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{{Otheruses|鎌倉幕府・室町幕府の役職}}
 
'''地頭'''(じとう)は、[[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]が[[荘園 (日本)|荘園]]・[[国衙領]]([[公領]])を管理支配するために設置した職。地頭職という。[[守護]]とともに設置された。
 
  
[[平氏政権]]期以前から存在したが、[[源頼朝]]が[[朝廷]]から認められ正式に全国に設置した。在地[[御家人]]の中から選ばれ、荘園・公領の[[軍事]]・[[警察]]・[[徴税]]・[[行政]]をみて、直接、土地や[[百姓]]などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。
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'''地頭'''(じとう)
  
== 概要 ==
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鎌倉幕府によって設けられた職名。「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも[[荘園]]の地頭にその[[家人]]が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元の献策により,文治1 (1185) 年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に[[守護]],地頭の設置を奏請し,勅許を得た。この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の[[平家没官領]]および謀反人跡に限定せざるをえなかった。[[承久の乱]] (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう)地頭などのほか[[惣地頭]],小地頭と呼ばれるものもあり,これらは本領安堵地頭,新恩地頭,臨時地頭に大別される。また得分率法の違いによって,[[本補地頭]][[新補地頭]]に分けられる。地頭の権限としては警察権,裁判権,徴税権,下地管理権,行政権などがあるが,地域,時代によって相違がある。地頭の設置により荘園制の解体が促進され,南北朝,室町時代になると,地頭は荘園における元来の性格を失い,幕府に対しても地頭職補任,安堵などによって制度的には一応関係を保ったが,実質的には[[守護大名]]の被官となりつつあり,この傾向は時代が進むにつれて顕著となった。戦国時代には地頭,地頭職の名称もほとんどなくなり,江戸時代には一部の地域で[[代官]]のことを地頭と呼ぶ以外には,まったく名残りをとどめなくなった。
<div style="border:1px solid #ccc; background:#f8f8ff; float:right; width:45%; margin:10px; padding:10px; ">
 
          (頼朝花押)<br/>
 
下  伊勢国波出御厨<br/> 補任  地頭職事<br/>      左兵衛尉惟宗忠久<br/>
 
右、件所者、故出羽守平信兼党類領也。<br/>而信兼依発謀反、令追討畢。仍任先例<br/>為令勤仕公役、所補地頭職也。早為彼職<br/>可致沙汰之状如件。以下。<br/>   元暦二年六月十五日
 
<div style="font-size:small;margin-top:1.5em;">以上は、惟宗忠久を波出御厨(伊勢国)地頭職に補任する内容の源頼朝による下文。</div>
 
</div>
 
 
 
幕府が御家人の所領支配を保証することを'''本領安堵'''(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを'''新恩給与'''(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭職への[[補任]]という手段を通じて行われた。地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。所領を巡る紛争([[所務沙汰]])の際には、幕府の保証する地頭の地位だけでは必ずしも十分ではない場合もあり、地頭の中には[[荘園領主]]・[[国司]]から[[荘官]]、[[郡司]]、[[郷司]]、[[保司]]として任命される者も少なくなかった。つまり地頭は、幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていたと見ることもできる訳である。実際に、幕府が定めた法典[[御成敗式目]]には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあった。むしろ、幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。
 
 
 
鎌倉幕府の成立段階では、荘園領主・国司の権力は依然として強く、一方地頭に任命された武士は現地の事情に疎い東国出身者が多かった。このため、独力で遠隔地の荘園の経営に当たれる現地沙汰人を準備し、年貢運搬の準備、荘園領主側との交渉、年貢の決解・算用などの事務的能力(またはそれが出来る人材)を必要とした。伊勢国治田御厨の地頭に補任されながら、現地沙汰人が荘園領主である伊勢神宮と対立して処分された[[畠山重忠]]が[[千葉胤正]]・[[里見義成]]等に対して「現地に良い[[眼代]](代官)が得られないならば、(新恩の)領地を戴くべきではない」と述べている(『吾妻鏡』文治3年10月4日条)。このため、[[大江広元]]や[[一条能保]]、[[惟宗忠久]]など京都出身の官人や家司経験者が戦功とは無関係にその事務能力によって地頭に補任された例も見られる<ref>菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)P140-147</ref>。
 
 
 
しかし、地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなかった。そのため、地頭はその地位を背景に、[[勧農]]の実施などをとおして荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う'''地頭請'''(じとううけ)を行うようになった。地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭にとって多大な利益をもたらすことが多かった。そして、この制度により地頭は荘園・公領の事実上の支配権を握った。
 
 
 
それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する'''中分'''(ちゅうぶん)が行われることもあった。中分には、両者の談合([[和与]])で決着する'''[[和与中分]]'''(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する'''[[下地中分]]'''(したじちゅうぶん)があった。
 
 
 
地頭は、居館(堀内:ほりうち等と称した)の周辺に直営地を保有していた。平安~鎌倉期の慣習では、居館は年貢・公事が免除される土地とされており、それを根拠として、地頭は居館の周辺を免税地として直営するようになった。この直営地は、'''佃'''(つくだ)、'''御作'''(みつくり)、'''正作'''(しょうさく)、'''門田'''(かどた)などと呼ばれ、地頭の従属民である'''下人'''(げにん)や'''所従'''(しょじゅう)、又は荘民に耕作をさせていた。この直営地からの収入は、そのまま地頭の収入となった。
 
 
 
以上のような地頭請・下地中分・直営地の拡大は、地頭が荘園・国衙領の土地支配権(下地進止権)へ侵出していったことを表す。当然、荘園領主は地頭の動きに対抗していたが、全般的に見ると地頭の侵出は加速していった。こうした流れは、地頭による[[一円知行]]化へと進み、次第に荘園公領制の解体を推し進めたのである。
 
 
 
地頭は元来、現地という意味を持ち、在地で荘園・公領の管理・治安維持に当たることを任務としていた。多くの地頭は任務地に在住し、在地管理を行っていた。しかし、有力御家人などは、幕府の役職を持ち、将軍へ伺候しなければならず、鎌倉に居住する者が多かった。そうした有力御家人は、自分の親族・家臣を現地へ派遣して在地管理を行わせていた。親族に管理させた場合、御家人(惣領)とその親族(庶子)との間で所領を巡る相論が発生することもあり、親族に地頭職を譲渡するケースもあった。
 
 
 
地頭の在地管理のあり方を見ると、荘園領主と異なる点が見られる。地頭は武士なので、紛争などを暴力的に解決しようとする傾向があった。著名な[[紀伊国]][[阿弖河荘]](あてがわのしょう)百姓訴状<ref>健治元年10月28日付紀伊国阿弖河荘上村百姓等申状「[[高野山文書]]」</ref>は、百姓が地頭・[[湯浅宗親]]の非法のせいで年貢(材木)納入が遅れたことを荘園領主に釈明した文書であるが、宗親が百姓を強引に徴発した様子、抵抗すると「耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って、尼にしてしまうぞ」と脅した様子などがよく記されている<ref group="注釈">この「尼にしてしまうぞ」は、女性の頭を剃ってしまう、つまり坊主頭にするという意味であって、出家させるという意味ではない。</ref>。また、'''「泣く子と地頭には勝てぬ」'''という言葉もある。
 
 
 
== 沿革 ==
 
=== 発生 ===
 
地頭は元々、[[平安時代]]中期頃から、土地のほとり、すなわち「現地」を意味する語として使用され始めたとする<ref>上横手雅敬「地頭概念の変遷」『日本中世政治史研究』塙書房、1970年</ref>。また、ほとりを「境界」を意味する語と解して土地の境界を確定させる行為が転じて境界を確定・支配する人の意味になったとする説もある<ref>保立道久「平安時代の国家と荘園制」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年(原報告:1992年)</ref>。さらに日本の地頭の成立とは直接的には無関係であるものの、中国・唐の[[安史の乱]]後([[8世紀]]後期)に実施されていた地税の1つである「地頭銭」と語源を同じくするとする説がある。この説によれば、地頭の“頭”は、本来は“主”と同義であり、地頭とは土地の主すなわり土地神の事を指したが、その土地の開発を希望する者はその地の土地神を祀る事で、土地神から土地を開発する権利を得た。唐では開発者が土地神(地頭)に対する祭祀の為に捧げた銭が地税(地頭銭)へと転化され、日本では土地神(地頭)に対する祭祀を行った人すなわち開発領主が地頭人・地頭と称されるようになったと言うものである<ref>古賀登「唐の青苗銭・地頭銭について」(『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年)</ref>。
 
 
 
その後、現地で領地を支配する有力者、又は荘園を現地管理する荘官職、公領を現地管理する郡司、郷司、保司の各職を表すようになった。平安末期の[[平氏政権]]下では、[[平氏]]が所領の現地管理者として家人の[[武士]]を地頭に任命した事例がわずかながらも見られたが、その実態や職務はよく判っていない。
 
 
 
平氏政権に対抗して、関東に独自の支配権を確立した[[源頼朝]]の武士政権(後の鎌倉幕府)は、傘下の武士(すなわち[[御家人]])を地頭に任命することで、自らの支配権を強めていった。また、御家人の多くは、荘園の荘官、公領の郡司、郷司、保司であり、荘園領主([[本所]])や[[国司]](特にその筆頭官としての[[受領]])の家人・[[被官]]としての地位しか与えられていなかったが、関東を実効支配していた頼朝政権に地頭職を補任されることにより、在地領主としての地位を認められたのである。
 
 
 
ところで頼朝政権は当初、関東の私的な政治・軍事勢力に過ぎなかったが、平氏政権との内戦([[治承・寿永の乱]])を経るに従い、[[後白河天皇|後白河法皇]]を中心とする公権力([[朝廷]])から徐々に東国支配権を認められ、政権の正統性を獲得していった。平氏滅亡後の[[文治]]元年([[1185年]])10月、[[源義経]]・[[源行家]]が鎌倉に対して挙兵すると、11月に上洛した[[北条時政]]の奏請により、義経・行家の追討を目的として諸国に「守護地頭」を設置することが勅許された([[文治の勅許]])。鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は[[寿永二年十月宣旨]]と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。
 
 
 
一方、[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』11月28日条には「守護地頭」の語句がなく、『[[吾妻鏡]]』11月28日条の「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代後期の史料に多く見える文言であることから、[[石母田正]]は鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘し、『吾妻鏡』文治2年3月1日条、2日条の「七ヶ国地頭」の記述から「一国地頭職」の概念を提唱した(「鎌倉幕府一国地頭職の成立」『中世の法と国家』東京大学出版会所収、1960年)。この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて多くの議論が展開され、現在ではこの時に設置されたのは鎌倉時代に一般的だった[[大犯三ヶ条]]を職務とする[[守護]]、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「[[国地頭]]」であり、守護の前段階とする説が有力となっている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』〈講談社選書メチエ〉講談社、1996年)。
 
 
 
頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、地頭の設置範囲は[[平家没官領]](平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定された<ref>平家没官領に対しても朝廷の巻き返しがあり、後白河法皇は3月に平家没官領の丹波国五箇荘を院領にするよう命じている(『吾妻鏡』文治2年3月8日条)。</ref>。しかし、後白河法皇が[[建久]]3年([[1192年]])に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。
 
 
 
=== 発展 ===
 
[[1221年]]の[[承久の乱]]での勝利により、鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住していった。これを'''新補地頭'''(しんぽじとう)といい、それ以前の地頭は'''本補地頭'''(ほんぽじとう)と呼ばれた。また、新補地頭の給分を定めた規定を'''新補率法'''(しんぽりっぽう)といい、その内容は、
 
# 田畠11町当たり1町を、年貢を荘園領主・国司へ納入する必要のない地頭[[給田|給田畠]]とする。
 
# 田畠1段当たり5升の米([[加徴米]])の徴収権を新補地頭へ与える。
 
# 山野河海の収益は、地頭と荘園領主・国司が折半する。
 
# 地頭の検断により逮捕された犯人の財産の3分の1が、地頭へ与えられる。
 
というものだった。ただし、土地の慣習・先例がある場合は、新補率法に優先した。なお、後に新補地頭を兼ねた本補地頭が、本補地頭としての給分も新補率法に合わせようとする[[両様兼帯]]の問題も生じた。新補地頭として西日本に所領を獲得し、一族郎党が移住した御家人には、[[安芸国|安芸]]の[[毛利氏]]・[[熊谷氏]]・[[吉川氏]]、[[阿波国|阿波]]の[[小笠原氏]]、<ref group="注釈">小笠原氏は、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]方に付いた[[佐々木氏]]に代わって、[[阿波国]]の[[守護]]にも任じられている。阿波へ移住した一族の中から、後に[[三好氏]]が出る。</ref>[[肥前国|肥前]]・[[薩摩国|薩摩]]の[[千葉氏]]、薩摩の[[渋谷氏]]などがある。かなり大規模な移住だったため、「[[日本史]]上の[[民族大移動]]」と評する論者もいる<ref group="注釈">西日本ではないが、[[三河国]]の守護職と荘園の地頭職を獲得した[[足利氏]]も、[[吉良氏]]をはじめとする支流が、この時期に三河へ多数移住している。</ref>。
 
 
 
=== 室町期 ===
 
鎌倉期の守護は、軍事・警察権の行使が主な任務であり、経済的権能は付与されていなかった。そのため、在地の地頭が積極的に荘園・国衙領へ侵出することができていた。
 
 
 
しかし、室町期になると、守護に[[半済]]や[[使節遵行]]の権利が付与され、守護の経済的権能が一気に拡大することとなった。守護は、獲得した経済力を背景に、国内の地頭やその他の武士・[[名主]]・有力者層を[[被官]]として自らの統制下へ置こうとし、国内への影響力を強めていった。そうなると、鎌倉期以来の地頭という地位は意義を失い、従来の地頭は、他の武士・有力名主らと同様に'''[[国人]]'''(こくじん)へと変質していき、[[守護領国制]]が成熟する室町中期までに地頭は名実ともに消滅した。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
江戸期においては、[[旗本]]や[[御家人]]といった[[大名]]に至らない小領主(概ね1万石未満)を意味する語として残る<ref>[[公事方御定書]]第三条『御料一'''地頭'''地頭違出入並びに跡式出入取捌之事』</ref>。その他諸藩において[[地方知行]]を受ける[[給人]]を指す言葉に「地頭」を指すものが存在した。「山形県史ー第3巻ー」によると[[出羽国]][[米沢藩]]では給人のことを、給地の農民が「地頭様」と呼称していたとしている。また、[[上杉重定]]の側近[[森利真]]の権勢を家老らが批判する際に「半国の地頭のよう」と形容している。また、[[島津氏]]の支配下の[[薩摩藩]]及び[[日向国]]の[[伊東氏]]支配地域でも、役職としての「地頭」の名称が残り、[[江戸時代]]に薩摩藩や飫肥藩となっても存続した。但し、これは[[城代]]の延長であり前時代の「地頭」とは似て非なる物である。
 
 
 
==== 薩摩藩 ====
 
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===== 歴史 =====
 
戦国時代、島津氏支配地や[[肝付氏]]支配地であった薩摩国や[[大隅国]]では「地頭」の名称が残った。戦国期の地頭としては肝付氏支配地の内之浦地頭[[薬丸兼将]]や[[島津忠良]]の支配地の[[川辺郡 (鹿児島県)|加世田]]地頭奈良原長門守の名が「諸郷地頭系図」に登場する。その後[[江戸時代]]に薩摩藩となっても存続した。
 
 
 
当初、地頭は現地に移住していた。この勤務形態を「'''居地頭'''」といい、郷士とは寄親・寄子の関係であった。[[寛永]]年間以降は藩の重役が兼務する事が多くなり、任期中も[[鹿児島城]]下に居住した。これを「'''掛持ち地頭'''」といい、地頭と郷士は単に中央役人と地方役人の関係となる。幕末に一時的に居地頭が復活した。
 
 
 
明治初期にも本職は残り、長年にわたって[[日向国|日向]][[都城市|都城]]領主であった[[北郷氏|都城島津家]]が、鹿児島市内に移された後、地頭として[[三島通庸]]が送られ、不平士族をなだめるのに辣腕を発揮し、[[廃藩置県]]までその職を務めた例がみられる。また、明治期の伊集院郷の地頭には郷士が採用された。
 
 
 
===== 概要 =====
 
役職内容は[[江戸幕府]]の関東付近の[[代官]]とほぼ同じである。薩摩藩では[[薩摩藩家臣|一門家や一部の一所持]]の領地である私領と藩主直轄地に分かれるが、地頭は直轄地の方に配属された。江戸幕府の代官との一番の違いは、薩摩藩の大半の郷の地頭は[[家老]]から側役(以前[[近習]]と呼ばれていた職)までの薩摩藩重役が兼務していた点である。また、上は一所持から下は一代小番(御小姓与や新番が10人扶持級以上の役職についてなったもの)までの城下士が就任した。
 
 
 
郷での実際の行政は上級[[郷士]]により運営されていたが、上級郷士で解決できない案件は地頭の裁量となる。また、一部の郷では地頭代が派遣された。なお「掛持ち地頭」の勤務形態になって以降、基本的には地頭は城下に滞在し行政は地元の郷士に任せていたが、藩法上、地頭は就任から4年~5年以内に1回目の現地視察を義務づけられていた。また藩重役には私領主も就任していたので、例えば吉利(現在の[[日置市]][[日吉町 (鹿児島県)|日吉町]]吉利)領主[[小松清猷]]が清水郷(現在の[[霧島市]]国分清水町他)地頭職に就任したように、私領主が地頭を兼任することもあった。ただし、居地頭制が存続した[[長島 (鹿児島県)|長島郷]]や[[甑島|甑島郷]]の地頭は他職との兼職ではなく「無役之移地頭」と呼ばれ、席次は船奉行と物頭の間に置かれた。
 
 
 
「三州御治世要覧」によると、小姓与格や新番格の武士が地頭に就任すると、[[家格]]を「代々小番」に昇格させることができる特権があった。通常、小姓与格や新番格の武士が10人扶持以上の役職に就任すると「一代小番」に昇格することが出来たがこれは本人一代限りの昇格であり、子孫は元来の家格のままであった。更に、世襲の代々小番に昇格するには側役以上の役職に就くか、三代続けて10人扶持以上の職に就く必要があった。しかし、地頭を兼務すると一代で代々小番に昇格できた。
 
 
 
また、後任の地頭が決まらない地は「明所」と呼ばれ、大番頭職の管理下に置かれた。但し、[[出水郡|出水郷]]や[[志布志町|志布志郷]]、[[伊集院町|伊集院郷]]といった重要な郷に関しては明所とせずに他の郷の地頭が兼任した。例えば[[島津久風]]は加世田郷地頭時代に二度出水郷地頭を兼務している。なお、この場合、島津久風は『加世田郷地頭兼出水郷地頭』ではなく、『加世田郷地頭及び出水郷預かり(『差引』と表記される場合も)』となる。
 
 
 
==== 飫肥藩 ====
 
[[飫肥藩]]においても、城代の延長として地頭職の名称が残った。とくに重要な地頭職は[[清武町|清武]]地頭であり、飫肥藩東北の要である清武における藩主代理ともいえる職であった。飫肥藩分限帳<ref name="a">参照:野田敏夫校訂「飫肥藩分限帳」(昭和49年12月3日、日向文化談話会発行)所収</ref>では、清武地頭の他に、酒谷地頭や北河内地頭、[[油津港|油津]]地頭、大堂津地頭などが散見できる。なお、地頭は薩摩藩同様に城下士より任命され、清武地頭は[[馬廻]]から出たが、その他の地頭は中士である中小姓や下士である[[徒士]]からも出た。
 
 
 
当初、清武地頭は[[宝永]]2年([[1705年]])から[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])まで伊東織部祐全が就任した以外はほとんど[[河崎氏]]が就任していたが、[[享保]]9年([[1724年]])5月に長倉善左衛門が就任して以後は河崎氏以外が就任した<ref name="a"/>。
 
 
 
== 注釈 ==
 
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== 出典 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[国地頭]]
 
*[[地頭代]]
 
*[[職の体系]]
 
*[[文治の勅許]]
 
*[[荘園]]
 
*[[荘園公領制]]
 
*[[地頭方]]
 
*[[安堵]]
 
*[[豪族]]
 
  
 +
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{{DEFAULTSORT:しとう}}
 
{{DEFAULTSORT:しとう}}
 
[[Category:鎌倉幕府の職制]]
 
[[Category:鎌倉幕府の職制]]

2018/12/29/ (土) 12:18時点における最新版

地頭(じとう)

鎌倉幕府によって設けられた職名。「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも荘園の地頭にその家人が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元の献策により,文治1 (1185) 年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に守護,地頭の設置を奏請し,勅許を得た。この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の平家没官領および謀反人跡に限定せざるをえなかった。承久の乱 (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう)地頭などのほか惣地頭,小地頭と呼ばれるものもあり,これらは本領安堵地頭,新恩地頭,臨時地頭に大別される。また得分率法の違いによって,本補地頭新補地頭に分けられる。地頭の権限としては警察権,裁判権,徴税権,下地管理権,行政権などがあるが,地域,時代によって相違がある。地頭の設置により荘園制の解体が促進され,南北朝,室町時代になると,地頭は荘園における元来の性格を失い,幕府に対しても地頭職補任,安堵などによって制度的には一応関係を保ったが,実質的には守護大名の被官となりつつあり,この傾向は時代が進むにつれて顕著となった。戦国時代には地頭,地頭職の名称もほとんどなくなり,江戸時代には一部の地域で代官のことを地頭と呼ぶ以外には,まったく名残りをとどめなくなった。



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