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(内容を「 '''天皇'''(てんのう) 日本の歴代の君主の称号。元来は中国の言葉で,万物を支配する皇帝の意味をもつ。日本以外では,中…」で置換)
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<!--「Wikipedia:検証可能性」により、
 
「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」
 
「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」
 
と規定されています。詳細は「Wikipedia:検証可能性#方針」(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7#%E6%96%B9%E9%87%9D)。
 
「Wikipedia:信頼できる情報源」により、
 
「もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます」
 
「一般的には査読された公表物はもっとも信頼できると考えられ、権威づけられた専門家による公表物がそれに次ぎます」
 
「学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます」
 
と規定されています。詳細は「Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意」(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%BA%90#%E5%81%BD%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%A8%81%E3%81%AB%E6%B3%A8%E6%84%8F)等。
 
「Wikipedia:スタイルマニュアル」により、
 
「敬称は原則として使用しません。事件・災害等の被害者や、「ある特定の集団からは○○と敬称をつけて呼ばれる」のような中立的な観点から敬称を記述するのは問題ありません」
 
と規定されています。詳細は「Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名」(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%83%BB%E4%BA%BA%E5%90%8D)。-->
 
{{複数の問題|出典の明記=2015年10月|一次資料=2017年2月|精度=2017-10|独自研究=2017-10|観点=2017年10月|国際化=2017年10月}}
 
{{Otheruseslist|日本国における称号または地位としての天皇|当代の天皇を意味する言葉|今上天皇|[[2018年]](平成30年)現在、在位中の天皇|明仁|歴代天皇|天皇の一覧|天皇のその他の用法|天皇 (曖昧さ回避)}}
 
{{Infobox Monarchy
 
|font_color = purple
 
|royal_title = 天皇
 
|realm =
 
|coatofarms = [[File:Flag of the Japanese Emperor.svg|170px]]
 
|coatofarms2 = File:Imperial Seal of Japan.svg
 
|coatofarms_article = 天皇旗
 
|image = [[File:Emperor Akihito 199011 1.jpg|170px]]<!-- 職に複数就任している可能性がある場合は、掲載しない -->
 
|incumbent = 第125代天皇<br>[[明仁]]
 
|incumbentsince = [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]
 
|his/her = 天皇
 
|heir_apparent = [[皇太子徳仁親王]]
 
|first_monarch = [[神武天皇]]
 
|residence = [[皇居]]([[東京都]][[千代田区]])
 
|date = 神武天皇即位元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<br>([[グレゴリオ暦]]に換算すると[[西暦]][[紀元前660年]][[2月11日]])
 
|website = [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁]
 
}}
 
{{Infobox Royal styles
 
|royal name = 天皇
 
|image = [[File:Japanese Imperial Seal.svg|110px]]
 
|dipstyle = [[陛下]]<br />''His Imperial Majesty'' (H.I.M.)
 
|color = #C0A73F
 
|background = #BE0026
 
}}
 
{{日本の皇室}}
 
<!--導入部始:この導入部は複数の編集者による合意によって編集されました(詳細は「ノート:天皇/過去ログ3#各事典の「天皇」項の定義説明」を参照)。合意は「Wikipedia:合意形成」によって、「ウィキペディアにおけるルール」とされています。導入部の変更や加筆・除去を行う場合は、ノートで新たな導入部の提案を行い、合意を形成してください。-->
 
'''天皇'''(てんのう)は、[[日本国憲法]]に規定された[[日本|日本国]]および日本国民統合の[[象徴]]たる地位、または当該地位にある個人<ref name=daijirin>{{Cite book |和書 |author=[[松村明]]編 |year=2006 |title=[[大辞林]] |edition=第三版|page=1758頁 |publisher=[[三省堂]] |isbn=4-385-13905-9 }}</ref><ref>「天皇」『明鏡国語辞典』 大修館書店。</ref><ref name="日本大百科全書">「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。</ref>。[[7世紀]]頃に[[治天下大王|大王]]が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている<ref name="日本大百科全書"/>。
 
  
[[今上天皇]](当代の天皇)は、[[昭和天皇]]第一皇子である[[明仁]]{{sfn|百科事典マイペディアの解説|2017|p=「明仁」}}。<!--導入部終-->
+
'''天皇'''(てんのう)
<!--以下は合意形成せずに行われた編集(導入部の変更や加筆等)。上記の合意を無視しているため、コメントアウト。-->
 
<!--'''天皇'''(てんのう、{{lang-en-short|Emperor}})--><!--2018年現在、世界で唯一の[[皇帝|皇帝(エンペラー)]]である。--><!--別称や呼称の仕方も、「帝・天子様・我が君・大君」など、時代によって様々で多種多様である。現代では「天皇(陛下)」と呼称することが主である。英語における呼称は「emperor」(エンペラー)である。-->
 
  
== 概要 ==
+
日本の歴代の君主の称号。元来は中国の言葉で,万物を支配する皇帝の意味をもつ。日本以外では,中国で唐の高宗が称したほかに例がない。日本の初代の天皇は,『古事記』や『日本書紀』では[[神武天皇]]とされるが,天皇という呼称の成立期は[[推古天皇]]時代,[[天智天皇]]時代,天武・持統天皇時代の3説がある。律令制のなかや,あるいは明治初期の外交関係の公文書では,皇帝という称号を用いたこともある。明治憲法下では,[[統治権]]を総攬する絶対権力者として規定されたが,1946年の日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定され (1条) ,国家の機関として果す権能も象徴たる地位に相応する,きわめて限定されたものとなっている。
「てんのう」は、「てんおう」の[[連声]](れんじょう)とされる{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。古代日本では、権力の頂点を[[オオキミ]][[大王]])といったが、[[天武天皇|天武朝]]ごろから[[中央集権国家]]の[[君主]]として「天皇」が用いられるようになった{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。「天皇」は[[大和朝廷]]時代の大王が用いた[[称号]]であり、[[奈良時代]] ~ [[平安時代]]には[[政治]]・[[祭祀]]の頂点だったが、[[摂関政治]]・[[院政]]・[[武家]]の台頭により政治的実権を失っていった{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。[[室町時代]]には多くの[[宮中祭祀]]の廃絶もあり劣位となったが、「[[江戸時代]]末に[[尊王論]]が盛んとなり、[[王政復古]]、[[明治憲法]]における[[天皇制]]へとつながった」という{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。
 
  
[[大日本帝国憲法]]では、国家[[元首]]であって、神聖不可侵であり、かつ[[統治権]]を総攬{{efn|{{読み仮名|総攬|そうらん}}とは「統合して一手に掌握すること」、「(政治・人心などを)掌握して治めること」の意<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E6%94%AC-553335 『デジタル大辞泉』・『大辞林 第三版』]</ref>。}}するものとして規定されていた<ref name="daijirin2">{{Cite book|和書 |author=[[松村明]]編|title=[[大辞林]]|edition=第三版|year=2006|publisher=[[三省堂]]|page=1758頁|isbn=4-385-13905-9}}</ref><ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2014年、「天皇」の項。松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2014年、「天皇」の項。]</ref>。「[[皇帝]]」と「天皇」は併用されていたが、[[1936年]](昭和11年)には「天皇」に統一された<ref name="daijirin" />。
+
*[[国事行為]]
 
+
*[[天皇機関説]]  
君主とは[[伝統]]的に、国家で特定の一人が[[主権]]を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・[[皇帝]]・[[きみ]]などとも言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br>{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}
 
 
 
大日本帝国憲法では[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ{{読み仮名|総攬|そうらん}}」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある<ref name=nd>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 田中浩「元首」、『日本大百科全書』小学館、2016年。]</ref>。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し[[内閣]](または[[首相]])を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。[[学説]]の多くは、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、行政権の[[首長]]としての内閣代表の[[内閣総理大臣]]を元首としている<ref name=nd/>。
 
{{See also|日本の元首}}
 
 
 
『[[世界大百科事典]]』によると、日本国憲法によって[[主権者]]は[[国民]]となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「象徴規定にはとくに[[法]]的意味はなく、また国民を[[統合]]する[[機能]]は憲法上天皇には期待されていない」という{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇へ認可された[[権能]]は極めて限定されており、「[[行政権]]ももたず[[国]]を対外的に[[代表]]することもない天皇を[[君主]]とか[[元首]]とみることは困難」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の地位は主権者である国民の[[総意]]に基づいており([[日本国憲法第1条|第1条]])、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神勅主義]]は明確に否定されているので、[[神秘]]的・[[宗教]]的[[要素]]がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は[[公]]的な宗教的活動が禁止されている([[日本国憲法第20条|第20条]])こともあって、「天皇、国家の[[世俗]]化が要求されている」{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神道]]が特別な[[地位]]を与えられることはもはや許されない」のであり、[[皇位継承]]の際に行われた[[大嘗祭]]や[[三種の神器]]の継承は、「[[天皇家]]の私事としてのみありうる」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
 
 
 
天皇は憲法が限定的に列挙している国事行為だけを行い、[[国政]]に関する権能は一切持たない([[日本国憲法第4条|第4条]]、[[日本国憲法第6条|第6条]]~[[日本国憲法第7条|第7条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。国事行為は国家[[意思]]形成に関わらない[[形式]]的・[[儀礼]]的[[行為]]であり、天皇が国事行為を行うには常に[[内閣]]の[[助言]]と[[承認]]が必要であって、内閣は自らの助言と承認に[[責任]]を負う([[日本国憲法第3条|第3条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇は国事行為の[[責任]]を負わないが、[[民事責任]]は負っている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の[[刑事責任]]を[[免責]]する明文規定は無いが、[[摂政]]はその在任中は[[訴追]]されないと定める[[皇室典範]]21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
 
<!--
 
=== 神話と伝説 ===
 
王家の始祖が[[神]](神々)や[[神話]]と結びつく事例([[現人神]])は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在するが、現存する[[国際連合加盟国|国連加盟国]]の[[君主制]]国家の中では、[[2011年|2018年]](平成30年)現在、唯一<ref>{{Cite book|和書
 
| author = [[中西輝政]]
 
| year = 2006
 
| title = 日本人としてこれだけは知っておきたいこと
 
| page = 170
 
| publisher = [[PHP研究所]]
 
| series =
 
| isbn = 4569648444
 
| ref =
 
}}</ref>の事例となっている。--><!--中西輝政氏の『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』は、学術性を持つ資料ではありません。参考情報:Google Scholar(https://bit.ly/2P4OqlP)、CiNii(https://bit.ly/2P956sG)-->
 
<!--
 
[[ギネス世界記録]]においても、[[エチオピア帝国]]の皇統([[紀元前10世紀]]の[[メネリク1世]]を始祖とする)に続いては世界第2位の古い皇統として記録されている{{要出典|date=2018年8月}}。なお、エチオピア帝国の皇統は1974年、軍事クーデターにより廃絶している。<ref>{{Cite web|url=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E5%B8%9D%E5%9B%BD|title=エチオピア帝国 - Wikipedia|accessdate=2018-05-03|language=ja}}</ref>--><!--「Wikipedia:信頼できる情報源」により、「ウィキペディア自身の記事を出典として引用することは、自己参照となるため、できません」と定義されています--><!--
 
 
 
[[2018年]](平成30年)現在まで続いている皇統としては世界最古である{{要出典|date=2018年8月}}。
 
-->
 
=== 天皇制 ===
 
<!--=== 天皇制・皇室制度 ===--><!--この節の出典に「皇室制度」という語は掲載されていません。「天皇制」と「皇室制度」が、同義語・類義語であると述べている出典もありません-->
 
『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、[[日本]]の[[君主制]]を指す{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}。「広義には前近代天皇制と[[象徴天皇制]]を含め、狭義には[[明治維新]]から[[敗戦]]までの[[近代]]天皇制を指す」語であり{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}、「象徴天皇制は天皇が[[元首]]でないので君主制としない説もある」とされている{{sfn|永原|石上|1999|p=362}}。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、[[世襲]]の君主が、ある政治[[共同体]]において最高[[権力]]([[主権]])をもつ政治形態」としている{{sfn|田中|2017|p=「君主制」}}。
 
 
 
「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、[[Kotobank]]に登録されている辞事典としては『[[デジタル大辞泉]]』、『[[大辞林]]』(第三版)、『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』、『[[百科事典マイペディア]]』、『[[世界大百科事典]]』(第2版)、『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』がある<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684|title=Kotobank|accessdate=2017-10-22}}</ref>。辞書はその他にも『岩波 日本史辞典』{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}、『日本史広辞典』等がある{{sfn|日本史広辞典編集委員会|1997|p=1492}}。2017時点で「天皇制」を使用している[[研究論文]]は、{{読み仮名|[[Google Scholar]]|グーグル・スカラー}}では約16,000件<ref>{{Cite web |url=https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&btnG=&lr=|title=Google Scholar|accessdate=2017-10-22}}</ref>、[[CiNii Articles]]では6156件がある<ref>{{Cite web |url=http://ci.nii.ac.jp/fulltext?q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&count=20&sortorder=1|title=CiNii Articles|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
 
{{See also|天皇制|皇室}}
 
 
 
=== 語源 ===
 
古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ<ref name=kojien>{{Cite book|和書 |author=[[新村出]]編|title=[[広辞苑]]|edition=第六版|year=2011|publisher=[[岩波書店]]|page=1952|isbn=978-4-00-080121-8}}</ref>。元は[[皇帝]]・[[天子]]<ref>新村出、前掲書、1952頁。</ref>・[[君主]]の[[敬称]]であり、[[古代中国]]で[[最高神]]、[[天皇大帝|神格化された北極星(天皇大帝)]]を指す語<ref name="kotobank2">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 松村明前掲書。 『百科事典マイペディア』 平凡社、2014年、「天皇」の項。加藤周一編 『世界大百科事典 第2版』 平凡社、2014年、「天皇」の項。]</ref>である。[[語源]]としては[[7世紀]]中頃以降で、[[中国語]]の[[天皇 (三皇)|天皇・地皇・人皇]]の一つに由来しており、スメラミコトの[[漢語]]表現である<ref name="gogen">{{Cite book|和書|author=[[増井金典]]|title=日本語源広辞典|year=2010|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=753|isbn=978-4-623-05494-7}}</ref>(この世紀に「天皇」の文字が初めて[[文献]]に現れた<ref>{{Cite book|和書|author=フランク・B・ギブニー編|title=ブリタニカ国際大百科事典 第2版改訂|year=1993|publisher=[[TBSブリタニカ]]|page=9|volume=14}}</ref>)。天皇という二字は、「是全ク[[漢土]]ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ[[漢風諡]]ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる<ref>{{Cite book |和書 |author= [[明治政府]]編纂|year= 1915|title= 古事類苑|publisher= [[神宮司庁]]|page=915|url=http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf}}</ref>。また、ある[[分野]]で強大な[[権力]]を持つ人を指す<ref name="kotobank" />。なお、{{読み仮名|天皇|てんこう}}は[[三皇]]の一種である他に、[[天帝]]・[[天子]]も意味し{{読み仮名|天皇|てんのう}}に通じる他<ref name="kotobank" />、{{読み仮名|皇天|こうてん}}は天皇・[[皇室]]・[[天の神]]・[[上帝]]・天帝などを意味する<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%A4%A9 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2014年、「皇天」の項。松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2014年、「皇天」の項。]</ref>。
 
<!--
 
また天皇は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる[[諡号]](おくり名)でもあった<ref>[http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 テキスト画像 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref><ref>[http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E9%83%A8/%E8%AB%A1%E8%99%9F][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref>。
 
 
 
歴代天皇は初代[[神武天皇]]から現在の[[明仁|今上天皇]]まで125代が挙げられる{{要出典|date=2017年10月}}。この125代のうちの2名は[[重祚]](一度[[譲位]]した天皇が再び即位すること)しているため、総数は123名となる{{要出典|date=2017年10月}}。さらに[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[北朝 (日本)|北朝]]で即位した天皇が5名いるため総数は128名である。<ref>『歴代天皇図鑑』肥後和男編 秋田出版 昭和50年{{要ページ番号|date=2017年10月}}
 
</ref>{{要ページ番号|date=2017年10月}}
 
 
 
[[女性天皇|女性の天皇]]も8人10代いる(2人[[重祚]]){{要出典|date=2017年10月}}。現在の[[皇室典範]]では女性は天皇になることはできない(第1条){{要高次出典|date=2017年10月}}。歴代天皇は全員[[皇統]]の男系天皇(父方の祖先が天皇)であり、[[女系天皇]](母のみが[[皇室の系図一覧|皇統]])は未だ存在しない。<ref>『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年{{要ページ番号|date=2017年10月}}</ref>{{要ページ番号|date=2017年10月}}
 
 
 
皇室典範の下では、天皇の[[親族]]のうち、[[皇后]]、[[皇太后]]、[[太皇太后]]ならびに嫡男系の[[嫡出]]の[[血族]](既婚の女子を除く{{要出典|date=2017年10月}}。すなわち、[[親王]]、[[内親王]]、[[王 (皇族)|王]]および[[女王 (皇族)|女王]])およびその[[配偶者]]([[親王妃]]および[[王妃 (皇族)|王妃]])を[[皇族]]という(皇室典範第5条、第6条){{要高次出典|date=2017年10月}}。天皇と皇族の全体を総称して[[皇室]]という<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/ 宮内庁 皇室]{{要高次出典|date=2017年10月}}</ref>{{要高次出典|date=2017年10月}}。
 
-->
 
 
 
== 皇位継承 ==
 
{{出典の明記|date=2017年1月}}
 
[[ファイル:Emperor Showa.jpg|200px|サムネイル|右|[[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月]]、[[即位の礼]]の[[昭和天皇]]。[[京都御所]]にて。]]
 
[[image:Emperor Akihito Daijōsai(1990).jpg|thumb|right|200px|1990年(平成2年)、[[大嘗祭]]]]
 
 
 
{{Main|皇位継承}}
 
 
 
[[皇位継承]]とは、[[皇太子]]などの[[皇位継承順位|皇位継承者]]が[[皇位]](天皇の位)を継承することである。皇位継承が[[世襲]]により行われることは、[[大日本帝国憲法]]においても[[日本国憲法]]においても明文で規定されており、詳細なルールは[[皇室典範]]において定められる。
 
 
 
== 憲法の規定 ==
 
[[日本国憲法]]と[[大日本帝国憲法]]における天皇の規定について説明する。
 
 
 
=== 日本国憲法における天皇 ===
 
{{Main|象徴天皇制}}
 
現在、天皇については[[日本国憲法第1章]]に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」([[日本国憲法第1条|第1条]])と位置づけられる。憲法の定める[[国事行為]]を除くほか、国政に関する権能を有しない。
 
 
 
=== 大日本帝国憲法における天皇 ===
 
{{Main|天皇制|天皇機関説}}
 
大日本帝国憲法においては、その[[大日本帝国憲法第1条|第1条]]で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、「元首」と規定されている。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する[[天皇主権|天皇主権説]]と立憲主義的に解釈する[[天皇機関説]]の争いがあった。
 
 
 
== 三種の神器 ==
 
{{出典の明記|date=2017年1月}}
 
{{main|三種の神器}}
 
[[ファイル:三神器.png|thumb|180px|三種の神器(イメージ)]]
 
[[日本神話]]において、[[天孫降臨]]の時に、[[ニニギ|瓊瓊杵尊]]が[[天照大神]]から授けられた[[神器]]。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、[[日本]]の歴代'''天皇'''が継承してきた三種の[[宝物]]。
 
 
 
天皇の[[践祚]]に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の[[形代]]を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、[[皇位]]継承と同時に継承される([[剣璽#剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)|剣璽等承継の儀]])。<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/word/word-sokui.html ご即位・立太子・成年に関する用語 宮内庁]</ref>
 
* [[八咫鏡]](→[[皇大神宮|伊勢神宮内宮]]の[[御神体]])
 
* [[八尺瓊勾玉]](→[[皇居]]の[[賢所]]に奉安)
 
* [[天叢雲剣|天叢雲剣 (草薙剣)]](→[[熱田神宮]]の御神体)
 
 
 
== 日本国外での天皇の呼称 ==
 
=== 英語における呼称 ===
 
天皇は、[[英語]]で「Emperor」、「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」または「{{lang|en|the Tenno}}」と称され、今上天皇を「{{lang|en|Now on the Emperor}}」または「{{lang|en|Now on the Tenno}}」と称される<ref>{{Cite web |author=[[Weblio]]|url=http://ejje.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E7%9A%87 |title=天皇 |publisher=Weblio |accessdate=2015-12-17}}</ref>。ただし、英語で公式に初めて「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」と称された人物は、[[江戸時代]]末期・[[幕末]]期当時で、[[孝明天皇]]ではなく、時の執権者の第十二代将軍[[徳川家慶]]であった{{efn|国立国会図書館レファレンス共同データベース 『大日本古文書 幕末外國関係文書 1 嘉永六年癸丑六月~七月』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1972)p238 - 251<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000088344]</ref><!--「114 耶蘇紀元1852年11月13日嘉永5年10月2日亜米利加合衆国大統領フイルモーア書翰嘉永6年6月9日使節より浦賀奉行へ差出我[[将軍]]へ 使節派遣の趣意に就て」の項に、大統領からの親書の内容が「漢文本書」「同和解」「蘭文和解」の3種で収録されている{{要検証|date=2017-08}}。-->}}。1852年の[[ミラード・フィルモア]][[アメリカ合衆国大統領]]の親書の宛て名には、「{{lang|en|His Imperial Majesty}}, {{lang|en|the Emperor of Japan}}」と記されている<ref>[http://afe.easia.columbia.edu/ps/japan/fillmore_perry_letters.pdf コロンビア大学Primary Source Document with Questions "LETTERS FROM U.S. PRESIDENT MILLARD FILLMORE AND U.S. NAVY COMMODORE MATTHEW C. PERRY TO THE EMPEROR OF JAPAN  (1852-1853)"]</ref>。かつて、「{{lang|en|Mikado}} 」([[みかど|帝、御門]])と一般的に称されていた時期もあった<ref name="Asakawa1903">Kanʼichi Asakawa. ''[https://books.google.com/books?id=K1MuAAAAYAAJ&pg=PA25 The early institutional life of Japan: a study in the reform of 645 A.D.]''. Tokyo: Shueisha (1903), p. 25. "We purposely avoid, in spite of its wide usage in foreign literature, the misleading term ''Mikado''. If it be not for the natural curiosity of the races, which always seeks something novel and loves to call foreign things by foreign names, it is hard to understand why this obsolete and ambiguous word should so sedulously be retained. It originally meant not only the Sovereign, but also his house, the court, and even the State, and its use in historical writings causes many difficulties which it is unnecessary to discuss here in detail. The native Japanese employ the term neither in speech nor in writing.  It might as well be dismissed with great advantage from sober literature as it has been for the official documents."</ref>。<!--
 
{{要出典範囲|[[日本語]]においては「天皇」と」「[[皇帝]]」とは明確に区別された異なる用語として使用されるが、英語においては「天皇」にも「皇帝」にも同じく「{{lang|en|(the) Emperor}}」という語が宛がわれている。[[宮内庁]]もウェブサイトの英語版では「{{lang|en|'''[[:en:Emperor|Emperor]]'''}}」を使用している。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は「{{lang|en|His Majesty}}」または「{{lang|en|His Imperial Majesty}}」である。略して「{{lang|en|H.M.}}」または「{{lang|en|H.I.M.}}」と記す場合もある。天皇は男性であるため(厳密には、歴史上複数の[[女性天皇]]も存在した)、「{{lang|en|Her Majesty}}」は原則として「[[皇后]]」(天皇の后)を意味するが、略号は天皇と同じく「{{lang|en|H.M.}}」である。|date=2017年1月}}
 
 
 
{{要出典範囲|「天皇皇后両陛下」と呼ぶ場合は、「{{lang|en|Their (Imperial) Majesties Emperor and Empress}}」となる。天皇に対する直接的呼びかけは一般的に「{{lang|en|Your (Imperial) Majesty}}」である。なお、天皇・皇后以外の[[皇族]]への尊称である'''[[殿下]]'''は「{{lang|en|His/Her Imperial Highness}}」であるが、この場合は「{{lang|en|Imperial}}」を省略できない。|date=2017年1月}}-->
 
=== 中国における呼称 ===
 
現在の[[中華人民共和国]]政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの「[[陛下]]」の[[敬称]]付で呼ばれるのが通常である<ref>{{cite web|url=http://www.fmprc.gov.cn/chn/pds/gjhdq/gj/yz/1206_25/xgxw/t473255.htm|title=胡锦涛主席会见日本首相福田康夫|accessdate=2009-12-13|author=[[中華人民共和国]]外交部|date=2008-07-09|language=[[中国語]]|deadlinkdate=2018年5月}}</ref>。
 
 
 
=== 朝鮮半島と天皇の呼称 ===
 
{{See also|日朝関係史|皇帝|日本国王}}
 
[[朝鮮半島]]の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の[[冊封国]]として存在しており、[[華夷思想]]では「天子」・「[[皇帝]]」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「[[倭国王]]」「[[日本国王]]」等の称号で呼んでいた。[[清]]の[[冊封体制]]から離脱し[[大韓帝国]]となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の[[韓国併合]]による[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国統治下]]では「天皇」の称号が用いられた。[[第二次世界大戦]]後、南北朝鮮独立後は[[英語]]で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「[[皇室]]」を「王室」、「[[皇太子]]」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し[[産経新聞]][[ソウル]]支局長[[黒田勝弘]]に拠れば、[[2006年]][[9月]]の[[悠仁親王]]誕生時、[[韓国日報]]を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという。<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/18461/]</ref>。
 
 
 
[[金大中]]は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては[[1998年]]から「天皇」の称号を使用するようになったが<ref name="chuounippo20090918">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100&sectcode=140|title=【コラム】「日王」と「天皇」の間|author=盧在賢|newspaper=[[中央日報]]|date=2009-09-18|accessdate=2009-12-13}}</ref>、次の大統領[[盧武鉉]]は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領[[李明博]]は「天皇」の称号を用いている<ref name="chuounippo20090918" />。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している<ref name="chuounippo20090918" /><ref>{{cite news|url=http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948|title=「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる|newspaper=東亜日報|date=2009-09-17|accessdate=2009-12-13}}</ref>。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている<ref name="chuounippo20090918" />。[[李明博]]は[[2009年]][[9月15日]]に[[インタビュー]]を受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた<ref>{{cite news|url=http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022|newspaper=[[朝鮮日報]]|language=[[朝鮮語]]|title={{lang|ko|이 대통령, 일본 천황 표현 논란}}(李大統領、日本天皇表現論議)|2009-09-16|accessdate=2009-12-13}} [http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fread.nhn%3Fmode%3DLSD%26mid%3Dsec%26sid1%3D100%26oid%3D023%26aid%3D0002083022&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+自動翻訳]</ref>。
 
 
 
== 称号の由来と歴史==
 
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
 
[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|thumb|120px|right|[[菊花紋章|十六弁八重表菊紋]]。天皇および[[皇族]]の御紋である。[[後鳥羽天皇]]の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]]
 
 
 
「天皇」号が成立したのは[[7世紀]]後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または[[持統天皇]]の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。戦前に[[津田左右吉]]が唱えた[[推古天皇]]期という説が、過去には有力だった。[[13世紀]]以降、「天皇」号の使用は一時廃れたが、[[19世紀]]初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
 
 
 
[[字音仮名遣]]では「てんわう」と表記する。「てんわう」が[[中世#日本|中世]]までに[[連声]]により「てんのう」に変化したとされる。
 
中国の唐の高宗は 「天皇」と称した。(上元元年(674年)八月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と為し、皇后を天后と為す」(巻八)とある。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の{{読み仮名|諡|おくりな}}が付けられた。(681年)中国ではこの時のみ天皇号が使われ、以後使われていない。
 
 
 
日本では「天皇」という文字は大和の法隆寺の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は推古天皇(在位592~628)の御代である。 又、推古天皇十六年(607年)隋の煬帝に遣わされた国書の中に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀に伝えてあり、我が国の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られる。いずれも日本の方が中国より早い時に用いており、これらから天皇の文字は我が国がつくり、用いた可能性が高い。
 
 
 
「天皇」という称号の由来には、紀元前に書かれた中国の淮南子に出てくる東海の海の島(日本)の義和(天照大神)の夫である天帝(天皇)である{{読み仮名|帝俊|スサノオ}}から来ているという説がある。実際に日本書紀は冒頭部分をこの淮南子から引用している。<ref>淮南子、[[日本書紀]]{{信頼性要検証|date=2017-01}}</ref>
 
 
 
{|class=wikitable
 
|+「天皇」の語と関連した語がある古い記録
 
!文書・銘 !! 年代 !! 抜粋 !! 出典 !! 現存
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[遣隋使]]国書|| nowrap="nowrap" | [[607年]]<!--{{efn|実際には607年成立ではなく少し後の[[白鳳時代]]([[645年]]から[[710年]])の作と考えられている。}} -->|| 日出處'''天子'''致書日沒處天子無恙 || [[隋書]](636年成立) ||
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺金堂<br>薬師如来像光背銘]]
 
| 607年 || 池辺大宮[[治天下大王|治天下'''天皇''']] || ||
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[隋]]への国書
 
| [[608年]] || 東'''天皇'''敬白西皇帝 || nowrap="nowrap" | [[日本書紀]](720年成立) || 日本書紀以外に記録がない。
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[法興寺]]丈六<br>[[釈迦]]像[[光背]]銘
 
| [[609年]] || 多知波奈土與比'''天皇''' || [[元興寺]][[伽藍]][[縁起]]<br>並流記資財帳<br>(746年成立) || 実物が失われている。
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[天皇記]]
 
| [[620年]] || nowrap="nowrap" | (書物の題名自体に「'''天皇'''」を含む) || [[日本書紀]] || 実物がない。<br>日本書紀以外に記録がない。
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[天寿国繍帳]]
 
| [[7世紀]] || 斯帰斯麻宮治天下'''天皇'''<br>悲哀嘆息白畏'''天皇'''前日啓 || [[上宮聖徳法王帝説]]<br>(成立年不明) ||かろうじて現存。<!--{{efn|天寿国繍帳は破損がひどく抜粋部分の「皇前日啓」などがかろうじて現存。全文は法王帝説に転記されている。7世紀より細かい成立年代に論争がある。問題の部分は後世に補修した部分であることがわかっているので、原形通りに復元されたのか文字の変更がなされていないのか確定できない。}}-->
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[野中寺|野中寺弥勒菩薩像]]
 
|[[666年]]
 
|栢寺智識之等詣中宮'''天皇'''大御身労坐之時
 
|[[野中寺]][[弥勒菩薩]]像銘文
 
|実物が存在。<!--{{efn|666年は[[天智天皇|中大兄皇子]]の[[称制]]期間のため天皇は空位であり、銘文の内容が事実に当てはまらない。そのため銘文の解釈に諸説ある。}}-->
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|[[木簡]]
 
| [[677年]] || '''天皇'''聚露忽謹 || [[飛鳥池工房遺跡]]出土 ||
 
|}
 
 
 
日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。
 
 
 
=== 天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物 ===
 
* [[唐]]の第三代皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]は、在位の途中の[[上元]]元年([[674年]])8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である[[則天武后]]によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
 
* 日本の第四十代[[天武天皇]]は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年([[677年]])12月には天皇号が使用されていた)。その孫の[[文武天皇]]の時、[[大宝律令]]で天皇の号が法制化され、[[天武天皇]]以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
 
* [[南漢]]の初代皇帝[[劉龑]]は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。
 
 
 
=== 天皇の称号を存命中に自ら付した歴史上の人物 ===
 
* [[太平天国]]の[[洪秀全]](在位1851-1864)は、在位中に「太平天皇」を自称した<ref>[https://books.google.com.hk/books?id=GZ_uBQAAQBAJ&pg=PT320&lpg=PT320&dq=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&source=bl&ots=Y8Ujo2uH8_&sig=ra5ngJwdj0Sj_gfEIjdkLkOq4uo&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiKgL-uz4LOAhUDkZQKHbdJCvoQ6AEIGjAA#v=onepage&q=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&f=false許嘯天著『清宮十三朝演義』]</ref> 。
 
* [[日本]]の[[明治天皇]](在位1867-1912)、[[大正天皇]](在位1912-1926)、[[昭和天皇]](在位1926-1989)、[[今上天皇]](在位1989-)は、[[大日本帝国憲法]]及び[[日本国憲法]]にしたがって自らに天皇の称号を付した。
 
 
 
=== 古代 ===
 
[[倭国]]では首長のことを、国内では[[治天下大王|大王]]「おおきみ」(治天下大王)あるいは[[天王]]と呼び、対外的には「倭王」「[[倭国王]]」「大倭王」等と称された{{efn|[[秦]]の[[始皇帝]]以来使用された「[[皇帝]]」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「[[王]]」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる<ref>『日本人の歴史教科書』、[[2009年]]、[[自由社]]、37頁、ISBN 978-4915237508</ref>。}}。
 
 
 
==== 訓読みの語源 ====
 
古い訓読みでは、'''すべらぎ'''(須米良伎)、'''すめらぎ'''(須賣良伎)、'''すめろぎ'''(須賣漏岐)、'''すめらみこと'''(須明樂美御德)、'''すめみまのみこと'''(皇御孫命)などと称した<ref name=kojien />。
 
 
 
「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、[[サンスクリット]]「{{lang|sa-Latn|sume:ru}}」([[須弥山]])と音韻・意味が一致し、[[モンゴル語]]「{{lang|mn-Latn|sümer}}」(須弥山)と同源であろうとしている{{要ページ番号|date=2017年8月}}。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、[[上代特殊仮名遣]]からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない<ref>[http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68627 国学院大学デジタル・ミュージアム - 皇神(すめかみ)]</ref>。
 
 
 
[[万葉集]]には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が「オオキミ」、5例が「スメロキ」と訓ませている。それぞれの文意の比較から、「オオキミ」は[[今上天皇]]、「スメロキ」は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても「スメロキ」と訓ませているため、過去の歴代天皇や[[皇祖神]]に対して用いられていることがわかっている<ref>[http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68630 国学院大学デジタル・ミュージアム - 皇祖神(すめろき)]</ref>。
 
 
 
=== 律令制での称号 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[律令制]]において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている。[[養老令]]の儀制令天子条において、祭祀においては「[[天子]]」、[[詔書]]においては「天皇」、[[中華思想|華夷]](「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「[[陛下]]」、[[譲位]]した後は「[[太上天皇]](だいじょうてんのう)」、外出([[大内裏]]の中での移動)時には「乗輿」、[[行幸]](大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「[[天子]]」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
 
 
 
死没は[[崩御]]といい、在位中の天皇は{{読み仮名|[[今上天皇]]|きんじょうてんのう}}と呼ばれ、崩御の後、[[謚|追号]]が定められるまでの間は{{読み仮名|[[大行天皇]]|たいこうてんのう}}と呼ばれる。配偶者は「[[皇后]]」。一人称は「[[日本語の一人称代名詞#朕(チン)|朕]]」。臣下からは「至尊」とも称された。
 
 
 
[[奈良時代]]、[[天平宝字]]6年に[[神武天皇]]から[[持統天皇]]までの41代、及び[[元明天皇]]・[[元正天皇]]の漢風諡号が[[淡海三船]]によって一括撰進された事が『[[続日本紀]]』に記述されている。この「諡号」とは、一人一人の名前であって、たとえば神武天皇といった時の前半の「神武」の部分が諡号である。後半の「天皇」という称号とは関係ない。
 
 
 
=== 中世 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[順徳天皇]](在位[[1210年]] - [[1221年]])以来、[[光格天皇]](在位[[1791年]] - [[1817年]])で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば[[後水尾天皇]]は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは[[明治維新]]後のことである<ref>渡辺浩、7 - 8頁。</ref>。
 
 
 
在位中の天皇は、帝、{{読み仮名|御門|みかど}}、{{読み仮名|[[禁裏]]|きんり}}、{{読み仮名|[[内裏]]|だいり}}、{{読み仮名|禁中|きんちゅう}}、{{読み仮名|[[御所]]|ごしょ}}などと呼ばれた。「みかど」とは本来、御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏・御所は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった[[婉曲法|婉曲表現]]である。[[陛下]](階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。
 
 
 
また、{{読み仮名|主上|おかみ|しゅじょう}}という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて[[朝廷]]、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらき、などとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「[[中宮]]」ともいうようになった。
 
 
 
今上天皇は「{{読み仮名|'''当今の帝'''|とうぎんのみかど}}」などとも呼ばれ、譲位した[[太上天皇]]は「上皇」と略称され、「[[仙洞]]」や「院」などともいった。[[出家]]すると[[太上法皇]](略称:法皇)とも呼ばれた。[[光格天皇]]が[[仁孝天皇]]に譲位して以後は事実上、[[明治]]以降は制度上存在していない。これは現旧の[[皇室典範]]が退位に関する規定を設けず、天皇の[[崩御]](死去)後に[[皇嗣]]が即位すると定めたためである。
 
 
 
=== 明治以降 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[ファイル:Meiji Kenpo03.jpg|thumb|大日本帝国憲法3頁目。[[明治天皇]]の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という[[御璽]]が捺印されている([[御名御璽]])。]]
 
[[大日本帝国憲法]](明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、[[外交]]文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。
 
 
 
{{Main|日本国皇帝}}
 
 
 
[[ファイル:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。]]
 
口語ではお上、{{読み仮名|主上|おかみ|しゅじょう}}、{{読み仮名|聖上|おかみ|せいじょう}}、{{読み仮名|当今|とうぎん}}、{{読み仮名|畏き辺り|かしこきあたり}}、{{読み仮名|上御一人|かみごいちにん}}、などの婉曲表現も用いられた。
 
 
 
また、天皇は[[日本軍|陸海軍]]([[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]])の[[統帥権]]を有することから「[[大元帥]](大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道する[[マスメディア]]等において用いられた。
 
 
 
=== 現在 ===
 
一部の出版物{{どこ|date=2016年11月30日 (水) 09:51 (UTC)}}においては、[[平成]]28年([[2016年]])[[明仁|現在の天皇]]に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。{{要出典範囲|しかし、[[明治天皇]]・[[大正天皇]]・[[昭和天皇]]の3代の「○○([[元号]])天皇」という呼称は、その天皇の[[崩御]]後に贈られた[[諡|追号]]であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また追号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇の崩御後に平成天皇という追号が贈られると確定している訳ではない。|date=2017年1月}}
 
 
 
憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、[[詔書]]や[[勲記]]、[[褒状]]などの文書においては「'''日本国天皇'''」の称号が用いられることもある<ref>{{cite press release|url=http://www.sumitomokenki.co.jp/news/070423.html|publisher=住友建機|title=米国ハリケーン「カトリーナ」被災者救援について日本国天皇より表彰されました|date=2007-04-23|accessdate=2011-05-05}}</ref>。
 
 
 
=== 天皇の配偶者の称号と通称 ===
 
{{要出典範囲|天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた([[皇后]]と[[中宮]])。天皇の配偶者は、当初は[[出自]]に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。最初に[[側室]]をもつことを意図的に否定したのは[[大正天皇]]で、これ以降皇室でも[[一夫一妻制]]が定着した。|date=2017年1月}}
 
{|class="wikitable"
 
!時期
 
!colspan="5" | 天皇の配偶者
 
|-
 
|[[大宝律令]]制定前
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|[[皇后|大后]]
 
|[[皇后|后]]
 
|&mdash;
 
|-
 
|大宝律令の制定 - [[平安時代]]初期
 
|rowspan="2" | [[皇后]]
 
|&mdash;
 
|[[妃]]
 
|[[妃|夫人]]
 
|[[妃|嬪]]
 
|-
 
|[[平安時代]]初期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]頃
 
|[[中宮]]
 
|rowspan="3" |[[女御]]
 
|[[更衣 (後宮)|更衣]]
 
|&mdash;
 
|-
 
|南北朝時代 - [[江戸時代]]初期
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|[[上臈]]
 
|rowspan="3" |[[典侍]]
 
|-
 
|[[江戸時代]]初期 - [[明治維新]]
 
|&mdash;
 
|中宮
 
|&mdash;
 
|-
 
|[[明治天皇]]
 
|rowspan="2" |皇后
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|-
 
|[[大正天皇]]から現在
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|&mdash;
 
|}
 
 
 
=== 姓氏 ===
 
天皇は[[氏姓制度|氏姓]]および[[名字]]を持たないとされる。
 
{{See also|皇室#氏・姓・名字}}
 
 
 
== 天皇と宗教 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
 
=== 神道との関係 ===
 
{{See also|神道|宮中祭祀}}
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[image:Takachiho-gawara Kirishima City Kagoshima Pref02n4050.jpg|thumb|210px|[[天孫降臨]]の舞台・[[高千穂河原]]]]
 
[[image:Oka Misanzai Kofun, haisho.jpg|thumb|210px|[[仲哀天皇]]陵([[岡ミサンザイ古墳]])]]
 
[[image:Naiku 05.jpg|thumb|210px|[[皇室]]の祖先神を祀る[[伊勢神宮]]・[[内宮]]]]
 
神道は日本古来の宗教である。[[古代]]の日本は[[祭政一致]]であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。[[仏教]]が伝来した後の[[用明天皇]]は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は[[天武天皇]]の[[大宝律令]]などで定められてゆき、[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて、天皇は[[新嘗祭]]などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る[[伊勢神宮]]に[[斎宮]]を遣わし、[[延喜式神名帳|延喜式]]に定められた神社などに[[奉幣]]を供えた。[[鎌倉時代]]の[[順徳天皇]]は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[後柏原天皇]]などは[[大嘗祭]]を執り行えなかった。[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]の要求と金銭補助の下、[[徳川家]]の神格化を目的とする[[日光東照宮]]への奉幣なども行われた。[[明治時代]]になると、神道は[[国家神道]]となり、[[神武天皇]]を祭る[[橿原神宮]]、[[桓武天皇]]を祭る[[平安神宮]]、[[明治天皇]]を祭る[[明治神宮]]などが創建され、戦前戦中の[[昭和天皇]]は[[現人神]]として崇拝された。戦後は[[政教分離]]となり国家神道は廃止され、昭和天皇は[[人間宣言]]により自らの神格化を否定した。現在は[[宮中祭祀]]として[[新嘗祭]]や[[四方拝]]などが執り行われ、[[皇女]]が[[伊勢神宮]]の[[祭主]]となり、[[皇室]]の私費により各地の神社へ奉幣が行われている。[http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html]
 
 
 
=== 仏教との関係 ===
 
{{See also|日本の仏教}}
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[image:Horyu-ji45s2s4500.jpg|thumb|200px|法隆寺]]
 
『[[日本書紀]]』によると[[552年]]に[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が[[欽明天皇]]に献上され[[仏教]]が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の[[蘇我氏]]と反対側の[[物部氏]]との間で可否を巡って対立し始め、[[用明天皇]]の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である[[聖徳太子]]により[[法興寺]]や[[法隆寺]]が建立され[[儒教]]や[[仏教]]の思想が反映された[[十七条憲法]]が作られるなどし、皇室は[[仏教]]と深い繋がりを持っていく。
 
 
 
また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、[[天武天皇]]は[[大官大寺]]、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建立するなどし、[[聖武天皇]]の代に入ると[[鎮護国家]]という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために[[国分寺]]を各地に作り、[[東大寺]]が建立される。
 
 
 
[[平安時代]]に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが[[桓武天皇]]により[[平安京]]への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために[[空海]]と[[最澄]]を遣唐使とともに[[唐]]に送り[[密教]]を学ばせ、空海は[[真言宗]]、最澄は[[天台宗]]を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また[[白河天皇]]を始めとする天皇が譲位後に[[出家]]し、[[法皇]]と名乗る事も多くなる。
 
 
 
その後、[[江戸時代]]までは[[仏教]]とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。[[1871年]]([[明治4年]])までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の[[位牌]]があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、[[明治]]時代に入ると明治政府の神道重視の政策により[[廃仏毀釈]]が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の[[泉涌寺]]にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。
 
 
 
=== 職能神・芸能神との関係 ===
 
天皇という王は、本来[[自然]]の領域に属する超越性を人間社会内へ奪取する媒介者の働きをしており、その多義性は宗教や[[儀礼]]、技芸の神にまつわっている<ref>{{Cite book|和書|author=中沢新一|year=2003|title=精霊の王|page=210-211|publisher=講談社}}</ref>。天皇と[[職人]]とには、内密な関係が見られる。[[金春禅竹]]が『明宿集』で語るところによると、[[芸能]]や職人の[[守護神]]である[[宿神]]([[翁]])は、宇宙の中心、[[王の中の王]]であると諸職の民によって考えられていた。これは、[[大蛇]]([[自然]])の力から[[剣]]([[レガリア]])を取り出す[[スサノオ]]のように、宿神が荒々しい自然から[[美]]や[[富]]を人間の[[社会]]に持ち込む離れ業を演じる[[霊]]であったことによるという。すなわち天皇の権力は、芸能者や職人の日々行う[[業]]と似通った性格となっている<ref>中沢新一、前掲書、211-212頁。</ref>。
 
 
 
『明宿集』は、[[星宿]]神を[[北極星]]とし、「翁」を宿神と呼ぶことは[[太陽]]・[[月]]・[[星宿]]の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王を[[鳥]]に喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている<ref>中沢新一、前掲書、328-329頁。</ref>。また、[[本地垂迹]]はすべて本体は一つであり、不増不減、常住不滅の一つの神に集約されるともいう<ref>中沢新一、前掲書、322頁。</ref>。『明宿集』の末尾では、翁とは日月星宿がすべての人の[[心]]に宿ったものであり、俗体は翁の化身であり、それを知っていると知らないとの違いがあると説かれている<ref>中沢新一、前掲書、352頁。</ref>。
 
 
 
天皇は、律令制という合理的制度が導入された以後も、自然の内奥との深い結び付きを主張する王の宿神的身体(翁的身体)を、あるいは「王の[[熊]]の身体」を、様々な宗教儀礼や神話的観念を通して維持しようとしてきた<ref>中沢新一、前掲書、316頁。</ref>(神や[[カムイ]]という言葉は、[[熊]]や[[狼]]のような強力な[[森]]の住人を指していた<ref>中沢新一、前掲書、258頁。</ref>)。特に古代的天皇の復活を目指した[[後醍醐天皇]]による[[建武の中興]]では、[[密教]]の道具立てを使って、自然の内奥から超越的主権を取り出してくる異形の王としての天皇、という大規模な演出まで試みられた。[[網野善彦]]の『異形の王権』はこの問題を主題としている<ref>中沢新一、前掲書、316頁。</ref>。
 
 
 
== 天皇の歴史 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
 
『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、[[学問]]上確定できないとしている。『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、[[皇統譜]]で[[神武天皇]]を第一代とし[[弘文天皇]]を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。[[継体天皇]]と[[安閑天皇]]・[[宣化天皇]]との両朝併立を推定する学説を除いても、[[後鳥羽天皇]]と[[安徳天皇]]は一時期相並んで天皇とされており、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[光明天皇|光明]]・[[崇光天皇|崇光]]・[[後光厳天皇|後光厳]]・[[後円融天皇|後円融]]・[[後小松天皇|後小松]](南北合体以前)各天皇と、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇|長慶]]・[[後亀山天皇|後亀山]]各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた<ref name=kokushi>{{Cite book|和書|author=家永三郎|title=国史大辞典|year=2015|publisher=JapanKnowledge|page=「天皇」の項}}</ref>。
 
 
 
大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される。[[王朝交替説#崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)|三輪王朝]]・[[河内王朝]]など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を[[応神|応神天皇]]の子孫とする系譜の信用性を疑う学説もある。[[6世紀]]初頭の[[武烈天皇]]の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。皇位継承の資格は[[父系]]血族であれば足り、[[傍系]]や[[女性]]で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した[[制度]]や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、[[8世紀]]以後は天皇生前の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。[[天武天皇]]が内乱([[壬申の乱]])の勝者として、先帝[[天智天皇]]の子[[弘文天皇|大友皇子]]を倒して天皇となった例や、[[淳仁天皇]]・[[陽成天皇]]・[[仲恭天皇]]のように、それぞれ[[太上天皇]]・[[摂政]]・[[幕府]]の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・[[光厳天皇]]の交替、南北両朝への分裂のように、武力[[抗争]]に基づく非常事態の発生もある<ref name=kokushi/>。
 
 
 
天皇がいつどのように成立したかは、現在の[[学界]]では[[学説]]が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす[[大王]]が遅くとも[[5世紀]]にはのちの[[畿内]]の地の政権の[[首長]]として存在したこと、その後、[[7世紀]]にかけて勢力圏を拡大し、はじめは[[毛野]]・[[吉備]]・[[出雲]]・[[筑紫]]その他の各地政権と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から[[8世紀]]初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている。『古事記』『日本書紀』が伝える物語は、歴史的事実や慣行習俗をいくらか反映しているにせよ、その基本構想は大王政権が君主の地位を得た後に、その支配権を正当化するため造作され、[[記紀]]成立まで潤色が重ねられたこと、神武天皇が[[日向]]から[[大和]]に入り、その地の支配者を破って第一代の帝位についたという[[説話]]もまた、「[[神代]]」の延長線上に造られた[[物語]]であること、[[綏靖|綏靖天皇]]から[[開化|開化天皇]]までの[[欠史八代|八代]]は、その[[名号]]・[[相続]]方式などから実在の人物と認めがたいこと、以上は「現在の[[学界]]でほぼ共通の[[認識]]」とされている<ref name=kokushi/>。
 
[[ファイル:Emperor Jimmu.jpg|thumb|200px|right|[[神武天皇]][[版画]]。[[月岡芳年]]作]]
 
[[File:Family tree of the imperial house of japan.png|thumb|200px|right|天皇の系図]]
 
 
 
=== 神代と天皇の発祥 ===
 
[[皇室]]の系図は『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年([[紀元前660年]])に即位した[[神武天皇]]、更にはその始祖である[[天照大神|天照大御神]]に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする[[神武天皇紀元]](皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は[[天武天皇]]の勅命により編纂されたものであり、[[歴史学]]的に証明の難しい[[神話]]・[[伝説]]などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に[[欠史八代]]の天皇については、古代[[中国]]の[[革命]]思想([[讖緯説]])に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、[[ヤマト王権]]の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた[[古墳時代]]辺り迄である。
 
 
 
[[3世紀]]中葉以降に見られる[[前方後円墳]]の登場は[[日本列島]]における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、[[弥生時代]]の[[近畿地方]]にあった場合の[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は[[4世紀]]に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。{{要出典|date=2017年1月}}
 
 
 
=== 古代の天皇 ===
 
==== 倭の五王 ====
 
[[ファイル:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|150px|サムネイル|左|[[漢]]より[[印綬]]されたとされる[[倭奴国王印]]]]
 
{{Main|倭の五王}}
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
中国の史書における倭王の最古の記述は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[宋 (南朝)|劉宋]]王朝に朝貢した「[[倭]]」の王たちである。中国の史書『[[宋書]]』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、[[5世紀]]に冊封された'''倭の五王'''(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→[[履中天皇]]、「珍」→[[反正天皇]]、「済」→[[允恭天皇]]、「興」→[[安康天皇]]、「武」→[[雄略天皇]]等に比定する説や[[仁徳天皇]]・[[履中天皇]]から[[雄略天皇]]までの天皇に比定する諸説がある。
 
 
 
これら五王は、[[朝貢]]の見返りに、中国王朝から「'''倭国王'''」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて(百済以外の)[[朝鮮半島]]における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、[[熊本県]]と[[埼玉県]]の[[古墳]]から出土した[[鉄剣・鉄刀銘文]]に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風[[諡]]号とする)、「治[[天下]]大王」または「{{読み仮名|[[大王 (ヤマト王権)|大王]]|おおきみ}}」が用いられていたと考えられている。
 
 
 
『宋書』には、次のような倭王・武の[[上表文]]<!--{{efn|「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節{{要出典|date=2017-08}}」}}-->が引用されている。
 
 
 
{{Quotation|皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
 
 
 
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
 
 
 
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
 
 
 
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
 
 
 
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。<ref>井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』 [[中央公論新社]]、[[2005年]]、ISBN 978-4122045477</ref>}}
 
 
 
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、[[記紀]]の記述通りの「[[万世一系]]」ではなく、[[倭国]]内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、[[雄略天皇]]の子の[[清寧天皇]]には後嗣がなく、[[履中天皇]]の孫である[[仁賢天皇]]・[[顕宗天皇]]が皇位を継いだとされているが、実際は皇位[[簒奪]]ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。
 
 
 
また、[[仁賢天皇]]の子の[[武烈天皇]]も跡継ぎがなく、[[応神天皇]]の5世孫とされる[[継体天皇]]が皇位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、皇統交代があったとする説もある。
 
 
 
しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『[[日本書紀]]』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が大王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で大王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。
 
 
 
==== 以降 ====
 
{{要出典範囲|不安定な基盤に乗っていた皇統が確立したのが継体天皇の皇子である[[欽明天皇]]の頃([[6世紀]]中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、[[7世紀]]初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。|date=2017年1月}}
 
 
 
この時期、[[隋]]の[[煬帝]]に対して「天子」と自称した<ref>「日出處天子致書日没處天子無恙云云」 -- 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國</ref>と『[[隋書]]』に見える。
 
 
 
=== 大化の改新から摂関政治まで ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
天皇を中心とした[[国家]]の枠組みが整い始めたのは、[[大化の改新]]からさらに4半世紀経った[[天武天皇|天武朝]]以後である。[[大化の改新]]によって後の[[天智天皇]]である中大兄皇子が実権を握って以降、中国([[唐]])の法令体系である[[律令]]を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、[[天武天皇]]及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた[[柿本人麻呂]]らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。
 
 
 
[[律令制]]下で天皇は[[太政官]]組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
 
 
 
しかし、[[平安時代]]初期の[[9世紀]]中後期頃から、[[藤原北家]]が天皇の行為を代理・代行する[[摂政]]・[[関白]]に就任するようになった。特に[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])に[[即位]]した[[清和天皇]]はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を[[摂関政治]]という。
 
 
 
摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家([[摂家|摂関家]])が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の[[外戚|外祖父]](母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。
 
 
 
もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、[[関東]]では[[桓武天皇]]5代の[[皇胤]][[平将門]]が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の[[国司]]と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、[[朝廷]]の任命した[[国司]]を追放し、関東7か国と[[伊豆国|伊豆]]に自分の国司を任命した([[承平天慶の乱#平将門の乱|平将門の乱]])。
 
 
 
これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は[[朱雀天皇]])を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の[[武士]]たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
 
 
 
=== 院政期 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[ファイル:Emperor_Go-Toba.jpg|thumb|200px|right|[[後鳥羽天皇]]図]]
 
平安後期に即位した[[後三条天皇]]は、[[摂家|摂関家]]を[[外戚]]に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、[[記録荘園券契所]]の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。
 
 
 
後三条天皇の子息の[[白河天皇]]は自らは退位して子息[[堀河天皇]]・孫[[鳥羽天皇]]をいずれも幼少で[[即位]]させた。これは、父[[後三条天皇]]の遺志に反し、異母弟の[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]と[[輔仁親王]]を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に[[朝廷]]における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。
 
 
 
この[[院政]]の展開により、[[摂家|摂関家]]の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの[[貴族]]たちと私的に主従関係を結び、[[治天の君]](事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った[[摂関政治]]よりもいっそう強固なものであった。
 
 
 
治天の君は、自己の軍事力として[[北面武士]]を保持し、[[平氏]]や[[源氏]]などの[[武士]]とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、[[平氏政権]]の誕生や源氏による[[鎌倉幕府]]の登場につながった。政治的には、院政期に[[権門勢家]]が国家からの自立の度合いを深めるに従い、[[皇室]]という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった[[超越]]者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。[[仏法]]に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、[[後白河天皇]]のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。[[即位灌頂]]により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、[[仏教]]の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。
 
 
 
[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]はさらに[[西面武士]]を設置したが、[[承久の乱]]の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
 
 
 
時に、[[両統迭立]]の時代になると、[[神孫為君]]の論理に安住出来なくなり、[[徳治]]と善政を標榜するようになる。[[花園天皇]]は「'''皇胤一統'''」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の[[涵養]]を力説している。また同じく[[儒教]]精神から、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]のように『[[承久記]]』や『[[六代勝事記]]』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた[[易姓革命]]思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。
 
 
 
院政はこの後[[江戸時代]]まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[後円融天皇|後円融院政]]までの約250年間とされている。後円融上皇の[[崩御]]後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も[[足利義満]]の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、[[貴族]]たちも多くは[[室町殿]]と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
 
 
 
=== 鎌倉・室町時代 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[ファイル:Gekko Emperor Godaigo.jpg|thumb|300px|left|[[後醍醐天皇]]図]]
 
[[中世]]の国家体制については、一般的には天皇・[[公家]]の後退と[[武家]]の伸張によって特徴付けられるが、[[公家]]と[[武家]]が両々相俟って国家を維持したとする[[権門体制|権門体制論]]も提出されているなど学説も多様である。[[荘園 (日本)|荘園]]制の普及にもかかわらず律令体制下の公領([[国衙]]領)がなお根強く残されていたことから、[[鎌倉幕府]]の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。
 
 
 
しかし承久の乱(承久3年([[1221年]]))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、[[元寇|蒙古襲来]]に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため[[公家]]の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分裂し、さらにおのおのが再分裂した([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])。
 
 
 
鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の[[後醍醐天皇]]による天皇親政([[建武の新政]])が試みられたが、[[二条河原の落書]]が風刺した世相の混乱もあり、[[足利尊氏]]の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて[[南北朝時代 (日本)|南北両朝]]が並立し、[[足利将軍家|足利]]方の[[北朝 (日本)|北朝]]が[[南朝 (日本)|南朝]]を吸収することで収拾された。なお、はるか後の[[明治]]時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論([[南北朝正閏論]])が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。
 
 
 
また、[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]は、自分の子[[足利義嗣|義嗣]]を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍[[足利義持|義持]]が固辞しており、真相は定かではない。
 
 
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[京都]]での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力[[戦国大名]]や[[織田政権]]・[[豊臣政権]]が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[江戸時代]]においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の[[石高]]は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また[[禁中並公家諸法度]]により、その言動も幕府から厳しく制限された。
 
 
 
しかしながら公家は実権は失っていたものの[[茶道]]・[[俳諧]]等の文化活動においてその[[嫡流]]たる天皇の権威高揚に努め、天皇は[[改元]]にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や[[大名]]の[[官位]]も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
 
 
 
江戸時代後期には[[光格天皇]]が父親の[[閑院宮典仁親王]]に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の[[松平定信]]と衝突する[[尊号一件]]と呼ばれる事件が発生した。
 
 
 
しかし[[18世紀]]後半から、[[征夷大将軍]]の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする[[大政委任論]]が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が[[幕末]]の[[尊皇攘夷運動]]へと繋がった。
 
 
 
=== 明治維新 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[ファイル:The Emperor Komei.jpg|thumb|150px|right|[[孝明天皇]]]]
 
[[幕藩体制]]が揺らぎ始めると、[[江戸幕府]]も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、[[朝廷]]に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は[[孝明天皇]]である。
 
 
 
このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、[[公武合体]]により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、[[薩摩]]・[[長州]]を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して[[大政奉還]]を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見]]で[[官軍]]と衝突し、内戦となった。
 
 
 
その過程で[[北海道]][[函館]]では、[[榎本武揚]]らによって一時[[共和制]]が宣言される(「[[蝦夷共和国]]」)。「蝦夷共和国」は[[選挙]]によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。
 
 
 
[[戊辰戦争]]を通じて倒幕に成功した[[大久保利通]]らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の[[太政官]]制度によって運営した。しかし[[征韓論]]政変によって[[参議]]から下野した[[板垣退助]]らが[[自由民権運動]]を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は[[大日本帝国憲法]]を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
 
 
 
これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った[[立憲君主制]]に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された[[皇室典範]]は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。
 
 
 
なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制および皇室というしくみ自体を指して、現在は一般にも学術的にも「[[天皇制]]」が広く用いられており、通常「[[王制]]」あるいは「[[君主制]]」などと同様の性質を持つ用語として扱われる。そのいっぽう、この言葉を最初に使いはじめたのが[[コミンテルン]]であるという説から、反共的な政治思想を持つ立場からは使用を忌避されることがある。戦前は[[国体]]と称された。
 
 
 
一方、海外から見た別の視点もある。権力が将軍制度に移ってから[[1868年]]までの間、世に知れずに続いてきた貧困な皇族は、薩長土肥が武装反乱を正当化するために、「日本の天皇は神」という[[8世紀]]の神話の再興によってその革命政権の表看板になった。そして、現人神としての天皇が強調され、新しい公立学校教育システムの核として思想教化されていった。<ref>[http://time.com/3993973/emperor-hirohito-myths/  Francis Pike "5 Myths About Emperor Hirohito"''[[タイム (雑誌)|タイム]]'' 2016年7月30日閲覧]</ref>
 
 
 
[[ファイル:Meiji Emperor.jpg|thumb|200px|明治天皇]]
 
[[1898年]]([[明治]]31年)には、第一次[[大隈重信]]内閣の[[文部大臣 (日本)|文部大臣]][[尾崎行雄]]が、ある教育会の席上で藩閥勢力の[[拝金主義]]を攻撃した演説で「日本で[[共和制]]が実施されれば、[[三井財閥|三井]]・[[三菱財閥|三菱]]は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた([[共和演説事件]])。その背景には反大隈勢力の[[桂太郎]]派の画策があったと言われるが、後任の文相には[[犬養毅]]が任命された。
 
 
 
[[1901年]](明治34年)[[4月29日]]、[[昭和天皇|裕仁親王]](のちの昭和天皇)が誕生。
 
 
 
[[1911年]](明治44年)には[[大逆事件]]が生じ、時の政権から[[社会主義]]者弾圧の口実に使用され、[[明治天皇]]を暗殺しようとしたとして[[幸徳秋水]]ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。[[徳冨蘆花]]は、「[[謀反]]論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、[[石川啄木]]は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、[[永井荷風]]はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。
 
 
 
=== 大正 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
その後、2度にわたる[[護憲運動]]を経て、[[大正デモクラシー]]と言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、[[天皇制|君主制]]を[[自由主義]]的に解釈する[[吉野作造]]の[[民本主義]]なども現れた。
 
[[ファイル:Emperor Taishō.jpg|サムネイル|左|[[大正天皇]]]]
 
しかし、[[1925年]](大正14年)には[[普通選挙法]]と同時に[[治安維持法]]が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。
 
 
 
=== 昭和 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[1933年]]([[昭和]]8年)[[12月23日]]、[[昭和天皇]]初の皇男子である[[明仁|明仁親王]](のちの第125代[[今上天皇]])が誕生。
 
 
 
[[1935年]](昭和10年)、[[美濃部達吉]]はそれまで学会で主流だった[[天皇機関説]]を主張したことで[[貴族院 (日本)|貴族院]]で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。
 
 
 
[[世界恐慌]]の後、[[五・一五事件]]、[[二・二六事件]]を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。[[大日本帝国憲法|明治憲法]]において軍の[[統帥権]]は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し[[満洲事変]]等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え[[軍部大臣現役武官制]]や統帥権干犯問題、[[国体明徴声明]]を通じて勢力を強めていく。
 
 
 
この頃には、[[津田左右吉]]らの日本古代史学者が、[[神話]]は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])時であり、[[1938年]](昭和13年)の[[国家総動員法]]が発令された頃より、'''[[現人神]]'''と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。
 
 
 
==== 第二次世界大戦終結後 ====
 
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
 
[[ファイル:Macarthur hirohito.jpg|thumb|200px|right|昭和天皇(右)と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の会見で([[1945年]](昭和20年)[[9月27日]])。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。]]
 
[[第二次世界大戦]]の終戦後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]] (UN) の間では天皇を、[[枢軸国]]の[[国家元首]]として処罰し、[[天皇制|君主制]]を廃止すべきだという意見([[天皇制廃止論]])が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても君主制を存続させたが、国家元首としての地位は[[日本国憲法]]に明記させていない。
 
 
 
これと似たような例があり、ベルギーの場合[[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]は対独戦での敗戦の責任を追及されて国王支持派と反国王派に分かれたため、国家の分裂を避けて君主制を維持するため[[ボードゥアン1世 (ベルギー王)|ボードゥアン1世]]に王位を継承した。しかし日本の皇室との最大の違いは在命中に退位した事である。
 
 
 
[[ファイル:Hirohito in dress uniform.jpg|サムネイル|左|昭和天皇]]
 
 
 
[[昭和天皇の戦争責任]]についても追及すべきとの意見が強くあったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書を策定した。また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、[[津田左右吉]]なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。天皇の廃位を唱える見解や[[昭和天皇]]の退位と高松宮を摂政として皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を昭和天皇の弟の[[三笠宮崇仁親王]]、要人では[[近衛文麿]]・[[木戸幸一]]・[[南原繁]]・[[佐々木惣一]]・[[中曽根康弘]]が唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である[[吉田茂]]<!--{{efn|『自省録・歴史法廷の被告として』によると中曽根康弘が天皇退位を述べると吉田は「昭和天皇はこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」と反発した{{要ページ番号|date=2017年8月}}。}}-->と[[ダグラス・マッカーサー]]の強い反対で撤回した。マッカーサーは[[駐日英国大使|駐日イギリス大使]]アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた<ref>工藤美代子「マッカーサーが阻止した天皇『退位』工作」「[[産経新聞]]」[[1988年]][[6月4日]]付。</ref>。
 
 
 
天皇退位論への反応は天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった<ref>世論調査:([[1948年]][[8月15日]][[読売新聞]])</ref>。
 
 
 
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「[[御真影]]」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。
 
[[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]、新日本建設に関する詔書(いわゆる'''[[人間宣言]]''')が官報により発布された。詔書の冒頭において[[五箇条の御誓文]]を掲げており<ref name="hahanaru">[[ベン=アミー・シロニー]]、312-314頁(第8章『謎多き武人天皇』、21『天照の末裔と神の子イエス』、「神道指令」と「人間宣言」)</ref><ref>{{cite journal|author=Amino, Y.; Yamaguchi, M.|title=The Japanese Monarchy and Women|pages=p.57|journal=JAPAN ECHO - JAPAN'S CRISIS|year=1999|volume=26|issue=1|url=http://www.japanecho.co.jp/sum/1999/b2601.html}}</ref>、[[1977年]](昭和52年)[[8月23日]]の[[昭和天皇]]の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった<ref name="hahanaru"/><ref>{{cite book|author=[[甘露寺受長]]|title=Hirohito: An Intimate Portrait of the Japanese Emperor|pages=p.108|isbn=978-0914594048|publisher=Harpercollins|edition=1st}}</ref><ref>[[甘露寺受長]]、207頁</ref>。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない<ref name="hahanaru"/>。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された<ref name="hahanaru"/>。[[1946年]](昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった<ref name="hahanaru"/>。
 
 
 
昭和天皇はその後、日本全国各地への[[行幸|'''巡幸''']]を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、[[1947年]](昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった([[日本の国旗|国旗]]の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。([[昭和天皇#行幸]])。
 
 
 
== 日本国憲法下の天皇の法的地位 ==
 
=== 国籍 ===
 
<!-- 要出典・独自研究の疑い 日本国には、次の通り、天皇の国籍を明記した憲法も法律もない。
 
 
 
[[日本国憲法]]第十条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあり、それを、[[国籍法]]第一条で「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」と受けている。その[[法律]]に、天皇が[[日本国籍]]を有する要件であるところの[[日本国民]]であるという記載は無い。また、日本国の[[国籍法]]第四条では、同法に従って[[日本国籍]]を取得している[[日本国民]]に対して、[[日本国民]]でない者(以下「[[外国人]]」)と定めている。これらを根拠に天皇の国籍を明記した憲法も法律もないとしている出典は? -->
 
 
 
研究者による憲法論においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「[[主権|主権者]]としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある<ref>憲法(1) 第3版([[有斐閣]])野中俊彦 中村睦男 高橋和之 高見勝利 216頁 / 憲法 新版補訂版([[岩波書店]])芦部信喜 86頁 / 憲法学(2)人権総論([[有斐閣]])芦部信喜 106頁 115頁 / 憲法 第3版([[弘文堂]])伊藤正己 199頁 / 憲法 第3版([[青林書院]])佐藤幸治 415頁 / 体系・戸籍用語辞典([[日本加除出版]])114頁</ref>。[[記帳所事件]]における1989年(平成元年)7月19日の東京高裁判決では「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」と判断されている。
 
 
 
=== 天皇に対する裁判権 ===
 
{{Main|皇室裁判所}}
 
刑事裁判権については、皇室典範第21条が「[[摂政]]は、その在任中、訴追されない」と規定することから、いわゆる勿論解釈として、天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。
 
 
 
民事裁判権については、1989年(平成元年)11月20日の記帳所事件における最高裁判決で{{quote|天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである}}としている。
 
 
 
== 天皇と世界各国 ==
 
{{複数の問題|精度=2017年2月|一次資料=2017年2月|section=1}}
 
[[ファイル:Laura Bush Asia Trip 2002 01.jpg|thumb|right|[[明仁|天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]と米国の[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ大統領]]夫妻(2002年)]]
 
[[ファイル:Empress Sadako with Prince of Wales in 1922.jpg|thumb|[[1922年]](大正11年)、英国の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード王太子]]の訪日時、皇太子([[摂政|摂政宮]][[昭和天皇|裕仁親王]])、[[貞明皇后]]とともに]]
 
天皇の外国訪問は[[国事行為の臨時代行に関する法律]]が整備されておらず長年実現されていなかったが、[[1971年]](昭和46年)、[[昭和天皇]]が天皇として初めて[[外遊]]し、イギリスや[[オランダ]]、[[スイス]]など[[ヨーロッパ]]諸国7カ国を訪問した。[[1975年]](昭和50年)には、当時の大統領[[ジェラルド・R・フォード]]の招待により、天皇として初の[[アメリカ合衆国]]公式訪問をした。[[明仁|第125代今上天皇]]も1991年(平成3年)に[[タイ王国]]などを訪問したのを始め、年に1、2回のペースで海外訪問している。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。[[1956年]](昭和31年)に[[エチオピア帝国|エチオピア皇帝]]の[[ハイレ・セラシエ1世]]、[[1957年]](昭和32年)に[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相、[[1958年]](昭和33年)に[[インドネシア]]の[[スカルノ]]大統領、[[1960年]](昭和35年)に[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]西独[[首相]]の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった<ref>ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』378頁(第9章「母性的君主への回帰」、22「性と死―天皇への愛憎」、「日本は君主制の国か」)。</ref>。
 
 
 
[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]の際には、世界の163か国の国家[[元首]]や[[首脳]]と17の[[国際機関]]の関係者が参列に訪れた。[[ベルギー]]・[[ブータン]]・[[ブルネイ]]・[[ヨルダン]]・[[レソト]]・[[ニジェール]]・[[トンガ]]の[[国王]]、[[バングラデシュ]]・[[ブラジル]]・[[ブルンディ]]・[[ジブチ|ジブティ]]・[[エジプト]]・[[フィジー]]・[[フィンランド]]・[[フランス]]・[[ガンビア]]・[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]・[[ギリシャ]]・[[ホンデュラス]]・[[アイスランド]][[インド]]・[[インドネシア]]・[[アイルランド]]・[[イスラエル]]・[[イタリア]]・[[ケニア]]・[[モルディヴ]]・[[ミクロネシア連邦]]・[[ナイジェリア]]・[[パキスタン]]・[[フィリピン]]・[[ポルトガル]]・[[スペイン]] ・[[スワジランド]]・[[トーゴ]]・[[テュニジア]]・[[トルコ]]・[[ウガンダ]]・[[タンザニア]]・[[アメリカ合衆国]]・[[ヴァヌアツ]]・[[ザイール]]・[[ザンビア]]の[[大統領]]・[[首相]]、[[国際連合]]の[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|事務総長]]が参列した。{{信頼性要検証|date=2018-08}}<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1989/h01-shiryou-5.htm 5. 「昭和天皇大喪の礼」に参列した国及び国際機関の代表]{{信頼性要検証|date=2018-08}}<!--「Wikipedia:信頼できる情報源」により、公的機関は信頼性が高くない情報源として規定されています。例えば「政府の信頼性のレベルには大きな幅があり、しばしば、あからさまに情報の隠蔽を許容したり、全くのごまかしを発表したりする様な事を行って、自らの権益を保持することがあります」とされています--></ref>
 
 
 
== 天皇と組織 ==
 
{{複数の問題|精度=2017年2月|一次資料=2017年2月|section=1}}
 
=== 宮内庁 ===
 
{{main|宮内庁}}
 
'''[[宮内庁]]'''<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁公式ホームページ]</ref>(くないちょう、{{lang-en|Imperial Household Agency}})は、[[日本の行政機関]]の一つである。[[皇室]]関係の国家事務、'''天皇'''の[[国事行為]]にあたる[[外国]]の[[大使]]・[[公使]]の接受に関する事務、[[皇室の儀式]]に係る事務をつかさどり、[[御璽]]・[[国璽]]を保管する[[内閣府]]の機関である。所在地は[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番1([[皇居]]内・坂下門の北側)。
 
 
 
なお、宮内庁はかつて[[総理府]]の[[外局]]であったが、現在は内閣府の外局([[内閣府設置法]]第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条){{Sfn|山本淳|小幡純子|橋本博之|2003|p=23-24}}。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
 
 
 
[[明治]]2年([[1869年]])7月8日、古代の[[太政官制]]にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての[[大宝令]]に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ'''[[宮内省]]'''が設置された。[[1947年]]には'''宮内府'''となり、さらに[[1949年]]に宮内府は'''宮内庁'''となって[[総理府]]の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。[[2001年]](平成13年)1月6日には、[[中央省庁改革]]の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は[[内閣府]]に置かれる機関となった。
 
==== 幹部 ====
 
* [[宮内庁長官]]
 
* [[宮内庁次長]]
 
 
 
==== 内部部局 ====
 
* [[宮内庁長官官房|長官官房]]
 
** [[宮内庁病院]]
 
* [[宮内庁侍従職|侍従職]]
 
* [[宮内庁式部職|式部職]]
 
* [[宮内庁書陵部|書陵部]]
 
* [[宮内庁管理部|管理部]]
 
 
 
=== 皇宮警察本部 ===
 
{{main|皇宮警察本部}}
 
'''[[皇宮警察本部]]'''<ref>[http://www.npa.go.jp/kougu/ 皇宮警察本部]</ref>(こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、[[警察庁]]に置かれている[[附属機関]]のひとつ<ref name="law29">警察法 第29条</ref>。'''天皇'''及び[[皇后]]、[[皇太子]]その他の[[皇族]]の[[ボディーガード|護衛]]、[[皇居]]及び[[御所]]の[[警備|警衛]]、その他皇宮警察に関する[[事務]]をつかさどる<ref name="law29"/>。本部所在地は[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番3号。
 
 
 
[[本部長]]は、[[皇宮護衛官#皇宮護衛官の階級|皇宮警視監]]の[[階級 (公務員)|階級]]の[[皇宮護衛官]]であるが、慣例により[[内閣府]][[事務官]]である[[宮内庁]]職員にも併任される。
 
 
 
本部の紋章は[[桐紋|五三桐]]である。[[桐紋]]は[[菊花紋章]]と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
 
 
 
[[皇居]]のうち、宮殿及び[[皇居東御苑]]等の区域を担当する坂下護衛署、[[御所]]・[[宮中三殿]]等の区域を担当する吹上護衛署が設置されている。<ref>[http://www.npa.go.jp/kougu/sosiki.htm 皇宮警察本部とは]</ref><ref>[http://www.npa.go.jp/hakusyo/h25/pdf/pdf/11_dai6syo.pdf 平成25年警察白書 P201「皇宮警察本部の活動」]</ref>。
 
=== 役職 ===
 
*昭和天皇は[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]、[[札幌オリンピック]]で[[名誉総裁]]を務めた。
 
*[[第125代今上天皇]]は[[長野オリンピック]]で名誉総裁を務めた。<ref>[http://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/199611/96112202.htm 長野五輪 天皇陛下の名誉総裁就任を発表 宮内庁]</ref>
 
<li>
 
 
 
== 天皇についての学術的言説 ==
 
{{節スタブ|date=2017年1月28日 (土) 11:56 (UTC)}}
 
* [[横田耕一]]([[憲法学]]者)『平凡社大百科事典』「天皇」:{{quotation|近年天皇の[[権威]][[強化]]の[[動き]]が[[進行]]している。具体的には、ⓐ[[象徴]]規定の[[権威主義]]的[[拡大解釈]]、ⓑ[[公]]的[[行為]]の拡大、ⓒ[[栄典]]授与の濫発、ⓓ[[元首]]としての実態的取扱い、ⓔ〈[[日の丸]]〉〈[[君が代]]〉など天皇にまつわる[[シンボル]]の強調、ⓕ天皇に関する記述の[[教科書検定]]強化、ⓖ在位五十年[[式典]]の挙行、ⓗ天皇や[[閣僚]]による[[靖国神社参拝]]などの[[宗教]]活動の公然化([[国家神道]]とのつながり)、ⓘ天皇[[批判]][[言論]]に対する圧迫などによって天皇の権威は強化されている。同時に、[[改憲]]による天皇元首化の実現も[[一部]]で[[意図]]されている。ともあれ、[[象徴天皇制]]の[[存在]]とその[[運用]]は、[[国民主権]][[原理]]および[[平等原則]]を希薄化する[[機能]]を果たしているといえよう<ref>{{cite book|和書|editor=下中 邦彦|title=平凡社大百科事典|edition=初版|year=1985|publisher=[[平凡社]]|page=388|volume=10|asin=B000J6VWO8}}</ref>。}}
 
 
 
* [[ベン=アミー・シロニー]]([[歴史学]]者):{{quotation|[[今日]]の日本[[皇帝]]の[[公]]的[[地位]]は、同様に「君臨すれども統治せず」である[[イギリス君主]]の公的地位よりも低い。[[イギリス女王]]は公式に[[主権者]]、[[元首]]、[[国軍]]の[[最高指揮官]]、[[国教]]の[[首長]]、[[貴族]]の首長、[[イギリス連邦|連邦]]の首長である。これらは[[儀礼]]的[[権能]]ではあるものの、誰もそのような権能を日本の皇帝に授けようとはしまい。イギリス女王はまた、[[世界一]]の[[富裕層]]の一人であり、[[財政]]上の[[自治権]]を享受している。[[皇室財産|日本皇帝の所有物]]は、林野や[[株式]]もあったが、[[没収]]された。今日では皇帝の[[収入]]は全て、[[国家予算]]から引き出されている。日本の皇帝は、[[内閣]]の[[承認]]の下に元首のような儀礼的権能を行うが、元首でさえない{{sfn|Ben-Ami Shillony|2014|p=77}}。}}
 
 
 
== 天皇と課題 ==
 
{{複数の問題|出典の明記=2017年1月|一次資料=2017年2月|section=1}}<!--
 
=== 君主に関する論 ===
 
[[君主]]とは[[伝統]]的に、[[国家]]で特定の一人が[[主権]]を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・[[皇帝]]・[[きみ]]などとも言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br>{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。一方で政治解説者の[[辻雅之]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、天皇を今日の[[世界]]で唯一の「皇帝」であるとしている<ref>{{Cite news |title=ヤマトの王が天皇を名乗った理由 |newspaper=[[All About]]|date=2005-04-16 |author=[[辻雅之]] |url=http://allabout.co.jp/gm/gc/293436/ |accessdate=2016-08-11}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}
 
 
 
=== 国家元首に関する論 ===
 
[[大日本帝国憲法]]は天皇を[[国家元首]]としていたが、現行憲法には元首の規定はなく、これについては実質的[[機能]]を重視し[[内閣]](または[[首相]])を元首とする説、象徴天皇を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。[[学説]]の大多数は、内閣または[[内閣総理大臣]]を元首としている<ref name=nd/>。
 
 
 
これに対して、[[自民党]][[憲法改正論議|憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite web|format=PDF|url=http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|title=新憲法草案|author=自由民主党|date=2005-10-28|accessdate=2009-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207081544/http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|archivedate=2006年2月7日|deadlinkdate=2017年10月}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党小沢氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite journal|和書|author=[[小沢一郎]]|title=日本国憲法改正試案|journal=[[文藝春秋]]|date=1999-09|url=http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm|accessdate=2009-12-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党鳩山氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[鳩山由紀夫]]|title=新憲法試案 尊厳ある日本を創る|publisher=PHP研究所|year=2005|isbn=978-4569641409}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する[[財団法人]][[憲法改正試案 (世界平和研究所)|世界平和研究所憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}が、国家元首を天皇と規定するよう主張している。[[読売新聞]]([[渡辺恒雄]])憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[読売新聞社]]|year=2004|title=憲法改正 読売試案[[2004年]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120035500|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/sian2004/fe_si_20060405_03.htm}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>では天皇に関する規定は現状維持としている{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite journal|author=政治議会課憲法室(諸橋邦彦)|format=PDF|url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0474.pdf|title=主な日本国憲法改正試案及び提言|journal=調査と情報|volume=264|publisher=[[国立国会図書館]]|year=2005}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
{{See also|日本の元首}}
 
-->
 
=== 皇位継承権論争 ===
 
{{Main|皇位継承問題 (平成)}}
 
<!--{{要出典範囲|[[1965年]](昭和40年)の[[秋篠宮文仁親王]]の誕生から[[2006年]](平成18年)の[[悠仁親王]]の誕生まで約40年間、男性皇族が誕生していなかった。そのため、皇位を継ぐべき男系男子が不足し、[[皇室典範]]に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そこで、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、[[旧皇族]]を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。|date=2017年1月}}
 
-->
 
=== 国体論争 ===
 
{{Main|尾高・宮沢論争|佐々木・和辻論争}}
 
<!--{{要出典範囲|大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬(そうらん)者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ[[国民主権]]原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に[[尾高・宮沢論争]]と[[佐々木・和辻論争]]が有名。|date=2017年1月}}
 
-->
 
=== 譲位問題(2016年・平成28年) ===
 
<!--{{一次資料|section=1|date=2017年3月}}-->
 
{{Main|譲位|象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば}}
 
<!--
 
[[明仁|今上天皇]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は[[2016年]](平成28年)8月8日午後3時にビデオメッセージで、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite web|author=宮内庁|url=http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12|title=象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば|publisher=宮内庁|accessdate=2016-08-10}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
 
 
[[2016年]][[7月13日]]、今上天皇が譲位の意向を示していると報じられた{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|title=天皇陛下 「生前退位」の意向示される|newspaper=NHK|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160713100512/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|archivedate=2016年7月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6DX3J7FUTIL03D.html |title=天皇陛下、生前退位の意向 皇后さま皇太子さまに伝える |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。宮内庁次長{{信頼性要検証|date=2017-03}}は「報道されたような事実は一切ない」「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していない」「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」と否定するコメントを発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6W4MJ7FUTIL04G.html |title=宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
 
 
[[小堀桂一郎]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、「天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。」と述べ、摂政の冊立が最善だとの見方を示した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/life/news/160716/lif1607160022-n2.html |title=【生前退位 私はこう思う(2)】 東大名誉教授(日本思想史)・小堀桂一郎氏 「摂政の冊立が最善」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2016-07-16}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
 
 
[[内閣法制局]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は天皇の意思で退位することは「天皇の地位は国民の総意に基づく」とした[[日本国憲法第1条]]に抵触するとの理由で、将来とも生前退位を可能にするためには憲法改正が必要だが、今上天皇だけに認めるのであれば、特例法の制定で対応可能だと説明した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref name="NNN20160822">{{Cite news|url=http://www.news24.jp/articles/2016/08/22/04338752.html |title=“生前退位”内閣法制局「憲法改正が必要」|newspaper=日テレNEWS24 |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
 
 
各社世論調査{{信頼性要検証|date=2017-03}}によると、「おことば」以前に実施したもの([[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[産経新聞]]など)で7~8割、「おことば」後に実施したもの([[日本経済新聞]]、[[読売新聞]]、[[共同通信]]など)で8~9割の回答者が譲位に賛成しており、賛成派の76%以上が「今後の天皇すべてに認める制度」を求め、「今の天皇陛下に限って認める制度」は2割を下回った{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS21H04_R20C16A8PE8000/|title=生前退位「賛成」大勢 報道各社の世論調査 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
 
-->
 
==天皇の陵墓==
 
{{seealso|天皇陵}}
 
[[File:Shimaizumi Maruyama Kofun, haisho.jpg|thumb|[[雄略天皇]]丹比高鷲原陵]][[File:NintokuTomb.jpg|thumb|[[大仙陵古墳]](伝仁徳天皇陵)]]
 
皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・[[皇后]]・[[皇太后]]・[[太皇太后]]を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の[[皇太子]]や[[親王]]などの[[皇族]]を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかに[[ニニギノミコト]]など三神の陵として[[神代三陵]]が宮内庁によって治定されている<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53331 行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か 講談社]</ref>。<br>天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ「大王」(オオキミ)と呼ばれていた時代には巨大な[[前方後円墳]]が造営され、その後[[方墳]]、[[円墳]]、[[八角墳]]と変遷した。[[院政期]]の[[白河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[近衛天皇]]にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、[[江戸時代]]の[[後水尾天皇]]以降は代々[[京都]][[泉涌寺]]に石造塔形式の陵墓が建立された。[[幕末]]にいたって[[尊皇思想]]が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、[[孝明天皇]]陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。[[明治天皇]]陵では、[[天智天皇]]陵に範を取ったといわれる[[上円下方墳]]が採用され、以降、今日に至っている。{{信頼性要検証|date=2018-08}}<ref>{{Cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/|title=-天皇陵-|accessdate=2018-08-04|website=www.kunaicho.go.jp|language=ja}}{{信頼性要検証|date=2018-08}}<!--「Wikipedia:信頼できる情報源」により、公的機関は信頼性が高くない情報源として規定されています。例えば「政府の信頼性のレベルには大きな幅があり、しばしば、あからさまに情報の隠蔽を許容したり、全くのごまかしを発表したりする様な事を行って、自らの権益を保持することがあります」とされています--></ref>
 
 
 
== 注釈 ==
 
<!--{{複数の問題|出典の明記=2017年2月|一次資料=2017年2月|精度=2017年10月|section=1}}-->
 
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
 
{{notelist}}
 
 
 
== 出典 ==
 
{{複数の問題|一次資料=2017年2月|精度=2017年10月|section=1}}
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参照文献 ==
 
{{複数の問題|参照方法=2013年10月|一次資料=2017年2月|section=1}}
 
*[[新村出]]編『広辞苑 第六版』([[岩波書店]]、[[2011年]])ISBN 400080121X
 
* [[松村明]]編『大辞林 第三版』([[三省堂]]、[[2006年]])ISBN 4385139059
 
* {{Cite book|和書|author=下中直人(編)|title=世界大百科事典|volume=19巻|edition=改訂新版|year=2009|publisher=[[平凡社]]|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=株式会社日立ソリューションズ・ビジネス|chapter=明仁|title=百科事典マイペディア|publisher=Kotobank|year=2017|url=https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E4%BB%81-24605#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|last=松村|first=明|chapter=天皇|title=デジタル大辞泉|publisher=小学館・コトバンク|year=2014a|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|last=松村|first=明|chapter=天皇|title=大辞林|edition=第三版|publisher=小学館・コトバンク|year=2014b|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|last1=永原|first1=慶二(監修)|last2=石上|first2=英一ほか(編集)|year=1999|title=岩波 日本史辞典|publisher=岩波書店|isbn=4-00-080093-0|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|last=田中|first=浩|chapter=君主制|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=Kotobank|year=2017|url=https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6-58367#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=井上光貞|authorlink=井上光貞|year=2005|title=日本の歴史〈1〉神話から歴史へ|series=[[中公文庫]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4122045479}}
 
* {{Cite book|和書|author=笠原英彦|authorlink=笠原英彦|year=2001|title=歴代天皇総覧 [[皇位]]はどう継承されたか|series=[[中公新書]]|publisher=中央公論新社|isbn=4121016173}}
 
* {{Cite book|和書|author=甘露寺受長|authorlink=甘露寺受長|year=1965|title=天皇さま|publisher=日輪閣}}再刊 [[講談社]]、[[1975年]]。
 
* {{Cite book|和書|author=シロニー, ベン=アミー|authorlink=ベン=アミー・シロニー|others=大谷堅志郎 訳|year=2003|title=母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来|publisher=講談社|isbn=4062116758}}
 
* {{Cite book|和書|editor=「日本人の歴史教科書」編集委員会 編|year=2009|title=日本人の歴史教科書|publisher=[[自由社]]|isbn=4915237508}}
 
* {{Cite book|和書|author=吉田孝|authorlink=吉田孝|year=1997|title=日本の誕生|series=[[岩波新書]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4004305101}}
 
* {{Cite book|和書|author=吉村武彦|authorlink=吉村武彦|year=2005|title=古代史の基礎知識|chapter=[[倭]]の五王の時代|series=角川選書|publisher=[[角川書店]]|isbn=4047033731}}
 
* {{Cite book|和書|author=渡辺浩|authorlink=渡辺浩 (政治学者)|year=1997|title=東アジアの王権と思想|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4-13-030113-8}}
 
* {{Cite book| author=Ben-Ami Shillony| year=2014| contribution=The Postwar Emperor in Democratized Japan| title=Japan's Multilayered Democracy| publisher=Lexington Books | isbn=9781498502221|ref=harv}}。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Columns-list|colwidth=15em|
 
* [[天皇制]]
 
** [[象徴天皇制]]
 
* [[日本国憲法第1章]]
 
** [[日本国憲法第1条|第1条]]・[[日本国憲法第2条|第2条]]・[[日本国憲法第3条|第3条]]・[[日本国憲法第4条|第4条]]・[[日本国憲法第5条|第5条]]・[[日本国憲法第6条|第6条]]・[[日本国憲法第7条|第7条]]・[[日本国憲法第8条|第8条]]
 
* [[大日本帝国憲法]]第1章
 
** [[大日本帝国憲法第1条|第1条]]・[[大日本帝国憲法第2条|第2条]]・[[大日本帝国憲法第3条|第3条]]・[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]・[[大日本帝国憲法第5条|第5条]]・[[大日本帝国憲法第6条|第6条]]・[[大日本帝国憲法第7条|第7条]]・[[大日本帝国憲法第8条|第8条]]・[[大日本帝国憲法第9条|第9条]]・[[大日本帝国憲法第10条|第10条]]・[[大日本帝国憲法第11条|第11条]]・[[大日本帝国憲法第12条|第12条]]・[[大日本帝国憲法第13条|第13条]]・[[大日本帝国憲法第14条|第14条]]・[[大日本帝国憲法第15条|第15条]]・[[大日本帝国憲法第16条|第16条]]・[[大日本帝国憲法第17条|第17条]]
 
* [[皇室]]
 
** [[皇室の系図一覧]] - 歴代天皇の他、天皇を祖とする主な人物を一覧にした系図。
 
** [[皇室用客車]]・[[お召し列車]]
 
** [[御料車]]
 
* [[皇居]]
 
* [[三種の神器]]
 
* [[天皇海山群]]
 
* [[天皇賞]]
 
* [[天皇杯]]
 
* [[天皇陵]]
 
* [[日本神話]]
 
* [[大和朝廷]]
 
* [[漢委奴国王印]]
 
}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁]
 
* [http://www.kunaicho.go.jp/about/ 皇室]/[http://www.kunaicho.go.jp/about/seido/seido01.html 天皇] - [[宮内庁]]の[[公式サイト]]
 
* [http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai2/sankou4.pdf 退位した天皇の退位理由一覧]
 
 
 
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2018/10/16/ (火) 21:46時点における最新版

天皇(てんのう)

日本の歴代の君主の称号。元来は中国の言葉で,万物を支配する皇帝の意味をもつ。日本以外では,中国で唐の高宗が称したほかに例がない。日本の初代の天皇は,『古事記』や『日本書紀』では神武天皇とされるが,天皇という呼称の成立期は推古天皇時代,天智天皇時代,天武・持統天皇時代の3説がある。律令制のなかや,あるいは明治初期の外交関係の公文書では,皇帝という称号を用いたこともある。明治憲法下では,統治権を総攬する絶対権力者として規定されたが,1946年の日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定され (1条) ,国家の機関として果す権能も象徴たる地位に相応する,きわめて限定されたものとなっている。



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