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'''国司'''(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の[[日本]]で、地方行政単位である[[令制国|国]]の行政官として中央から派遣された官吏で、[[四等官]]である'''守'''(かみ)、'''[[介]]'''(すけ)、'''[[掾]]'''(じょう)、'''[[目 (国司)|目]]'''(さかん)等を指す(詳細は[[古代日本の地方官制]]も併せて参照のこと)。守の[[唐名]]は[[刺史]]、[[太守]]など。
 
  
[[郡]]の官吏([[郡司]])は在地の有力者、いわゆる旧[[豪族]]からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は[[国衙]]において政務に当たり、[[祭祀]]・[[行政]]・[[司法]]・[[軍事]]のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。
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'''国司'''(こくし、くにのつかさ)
  
== 沿革 ==
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「くにのみこともち」ともいい,令制の地方官の一つ。「[[十七条憲法]]」にすでにこの語がみえ,また大化改新のとき,東国の国司を任命したことがみえる。令制では,日本を 66国2島に分け,国を大,上,中,下の4等級として,それに応じた一定数の国司をおいたものと思われる。すなわち,守 (かみ) ,介 (すけ) ,掾 (じょう) ,目 (さかん) の4等官の国司が中央から派遣され,国の行政,司法,警察を司った。このうち,守は一国の政務を統轄して,行政,司法,警察のすべてにあたり,介は守を補佐して政務を代行し,掾は国内の非違を正すことをおもな職務とし,目が作成した文書の審査などを行なった。これらの下に書記や雑務をとる史生がいた。国司の任期は,令制では6年とされていたが,その後,特殊な地域を除いては4年と改められた。彼らの給与には,位田もしくは位禄,職分田などがあり,のちに公廨稲が加えられた。この国司の制度も8世紀には,兼任,権任 (ごんにん) の国司ができ,さらに天長3 (826) 年9月,上総,常陸,上野の3国を親王任国とし,その守を太守と称して公然と赴任しないようになると,任国に下向しない遙任国司が発生した (これに対して任国に下向して実務をとる守を[[受領]]〈ずりょう〉と称した) 。そのうえ,摂関,大臣などが欠員となっている国守の任命権を得て,その収入を得る知行国の制度が起ってくると,国司制度はさらに乱れていった。在京の国司はその私的代理人である[[目代]]を下向させ,在庁官人が実務をとるようになり,さらには目代までも在地土豪が任命されるようになり,地方政治は中央から離れていった。鎌倉時代の守護の設置により,国司の権限はさらに縮小され,国司は有名無実となった。
[[日本書紀]]』には、[[大化の改新]]時の[[改新の詔]]において、[[穂積咋]]が[[東国]]国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は'''国宰'''(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する'''大宰'''(おほ みこともち)が設置されたという(「[[大宰府]]」の語はその名残だと言われている)。その後[[7世紀]]末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。
 
  
[[8世紀]]初頭の[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])に制定された[[大宝律令]]で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である[[国郡里制]]に編成され、地方分権的な[[律令制]]が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた[[班田収授制]]は、[[古代の戸籍制度|戸籍]]の作成、田地の班給、[[租庸調]]の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。
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国司は中央の官人が任命されて家族を連れて任国に赴くことが認められていた。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかった訳ではなかった<ref>馬場基「中央と地方を結ぶ人々の動き」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89</ref>。
 
 
 
国司は通常は国府に設けられた国衙の中にある国庁で政務を行っているが、郡司の業務監査や農民への勧農などの業務を果たすために責任者である守が毎年1回国内の各郡を視察する義務があった。これを部内巡行という<ref>鈴木景二「国府・郡家をめぐる交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 pp.87-89</ref>。
 
 
 
[[平安時代]]の[[天長]]3年([[826年]])からは[[親王任国]]の制度が始まった。[[桓武天皇]]や[[平城天皇]]、[[嵯峨天皇]]は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、[[親王]]の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は'''太守'''と称し、任国へ赴任しない[[遥任]]だったため、実務上の最高位は次官の介であった。
 
 
 
また平安時代になると、[[朝廷]]は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。[[9世紀]]〜[[10世紀]]頃には[[田堵]]と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた[[公田]]が、[[名田]]という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを[[負名]]という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。
 
 
 
一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして現地赴任する国司の中の最高責任者を[[受領]]と呼ぶようになった。[[王朝国家]]体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。
 
 
 
平安時代中期以降は[[開発領主]]による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を[[荘園公領制]]により国司に任命された受領層である中級[[貴族]]に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を[[摂家|摂関家]]などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『[[枕草子]]』には[[除目]]の日の悲喜を描いている<ref>「すさまじきもの」三巻本基準で二十五段、能因本基準で二十二段。</ref>。平安中期以降、[[知行国]]という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。
 
 
 
新しく国司に任ぜられる候補としては、[[蔵人]]、[[式部省|式部丞]]、[[民部省|民部丞]]、[[外記]]、[[検非違使]]などが[[巡爵]]によって[[従五位下|従五位]]に叙せられたものから選ばれる<ref>[[和田英松]]、<small>[[所功]] 校訂</small>『官職要解』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061586215、107-108p</ref>ほか、[[成功_(任官)|成功]]、[[院宮分国制]]などもあった。
 
 
 
国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。[[寛弘]]3年([[1006年]])[[1月28日_(旧暦)|1月28日]]の除目において、[[右大臣]][[藤原顕光]]が伊勢守に[[平維衡]]を推挙したが、[[藤原道長]]が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している<ref>[[竹内理三]] 『日本の歴史6 武士の登場』 [[中公文庫]] ISBN 978-4122044388、246p</ref>。この「事件」とは、かつて維衡が伊勢において[[平致頼]]と合戦を起こしたことである<ref>『[[権記]]』 長徳4年12月14日条</ref>。なお道長は8年後の[[長和]]3年2月の除目で、[[清和源氏]]である[[源頼親]]を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている<ref>『[[小右記]]』 同年2月16日条。なおこの件は実現しなかった。</ref>。
 
 
 
[[鎌倉時代]]にも国司は存続したが、[[鎌倉幕府]]によって各地に配置された[[地頭]]が積極的に[[荘園 (日本)|荘園]]、そして国司が管理していた[[国衙領]]へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。
 
 
 
[[室町時代]]になると、[[守護]]に大幅な権限、例えば[[半済]]給付権、[[使節遵行]]権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。
 
 
 
こうして国司は名目だけの官職となり、実体的な支配は守護([[守護大名]])が執行するようになった。ここに至り、国司は単なる名誉職となり、被官される人物の実効支配地に関係なく任命された。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]の中には国司を自称、あるいは[[僭称]]する者も多かった([[百官名]])。政治の実権が[[幕府]]等の[[武家]]にあるうちは、単なる名誉職に過ぎなかった国司であったが、[[下克上]]が頻発した戦国時代では守護や[[守護代]]等の[[幕府]]役職者以外の出自の大名が、自国領土支配もしくは他国[[侵攻]]の正当性を主張するために任官を求める事が増加した。この時代では国司職を求めて[[戦国大名]]が[[朝廷]]へ盛んに献金などを行った。これは、[[天皇]]の地位が再認識される契機ともなった<ref>特に[[後土御門天皇]]から[[後奈良天皇]]の時代は皇室の経済状態が疲弊甚だしく、こと国司職に関してはほとんど申請のままに任じられた。</ref>。また、一部の戦国大名([[大内義隆]]の周防介・伊予介、[[織田信秀]]・[[今川義元]]・[[徳川家康]]の[[三河国司#三河守|三河守]]など)は名目的な国司職ではなく実質的な目的を持って申請を行っている<ref>[[今谷明]] 『戦国大名と天皇』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061594715、111-138p</ref>。
 
 
 
江戸幕府成立以降は、[[大名]]や[[旗本]]、一部の上級[[陪臣]]が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を称することが行われた([[武家官位]])。しかしこれらの「名乗り」は名目上のものであったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗ることも多かった<ref>同じ職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。</ref>。ただし、[[国主|国持大名]]が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、[[小倉藩]]から[[熊本藩]]へ加増転封されて肥後国主となった[[細川忠利]]は息子[[細川光尚|光尚]]の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している<ref> [[山本博文]]『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』([[講談社学術文庫]]、2004年)P223</ref>。
 
 
 
[[明治維新]]後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。
 
 
 
== 国等級区分 ==
 
各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。
 
 
 
各国は時節の国情、時勢を元に変動する'''[[大国 (令制国)|大国]]'''(たいこく、たいごく)・'''[[上国]]'''(じょうこく、じょうごく)・'''[[中国 (令制国)|中国]]'''(ちゅうごく)・'''[[下国]]'''(げこく)の4等級に割り付けられた。
 
 
 
国司の格や役職数も時勢に基づき変動したが、基本的に[[官位相当制|官位相当]]は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。これを示すものとして、以下のような例がある。
 
 
 
# 『[[続日本紀]]』[[宝亀]]6年([[775年]])[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]の条によれば、「始めて[[伊勢国]]に少[[目 (国司)|目]]2員、[[三河国|参河国]]に大目1員と少目1員、[[遠江国]]に少目2員、[[駿河国]]に大目1員と少目1員、[[武蔵国]]に少目2員、[[下総国]]に少目2員、[[常陸国]]に[[少掾]]2員と少目2員、[[美濃国]]に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、[[陸奥国]]に少目2員、[[越前国]]に少目2員、[[越中国]]に大目1員と少目1員、[[但馬国]]に大目1員と少目1員、[[因幡国]]に大目1員と少目1員、[[伯耆国]]に大目1員と少目1員、[[播磨国]]に少目2員、[[美作国]]に大目1員と少目1員、[[備中国]]に大目1員と少目1員、[[阿波国]]に大目1員と少目1員、[[伊予国]]に大目1員と少目1員、[[土佐国]]に大目1員と少目1員、[[肥後国]]に少目2員、[[豊前国]]に大目1員と少目1員を置く」とある。
 
# 『[[文徳天皇実録]]』[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]の条によれば、「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する」とある。
 
# 『[[日本三代実録]]』[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]の条によれば、当時の国司の介を置いていなかった上国を含む八国([[甲斐国]]、[[能登国]]、[[丹後国]]、[[石見国]]、[[周防国]]、[[長門国]]、[[土佐国]]、[[日向国]])に介を置き[[飛騨国]]に掾を置くなど、[[公廨稲]]・[[公廨田]]・[[事力]]の新たな分配を示す太政官判定があった旨が見え、これら9国で国司の増員が行われていたことが分かる。
 
 
 
=== 延喜式の時代の各国の等級 ===
 
[[延喜式]]が策定された10世紀ごろの各国の等級は以下のとおり。
 
;大国(13カ国)
 
:[[大和国]]・[[河内国]]・[[伊勢国]]・[[武蔵国]]・[[上総国]]・[[下総国]]・[[常陸国]]・[[近江国]]・[[上野国]]・[[陸奥国]]・[[越前国]]・[[播磨国]]・[[肥後国]]
 
:このうち、上総国・常陸国・上野国は親王任国
 
;上国(35カ国)
 
:[[山城国]]・[[摂津国]]・[[尾張国]]・[[三河国]]・[[遠江国]]・[[駿河国]]・[[甲斐国]]・[[相模国]]・[[美濃国]]・[[信濃国]]・[[下野国]]・[[出羽国]]・[[加賀国]]・[[越中国]]・[[越後国]]・[[丹波国]]・[[但馬国]]・[[因幡国]]・[[伯耆国]]・[[出雲国]]・[[美作国]]・[[備前国]]・[[備中国]]・[[備後国]]・[[安芸国]]・[[周防国]]・[[紀伊国]]・[[阿波国]]・[[讃岐国]]・[[伊予国]]・[[豊前国]]・[[豊後国]]・[[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]
 
;中国(11カ国)
 
:[[安房国]]・[[若狭国]]・[[能登国]]・[[佐渡国]]・[[丹後国]]・[[石見国]]・[[長門国]]・[[土佐国]]・[[日向国]]・[[大隅国]]・[[薩摩国]]
 
;下国(9カ国)
 
:[[和泉国]]・[[伊賀国]]・[[志摩国]]・[[伊豆国]]・[[飛騨国]]・[[隠岐国]]・[[淡路国]]・[[壱岐国]]・[[対馬国]]
 
 
 
=== 親王の任国 ===
 
諸国の任国の内、[[上総国]]、[[常陸国]]、[[上野国]]の三ヶ国は、[[親王]]の任国として、その長官を「[[太守]](たいしゅ)」と言った。
 
しかし、[[皇族]]方であるため赴任はせず、ただ俸給のみをとっていたことから、欠員があっても俸給は他に使わず、無品(むほん)親王方のご入り用にあてられていた。
 
この三ヶ国を親王の任国としたのは、[[淳和天皇]](延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))の御代から始まったものである。
 
[[後醍醐天皇]](在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))の御代には、[[陸奥国]]も親王の任国とされ、義良(よしなが)親王([[後村上天皇]](在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))を太守としたことが「[[神皇正統記]]」に記載されている。
 
 
 
(参考例:江戸時代中期、播州赤穂浪士事件([[赤穂事件]])に関係する「[[吉良義央]]」が持っていた官職は「上野介(こうずけのすけ)」であるが、実際は上記事情により上野国は親王に国司があてられているため、「~守」の受領任官は親王以外不可能で、官職上長官職である一等官「上野守」(~カミ)の代替として、名は次官級二等官であるが、実質上は長官職として(親王は赴任しないので)「上野介」(~スケ)で受領任官させたと推察される。吉良義央が他にも受領任官した官職は「従四位下(じゅしいげ)・[[侍従]](じじゅう:従五位下相当、場合により[[大納言]](正三位)~[[少納言]](従五位下)も侍従を兼務した例がある)兼上野介、従四位上(じゅしいじょう)・[[左近衛権少将]](少将=スケ(次官)正五位下相当:場合により正二、三位程度相当職任官の場合あり)」であり、通常、親王が任官する「上野守(こうずけのかみ)」は国司の中でもいくら「大国」とはいえ、比較しても、吉良義央の持つ官職すべての最高位は「従四位上」で、親王方の「上野守」はせいぜい「従五位上」である。吉良義央が受領任官している「上野介」を単独でみると「正六位下」の格の官職であるが、吉良義央は「上野介」ほかに「侍従(従四位下)」や「左近衛権少将(従四位上)」も併任で受領任官しているため、持つ官職最高の「従四位上」の扱いになることから、吉良上野介は親王方の受領である「上野守」単独任官の官職より、合わせ技で2段階程度は上格の官職を受領任官されていることになる。(官職として、単独受領した場合の「上野介」と比較して、この「合わせ技」は7~8段階ほど上格となる。)なお、吉良家は[[旗本]]であるものの[[高家 (江戸時代)]]のため、大名家よりも格が高い官職を持っておかなければならない必要性があったと思われる。(武士としての家格は大名家より旗本の方が格下である。))
 
<ref>[[和田英松]] 『新訂・官職要解』[[講談社学術文庫]] ISBN 4-06-158621-1、162-173p</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[国府]]
 
*[[郡司]]
 
*[[守護]]
 
*[[八介]]
 
*[[武蔵国司]]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:こくし}}
 
{{DEFAULTSORT:こくし}}
 
[[Category:律令制の国司|!]]
 
[[Category:律令制の国司|!]]

2018/12/28/ (金) 00:32時点における最新版

国司(こくし、くにのつかさ)

「くにのみこともち」ともいい,令制の地方官の一つ。「十七条憲法」にすでにこの語がみえ,また大化改新のとき,東国の国司を任命したことがみえる。令制では,日本を 66国2島に分け,国を大,上,中,下の4等級として,それに応じた一定数の国司をおいたものと思われる。すなわち,守 (かみ) ,介 (すけ) ,掾 (じょう) ,目 (さかん) の4等官の国司が中央から派遣され,国の行政,司法,警察を司った。このうち,守は一国の政務を統轄して,行政,司法,警察のすべてにあたり,介は守を補佐して政務を代行し,掾は国内の非違を正すことをおもな職務とし,目が作成した文書の審査などを行なった。これらの下に書記や雑務をとる史生がいた。国司の任期は,令制では6年とされていたが,その後,特殊な地域を除いては4年と改められた。彼らの給与には,位田もしくは位禄,職分田などがあり,のちに公廨稲が加えられた。この国司の制度も8世紀には,兼任,権任 (ごんにん) の国司ができ,さらに天長3 (826) 年9月,上総,常陸,上野の3国を親王任国とし,その守を太守と称して公然と赴任しないようになると,任国に下向しない遙任国司が発生した (これに対して任国に下向して実務をとる守を受領〈ずりょう〉と称した) 。そのうえ,摂関,大臣などが欠員となっている国守の任命権を得て,その収入を得る知行国の制度が起ってくると,国司制度はさらに乱れていった。在京の国司はその私的代理人である目代を下向させ,在庁官人が実務をとるようになり,さらには目代までも在地土豪が任命されるようになり,地方政治は中央から離れていった。鎌倉時代の守護の設置により,国司の権限はさらに縮小され,国司は有名無実となった。



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