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{{Otheruses|中世のリトアニア大公|その他の人物|ヴィータウタス (曖昧さ回避)}}
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[[画像:Vytautas the great.jpg|thumb|200px|ヴィータウタス]]
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'''ヴィータウタス'''([[リトアニア語]]:'''{{lang|lt|Vytautas}}'''<small>ヴィータウタス</small>、[[1352年]] - [[1430年]][[10月27日]]、在位[[1401年]] - 1430年)
'''ヴィータウタス'''([[リトアニア語]]:'''{{lang|lt|Vytautas}}'''<small>ヴィータウタス</small>、[[1352年]] - [[1430年]][[10月27日]]、在位[[1401年]] - 1430年)は、[[リトアニア大公国]]の[[リトアニアの統治者の一覧|大公]]である。[[ケーストゥティス]]の子にあたる。
 
  
== 概要 ==
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リトアニア大公 (在位 1401~30) 。ポーランド名ウィトルト。ポーランド,[[ドイツ騎士団]],キプチャク・ハン国と戦い,バルト海から黒海にいたる大国家を建設した。いとこのヨガイラ (のちの[[ウワディスワフ2世ヤギェウォ]] ) と大公位を争って父とともに捕えられたが,父の処刑後,逃走に成功 (1382) 。ドイツ騎士団領に身を寄せ,キリスト教に改宗した。のちヨガイラと和睦し,所領を回復 (84) 。さらにヤドウィガとの結婚によりポーランド王を兼ねることになったヨガイラと協定を結び,リトアニアの事実上の支配者となった (92) 。国内の反抗的貴族を押え,強力な中央集権国家を創出。東隣のロシア諸公国に勢力を扶植し,ドイツ騎士団と結んでモンゴル人を討とうとしたが,ボルクラ河畔の戦いで敗北 (99) 。こののち目を西に転じ,ポーランドと結んでドイツ騎士団と戦い,グルンワルト (タンネンベルク) の戦い (1410) でこれを破った。 1401年ヨガイラから正式にリトアニア大公位を譲り受けたが,ポーランド王と対等の資格を欲し,王位を目指した。しかし,果せず病没。その死後大公国は外国の干渉と内紛で急速に衰えた。
父が従兄弟の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]](後の[[ポーランド王国|ポーランド]][[ポーランド国王|王]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]])と[[大公]]の地位をめぐって敗れて殺されると、[[プロイセン]]に[[亡命]]する。その後、[[1384年]]にヨガイラと和睦して帰国した。キプチャク・ハン国([[ジョチ・ウルス]])の内戦に際しては、[[トクタミシュ]]を支持し、彼のグループと同盟関係を結んだ。
 
  
[[1385年]]にヨガイラがポーランド王として即位すると、実質的に[[リトアニア]]の統治を任され、[[バルト海]]や[[黒海]]方面に勢力を拡大した。[[1401年]]、ヴワディスワフ2世から正式にリトアニア大公の位を譲られて即位する。その後は[[ポーランド・リトアニア連合]]として[[ドイツ騎士団]]に対抗し、[[1410年]]には[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]で勝利を収めた。その結果、直後の[[ホロドウォ合同]]において、ポーランドとリトアニア国家は一層緊密な関係を築くことになった。他方で、娘の[[ソフィア・ヴィトヴナ|ソフィア]]を[[モスクワ大公国|モスクワ大公]][[ヴァシーリー1世]]に嫁がせ、その息子[[ヴァシーリー2世]]の岳父としてモスクワ大公国の政治に大きな影響力を及ぼしたことも知られる。1430年、79歳で死去。彼の死後、リトアニアは[[ポーランド王国]]に組み込まれてゆくこととなった。
 
 
== 各国語での表記 ==
 
[[ファイル:Wojciech-Gerson-Kiejstut i Witold.jpg|thumb|250px|ヨガイラに捕われたヴィータウタスと父ケーストゥティス]]
 
 
名前の表記や読み方は、各国語によって異なる。
 
* [[日本語]] - '''ヴィータウタス'''、'''ヴィタウタス'''または'''ヴィトフト'''
 
* [[リトアニア語]] - '''{{lang|lt|Vytautas}}'''(日本語表記ヴィータウタス<ref>但し、しばしば[[長音]]を無視してヴィタウタスと書かれる。</ref>)
 
* [[ベラルーシ語]] - '''{{lang|be|Вітаўт}}'''(ヴィタウト)
 
* [[ポーランド語]] - '''{{lang|pl|Witold}}'''(ヴィトルト<ref>原語では、[[主格]]において「ヴィートルト」のように発音される。</ref>)
 
* [[ロシア語]] - '''{{lang|ru|Витовт}}'''(ヴィトフトまたはヴィートフト<ref>原語発音は「ヴィータフト」のようになる。</ref>)
 
* [[ウクライナ語]] - '''{{lang|uk|Вітовт}}'''(ヴィトウトまたはヴィートウト<ref>原語発音にはぶれがあるが、標準的には「ヴィートウト」と表される。</ref>)
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ヴィータウタス大公戦争博物館]]
 
 
{{先代次代|[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]|1401 - 1430|[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]]|[[シュヴィトリガイラ]]}}
 
  
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[[Category:リトアニア大公]]
 
[[Category:リトアニア大公]]

2018/12/23/ (日) 01:16時点における版

] ヴィータウタスリトアニア語Vytautasヴィータウタス1352年 - 1430年10月27日、在位1401年 - 1430年)

リトアニア大公 (在位 1401~30) 。ポーランド名ウィトルト。ポーランド,ドイツ騎士団,キプチャク・ハン国と戦い,バルト海から黒海にいたる大国家を建設した。いとこのヨガイラ (のちのウワディスワフ2世ヤギェウォ ) と大公位を争って父とともに捕えられたが,父の処刑後,逃走に成功 (1382) 。ドイツ騎士団領に身を寄せ,キリスト教に改宗した。のちヨガイラと和睦し,所領を回復 (84) 。さらにヤドウィガとの結婚によりポーランド王を兼ねることになったヨガイラと協定を結び,リトアニアの事実上の支配者となった (92) 。国内の反抗的貴族を押え,強力な中央集権国家を創出。東隣のロシア諸公国に勢力を扶植し,ドイツ騎士団と結んでモンゴル人を討とうとしたが,ボルクラ河畔の戦いで敗北 (99) 。こののち目を西に転じ,ポーランドと結んでドイツ騎士団と戦い,グルンワルト (タンネンベルク) の戦い (1410) でこれを破った。 1401年ヨガイラから正式にリトアニア大公位を譲り受けたが,ポーランド王と対等の資格を欲し,王位を目指した。しかし,果せず病没。その死後大公国は外国の干渉と内紛で急速に衰えた。




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