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(内容を「 '''丹後国'''(たんごのくに) 現在の京都府北部。山陰道の一国。中国。もと丹波国の一部であったが,和銅6 (713) 年分...」で置換)
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{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 丹後国
 
|画像    = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|丹後国}}
 
|別称    = [[丹州 (日本)|丹州]](たんしゅう)<ref>別称「丹州」は、[[丹波国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref><br/>北丹(ほくたん)<br/>奥丹(おくたん)
 
|所属    = [[山陰道]]
 
|領域    = [[京都府]][[京都府北部地域|北部]]
 
|国力    = [[中国 (令制国)|中国]]
 
|距離    = [[近国]]
 
|郡      = 5郡35郷
 
|国府    = 京都府[[宮津市]]
 
|国分寺  = 京都府宮津市(丹後国分寺跡)
 
|国分尼寺 = (未詳)
 
|一宮    = [[籠神社]](京都府宮津市)
 
}}
 
'''丹後国'''(たんごのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。
 
  
== 歴史 ==
+
'''丹後国'''(たんごのくに)
=== 律令制以前 ===
 
[[古墳時代]]には竹野川流域を中心に繁栄していたことが知られる。そのため、独自の王国が存在したとする説もある(「[[丹後王国論]]」を参照)。[[京丹後市]][[久美浜町|久美浜]]の函石浜遺跡からは[[新|新朝]]の[[王莽]]の貨幣が出土していることから、古くから大陸との関係が深かったと推測されている<ref name="britannica">『ブリタニカ国際大百科事典』4 REFERENCE GUIDE p329 TBSブリタニカ 1974年3月初版</ref>。丹後地方が丹波の中心地であったことは、古墳時代前期の大[[前方後円墳]]が存在したことで知られている<ref name="櫛木">上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p17-44 思文閣出版 2007年</ref>。また『[[日本書紀]]』に、[[四道将軍]]が派遣された[[北陸道|北陸]]、[[東海道|東海]]、西道、[[丹波国|丹波]]の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、[[ヤマト王権]](大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される<ref name="櫛木"/>。
 
  
=== 奈良時代・平安時代 ===
+
現在の京都府北部。[[山陰道]]の一国。中国。もと[[丹波国]]の一部であったが,和銅6 (713) 年分割されて一国となった。『丹後国風土記逸文』には水江浦島子 (みずのえのうらしまこ) の伝説があり,その舞台が与謝 (よさ) 郡日置 (へき) 里となっている。これは後世の浦島太郎の説話の元をなすものである。国府は宮津市といわれるが詳細は不明。国分寺は宮津市国分。『[[延喜式]]』には加佐,与謝,丹波,竹野 (たかの) ,熊野の5郡があり,『和名抄』には郷 35,田 4756町が記されている。日本海に面し古くから大陸との関係が深かったことは京丹後市の[[函石浜遺跡]]から中国,新朝の王莽 (おうもう) の貨泉が出土したことからも推測できる。平安時代にも貞観5 (863) 年新羅人が,延長7 (929) 年渤海国使が来着したことが記録されている。鎌倉時代,守護は承久3 (1221) 年頃北条氏一族が在任し相伝したが,遅くとも嘉元4(1306) 年以降は[[六波羅探題]]南方の兼任となった。室町時代には山名氏が,のち一色氏が守護となった。織田信長の時代には一色氏から長岡氏に変わり,豊臣秀吉の時代には細川 (もと長岡氏を称する) 藤孝 (幽斎) が領し,のちその子忠興が跡を継いだ。江戸時代には慶長5 (1600)年京極氏が 12万 3000石で領したが,のち宮津,峰山,田辺の3藩に分かれ,寛文6 (66) 年には,宮津藩主京極高国が所領を没収されて陸奥に流され,同8年には牧野氏が田辺藩主,宝暦8 (1758) 年には松平氏が宮津藩主となる。松平氏はのち本庄氏を称した。峰山には京極氏が封じられて幕末にいたった。明治維新を経て明治4(1871) 年7月各藩はそれぞれ県となったが,11月豊岡県に併合され,1876年8月京都府に編入。
[[和銅]]6年([[713年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]に丹波国の北部、[[加佐郡]]、[[与謝郡]]、[[中郡 (京都府)|丹波郡]]、[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]、[[熊野郡]]の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『[[続日本紀]]』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され<ref name="櫛木"/>、『[[和名類聚抄]]』には35[[郷]]が記されている<ref name="britannica"/>。[[大浦半島]]の付け根に位置する志楽谷(現在の[[舞鶴市]]志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年([[709年]])には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は[[奈良時代]](710年 - 794年)前期まで[[若狭国]]に属していたことが分かっている<ref name="櫛木"/>。
 
 
 
分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が[[国造]]や[[郡司]]など支配的地位を有していた。『[[先代旧事本紀]]』天孫本紀によれば、丹波直は[[天火明命]]を祖としている。分国後の丹後国では[[延暦]]2年([[783年]])に丹波直真養が丹波郡国造に、[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])に丹波直副茂が[[近衛府]]の下級将官に任じられた<ref name="櫛木"/>。
 
 
 
==== 分国の背景 ====
 
丹波[[国府]]が置かれていたと推定される現在の[[南丹市]]や[[亀岡市]]から遠方にあることが分国の背景にあったと考えられている<ref name="櫛木"/>。南部の[[桑田郡]]には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。
 
 
 
また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」<ref>従来の分国では都に近いほうを前とし、遠いほうが後とされた。</ref>とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割([[吉備国]]を備前、備中、備後とするような分割)<ref>なお、[[1869年]]に[[陸奥国]]が5国へ分割された際は「[[陸前国]]」「[[陸中国]]」に対する「陸後国」は作られず「[[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]」の名称が存続している。</ref>とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる<ref>参考文献<br />磯野浩光 「丹後国の国名について」『太邇波考古学論集』 両丹考古学研究会、1997年。<br />平良泰久 「丹波の分割」『京都府埋蔵文化財論集』第4集、京都府埋蔵文化財調査研究センター、2001年。<br />高橋美久二 「丹波国府の造営」『新修亀岡市史』第1巻、亀岡市、1995年</ref><ref>丹波国南部の[[亀岡盆地]]が太古は大きな湖で[[朱色|丹色]]の波が立ったところから、丹波と呼ぶようになったという異説もある。[http://www.kyoto-kameoka-kankou.jp/hodugawa400/c00178.html 丹い波の国—保津川開削400周年記念事業実行委員会]</ref>。
 
 
 
なお分国後の国名については、『[[大日本古文書]]』で丹波国を「丹波前国」、『[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)<ref name="櫛木"/>。
 
 
 
=== 戦国時代まで ===
 
[[室町時代]]は[[山名氏]]のちに[[一色氏]]が守護となるが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天正]]7年([[1579年]])に[[織田信長]]軍の[[明智光秀]]や[[細川幽斎]](長岡藤孝)とその子[[細川忠興|忠興]]らの丹後平定で一色氏は降伏。[[豊臣秀吉]]の時代は[[長岡氏]]を経て細川父子が支配した<ref name="山田">上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p68-92 思文閣出版 2007年</ref>。[[水本邦彦]]は、[[江戸時代]]後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している<ref name="山田"/>。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
江戸時代に入り[[慶長]]5年([[1600年]])に細川氏が九州[[転封|移封]]となった後は12万3千石を与えられた[[京極高知]]が治める。[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])に高知が没した後に丹後国は[[宮津藩]]・[[丹後田辺藩|田辺藩]]・[[峰山藩]]の三藩に分立し、二男[[京極高広|高広]]、三男[[京極高三|高三]]、養子の[[京極高通 (丹後国峰山藩主)|高通]]がそれぞれ相続した<ref name="britannica"/><ref name="山田"/>。
 
 
 
宮津藩では[[寛文]]6年([[1666年]])に[[京極高国]]が[[改易]]で[[陸奥国]]に流され<ref name="britannica"/>一時的に[[天領|幕府直轄領]]となった後、寛文9年に[[山城国]][[淀藩]]の[[永井尚征]]が入封。[[延宝]]8年([[1680年]])にその子[[永井尚長]]が[[志摩国]][[鳥羽藩]]主の[[内藤忠勝]]に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に[[武蔵国]][[岩槻藩]]の[[阿部正邦]]が入封した<ref name="山田"/>。[[元禄]]10年([[1697年]])に[[下野国]][[宇都宮藩]]から二才の[[奥平昌成]]、[[享保]]2年([[1717年]])に[[信濃国]][[飯山藩]]の[[青山幸秀]]、[[宝暦]]8年([[1758年]])に[[遠江国]][[浜松藩]]から[[松平資昌|本庄資昌]]が入封して以降は、[[明治維新]]を経て[[明治]]4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で三藩が県となるまで[[本庄氏]]が藩主を務めた<ref name="山田"/>。
 
 
 
田辺藩は[[京極高盛]]が寛文8年([[1668年]])に[[但馬国]][[豊岡藩]]に移封し、[[京都所司代]]等を務めた[[牧野親成]]が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた。熊野郡の幕府直轄領は上方代官が分割して支配していたが、享保20年([[1735年]])同郡久美浜村に[[久美浜代官所]]が設置された<ref name="山田"/>。明治4年11月に三県は[[豊岡県]]に併合され、明治9年([[1876年]])8月[[京都府]]に編入された<ref name="britannica"/>。江戸時代には[[宮津藩|宮津]]、[[丹後田辺藩|田辺]](舞鶴)、[[峰山藩|峰山]]に藩庁が置かれた。
 
 
 
江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や[[加悦町|加悦]]の手米屋小右衛門らが[[西陣]]から[[ちりめん]]の技法を持ち帰る。[[丹後ちりめん]]は藩に保護され、販売不振に陥っていた[[安政]]4年([[1857年]])には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している<ref name="山田"/>。
 
 
 
==== 徳川幕府との関係 ====
 
三藩のうち宮津・田辺は[[譜代大名]]、峰山は譜代もしくは[[外様大名]]といわれ、久美浜代官所を加えた丹後国四領はそれぞれ分立していながらも一つのまとまりがあったと考えられている。これは峰山と久美浜代官所領の村が分散し入り混じっていながらも問題が起きていないことや、[[天明]]4年([[1784年]])に久美浜代官所領の佐野村で起きた一揆を豊岡・峰山・宮津三藩の加勢で沈静化できたことが理由にあげられ、藩主が移封を繰り返した丹後国を広い意味での幕府直轄領、徳川領国とする根拠にもなっている<ref name="山田"/>。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(146,724石2斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。[[天領|幕府領]]は[[久美浜代官所]]が管轄。
 
** [[加佐郡]](39,079石余) - [[天領|幕府領]]、'''[[丹後田辺藩|田辺藩]]'''、[[宮津藩]]
 
** [[与謝郡]](42,175石余) - 幕府領、'''宮津藩'''
 
** [[中郡 (京都府)|中郡]](21,911石余) - 幕府領、'''[[峰山藩]]'''、宮津藩
 
** [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]](25,223石余) - 幕府領、宮津藩
 
** [[熊野郡]](18,333石余) - 幕府領
 
* [[慶応]]4年
 
** [[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1868年]][[5月21日]]) - 幕府領が'''[[府中裁判所]]'''の管轄となる。
 
** [[閏]][[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[6月18日]]) - 府中裁判所の管轄地域が'''[[久美浜県]]'''の管轄となる。
 
* 明治2年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1869年]][[7月28日]]) - 任[[知藩事]]にともない田辺藩が改称して'''[[舞鶴藩]]'''となる。
 
* 明治4年
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[舞鶴県]]'''、'''[[宮津県]]'''、'''[[峰山県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[豊岡県]]'''の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''[[京都府]]'''の管轄となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
{{座標一覧}}
 
=== 国府 ===
 
『[[和名類聚抄]]』および『拾芥抄』では、国府は加佐郡にあると記載されている。現在の[[舞鶴市]]内とする説があるほか、[[宮津市]]とする説もあるが、詳細は不明<ref name="britannica"/>。
 
 
 
なお近年では、宮津市の府中地区にある安国寺遺跡(宮津市小松)で方形の柱穴が認められており、同地が国府跡である可能性を高めている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161214000138 "大型柱穴、丹後国府の関連建物か 京都・宮津の安国寺遺跡"](京都新聞、2016年12月14日記事)。</ref><ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20171213000160 "丹後国府関連の建物か 京都・宮津、安国寺遺跡で方形の柱跡"](京都新聞、2016年12月13日記事)。</ref>。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
* 丹後国分寺跡 (京都府宮津市国分、{{ウィキ座標|35|34|44.49|N|135|10|47.16|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=丹後国分寺跡}})
 
*: 国の史跡。北方に後継の護国山国分寺({{ウィキ座標|35|34|47.75|N|135|10|47.26|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=丹後国分寺(後継寺院)}})が所在。
 
 
 
尼寺跡は未詳。
 
 
 
=== 神社 ===
 
'''[[延喜式内社]]'''
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されている(「[[丹後国の式内社一覧]]」参照)。大社6社は以下に示すもので、竹野神社以外は[[名神大社]]である。
 
* [[加佐郡]]
 
** [[大川神社]] (舞鶴市大川、{{ウィキ座標|35|26|52.72|N|135|15|31.29|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=名神大社:大川神社}})
 
* [[与謝郡]]
 
** [[籠神社]] (宮津市大垣、{{ウィキ座標|35|34|58.13|N|135|11|48.01|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=丹後国一宮、名神大社:籠神社}})
 
** [[大虫神社 (与謝野町)|大虫神社]] (与謝郡与謝野町温江、{{ウィキ座標|35|29|36.45|N|135|07|02.77|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=名神大社:大虫神社}})
 
** [[小虫神社]] (与謝郡与謝野町温江、{{ウィキ座標|35|30|41.67|N|135|06|45.17|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=名神大社:小虫神社}})
 
* [[丹波郡]]
 
** [[大宮売神社]]二座 (京丹後市大宮町周枳、{{ウィキ座標|35|35|28.58|N|135|06|06.79|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=丹後国二宮、名神大社:大宮売神社}})
 
* [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]
 
** [[竹野神社]] (京丹後市丹後町宮、{{ウィキ座標|35|44|12.37|N|135|06|45.03|E|region:JP-26_type:landmark|位置|name=式内大社:竹野神社}}) - 式内大社。
 
 
 
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
 
* 総社:不詳 - 籠神社が総社を兼ねていたとする説がある。
 
* 一宮:[[籠神社]](宮津市大垣)
 
* 二宮:[[大宮売神社]](京丹後市大宮町周枳)
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
* [[加佐郡]]
 
* [[与謝郡]]
 
* [[中郡 (京都府)|中郡]] (丹波郡)
 
* [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]
 
* [[熊野郡]]
 
 
 
該当区域の面積は1,283.43k㎡、人口は19万8439人(2010年国勢調査)。[http://toukei-labo.com/2010/?tdfk=26&city=26101 (1)]
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
[[関ヶ原の戦い]]の功により[[京極高知]]が丹後一国の国主として封じられ、[[宮津藩]](丹後藩)が成立したが、2代[[京極高広]]の代に分知により[[丹後田辺藩|田辺藩]]及び[[峰山藩]]が誕生した。
 
*[[宮津藩]]:京極家(12万3千石→分知により7万8千石)→幕府直轄領→永井家(7万3千石)→阿部家(9万9千石)→奥平家(9万石)→青山家(4万8千石)→松平(本庄)家(7万石)
 
*[[丹後田辺藩]](舞鶴藩):京極家(3万5千石)→牧野家(3万5千石)
 
*[[峰山藩]]:京極家(1万3千石。宮津藩からの分知1万石と初代藩主[[京極高通 (丹後国峰山藩主)|京極高通]]自身の領地3千石)
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
{{節スタブ}}
 
==== 丹後守 ====
 
*[[良岑安世]]:[[大同 (日本)|大同]]5年(810年)
 
*[[橘経国]]
 
*[[但波行衡]]:[[寛弘]]元年([[1004年]])任官
 
*[[高階成行]]
 
*[[藤原惟任|藤原保昌]]:[[長和]]元年([[1012年]])任官
 
*[[源経相]]
 
*[[藤原保昌]]
 
*[[渡辺綱]]
 
*[[源親方]]:[[万寿]]元年([[1024年]])任官
 
*[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]:[[長元]]元年([[1028年]])任官
 
*[[高階俊平]]
 
*[[藤原憲房]]:[[長元]]5年([[1032年]])任官
 
*[[大江拳周]]:長元9年([[1036年]])任官
 
*[[大江清定]]:[[永承]]3年([[1048年]])任官
 
*[[藤原敦基]]:[[治暦]]4年([[1068年]])任官
 
*[[藤原公基]]
 
*[[高階経成]]:[[延久]]5年([[1073年]])任官
 
*[[藤原仲実]]:[[承暦]]2年([[1078年]])任官
 
*[[平正盛]]:[[天永]]元年([[1110年]])任官
 
*[[藤原顕頼]]:[[元永]]元年([[1118年]])任官
 
*[[藤原俊成]]:[[久安]]5年([[1149年]])任官
 
*[[平忠房]]
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*[[1293年]]~? - [[長井貞秀]]
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
*[[1336年]] - [[今川頼貞]]
 
*[[1337年]] - [[荒川詮頼]]
 
*1337年~[[1338年]] - [[上杉朝定 (二橋上杉家)|上杉朝定]]
 
*[[1339年]]~? - 今川頼貞
 
*[[1341年]]~[[1350年]] - [[山名時氏]]
 
*1350年~[[1351年]] - [[上野頼兼]]
 
*1351年~? - [[仁木頼章]]
 
*[[1352年]]~[[1353年]] - [[高師詮]]
 
*1353年~[[1360年]] - [[仁木頼勝]]
 
*1360年~[[1363年]] - [[仁木義尹]]
 
*1363年~[[1364年]] - [[足利直冬]]
 
*1364年~[[1370年]] - [[山名師義]]
 
*[[1375年]]~[[1381年]] - [[山名義幸]]
 
*[[1385年]]~[[1391年]] - [[山名満幸]]
 
*[[1392年]]~[[1409年]] - [[一色満範]]
 
*1409年~[[1440年]] - [[一色義貫]]
 
*1440年~[[1451年]] - [[一色教親]]
 
*1451年~[[1467年]] - [[一色義直]]
 
*[[1468年]] - [[摂津之親]]
 
*[[1469年]]~[[1471年]] - [[武田信賢]]
 
*1471年~[[1474年]] - [[武田国信]]
 
*1474年~[[1484年]] - [[一色義春]]
 
*1484年~[[1487年]] - 一色義直
 
*1487年~[[1498年]] - [[一色義秀]]
 
*1498年~? - [[一色義有]]
 
*[[1506年]]~? - [[武田元信]]
 
*[[1509年]]~[[1519年]] - [[一色義清 (左京大夫)|一色義清]]
 
*?~[[1521年]] - [[武田元信]]
 
*?~[[1558年]] - [[一色義幸]]
 
*1558年~[[1579年]] - [[一色義道]]
 
*1579年~[[1582年]] - [[一色義定]]
 
*1582年 - [[一色義清 (越前守)|一色義清]]
 
 
 
=== 戦国大名 ===
 
*[[一色氏]]
 
*[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]
 
*織豊政権の大名
 
**[[細川幽斎]]:丹後半国11万石([[宮津城]]→[[田辺城 (丹後国)|田辺城]])
 
**[[細川忠興]]:丹後全国
 
 
 
=== 武家官位としての丹後守 ===
 
*江戸時代以前
 
**[[小原広勝]]:戦国時代の武将、[[武田二十四将]]の一人
 
**[[安田広春]]:戦国時代の武将。越後[[安田氏]]及び[[越後北条氏]]当主、北条高広の父
 
**[[北条高広]]:戦国時代の武将[[上杉謙信]]に仕えた
 
**[[北条景広]]:戦国時代の武将、北条高広の嫡男
 
**[[鈴木繁定]]:戦国時代の武将、[[北条氏政]]の重臣で、[[伊豆水軍]]の武将。
 
**[[竹中重門]]:安土桃山時代から江戸時代の武将、[[竹中重治]]の子
 
**[[立花道雪]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての筑後国の武将
 
*江戸時代[[稲葉正成|正成系]][[稲葉氏|稲葉家]]宗家
 
**[[稲葉正勝]]:稲葉家宗家2代。常陸[[柿岡藩]]主、下野[[真岡藩]]2代藩主、相模[[小田原藩]]初代藩主・老中
 
**[[稲葉正往]]:稲葉家宗家4代。小田原藩3代藩主、越後[[高田藩]]主、下総[[佐倉藩]]初代藩主・老中
 
**[[稲葉正知]]:稲葉家宗家5代。佐倉藩第2代藩主、山城[[淀藩]]初代藩主
 
**[[稲葉正益]]:稲葉家宗家9代。淀藩第5代藩主
 
**[[稲葉正のぶ|稲葉正諶]]:稲葉家宗家11代。淀藩第7代藩主
 
**[[稲葉正備]]:稲葉家宗家12代。淀藩第8代藩主
 
**[[稲葉正守]]:稲葉家宗家14代。淀藩第10代藩主
 
**[[稲葉正誼]]:稲葉家宗家15代。淀藩第11代藩主
 
*江戸時代[[肥前国|肥前]][[大村藩]][[大村氏|大村家]]
 
**[[大村純忠]]:肥前の戦国大名。大村喜前の父
 
**[[大村喜前]]:初代藩主
 
**[[大村純信]]:第3代藩主
 
**[[大村純昌]]:第10代藩主
 
**[[大村純顕]]:第11代藩主
 
**[[大村純熈]]:第12代藩主
 
*江戸時代[[織田長政 (大名)|長政流]][[織田氏|織田家]]
 
**[[織田長政 (大名)|織田長政]]:長政流織田家初代。大和[[戒重藩]]初代藩主 
 
**[[織田長清]]:長政流織田家4代。戒重藩第4代藩主。大和[[芝村藩]]藩主
 
**[[織田輔宜]]:長政流織田家7代。大芝村藩第7代藩主
 
**[[織田長恭]]:長政流織田家10代。芝村藩第10代藩主
 
*江戸時代丹後[[宮津藩]][[京極氏|京極家]]
 
**[[京極高知]]:初代藩主
 
**[[京極高広]]:第2代藩主
 
**[[京極高国]]:第3代藩主
 
*江戸時代[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]][[鍋島氏|鍋島家]]
 
**[[鍋島光茂]]:第2代藩主
 
**[[鍋島吉茂]]:第4代藩主
 
**[[鍋島宗教]]:第6代藩主
 
*江戸時代[[伊勢国]][[菰野藩]]土方家
 
**[[土方雄氏]]:初代藩主
 
**[[土方雄高]]:第2代藩主
 
**[[土方豊義]]:第4代藩主
 
**[[土方雄房]]:第5代藩主
 
**[[土方雄貞]]:第8代藩主
 
*江戸時代[[堀直寄|直寄系]]支流堀家
 
**[[堀直寄]]:越後[[坂戸藩]]、信濃[[飯山藩]]、[[越後長岡藩]]、越後[[村上藩]]主。[[堀直政]]の次男
 
**[[堀直時]]:直寄系支流堀家初代。越後[[村松藩]]初代藩主。堀直寄の次男
 
**[[堀直利]]:直寄系支流堀家3代。村松藩第3代藩主
 
**[[堀直堯]]:直寄系支流堀家5代。村松藩第5代藩主
 
**[[堀直庸]]:直寄系支流堀家8代。村松藩第8代藩主
 
*江戸時代[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩]]本多家
 
**[[本多忠永]]:第2代藩主
 
**[[本多忠興]]:第3代藩主
 
**[[本多忠升]]:第5代藩主
 
*江戸時代[[駿河国|駿河]][[小島藩]]滝脇松平家
 
**[[松平信友 (小島藩主)|松平信友]]:第7代藩主
 
**[[松平信賢]]:第8代藩主
 
**[[松平信進]]:第9代藩主
 
**[[松平信書]]:第10代藩主
 
**[[滝脇信敏|松平信敏]]:第11代藩主、上総[[桜井藩]]主
 
*江戸時代[[武蔵国|武蔵]][[六浦藩]](武蔵金沢藩)米倉家
 
**[[米倉昌晴]]:第3代藩主
 
**[[米倉昌由]]:第5代藩主
 
**[[米倉昌俊]]:第6代藩主
 
**[[米倉昌寿]]:第7代藩主
 
**[[米倉昌言]]:第8代藩主
 
*江戸時代[[和泉国|和泉]][[伯太藩]] 渡辺家
 
**[[渡辺登綱]]:第2代藩主
 
**[[渡辺伊綱]]:第4代藩主
 
**[[渡辺潔綱]]:第8代藩主
 
**[[渡辺章綱]]:第9代藩主
 
*江戸時代その他
 
**[[伊東長実]]:安土桃山時代の武将、備中[[岡田藩]]初代藩主
 
**[[大岡忠烈]]:武蔵[[岩槻藩]]第4代藩主
 
**[[奥平昌敦]]:豊前[[中津藩]]第2代藩主
 
**[[九鬼隆抵]]:摂津[[三田藩]]第6代藩主
 
**[[立花貞則]]:筑後国柳河藩の第6代藩主
 
**[[遠山友明]]:美濃[[苗木藩]]第8代藩主
 
**[[土岐頼殷]]:出羽[[上山藩]]第2代藩主、越前[[野岡藩]]、駿河[[田中藩]]初代藩主
 
**[[土岐頼稔]]:駿河田中藩第2代藩主、上野[[沼田藩]]初代藩主
 
**[[内藤清枚]]:河内富田林藩2代藩主、信濃[[高遠藩]]初代藩主
 
**[[西尾忠永]]:武蔵[[原市藩]]第2代藩主、上野[[白井藩]]主、常陸[[土浦藩]]初代藩主
 
**[[西尾忠照]]:常陸[[土浦藩]]第2代藩主、駿河[[田中藩]]初代藩主
 
**[[一柳直重]]:伊予[[西条藩]]第2代藩主
 
**[[本郷泰固]]:駿河[[川成島藩]]主
 
**[[本多康桓]]:近江[[膳所藩]]第7代藩主
 
**[[前田利理]]:上野[[七日市藩]]第6代藩主
 
**[[前田利豁]]:七日市藩第11代藩主
 
**[[松平直泰]]:播磨[[明石藩]]第4代藩主
 
**[[松平重忠]]:遠江[[横須賀藩]]第2代藩主、出羽[[上山藩]]初代藩主
 
**[[松平重直]]:上山藩第2代藩主、摂津[[三田藩]]主、豊後[[高田藩]]初代藩主
 
**[[間部詮方]]:越前[[鯖江藩]]第2代藩主
 
 
 
== 丹後国の合戦 ==
 
*[[1600年]]:[[田辺城の戦い]]、東軍([[細川幽斎]]、[[三淵光行]]、500) x 西軍([[小野木重次]]、[[前田茂勝]]等15000)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[角川日本地名大辞典]] 26 京都府
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
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* [[京丹後市]](旧・丹後町)
 
* [[丹後 (戦艦)]]
 
* [[令制国一覧]]
 
 
 
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[[Category:日本の旧国名]]
 
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2018/12/26/ (水) 09:14時点における最新版

丹後国(たんごのくに)

現在の京都府北部。山陰道の一国。中国。もと丹波国の一部であったが,和銅6 (713) 年分割されて一国となった。『丹後国風土記逸文』には水江浦島子 (みずのえのうらしまこ) の伝説があり,その舞台が与謝 (よさ) 郡日置 (へき) 里となっている。これは後世の浦島太郎の説話の元をなすものである。国府は宮津市といわれるが詳細は不明。国分寺は宮津市国分。『延喜式』には加佐,与謝,丹波,竹野 (たかの) ,熊野の5郡があり,『和名抄』には郷 35,田 4756町が記されている。日本海に面し古くから大陸との関係が深かったことは京丹後市の函石浜遺跡から中国,新朝の王莽 (おうもう) の貨泉が出土したことからも推測できる。平安時代にも貞観5 (863) 年新羅人が,延長7 (929) 年渤海国使が来着したことが記録されている。鎌倉時代,守護は承久3 (1221) 年頃北条氏一族が在任し相伝したが,遅くとも嘉元4(1306) 年以降は六波羅探題南方の兼任となった。室町時代には山名氏が,のち一色氏が守護となった。織田信長の時代には一色氏から長岡氏に変わり,豊臣秀吉の時代には細川 (もと長岡氏を称する) 藤孝 (幽斎) が領し,のちその子忠興が跡を継いだ。江戸時代には慶長5 (1600)年京極氏が 12万 3000石で領したが,のち宮津,峰山,田辺の3藩に分かれ,寛文6 (66) 年には,宮津藩主京極高国が所領を没収されて陸奥に流され,同8年には牧野氏が田辺藩主,宝暦8 (1758) 年には松平氏が宮津藩主となる。松平氏はのち本庄氏を称した。峰山には京極氏が封じられて幕末にいたった。明治維新を経て明治4(1871) 年7月各藩はそれぞれ県となったが,11月豊岡県に併合され,1876年8月京都府に編入。



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