「唐津藩」の版間の差分

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'''唐津藩'''(からつはん)
  
'''唐津藩'''(からつはん)は、[[肥前国]]唐津を支配した[[藩]]。居城は[[唐津城]]([[佐賀県]][[唐津市]])。
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江戸時代,[[肥前国]]松浦郡唐津地方 (佐賀県) を領有した藩。慶長2 (1597) 年以降寺沢氏8万石,大久保氏8万 3000石,松平 (大給) 氏7万石,土井氏7万石,水野氏6万石を経て,文化 14 (1817) 年小笠原長昌が6万石で入封。以後子孫在封して廃藩置県に及ぶ。小笠原氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。
 
 
== 藩史 ==
 
[[ファイル:Nijinomatsubara.jpg|right|thumb|250px|[[特別名勝]][[虹の松原]]([[鏡山_(佐賀県)|鏡山]]より眺望)。[[防風林]]、[[防砂林]]として寺沢広高は植林を行った。]]
 
[[寺沢広高]]は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[1592年]]の[[文禄の役]]では肥前[[名護屋城]]の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、[[1593年]]に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、[[長崎奉行]]に任じられた。[[慶長の役]]には[[李氏朝鮮|朝鮮]]に渡海して活躍している。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に[[肥後国]]天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その跡を継いだ[[寺沢堅高]]のとき、[[島原の乱]]が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は[[松倉勝家]]ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを[[徳川幕府|幕府]]から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は[[改易]]となった。
 
 
 
その後、[[播磨国]][[明石藩]]より[[大久保忠隣]]の孫の[[大久保忠職]]が8万3000石で入る。その跡を継いだ[[大久保忠朝]]は、[[1674年]]に[[庄屋]]が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は[[幕末]]まで続けられた。忠朝は[[下総国]][[佐倉藩]]へ移封となった。
 
 
 
入れ替わりで[[松平乗久]]が7万石で入り、孫の[[松平乗邑]]のとき、[[志摩国]][[鳥羽藩]]へ移封となる。入れ替わりで[[土井利益]]が7万石で入り、利益から4代目の[[土井利里]]のとき、[[下総国]][[古河藩]]へ移封となる。代わって[[水野忠任]]が[[三河国]][[岡崎藩]]より移されて6万石で入った。[[1771年]]、水野忠任が科した農民への増税を契機に、[[虹の松原一揆]]が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の[[水野忠邦]]のとき、[[遠江国]][[浜松藩]]へ移封される。忠邦は、[[天保の改革]]を行なったことで有名である。
 
 
 
代わって[[陸奥国]][[棚倉藩]]より[[小笠原長昌]]が6万石で入り、以後は[[小笠原氏]]の支配で[[明治]]時代を迎えることになる。唐津藩最後の藩主となった[[小笠原長行]]は幕末期に[[老中]]・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも[[1868年]]の[[戊辰戦争]]では旧幕府軍に与して[[箱館戦争|箱館]]まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。しかしこのため、長行を歴代藩主として数えず、その養父である[[小笠原長国]]をもって最後の藩主とする史料も多い。
 
 
 
唐津藩は表向きの石高は6万石から12万石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 寺沢家 ===
 
[[外様大名|外様]] 8万3000石→12万3000石→8万3000石 (1593年 - 1647年)
 
# [[寺沢広高|広高]]
 
# [[寺沢堅高|堅高]]
 
 
 
=== 大久保家 ===
 
[[譜代大名|譜代]] 8万3000石 (1649年 - 1678年)
 
# [[大久保忠職|忠職]]
 
# [[大久保忠朝|忠朝]]
 
 
 
=== 松平(大給)家 ===
 
譜代 7万石→6万石 (1678年 - 1691年)
 
# [[松平乗久|乗久]]
 
# [[松平乗春|乗春]]
 
# [[松平乗邑|乗邑]]
 
 
 
=== 土井家 ===
 
譜代 7万石 (1691年 - 1762年)
 
# [[土井利益|利益]]
 
# [[土井利実|利実]]
 
# [[土井利延|利延]]
 
# [[土井利里|利里]]
 
 
 
=== 水野家 ===
 
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|right|thumb|200px|水野忠邦画像、水野は出世するために唐津から浜松藩への転封を願い実現させた。]]
 
譜代 6万石 (1762年 - 1817年)
 
# [[水野忠任|忠任]]
 
# [[水野忠鼎|忠鼎]]
 
# [[水野忠光|忠光]]
 
# [[水野忠邦|忠邦]]
 
 
 
=== 小笠原家 ===
 
譜代 6万石 (1817年 - 1871年)
 
# [[小笠原長昌|長昌]]
 
# [[小笠原長泰|長泰]]
 
# [[小笠原長会|長会]]
 
# [[小笠原長和|長和]]
 
# [[小笠原長国|長国]]
 
:* [[小笠原長行|長行]] 藩主に数えない場合がある。
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[肥前国]]
 
** [[松浦郡]]のうち - 186村
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[児玉幸多]]・[[北島正元]]監修『藩史総覧』[[新人物往来社]] 1977年
 
*『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、[[1997年]] ISBN 978-4404025241
 
*中嶋繁雄『大名の日本地図』[[文春新書]] [[2003年]] ISBN 978-4166603527
 
*[[八幡和郎]]『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』[[光文社新書]] [[2004年]] ISBN 978-4334032715
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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[[Category:藩]]
 
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唐津藩(からつはん)

江戸時代,肥前国松浦郡唐津地方 (佐賀県) を領有した藩。慶長2 (1597) 年以降寺沢氏8万石,大久保氏8万 3000石,松平 (大給) 氏7万石,土井氏7万石,水野氏6万石を経て,文化 14 (1817) 年小笠原長昌が6万石で入封。以後子孫在封して廃藩置県に及ぶ。小笠原氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

関連項目

先代:
肥前国
行政区の変遷
1593年 - 1871年 (唐津藩→唐津県)
次代:
伊万里県




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