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{{基礎情報 公家
 
{{基礎情報 公家
 
| 氏名 = 在原 業平(朝臣)
 
| 氏名 = 在原 業平(朝臣)
| 画像 = Sanjūrokkasen-gaku - 7 - Kanō Tan’yū - Ariwara no Narihira Ason.jpg
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| 画像説明 = 在原業平([[狩野探幽]]『三十六歌仙額』)
 
 
| 時代 = [[平安時代]]
 
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| 生誕 = [[825年]]([[天長]]2年)
 
| 生誕 = [[825年]]([[天長]]2年)
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| 特記事項 =  
 
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}}
'''在原 業平'''(ありわら の なりひら)は、[[平安時代]]初期の[[貴族]]・[[歌人]]。[[平城天皇]]の孫。[[贈位|贈]][[一品親王|一品]]・[[阿保親王]]の五男。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[蔵人頭]]・[[近衛府|右近衛権中将]]。
+
'''在原 業平'''(ありわら の なりひら)
 
 
[[六歌仙]]・[[三十六歌仙]]の一人。別称の'''在五中将'''は[[在原氏]]の五男であったことによる。
 
 
 
全百二十五段からなる『[[伊勢物語]]』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
 
 
 
== 出自 ==
 
父は[[平城天皇]]の第一[[皇子]]・[[阿保親王]]、母は[[桓武天皇]]の[[皇女]]・[[伊都内親王]]で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・[[桓武天皇]]の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、[[薬子の変]]により皇統が[[嵯峨天皇]]の子孫へ移っていたこともあり、[[天長]]3年([[826年]])に父・阿保親王の[[上表]]によって[[臣籍降下]]し、兄・[[在原行平|行平]]らとともに[[在原氏|在原朝臣]]姓を名乗る。
 
 
 
== 経歴 ==
 
[[仁明天皇|仁明]]朝では[[近衛府|左近衛将監]]に[[蔵人]]を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の[[嘉祥]]2年([[849年]])無位から[[従五位|従五位下]]に[[蔭位|直叙]]される。[[文徳天皇]]の代になると全く昇進が止まり、[[官職]]に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした<ref group="注釈">『日本三代実録』によると、貞観4年の従五位上の叙位は正六位上からの昇叙と記されており、文徳朝で位階を降格された可能性もある。</ref>。
 
 
 
[[清和天皇]]のもとで再び昇進し、[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])に従五位上に叙せられたのち、[[兵衛府|左兵衛権佐]]・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、貞観11年([[869年]])に[[正五位|正五位下]]、貞観15年([[873年]])には[[従四位|従四位下]]に昇叙される。
 
 
 
[[陽成天皇|陽成]]朝でも順調に昇進し、[[元慶]]元年([[877年]])に従四位上、元慶3年([[879年]])には[[蔵人頭]]に叙任された。また、[[文徳天皇]]の[[皇子]]・[[惟喬親王]]に仕え、[[和歌]]を奉るなどしている。[[元慶]]4年([[880年]])5月28日、[[崩御#卒去|卒去]]。[[享年]]56。最終[[官位]]は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
 
 
 
== 人物 ==
 
[[File:Tsukioka Yoshitoshi - Narihira and Nijo no Tsubone at the Fuji River - Google Art Project.jpg|thumb|在原業平と二条后([[月岡芳年]]画)|287x287ピクセル]]
 
『[[日本三代実録]]』の卒伝<ref>『日本三代実録』元慶4年5月28日条</ref>に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、[[和歌]]はすばらしい、という意味だろう。<ref>谷口榮「在原業平」 / 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 21ページ</ref>
 
 
 
[[歌人]]として『[[古今和歌集]]』の30首を始め、[[勅撰和歌集]]に87首が入集している<ref>『[[勅撰作者部類]]』</ref>。子の[[在原棟梁|棟梁]]・[[在原滋春|滋春]]、棟梁の子・[[在原元方|元方]]はみな歌人として知られる。兄・[[在原行平|行平]]ともども[[鷹狩]]の名手であったと伝えられる<ref>「鷹狩」を執着とも言えるほどに趣味とした[[桓武天皇]]の子孫にあたる</ref>。
 
 
 
早くから『[[伊勢物語]]』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が[[藤原氏]]ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、[[清和天皇]][[女御]]でのち[[皇太后]]となった二条后([[藤原高子]])、惟喬親王の妹である[[斎宮|伊勢斎宮]][[恬子内親王]]とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら[[反体制]]的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって[[高階師尚]]が生まれたという説が派生し、以後[[高階氏]]は業平の子孫ではないかと噂された。
 
 
 
[[紀有常]]女([[惟喬親王]]の従姉にあたる)を妻とし、[[紀氏]]と交流があった。しかし一方で、[[藤原基経]]の四十の賀で和歌を献じた。<ref group="注釈">「桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道紛ふがに」『古今和歌集』巻七、賀歌。但し「桜花散りかい曇れ」といった不吉な歌い出しではじまるなど、純粋な言祝ぎの歌と単純に解釈すべきか、微妙な一首ではあったのかもしれない。</ref>また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・[[藤原国経]]の妻となったのち、基経の嫡男[[藤原時平|時平]]の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。
 
 
 
また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により[[廃太子]]させられた叔父の[[高岳親王]]など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
 
 
 
== 官歴 ==
 
注記のないものは『[[六国史]]』による。
 
* [[承和 (日本)|承和]]12年([[845年]]) 日付不明:[[近衛府|左近衛将監]]<ref name="36kd">『三十六人歌仙伝』</ref>
 
* 承和14年([[847年]]) 1月12日<ref>ユリウス暦では2月1日</ref>:[[蔵人]]<ref name="36kd" />
 
* [[嘉祥]]2年([[849年]]) 1月7日<ref>ユリウス暦では2月3日</ref>:[[従五位|従五位下]]([[蔭位|直叙]])
 
* [[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]]) 3月7日<ref>ユリウス暦では4月9日</ref>:従五位上
 
* 貞観5年([[863年]]) 2月10日<ref>ユリウス暦では3月3日</ref>:[[兵衛府|左兵衛権佐]]。3月28日:[[侍従|次侍従]]
 
* 貞観6年([[864年]]) 3月8日<ref>ユリウス暦では4月17日</ref>:左近衛権少将
 
* 貞観7年([[865年]]) 3月9日<ref>ユリウス暦では4月8日</ref>:[[馬寮|右馬頭]]
 
* 貞観11年([[869年]]) 1月7日<ref>ユリウス暦では2月21日</ref>:[[正五位|正五位下]]
 
* 貞観15年([[873年]]) 1月7日<ref>ユリウス暦では2月8日</ref>:[[従四位|従四位下]]<ref name="36kd" />
 
* 貞観17年([[875年]]) 1月13日<ref>ユリウス暦では2月22日</ref>:右近衛権中将
 
* [[元慶]]元年([[877年]]) 11月21日<ref>ユリウス暦では12月29日</ref>:従四位上
 
* 元慶2年([[878年]]) 1月11日<ref>ユリウス暦では2月16日</ref>:兼[[相模国#国司|相模権守]]
 
* 元慶3年([[879年]]) 10月11日<ref>ユリウス暦では10月29日</ref>:[[蔵人頭]]、右近衛権中将・相模権守如元
 
* 元慶4年([[880年]]) 月日不詳:去相模権守、兼[[美濃国#国司|美濃権守]]。5月28日:[[崩御#卒去|卒去]](蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守)
 
 
 
== 系譜 ==
 
*父:[[阿保親王]]
 
*母:[[伊都内親王]]
 
*妻:[[紀有常]]の女
 
**長男:[[在原棟梁]](?-898)
 
*生母不明の子女<ref group="注釈">『伊勢物語注冷泉家流』では滋春の母を染殿内侍としている。また、『[[本朝皇胤紹運録]]』によると、滋春及び[[高階師尚]]を在原業平と恬子内親王の子とするが、真実性には疑問がある。</ref>
 
**次男:[[在原滋春]]
 
**女子:在原美子<ref>『[[系図纂要]]』</ref> - [[藤原保則]]室、[[藤原清貫]]の母
 
 
 
== 短歌 ==
 
[[勅撰和歌集]]に80首以上入撰した、[[六歌仙]]・[[三十六歌仙]]の一人ではあるが、自撰の[[私家集]]は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『[[後撰和歌集]]』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『[[古今和歌集]]』である。また『[[伊勢物語]]』は業平の歌を多く使った[[歌物語]]であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。
 
 
 
=== 代表歌 ===
 
*ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは &mdash; 『古今和歌集』『[[百人一首|小倉百人一首]]』撰歌。落語「[[千早振る]]」も参照。
 
*世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし &mdash; 『古今和歌集』撰歌。
 
*忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは &mdash; 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
 
*から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ &mdash; 『古今和歌集』撰歌。
 
*名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと &mdash; 『古今和歌集』撰歌。
 
* 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして &mdash;『古今和歌集』巻十五、恋歌五。
 
 
 
== ゆかりの地 ==
 
[[ファイル:在平業平3748.JPG|thumb|200px|在原業平邸址、京都市中京区]]
 
[[ファイル:AriwaraNarihiraZou.jpg|thumb|在原業平像(愛知県知立市 無量寿寺)|348x348ピクセル]]
 
業平がモデルと言われる人物はさまざまな物語や文献に登場している。 業平に関連した[[伝説]]は各地に伝わっている。
 
 
 
;[[奈良県]][[奈良市]]
 
:奈良市法蓮町にある[[不退寺]]は、[[仁明天皇]]の勅願を受け在原業平が開基した。寺伝によれば不退寺は、元は祖父・[[平城天皇]]が[[薬子の変]]のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われる。平城天皇の皇子・[[阿保親王]]やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
 
; 奈良県[[天理市]]、[[斑鳩町]]、[[大阪府]][[八尾市]]
 
:天理市櫟本町の[[在原神社]]は業平生誕の地とされ、『[[伊勢物語]]』の23段「[[筒井筒]]」のゆかりの地でもある。境内には[[筒井筒]]で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる[[業平道]]([[横大路 (奈良県)|横大路]]、[[竜田越奈良街道|竜田道]])が伸びている。ただしこの高安が何処を指すかについては、奈良県[[生駒郡]]斑鳩町[[高安 (斑鳩町)|高安]]と[[大阪府]][[八尾市]][[高安 (八尾市)|高安]]の2説がある。また、龍田から[[河内国]]高安郡への道筋については、[[大県郡]](大阪府[[柏原市]])を経由したとする説と、[[平群町]]の[[十三峠]]を越えたとする説がある。[[俊徳街道・十三街道]]も参照。
 
;[[愛知県]][[知立市]]八橋
 
:伊勢物語に登場する地名。現在の知立市八橋町。
 
:無量寿寺から10分ほど離れた落田中の一本松で[[かきつばた]]の歌を詠んだと伝えられている。在原寺は在原業平の骨を分け寛平年間に築いたと伝わる在原塚を守るため建立された。後の鎌倉末期頃に供養塔も建立された。現在の愛知県の県花がかきつばたに制定されているのは、この故事にちなんでいる。
 
;[[業平橋]]([[東京都]][[墨田区]]、[[埼玉県]][[春日部市]]、[[兵庫県]][[芦屋市]]、斑鳩町)、[[言問橋]]
 
:墨田区と春日部に[[業平橋]]という橋が架かっている。墨田区の橋については[[業平橋 (墨田区)]]を参照。
 
:墨田区には[[言問橋]]という橋があるが、これも前述の[[伊勢物語]]9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。
 
:芦屋市の[[芦屋川]]の[[業平橋 (芦屋市)|業平橋]]、斑鳩町の[[富雄川]]の[[業平橋 (斑鳩町)|業平橋]]もある。
 
:[[浅草通り]]にある[[業平橋 (墨田区)|業平橋]]に隣接する東武鉄道の駅はかつて「業平橋駅」と呼ばれていた。(現在は駅隣接地に[[東京スカイツリー]]が建設され、[[とうきょうスカイツリー駅]]に改名)<!--
 
「おしなりくん」は、業平橋にちなみ、業平記事からは2次的だから、いらなかろう。
 
-->
 
;[[京都府]][[京都市]]
 
:京都市[[西京区]]にある[[十輪寺 (京都市)|十輪寺]]は在原業平が晩年住んだといわれる寺で、業平寺とも言われる。
 
;[[滋賀県]][[高島市]]
 
:高島市マキノ町在原には、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔がある。
 
;[[岐阜県]][[不破郡]][[垂井町]]
 
:880年[[美濃国|美濃]][[権守]]に任じられ、美濃[[国府]]に赴任した際に表佐(おさ)に館を建立したといわれている。その年に業平が亡くなると、天皇の勅願により館跡に[[業平寺]]が開創された。1783年永平寺の天海和尚が業平寺を再興して現在は在原山[[薬師寺 (垂井町)|薬師寺]]<ref>[http://www.tarui-kanko.jp/docs/2015071600224/ 垂井町]</ref>となっている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典ほか ===
 
{{reflist}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』[[戎光祥出版]]、2009年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{ウィキポータルリンク|文学|[[File:Hyakuninisshu 017.jpg|60px]]}}
 
{{commons|Category:Ariwara no Narihira}}
 
{{Wikiquote|在原業平}}
 
* [[伊勢物語]]、[[筒井筒]]、[[井筒 (能)]]、[[雲林院 (能)]]
 
* [[業平|業平(東京都墨田区)]]
 
* [[在原神社]]
 
* [[竜田川]]、[[奈良県立竜田公園|竜田公園]]
 
* [[長野業正]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i077.html 『業平集』](日文研データベース)
 
 
 
  
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平安時代前期~中期の歌人。[[六歌仙]],[[三十六歌仙]]の一人。平城天皇皇子阿保 (あぼ) 親王の第5子。母は桓武天皇皇女伊登 (いと) 内親王。天長3 (826) 年在原姓を賜わり,従四位上,右近衛権中将にいたった。在中将,在五中将とも呼ばれる。『[[伊勢物語]]』の主人公に擬せられ,その奔放な行動と情感のあふれた歌によって小野小町と並称される。『古今集』以下の勅撰集に 90首近く入集。家集『業平集』が『[[三十六人集]]』中に収められている。二条后高子 (たかいこ) や斎宮恬子 (てんし) らとの恋愛,東下り,惟喬 (これたか) 親王との親交などが虚実入り交って伝えられ,謡曲『杜若 (かきつばた) 』『井筒』をはじめ多くの文芸作品の素材となった。その子に棟梁 (むねやな) ,滋春 (しげはる) ,孫に元方 (もとかた) らの歌人がいる。容姿が美しく,後世,美男の代名詞とされた。
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[[Category:平安時代の歌人]]
 
[[Category:平安時代の歌人]]

2018/9/22/ (土) 11:16時点における最新版

在原 業平(ありわら の なりひら)

平安時代前期~中期の歌人。六歌仙三十六歌仙の一人。平城天皇皇子阿保 (あぼ) 親王の第5子。母は桓武天皇皇女伊登 (いと) 内親王。天長3 (826) 年在原姓を賜わり,従四位上,右近衛権中将にいたった。在中将,在五中将とも呼ばれる。『伊勢物語』の主人公に擬せられ,その奔放な行動と情感のあふれた歌によって小野小町と並称される。『古今集』以下の勅撰集に 90首近く入集。家集『業平集』が『三十六人集』中に収められている。二条后高子 (たかいこ) や斎宮恬子 (てんし) らとの恋愛,東下り,惟喬 (これたか) 親王との親交などが虚実入り交って伝えられ,謡曲『杜若 (かきつばた) 』『井筒』をはじめ多くの文芸作品の素材となった。その子に棟梁 (むねやな) ,滋春 (しげはる) ,孫に元方 (もとかた) らの歌人がいる。容姿が美しく,後世,美男の代名詞とされた。




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