国際日付変更線

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経度180°付近にある国際日付変更線
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地球が丸いために発生する矛盾に対応する

国際日付変更線(こくさいひづけへんこうせん、International Date Line、略してIDL)は、日付の更新の矛盾を防ぐために地球上に設けられた、ほぼ経度180度の地点を結ぶ理論上の線。単に日付変更線ともいう。

概要

経度で15度異なる地域では、1時間だけ現地時刻が異なる。旅行者が15度移動するたびに時計の針を1時間ずつずらしていくと、世界を一周したとき、時刻は正しいが日付が1日異なることになる。これを防ぐため、国際日付変更線を西から東にまたぐ場合は日付を1日戻し、東から西に跨ぐ場合は日付を1日増やす。

このため、国際日付変更線をまたいだとたん、前日に戻ったり、計算上一瞬で24時間後になったりする。実際、オセアニアの航空路線の中には、実際の飛行時間としては6時間未満なのに到着日付が2日後になったり、逆に前日になったりするものも少なくない(たとえばグアムホノルル行き航路では、到着日付が前日になる)。

国際日付変更線は、陸上の隣の町や村で日付が変わるなどの不便がないように、海上に設定されている[1]。この線はどこかの機関が制定、届出、認可をしているものではなく、日付変更線付近に所在する国や地域が国内法で地方標準時を定めているに過ぎない。

反対側(経度0度)は本初子午線となる(グリニッジ子午線とは位置が微妙に異なる)。

歴史

16世紀にマゼラン一行が西回りでの世界一周航海を達成して出発地のスペインへ帰り着いた際、この日付の矛盾が発覚した。乗組員のピガフェッタは世界一周航海にあたって日記をつけていたが、帰路でアフリカの西にあるヴェルデ岬諸島に寄港したとき、日記に記録していた曜日は現地の曜日より1日遅れていた。さらに乗組員たちは、帰着後に自分たちが記録した日付が正しいとも主張したため大騒ぎになり、ローマ教皇のところに使者が出される事態にまで発展した。

この矛盾は、現在では容易に説明が付く。マゼラン一行は地球の自転とは逆向きに世界を一周したため、地球が自転した回数よりも彼らが地球の周りを回った回数が1周少ない。つまり、彼らが見た日の出の回数は出発地のスペインにとどまっていた人々が見た回数より1回少なくなる。

もし、一行が逆の向きで世界一周をしたならば、一行は地球の自転の回数に加え、さらにもうひと回りしてしまうことになるため、日付は1日減らさなければ他の人々と日付が合わなくなる。

日付変更線の移動

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1888年の百科事典に載っている地図(間違っている)。フィリピンに関しては1845年以前のことが、アラスカに関しては1867年以後のことが書かれている。

1844年のフィリピン

かつてスペイン領であったフィリピンは、1844年12月30日まで、日付変更線の東側に位置していた。フィリピンはヌエバ・エスパーニャの一部として、長らくメキシコアカプルコとの重要な交易拠点であった。それゆえフィリピンは、太平洋の西の端にあるにもかかわらず、日付変更線の東側に置かれた。計算上、ロンドンが火曜日の深夜0時1分の時、アカプルコは月曜日の17時21分、マニラは月曜日の朝の8時5分である。1840年代の間、貿易の関心は中国オランダ領東インドとその隣接地域に移り、フィリピンは日付変更線の西側へ変更された。これにより、フィリピンでは、1844年12月30日月曜日の次の日が1845年1月1日水曜日になった。1844年は閏年であるにもかかわらず、365日の年として1年が終わった[2]

1867年のロシア

かつてロシア領であったアラスカは、1867年10月17日ユリウス暦10月6日)まで、日付変更線の西側に位置していた。1867年までアラスカはロシア領であり、ロシアの日付を使っていた。これに従い、日付変更線の一部はロシア領アラスカブリティッシュコロンビア入植地を含む英領北アメリカの間に定められていた。当時ロシアはユリウス暦を、アメリカグレゴリオ暦を使っていたため、アメリカがアラスカを購入するまで、例えばアラスカの1867年10月6日金曜日は、アメリカにおいて10月18日金曜日であった。具体的にはノボ・アルハンゲリスク(ニュー・アークエンジェル、現在のシトカ)の時間が10月6日金曜日昼12時ちょうどのとき、今で言うユーコン準州ホワイトホースの位置で10月17日木曜日昼12時02分、今で言うブリティッシュコロンビア州のバンクーバーの位置で10月17日昼12時49分であった。やがて統治権がアメリカに移譲され、アラスカは日付変更線の移動によって1日分戻り、暦の変更によって12日分進んだ。ただし日付の変更は深夜12時に実行されたため、日付変更線の移動と日数の経過が打ち消しあい、変更は正味12日分進めるだけであった。その結果、10月6日金曜日の次の日が(10月7日土曜日ではなく)10月18日金曜日になった。

1892年と2011年のサモア

サモア諸島は、1892年7月4日まで、日付変更線の西側に位置していたが、アメリカとの貿易上の都合によりMalietoa Laupepaによって日付変更線の東側に移された。これにより、サモアの標準時はUTC+13からUTC-11になった。日付は、7月4日を二回繰り返すことによって変更された。

2011年サモア独立国トケラウは日付変更線の西側になり、12月29日の次の日が12月31日になった[3]。変更する理由として、サモアのトゥイラエパ・サイレレ・マリエレガオイ首相は、2011年現在の最大の貿易相手であるオーストラレーシアと取引する際に、日付変更線によって毎週2営業日が無駄になっていることを挙げた[4]。なお、アメリカ領サモアは、日付変更線の東側のままである。

1995年のキリバス

かつてイギリス領であったキリバスギルバート諸島)は、1979年に独立した際にアメリカからフェニックス諸島ライン諸島を獲得し、国土が日付変更線をまたぐ形となった。それゆえ公官庁が無線や電話で連絡できるのは、日付変更線の東西双方とも平日である週4日間のみであった。1995年1月1日、それまで日付変更線の西側にあった領域の日付が変更され、日付変更線が国土をぐるりと一周することになった。これにより標準時がUTC-11とUTC-10の地域がそれぞれUTC+13(フェニックス諸島)とUTC+14ライン諸島:キリバスの最東端カロリン島を含む)になり、結果としてライン諸島は地球上で最も早く2000年を迎えた[5]

日付変更線が登場する作品

八十日間世界一周

日付変更線を上手く利用した小説が、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』である。この物語の中では、80日で世界一周が出来るかどうかの賭けが行われた。東回りの旅の途中で幾つものトラブルがあり、予定より1日遅い81日目に主人公達は世界一周の旅を終えて戻った。しかし、実際の日付は80日後だったことが結末で判明し、主人公達は賭けに勝利する。これは、国際日付変更線がまだ一般的でなかった時代に、これをトリックとして使ったものである。

前日島

ウンベルト・エーコの小説『前日島』は、日付変更線上にある「前日島」が舞台となっている。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク