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'''三条坊門殿'''(さんじょうぼうもんどの)は、現在の[[京都府]][[京都市]][[中京区]]にあった邸宅。'''三条殿'''・'''三条高倉殿'''とも呼ばれ、[[室町幕府]]の[[足利将軍家]]の邸宅として用いられた。
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'''三条坊門殿'''(さんじょうぼうもんどの)
  
== 概要 ==
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現在の[[京都府]][[京都市]][[中京区]]にあった邸宅。'''三条殿''''''三条高倉殿'''とも呼ばれ、[[室町幕府]][[足利将軍家]]の邸宅として用いられた。
この邸宅は元は三条坊門南高倉東一町に存在(『中古京師内外地図』)し、後に東隣の三条坊門南万里小路東に移った(『[[在盛卿記]](大膳大夫有盛記)』)という。これが事実とすれば、前者は現在の中京区[[御所八幡町]]、後者は同じく[[東八幡町]]付近にあったとみられている。
 
 
 
坊門三条殿は元は初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]の弟・[[足利直義|直義]]の邸宅であり、[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])にはここに邸宅が存在していたことが『[[梅松論]]』に見える。その後、直義は洛北にあった足利氏ゆかりの家刹を邸の近くに移設して自己の持仏堂として一族のための仏事を行った。これが、後の[[等持院]]の由来になったとする説がある([[今枝愛眞]]・[[細川武稔]]説、なお通説は尊氏の創建とする)。当時、尊氏は政務の大半を直義に委任しており、直義の三条坊門殿は実質上の室町幕府の中心の機能を果たしていた。なお、[[洞院公賢]]の『[[園太暦]]』によれば、康永3年([[1344年]])12月に火災で焼失し、翌年2月には再建されている。
 
 
 
[[貞和]]5年([[1349年]])、失脚した直義は[[出家]]して三条坊門殿を明け渡し、代わりに[[鎌倉]]にいた尊氏の嫡男・[[足利義詮|義詮]]が[[京都]]に戻り、直義の三条坊門殿に居住した。その後発生した[[観応の擾乱]]によって直義は滅亡し、三条坊門殿は[[文和]]元年([[1352年]])閏2月20日、京都に攻め入った[[南朝 (日本)|南朝]]軍の攻撃によって炎上した(『園太暦』<ref>ただし、当時は[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]下にあって[[北朝 (日本)|北朝]]の元号は停止状態にあったため、『園太暦』をはじめとして同日の記録は南朝の元号である「[[正平 (日本)|正平]]7年」表記になっている。</ref>)。足利尊氏・義詮の京都復帰後、義詮は三条坊門殿を再建せずに[[仁木頼章]]の邸宅などを利用していたが、義詮が2代将軍に就任した後の[[貞治]]4年([[1365年]])2月11日になって、元の三条坊門殿の東隣に造営した新しい邸宅に移り住み、以後ここが三条坊門殿と称されるようになった。一方、直義以来の旧三条坊門殿の跡地には直義の霊を祀ることと新しい三条坊門殿の[[鎮守]]としての目的を有した[[八幡宮]]が造営され、貞治6年([[1367年]])9月28日には、[[三宝院]][[光済]]が三条坊門の八幡宮別当に補任された。これが現在の[[御所八幡宮社]]の起源と考えられている。
 
 
 
新しい、三条坊門殿は義詮の子3代将軍[[足利義満]]が新たに室町殿([[花の御所]])を造営して、[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]])に室町殿に移転するまで用いられた。以後、義満は室町殿に居住し、出家後は子の4代将軍[[足利義持|義持]]に室町殿を譲って、自らは[[北山殿]]を新たに造営して移り住んだ。一方、室町殿移転以後、三条坊門殿は用いられずに荒廃していった。ところが、義満と不仲であった義持は、義満没後の翌年である[[応永]]16年([[1409年]])になって義詮の[[先例]]に倣って三条坊門殿を再興して移り住んだ。ところが、6代将軍になった弟の[[足利義教|義教]]は、[[永享]]3年([[1431年]])になって義満の先例に倣うとして今度は室町殿を再興して移り住んだ。当時、室町殿は「上御所」、三条坊門殿は「下御所」と称されていた(『[[建内記]]』[[嘉吉]]元年10月23日条)。幼少にして8代将軍になった[[足利義政]]は、当時母方の一族である[[烏丸資任]]の邸宅で育てられていたが、資任の邸宅をそのまま[[烏丸殿]]と称して居住し、室町殿・三条坊門殿のどちらにも入らなかった。室町殿は早世した7代将軍[[足利義勝]](義政の兄)が死去した場所であったことから、義政の御所を室町殿ではなく三条坊門殿に移すことになったが、諸大名の反対により室町殿に変更された<ref>『看聞御記』嘉吉3年8月28日条</ref>。これは、尊氏以来、守護や幕臣たちは将軍の居宅の周囲に住むことが求められ、将軍が居宅を変えると彼らも屋敷を移転させていたが、ここにおいて、守護達は下京にある三条坊門殿よりも烏丸殿と同じ上京にあり自分達の屋敷を移転させる必要性の無い室町殿を望んだことによる。また成長した義政も父・義教に倣って室町殿に住むことを希望したことによって守護達の考えを結果的に追認した<ref>田坂泰之「室町期京都の都市空間と幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都-室町・北山・東山-』(文理閣、2016年) ISBN 978-4-89259-798-5</ref>。その結果、義政は室町殿・[[東山殿]]へと移り住み、三条坊門殿は用いられることなく、荒廃していった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
*黒板伸夫「三条坊門殿」(『国史大辞典 6』(吉川弘文館、1985年) ISBN 978-4-642-00506-7)
 
*細川武稔「空間から見た室町幕府 -足利氏の邸宅と寺社-」(所収:『史学雑誌』第107編12号(1998年)/改題所収:「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」細川『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館、2010年) ISBN 978-4-642-02887-5)
 
  
 
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三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの)

現在の京都府京都市中京区にあった邸宅。三条殿三条高倉殿とも呼ばれ、室町幕府足利将軍家の邸宅として用いられた。




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