27|title=}}<!--  小説です。出典・参考文献に用いないで下さい。  -->
 
{{Refend}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Wikisource|郵船商船規則|郵船商船規則(商船規則)}}
 
{{Wikisource|日の丸の旗|唱歌「日の丸の旗」}}
 
{{Commonscat|National flag of Japan|日本の国旗}}
 
{{Commonscat|Flags with sun|太陽が描かれた旗}}
 
* [[国旗]]
 
* [[国旗の一覧]]
 
* [[日本の旗一覧]]
 
* [[国旗及び国歌に関する法律]]
 
* [[旭日旗]]
 
* [[大喪中ノ国旗掲揚方]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [{{NDLDC|898142/256}} 石井研堂『明治事物起原』(国会図書館・近代デジタルライブラリー)]
 
* [[太政官布告・太政官達|太政官布告]]([http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/index.pl 日本法令索引〔明治前期編〕])
 
** [{{NDLDC|787950/41}} 明治3年太政官布告第57号]([{{NDLDC|787950/47}} 祝日可用分大旗之圖])
 
 
 
{{アジアの国旗}}
 
{{日本関連の項目}}
 
  
 
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[[Category:日本の国旗|*]]
 
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2019/5/1/ (水) 21:35時点における最新版

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)

日本の国旗である日の丸の旗。嘉永6 (1853) 年の M.ペリー来航後,対外関係のうえから国旗の制定が不可避となり,薩摩藩主島津斉彬の考案に基づいて日の丸が採用された。明治3 (1870) 年1月明治新政府は郵船及商船規則 (太政官布告 57号) で商船の掲げるべき国旗として,さらに同年 10月の太政官布告 651号では軍艦用の国旗として日章旗の規格などについて定めた。しかし,これは日章旗を国旗と定める明文の法規定を伴ったものではなく,既成事実としてその後も使用されてきたものであった。そのため 1999年8月に「国旗・国歌法」を制定し,正式に日章旗を国旗と規定した。



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