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'''倭寇'''(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて[[朝鮮半島]]や[[中国大陸]]の沿岸部や一部内陸、及び[[東アジア]]諸地域において活動した[[海賊]]、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称<ref name=kotobank/>。和寇と表記される場合もある。また'''海乱鬼'''(かいらぎ)、'''[[八幡]]'''(ばはん)とも呼ばれる。
 
[[image:WakouAttack.jpg|thumb|270px|倭寇]]
 
  
==概要==
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'''倭寇'''(わこう)
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇(14世紀前後)と、過渡期を経た後期倭寇(16世紀)の二つに分けられる。
 
  
前期倭寇は主に[[瀬戸内海]][[北九州]]を本拠とした日本人で一部が[[高麗人]]であり、主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及んだが、[[李氏朝鮮]]の[[対馬]]を中心とする統制貿易、[[日明勘合貿易]]の発展とともに消滅した<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E5%AF%87-154019 倭寇 わこう]Kotobank</ref>。高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれる<ref name=kotobank/>。
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13~16世紀に朝鮮,中国の沿岸を襲った海賊集団に対する朝鮮,中国側の呼称。北九州,瀬戸内海沿岸の漁民,土豪が中心で,もともと私貿易を目的としていたが,しばしば暴力化した。しかし,倭寇が日本人とは限らず,その構成の大部分が中国人の場合,ポルトガル人を含む場合などもあった。その活動の時期は前後2期に大別される。前期は南北朝~室町時代初期,主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及び,そのため高麗は滅亡を早めたほどであった。しかし,李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易,日明[[勘合貿易]]の発展とともに消滅した。勘合貿易が行われなくなると再び倭寇の活躍をみたが,後期倭寇の活動舞台は主として東シナ海,南洋方面で,明はこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした ([[北虜南倭]] ) 。しかし,明の海防の強化と,国内を統一した豊臣秀吉の賊船停止の命令で倭寇は姿を消した。
  
後期倭寇は明の[[海禁]]政策による懲罰を避けるため[[マラッカ]]、[[シャム]]、[[パタニ]]などに移住した中国人([[浙江省]]、[[福建省]]出身者)が多数派で一部に日本人(対馬、[[壱岐]]、[[松浦郡|松浦]]、[[五島列島|五島]]、[[薩摩国|薩摩]]など[[九州]]沿岸の出身者)をはじめ[[ポルトガル人]]など諸民族を含んでいたと推測されているが<ref name=yoko>[http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000557665.pdf 日本から見た東アジアにおける国際経済の成立]永積洋子、城西大学大学院研究年報15 ( 2 )  , pp.67 - 73 , 1999-03 </ref>、複数の学説がある。主として[[東シナ海]]、[[南洋]]方面を活動舞台にしていたが、明の海防の強化と、日本国内を統一した[[豊臣秀吉]]の[[海賊停止令]]で姿を消した<ref name=kotobank/>。
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== 名称 ==
 
字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「[[倭]](日本)による侵略」という意味で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。使用例は5世紀(404年)の[[高句麗]][[好太王碑|広開土王碑]]の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる。
 
 
 
ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと考えられている。
 
 
 
また、16世紀の[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役]]や、[[日中戦争]]における日本軍も「倭寇」と呼ばれるなど、朝鮮半島や中国において排日感情の表現として使用される事がある。現代でも、韓国人や中国人が日本人を侮蔑するときに用いており、「野蛮人」のニュアンスを含む。
 
 
 
今日では中国人、朝鮮・韓国人が『倭』を侮蔑的または差別的に使用しているが、「倭」の本来の意味は[[説文解字]]にある通り、『[[倭]]は、(かたち・様子に従う)』であり、『[[:wikt:矮|矮]]』とは違い小柄やチビなどを意味していない<ref>司馬遼太郎『街道をゆく』 (朝日文芸文庫)</ref>。
 
 
 
==倭寇の原因==
 
=== 元寇の報復説 ===
 
[[安鼎福]]の「[[東史綱目]]」には『均指出倭寇的起因在於朝鮮人(高麗人)配合蒙古侵日行為所引發的報復』とあり、[[元寇]]の報復であると指摘されている。対馬や壱岐の元寇がどのようであったかは[[日蓮註画讃]]や[[一谷入道御書]]による記載が残っている。[[三田村泰助]]は、北部九州は元寇の最大の被害者だったから、対馬・壱岐・[[肥前国]]が根拠地の[[松浦党]]の海賊が「侵略者の片われである高麗に報復してあたりまえのことで、いささかのうしろめたさもなかったであろう。」「心がまえとしては、さらさら海賊行為ではなかった」としている<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p152</ref>。もともとは元寇に対する報復の意味があることは中国側も認めており、[[朱元璋]]が日本におくった文では、「倭兵は蛮族である元のおとろえに乗じただけだ」としている<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p157</ref>。
 
 
 
==== 日蓮註画讃 ====
 
第五「蒙古來」篇)
 
:* 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害』「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし」
 
 
 
==== 一谷入道御書 ====
 
(建治元年五月八日)
 
:* 「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし」
 
 
 
=== 明に抵抗する勢力による扇動説 ===
 
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」<ref>講談社学術文庫『倭国伝』)</ref>。
 
 
 
=== 藤経光誘殺未遂の報復説 ===
 
「高麗史」によれば、[[1375年]]の[[藤経光]]誘殺未遂によって倭寇が激怒し、高麗住民の無差別殺戮に出るようになったと記している<ref>『[[高麗史]]』(列伝・金先致)</ref>。
 
{{Main|高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻}}
 
 
 
== 前期倭寇==
 
前期倭寇が活動していたのは[[14世紀]]、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では[[北朝 (日本)|北朝]]を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた[[吉野朝廷|南朝]]が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。
 
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===発生の要因===
 
====元寇の影響====
 
{{出典の明記|date=2014年2月|section=1}}
 
前期倭寇は日本人が中心で、[[元寇]]に際して[[元 (王朝)|元]]軍とその支配下にあった[[高麗]]軍によって住民を虐殺された[[対馬]]・[[壱岐国|壱岐]]・松浦・[[五島列島]]などの住民が中心であり、「'''三島倭寇'''」と総称された。
 
 
 
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、[[元寇]]に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる{{要出典|date=2014年2月}}。
 
{{See also|元寇#元側における影響と日本脅威論の形成}}
 
 
 
また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。その証拠として前期倭寇の初期においては、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。さらには、連れ去られた家族を取り戻すためであった事例もあり、実際に家族と再会した記録も残っている{{要出典|date=2014年2月}}。
 
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===前期倭寇と高麗===
 
『[[高麗史]]』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようだが、庚寅年以前にも多数の記事がある。
 
文献によると最も古いのは『[[高麗史]]』によれば高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。
 
 
 
1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた[[高麗]]では[[1376年]]には[[崔瑩]]が鴻山で、[[1380年]]には、[[李成桂]]が荒山、[[崔茂宣]]、[[羅世]]が鎮浦で、[[1383年]]には[[鄭地]]らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、[[1389年]]の[[朴イ|朴葳]]による[[対馬国]]侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した<ref name=murai/>。これ以降倭寇の侵入は激減する<ref name=murai/>。
 
 
 
なお、『[[高麗史]]』によれば、[[高麗]]は[[宗主国]]である[[元 (王朝)|元]]や[[明]]に上奏し、元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされる<ref>『同』列伝・鄭地</ref>。
 
 
 
====南北朝時代の政治動乱と倭寇====
 
[[斎藤満]]は高麗史にでてくる「倭国」を南朝(征西府)だと推定しており<ref>斎藤満 (1990)</ref>、ほかにも倭寇の首領が日本の精鋭部隊と同じ装備で、南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて日本の正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加したという意見もある<ref name=kannniti>第9回「十四世紀(高麗末)、韓(朝鮮)半島における日本の精鋭部隊」 - 座談会資料 - 韓日歴史座談会の記録(Webサイト)</ref><ref>[[貝塚茂樹]] 『中国の歴史 下』 [[岩波新書]] 1970年 pp.33 - 34.南朝の征西将軍[[懐良親王]]のために[[兵站]]を補給し、次第に略奪範囲が拡大し、南シナ海まで達し、直接、中国沿岸までたどり着いたと記す。</ref>。 渡辺昭夫は「長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていた」と説明している<ref name=kannniti/>。
 
 
 
[[稲村賢敷]]は、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪していることから、南朝方の[[菊池氏]]や[[肥前]]の[[松浦党]](松浦氏)が北朝との戦いのための物資獲得を目的に行ったとした<ref name=inamura>稲村 (1957)</ref>。なお稲村は倭寇の構成員について、規律があり、戦慣れした武士団だと述べている<ref name=inamura/>。稲村は北朝方の[[九州探題]]が倭寇と南朝方の征西府を同一視して敵と見做し、かつ明から倭寇の禁圧を求められても征西府が拒否したことも論拠として挙げている<ref name=inamura/>。
 
 
 
===明朝と南北朝と前期倭寇===
 
中国では1368年に[[朱元璋]]が[[明]]王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の[[後醍醐天皇]]の皇子で征西将軍宮[[懐良親王]]が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から[[冊封]]を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された[[今川貞世]]により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の[[足利義満]]が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から[[日明貿易|勘合貿易]]が行われようになる。
 
 
 
[[朱元璋]]は、[[福建]]に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、[[浙江]]には59の城を築城して5万8千の兵をおき、[[広東]]に軍船200隻をおいて防備を固めた<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p164</ref>。
 
 
 
===応永の外寇===
 
{{Main|応永の外寇}}
 
1419年、朝鮮王朝の[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決定し、対馬の有力者が明などに渡航し不在である時期を狙って、同年6月、[[李従茂]]率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。[[応永の外寇]]とよばれる。朝鮮軍は敗退するが<ref name="宗氏家譜">『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10106029_003 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日] 我師戰死及墜崖死者百數十人。</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10107010_004&tabid=w 朝鮮王朝実録 世宗元年7月10日] 柳廷顯更啓: “對馬島戰亡者, 百八十人。”</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10107022_006&tabid=w 世宗元年7月22日] 左議政朴訔啓: “左軍節制使朴實對馬島敗軍時所、護漢人宋官童等十一名, 備知我師見敗之狀, 不可解送中國, 以見我國之弱。</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10108005_003&tabid=w 朝鮮王朝実録 世宗元年8月5日] 今戰死者, 倭人二十餘名, 朝鮮人百餘名也。</ref>、この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。
 
 
 
こうして前期倭寇は、[[室町幕府]]や北九州の[[守護大名]]の[[日明貿易]]、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていった。
 
 
 
===偽装倭寇===
 
中枢府判事の李順蒙による上申文記載。『世宗実録(世宗二十八(1446年)十月壬戌条)』の記述には「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」[(※翻訳)倭人は1、2割(または1、2件)に過ぎず、本国(朝鮮)の民が、仮に倭服を着して党を成し乱を作す]とあり、前期倭寇もある時期からは、高麗人または朝鮮人が主体となっていたことが窺い知れる。 (朝鮮王朝実録の『世宗実録 』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条)
 
 
 
== 後期倭寇 ==
 
日本では1523年に勘合を巡って[[細川氏]]と[[大内氏]]がそれぞれ派遣した[[朝貢]]使節が[[浙江省]][[寧波]]で争う[[寧波の乱]](寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起こった[[応仁の乱]]の為、再び倭寇の活動が活発化する事になる。
 
 
 
後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。『[[明史]]』日本伝には「大抵真倭十之三,從倭者十之七」と記述され、真倭(本当の日本人)は10のうち3であり、これに従う者7としており、日本人は少ないながらも指揮官的立場にあり、当時日本が[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦闘の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していたことがうかがわれる<ref>{{Cite book |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year= |title=明史卷三百二十二 列傳第二百一十 外國三 日本|publisher= |language=zh |page= |id= |url=https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7322 |quote=大抵真倭十之三,從倭者十之七。倭戰則驅其所掠之人為軍鋒,法嚴,人皆致死,而官軍素懦怯,所至潰奔。}}</ref>。また[[大太刀]]を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に[[戚継光]]が『[[陰流#武備志の影流之目録|影流目録]]』と[[倭刀]]を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返した。この時期も引き続いて明王朝は[[海禁政策]]により私貿易を制限しており、これに反対する中国(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の[[双嶼]]や[[福建省]]南部の月港を拠点とした。
 
 
 
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、[[大航海時代]]の始まりとともにアジア地域に進出してきた[[ポルトガル]]やイスパニア([[スペイン]])などのヨーロッパ人や日本の[[博多]]商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。後期倭寇の頭目には、中国人の[[王直]]や[[徐海]]、[[李光頭]]、[[許棟]]などがおり、王直は日本の[[五島列島]]などを拠点に種子島への[[鉄砲伝来]]にも関係している。鉄砲伝来後、日本では鉄砲が普及し、貿易記録の研究から、当時、世界一の銃の保有量を誇るにいたったとも推計されている<ref>ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫。</ref>。
 
{{Main|鉄砲伝来}}
 
 
 
1547年には明の将軍である[[朱紈]]が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは[[嘉靖大倭寇]]と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、[[胡宗憲]]が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて[[戚継光]]が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に[[豊臣秀吉]]が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
 
 
 
一方、朝鮮半島では1587年には、朝鮮辺境の民が背いて倭寇に内通し、これを[[全羅道]]の損竹島に導いて襲わせ、辺将の李太源が殺害されるという事件が起こった<ref name=chohiroku>{{Cite book |和書 |author=[[柳成龍]] |translator=[[朴鐘鳴]] |coauthors= |year=1979 |title=[[懲毖録]] |publisher=[[平凡社東洋文庫]] |page=12-18 |id= |isbn=4582803571 |quote= }}</ref>。1589年、秀吉からの朝鮮通信使派遣要請の命を受け朝鮮を訪れた[[宗義智]]は朝鮮朝廷からの朝鮮人倭寇の引き渡し要求を快諾、数カ月の内に朝鮮人倭寇を捕らえ朝鮮に引き渡した<ref>{{Cite book|author= |date= |url=http://sillok.history.go.kr/viewer/viewtype1.jsp?id=wna_12302028_001&mTree=0&inResult=0&indextype=1 |quote=珎島居沙乙火同, 投入倭國, 嚮導作賊, 至是日本刷還。 上御仁政殿, 行獻俘之禮。 |series=[[朝鮮王朝実録]]|title=宣祖23年2月28日 |publisher=[[国史編纂委員会]] |accessdate=2015-07-16}}</ref>。この朝鮮からの要求は朝鮮通信使派遣要請に対する引き伸ばし策でもあったが、あっさりと解決を見たことにより翌1590年、正使・[[黄允吉]]、副使・[[金誠一]]が[[朝鮮通信使#豊臣秀吉に派遣された通信使|通信使]]として日本に派遣された<ref name=chohiroku/>。
 
{{See also|文禄・慶長の役}}
 
 
 
== 倭寇の構成員に関する学説 ==
 
初期~最盛期の前期倭寇の構成員は、「[[高麗史]]」に見える[[高麗]]末500回前後の倭寇関連記事の内、高麗人が加わっていたと明記されているのは3件であり、構成員の多くが日本人であったと推測される。<ref>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991068/126?tocOpenedNodeIds=info%253Andljp%252Fpid%252F991068&tocCloseNodeId=info%253Andljp%252Fpid%252F991068&viewMode=</ref>
 
 
 
===高麗の賤民の関与(田中説)===
 
東京大学教授の[[田中健夫]]は、1370年から1390年初めに倭寇の襲撃が激化したのは新たに高麗の[[賤民]]階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むとした<ref name=tanaka>田中 (1982)</ref>。また、田中はのちに、倭寇の構成を日本人と[[朝鮮人]]の連合か、または朝鮮人のみであったともし<ref name=tana>田中 (1987)</ref>、さらに、高麗([[李朝]])にとって倭寇は外患であると同時に内憂でもあり、李氏朝鮮が高麗から引き続いて倭寇が外患であることを強調することで倭寇が抱える内憂の性格を隠蔽し、それを梃子として国家体制を確立したとも述べている<ref name=ta>田中 (1997) 田中は、この時代には今日のような国家主権概念が存在せず、なおかつ[[南北朝の内乱]]と朝鮮半島王朝交替期の政治混乱によって、互いに国家への帰属意識が希薄化させていた日本人の倭寇と高麗・朝鮮人の賎民(土地を失った農民や水尺・才人と呼ばれた被差別民)が手を結んで、更に大きな倭寇集団を形成することは容易な状況にあったと述べている</ref>。
 
 
 
田中説について[[村井章介]]は、多くの人員や馬を[[海上輸送]]させる困難さの説明も含めて説得力があるとしたが、田中が主張の根拠とした朝鮮王朝実録に記されている[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]王代の判中枢院事・李順蒙の発言<ref>時期は15世紀半ば。李順蒙の発言は「前朝の季、倭寇興行し、民の生を聊んぜず。然るにその間の倭人は一二に過ぎずして、本国の民の避けて倭服を著け党を成し乱を作す」というもの</ref>について、膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める倭人の比率が記載されているのは田中が挙げた一例しか存在せず、その上、その史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを述べ<ref name=murai>村井 (1993)</ref>、また、その史料の文脈は賦役から逃亡する辺境の民が多い、という事態の模範として提出されており、賤民階級に対する蔑視が、基本的な考え方となっているため、「倭人が一割~二割に過ぎない」という記述をそのまま受け入れることは出来ないと批判している<ref name=murai/>。
 
 
 
===「境界人」説(村井説、他)===
 
倭寇の正体について、村井は、当時国家概念が明確ではなく、日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体を有しており、村井は彼らを「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団だとし、境界に生きる人々(マージナル・マン)と呼んでいる。村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている<ref name=murai/>。ほかに、[[高橋公明]]は倭寇の構成について、[[済州島]]の海民も倭寇に加わっていった可能性を唱え、倭寇の活動が「国境をまたぐ地域」で繰り広げられた国家の枠組みを越えた性格のものと述べている<ref>高橋 (1987)</ref>。
 
 
 
東郷隆は前期倭寇の首領のひとり、[[阿只抜都]]について[[赤星氏]]や[[相知比氏]]([[松浦党]])といった九州の武士、あるいはモンゴル系[[島嶼]]人や高麗人といった様々な推測をしている<ref>『【絵解き】雑兵足軽たちの戦い』 講談社〈講談社文庫〉、2007年、48-51頁</ref>。
 
 
 
;村井説の教科書記載への批判
 
2007年の日韓歴史共通教材は、村井説が作為的に利用されているとして[[扶桑社]]の中学歴史教科書を挙げ<ref name=nikkann>日韓交流の歴史 (2007)</ref>、同教科書における「(倭寇は)朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには朝鮮人も多く含まれていた。」「16世紀の中ごろ、再び倭寇が盛んになったが、その構成員は殆ど中国人であった」といった記述について、倭寇に占める日本人の数を低くみせるために村井の理論を利用した上で、「日本人」「朝鮮人」「中国人」と国籍を強調していると批判した<ref name=nikkann/>。
 
 
 
;村井説への批判
 
濱中昇は倭寇の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないため倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しいとし<ref name=hamanaka>濱中 (1996)</ref>、朝鮮の賤民が倭寇と偽って略奪を働いたとする高麗史の記録についても、倭寇の襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していると指摘し、倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類とした<ref name=hamanaka/>。また、朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、倭寇の主力が日本人であることには変わらないし<ref name=hamanaka/>、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたともした<ref name=hamanaka/>。ほかにも、村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家を意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし、「倭」と「日本」は事物の本体としては同じもので、「倭」と中世の日本は別個のものではないとした<ref name=hamanaka/>。
 
 
 
沈仁安([[北京大学]]教授)は、村井説のように倭寇を国境をまたぐ海上勢力とすることも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて発生・形成・発展・変遷の過程・変化している倭寇を概括的に解釈することは、具体的な歴史過程を隠し、具体的な問題に対する具体的な分析の方法論の原則に符合しないと批判した<ref name="沈仁安">[[沈仁安]]・翻訳[[藤田友治]]、[[藤田美代子]]『中国からみた日本の古代』[[ミネルヴァ書房]]、2003/12、ISBN 978-4623039050 p363-p368</ref>。また沈は、前期倭寇の主力は日本人(領主・武士・商人)であることは間違いなく<ref name="沈仁安"/>、後期倭寇に他国人が加わっても、主力を果たしたのではなく、倭寇の起源と活動初期は日本人と関係があるため、「日本古代の呼び方である『倭』寇命名」したと批判する<ref name="沈仁安"/>。また、古代の「倭」呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別の概念だとする村井説に対して、沈は、千数百年以後の歴史的事実を紀元前後に形成された「倭」で解釈することは不適当とし、更に、古代中国における「倭」は日本のことであり、「『倭』『倭人』が、日本、日本人の古代の呼び方であることは、中国の学界では、疑問はない」とした<ref name="沈仁安"/>。
 
 
 
高麗前期には見られなかった「倭」という呼称が高麗後期になって現れて「日本」と併用されていることについて[[武田幸男]]は、「倭」という呼称が現れた原因は倭寇だと述べている<ref name=takeda>武田(上)(2005)</ref>。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「敵対者」と認識した時は「倭」と記しているとした<ref name=takeda/>。なお、武田は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だとしている<ref name=take>武田(下)(2005)、脚注において。</ref>。
 
 
 
===後期倭寇===
 
後期倭寇は、中国人が中心であり、『[[明史]]』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている<ref>[http://www.guoxue.com/shibu/24shi/mingshi/ms_322.htm 明史卷三百二十二 列傳第二百十外國三 日本 嘉靖二十六年]</ref>。
 
 
 
== 倭寇の影響 ==
 
中国の[[明]]や韓国の[[高麗]]・[[朝鮮]]王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして[[日明貿易|勘合貿易]]に便宜を与えざるを得ず、また高麗王朝は倭寇討伐で名声を得た李成桂によって滅ぼされ、李成桂によって建国された朝鮮王朝は[[文禄の役]]の頃まで倭寇対策(懐柔と鎮圧)に追われた。朝鮮王朝による[[対馬国|対馬]]侵攻([[応永の外寇]])も、倭寇根拠地の征伐が大義名分とされていた。
 
 
 
また、[[第二次世界大戦]]後、[[韓国]]では[[朝鮮半島から流出した文化財の返還問題|日本に略奪されたと主張される文化財の返還運動]]が展開し、[[高麗仏画]]や仏像など日本に保管される朝鮮由来の文化財の多くは倭寇に略奪されたとする見解が韓国ではなされているが、日本では当時の李氏朝鮮政府が仏教弾圧政策をとったため日本へ貿易品として輸出されたり、贈答されたとする見解がある。
 
 
 
== 活動地域 ==
 
[[Image:Wokou.jpg|thumb|300px|倭寇の活動地域]]
 
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・[[五島列島]]をはじめ、朝鮮の[[済州島]]、中国の沿海諸島部、また[[台湾島]]や[[海南島]]にも存在していた。
 
 
 
[[ボルネオ]]童話において、倭寇と思しきものが活躍する伝承もあり<ref>「世界童話宝玉選」 p428『ワカナとボルネオの娘』 小学館</ref>、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある<ref>新井 国右(あらい くにすけ)「プロフェッショナル・ファイターズ」p126 原書房</ref>。
 
 
 
=== 武術 ===
 
倭寇の中に日本の[[剣術]]を身につけていた者もいたようで、[[1561年]]に戚継光が、倭寇が所持していたという[[陰流]]の目録を得ている。(陰流の開祖・[[愛洲久忠]]も倭寇であったという説もある)戚継光が得た陰流目録は[[茅元儀]]が編纂した『[[武備志]]』に掲載された。この『武備志』は[[江戸時代]]に日本にも伝わり、掲載されている陰流目録について[[松下見林]]らが記している。この陰流目録については陰流から派生した[[新陰流]]の第20世宗家・[[柳生厳長]]によって真正の物と確認された<ref>柳生厳長、『正伝新陰流』、島津書房、2004年。</ref>。
 
 
 
また、日本の剣術を基にした[[苗刀]]という[[中国武術]]が明末から清初にかけて生まれた。
 
 
 
== 倭寇以後の東アジア海上世界 ==
 
豊臣秀吉の[[海賊停止令]]により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では[[林道乾]]や[[林鳳]](リマホン)、明を奉じて[[清]]に抵抗した[[鄭芝竜]]、[[鄭成功]]の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。また、後期倭寇に多く見られた中国南部(広東・福建・浙江・台湾など)出身者は日本([[横浜]]・[[神戸]]・[[長崎]]の三大[[中華街]])や東南アジアに多数渡り、現地で[[華僑]]のコミュニティを形成し、現在も政治や経済において影響力を及ぼしている。
 
 
 
=== 八幡船 ===
 
日本の室町時代から[[江戸時代]]にかけての海賊船は通称して「八幡(やわた)船」と呼ばれた。倭寇が「八幡(はちまん)大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
;資料
 
* 『[[老松堂日本行録]]』 - 朝鮮王朝の使節[[宋希ケイ|宋希璟]]が[[世宗 (朝鮮王)|世宗大王]]に献上した日本見聞録。倭寇につうじる海民たちの活動が記されているが、倭寇の記述はない。岩波文庫版には[[応永の外寇]]にかんする朝鮮実録の抜粋も併録。
 
* 『[[籌海図編]]』 - [[鄭若曾]]著
 
*『[[高麗史]]日本伝』([[岩波文庫]]、2005年、上下巻。[[武田幸男]]編訳。日本関連記事の抜粋。)
 
;研究文献
 
*[[伊藤亜人]]他監修[[平凡社]]編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
 
*[[稲村賢敷]]『琉球諸島における倭寇史跡の研究』[[吉川弘文館]] 、1957年
 
*高橋公明「中世アジア海域における海民と交流-済州島を中心として」『名古屋大学文学部研究論集』史学33、1987年
 
*[[佐藤進一]]『日本の歴史(9)、南北朝の動乱』[[中央公論社]]、1974年
 
*[[田中健夫]]『倭寇-海の歴史』[[教育社歴史新書]]、1982年
 
*田中健夫「倭寇と東アジア通行圏」『日本の社会史』一<列島内外の交通と国家>岩波書店、1987年
 
*田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』吉川弘文館、1997年、第一「倭寇と東アジア通交圏」及び第二「相互認識と情報」。
 
*朝鮮史研究会編著[[旗田巍]]編修代表『朝鮮の歴史』、[[三省堂]]、1974年
 
*[[濱中昇]]「高麗末期倭寇集団の民族構成-近年の倭寇研究に寄せて-」『歴史学研究』第685号、1996年
 
*[[村井章介]]『中世倭人伝』[[岩波新書]]、1993年
 
*歴史教育研究会(日本)歴史教科書研究会(韓国)編『日韓交流の歴史』[[明石出版]]、2007年
 
*沈仁安『中国からみた日本の古代』藤田友治、藤田 美代子訳、[[ミネルヴァ書房]]、2003年
 
*斉藤満「征西府とその外交についての一考察」『史泉』71号、1990年
 
 
 
==外部リンク==
 
*秦野裕介「「倭寇」と海洋史観」『立命館大学人文科学研究所紀要』81号、2003年[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[倭刀]] 
 
* [[苗刀]](みょうとう)
 
* [[元寇]]
 
* [[朝鮮半島から流出した文化財の返還問題]]
 
* [[対馬仏像盗難事件|対馬仏像連続盗難事件]]
 
  
 
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倭寇(わこう)

13~16世紀に朝鮮,中国の沿岸を襲った海賊集団に対する朝鮮,中国側の呼称。北九州,瀬戸内海沿岸の漁民,土豪が中心で,もともと私貿易を目的としていたが,しばしば暴力化した。しかし,倭寇が日本人とは限らず,その構成の大部分が中国人の場合,ポルトガル人を含む場合などもあった。その活動の時期は前後2期に大別される。前期は南北朝~室町時代初期,主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及び,そのため高麗は滅亡を早めたほどであった。しかし,李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易,日明勘合貿易の発展とともに消滅した。勘合貿易が行われなくなると再び倭寇の活躍をみたが,後期倭寇の活動舞台は主として東シナ海,南洋方面で,明はこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした (北虜南倭 ) 。しかし,明の海防の強化と,国内を統一した豊臣秀吉の賊船停止の命令で倭寇は姿を消した。



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