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'''堤 義明'''(つつみ よしあき、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[5月29日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[西武グループ|西武鉄道グループ]]の元オーナー。父は西武グループの基礎を一代で築き上げた[[堤康次郎]]であり、兄は元[[西武百貨店]]会長・小説家の[[堤清二]](辻井喬)。[[フォーブス]]誌で一時は総資産額で世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、その後に[[インサイダー取引]]疑惑で有罪判決を受けた。
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'''堤 義明'''(つつみ よしあき、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[5月29日]] -
  
== 経歴 ==
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昭和後期-平成時代の経営者。
=== 生い立ち ===
 
[[東京府|東京]]に実業家の[[堤康次郎]]と[[内縁]]関係にある[[石塚恒子]]の間に生まれる(未入籍)。母恒子は[[新潟県]]出身の歯科医師で衆議院議員を務めた[[石塚三郎]]の娘。
 
  
[[麻布中学校・高等学校|麻布中学]]・[[麻布中学校・高等学校|麻布高校]]卒業後、[[早稲田大学]]第一[[商学部]]に入学。早稲田大学観光学会というサークルを立ち上げる。なお、元[[西武鉄道]]社長(兼[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]オーナー代行)戸田博之・元[[プリンスホテル]]社長(兼[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]オーナー代行)山口弘毅(ひろよし)・元[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]社長小野賢二も、同[[サークル]]の二年下の後輩であり、元[[コクド]]社長三上豊(みのる)は早稲田大学空手部に所属、義明が学生時代から手掛けていたリゾート事業地の警備の手伝いをしていた。
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昭和9年5月29日生まれ。堤康次郎の子。堤清二の異母弟。西武鉄道など西武コンツェルンの大半を昭和39年継承。国土計画(現コクド)を本拠にして,膨大な不動産運営で事業を拡大。プリンスホテルの全国展開やスポーツ・レジャー施設の開発にあたる。プロ野球球団西武ライオンズのオーナー。JOC初代会長として冬季五輪を長野に誘致した。滋賀県出身。早大卒。
  
=== 父からのスパルタ帝王学 ===
 
父のスパルタぶりは相当なもので、同じことを二度言わせると言葉より鉄拳が飛んできたという<ref>「堤義明・男の凄さ」永川幸樹著 p192</ref>。
 
  
父・康次郎は「長たるものは人の三倍は働け」という訓を発しているように、毎朝四時起きで片っ端から系列企業のトップを電話で叩き起こし、その日の指示を電光石火のように浴びせていた。父が寝る九時以降は、時の総理であっても起こすことが許されなかったため、帝王学を受けていた義明は、常に旅館やホテルで父が寝る部屋に通じる電話交換台の穴にチリ紙を丸めて突っ込み、父の部屋に電話を絶対につながないように手を打っていたのだが、ある日それを忘れてしまった時の父の雷帝振りは、義明自身が「生きた心地がしなかった」と言うほどであったという<ref>「堤義明・男の凄さ」永川幸樹著 p66</ref>。
 
  
父・康次郎に就いて経営の[[帝王学]]を学んできたが、大学在学中に康次郎から“冬の[[軽井沢]]に人を呼ぶ方法を考えろ”と言われ、観光学会の仲間とスケート場を開設、成功を収める([[軽井沢スケートセンター]][[1956年]])。また、海の近くにプールを作るという奇策と揶揄された[[大磯ロングビーチ]]([[1957年]])も成功させる。これは、義明の[[卒業論文|卒論]]を実行に移したものである。また、スキーシーズン以外でも氷を砕けば滑走可能というアイディアから[[1959年]]に[[狭山スキー場]]、[[1961年]]12月には[[苗場スキー場|苗場国際スキー場]]と[[苗場プリンスホテル]]を開業させる。
+
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=== 鉄道グループの後継者に ===
 
[[1964年]]康次郎が死去。周囲では、「グループは次男の[[堤清二|清二]]が継ぐ」と噂されていたが、三男の義明が[[コクド]]・西武鉄道グループを引き継いだ。グループオーナー就任後10年程は、ほぼ康次郎の事業をそのまま引き継ぎ、沈黙を保っていたとされる<ref>これは康次郎の生前の言葉を守ったのだと言われる。ただし兄・清二に対する複雑な感情と配慮から流通部門を清二に任せ、西武グループが[[西武鉄道グループ|鉄道グループ]]と[[セゾングループ|流通グループ]]に分割されることとなる。</ref>。
 
 
 
ちなみに自身の[[媒酌人]]は[[赤坂プリンスホテル]]に事務局を置いていた[[清和研]]創始者[[福田赳夫]]。赳夫の長男[[福田康夫]]は麻布の2年後輩で同じ早大卒で兄弟分、さらに赳夫の秘書だった[[小泉純一郎]]とも親交深かった。
 
 
 
=== 西武王国を築く ===
 
[[1978年]]に[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]を買収し[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]のオーナーとなる([[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]で複数球団の株式所有が禁じられているため[[横浜DeNAベイスターズ]]の前身である大洋球団の株式を売却。[[飛鳥田一雄]]横浜市長の要請で[[横浜スタジアム]]の建設費用も西武グループが融資していた)。西鉄後期や太平洋クラブ、クラウンライターと下位に甘んじていたライオンズだが、西武ライオンズ以降は最新鋭かつ充実した設備の導入や、当時監督だった根本陸夫に堤義明は「全てまかせるからやってくれ」という指示を出し、実際にチームづくりは監督の専権事項とし、フロントに口を出させないなどの改革の成果から徐々に順位を上げ、1982年に24年振りの日本一に輝くと、その後リーグ優勝5連覇、日本一3連覇などリーグ優勝計16回、日本一計10回に輝いた。また、人気面でも子供が好むブルーや[[手塚治虫]]の[[ジャングル大帝]]のレオをチームカラーやシンボルマークに採用するなどイメージを一新。レオのキャラクター商品は人気を集め、特に帽子は昭和54年から9年間で500万個も発売されるなど、関東の子供の間では読売ジャイアンツの帽子と人気を二分するほどであった<ref>[西武のすべて 成島忠昭 日本実業出版社 P105]</ref>。サービス面でも、従来の球場は前試合のゴミが多く残り、トイレも悪臭が座席にまで臭うほど汚かったが、義明の指示で清掃要員を大幅に増員。客席も既存他球場の座席幅45㎝から西武球場では50㎝と大幅に拡大して、ゆったり清潔に観戦できるようにした。そして、西鉄時代から凋落の一途を辿っていたライオンズの観客入場者数は、買収前の70万人から西武ライオンズ発足初年度には100万人を突破し、以降パ・リーグ最高入場者数を更新し続け、昭和63年には190万人を記録するなど「黄金時代」を築き上げた。寮に入る選手にアンケートを実施し、壁紙やカーテン、絨毯の色など希望通りの内装にした。[[清原和博]]をとにかくかわいがり、球団に対しても『清原をマスコミやスキャンダルから守れ』と厳命し、ベンチの人間に対しても清原に都合の悪い采配ぶりなら激怒したとのこと。清原のスキャンダルが週刊誌を賑わせるたびに、グループ内部の社員が怒鳴られた<ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/174860/2 堤オーナーに溺愛されて 清原容疑者の“やりたい放題”伝説] - 日刊ゲンダイ 2016年2月7日]</ref>。後に清原が失墜したことから清原をダメにしたA級戦犯ともいわれている<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/8618622/ 「西武時代から……?」薬物疑惑の番長・清原和博を“甘やかした”元凶とは] - 日刊サイゾー 2014年3月11日]</ref><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/174860 堤オーナーに溺愛されて 清原容疑者の“やりたい放題”伝説|野球|スポーツ|日刊ゲンダイDIGITAL]</ref>。
 
 
 
[[プリンスホテル]]は品川や高輪・赤坂・新宿・サンシャインシティ・新横浜・幕張・大津・札幌・広島などで次々と大型ホテルを開業させ、[[苗場プリンスホテル|苗場]]、[[富良野市|富良野]]、[[軽井沢町|軽井沢]]、[[箱根町|箱根]]、[[ニセコ町|ニセコ]]、[[雫石町|雫石]]、[[嬬恋村|万座]]など西武が開発したリゾート地でも開業や増床を進めたことにより、1994年には2万室を超えるなど当時日本一のホテルチェーンになるまで成長した。赤坂・幕張・大津・パークタワー・横須賀は[[丹下健三]]、軽井沢・下田・六本木・函館大沼・札幌は[[黒川紀章]]、箱根・高輪・新高輪・京都宝ヶ池・横浜・三養荘(増築)は[[村野藤吾]]など一流の建築家に設計を依頼している。
 
 
 
特色として、景色がよい場所に立地しているホテルが多いことから他社ホテルチェーンと比較して窓がとても大きく、カーテンは壁面に隠れる設計になっているが、これも堤義明の指示である。
 
 
 
最近でこそ当たり前となっているホテルのディナーショーであるが、発案者は堤義明である。1978年に[[東京プリンスホテル]]に三千人収容の大宴会場「鳳凰の間」が開業する際、「空間を利用してお客の育成、開発を考えよう」という堤義明の発想により、当時、[[五木ひろし]]のラスベガス公演成功を知った堤は、ディナーショー形式でそのまま鳳凰の間に持ってきた。このディナーショーは大成功を納め、その後様々な有名人のディナーショーが開催されることになった。プリンスホテルは[[新高輪プリンスホテル]]の五千人収容の「飛天」など、多くの主宴会場(ホール)を有しており、空間を売る一つの戦略と言える。
 
 
 
 
 
スキー場は[[苗場プリンスホテル|苗場]]や[[雫石]]、[[ニセコ]]、[[富良野]]、[[嬬恋村|万座]]、[[志賀高原]]、[[妙高]]、[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]などで開業するなど、1987年には33箇所になるまで成長した。合理化で大幅に減少した現在でも日本一のスキー場保有数を誇る。また、苗場はスキー場施設の入場者数日本一である。近代的な設備から[[FISアルペンスキー]]の世界選手権大会やワールドカップでは[[苗場プリンスホテル|苗場]]、[[富良野]]、[[志賀高原]]、[[雫石]]が選ばれ、富良野は計8回、苗場は計3回開催されている。
 
 
 
ちなみに国鉄末期から運行開始された[[シュプール号]]であるが、その前身は義明が考案した「スキートレイン」である。1982年初めに当時の国鉄総裁・高木文夫との対談で、「上越新幹線の開通で上越線ががら空きになってしまうのではないか」という心配に対し、義明は「レールが空いているのなら売ればいい」とスキー専用列車の提案をしたところ、高木も即座に同意し、同年暮れから上野・新宿から中里スキー場最寄り駅の越後中里を結ぶ「スキートレイン中里号」が走り始めた。これが好評だったことから、1986年には札幌・富良野(富良野スキー場最寄り駅)を結ぶ「フラノエクスプレス」が、1988年には札幌・ニセコ間の「ニセコエクスプレス」(ニセコスキー場最寄り駅)が運行を開始した。
 
 
 
ゴルフ場は、[[軽井沢72ゴルフコース]]、[[川奈ホテルゴルフコース]]、[[武蔵丘ゴルフコース]]など29を数える。国内資本ではゴルフ場数日本一である。
 
 
 
事業所には[[富良野]]や[[雫石]]、[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]、[[ニセコ]]、[[広島]]、[[北九州]]、[[阿蘇]]、アラスカ・アリエスカ、ハワイ・マウイなど現地自治体や企業から要請されて進出したケースも多い。これは地元の反対がある所に進出しても事業として成功しないという彼の考え方で、採用や仕入れを地元の出身者や業者にすることによって、地方の出稼ぎ減少や活性化、税収増に大きく貢献した。
 
広島では倒産した造船所を含む土地を広島県や広島市から要請されて進出した際、契約には造船部門を残す義務は無かったが、堤義明の配慮で残すことになり、働いていた社員も失職することなく、西武グループの造船部門の社員として働くことになった。
 
 
 
[[1980年代]]後半の[[バブル景気]]真っ只中、米国の経済誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』に「世界一の大富豪」(The World's Billionaires) として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円と報じられる。
 
 
 
[[ヘリコプター]]([[アメリカ合衆国大統領]]専用機と同じものとされる)に搭乗し、神奈川県の自宅から[[原宿]][[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]のコクド本社への“通勤”や、プリンスホテルなど運営施設への移動あるいは施設上空から偵察している姿は、テレビなどでもよく放映された。
 
 
 
[[バブル崩壊]]後、西武グループの経営は以前に比べて厳しくなっていったが、総帥の座を降りることはなかった。2002年4月の「[[品川プリンスホテル]]『エグゼグティブ(現:アネックス)タワー』」の開業時には、[[小泉純一郎]]首相(当時)・[[森喜朗]]をはじめとする大物[[代議士]]、[[モーニング娘。]]・[[石原軍団]]メンバー、[[長嶋茂雄]]、[[浅丘ルリ子]]など時の著名人を含む2000名を招待したパーティーを開催している。
 
 
 
=== 人のやれないことをやる ===
 
冬の軽井沢に人を呼ぶ方法として人気を呼んだスケートセンターであったが、[[中央自動車道]]が完成すると、[[河口湖]]にできた[[富士急行]]のスケートセンターに押されるようになってしまった。これを教訓化した義明は、全国のスキー場適地を綿密に調べ上げた上で「ここは絶対に他人にマネされることがない」と[[新潟県]]の苗場を選んだ。その苗場は人気を集め、スキー場では日本一の集客数を誇る。
 
 
 
=== 40億円の事業を資金0でなしとげる ===
 
1976年当時、[[横浜市]]の市長だった[[飛鳥田一雄]]は[[横浜スタジアム|市民球場]]を計画し、当時[[川崎球場]]が本拠地だった[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]に市民球場に移ってもらう構想があったが、40億円という予算捻出に苦慮していた。それを聞いた堤義明は「[[西武建設]]に工事を一任すれば予算は一銭もいりません」と飛鳥田に進言した。通常球場指定席は1年更改が常識だが、堤は一挙に「通用期間45年(コンクリートの耐用年数による)、一席250万円で800席で20億円、テレビ会社やスポンサーで20億円」とした。800席は1ヶ月で売り切り、スポンサーも殺到し、逆にセレクトに頭を悩ますという始末だった。飛鳥田は横浜市民に税金投入無しで立派な野球場をプレゼントできた<ref>「堤義明・男の凄さ」永川幸樹著 p94</ref>。
 
 
 
=== 激動の時代 ===
 
[[2004年]]に入るとマスコミへの露出が急激に増加する。まず、[[4月8日]]に西武鉄道が[[総会屋]]に利益供与をしていたことが発覚(→[[西武鉄道#総会屋利益供与事件|西武鉄道総会屋利益供与事件]])し、経営の総責任者の座を降りた。ただし辞職したのは西武鉄道の会長職のみで、ライオンズのオーナー、[[コクド]](2006年に[[プリンスホテル]]と合併し消滅)会長には留まった。
 
 
 
同年に起きた[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]では26年ぶりに出席したオーナー会議で「([[大阪近鉄バファローズ]]と[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]以外に)もう1つの合併が進行中」と発言し、渦中の人物となる。しかし、ロッテ、西武、ダイエーが球団を単独で保有することに固執したため、ダイエーはソフトバンクに身売りしたが、第二の合併は当事者間の合意すらできなかった。
 
 
 
同年[[10月13日]]、[[有価証券報告書]]への虚偽記載の責任を取り、新高輪プリンスホテル「平安の間」で会見、コクドおよび西武鉄道をはじめとする、すべてのグループ会社の役員職から辞任する事を発表した。これは後に[[西武鉄道#証券取引法違反事件|西武鉄道証券取引法違反事件]]へと発展し、株式上場をしていた[[西武鉄道]]・[[伊豆箱根鉄道]]は[[東京証券取引所]]から[[上場廃止]]処分が下される。
 
 
 
各テレビ局(特に[[テレビ朝日]])が過去に収録した、1960年代以降の康次郎や義明の映像を素材としながら、堤家や西武グループの勃興について取り上げるようになった。
 
 
 
=== 証券取引法違反による逮捕 ===
 
[[2005年]][[3月3日]]、西武鉄道株式に関する[[金融商品取引法|証券取引法]]違反(有価証券報告書の虚偽記載、[[内部者取引|インサイダー取引]])の疑いで[[特別捜査部#東京地方検察庁特別捜査部|東京地検特捜部]]に逮捕され、[[3月23日]]、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起訴された。[[10月27日]]、一審の東京地裁にて懲役2年6月、罰金500万円、[[執行猶予]]4年(求刑懲役3年、罰金500万円)の判決を言い渡され、義明側・検察側とも控訴せず、判決どおり有罪が確定した。
 
 
 
これにより、[[西武グループ|西武鉄道グループ]]はメインバンクであった[[みずほグループ]]出身の[[後藤高志]]へ経営権が移り、[[コクド]]・[[西武鉄道]]・[[プリンスホテル]]間をめぐる堤家との複雑な資本関係は、[[西武ホールディングス]]発足と[[第三者割当増資]]による[[サーベラス・キャピタル・マネジメント|サーベラス]]らの外部資本注入により整理された。
 
 
 
=== 逮捕後の動向 ===
 
[[2009年]]10月、執行猶予期間満了。逮捕から下記のJOC特別功労者受賞までマスメディアへの露出は[[週刊文春]]・[[週刊新潮]]での僅かな[[ゴシップ]]記事を除き一切なかった。
 
 
 
現在、堤自身が保有する[[西武ホールディングス|西武ホールディングス(以下HD)]]株はわずかであるが、一方で堤家の資産管理会社であるNWコーポレーション(以下NW社)の大株主であり、そのNW社が西武HDの大株主であることから、その後も西武グループに間接的な影響力を残していた<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20130405_180942.html 西武TOB騒動で再浮上の堤義明氏隠居生活送るドンの胸の内]NEWSポストセブン、2013年5月25日閲覧</ref>。
 
 
 
2016年2月、堤が持つNW社の全株式を西武HDに譲渡する形で、西武HDが一般株主から起こされていた訴訟で発生した賠償費用のうちNW社株の譲渡分248億円、また自ら持つ西武HD株の売却で7億円の計255億円を負担することになり、堤は西武HD株の所有がゼロになることが発表された。西武HDはNW社株式約43%を所有することになる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ10HYK_Q6A210C1TJC000/ 西武HD株、堤氏の保有ゼロに 株主訴訟の賠償費用負担] - 日本経済新聞 電子版 2016年2月10日]</ref>。これによって堤は西武との資本関係が切れることとなった<ref>[http://www.sankei.com/affairs/news/160210/afr1602100023-n1.html  西武HD、堤義明氏らから255億円回収 株譲渡、資本関係も消滅] - 産経ニュース 2016年2月10日</ref>。
 
;JOCから特別功労者として表彰を受ける
 
[[2011年]][[7月16日]]に[[グランドプリンスホテル新高輪]]で催された[[日本オリンピック委員会]] (JOC) と[[日本体育協会]]の創立100周年祝賀式典に招待され、初代日本オリンピック委員会会長を務めた経緯から特別功労者として表彰された。この行事で[[2020年夏季オリンピック]]で東京への誘致表明を行う[[石原慎太郎]]東京都知事の隣に立つ写真や映像あるいは功労者受賞についての文章が[[時事通信社]]・[[共同通信社]]と、[[朝日新聞]]<ref>「石原都知事、2020年夏季五輪への立候補を正式に表明」asahi.com 2011年7月16日[http://www.asahi.com/national/update/0716/TKY201107160297.html]</ref>・[[毎日新聞]]で配信・掲載され、久しぶりのメディア露出となった。しかし、[[朝日新聞]]紙面上に掲載された写真には石原都知事の左隣に写っているにも関わらず、[[キャプション]](説明文)では義明について言及されていない。この件と最近の動向を絡めた記事が[[週刊新潮]]に掲載された<ref>[[週刊新潮]]2011年7月28日号 ワイド 新・墜落論「堤義明 突然の表舞台復帰でも蒸し返された会社私物化」</ref>。
 
;JOC最高顧問に就任
 
[[2013年]][[6月27日]]のJOC評議会で、JOC最高顧問への就任が決定する<ref>http://www.jiji.com/jc/zc?k=201306/2013062701027{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
 
== 人物 ==
 
[[画像:KC-RM211GSN Izuhakone-2797.jpg|thumb|250px|ヘリコプターから見えるように屋根に番号を記した西武グループのバス(伊豆箱根バス)]]
 
ホテル経営に関しては完全なるトップダウン方式で、ホテル内部の設計などにまで細かく指示を出した。鉄道事業においても運転士・車掌・駅員の規律を細かく規定し、昨今の[[鉄道事業者]]ではあまり見られない、[[運転士]]が制帽の顎紐を着用することの義務などがあり<ref>常時顎紐着用が運転士に義務付けられている他鉄道事業者は[[秩父鉄道]]、[[京浜急行電鉄]]、[[阪神電気鉄道]]などに限られている</ref>、バス事業では全てのバスの屋根に番号を記して上空からヘリコプターできっちりと経路通りに運行しているかを自ら監視するなどした<ref>現在はGPS対応の車載機を使用すれば営業所内であっても位置が把握可能であるので、こう言った原始的かつヘリコプターを手配する手間やコストが莫大となるこの監視方法は採用されていない。なお、番号の表記は別の理由であるが、他事業者でも実施する事例が増えており、特に[[2000年]]に発生した[[西鉄バスジャック事件]]以降、被害を受けた[[西鉄バス]]([[西日本鉄道]]直営のバス部門)をはじめ、[[バスジャック]]対策として屋根に車番を書く事業者が増加している。</ref>。しかし義明自身が社長の会社はほぼ全て本人が指示したが、それ以外の会社はその会社の社長にほぼ全て任せていた。豪華な私生活や総資産の多さが話題になることが多かったが履物は履けなくなるまで履き、食事に関しても社員教育等で食べ残しをしないように厳しく指導するなど戦後の貧困時代を知る者らしい一面もあったという<ref>血脈-西武王国・堤兄弟の真実-レズリー・ダウナー著 常岡千恵子訳</ref>。
 
 
 
=== スポーツとの関わり ===
 
日本の[[スポーツ]]界への影響力は大きく、グループ再編が行われ義明から経営権が離れた現在も、西武グループは、[[スキー]]や[[ゴルフ]]をはじめとするスポーツリゾートの最大手企業であり、保有するスキー場やゴルフ場の数は国内資本としては日本一を誇る。
 
 
 
資金力を背景に、[[日本オリンピック委員会]] (JOC) 会長なども歴任した。[[長野オリンピック]]招致は、時の[[国際オリンピック委員会]]会長・[[フアン・アントニオ・サマランチ]]とも親しかった義明の力に負うところが大きいといわれている。
 
 
 
スケートやスキー選手育成に力を入れた。スケート選手をプリンスホテルや国土計画に所属することにより、生活を安定させるとともに練習に専念できる体制をとった。そして、[[伊藤みどり]]、[[八木沼純子]]、[[荒川静香]]、[[黒岩彰]]らを輩出した。また、現役や未来の選手への経験の場、引退後のスケーターの活躍の場として1978年から[[プリンスアイスワールド]]を始めた。スキーでは引退した[[岡部哲也]]や[[木村公宣]]などをプリンスホテルスキースクールに招き入れ、スキー選手を養成している。[[渡部絵美]]は2005年1月に堤から[[セクシャル・ハラスメント]]があったことを[[週刊文春]]で発言<ref>[http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/shukanbunshun050127.htm 週刊文春 - 渡部絵美衝撃告白 私を弄んだ堤義明]</ref>。
 
 
 
また女子プロボウラー1期生にして[[JLBC]]代表であった[[須田開代子]]から女子[[プロボウリング]]の[[トーナメント方式|トーナメント]][[スポンサー]]にと懇願され、JLBCクイーンズオープン[[プリンスカップ]]を当時の最高賞金額である優勝賞金500万円、賞金総額1,200万円で創設。須田の[[葬儀]]にも[[品川プリンスホテルボウリングセンター]]のフロアー半分を無償にて提供。後に[[軽井沢]]プリンスカップ、[[BIG BOX]][[BIG BOX#BIG BOX 東大和|東大和]]CUP等、数々のプリンスカップで女子プロボウリングトーナメントに大きな功績をもたらす。このことは、須田の[[遺書]]にも感謝の意が記されていた。
 
 
 
[[プロ野球再編問題 (2004年)|2004年のプロ野球再編問題]]でも、中心的な役割を果たした一人となった。しかし、西武ライオンズの合併相手が見つからず、1リーグ移行の目論みは失敗。その後不祥事が発覚し、西武オーナーを辞任した。堤がオーナーを辞任した後、楽天の新規参入が認められた。
 
 
 
[[アイスホッケー]]チーム([[西武鉄道アイスホッケー部]]、[[SEIBUプリンス ラビッツ|コクドアイスホッケーチーム]]=後にコクドに一本化、2006年、西武グループ再編に伴い、チーム名を[[SEIBUプリンス ラビッツ]]と改称→2009年廃部)や、野球でも[[日本プロ野球]]・[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と、[[日本野球連盟|社会人]]の[[プリンスホテル硬式野球部]](廃部)を運営した。
 
 
 
== 人物評 ==
 
*[[松下幸之助]] 「西武にはすごい二代目が出ましたな。あの人は二代目やのうて、やってはることは創業者ですわ。それに、新規に事業を興されるときの目の付け所がええ。企画力でんな。ほんまに凄い人ですわ」「地味な人柄がええ。派手なのはあかん。経営はコツコツが第一ですわ」<ref>永川幸樹 「堤義明・男の凄さ」三笠書房p267</ref>
 
* [[田中角栄]] 「彼は明日の日本をしょってたつリーダーだね」<ref>永川幸樹 「堤義明・男の凄さ」三笠書房p80</ref>
 
 
 
*[[今里広記]] 「堤康次郎が残した最大の遺産は義明君だったかもしれないね」 <ref>永川幸樹 「堤義明・男の凄さ」三笠書房 p80</ref>
 
*[[永野重雄]] 「昭和生まれのナンバーワン経営者」<ref>永川幸樹 「堤義明・男の凄さ」三笠書房 p80</ref>
 
 
 
== 語録 ==
 
{{出典の明記|date=2013年6月13日 (木) 12:17 (UTC)|section=1|ソートキー=人}}
 
*「頭のいい人は要らない。頭のいい人はお金をだせばいくらでもいい知恵を出してくれるが誠意は買えない。」<ref>成島忠昭 『西武の全て』 日本実業出版社 堤義明語録</ref>
 
*「どうせもう崩壊って言われてんだ。崩壊したら崩壊したでいい。また一から作り直せばいい」([[平成不況]]期に)
 
*「(西武鉄道上場について)何でかわからない。そういうことも含めていろいろ甘かった」(引退会見にて)
 
*「来年以後も監督がやりたいならどうぞ」(1989年10月、西武ライオンズ監督の[[森祇晶]]に対して。森は監督としてライオンズを1986年から1988年と1990年から1992年まで2度も3年連続日本一に導いた。1989年は終盤まで優勝を争ったもののパ・リーグ3位で終わった)
 
*「もったいないから、少しでも高く売れ」(上場維持のために裏で株を売らざるを得なくなったときに下した部下への命令)
 
*「定休日が欲しい管理者はうちの会社にはいりません。」<ref>成島忠昭 『西武の全て』 日本実業出版社 堤義明語録</ref>
 
*「私は会長で別に社長を置いている会社は徹底的に任せる。逆に私が社長をしている会社は全部自分がやる」<ref>成島忠昭 『西武の全て』 日本実業出版社 堤義明語録</ref>
 
*「私は定期異動という言葉が嫌いだ。どこにでも通用するプロを育てるためには、適職と思ったら十年間は同じ仕事をさせる」<ref>成島忠昭 『西武の全て』 日本実業出版社 p271</ref>
 
 
 
== 略年譜 ==
 
{{出典の明記|date=2013年6月13日 (木) 12:17 (UTC)|section=1|ソートキー=人}}
 
*[[1934年]]
 
**5月29日 - [[東京]]に[[堤康次郎]]・[[石塚恒子]]の間に生まれる(康次郎の子としては三男)。[[本籍地]]は[[滋賀県]]。
 
*[[1957年]]
 
**3月 - [[早稲田大学]]商学部卒業。
 
**10月 - [[コクド|国土計画興業(後の「コクド」]])代表取締役([[1965年]]社長、[[1995年]]会長)
 
*[[1960年]]
 
**5月 - 西武鉄道取締役。
 
*[[1964年]]
 
**5月 - 伊豆箱根鉄道社長(~[[1970年]]5月)。
 
*[[1965年]]
 
**11月 - 西武鉄道副社長。
 
*[[1973年]]
 
**11月 - 同社長。
 
*[[1976年]]
 
**7月 - [[プリンスホテル]]社長(~[[1987年]]6月)。
 
*[[1989年]]
 
**1月 - 西武鉄道会長。
 
**8月 - 日本オリンピック委員会委員長(~[[1990年]][[5月]])。
 
 
 
== スポーツ界での足跡 ==
 
*[[1973年]] - [[日本アイスホッケー連盟]]会長
 
*[[1977年]] - [[日本体育協会]]理事
 
*[[1978年]] - 西武ライオンズオーナー
 
*[[1983年]] - [[日本体育協会]]副会長(~[[1990年]])
 
*[[1986年]] - [[全日本スキー連盟]]会長(~[[2004年]])
 
*[[1989年]] - [[日本オリンピック委員会]] (JOC) 初代会長(~[[1990年]])
 
*[[1990年]] - 日本体育協会理事(~[[2004年]])
 
*[[1992年]] - [[アルベールビルオリンピック|アルベールビル冬季五輪]][[アルベールビルオリンピック日本選手団|日本選手団長]]
 
*[[1997年]] - 日本オリンピック委員会 (JOC) 名誉会長(~[[2004年]])
 
*[[2000年]] - [[国際オリンピック委員会]] (IOC) 栄誉委員
 
*[[2003年]] - 日本アイスホッケー連盟名誉会長(~[[2004年]])
 
*[[2013年]] - 日本オリンピック委員会 (JOC) 最高顧問
 
 
 
== 主な役職 ==
 
*[[コクド]]社長・会長
 
*[[西武鉄道]]社長・会長
 
*[[プリンスホテル]]社長・会長
 
*[[西武建設]]会長
 
*西武ゴルフ社長・会長
 
*[[西武商事]]会長
 
*[[西武運輸]]会長
 
*[[伊豆箱根鉄道]]社長・会長
 
*西武建材取締役
 
*[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]オーナー
 
*[[日本オリンピック委員会]] (JOC) 会長・名誉会長・最高顧問
 
*[[国際オリンピック委員会]] (IOC) 栄誉委員
 
*[[日本体育協会]]理事
 
*日本アイスホッケー連盟会長・名誉会長
 
*[[全日本スキー連盟]]会長
 
*[[日本経団連]]理事
 
*日本ツーリズム産業団体連合会会長
 
*日本観光協会理事
 
*国立公園協会理事
 
*[[三康文化研究所]]理事
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
=== 堤家 ===
 
[[画像:Tsutsumi Yasuzirou3.JPG|thumb|300px|right|[[衆議院議長]]に就任した[[堤康次郎]]]]
 
;([[滋賀県]][[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]][[愛荘町]]、[[神奈川県]][[二宮町]]、[[東京都]])
 
*父・'''[[堤康次郎|康次郎]]'''(実業家、政治家)
 
*母・'''恒子'''([[新潟県]]、歯科医・政治家[[石塚三郎]]の娘、未入籍)
 
*弟
 
:'''康弘'''(元[[としまえん|豊島園]]社長・元[[西武建設]]取締役)
 
:'''猶二'''([[東京テアトル]]取締役、元[[プリンスホテル]]社長)
 
* 異母兄弟
 
:'''淑子'''(母は西沢コト、元[[西武鉄道]]社長[[小島正治郎]]の妻)
 
:'''清'''(母は岩崎その、元[[近江鉄道]]社長)
 
:'''[[堤清二|清二]]'''(母は青山操、セゾン文化財団理事長)
 
:'''邦子'''(母は青山操、エッセイスト、[[森田重郎]]の妻、のち[[離婚]])
 
*妻・'''由利'''
 
:当時の[[三井物産]]海外施設部次長の長女<ref name="Kiriyamap153">[[桐山秀樹]]著『プリンスの墓標 堤義明 怨念の家系』153頁</ref>。政略結婚を含めたさまざまな縁談があったが、[[財閥]]でも[[名門]]でもない「サラリーマンのお嬢さん」である由利と[[見合い]]結婚をした<ref>[[中嶋忠三郎]]著『西武王国-その炎と影-狂気と野望の実録』218頁</ref>。義明の母・恒子の友人からの紹介であったという<ref name="Kiriyamap153"/>。
 
*子供
 
**'''正利'''(長男、1970-)
 
**'''千香'''(長女)
 
**'''広利'''(次男、1975-)
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*上之郷利昭 『西武王国 <small>堤一族の血と野望</small>』
 
*鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社 1965年 210-213頁
 
*[[神一行]] 『閨閥 改訂新版 {{small|特権階級の盛衰の系譜』}} [[角川書店]] 2002年 316-327頁
 
*永川幸樹 『堤義明・男の凄さ』 三笠書房
 
*成島忠昭 『西武の全て』 日本実業出版社
 
*七尾和晃 『堤義明 闇の帝国』 草思社文庫
 
*[[猪瀬直樹]] 『ミカドの肖像』 小学館文庫 ISBN 4094023127
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://kotobank.jp/word/%E5%A0%A4%E7%BE%A9%E6%98%8E 堤義明 とは - コトバンク]
 
*[http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/topic/seibu/060123_1st/ 堤家と西武グループ経営陣の闘い - nikkei BPnet]
 
 
 
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{{西武グループ}}
 
{{埼玉西武ライオンズ及びその前身球団歴代オーナー|西武ライオンズ|1978.10 - 2004.10}}
 
 
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[[Category:日本の実業家]]
 
[[Category:日本の実業家]]

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つつみ よしあき
堤 義明
生誕 (1934-05-29) 1934年5月29日(89歳)
日本の旗 日本 東京府
(現:東京都
出身校 早稲田大学
職業 実業家

堤 義明(つつみ よしあき、1934年昭和9年)5月29日 - )

昭和後期-平成時代の経営者。

昭和9年5月29日生まれ。堤康次郎の子。堤清二の異母弟。西武鉄道など西武コンツェルンの大半を昭和39年継承。国土計画(現コクド)を本拠にして,膨大な不動産運営で事業を拡大。プリンスホテルの全国展開やスポーツ・レジャー施設の開発にあたる。プロ野球球団西武ライオンズのオーナー。JOC初代会長として冬季五輪を長野に誘致した。滋賀県出身。早大卒。




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