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'''御家人'''(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の[[家人]]の身分を指す語であるが、[[中世]]と[[近世]]では意味合いが異なる。
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'''御家人'''(ごけにん)
  
== 中世の御家人 ==
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鎌倉~江戸時代,将軍と主従関係にあった武士 (家人) の敬称。鎌倉幕府の御家人は,源頼朝と一般武士との間に発生した個人的[[御恩]]奉公の双務的関係から発した私的色彩の強いものであったが,頼朝の東国政権が全国的規模の武士政権である鎌倉幕府に発展したとき,御家人制度は鎌倉幕府の制度として固定した。鎌倉御家人となるためには,根本私領を開発して保有している者が,名簿 (みょうぶ) を将軍にささげ,見参 (げざん) と称して将軍の前に出て[[御目見]] (おめみえ) し,将軍に忠誠を誓い,将軍からその所領,所職の保障を示す所領安堵 (あんど) の[[下文]] (くだしぶみ) をもらわねばならなかった。鎌倉御家人の平時の軍役は,[[京都大番役]][[鎌倉大番役]],篝屋 (かがりや) 番役があり,ほかに将軍御所修造役,内裏 (だいり) 修造役,[[舎人]] (とねり) 人夫役,社寺修造役,社寺祭礼役などいろいろな臨時の公事 (くじ) ,課役 (かやく) などがあった。これらの役を負担できるだけの所領を有していることが,御家人となるべき必要条件であった。しかし西国御家人のなかには守護が交名 (きょうみょう。連名書)を将軍に差出すだけで御家人となった者もあり,荘園領主,寺社惣官の下文だけで御家人となった者も少くなかった。しかも鎌倉時代初期には[[惣領]]だけが御家人であったが,中期以後には独立した[[庶子]]も御家人役の負担が可能な者は御家人となった。鎌倉時代は分割相続が原則であったので,御家人領は零細化し,鎌倉時代中期以降には御家人の生活は窮乏していった。南北朝時代にも御家人の称が残っていたが,室町幕府ではほとんど使用されなくなった。江戸幕府では御目見以下の幕臣を御家人と称した。
=== 成立 ===
 
[[平安時代]]には、[[貴族#日本の貴族|貴族]]や[[武家の棟梁]]に仕える者を「[[家人#中世の家人|家人]]」と呼んでおり、[[鎌倉幕府]]が成立すると[[鎌倉殿]]と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。'''鎌倉殿御家人'''、'''関東御家人'''、'''鎮西御家人'''とも言う。
 
 
 
御家人の成立は、[[源頼朝]]による鎌倉幕府の樹立と密接に関連する。流人だった頼朝の家人はごくわずかであり、[[1180年]](治承4年)の挙兵の際、父[[源義朝]]の家人だった南関東の武士たちを「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では主従関係は個々に結ぶものであり、頼朝に従属しない武士も多かった。その後、鎌倉に東国政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入っていった。急速に増加した支配下の武士等を秩序だって組織化するため、[[以仁王]]の令旨が利用された。すなわち、令旨に従って頼朝の支配に入った武士等は、一律に「御家人」として組織された。御家人には武士出身の武士御家人と、文吏僚出身の文士御家人とがいた。武士御家人の有力者が[[千葉氏]]、[[三浦氏]]、[[小山氏]]等であり、文士御家人の代表が[[大江広元]]、[[三善康信]]、[[二階堂行政]]等である。
 
 
 
[[治承・寿永の乱]]期には、本拠である関東のみならず、各地の武士をより多く御家人として組織化する必要があったため、平氏追討に従う武士を御家人として認定し本宅を[[安堵]]する「本宅安堵」が多く行われた。関東の御家人の多くが頼朝の所領安堵を通じて御家人となっていたのに対し、本宅安堵の御家人に所領安堵する権限を有していたのは[[荘園 (日本)#鎌倉時代の荘園|荘園]]領主たる[[本所]]や[[国司]]だったため、頼朝は本所・国司の権限を侵すことなく、地位を安堵することで御家人を組織したのである。
 
 
 
このように御家人は、鎌倉殿から直接に所領安堵を受ける御家人と、本宅安堵を受ける御家人に分けられる。前者には東国に在住し、早い時期から頼朝に臣従していた者が多い。[[地頭|地頭職]]に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに、有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。後者は[[令制国|国]]を単位に編成され、「国御家人」と呼ばれた。治承・寿永内乱の終結後は、[[大番役]]への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。国御家人を統括するのは[[守護]]の任務であり、大番役を催促するとともに、大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。
 
 
 
御家人は、上記のとおり直接所領安堵・本宅安堵の区分のほか、広大な所領を持ち数カ国の[[守護]]を兼ねる有力御家人から、ごく狭い所領しか持たない零細な御家人まで大小さまざまな規模であったが、鎌倉殿に等しく従属する家人として、身分上は同格として扱われた。ただし、同時の主従関係では従者は己の利害により自由に主人を選択出来たし、複数の主人に仕えることも出来たので、御家人の中には、京都の公家を主人とする者も存在した。また、有力御家人はその勢力を伸張する中で、小御家人を家人化する例もあった。
 
 
 
=== 御恩と奉公 ===
 
御家人が鎌倉殿から受ける恩恵、すなわち御恩は、安堵と新恩給与である。安堵には前述のごとく所領安堵と本宅安堵がある。新恩給与は、謀反追討などに勲功を挙げた御家人に対し、謀反人の所領などを新領として給与することである。所領安堵および新恩給与は、[[地頭|地頭職]]への補任という形で行われるようになる。[[承久の乱]]後には、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]から没収した大量の所領が勲功を挙げた御家人へ新領給与されているが、この新領給与も地頭補任の形でなされており、この時に補任された地頭を特に[[新補地頭]]という。
 
 
 
御家人は御恩を受ける見返りとして、奉公、すなわち鎌倉殿へ[[軍役]]と[[公事]]の奉仕義務を負う。こうした義務を[[御家人役]]と称する。軍役とは、戦時の従軍参加はもちろんのこと、平時においての[[京都]]・[[鎌倉]]の[[大番役]]や異国警護役などの役を指す。公事は関東御公事(みくうじ)ともいい、幕府から御家人に賦課された米銭の納入義務のことである。
 
 
 
こうした鎌倉殿と御家人間の互恵関係を[[御恩と奉公]]という。
 
 
 
=== 鎌倉中期以降 ===
 
史料から検出される御家人の数は決して多くはなく、関東諸国を除き、一か国あたり概ね10名程度にとどまっていた。関東諸国は他地域に比べて御家人が非常に多い地域であり、最も多い[[武蔵国]]の約80名をはじめ、各国とも数十名の御家人が在住していた。[[1275年]](建治元年)の「六条若宮造営注文」に記載されている全国の御家人総数は約480名であり、東国諸国(遠江・越後以東)を除き、一か国あたり概ね数名程度にとどまっていた。[[武蔵国]]の約80名、[[相模国]]の約30名、[[信濃国]]の約30名がトップスリーである。本注文は全御家人を網羅したものではないが、御家人は武士の中でも限られた階層だったことを物語っている。
 
 
 
いっぽう、鎌倉幕府と御恩・奉公の契約関係にない「'''非御家人'''」の数も多かった。[[文永の役]]という対外危機に伴い、幕府は非御家人への指揮権も得ることになったが、幕府に従わぬ武士も多かった。[[永仁の徳政令]]以後は、非御家人に対する御家人への優遇策は顕著となり、非御家人の中には[[悪党]]となって幕府や公家・寺社への反抗を行う者も現れた。その一方で、徳政令発布の裏側には、子弟への所領の分割相続や軍事的緊張の高まりによる御家人役の増加などの負担に耐え切れずに所領を失った「無足の御家人」の存在があった。
 
 
 
=== 建武の新政 ===
 
鎌倉幕府の勢力が強まるにともなって、御家人は武士の身分を表す言葉となった。ところが、鎌倉幕府の滅亡によって建武政権が成立すると状況は変わる。鎌倉幕府が滅亡した[[1333年]](元弘3年、正慶2年)の秋以後、遅くても[[1334年]](建武元年)までには「御家人」の呼称は廃止された。
 
 
 
; 史料引用 
 
* 『件輩 近代為陪臣、沈淪候処、直致奉公、被召仕候条、争不成其勇乎』。建武2年(1335年)「結城家文書」所収、結城宗広充後醍醐天皇事書。
 
 
 
この書簡からは、[[後醍醐天皇]]は御家人を陪臣に貶められた人々とみなし、御家人を廃止して天皇の直臣に取り立てることを栄誉と感じるであろうと認識していたことが分かる。また、現実的な問題として、[[地頭]]職への非御家人の進出や「無足の御家人」の増加などによって御家人役の機能が低下しており、御家人役に代わる新たな軍役・公事賦課体系を形成する必要に迫られていたという側面もあった。だが、これは当の武士階級からは御家人の名誉と特権を剥奪するものと解釈され、反発を買うことになった。『太平記』(巻13「龍馬進奏事」)によれば、「御家人」の呼称が廃止されたことで、大名・高家は凡民と同じく扱われるようになったと憤りを招いたと記されている。こうした武士の反発が、やがて[[延元の乱]]による建武政権の崩壊につながることになるが、「地頭=御家人」であることを前提としていた鎌倉幕府のような御家人制度を復活させることは、既に困難となっていたのである<ref>吉田賢司「建武政権の御家人制『廃止』」(所収:上横手雅敬 編『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版、2008年))</ref>。
 
 
 
=== 室町幕府・戦国大名の御家人 === 
 
[[室町幕府]]は御家人制度を採らなかったが、[[奉公衆]]を指して、古文書学上は御家人という用語がしばしば登場する。歴史教科書では、室町幕府の将軍家と主従関係にある者を指して御家人という用語は使っていない。 
 
 
 
御家人は将軍直参の武士の身分を示す用語としてしばしば用いられ、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には転じて[[戦国大名]]の家臣を指す言葉として使用されることもあった。特に著名なものとしては、武田氏・毛利氏などがある。 
 
 
 
; 史料引用 
 
* 『勤年役御家人 二貫七百文 萩原弥兵門尉』云々と。永禄6年(1513年)甲斐国恵林寺検地帳より引用。 
 
 
 
この記述「御家人」について、新潟大学教授の矢田俊は、地侍化した惣百姓と、武田氏のもともとの家臣であったものを区別するために行ったものであると説明している。
 
 
 
=== 参考文献 ===
 
* [[佐藤進一]]『日本の中世国家』([[岩波現代文庫]]、2007年) ISBN 978-4-00-600173-5  1983年初版
 
* [[田中稔 (歴史学者)|田中稔]]『鎌倉幕府御家人制度の研究』([[吉川弘文館]]、1991年) ISBN 4-642-02636-3
 
* 七海雅人『鎌倉幕府御家人制の展開』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4-642-02809-9
 
* [[五味文彦]]「京・鎌倉の王権」『<small>日本の時代史8</small> 京・鎌倉の王権』所載(吉川弘文館、2003年) ISBN 4-642-00808-X
 
 
 
== 近世の御家人 ==
 
=== 概要 ===
 
[[江戸時代]]には、御家人は[[知行]]が1万石未満の[[徳川将軍家]]の直参家臣団(直臣)のうち、特に[[御目見]]以下(将軍に直接謁見できない)の[[家格]]に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見以上の家格の直参を[[旗本]]という。
 
 
 
近世の御家人の多くは、戦場においては[[徒士]]の武士、平時においては[[勘定所]]勤務・[[普請]]方勤務・番士もしくは町奉行所の[[与力]]・[[同心]]として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。
 
 
 
御家人は原則として、乗り物や馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として[[布衣]]以上の役職に就任するか、3代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた。<ref>小川恭一の研究によると、寛政重修諸家譜所載の旗本5158家中、御家人から昇格した家は1148家に上るという。小川2003</ref>
 
 
 
=== 家格 ===
 
御家人の[[家格#武士の家格|家格]]は'''譜代'''(ふだい)、'''二半場'''(にはんば)、'''抱席'''(かかえせき)の3つにわかれる。譜代は[[江戸幕府]]草創の初代[[徳川家康|家康]]から4代[[徳川家綱|家綱]]の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で特に由緒ある者は'''譜代席'''と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた。
 
 
 
譜代と二半場は、無役(幕府の公職に任ぜられていない状態)であっても俸禄の支給を受け、[[惣領]]に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることができた。家督相続や叙任にあたっては、御家人は旗本のように将軍に謁見することはなかったが、譜代席のみは城中で若年寄や頭などの上司に謁見して申し渡された。譜代席未満の御家人は、城中ではなく自分の所属する機関で申し渡しがあった。
 
 
 
譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は次第に崩れていき、[[町奉行|町奉行所]]の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は'''御家人株'''と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに相場が生まれるほどであった<ref>[http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/2008-03-31/s001/s031/pdf/article.pdf 近世中後期における武士身分の売買につい『藤岡屋日記』を素材に ]姜鶯燕、日本研究 37, 163-200, 2008-03 国際日本文化研究センター</ref>。
 
譜代の御家人株も実際に売られており、[[河内山宗俊]]とつるんで悪事を働いて死罪になった「馬の沓」こと大川鉄蔵(高原八十次郎)は、元は下谷御切手町の居酒屋(煮売酒屋)の亭主で、譜代の御家人・黒鍬者の株を買っていたことが分かっている。<ref>黒鍬者は譜代の御家人ではあるが12俵二人扶持と薄給であった。姜2008</ref>
 
御家人株(御家人の資格)は幕府当初より半ば公然と売買が認められており<ref>竹越与三郎によると既に四代将軍家綱の[[寛文]]年間に、「婿養子を庶民からもらった」として幕府に届けたが、実は多額の礼金をとって庶民に跡を継がせているケースが有るという。寛文三年には幕府から「カネ目当ての結婚や養子縁組はしないように」という禁制さえ出ている。姜2008</ref>、特に盛んになったのは江戸後期である。幕末の志士も先祖が庶民出身で、御家人株を購入しているケースがある。<ref>例えば[[勝海舟]]がそうである。勝の曽祖父は高利貸しの米山検校で、息子の平蔵に御家人・男谷家の株を買ってやり、その男谷平蔵(海舟の祖父)が御家人・西丸持筒与力から旗本・勘定に昇格している。平蔵の子・[[勝小吉]](旗本・勝甚三郎家を継ぐ)が海舟の父に当たる。小川2003</ref>
 
 
 
=== 知行 ===
 
御家人の大半は、[[知行地]]を持たない30俵以上、80俵取り未満の[[蔵米取]]で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。ただし、旗本と御家人の定義は直参のうち謁見できるかどうかであったので、家禄(俸禄)の高低は家格の決定に関係がなく、旗本で最も小禄であった者は50俵程度で、御家人の大半よりも少ない。200石(俵)取り以上の御家人もいたが、400石を越える御家人は存在しなかった。江戸時代中期以降は地方知行制が崩れ、蔵米取に移行したり旗本に昇進したりしたため、知行地を持つ御家人はほとんどいなくなった。
 
 
 
御家人の多くは江戸時代中期以降、非常に窮乏した。諸藩の藩士は、家禄が100石(=250俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(=250俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。御家人は大都市の江戸に定住していたため常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。
 
 
 
=== 参考文献 ===
 
* 高柳金芳『御家人の私生活』([[雄山閣出版]]、2003年) ISBN 4-639-01806-1
 
* 氏家幹人『小石川御家人物語』(学陽書房人物文庫、2001年) ISBN 4-313-75120-3
 
* 小川恭一『江戸の旗本事典』(講談社文庫、2003年)
 
* 姜鶯燕『近世中後期における武士身分の売買について--『藤岡屋日記』を素材に』(国際日本文化研究センター論集『日本研究』所収論文、2008)
 
 
 
== 備考 ==
 
* 鎌倉前期までは女性の御家人も存在した<ref>[[網野善彦]] 『中世再考』 [[講談社学術文庫]] 2000年 ISBN 4-06-159448-6 p.86.</ref>。
 
* 鎌倉初期の[[関東]](八国の)御家人の数は、[[文治]]元年([[1185年]])に鎌倉に参集し、把握されているだけでも2096人<ref>[[山口博]] 『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』 [[角川ソフィア文庫]] 2015年 ISBN 978-4-04-409224-5 p.161.</ref>(前述の鎌倉中期の総数と比して多く、後代になり、激減したことがわかる<ref>一例として、『吾妻鑑』には馬を盗んだために領地を没収され、御家人の資格を剥奪された記述もみられる。</ref>)。また、[[建久]]3年([[1192年]])時点で、鎌倉幕府の支配が比較的及ばない西国の[[大隅国]]や[[伊予国]]でも30名ほどの御家人がいた<ref>山口博 『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』 p.161.</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[鎌倉殿]]
 
* [[御恩と奉公]]
 
* [[跡 (御家人)]]
 
* [[奉公衆]]
 
* [[奉行衆]]
 
* [[旗本]]
 
* [[従士制度]]
 
* [[御家人斬九郎]]
 
  
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[[Category:幕府]]
 
[[Category:幕府]]

2019/4/27/ (土) 16:31時点における最新版

御家人(ごけにん)

鎌倉~江戸時代,将軍と主従関係にあった武士 (家人) の敬称。鎌倉幕府の御家人は,源頼朝と一般武士との間に発生した個人的御恩奉公の双務的関係から発した私的色彩の強いものであったが,頼朝の東国政権が全国的規模の武士政権である鎌倉幕府に発展したとき,御家人制度は鎌倉幕府の制度として固定した。鎌倉御家人となるためには,根本私領を開発して保有している者が,名簿 (みょうぶ) を将軍にささげ,見参 (げざん) と称して将軍の前に出て御目見 (おめみえ) し,将軍に忠誠を誓い,将軍からその所領,所職の保障を示す所領安堵 (あんど) の下文 (くだしぶみ) をもらわねばならなかった。鎌倉御家人の平時の軍役は,京都大番役鎌倉大番役,篝屋 (かがりや) 番役があり,ほかに将軍御所修造役,内裏 (だいり) 修造役,舎人 (とねり) 人夫役,社寺修造役,社寺祭礼役などいろいろな臨時の公事 (くじ) ,課役 (かやく) などがあった。これらの役を負担できるだけの所領を有していることが,御家人となるべき必要条件であった。しかし西国御家人のなかには守護が交名 (きょうみょう。連名書)を将軍に差出すだけで御家人となった者もあり,荘園領主,寺社惣官の下文だけで御家人となった者も少くなかった。しかも鎌倉時代初期には惣領だけが御家人であったが,中期以後には独立した庶子も御家人役の負担が可能な者は御家人となった。鎌倉時代は分割相続が原則であったので,御家人領は零細化し,鎌倉時代中期以降には御家人の生活は窮乏していった。南北朝時代にも御家人の称が残っていたが,室町幕府ではほとんど使用されなくなった。江戸幕府では御目見以下の幕臣を御家人と称した。



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