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[[画像:Daidairi of Heiankyo.jpg|thumb|350px|平安京復元模型写真(大内裏付近)]]
 
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'''平安京'''(へいあんきょう/たいらのみやこ)または'''平安城'''(へいあんじょう)は、[[延暦]]13年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[西暦]][[794年]][[11月22日]])から、一説には[[明治]]2年([[1869年]])まで[[日本]]の[[首都]]であった都市。[[桓武天皇]]によって[[長岡京]]からの遷都地に選ばれ、[[唐]]の首都[[長安|長安城]]に倣って[[計画都市]]として[[山城国]]に建設された。現在の[[京都府]][[京都市]]・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。[[明治]]2年([[1869年]])に政府([[太政官]])が[[東京府|東京]](旧[[江戸]])に移転して首都機能を失った<ref>京都市編『京都の歴史』第7巻 維新の激動 學藝書林</ref>。平安京が置かれてから[[鎌倉幕府]]が成立するまでの約400年間を[[日本史]]では一般に「[[平安時代]]」と呼称する。
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'''平安京'''(へいあんきょう/たいらのみやこ)または'''平安城'''(へいあんじょう)
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桓武天皇の延暦 13 (794) 年から平清盛の福原遷都 (1180) を除いて,明治2 (1869) 年の東京遷都まで 1000年あまりの都。いまの京都市。[[和気清麻呂]]の建議により,延暦 12年 (793) 葛野に新都造営を着手,翌年遷都し,新都を平安京と名づけた。唐の長安をまねてつくられ,規模は南北 38町 (約 5.32km) ,東西 32町 (約 4.57km) 。北部中央に宮城 ([[大内裏]] ) を設け,中央の[[朱雀大路]]により,都城は左京 (東京) と右京 (西京) に分けられる。両京とも,縦横に走る道路により碁盤目形に区画され,北は一条から南は九条に及ぶ9条に,東西はそれぞれ一坊から四坊に及ぶ4坊に分けられる。右京はほとんど開発されず,平安時代後期,皇居が大内裏から,左京内の土御門内裏や閑院内裏など[[里内裏]]に移ると,左京はますます繁栄した。大内裏は 13世紀廃亡,内野 (うちの) となった。応仁の乱中,大部分は灰燼に帰したが,豊臣秀吉の新都市建設によって今日の京都へと発展した。
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== 概要 ==
 
 
[[画像:Heiankyo overall model.jpg|thumb|350px|平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)]]
 
[[画像:Heiankyo overall model.jpg|thumb|350px|平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)]]
平安京は現在の京都市街にあたる[[山城国|山背国]][[葛野郡|葛野]]・[[愛宕郡|愛宕]]両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された[[都城]]であった。都の北端中央に[[大内裏]]を設け、そこから市街の中心に[[朱雀大路]]を通して左右に[[左京]]・[[右京]](内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に[[平城京]]を踏襲し、[[隋]]・[[唐]]の[[長安|長安城]]に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は[[羅城門]]の左右を除き造られなかったと考えられている。この地の選定は中国から伝わった[[陰陽道]]([[風水]])に基づく[[四神相応]]の考え方を元に行われたという説もある<ref>四神相応説は今のところ鎌倉時代成立の[[平家物語]]が初出。</ref>。
 
 
平安京の範囲は現在の拡大した京都市街より小さく北限の一条大路は現在の[[今出川通]]と[[丸太町通]]の中間にある[[一条通]]、南限の九条大路は現在のJR[[京都駅]]南方、東寺の南側を通る[[九条通]]、東限の東京極大路は現在の[[寺町通]]にあたる。西限の西京極大路の推定地は[[西日本旅客鉄道|JR]][[山陰本線|嵯峨野線]][[花園駅 (京都府)|花園駅]]や[[阪急電鉄|阪急]][[阪急京都本線|京都線]][[西京極駅]]を南北に結んだ線である。
 
 
京内は東西南北に走る大路・小路によって40[[丈]](約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。
 
 
道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160126000069 "「大路」名ばかり、「小路」より狭く 平安京東端の道"](京都新聞、2016年1月26日記事)。</ref>。また、堀川小路と西堀川小路では中央に[[川]]([[堀川 (京都府)|堀川]]、西堀川)が流れていた<ref>当時の「西堀川」は現在の「紙屋川(天神川)」である。西堀川小路は現在の西土居通に該当する。</ref><ref>[http://www.kyoto-arc.or.jp/gensetsu/158horikawa.pdf 平安京右京六条二坊・西堀川跡 現地説明会資料]</ref>。
 
 
== 平安宮 ==
 
 
平安京にはその宮城([[大内裏]])として'''平安宮'''が、都の北部中央に造営された。大内裏には天皇の御所として[[内裏]]、即位礼など国家行事を挙行する[[八省院]](朝堂院)、大規模な饗宴が行われた[[豊楽院]]、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他[[二官八省]]の政庁、衛府等が並び立った。
 
 
その後平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた四つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただ、新たな内裏である[[京都御所]]が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることは無かった。
 
 
== 歴史 ==
 
桓武天皇は延暦3年([[784年]])に[[平城京]]から[[長岡京]]を造営して[[遷都]]したが、これは[[天武天皇]]系の政権を支えてきた[[貴族]]や[[寺院]]の勢力が集まる[[大和国]]から脱して、新たな[[天智天皇]]系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の延暦12年([[793年]])の1月、[[和気清麻呂]]の建議<ref>清麻呂の建議以前の791年(延暦10年)頃には長岡京の廃止と新たな都の候補地探しが始まっていたとする見方もある(網伸也「平安京造営過程に関する総合的考察」『平安京造営と古代律令国家』(塙書房、2011年) ISBN 978-4-8273-12447)。</ref>もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10km、二つの[[川]]に挟まれた山背国北部の[[葛野郡]]および[[愛宕郡]]の地であった。事前に桓武天皇は現在の京都市[[東山区]]にある将軍塚から見渡し、[[首都|都]]に相応しいか否か確かめたと云われている。[[日本紀略]]には「葛野の地は[[山]]や川が麗しく四方の[[国]]の[[人]]が集まるのに[[交通]]や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。
 
  
 
[[File:Daigokuden-ato (Heian Palace)-3.jpg|thumb|200px|{{center|大極殿遺阯碑<br />([[千本通|千本]][[丸太町通|丸太町]]北西)}}]]
 
[[File:Daigokuden-ato (Heian Palace)-3.jpg|thumb|200px|{{center|大極殿遺阯碑<br />([[千本通|千本]][[丸太町通|丸太町]]北西)}}]]
平安京の造営はまず宮城([[大内裏]])から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には[[大極殿#平安京の大極殿|大極殿]]が作られた。その後方の東側には[[天皇]]の住まいである内裏が設けられた。
 
 
都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などの[[港]]を整備、これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の[[堀川 (京都府)|堀川]]と西堀川)を整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。そして長岡京で認めなかったようにここでも官寺である[[東寺]]と[[西寺]]を除き新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他平安遷都以前からの寺院として京域内には[[頂法寺|六角堂]]があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、[[広隆寺]]はこの時に太秦に移転されたとされ、北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)<!--[[愛宕念仏寺|愛宕寺]]があった。(!!愛宕寺とも京域外!!)-->。
 
 
延暦13年(794年)10月22日に桓武天皇は新京に遷り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。
 
{{Quotation|辛酉。車駕遷于新京。<br/>同十三年十月廿三日。天皇自南京、遷北京。<br/>(略)<br/>丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。|『日本後紀』卷第三逸文、延暦13年10月及び11月の条。}}
 
「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。此の勝(形勝 けいしょう)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰(い)ふ」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「謳歌」とは、遷都の翌延暦14年([[795年]])正月16日に宮中で催された宴でも歌われた[[踏歌]]の囃し言葉「新京楽、'''平安'''楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。
 
  
弘仁元年([[810年]])、桓武天皇亡き後の皇位を巡る対立で[[平城天皇|平城上皇]]とその一派から平城京に都を戻そうという動きが起こるが、平城上皇の弟の[[嵯峨天皇]]は平安京を残すことこそ国の安定と考え、平城上皇らのこの動きを退け、側近の[[藤原仲成]]・[[藤原薬子|薬子]]兄妹を討伐し上皇を出家させた([[薬子の変]])。そして平安宮を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の皇居という意)。
 
 
京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では[[桂川 (淀川水系)|桂川]]の形作る湿地帯にあたるため[[9世紀]]に入っても宅地化が進まず<ref>この説は[[慶滋保胤]](? - 1002年)が「[[池亭記]]」に書いて以来信ぜられてきたが、最近の発掘調査の結果からは、必ずしも右京に貴族の邸宅が建てられなかったとは言えない。</ref>、[[律令制]]がほとんど形骸化した[[10世紀]]には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。[[貴族]]の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ[[藤原氏]]のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の川べりに住み始めた。また鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。[[980年]](天元3年)には朱雀大路の南端にある[[羅城門]](羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った[[中世]]・[[近世]]の[[京都]]の街が形作られ、京域を示す「[[洛中]]」という言葉も実質的に左京を指して用いられた。
 
平安時代の末期に至って京内で戦が頻発し荒廃が進行した。政情不安もあって[[治承]]4年([[1180年]])、[[平清盛]]は[[安徳天皇]]を奉じて[[福原 (神戸市)|福原]]に遷都([[福原京]])したが、公家たちの反対にあいわずか半年で京都に還都した。
 
 
平安京(京都)は、[[関東地方]]を基盤とする[[鎌倉幕府]]や[[江戸幕府]]の成立によって行政府としての機能を次第に失った。とくに[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての時期は、[[応仁の乱]]にて市街地の過半を焼失し、衰退した。その後、平安京の市街地は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていた。これが再度一体の市街として復興に向かうのは[[安土桃山時代]]であり、[[織田信長]]の上洛後のことである。[[豊臣秀吉]]は[[大内裏]]の跡地である内野に政庁である[[聚楽第]]を設けたが、関白位を甥の秀次に譲ると[[伏見]]に[[伏見城]]を建設して隠居。間もなく秀次が失脚して聚楽第が破却されると政治の中心は京都から離れて完全に伏見に移ることとなった。
 
 
[[関ヶ原の戦い]]後、[[徳川家康]]は洛中に[[二条城]]を建設したがこれは政庁としての城ではなくもっぱら儀礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に復することはなかった。江戸時代には、国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の機関である[[京都所司代]]が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鑑み[[京都守護職]]を新たに置き、一層支配を強めようとした。
 
 
[[明治維新]]の際には、[[明治天皇]]の[[東京行幸]]で留守の都となり、[[留守官]]が置かれた(明治4年廃止)。[[江戸]]を[[東京]]と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「遷都」という言葉は避けられた([[東京奠都]])。以後も天皇の京都行幸は度々行われ、その際には、勅旨で保存された[[京都御所]]または[[仙洞御所]]([[大宮御所|京都大宮御所]])に宿泊することが慣例となった。なお、天皇の[[玉座]]である[[高御座]]も、京都御所の紫宸殿に据え置かれている。
 
 
== 名称 ==
 
平安京はふつう[[音読み]]の「へいあんきょう」と読むが、ときに「たいらのみやこ」と[[訓読み]]した。古来、都の名はその地名を冠することが一般的であり、本来ならば葛野京となるはずであったが、藤原の都を「新益京(あらますのみやこ)」と称したようにここでも「平安京」と命名された。唐の都「長安」に倣っての命名であることは容易に理解できるが、[[長岡京]]での騒動が原因のひとつとして、再び[[遷都]]されたため、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという願いも込められたと考えられている。また平安時代の漢詩文には、文学上の雅称として「洛陽」「長安」と呼ぶ例が見られる。この「洛陽」から後に「[[洛中]]」「入洛」「[[上洛]]」などの言葉が生まれる。
 
 
== 平安京全体図 ==
 
 
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|800px]]
 
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|800px]]
 
注意:図に描かれているもの以外にも、複数の町にまたがる邸宅などにより小路が途切れていることがある。
 
 
== 平安遷都記念事業 ==
 
; 1100年記念事業
 
:* [[平安神宮]]の建設([[1895年]](明治28年))
 
:* [[時代祭]]の開催([[1895年]](明治28年))
 
:* 第四回[[内国勧業博覧会]]の開催([[1895年]](明治28年))
 
:
 
; 1200年記念事業
 
:* [[京都駅]]の改修([[1997年]](平成9年))
 
:* [[京都市営地下鉄東西線]]・[[二条駅]]~[[醍醐駅 (京都府)|醍醐駅]]間の開業([[1997年]](平成9年))
 
:* [[京都国際映画祭]]の開催([[1997年]](平成9年))
 
:* [[京都市勧業館]]の建設([[1996年]](平成8年))
 
:* [[京都コンサートホール]]の建設([[1995年]](平成7年))
 
:* [[梅小路公園]]の整備([[1995年]](平成7年))
 
:* [[けいはんな記念公園]]の整備([[1995年]](平成7年))
 
:* [[世界遺産]]に「[[古都京都の文化財]]」として登録([[1994年]](平成6年))
 
:* [[京都迎賓館]]の建設([[1994年]](平成6年))
 
:* [[小町の舎]]を建設([[1994年]](平成6年))
 
:* [[世界歴史都市連盟|第4回世界歴史都市会議]]の開催([[1994年]](平成6年))
 
:* [[祇園祭]]後祭(花笠巡行)に全国祇園祭山笠巡行の開催([[1994年]](平成6年))
 
:* [[京都シティハーフマラソン]]の開催([[1994年]](平成6年))
 
:*「甦る平安京」展の開催([[1994年]](平成6年))
 
:*「京都に伝わる朝鮮陶磁」展の開催([[1994年]](平成6年))
 
:*「古都の心にふれた西欧のひとたち」展の開催([[1994年]](平成6年))
 
:*「にっぽんと遊ぼう」の開催([[1994年]](平成6年))
 
:* The Big Eve SHUKUTEN1200/[[平安神宮]]サウンドスペクタクル[[藤井フミヤ]]・スーパーライブの開催([[1994年]](平成6年))
 
:* [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]][[フランクフルト]]市市政1200年記念事業への参加([[1994年]](平成6年))
 
:* [[メキシコ合衆国]][[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]に[[日本庭園]]を建設([[1994年]](平成6年))
 
:* [[三条大橋#鴨川・花の回廊|「京の川づくり」事業]]の実施([[1992年]](平成4年))
 
:* [[酒米]]「[[祝 (米)|祝]]」を使用した[[清酒]]を製造([[1994年]](平成6年))
 
:* [[世界人権問題研究センター]]の設立([[1994年]](平成6年))
 
:* [[京都市国際交流会館]]の建設([[1989年]](平成元年))
 
:* [[京都文化博物館]]の開館([[1988年]](昭和63年))
 
 
== その他 ==
 
*「鳴くよ(794)ウグイス(若しくは泣くよ(794)坊さん)平安京」の年号語呂合わせは有名(ウグイスなら、鳴き声である「ホーホケキョ」と平安京とで韻を踏む。また坊さんなら、平城京の寺院が平安京へ移転するのを禁じられたことなどが関係づけられる)。
 
* [[1993年]](平成5年)から開始された[[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[そうだ 京都、行こう。]]キャンペーンはもとは1200年記念にあわせた京都観光促進用のコマーシャルである。
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Heian-kyō}}
 
* [[平安仏教]]
 
* [[四神相応]]
 
* [[条坊制]]
 
* [[大内裏]]
 
* [[内裏]]
 
* [[京都]]
 
* [[京都市]]
 
* [[京都市内の通り]]
 
* [[京都市平安京創生館]]
 
* [[四堺]]
 
* [[平安京エイリアン]]
 
* [[日本の首都]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/about/institution/honkan/heian3.html 京都市 平安京創生館] - 平安京復元模型(1/1000)を展示。豊楽殿復元模型(1/20)、豊楽殿鴟尾実物大模型の他、平安時代の出土品を多数展示している。
 
* [http://www.kyoto-arc.or.jp/index.html 京都市埋蔵文化財研究所(京都市考古資料館を含む)] - 平安京の遺跡の調査。京都市考古資料館では平安京出土遺物を展示。
 
* {{PDFlink|[http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2739/1/BA85883039pp80-94.pdf 平安京の条坊制]}}
 
* {{PDFlink|[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/geo/assoc/journal/17117128mori.pdf 井戸遺構からみた平安時代の地下水環境と洪水]}}
 
  
 
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2018/8/31/ (金) 21:47時点における版

平安京復元模型写真(大内裏付近)

平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)

桓武天皇の延暦 13 (794) 年から平清盛の福原遷都 (1180) を除いて,明治2 (1869) 年の東京遷都まで 1000年あまりの都。いまの京都市。和気清麻呂の建議により,延暦 12年 (793) 葛野に新都造営を着手,翌年遷都し,新都を平安京と名づけた。唐の長安をまねてつくられ,規模は南北 38町 (約 5.32km) ,東西 32町 (約 4.57km) 。北部中央に宮城 (大内裏 ) を設け,中央の朱雀大路により,都城は左京 (東京) と右京 (西京) に分けられる。両京とも,縦横に走る道路により碁盤目形に区画され,北は一条から南は九条に及ぶ9条に,東西はそれぞれ一坊から四坊に及ぶ4坊に分けられる。右京はほとんど開発されず,平安時代後期,皇居が大内裏から,左京内の土御門内裏や閑院内裏など里内裏に移ると,左京はますます繁栄した。大内裏は 13世紀廃亡,内野 (うちの) となった。応仁の乱中,大部分は灰燼に帰したが,豊臣秀吉の新都市建設によって今日の京都へと発展した。


平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)
大極殿遺阯碑
千本丸太町北西)

HeiankyouMapJapanese.svg.png

先代:
長岡京
日本の首都
794年(延暦13年) - 1180年(治承4年)
次代:
福原京
先代:
福原京
日本の首都
1180年(治承4年) - 1868年(明治元年)
次代:
東京府


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