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|注記 = 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、''Bóg, Honor, Ojczyzna''(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
 
|注記 = 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、''Bóg, Honor, Ojczyzna''(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
 
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'''ポーランド共和国'''(ポーランドきょうわこく、{{lang-pl|Rzeczpospolita Polska}})、通称'''ポーランド'''は、[[中央ヨーロッパ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[欧州連合]] (EU)、[[北大西洋条約機構]] (NATO) の加盟国。通貨は[[ズウォティ]]。首都は[[ワルシャワ]]。
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'''ポーランド共和国'''(ポーランドきょうわこく、{{lang-pl|Rzeczpospolita Polska}}
  
北は[[バルト海]]に面し、北東は[[ロシア]]の[[飛地]][[カリーニングラード州]]と[[リトアニア]]、東は[[ベラルーシ]]と[[ウクライナ]]、南は[[チェコ]]と[[スロバキア]]、西は[[ドイツ]]と国境を接する。
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中央ヨーロッパ東部,[[バルト海]]に面する国。北東は[[ロシア]]と[[リトアニア]]に,東は[[ベラルーシ]]と[[ウクライナ]]に,南は[[チェコ]]と[[スロバキア]]に,西は[[ドイツ]]に接する。
  
[[10世紀]]に国家として認知され、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけヨーロッパで広大な国の1つであった[[ポーランド・リトアニア共和国]]を形成。[[18世紀]]、4度にわたり[[ポーランド分割|国土が隣国によって分割され消滅]]。
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平均標高 173m,国土総面積の約 70%が標高 200m以下で,500mをこすのは総面積のわずか 3%である。[[マズリ]][[ポモージェ]]の二つの湖沼地帯からなる北部低地から,南に向かって少しずつ高くなり,[[スデティ山脈]][[カルパート山脈]]にいたる。最高点はカルパート山脈西部の高タトリ山地([[タトリ山地]])にあるゲルラホフスキーシュチート(2655m)。
  
[[第一次世界大戦]]後、[[1918年]][[ポーランド第二共和国|独立を回復]]したが、[[第二次世界大戦]]時、[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後[[1952年]]、[[ポーランド人民共和国]]として[[国家主権]]を復活、[[1989年]]、[[民主化]]により[[共和国]]となった。[[冷戦時代]]は、ソ連の影響下に[[傀儡政権]]<ref>https://books.google.ca/books?id=QaF7mnj9igkC&q=%22Puppet+State%22#v=snippet&q=%22Puppet%20State%22&f=false Librairie Droz. p. 475.</ref>の[[社会主義国]]とし最大で最も重要なソ連の[[衛星国]]の一国となり<ref>Wojciech Roszkowski, Najnowsza historia Polski 1914-1945. Warszawa: Świat Książki, 2003, p. 236-240, 678-680, 700-701. ISBN 83-7311-991-4.</ref>、政治的にも[[東側諸国]]の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と[[東欧革命]]を経て、「[[中央ヨーロッパ|中欧]]」または「[[中東欧]]」として再び分類されるようになっている。
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国土のほぼ中央部を[[ウィスワ川]]が,東端をオドラ川([[オーデル川]])が,それぞれ多数の支流を伴って流れ,バルト海に注ぐ。気候は全般に[[大陸性気候]]で,年平均気温は南西部低地で 8℃,北東部で 6℃。
  
== 国名 ==
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年平均降水量は約 600mmで,山地では 800~1200mm,中央低地では約 450mm。国土の約 4分の1を広葉樹,針葉樹の混合林が占め,シカ,クマ,キツネなどが生息する。
[[ファイル:EC map of poland.png|thumb|400px|right|ポーランド]]
 
正式名称はポーランド語で {{読み仮名|{{lang|pl|Rzeczpospolita Polska}}|ジェチュポス'''ポ'''リタ・'''ポ'''ルスカ}} {{IPA-pl|ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska|pron|Pl-Rzeczpospolita_Polska.ogg}}。通称 {{audio|Pl-Polska.ogg|{{Lang|pl|Polska}}|help=no}}。略称 {{lang|pl|RP}}。
 
英語表記はPoland、国民はPolishやPole、形容詞はPolish。
 
日本語の正式表記は'''ポーランド共和国'''、通称は'''ポーランド'''。また、[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''波蘭'''で、'''波'''と略記される。
 
  
ポーランドの国名の「ポルスカ」<ref>{{lang-pl|Polska}}</ref>は野原を意味する「ポーレ」<ref>{{lang-pl|pole}}</ref>が語源と言われている。最初にポーランドを建国した[[部族]]は「レフ族」「レック族」<ref>{{lang-pl|Lechici}}</ref>([[:en:Lechites|Lechici]])といい、また同時に「[[西ポラン族|ポラン族]]」<ref>{{lang-pl|Polanie}}</ref>とも称した。「レフ」「レック」<ref>{{lang-pl|Lech}}</ref>は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわちポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。
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第1次世界大戦後,一時は[[絶滅]]を伝えられた[[ヨーロッパバイソン]]も保護区外で見られる。
  
[[共和国]]」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味する[[ラテン語]]の「レス・プブリカ」<ref>{{lang-la-short|res publica}}</ref>の[[翻訳借用]]である。レスには「物」や「財産」という意味があり、[[ポーランド語]]ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。
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鉱物資源は南部に豊富で,上シロンスク([[シュレジエン]])の石炭を中心に,硫黄,鉄,亜鉛,鉛,銅などを産するほか,南東部では油田,天然ガス田の開発が進んでいる。ほとんどの住民が[[西スラブ人]]に属するポーランド人で,残りは同じ西スラブ系のカシューブ人やドイツ人など。公用語は西スラブ語系の[[ポーランド語]]
  
== 歴史 ==
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宗教はキリスト教の[[カトリック]]が圧倒的多数を占める。国土の約半分が耕地化され,ジャガイモ,サトウダイコン,ライムギ,コムギ,オオムギなどの栽培,ブタやウシの飼育が行なわれる。
{{Main|ポーランドの歴史|ポーランド王国}}
 
  
=== ポーランド王国成立以前 ===
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工業は 1990年代初めから国営企業の民営化が推進され,食品,機械,金属,石油精製などが行なわれる。主要輸出品は機械,金属,食品,化学製品,家具などで,主要貿易相手国はロシアから[[ヨーロッパ連合]] EU諸国に切り替わっている。
[[ファイル:Przeworsk culture.png|thumb|right|プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)]]
 
ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため[[先史時代]]から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古の[[チーズ]]」製造の痕跡がポーランドで発見されている<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2916512/9989394?ctm_campaign=txt_topics|title=7000年前にチーズ作り、土器に証拠発見 ネイチャー|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>http://mainichi.jp/feature/news/20121213reu00m030007000c.html</ref>ことや、[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる[[球状アンフォラ文化]]やそれを継承した[[戦斧文化|縄目文土器文化]]、[[ルサチア文化]](ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実、などが挙げられる。
 
  
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族については、[[古代ローマ]]時代の歴史家[[タキトゥス]]の本『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「{{仮リンク|ルギイ人 (タキトゥス)|en|Rugii|label=ルギイ族}}」<ref>Lugii</ref>との関連が指摘されている。彼らは「[[プシェヴォルスク文化]]」と呼ばれる、周辺の[[ゲルマン人|ゲルマン]]諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族は[[ヴァンダル族]]の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はその一つではないか、とされている。プシェヴォルスク文化は、当時[[ゴート族]]のものと推定される[[ヴィスワ川]]東岸付近一帯の[[ヴィェルバルク文化]]を挟んではるか東方にあった原[[スラヴ人]]の「[[ザルビンツィ文化]]」と似通っていることが[[考古学]]調査で判明しているため、原スラヴ系の文化の一つといえる(詳しくは、[[プシェヴォルスク文化]]、[[ザルビンツィ文化]]、[[ヴィェルバルク文化]]の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元は一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族の[[イラン系民族]]の[[サルマタイ人]]や[[スキタイ]]人が定住していた。[[バルト人]]、[[トルコ人]]もこの地域に住んでいた。
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1999年[[北大西洋条約機構]] NATO,2004年 EUに加盟。([[ポーランド史]]
  
[[ファイル:Piastus.PNG|thumb|right|180px|レフ族(ポラン族)の長ピャスト]]
 
[[4世紀]]、プシェヴォルスク文化の担い手は、西の[[オーデル川|オドラ川]](オーデル川)と東の[[ヴィスワ川]]が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由から[[フン族]]の侵入を免れ、[[ゲルマン民族の大移動]]の後に東方からやってきて[[中欧]]に定住した「プラハ・コルチャク文化 ([[:en:Early Slavs|Prague-Korchak culture]])」を持つ他の[[スラヴ]]諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族 (Lechici) あるいはポラン族 (Polanie) としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、他の[[スラヴ語]]、たとえば[[ロシア語]]では今でも「ルーク」<ref>ロシア語ラテン文字翻字: {{lang|ru-Latn|Lug}}</ref>と「ポーレ」<ref>ロシア語ラテン文字翻字: {{lang|ru-Latn|Pole}}</ref>はどちらも「野原」を原義とする言葉である。[[ロシア人]]を含む[[東スラヴ人]]はもともとポーランド人をリャキ (Lyakhi) と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。[[リトアニア語|リトアニア人]]はポーランド人をレンカイ (Lenkai)、[[ハンガリー人]]はポーランド人をレンジェレク (Lengyelek) と呼ぶ。
 
 
[[6世紀]]までにはこの地に現在の[[スラヴ民族]]が定住し、一種の[[環濠集落]]を多数建設した。遅くとも[[8世紀]]までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が[[異教徒|異教]](非キリスト教)の諸国家を築いていた。
 
 
[[8世紀]]、それまでレフ族/ポラン族 (Lech/Polanie) とゴプラン族 (Goplanie) を治めていた、後に「ポピェリド朝」(Popielidzi) と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド (Popielid) が没し、「車大工のピャスト (Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく[[荷車]]や[[馬車]]などを製造する原初的[[マニュファクチュア]]を経営していた人物(一説にはポピェリドの[[宮宰]]だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「[[ピャスト朝]]」(Piastowie) を創始した。
 
<gallery>
 
ファイル:Origins 300BC.png|紀元前のポーランドとその周辺(Zarubinskyは正しくはZarubintsy)
 
ファイル:Origins 200 AD.png|3世紀頃のポーランドとその周辺<br>チェルニャコヴォ文化 (Chernyakhov) は原スラヴ人と[[サルマタイ人]]の混合文化
 
ファイル:Origins 700.png|8世紀頃のポーランドとその周辺
 
</gallery>
 
 
=== 王国の黎明期 ===
 
[[ファイル:Polska 992 - 1025.png|thumb|left|濃いピンクは992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国領
 
赤太線は1025年に確定したポーランド王国の国境線<br>王国の国境線の外側にある濃いピンク、濃い黄色、青の地域はボレスワフ1世が治めていた王国外の属領]]
 
[[ファイル:Mieszko I of Poland.jpeg|thumb|upright|建国の父ミェシュコ1世]]
 
[[ファイル:Matejko-chrobry at Kiev (Kijow).jpg|thumb|upright|初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城]]
 
[[ファイル:Drzwi gnieznienskie widok ogolny.jpg|thumb|left|150px|グニェズノ大聖堂の扉]]
 
[[ファイル:Lech 111.PNG|160px|サムネイル|右|10世紀、レフ族・レヒト人・レヒ人]]
 
[[966年]]、[[ピャスト朝]]レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長[[ミェシュコ1世|ミェシュコ]]が近隣のヴィスワ諸部族 (Wiślanie)、ポモージェ諸部族 (Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族 (Mazowszanie) などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗して[[ミェシュコ1世]]公となり、国家は'''ポーランド公国'''として[[西欧]]キリスト教世界に認知された。
 
 
992年にミェシュコ1世の息子[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼は[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]や[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の[[神聖ローマ帝国]]、[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ2世]]の[[デンマーク]]と積極的に外交した。[[1000年]]、オットー3世はポーランド公国の首都[[ポズナニ]]近郊の[[グニェズノ]]へ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに[[大司教|大司教座]]を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも[[神聖ローマ皇帝]]の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南の[[ボヘミア]]へ軍を進めて[[1004年]]に自らボヘミア公となり、[[1018年]]に東へ軍を進めて[[キエフ・ルーシ]]を攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 ([[:en:Pokój w Budziszynie/Frieden von Bautzen|en]]) により[[マイセン]](ポーランド語でミシニャ)と[[ラウジッツ]](ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果[[中欧]]に広大な新領土を確保した。その間、[[1015年]]には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世の[[イングランド王国|イングランド]]遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、[[北海帝国]]の建設を援助した。[[1020年]]には[[クラクフ]]のヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
 
 
[[1025年]]、ボレスワフ1世の死の直前に、[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス19世 (ローマ教皇)|ヨハネス19世]]によってポーランド公国は王国として認知されて'''[[ポーランド王国]]'''となり、国境を確定した。王国領は[[西ポモージェ県|西ポモージェ地方]]を除く現在のポーランド、[[チェコ]]の[[モラヴィア]]地方、[[スロヴァキア]]のほぼ全域、[[オーストリア]]の一部、[[ハンガリー]]の一部、ドイツの[[ラウジッツ]]地方、[[ウクライナ]]の「[[赤ルーシ]]」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、[[ベラルーシ]](白ルーシ)の[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]地方、ドイツの[[ラウジッツ]]地方と[[マイセン]]地方となる。
 
 
ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の[[戴冠式]]を受けたのは息子の[[ミェシュコ2世]]である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。[[1034年]]、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
 
 
[[1038年]]、時のポーランド公[[カジミェシュ1世]]は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、[[クラクフ]]へと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再び纏め上げた。また、公は[[ヴァヴェル大聖堂]]を大改築し、クラクフと[[ヴロツワフ]]に[[司教|司教座]]を置いた。その長男で[[1058年]]に公位を継いだ[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた[[叙任権闘争]]をうまく利用し、[[1076年]]にポーランド王位に就いた。
 
 
=== 長い分裂時代 ===
 
[[ファイル:TestamentKrzywoustego.png|thumb|ボレスワフ3世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド:
 
{{legend|pink|クラクフ大公領}}
 
{{legend|blue|シロンスク公領}}
 
{{legend|cyan|マゾフシェ公領}}
 
{{legend|green|ヴィエルコポルスカ公領}}
 
{{legend|yellow|サンドミェシュ公領}}
 
{{legend|gray|后の相続領}}
 
{{legend|limegreen|ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領}}]]
 
[[1138年]]、[[ボレスワフ3世 (ポーランド王)|ボレスワフ3世]]は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド大公)|ヴワディスワフ2世]]にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。[[1079年]]に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな[[領邦]]に分裂していった。
 
 
[[1146年]]、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]])からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「[[シロンスク・ピャスト家|シロンスク・ピャスト朝]]」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地の[[ピャスト朝|ピャスト家]]が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにした上シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から[[破門]]され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた([[庶子]]の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。
 
[[ファイル:Chronica Polonorum Lech & Czech.jpg|サムネイル|左|左:[[10世紀]]、[[レヒト諸語|レフ人・レヒト人]](ポーランド人)、右:チェコ人]]
 
 
[[1226年]]、ポーランドの[[コンラト1世 (マゾフシェ公)]]は隣国の異教徒[[プルーセン人]]に対する征討と教化に手を焼いて<ref>東欧史、山川出版社, 1977 p183</ref>、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。[[1228年]]、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団の[[プロイセン]]領有が認められ、1230年クルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認め騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを[[東方殖民]]として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。
 
 
==== モンゴル帝国の侵攻、ドイツ騎士団(東方殖民)、ユダヤ人移民 ====
 
[[ファイル:Henryk Pobozny.jpg|thumb|upright|レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世]]
 
{{Main|モンゴルのポーランド侵攻}}
 
[[1241年]]にはモンゴルの[[バトゥ]]の軍の一部が[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド南部に来襲]]し、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}や[[クラクフ]]など南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。{{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}}は全ヨーロッパを震撼させた。[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世教皇]]は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している<ref>伝統思想と民衆、河原宏  成文堂, 1987. 174 ページ</ref>。教皇に[[プロイセン]]のドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていた[[ヘンリク2世]]はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、[[レグニツァ]]でモンゴル軍を迎え撃った([[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]])。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北しヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破った事は、東欧史上の大事件であった。
 
 
まもなくモンゴル軍は[[アジア]]撤退するがクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法の[[マクデブルク法]]、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった<ref>Oskar Halecki, W: F. Reddaway, J. H. Penson. "The Law of Magdeburg used in Poland". The Cambridge History of Poland. CUP (Cambridge University Press) Archive. pp. 133–136. ISBN 1001288025. Retrieved October 23, 2012.</ref>、他の事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した<ref>{{cite web|url=https://jewishhistorylectures.org/2013/12/05/origins-of-polish-jewry-this-week-in-jewish-history/|title=Origins of Polish Jewry (This Week in Jewish History)|date=5 12月 2013|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>)彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された[[硬貨]]の発行などに携わった<ref name="auto">The Polish Jews Heritage – Genealogy Research Photos Translation". polishjews.org. 2009. Retrieved September 30, 2015.</ref>)。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの[[都市法]]である[[マクデブルク法]]が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。
 
[[ファイル:Wladyslaw Lokietek.jpg|thumb|upright|left|ヴワディスワフ1世]]
 
ドイツ騎士団の支配と共にドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌と元々恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、後にそれがポーランド文学の発展に役立った。
 
ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された[[硬貨]]の発行などに携わった<ref name="auto" />。
 
 
ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動がおこったりした。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動もまた起きて、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが彼らかを統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも元々のポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。後にポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
 
 
=== 黄金時代 ===
 
[[ファイル:Pestilence spreading Japane.png|thumb|left|中世ヨーロッパにおける[[ペスト]]の伝播<br>生活習慣や都市構造に関する嗜好が独特なポーランドはペスト禍を免れ、国全体がまるで[[オアシス]]のようになっている]][[ファイル:CasimirtheGreat.jpg|thumb|名君カジミェシュ3世「大王」]][[ファイル:005Planty.JPG|thumb|left|ヤドヴィガとヤギェウォ(ヨガイラ)の夫妻の記念像([[クラクフ]]旧市街)]]
 
[[ファイル:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem.jpg|thumb|400px|グルンヴァルトの戦い<br>ポーランド軍の農民兵がドイツ騎士団総長[[ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン]](中央左の馬上の白黒の衣装の人物)を討つ瞬間]]
 
[[ファイル:Unia Lubelska.JPG|thumb|left|ルブリン合同<br>ポーランド=リトアニア共和国の誕生]]
 
[[ファイル:Rzeczpospolita.png|thumb|200px|ポーランド王国の最大版図]]
 
[[ファイル:Albert Brudzewski.jpg|thumb|150px|[[アルベルト・ブルゼフスキ]]教授]]
 
{{Main|ポーランド・リトアニア共和国}}
 
[[14世紀]]にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮した[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。[[1339年]]、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]])の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](西部[[ウクライナ]])を占領し領土を広めていった。また、後には反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこの頃に土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。[[1355年]]にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。[[1364年]]、大王は[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]](ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
 
 
==== ヤギェウォ朝 ====
 
 
王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。[[1385年]]、ポーランド女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]とリトアニア大公[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]](ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志の元、結婚し、ポーランド王国と[[リトアニア大公国]]は[[同君連合|人的同君連合]]をした。[[ポーランド・リトアニア連合|ポーランド=リトアニア連合]]を形成した([[クレヴォの合同]])。[[1399年]]にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、[[ボヘミア王国]]および[[ハンガリー王国]]の王朝である[[ヤギェウォ朝]]がポーランドを統治することになった。[[1410年]]、ポーランド=リトアニア連合は[[グルンヴァルトの戦い]]で[[ドイツ騎士団]]を討った。
 
 
[[1414年]]、[[コンスタンツ公会議]]ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時[[異教徒]]の国であった[[リトアニア]]とキリスト教徒の国である[[ポーランド王国]]が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から[[絶滅]]されるべきである。」と主張した。ポーランド[[全権]]で[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]]校長であった[[パヴェウ・ヴウォトコヴィツ]]([[ラテン語]]名パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような[[異教徒]]であっても我々キリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利([[国家主権]])、平和に暮らす権利([[生存権]])、自らの財産に対する権利([[財産権]])を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの([[自衛権]])は全く正当である」。教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]は異教徒の人権についての決定はしなかった。
 
 
[[1430年]]にリトアニア大公の[[ヴィータウタス]](ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所では[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、ある場所では[[プロテスタント]]、ある場所では[[正教会]]、ある場所([[リプカ・タタール人]]の[[共同体]])では[[イスラム教]]、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。
 
 
[[ファイル:Marian Jaroczyński - II Traktat Toruński.jpg|thumb|left|200px|第二次トルンの和約]]
 
[[ファイル:Jan Matejko-Astronomer Copernicus-Conversation with God.jpg|thumb|left|コペルニクス]]
 
[[ファイル:Polish-Lithuanian_Commonwealth_(1619).png|thumb|left|300px|'''巨大化した第1共和国'''<br>ポーランド王国(濃いピンク)/リトアニア(薄紫)/プロシア公領(肌色)/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄いグレー)/エストニア(黄緑)]]
 
[[1440年]]、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王と[[プロイセン連合]]を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。[[1466年]]、[[第二次トルンの和約]]により[[ドイツ騎士団領]]は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を[[宗主国]]とする[[属国]]となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会([[セイム]])への代議員を送ってポーランドを構成する全ての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。を起こした。[[ヴァルミア]]司教の叙任を巡って、これをポーランドの[[グニェズノ]]の大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して意義を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教にとし、今後グニェズノ大司教が主権を握る事で和解した。
 
 
[[ファイル:Sigismundus II Augustus of Poland.PNG|thumb|right|200px|名君ジグムント2世アウグスト]][[ファイル:Grottger Escape of Henry of Valois.jpg|thumb|200px|国王ヘンリク・ヴァレジの逐電<br>ワルシャワ国立博物館蔵]]
 
[[ファイル:Kober_Stephen_Bathory.jpg|thumb|200px|名君ステファン・バートリ]]
 
[[1543年]]、[[トルン]]出身で[[クラクフ大学]]卒業生のミコワイ・コペルニク([[ラテン語]]名[[ニコラウス・コペルニクス]])は著書『[[天球の回転について]] (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、[[地動説]]を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父で[[ヴァルミア]]司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、[[クラクフ大学]]におけるコペルニクスの恩師である人気教授[[アルベルト・ブルゼフスキ]]は[[月の軌道]]計算で世界的に名を挙げ、月が[[楕円軌道]]を描いていること、そして常に同じ面を[[地球]]に向けていることを指摘している。
 
 
[[1569年]]、国王[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]の幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合([[ルブリン合同]])してポーランド王を統一君主とする[[同君連合|物的同君連合]]で制限つきながらも[[議会制民主主義]]を採る「'''[[ポーランド=リトアニア共和国]]'''」(第1共和国)となり、欧州の広大な国の1つとして君臨した。
 
 
[[ファイル:Jan Zamoyski.jpg|thumb|left|200px|名宰相[[ヤン・ザモイスキ]]]]
 
ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全ての[[シュラフタ]](ポーランド貴族)が参加する選挙([[国王自由選挙]])によって国王を決定する「選挙王政」を採る[[貴族共和国]]になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に[[選挙権]]が付与されていた。[[アメリカ合衆国]]が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
 
 
[[1573年]]、全ての[[シュラフタ]]が一人一票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの[[国王自由選挙]]で選ばれた最初のポーランド国王は[[フランス王]][[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]と[[イタリア人]]の王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]の息子である[[フランス人]]ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、後のフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]])であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「[[ヘンリク条項]]」によりポーランドで事実上の[[立憲君主制]]([[シュラフタ]]層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、[[バイセクシュアル]]であった自身の性癖がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていた[[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]を女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気がさしたヘンリクは[[1574年]][[6月18日]]、突然フランスへと逐電してしまう。
 
 
==== ポーランド・リトアニア共和国 ====
 
 
[[ヤン・ザモイスキ]]は[[1578年]]に大法官([[内閣総理大臣]])に就任し、[[1580年]]にはクラクフ[[城代]]を兼任、そして[[1581年]]にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である[[ポーランドとリトアニアのヘトマン一覧|王冠領大ヘトマン]](大元帥)を兼任し、現在の[[立憲君主制]]の国家の[[首相]]に相当する強大な[[行政権]]を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で[[1605年]][[6月3日]]に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な[[自由主義]]([[穏健主義]])の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模の[[シュラフタ]]たちからは圧倒的支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては[[農奴制]]を禁止し、全ての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱える[[ルネサンス]]思想にも同調し、[[イタリア]]から建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「[[ザモシチ]]」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「[[黄金の自由]]」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法([[5月3日憲法]])を制定した基礎となっていった。
 
 
=== 対外戦争の時代 ===
 
[[ファイル:Polish-Swedish union 1592-1599.PNG|thumb|left|ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合]]
 
[[ファイル:Kolumna Zygmunta statua 2006.jpg|thumb|200px|ジグムント3世<br>ワルシャワ王宮前の王柱頂上の立像]]
 
[[ファイル:Polish-Lithuanian commonwealth 1619 map.png|thumb|left|1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線]]
 
[[ファイル:Sobieski Sending Message of Victory to the Pope.jpg|thumb|ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世。]]
 
ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人の[[オスマン帝国]]と[[クリミア・タタール人]]の[[クリミア・ハン国]]と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そして[[モスクワ大公国]]と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家の一つであったリトアニア大公国は自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった、国は[[封建制]]となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「[[カピチュレーション|恒久平和]]」で侵略の脅威を免れることができた。この時期に[[シュラフタ]]が発展した<ref>Davies, Norman (2005a). God's Playground: A History of Poland, Volume I (2nd ed.). Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-231-12817-9. pp. xxviii-xxix</ref>。
 
[[1592年]]、ポーランド=リトアニア共和国は[[スウェーデン|スウェーデン王国]]と[[人的同君連合|同君連合]]となった。時の国王[[ジグムント3世]](スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における[[対抗宗教改革]]の尖峰となっていた[[イエズス会]]によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的な[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の闘士となった。戴冠した当初は当時の[[首都]]であった[[クラクフ]]に居を構えていたが、[[1596年]]には将来の[[スカンジナヴィア|スカンジナヴィア諸国]]、[[バルト諸国|バルト海沿岸地域]]、[[ルーシ|ルーシ諸国]]、といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地として[[ワルシャワ]]に[[遷都]]した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で[[摂政]]を務めていた[[プロテスタント]]教徒の[[カール9世 (スウェーデン王)|カールの反乱]]が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、[[1599年]]にスウェーデン王位をカールに[[簒奪]]され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
 
 
[[1611年]]、ジグムント3世は[[モスクワ大公国]]の自由主義的な大公国貴族([[ボヤーレ]])たちの求めに応じて東方へと侵攻し[[モスクワ|モスクワ市]]を占領した([[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]])。ジグムント3世が占領中に「[[ロシア皇帝]]位には[[カトリック教会|カトリック教徒]]のポーランド国王あるいはその[[皇太子|王太子]]のみが就く」という布告を出したことから[[正教徒]]であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は[[1612年]]までに撤退した。後たび重なる戦争([[ポーランド・スウェーデン戦争]]、[[大洪水時代]])によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。
 
 
[[1683年]]に[[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]を撃退し、全ヨーロッパの英雄となった[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]王は以後、行き過ぎた地方分権による[[無政府状態]]化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため[[世襲制|世襲王政]]の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による[[立憲君主制]]の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、[[国庫]]は逼迫し、国力は衰退していった。
 
 
=== 近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割 ===
 
[[ファイル:Konstytucja 3 Maja.jpg|thumb|left|5月3日憲法案の公布のため聖ヨハネ大聖堂へ入るポーランド国王スタニスワフ2世(帽子とマントの男性)]]
 
[[ファイル:JPoniatowski.JPG|thumb|right|100px|プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ将軍]]
 
[[ファイル:Tadeusz Kościuszko.PNG|thumb|left|100px|タデウシュ・コシチュシュコ将軍]]
 
[[ファイル:WTP C18 AMP 1.jpg|thumb|right|150px|コシチュシュコがアメリカ独立戦争時代に住んでいた家で、現在はコシチュシュコ将軍記念館<br>アメリカ、[[フィラデルフィア]]]]
 
[[ファイル:Bitwa pod Raclawicami.jpg|thumb|left|200px|コシチューシュコ蜂起]]
 
[[ファイル:Polish-Lithuanian Commonwealth 1789-1792.PNG|thumb|right|[[5月3日憲法|五月三日憲法]]時代のポーランド<br>[[グダンスク]](ダンツィヒ)が[[飛び地]]になっている]]
 
[[ファイル:Rzeczpospolita Rozbiory 3.png|thumb|right|ポーランド分割]]
 
{{Main|ポーランド分割}}
 
18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドを1772年、1793年、1795年、1815年の4度に渡ってポーランド分割を行った。
 
 
[[18世紀]]後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領([[ポーランド分割]])された。[[1772年]]に第一次ポーランド分割が行われた後、[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世]]王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。[[1791年]]、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「[[5月3日憲法]]」)。この憲法によって[[王権]]の[[世襲制]](選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに[[立憲君主制]]が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて[[行政]]が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。[[1793年]]、議会によりワルシャワに[[国民教育委員会]] (Komisja Edukacji Narodowej, KEN) が設立された。
 
 
[[立憲君主制]]、[[民主主義]]の[[王政]]に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力は[[ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした({{仮リンク|ポーランド・ロシア戦争 (1792年)|pl|Wojna polsko-rosyjska 1792|ru|Русско-польская война (1792)|en|Polish–Russian War of 1792|label=ポーランド・ロシア戦争}})。この直後の[[1793年]]、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された({{仮リンク|コシチュシュコの蜂起|en|Kościuszko Uprising}})。[[1795年]]、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域は[[ロシア帝国]]に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子と共に半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。
 
 
ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務する[[ポーランド立憲王国]]を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。
 
 
=== 束の間の再興 ===
 
{{Main|ワルシャワ公国}}
 
[[ファイル:KostrzewskiFranciszek.Grzybobranie.1860.jpg|thumb|left|叙事詩『パン・タデウシュ』第三巻より「きのこ狩り」の場面]][[ファイル:Kosciuszko Solothurn.JPG|thumb|left|150px|コシチュシュコが亡くなるまで住んでいた家<br>[[スイス]]、[[ゾロトゥルン]]]]
 
ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキは[[ナポレオン戦争]]にフランス軍の将軍として参加、[[1807年]]にポーランドは[[ワルシャワ公国]]として再び独立した。しかしその後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンの[[ライプツィヒ]]で敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の[[殿軍]]の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が失脚すると、[[1815年]]の[[ウィーン会議]]によって、ポーランドは[[ロシア皇帝]]を元首とする[[ポーランド立憲王国]](会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特に[[フランス]]に[[亡命]]した。
 
 
=== 独立運動の時代 ===
 
{{Main|ポーランド立憲王国}}
 
[[ファイル:Chopin denkmal wwa.jpeg|thumb|right|ワルシャワ、ワジェンキ水上宮殿の庭園にあるショパン像]]
 
[[ファイル:Emilia Plater 2.PNG|thumb|120px|left|英雄[[エミリア・プラテル]]]]
 
 
==== 十一月蜂起 ====
 
ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。[[フランス]]や[[ベルギー]]の革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、[[1830年]]ロシア帝国からの独立および旧[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指して「[[十一月蜂起]]」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあった[[エミリア・プラテル]]は[[シュラフタ]]([[士族]]、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。
 
 
 
==== 一月蜂起 ====
 
[[ファイル:Rok 1863 Polonia.JPG|thumb|ロシアに鎮圧された一月蜂起<br>擬人化されたポーランド(手前の女性)とリトアニア(奥の女性)]]
 
[[1856年]]にロシア帝国が[[クリミア戦争]]に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、[[1863年]]、旧[[ポーランド王国]]領と、旧[[リトアニア大公国]]領で同時に「[[一月蜂起]]」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が[[絞首刑]]にされ、十数万人が[[シベリア]]の[[イルクーツク]]などに[[流罪|流刑]]となった<ref>{{cite web|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html|title=JOG(142) 大和心とポーランド魂|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
==== ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国 ====
 
[[プロイセン王国]]内の旧[[ポーランド王国]]領である[[ポーゼン州]](旧[[ポズナン大公国]])では、[[1871年]]からは[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の[[文化闘争]]により、[[ポーランド人]]に対する抑圧政策が行われた。文化闘争は[[ドイツ人]]も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は[[1878年]]に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策は[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]がビスマルクを解任した後も続けられ、[[ドイツ帝国]]が[[第一次世界大戦]]で敗北した[[1918年]]に終了した。
 
[[ファイル:Polish Regents 1916.jpg|thumb|left|ポーランド王国の3人の摂政と衛兵]]
 
[[1916年]]、第一次世界大戦の最中に[[ドイツ帝国]]によってその[[衛星国]]としての[[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド王国]]が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが[[総督]]となり、3人のポーランド人が[[摂政]]を務め、6人のポーランド人政治家が歴代[[首相]]となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドの[[ジヴィエツ]]に住み流暢な[[ポーランド語]]を話した[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族[[カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ|カール・シュテファン大公]](ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは[[1918年]]にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、[[1933年]]に当地で死去した。子孫はポーランド人として今も[[ガリツィア]]地方に住んでいる<ref>{{cite web|url=http://bielskobiala.naszemiasto.pl/wydarzenia/593159.html|title=Wydarzenia Bielsko-Biała|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
=== 独立と第二共和国 ===
 
{{Main|ポーランド第二共和国}}
 
[[1918年]][[11月11日]]に[[第一次世界大戦]]が終結すると、[[ヴェルサイユ条約]]の[[民族自決]]の原則により、旧[[ドイツ帝国]]と[[ソビエト連邦]]から領土が割譲され、[[ユゼフ・ピウスツキ]]を[[国家元首]]として[[共和制]]のポーランド国家が再生した。[[ファイル:Polen-Karte-Heute-300x296.png|thumb|upright|left|現ポーランド領におけるドイツ帝国領だった地域]]
 
[[ファイル:Jozef Pilsudski1.jpg|thumb|upright|left|ユゼフ・ピウスツキ]]
 
[[1920年]]には[[ソビエト連邦]]に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、[[ポーランド・ソビエト戦争]]が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、[[ミハイル・トゥハチェフスキー|トゥハチェフスキー]]率いる赤軍が反撃を開始した。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍の採った思い切った機動作戦が成功してポーランド軍がソ連軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーのソ連軍は一斉退却を開始、ポーランド軍は[[赤軍]]を押し返すことに成功し、「[[ヴィスワ川]]の[[奇跡]]」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。
 
 
この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子供達だけは母国へ戻したいと[[ウラジオストク]]のポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。[[1919年]]にポーランドと国交を結んだばかりだった[[日本]]は、人道的な見地から救済に乗り出した<ref>[http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/polish-orhpans/polish-orhpans.html ポーランド孤児] 人道の港 敦賀ムゼウム</ref>。同時期に、シベリアやソ連に居たユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」全世界に向け救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。
 
 
[[1922年]]に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、[[1926年]]に[[クーデター]]を起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、[[開発独裁]]を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民の[[カリスマ]]であったピウスツキが[[1935年]]に死亡すると、[[ユゼフ・ベック]]を中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点を[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]につけ込まれるようになった。独ソには蹂躙されるだけに見えて、1926年までポーランドの暗号解読者は両国の傍受に完全に成功していた。[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]] のレプリカ15台を作製して用い、1938年まではドイツから傍受した通信の3/4を解読していた。ポーランドは解読器'''{{仮リンク|ボンバ (暗号)|label=ボンバ|en|Bomba (cryptography)}}'''を開発のうえ、設計図を英仏に提供した。ポーランドはエニグマに対する[[暗号文単独攻撃]]に成功していた。
 
 
=== 第二次世界大戦 ===
 
[[ファイル:The Royal Castle in Warsaw - burning 17.09.1939.jpg|thumb|ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮]]
 
[[1939年]]8月、[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]が締結した[[独ソ不可侵条約]]の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、'''ポーランドは消滅'''することになる。[[1939年]][[9月1日]]、[[グダニスク]]近郊の[[ヴェステルプラッテ]]のポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍と[[独立スロバキア|スロヴァキア]]軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えて[[ポーランド侵攻]]を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内から[[ヴィリニュス]]地域を譲られた[[リトアニア]]の4か国で分割占領された。[[ポーランド亡命政府]]は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な[[ポーランドの反独闘争|反独闘争]]を展開した。
 
 
独ソ戦でソ連が反撃に転ずるとドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月、ソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起する[[ワルシャワ蜂起]]が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。[[ポツダム会談]]の決定により[[ポーランド人民共和国]]に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。
 
 
=== ポーランド人民共和国 ===
 
{{Main|ポーランド人民共和国}}
 
[[ファイル:Curzon line en.svg|thumb|left|旧国境と新国境]]
 
[[1945年]][[5月8日]]から[[1989年]][[9月7日]]までの44年間は、マルクス・レーニン主義の[[ポーランド統一労働者党|ポーランド統一労働者党('''PZPR''')]]が[[寡頭政治]]を敷くポーランド人民共和国の[[共産主義]]時代であった。
 
 
[[1945年]]5月8日、[[ヨーロッパ戦勝記念日|ドイツ降伏]]によりポーランドは復活、その国の形は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・ソ連の[[ヤルタ会談]]によって定められた。
 
{{See also|ヤルタ会談#ポーランド問題}}
 
[[カティンの森事件]]で[[ポーランド亡命政府]]は、ソ連の発表の受け入れを拒否。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導の[[ルブリン政権]]が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連は[[ポーランド侵攻]]以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、[[992年]]に[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失った。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。
 
 
[[1952年]]、[[ポーランド人民共和国]]は'''PZPR'''の[[一党独裁制]]の政党となり、ソ連の最大で最も重要な衛星国となった。恐怖を伴ったポーランドのソ連型化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに[[構造改革]]された<ref name="britannica.com">{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland|title=Poland - history - geography|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。{{See also|{{仮リンク|ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ|en|Propaganda in the Polish People's Republic}}}}
 
[[ファイル:Kolejka.jpeg|サムネイル|右|1950年代~1980年代の典型的なポーランドの様子、国営商店に並ぶ市民]]
 
 
ポーランド政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰をまねき、食料・物資不足が長く続いた。1973-74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補う為、更なる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり{{仮リンク|欠乏経済|en|Shortage economy}}を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった<ref name="britannica.com" />。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上で酷い悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し力の無さを感じた<ref>Magdalena Błędowska, Maciej Gdula, 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny [4 June 1989. How the Nation Did Not Overthrow the Commies]. 04 June 2014. 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny. krytykapolityczna.pl. Retrieved 28 December 2014.</ref>。
 
 
[[1981年]]-[[1983年]]、{{仮リンク|ポーランドの戒厳令|en|Martial law in Poland}}の期間に政府は反政府を潰す為に[[戒厳]]を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され<ref name="bbc.co.uk">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6175517.stm|title=Poland marks communist crackdown|date=13 12月 2006|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=bbc.co.uk}}</ref>、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人<ref name="bbc.co.uk" />ほど抹殺された。[[夜間外出禁止令]]、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。[[軍法会議|軍裁判所]]は、偽造情報発信者達を逮捕した<ref>http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/special_report/1999/09/99/iron_curtain/timelines/poland_81.stm</ref>。
 
戒厳令後も、市民の[[自由権]]は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な[[経済危機]]となる。
 
経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の[[配給制]]となり平均所得は40%下落した<ref>CIAs Historical Review (24 October 1997). "Cold War era analysis" (PDF file, direct download 12.2 MB). Soviet  East European Military Relations in Historical Perspective Sources and Reassessments (The Historical Collections Division (HCD) of the Office of Information Management Services) 1 (1): 18 of 44. Retrieved 26 May 2014.配給制と長蛇の列は日常化 Karolina Szamańska (2008). "Sklepy w czasach PRL" (PDF file, direct download). Portal Naukowy Wiedza i Edukacja. pp. 13, 22 23 / 25. Retrieved 15 October 2014.</ref>。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した<ref>Neier, Aryeh (2003). Taking Liberties: Four Decades in the Struggle for Rights. Public Affairs. pp. p. 251. ISBN 1-891620-82-7.</ref>。
 
 
[[共産主義]]政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した[[不動産]]も国有化された。ソ連、[[チェコスロバキア]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]などの同じ[[東側諸国]]のように[[集団農場]]と個人農地は[[国有化]]された<ref name="auto1">Davies, Norman (2005). God's Playground, a History of Poland: 1795 to the Present. Columbia University Press. p. 435</ref>。小規模個人農家や多品種少量生産を主とする農業も定着していたため現在もほぼこの構造は変わっていない。しかしEU加盟後、ポーランド政府により個人農家の縮小と廃業化が行われている。
 
 
一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた({{仮リンク|ポーランド人人口の移動(1944-1946)|en|Polish population transfers (1944–1946)}})。
 
[[ファイル:Pope John Paul II 11 06 1987 01.jpg|thumb|left|ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世]]
 
[[冷戦]]中、[[ワルシャワ条約機構]]や、1949年1月、西側の[[マーシャル=プラン]]に対抗するものとして設立された[[コメコン]](経済協力機構)に参加した。
 
 
[[ファイル:Brama.glowna.may.1988.png|thumb|ワルシャワ大学前での「連帯」運動]]
 
ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する[[ポーランド民主化運動|市民による民主化運動]]はこの時期拡大していった。[[1979年]]6月にポーランド人[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が故国ポーランドを訪れ、{{仮リンク|マルクス・レーニン主義無神論|en|Marxist–Leninist atheism}}の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。[[1980年]][[9月17日]]には[[独立自主管理労働組合「連帯」]]が結成された。
 
{{-}}
 
 
=== 第三共和国 ===
 
{{main|[[ポーランド民主化運動|ポーランドの歴史(1945年〜1989年)]]}}
 
[[ファイル:Lech Walesa - 2009.jpg|thumb|upright|left|[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)]]第三共和制初代大統領]]
 
[[1989年]][[6月18日]]、[[円卓会議 (ポーランド)|円卓会議]]を経て実施された[[1989年ポーランド議会選挙|総選挙]](下院の35%と上院で自由選挙実施)により、[[ポーランド統一労働者党]]はほぼ潰滅状態に陥り、1989年[[9月7日]]には非共産党政府の成立によって[[ポーランド民主化運動|民主化]]が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは、「第三共和国」と呼ばれる国家であり、[[民主主義|民主]][[共和制|共和]]政体を敷く'''民主国家時代'''である。
 
 
行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である640,000人が[[1981年]]-[[1989年]]の間に難民となり他国へ移民した<ref>ane Hardy, Poland's New Capitalism, pp. 26–27</ref>。
 
 
共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化、政治を不安定化させた<ref>Jane Hardy, Poland's New Capitalism, pp. 26–27</ref>。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった、[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ|ヤルゼルスキ]]の下、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった<ref>Hufbauer, Gary Clyde; Jeffrey J. Schott; Kimberly Ann Elliott (1990). Economic Sanctions Reconsidered: History and Current Policy. Institute for International Economics. pp. p. 193. ISBN 0-88132-136-2.</ref>。
 
 
ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。
 
 
[[1990年]][[11月14日]]には統一[[ドイツ]]との間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧[[西ドイツ]]は、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]とポーランド人民共和国が[[1950年]][[7月6日]]に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。
 
 
[[1993年]]、第二次世界大戦からポーランドに駐留していた[[ロシア連邦軍]](旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。
 
 
[[1997年]]には[[憲法]]の大幅な改正が行われ、行政権が[[ポーランドの大統領|大統領]]から[[ポーランドの首相|首相]]へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。
 
 
[[1999年]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟した。
 
 
[[2004年]][[5月1日]]、[[欧州連合]] (EU) に加盟した。
 
[[ファイル:Lech_Kaczyński.jpg|thumb|upright|120px|[[レフ・カチンスキ]]第三共和制第4代大統領]]
 
[[2005年]]、[[欧州連合]] (EU) の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強い[[キリスト教民主主義]]の[[カトリック教会|カトリック]]系[[保守主義]]政党「[[法と正義]]」が[[2005年ポーランド議会選挙|総選挙]]で勝利し、農村型の[[大衆主義]]政党「[[自衛 (ポーランド)|自衛]]」、カトリックの[[レデンプトール会]]系の[[国民保守主義]]の小政党「[[ポーランド家族同盟]]」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。
 
 
同時に行われた[[2005年ポーランド大統領選挙|大統領選挙]]では最大のライバルである[[ドナルド・トゥスク]](「[[市民プラットフォーム]]」)との間で決選投票を行った、[[レフ・カチンスキ]](「[[法と正義]]」)が当選した。
 
 
しかし、[[ヤロスワフ・カチンスキ]]率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても[[欧州連合]]や[[ロシア]]と軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず[[2007年]][[9月7日]]に議会を解散する。
 
 
この解散を受けて[[2007年]][[10月21日]]に行われた[[2007年ポーランド議会選挙|総選挙]]では、[[欧州連合]] (EU) との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い[[都市]]型[[中道右派]]政党「[[市民プラットフォーム]]」が勝利を収める。
 
 
一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われる[[ドント方式]]の[[比例代表制]]の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「[[法と正義]]」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「[[自衛 (ポーランド)|自衛]]」と「[[ポーランド家族同盟]]」といった[[国民保守主義]]・[[大衆主義]]的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。
 
[[ファイル:Bronisław_Komorowski_official_photo.jpg|thumb|right|150px|[[ブロニスワフ・コモロフスキ]]第三共和政第5代大統領]]
 
この選挙の結果、ポーランド議会([[ポーランド共和国下院|セイム]])の会派は議席の多い順に、
 
#都市型[[中道右派]]政党の「[[市民プラットフォーム]]」(209議席)
 
#[[キリスト教民主主義]]の[[保守主義]]政党の「[[法と正義]]」(166)
 
#[[中道左派]]と[[中道政治|中道]]の政党連合「[[左翼と民主]]」(53)
 
#農村型[[中道右派]]政党の「[[ポーランド農民党]]」(31)
 
#[[民族ドイツ人|ドイツ民族政党]]の「[[ドイツ少数民族]]」(1)
 
と、整理された。
 
[[ファイル:D tusk.jpg|thumb|left|150px|[[ドナルド・トゥスク]]首相]]
 
最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模[[専業農家]]の支持する[[農村]]型中道右派政党「[[ポーランド農民党]]」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首[[ドナルド・トゥスク]]が就任した。
 
 
2009年[[9月1日]]には、[[ポーランド侵攻|二次大戦勃発]]70周年式典が開かれ、ポーランドからはトゥスク首相が出席した<ref>{{cite web|url=http://www.epochtimes.jp/jp/2009/09/html/d33919.html|title=第二次世界大戦開戦70周年、ポーランドで記念式典 - (大紀元)|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。同じ2009年[[11月27日]]には、「[[法と正義]]」の[[ヤロスワフ・カチンスキ]]党首が提案した、「[[鎌と槌]]」や「[[赤い星]]」など共産主義のマークを禁止する法律が可決された<ref>{{cite web|url=http://www.foxnews.com/world/2009/11/27/poland-imposes-strict-ban-communist-symbols/|title=Poland Imposes Strict Ban on Communist Symbols - Fox News|date=27 11月 2009|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d93350.html|title=東欧国家、共産主義への取締を強化 - (大紀元)|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり、民間では制限されておらず、自由に使える。たとえば観光都市[[クラクフ]]では共産主義的な雰囲気の残っているところを観光客が楽しむための旅行会社さえあり、共産主義のマークを問題なく使用している<ref>{{cite web|url=http://www.crazyguides.com/|title=Crazy Krakow Tours of Nowa Huta District|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
[[2010年]][[4月10日]]、[[カティンの森事件]]70周年の追悼式典に出席するため向かった[[レフ・カチンスキ]]大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した[[ポーランド空軍Tu-154墜落事故|政府専用機墜落事故]]で全員が死亡した。
 
 
この事故を受けて、ポーランド下院([[セイム]])議長で「市民プラットフォーム」所属の[[ブロニスワフ・コモロフスキ]]が[[憲法]]に従い大統領代行に就任。[[2010年ポーランド大統領選挙|大統領選挙]]が[[6月]]に急遽行われることになった。
 
 
==== EU加盟 ====
 
[[ファイル:European Union map.svg|thumb|left|ヨーロッパ連合(EU)]]
 
[[ファイル:SchengenAgreement map.svg|thumb|right|シェンゲン協定加盟国]]
 
[[2004年]][[5月1日]]、ポーランドは[[欧州連合]] (EU) に加盟した。
 
 
[[2007年]][[12月21日]]には国境審査が完全に撤廃される[[シェンゲン協定]]に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。[[2008年]][[3月30日]]には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での全ての国境審査が撤廃されたことになる。
 
 
現在では、[[ポーランド人]]ならば[[パスポート]]なしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
 
 
[[2014年]][[12月1日]]、トゥスクが[[EU大統領]]に就任。
 
 
== 政治 ==
 
=== 制度 ===
 
[[ファイル:Koniecpolski palace warszawa.jpg|thumb|大統領宮殿([[ルボミルスキ]]・[[ラジヴィウ家]]旧邸)]]
 
[[ファイル:20070907 sejm rp 100 6434.jpg|thumb|ポーランド下院(セイム)]]
 
[[政治体制]]は[[共和制]]。[[元首|国家元首]]は[[大統領]](任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、[[1997年]]の[[憲法]]改正により政治の実権は[[ポーランドの首相|首相]]に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の[[拒否権]]があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。
 
 
[[行政]]は、1997年制定の憲法では閣僚評議会([[内閣]])が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する。」(第146条3項)となっているため<ref>[http://www.pl.emb-japan.go.jp/seiji/documents/kenpou.pdf (仮訳)ポーランド共和国憲法](駐ポーランド日本大使館公式サイト PDF)</ref>、[[ポーランドの首相|閣僚評議会議長]](首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う[[議院内閣制]]になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の[[下院]]に当たる[[ポーランド共和国下院|セイム]] (sejm) の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相は[[ベアタ・シドゥウォ]]。
 
 
[[立法]]はセイム(議会)とセナト(元老院)の[[両院制|二院制]][[議会]] (Zgromadzenie Narodowe) によって行われる。
 
;[[ポーランド共和国下院|下院]](セイム、Sejm):「[[議会]]」の意。定数460名。下院は立法の役割が主体であり、政党の資質や能力が大事であるとの考えから[[ドント方式]]の[[非拘束名簿式]][[比例代表制]]。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。シングルイシュー政党(全体の政策や理念でなく特定の政策のみで集まった人々の政党)の出現や少数政党の乱立、といった事態を未然に防止するため。少数民族の大半を占める[[ドイツ人|ドイツ系住民]]の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。立法府として、セイムは日本の[[衆議院]]に相当し、上院より優先される。
 
:;各党の議席数(定数460)<ref name=clubs>{{cite web|url=http://sejm.gov.pl/Sejm8.nsf/kluby.xsp|language=pl|accessdate=2016-10-02|title=Kluby i koła}}</ref>
 
::* [[法と正義]](Prawo i Sprawiedliwość, PiS [[大衆主義]])- 234
 
::* [[市民プラットフォーム]](Platforma Obywatelska, PO [[保守主義]])- 133
 
::* [[クキズ'15]](Kukiz'15 大衆主義) - 36
 
::* [[現代 (政党)|現代]](.Nowoczesna [[自由主義]]) - 30
 
::* [[ポーランド農民党]](Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL [[保守主義]]・[[農民主義]])- 16
 
::* [[欧州民主党 (ポーランド)|欧州民主党]](Europejscy Demokraci)- 4
 
::* [[自由と連帯]](Wolni i Solidarni)- 3
 
::* 無所属 - 4
 
::
 
:
 
;[[ポーランド共和国上院|上院]](セナト、Senat):「[[元老院]]」の意。定数100名。上院は立法や行政の監査の役割が主体であり、政党よりも議員個人の資質や能力が重要であるとの考えから、完全[[小選挙区制]]。
 
:;各党の議席数(定数100)<ref name=senat-kluby-i-kolo>{{cite web|url=http://www.senat.gov.pl/sklad/senatorowie/kluby-i-kolo/|title=Senatorowie / Senatorowie / Kluby i koło / Senat Rzeczypospolitej Polskiej|first=ideo -|last=www.ideo.pl|website=www.senat.gov.pl|accessdate=18 5月 2017}}</ref>
 
::* 法と正義 (Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 63
 
::* 市民プラットフォーム (Platforma Obywatelska, PO) - 33
 
::* ポーランド国民党 (Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 1
 
::* 無所属 - 3
 
カチンスキ大統領の飛行機事故死で大統領選挙の決選投票が[[2010年]][[7月4日]]行われた。中道右派「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ下院議長が、故大統領の兄で保守政党「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ前首相を破り当選した。就任する[[8月11日]]までは後任の下院議長の[[グジェゴシュ・スヘティナ]]が大統領代行を務めた。
 
 
== 国際関係 ==
 
[[国際連合]] (UN)、[[欧州連合]] (EU)、[[シェンゲン協定]]、[[シェンゲン情報システム]] (SIS)、[[北大西洋条約機構]] (NATO)、[[経済協力開発機構]] (OECD)、[[世界貿易機関]] (WTO)、[[欧州安全保障協力機構]] (OSCE)、[[欧州電気標準化委員会]] (CENELEC) に加盟している。
 
 
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、[[ヴァイマール三角連合]] (Weimar Triangle)、[[ヴィシェグラード・グループ]] (V4)、[[:en:Council of the Baltic Sea States|環バルト海諸国評議会]] (CBSS)、[[:en:Central European Initiative|中欧イニシアティヴ]] (CEI)、{{仮リンク|東ヨーロピアン・グループ(EEG)|en|Eastern European Group}} といった地域国際機関にも加盟している。
 
 
=== ロシアとの関係 ===
 
{{Main|{{仮リンク|ポーランド、ロシアの関係|en|Poland–Russia relations}}}}
 
[[中世]]から、侵略し侵略されるという関係。何度も[[ポーランド・ロシア戦争]]が起こり、ポーランドは1度モスクワを占拠した。20世紀にはソ連の[[衛星国]]とし[[スターリン主義|ソビエト化]]された共産主義時代を経て、年代により反ロシア主義的な風潮もあった。2014年のウクライナ危機以降、ロシア連邦の強大な軍事力に対する警戒感が高まっている<ref>{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/us-ukraine-crisis-poland-independence-idUSBREA3H0GW20140418|title=Poles most worried about their independence in at least 23 years: poll|date=18 4月 2014|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=Reuters}}</ref>。2017年1月には、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]がポーランドへの駐屯を開始し、西部[[ジャガン]]で歓迎式典が開かれた。在ポーランドアメリカ軍は最終的に兵員約3500人、戦車87両の規模になる見通し。ロシア大統領報道官は「私たちの安全に対する脅威」と表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.47news.jp/news/2017/01/post_20170113100713.html|title=米軍部隊、ポーランド配備 民主化後初、ロシアは反発|work=|publisher=[[共同通信]]|date=2017-01-13}}</ref>。
 
 
=== 近現代史における日本との関係 ===
 
==== 日本学 ====
 
[[1919年]]に[[ワルシャワ大学]]に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科と共に学科は維持され、日本語が教えられている。[[2002年]]には、同学科は天皇皇后の行幸啓を受けたほか、[[2008年]]には[[日本テレビ放送網]]の「[[1億人の大質問!?笑ってコラえて!]]」の「世界[[日本語学校]]の旅」で[[ポズナン大学]]日本語学科とともに、[[日本語]]を学ぶ[[大学生]]たちが紹介された。
 
さらに、ポーランド人による[[浮世絵]]のコレクションは質と量ともに世界屈指のもので、[[クラコフ]]の[[日本美術技術博物館“マンガ”館]]には浮世絵を含む日本の文化財のコレクションが広く公開されている。
 
 
また、ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]は、[[樺太]]に[[流刑]]になったことを契機に、樺太から[[北海道]]へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、[[アイヌ]]の研究に業績を残した。
 
 
==== 日本による戦間期のポーランド人孤児救出 ====
 
日本は[[戦間期]]、765人のポーランド人の[[孤児]]をシベリアから助けたことがある<ref>{{Cite news|title=日本・ポーランド関係のエピソード|date=2012|url=http://www.pl.emb-japan.go.jp/kultura/j_rocznica_epizody.htm|accessdate=2018/03/16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140320151446/http://www.pl.emb-japan.go.jp:80/kultura/j_rocznica_epizody.htm |archivedate=2014/03/20|publisher=[[在ポーランド日本国大使館]]}}</ref>。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。
 
 
==== ポーランド人聖職者の訪日 ====
 
また、[[カトリック教会]]聖職者の[[マキシミリアノ・コルベ]]は、日本で布教活動を行い「[[けがれなき聖母の騎士会]]」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、[[聖母の騎士高等学校]]は21世紀を迎えた現在も存続している。
 
 
コルベと共に、布教のために訪日した[[ゼノ・ゼブロフスキー]]修道士は、[[長崎市への原子爆弾投下|長崎で原爆]]に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。同じポーランド人の教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]は[[1981年]]に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は[[ポーランド人]]であり、[[東京]]では「世界最初の[[原子爆弾]]の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』と言うキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/john_paul_ii/popeinjp/224mass.htm 教皇ヨハネ・パウロ二世来日の記録 後楽園球場特設会場での教皇ミサの説教]カトリック中央協議会</ref>、[[広島市]]と[[長崎市]]を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と[[世界]]に[[平和]]の構築を訴えた。
 
 
 
== 軍隊 ==
 
{{Main|ポーランド軍}}
 
{{Main|{{仮リンク|ポーランドが関係している戦争リスト|en|List_of_wars_involving_Poland}}}}
 
[[ファイル:F 16 Jastrzab.jpg|thumb|right|200px|ポーランド空軍主力[[制空戦闘機]]<br>[[F-16 (戦闘機)|F-16「ヤシュチュションプ」]]([[鷹]])]]
 
ポーランド軍は
 
* [[ポーランド陸軍]] (Wojska Lądowe)
 
* [[ポーランド海軍]] (Marynarka Wojenna)
 
* [[ポーランド空軍]] (Siły Powietrzne)
 
* [[ポーランド特別軍]] (Wojska Specjalne)
 
* [[ポーランド憲兵隊]] (Żandarmeria Wojskowa)
 
[[ファイル:Defilada z okazji Święta WP - 2014 (1).jpg|thumb|left|200px|ポーランド陸軍[[戦車|主力戦車]]<br>[[レオパルト2|レオパルト2A5]]]]
 
の4軍種と[[憲兵|憲兵隊]]の合計5グループから構成され、4軍種では常時約10万人が活動し、[[予備役]]は約24万人。[[国防省]]が統括し、[[憲法]]で規定された最高司令官は[[ポーランドの大統領一覧|ポーランド大統領]]である。
 
 
このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊 (''[[:en:GROM|GROM]]'')、第1奇襲部隊 (''[[:en:1st Special Commando Regiment|1 PSK]]'')、海兵隊 (''[[:en:Formoza|Formoza]]'')、特別[[兵站]]部隊の4つから構成される。
 
 
[[徴兵制]]は廃止され、[[志願制]]が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。
 
 
[[2009年]]の予算は118億ドルでこれは世界第19位、[[国内総生産]] (GDP) の2%弱を占める。1989年の[[東欧革命|民主化]]後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む[[北大西洋条約機構]] (NATO) 同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{Main|ポーランドの地方行政区画}}
 
著名な[[経済学者]][[:pl:Jerzy Regulski|イェジ・レグルスキ]]の構想の下[[1999年]]に[[イェジ・ブゼク]]政権が行った地方自治の大改革において県 (województwo) が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な[[地方分権]]が成立した。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。
 
[[ファイル:Wojewodztwa.svg|thumb|400px|ポーランドの県区分図]]
 
(アルファベット順)
 
* [[ドルヌィ・シロンスク県]]
 
* [[クヤヴィ・ポモージェ県]]
 
* [[ルブリン県]]
 
* [[ルブシュ県]]
 
* [[ウッチ県]]
 
* [[マウォポルスカ県]]
 
* [[マゾフシェ県]]
 
* [[オポーレ県]]
 
* [[ポトカルパチェ県]]
 
* [[ポドラシェ県]]
 
* [[ポモージェ県]]
 
* [[シロンスク県]]
 
* [[シフィェンティクシシュ県]]
 
* [[ヴァルミア・マズールィ県]]
 
* [[ヴィエルコポルスカ県]]
 
* [[西ポモージェ県]]
 
 
=== 主要都市 ===
 
[[ファイル:Map of Poland ja.png|thumb|300px|right]]
 
[[ファイル:Wroclaw Uniwersytet Wroclawski przed switem.jpg|right|thumb|[[ヴロツワフ]]]]
 
[[ファイル:Szczecin town hall.jpg|right|thumb|[[シュチェチン]]]]
 
{|class="wikitable"
 
|-
 
! style="width:30px;"| !!都市!!県!!人口
 
|-
 
| style="text-align:center;"|'''1'''
 
| style="text-align:center;"|'''[[ワルシャワ]]'''
 
| style="text-align:center;"|[[マゾフシェ県]]
 
|align="right"|1,710,055
 
|-
 
| style="text-align:center;"|'''2'''
 
| style="text-align:center;"|'''[[クラクフ]]'''
 
| style="text-align:center;"|[[マウォポルスカ県]]
 
|align="right"|754,624
 
|-
 
| style="text-align:center;"|'''3'''
 
| style="text-align:center;"|'''[[ウッチ]]'''
 
| style="text-align:center;"|[[ウッチ県]]
 
|align="right"|747,152
 
|-
 
| style="text-align:center;"|'''4'''
 
| style="text-align:center;"|'''[[ヴロツワフ]]'''
 
| style="text-align:center;"|[[ドルヌィ・シロンスク県]]
 
|align="right"|633,000
 
|-
 
| style="text-align:center;"|'''5'''
 
| style="text-align:center;"|'''[[ポズナン]]'''
 
| style="text-align:center;"|[[ヴィエルコポルスカ県]]
 
|align="right"|556,022
 
|}
 
* [[ビャウィストック]]
 
* [[ビェルスコ=ビャワ]]
 
* [[ブィドゴシュチュ]]
 
* [[チェンストホーヴァ]]
 
* [[グダニスク]]
 
* [[グディニャ]]
 
* [[グニェズノ]]
 
* [[ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ]]
 
* [[カトヴィツェ]]
 
* [[キェルツェ]]
 
* [[ルブリン]]
 
* [[オルシュティン]]
 
* [[オポーレ]]
 
* [[プウォツク]]
 
* [[ヤヴォジュノ]]
 
* [[ソポト]]
 
* [[ジェシュフ]]
 
* [[シュチェチン]]
 
* [[タルヌフ]]
 
* [[トルン]]
 
* [[ザコパネ]]
 
* [[ザモシチ]]
 
* [[ジェロナ・グラ]]
 
* [[ジェシュフ]]
 
 
== 地理 ==
 
{{Main|{{仮リンク|ポーランドの地理|en|Geography of Poland}}}}
 
[[ファイル:Dolina5.jpg|thumb|[[タトラ山脈]]]]
 
[[ファイル:Gora Cisowa 03.jpg|thumb|マズールィ湖水地方]]
 
[[ファイル:Rozlewiska_Biebrzy.jpg|thumb|ヴィエブジャ大湿地帯の風景]]
 
[[ファイル:WhiteStorkFamily.jpg|thumb|ポーランドは[[シュバシコウ|コウノトリ]]の国<br>全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する]]
 
[[ファイル:Wisent.jpg|thumb|世界でも[[ビャウォヴィエジャの森]]にのみ生息する野生の[[ヨーロッパバイソン]]]]
 
西で[[ドイツ]]、南で[[チェコ]]と[[スロヴァキア]]、東で[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]と接していて、北東では[[ロシア]]([[カリーニングラード]])とも国境を接している。北は[[バルト海]] (Morze Bałtyckie) に面している。
 
 
南部を除き国土のほとんどが[[北ヨーロッパ平野]]であり、全体が非常に緩やかな[[丘陵]]地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。南部は山岳地帯で、[[タトラ山脈]]にはポーランドで最も高い[[リシ山]](標高2499 m)がある。南部の国境近くには[[カルパティア山脈]]([[タトラ山脈]]、{{仮リンク|ベスキディ山脈|en|Beskids}}を含む)や[[ズデーテン山地|スデート山地]](ポーランド語およびチェコ語でスデーティ (Sudety) を含む)がある。深い[[森林|森]]が多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部から[[ベラルーシ]]にかけて広がる「[[ビャウォヴィエジャの森]]」は「ヨーロッパ最後の[[原生林]]」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に[[広葉樹]]が生い繁る巨大な森で、[[ヨーロッパバイソン]](ポーランド語で「ジュブル」)や[[ヘラジカ]](ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9300もの[[湖]]のうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また[[湿原]]が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、[[釧路湿原]]の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。
 
 
西南部にはヨーロッパ最大の[[砂漠]]がある。
 
 
河川は以下の通り。
 
* [[ヴィスワ川]] (Wisła)
 
* [[オドラ川]] (Odra)(オーデル川)
 
* [[ヴァルタ川]] (Warta)
 
* [[ブク川]] (Bug)
 
* ナレフ川 (Narew)
 
* サン川 (San)
 
* [[ノテチ川]] (Noteć)
 
* ピリツァ川 (Pilica)
 
* ヴィェプシュ川 (Wieprz)
 
* ブブル川 (Bóbr)
 
* ウィナ川 (Łyna)
 
* ヌィサ・ウジツカ川/[[ナイセ川]] (Nysa Łużycka)
 
* フクラ川 (Wkra)
 
* ドゥナイェツ川 (Dunajec)
 
* ブルダ川 (Brda)
 
* プロスナ川 (Prosna)
 
* ドゥルフェンツァ川 (Drwęca)
 
* ヴィスウォク川 (Wisłok)
 
* フタ/チャルナ・フタ川 (Wda/Czarna Wda)
 
* ドラヴァ川 (Drawa)
 
* ヌィサ・クウォヅカ川 (Nysa Kłodzka)
 
* ポプラト川 (Poprad)
 
* パスウェンカ川 (Pasłęka)
 
* レガ川 (Rega)
 
* ブズラ川 (Bzura)
 
* ヴィスウォカ川 (Wisłoka)
 
* オブラ川 (Obra)
 
* ビェブジャ川 (Biebrza)
 
* ニーダ川 (Nida)
 
 
=== 地質 ===
 
[[ファイル:Biała Ręka Ojcowski PN.jpg|thumb|クラクフ=チェンストホヴァ高原のオイツフ国立公園]]
 
ポーランドの地質構造は、[[暁新世|6000万年前]]に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの[[第四紀|第四]][[氷河|氷期]]によって形成された。このとき[[ズデーテン山地|スデート山地]]と[[カルパティア山脈]]が形作られている。北部ポーランドの[[モレーン]]の景観は主に[[砂]]と[[ローム (土壌)|ローム]]から成る土壌によるものである。[[氷河期]]に形成された南部の河川の谷は[[黄土]]を含んでいる。[[:en:Polish Jura Chain|クラクフ=チェンストホヴァ高原]]、[[:en:Pieniny|ピェニヌィ山地]]、[[:en:Western Tatras|西タトラ山地]]は石灰岩で構成される。[[:en:High Tatras|高タトラ山地]]、[[:en:Beskids|ベスキド山地]]、[[:en:Karkonosze|カルコノシェ山地]]は[[花崗岩]]と[[玄武岩]]で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原は[[ジュラ紀]]の石灰岩から成る。
 
 
=== 気候 ===
 
[[バルト海]]に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。
 
 
== 経済 ==
 
[[ファイル:Rondo 1 widok z ul. Twardej radek kołakowski.jpg|thumb|250px|古い街並みの向こうに高層ビルが並ぶ首都[[ワルシャワ]]]]
 
{{main|ポーランドの経済}}
 
ポーランド経済は、[[2004年]]EUメンバーシップ獲得後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド (EU Structural Funds) の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人当たりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている<ref>{{cite web|url=http://www.forbes.com/places/poland/|title=Poland - Forbes|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
=== 世界金融危機の余波 ===
 
[[ポーランド#若者の国|若年人口の多さ]]に支えられて、近年は毎年4〜6%前後の高成長を見せていたが、世界的な[[金融危機]]の余波を受けたため、[[2009年]]の成長率は、[[欧州委員会]] (EC) の予測では−1.4%、[[国際通貨基金]] (IMF) の予測では−0.7%、[[欧州復興開発銀行]] (EBRD) の予測では0%、[[ロイター通信]]調査のポーランド国内外の民間[[金融機関]]の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。
 
 
ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満<ref>http://www3.keizaireport.com/jump.php?RID=90232&key=959</ref>)、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの[[景気後退]]をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちでは最も高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つであった。
 
 
=== 2009年の結果 ===
 
その後ポーランドの[[2009年]][[国内総生産|成長率]]については、[[経済協力開発機構]] (OECD) の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合 (EU) 加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34カ国においても、ポーランドの他にプラス成長率を達成したのは韓国 (0.2%) とオーストラリア (1.3%) の2カ国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。[[中央銀行]]である[[ポーランド国立銀行]]が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年頃)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を導入していた<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:19269?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F</ref>。
 
 
2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた<ref>{{cite web|url=http://www.forbes.com/2009/04/14/poland-imf-funds-markets-economy-eastern-europe.html|title=Poland To IMF: Spare Some Change - Forbes|first=Javier|last=Espinoza|date=14 4月 2009|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。ポーランド・ウクライナ開催UEFA[[ユーロカップ]]2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた<ref>{{cite web|url=http://www.businessinsider.com/what-euro-2012-means-for-the-polish-and-ukrainian-economies-2012-6|title=What The Euro 2012 Means For The Polish And Ukrainian Economies|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。だが世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。
 
 
2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録したため、ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化、といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。
 
 
=== 展望 ===
 
[[2004年]]の[[ヨーロッパ連合|EU]]加盟後、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、他の中東欧国同様にEU内の「工場」、そして。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業もあるようである。{{要出典||date=2015年4月}}
 
 
また、EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者が主にEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。他のEUの中東欧国同様、主に単純労働者としての雇用が先行している。一部では[[ホワイトカラー]]としての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと[[求人]]していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた<ref>http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/8032788.stm</ref>。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといった[[インフラ]]の整備を急ピッチで進めているため<ref>http://www.targikielce.pl/index.html?k=autostrada_en&s=index</ref>、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているからである。政府は2010年度より[[緊縮財政]]を行っているが、これは主に[[国営企業]]の[[民営化]]による[[新規株式公開]] (IPO) で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトは主にEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。[[2007年]]から[[2013年]]にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:20739?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F</ref>。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである<ref>http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/poland-launches-campaign-to-lure-back-migrant-workers-814747.html</ref>。
 
 
=== 評価順位 ===
 
2010年、ECER-Banque Populaireが18カ国37都市の4500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に調査では、欧州で最もビジネスに適した都市の第3位に[[ワルシャワ]]がランクインした(1位は[[フランクフルト]]、2位は[[マルメ]]、4位は[[ロンドン]]、5位は[[ブリュッセル]])。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラ、などの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位、評価が最も低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在の[[ドナルド・トゥスク]]政権と与党「[[市民プラットフォーム]]」の方針として国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:23133?p=%2Flate%2F</ref><ref>http://ecer.fr/resultat.html</ref>。
 
 
2015年版、[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]の「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、[[財産権]]の保証、[[イノベーション]]の多寡、[[税率]]、[[テクノロジー]]の発展具合、[[汚職]]の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、[[官僚主義]]の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった<ref>{{cite web|url=http://forbesjapan.com/summary/2015-04/post_2763.html|title=ビジネスに理想的な国ランキング|date=20 3月 2015|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
2011年、[[国際連合]]は、平均余命、[[識字]]率、就学率、[[国内総生産]]により評価する[[人間開発指数|人間開発指数 (HDI)]]、加盟193カ国の内187カ国中、39位{{要出典|date=2016年1月}}。
 
 
=== 税制 ===
 
法人税は19%である。[[所得税]]は非常に簡単な2段階の[[累進課税]]方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、[[付加価値税]]は[[2011年]][[1月1日]]より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍等にかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。
 
 
=== 工業 ===
 
[[File:Pesa Dart.JPG|thumb|left|PESA(ペサ)社製ED-161型<br>[[インターシティー]]用の大型旅客電車]]
 
[[ファイル:Christmas tree 2008 (1).JPG|thumb|クリスマスツリーの飾り物の一つ「ボンプカ(英語:ボーブル)」]]
 
EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる[[第二次産業]]が行われている。特に[[パーソナルコンピュータ]]や[[テレビ]]などの[[情報家電]]の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。[[乗用車]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[路面電車]]、[[鉄道車両]]などの生産も盛んで、[[ソラリス (バス)|ソラリス]]、[[:en:PESA SA|PESA]]、[[:en:Newag|Newag]]などといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
 
 
小規模の手工業においては、[[琥珀]]製品や[[クリスマスツリー]]のガラスの飾り物<ref>{{cite web|url=http://www.polamjournal.com/Library/Holidays/xmasindex/xmas-ornaments/xmas-ornaments.html|title=Polish Christmas Ornaments|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。
 
{{Clearleft}}
 
 
=== 農業 ===
 
==== 付加価値の高い品目の生産 ====
 
国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には[[集団農場]]化と農地の[[国有化]]が行われた<ref name="auto1" />。
 
 
==== 特筆すべき農産品目 ====
 
ヨーロッパの実に90%を占める[[ヤマドリタケ]](本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇る[[ライムギ|ライ麦]]<ref>http://www.kuniguni.com/rye-production</ref>、それぞれ高いシェアを持つフランス向け[[エスカルゴ]]や日本向け[[馬肉]]および[[羽毛]]、ポーランドが世界の[[収穫]]高の半分を占め同時に世界最大の[[輸出]]国となっている[[カシス]](ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げる[[イチゴ]]といった[[ベリー]]類(他に[[ラズベリー]]は世界4位、[[ビルベリー]]は欧州2位、その他[[グースベリー|セイヨウスグリ]]、[[クランベリー]]、[[ブラックベリー]]、[[ブルーベリー]]などで世界トップクラスの生産高)、などがある。
 
 
=== 鉱業 ===
 
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、[[石炭]]を中心として多種多様の[[非鉄金属]]に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は[[琥珀]]の世界最大の産地で、[[グダンスク]]には世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。
 
 
ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう[[天然ガス]]などを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術([[石炭ガス]])の研究開発にも熱心に取り組んでいる。
 
 
また、西南部[[ドルヌィ・シロンスク県]]のクレトノ鉱山などでは[[ウラン]]を豊富に埋蔵しており国内の[[原子力]]利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。
 
 
また、近年ポーランドで巨大な[[シェールガス]]埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆[[立方メートル|m<sup>3</sup>]]に上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。
 
 
=== 日系企業の現地進出状況 ===
 
[[2014年]]、ポーランドに進出している日系企業は[[トヨタ]]、[[ブリヂストン]]、[[味の素]]、[[シャープ]]、[[東芝]]、など約261社。その他のEU[[中東欧]]国への進出は、[[チェコ]] 約186社、[[ハンガリー]] 約140社、[[ルーマニア]] 約100社<ref>外務省「海外在留邦人数調査統計(平成26年要約版)</ref>。
 
 
=== ポーランドへの移民労働者 ===
 
==== ウクライナ人 ====
 
公式な統計では[[2009年]]には12万人の[[ウクライナ人]]がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるので正確な規模は分からない。[[ワルシャワ大学]]の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人[[女性]]で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは[[家政婦]]や[[清掃]]婦、[[農産物]]の[[収穫]]などの[[単純労働]]に就いている。[[2007年]]にはポーランドの家庭の実に15%がウクライナ女性を正規の[[メイド]]として雇ったという。[[ウクライナ]]、[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]、[[モルドバ]]の4カ国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている<ref>{{cite web|url=http://www.thenews.pl/business/artykul123053_ukrainian-women---biggest-immigrant-group-in-poland-.html|title=Radio Poland :: News from Poland|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人<ref name="auto2">{{cite web|url=http://www.ft.com/cms/s/0/f2bb320c-9b05-11e4-882d-00144feabdc0.html%20ukrainian-women---biggest-immigrant-group-in-poland&lr=&hl=ja&ie=EUC-JP&output=html&client=nttx-alternative|title=Poland: One-way traffic|first=Henry|last=Foy|date=14 1月 2015|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=Financial Times}}</ref>。
 
 
ポーランドが近々ロシアの[[カリーニングラード州]]から、ロシア人の入国に対し[[ビザ]]無し渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃された[[シェンゲン協定]]他国地域へもロシア人の[[不法入国]]や[[不法移民]]、[[不法就労]]が増加し、そしてロシアなどからの格安[[タバコ]]の[[密輸]]により、EUは[[税金]]約85億ポンドを損失する。いっぽうポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザ無し渡航許可をしている、「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない、彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアの[[ウォッカ]]を隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザ無し渡航実施による[[ロンドン]]や[[パリ]]への悪影響など微々たるものだ」とポーランド政府は主張した<ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/poland/8227038/Poland-urges-visa-free-travel-for-Russian-enclave.html|title=Poland urges visa-free travel for Russian enclave|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
=== 観光 ===
 
{{Main2|観光地|ポーランドの観光地}}
 
[[ファイル:Krakow Rynek Glowny panorama 2.jpg|thumb|[[クラクフ]]旧市街の中央広場]]
 
[[ファイル:Witoldowka.JPG|thumb|[[マウォポルスカ県]]の山間部のホテル]]
 
[[ファイル:Rzucewo pałac.jpg|thumb|[[西ポモージェ県]]ジュツェヴォの城館ホテル]]
 
 
==== 治安状況 ====
 
[[2013年]]における[[経済協力開発機構]] (OECD) 加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36カ国中[[日本]]に次いで2位、3位はイギリス<ref>{{cite web|url=http://www.oecdbetterlifeindex.org/#/00000000050|title=OECD Better Life Index|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
OECD加盟国内、人口10万人当たりの[[殺人]]発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件(日本、0.5件)<ref>http://www.civitas.org.uk/crime/crime_stats_oecdjan2012.pdf</ref>。
 
 
[[国連]]、[[UNODC]]による人口10万人当たりの発生率では、[[強盗]]率(2012年)70カ国中、37位 43.67件(日本、64位 2.87件)<ref>{{cite web|url=http://knoema.com/kvxptoc/robbery-rate-per-100-000-population|title=Robbery, rate per 100,000 population - knoema.com|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
[[暴力行為]]の発生率も低く、OECD加盟国中で最も少ないほうから3位<ref>{{cite web|url=http://www.oecdbetterlifeindex.org/countries/poland/|title=OECD Better Life Index|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がなされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、[[アイルランド]]、[[イギリス]]、[[アイスランド]]、[[エストニア]]、[[オランダ]]、[[デンマーク]]、[[スイス]]、[[ベルギー]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]といった、一般に「治安が良い」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半から事実である<ref name="auto3">{{cite web |url=http://www.unicri.it/wwd/analysis/icvs/pdf_files/ICVS2004_05report.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081219195658/http://www.unicri.it/wwd/analysis/icvs/pdf_files/ICVS2004_05report.pdf |archivedate=2008年12月19日 |deadurldate=2017年9月 }} J. van Dijk, J. van Kesteren, P. Smit, Criminal Victimisation in International Perspective, Key Findings from the 2004-2005 ICVS and EU ICS, WODC 2007</ref>。
 
 
このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い<ref>http://www.wbj.pl/article-52845-polands-overall-crime-rate-falls.html?typ=ise</ref>。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている<ref>https://www.osac.gov/pages/ContentReportDetails.aspx?cid=17806</ref>。
 
 
ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのを最も恐れる用心深い気質があるとされており<ref>[http://www.europeansafetyobservatory.eu/downloads/EUICS_The%20Burden%20of%20Crime%20in%20the%20EU.pdf J. van Dijk, R. Manchin, J. van Kesteren, S. Nevala, G. Hideg The Burden of Crime in the EU Research Report: A Comparative Analysis of the European Crime and Safety Survey (EU ICS) 2005]</ref>、ポーランドの刑法では他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけたときは暴行罪が成立する<ref>{{cite web|url=http://www.legislationline.org/documents/section/criminal-codes/country/10|title=Criminal codes - Legislationline|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
ヨーロッパ人の間に定着した[[偏見]]や[[デマゴギー|デマ]]の類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率は[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[アイルランド]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[オランダ]]、[[アイスランド]]、[[イタリア]]、[[ノルウェー]]などといった国々より低い<ref name="auto3" />。
 
{{-}}
 
 
== 国民 ==
 
{{Main|ポーランド人|en:Poles|ポーランドの人口統計|en:Demographics of Poland}}
 
{{bar box
 
|title = 民族構成(ポーランド)
 
|titlebar = #ddd
 
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{{bar percent|[[ポーランド人]]|blue|94}}
 
{{bar percent|[[シレジア人]]他|red|6}}
 
}}
 
[[ファイル:43. TKB - Pilsko z Żywca 05.JPG|thumb|upright|left]]
 
[[ファイル:Z krakowskie.jpg|thumb]]
 
[[ファイル:43. TKB - Pilsko z Żywca 04.JPG|thumb|upright]]
 
2011年の国勢調査で人口約3851万人、93.52%が[[ポーランド人]]([[カシュープ人]]や[[グラル人]]を含む)。中世、[[ヤギェウォ朝]]や[[ポーランド・リトアニア共和国]]などの[[東欧諸国]]の連合国時代には[[多民族国家]]であった。少数民族は、1番人口の多い[[シレジア人]]、主に東部に在住する[[ウクライナ人]](ルーシー人)、[[リトアニア人]]、[[ベラルーシ人]](ルーシー人)、[[ルシン人]]、[[リプカ・タタール人]]などがいる。
 
 
[[アシュケナジム|ユダヤ人]]の本格的なポーランド移住は[[第1回十字軍]]の行われた[[11世紀]]初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ヨーロッパ各国や[[中東]]で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、[[13世紀]]に布告された「[[カリシュの法令]]」と、[[東方植民]]によるドイツ[[都市法]]の[[マクデブルク法]]によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。[[ホロコースト]]まではポーランドには世界の70%のユダヤ人がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くは[[ホロコースト]]により虐殺された。多くはホロコーストや[[ポーランド人民共和国|共産主義]]、[[反ユダヤ主義]]を避けて[[アメリカ大陸]]や[[イスラエル]]などに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる<ref>Berman Institute, World Jewish Population. North American Jewish Data Bank. (See Table 1: Jewish Population by Country, 1920s-1930s; PDF file, direct download 52.4 KB.https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:Rv2hLhme008J:www.jewishdatabank.org/Reports/World_Jewish_Population_2010.pdf+world+jewish+population+2010&hl=en&gl=us&pid=bl&srcid=ADGEEShFmlEo2XYeBjYVUGgz_STm8ZXvaFqIMHdpfxUC8uWpDuLqb9l7GvJbF2piXHqxgDaGkOY3jfCA_RkpUlKLSByoSQC3cLV-5LcpxgXggqUIYwzK9hdfmwVv4Sz0BdeFMxJ_-2To&sig=AHIEtbT5tVUek4PSi_N_5f0Dwe-11sBzMg)</ref>。ポーランド人の多くは先祖に[[サルマタイ人]]がいる<ref>Davis, Norman. ''God’s Playground''. ISBN 978-0-19-925340-1</ref>。
 
 
国民のほぼ全てが[[母語]]を[[ポーランド語]]としている([[ポーランド化]])、併合した国の国民や多くの[[移民]]や[[政治難民]]を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は[[西スラブ人]]系原ポーランド人(レフ人)、[[シレジア人]]、[[リトアニア人]]、[[ロシア人]]、[[ルーシ人]]・[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]]、[[ルシン人]]、[[ユダヤ人]]、[[ウクライナ人]]、[[ベラルーシ人]]、[[サルマタイ人]]、[[タタール人]]、[[ラトビア人]]、[[バルト人]]、[[スウェーデン人]]、[[チェコ人]]、[[スロバキア人]]、[[ドイツ人]]、[[ハンガリー人]]、[[ロマ人]]、[[アルメニア人]]、[[モンゴル系民族]]や[[トルコ系民族]]など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。約40万種類あるといわれるポーランド人の[[姓]]はその語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。そのため[[単一民族]]、実際は東・中欧では[[人種のるつぼ|民族のるつぼ]]でポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。
 
 
=== 言語 ===
 
{{Main|ポーランドの言語}}
 
ポーランド語は印欧語の[[スラヴ語派]][[西スラヴ語群]]に属する言語で、[[チェコ語]]、[[スロヴァキア語]]、[[上ソルブ語]]、[[下ソルブ語]]などと共通のグループに属し、そのうち、[[カシューブ語]]などと共に[[レヒト諸語]](レフ諸語)を構成する。表記はロシア語等で用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベット。
 
 
少数民族の語源には、[[イディッシュ語]]、[[ヘブライ語]]や[[シレジア語]]、[[カライム語]]、[[ルシン語]]、[[ロマ語]]、[[タタール語]]がある。かつてのポーランドで広く話されていた[[ルーシ人]]・[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]])の[[ルーシ語]]は[[第二次世界大戦]]や[[ホロコースト]]と[[ヴィスワ作戦]]を経て国内ではほぼ消滅したようである。
 
 
外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。
 
[[ファイル:Krosnica.jpg|thumb|「クロシニツァ町/クロシュニッツ町へようこそ!」の看板<br>ポーランド語とドイツ語の併記、[[オポーレ]]市近郊]]
 
歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。旧ドイツ領土など南部[[オポーレ]]地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。
 
 
[[冷戦]]時代、ロシアの支配下での[[ロシア化|ソ連化]]の義務教育により現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解する。1989年[[東欧革命]]で[[共産主義]]が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。ロシア語([[東スラヴ語群]])、ポーランド語([[西スラヴ語群]])で同じ原語のスラブ語に属し各言語はとてもよく類似し他のスラヴ語を修得するのは比較的容易とされる。
 
 
[[リプカ・タタール人]]は、ポーランド化し[[タタール語]]を話さなくなっている。タタール人の家系で[[ノーベル文学賞]]を受賞した小説家・叙事詩人の[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]はポーランド語の小説を書いた。
 
 
人工言語の[[エスペラント語]]は[[ワルシャワ]]で発祥した。
 
 
=== 宗教 ===
 
[[ファイル:Altar_of_Veit_Stoss,_St._Mary's_Church,_Krakow,_Poland.jpg|thumb|left|聖マリア教会主祭壇([[クラクフ]])、[[1489年]]完成]]
 
[[ファイル:Licheń bazylika 2.JPG|thumb|right|リーヘン大聖堂([[2004年]]完成)、世界最大級の[[教会]]建築]]
 
{{Main|ポーランドの宗教|en:Religion in Poland}}
 
米国[[中央情報局|CIA]]の調査によると、国民の約95%が[[カトリック教会|カトリック教徒]]であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いている。史上初のポーランド出身の教皇[[ヨハネ・パウロ2世|ヨハネ・パウロ二世]]は絶大な尊敬を集めた。なお、ローマ・カトリック教会とは別に[[ポーランド・カトリック教会]]という教派も存在する。そのほか、[[プロテスタント]]、[[正教会]]、[[ユダヤ教]]、[[イスラム教]](中世からの伝統を持つ[[リプカ・タタール人]]が緩やかな信仰に基づいた生活をしている)、アジア人の移民ではベトナム人が多く[[仏教]]の信者もごく少数わずかながら存在する。
 
{{-}}
 
=== 保健 ===
 
[[平均寿命]]は77.1歳<ref name=OECDhg />。かつては[[ユニバーサルヘルスケア]]が実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した<ref name="OECDhg">{{Cite |publisher=OECD |date=2015-11 |title=Health at a Glance 2015 |doi=10.1787/19991312 |isbn=9789264247680  |at=Chapt.7.1}}</ref>。
 
 
=== 教育 ===
 
[[ファイル:6 Warszawa 407.jpg|thumb|right|[[ワルシャワ大学]]新図書館]]
 
[[ファイル:Kraków - Collegium Maius - Dziedziniec 01.JPG|thumb|left|[[クラクフ大学]]コレギウム・マイウス([[ラテン語]]:「大カレッジ」)、現在も使用されている15世紀の建築]]
 
{{Main|ポーランドの教育}}
 
1999年9月1日より、従来のロシア化に構造改革された[[マルクス・レーニン主義|共産主義教育]]からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
 
 
==== 教育水準 ====
 
ポーランドの特徴の一つはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の[[経済協力開発機構]]OECD生徒の学習到達度調査 (PISA) 参加65カ国中、数学13位、科学9位、読解10位{{要出典|date=2016年1月}}。
 
 
==== 大学進学率 ====
 
2008年、若者の50%が[[大学]]を卒業し[[学位]]を取得する(日本は39%)。この数字はOECD加盟国では4位(日本は12位)である<ref>{{cite web|url=http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/britain-falls-behind-poland-and-slovakia-in-university-tables-2073134.html|title=Britain falls behind Poland and Slovakia in university tables|date=7 9月 2010|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。特に近年では若者の95%が[[大学]]を卒業し[[学位]]を取得するという調査結果もあり、教育熱が非常に高い<ref>http://japanese.ruvr.ru/2012_09_14/roshia-sekai-de-mottomo-kyouiku-no-susunda-kuni</ref>。ポーランドの階級社会では、高卒はホワイトカラー職に就けない。しかし大学卒業しても多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である<ref name="auto2" />。
 
 
国立大学の授業料は無料。
 
IT教育に熱心な国の一つで、[[2014年]]に開催された第一回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した<ref>{{cite web|url=http://www.nbcnews.com/tech/tech-news/hello-world-poland-wins-first-computer-coding-championship-n127751|title=Hello World! Poland Wins First Computer Coding Championship - NBC News|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ibtimes.co.uk/poland-crowned-first-ever-coding-world-champions-1452146|title=Poland Crowned First Ever Coding World Champions|date=10 6月 2014|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
=== 若者の国 ===
 
[[File:Polandpop.svg|thumb|right|ポーランドの[[人口ピラミッド]]]]
 
[[ファイル:Polish_teenagers.jpg|thumb|ポーランドの街は子供が多い]]
 
[[経済協力開発機構]] (OCED) 加盟国に共通する問題としてポーランドにも[[少子化]]の傾向がある。その反面、'''若者が多い'''。人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している<ref>http://tokyo.trade.gov.pl/ja/download/file/f,711</ref>。[[高等教育]]にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にも上り<ref>http://www.economist.com/daily/chartgallery/PrinterFriendly.cfm?story_id=9823950</ref>、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である<ref>http://www.paiz.gov.pl/index/?id=d71dd235287466052f1630f31bde7932</ref>。
 
 
=== ポーランド人の苗字 ===
 
ポーランド人の[[名字|苗字]]は非常に多く、総数40万以上に上り<ref>渡違克義 [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/thesis/watanabe.html 「ポーランド固有名詞学序説」]</ref>、ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
 
 
同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい([[夫婦別姓]])し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)<ref>[http://isap.sejm.gov.pl/DetailsServlet?id=WDU19640090059 Dz. U. z 1964 r. Nr 9, poz. 59] Kodeks rodzinny i opiekuńczy(家族および保護者に関する法律)第25条2</ref>。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない<ref>[http://isap.sejm.gov.pl/DetailsServlet?id=WDU19640090059 Dz. U. z 1964 r. Nr 9, poz. 59] Kodeks rodzinny i opiekuńczy(家族および保護者に関する法律)第25条3</ref>(1964年)。
 
 
ポーランド語の姓には-ski(/〜スキ、女性は-ska/〜スカ)という語尾が多い。この-skiというのは[[名詞]]を[[形容詞]]のように「〜の」という意味で使う場合に付く[[接尾辞]]である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語がもともと共有する用法。たとえばWiśnia(意味は「[[桜]]」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の〜」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiさんならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon〜やフランス語のde〜などの使い方と同じであるため、[[中世]]には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた([[アルベルト・ブルゼフスキ]]の記事を参照)。
 
 
また、[[アメリカ合衆国]]など[[英語]]圏の国家に[[移民|移住]]すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に[[同化政策|同化]]していく。
 
 
苗字人口上位20([[2002年]])は以下の通り。
 
#Nowak(ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
 
#Kowalski(コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
 
#Wiśniewski(ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
 
#Wójcik(ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
 
#Kowalczyk(コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
 
#Kamiński(カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
 
#Lewandowski(レヴァンドフスキ; 92,449人; 原義は「[[ラベンダー]]」)
 
#Zieliński(ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
 
#Szymański(シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
 
#Woźniak(ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
 
#Dąbrowski(ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
 
#Kozłowski(コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
 
#Jankowski(ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
 
#Mazur(マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
 
#Wojciechowski(ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は[[プラハのアダルベルト|聖アダルベルト]]の本名Wojciech)
 
#Kwiatkowski(クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
 
#Krawczyk(クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
 
#Kaczmarek(カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
 
#Piotrowski(ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
 
#Bagiński(バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")
 
 
=== 隣国に対する感情 ===
 
[[世論調査]]会社Homo Hominiが[[2010年]][[12月]]に行った調査によると、ポーランドと陸続きで[[国境]]を接する7か国([[ドイツ]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]、[[ロシア]])全ての人々のうち、ポーランド人が最も[[親近感]]を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)<ref>http://www.google.com/hostednews/epa/article/ALeqM5gsU9ndVK_s0uHUF3zYY9b6PzCBbQ?docId=10120510221602579 </ref>:
 
#[[チェコ人]] (39%)
 
#[[スロバキア人]] (32%)
 
#[[ドイツ人]] (23%)
 
#[[リトアニア人]] (21%)
 
#[[ロシア人]] (15%)
 
#[[ウクライナ人]] (14%)
 
#[[ベラルーシ人]] (10%)
 
 
== 文化 ==
 
 
=== 食文化 ===
 
{{main|ポーランド料理}}
 
ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理は主に東欧、その他にドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる<ref>{{cite web|url=https://books.google.com/books?id=y6vTun3i4NQC|title=The Ethnic Food Lover's Companion|first=Eve|last=Zibart|date=1 1月 2001|publisher=Menasha Ridge Press|accessdate=2016-07-04|via=Google Books}}</ref>。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的に、料理の量が多い。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、[[キャベツ]]や根野菜、主食のイモを多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、主にクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。日本人には寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理となる。
 
 
=== 文学 ===
 
{{main|ポーランド文学|en:Polish literature}}
 
[[ファイル:Bolezlaus dux Slezie.png|thumb|left|150px|ヴロツワフ公ボレスワフ1世]]
 
[[ファイル: Book of Henryków.PNG|thumb|right|ヴロツワフ公ボレスワフ1世が后にかけた言葉<br>「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい」<br>(''"Day ut ia pobrusa, a ti poziwai."'')]]
 
「ポーランド文学」といえば一般に[[ポーランド語]]文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつての[[ポーランド=リトアニア共和国]]における[[多民族国家|多民族社会]]を反映して、ポーランド語だけでなく、[[ラテン語]]、[[イディッシュ語]]、[[リトアニア語]]、[[ウクライナ語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ドイツ語]]、[[エスペラント語]]といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。
 
[[ファイル:Jan Długosz.PNG|thumb|right|150px|ヤン・ドゥウゴシュ]]
 
[[ファイル:Jan Kochanowski.png|thumb|right|150px|ヤン・コハノフスキ]]
 
中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。[[ポーランド人]]によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうち最も古いものは[[13世紀]]の[[歴史家]]で[[クラクフ]][[司教]]でもあった[[:en:Wincenty Kadłubek|ヴィンツェンティ・カドゥウベック]]による[[年代記]]である。ポーランド語による記述で現存するもののうち最も古いものは13世紀半ばに[[ドイツ人]]修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀の[[ヴロツワフ]]公[[ボレスワフ1世ヴィソキ|ボレスワフ1世]]が[[后]]に掛けたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい (''"Day ut ia pobrusa, a ti poziwai"'')。」という労わりの言葉である。この頃から古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。
 
 
[[15世紀]]に入ると[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]で年代記作者でもある[[ヤン・ドゥウゴシュ]]の文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。[[1470年]]頃にはポーランドで最も初期の複数の[[印刷]]工場が業務を始めている。これに続いて[[ルネサンス]]時代がポーランドでも始まり、以後は[[書き言葉]]としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展に最も貢献したのは[[詩人]]の[[ヤン・コハノフスキ]]で、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは[[19世紀]]以前の[[スラヴ人]]世界における最も偉大なる詩人であると評価されている<ref name="Murray">[[Paul Murray]], [http://muse.jhu.edu/journals/logos/v008/8.3murray.html "The Fourth Friend: Poetry in a Time of Affliction]," ''[[Logos: A Journal of Catholic Thought and Culture]]'', vol. 8, no. 3 (Summer 2005), pp. 19-39.</ref>。
 
[[ファイル:Adam Mickiewicz.PNG|thumb|left|150px|アダム・ミツキェヴィチ]]
 
続く[[バロック時代]]や[[啓蒙時代]]を通じてポーランド語文学は発展したが、[[ポーランド分割]]によってポーランド=リトアニア共和国が消滅した後は他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特な[[ロマン派]]文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのが[[アダム・ミツキェヴィチ]]である。ポーランドの国民的叙事詩「パン・タデウシュ」は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年に[[アンジェイ・ワイダ]]によって『[[パン・タデウシュ物語]]』(日本語題)として映画化された。
 
[[ファイル:Henryk Sienkiewicz.PNG|thumb|left|150px|ヘンリク・シェンキェヴィチ]]
 
[[ファイル:Władysław Reymont.jpg|thumb|right|150px|ヴワディスワフ・レイモント]]
 
[[ポーランド立憲王国]]と旧[[リトアニア大公国]]の各地域で行われた、旧[[ポーランド=リトアニア共和国]]復活運動である[[1月蜂起|対ロシア帝国1月蜂起]]が[[1864年]]にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、[[実証主義]]の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちで最も広く知られているのは『[[クオ・ヴァディス]]』(のちに[[マーヴィン・ルロイ]]監督によって[[アメリカ合衆国]]の[[ハリウッド]]で同名映画化)の作者[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]と『農民』の作者[[ヴワディスワフ・レイモント]]という、2人の[[ノーベル文学賞]]受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会にたくさん存在した[[ユダヤ人]]コミュニティーを中心に[[イディッシュ語]]文学も多く発表されるようになり、[[ブルーノ・シュルツ]]や[[イツホク・レイブシュ・ペレツ]]などは多くの人気作品を遺した。
 
[[ファイル:Joseph Conrad author.jpg|thumb|left|150px|ジョセフ・コンラッド]]
 
[[ファイル:Stanislaw Lem by Kubik.JPG|thumb|left|150px|スタニスワフ・レム]]
 
一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落[[シュラフタ]](ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあと[[イギリス]]に定住して [[英語]]で小説を書いて次々と発表し、現代[[イギリス文学|英国文学]]の代表的文豪の一人として、[[ジョセフ・コンラッド]]の筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカ合衆国やイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれ[[フランシス・コッポラ]]監督の映画『[[地獄の黙示録]]』、[[リドリー・スコット]]監督の『[[デュエリスト/決闘者]]』の原作である。
 
[[ファイル:Wisława Szymborska 2009.10.23 (1).jpg|thumb|right|150px|ヴィスワヴァ・シンボルスカ]]
 
[[第二次世界大戦]]を経て[[共産主義]]時代から[[東欧革命|民主化]]までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「[[若きポーランド]]」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人の[[チェスワフ・ミウォシュ]]と、同じく詩人で[[日本]]の[[歌川広重]]の[[浮世絵]]に触発された詩作で世界的に有名となった[[ヴィスワヴァ・シンボルスカ]]という2人の[[ノーベル文学賞]]受賞者、さらに小説『[[灰とダイヤモンド]]』([[アンジェイ・ワイダ]]によって同名で[[映画]]化)の作者として有名な[[イェジ・アンジェイェフスキ]]、『尼僧ヨアンナ』 ([[イェジー・カヴァレロヴィチ]]監督によって同名映画化)の作者として知られる[[ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ]]などがいる。また[[サイエンス・フィクション|空想科学文学]](サイエンス・フィクション)の分野では[[スタニスワフ・レム]]が新地平を開き、代表作『[[ソラリスの陽のもとに]]』は『[[惑星ソラリス]]』として[[ソ連]]で[[アンドレイ・タルコフスキー]]よって、さらに『[[ソラリス (映画)|ソラリス]]』としてアメリカ合衆国で[[スティーブン・ソダーバーグ]]によってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。
 
[[ファイル:Ryszard Kapuscinski by Kubik 17.05.1997.jpg|thumb|right|150px|リシャルト・カプシチンスキ]]
 
この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代[[アメリカ文学]]の[[前衛芸術|前衛的存在]]となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、[[ピーター・セラーズ]]主演で『[[チャンス (1979年の映画)|チャンス]]』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心に[[カルト]]的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人の[[ジャージ・コジンスキー]]として知られるイェジ・コシンスキなどがいる。
 
 
またこの時代よりポーランド現代文学の特色である[[ノンフィクション]]文学が勃興した。その代表としては、[[日本]]でも『[[サッカー戦争]]』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「''20世紀の最も偉大なジャーナリスト''」(英[[ガーディアン]]紙)<ref>{{cite web|url=http://www.theguardian.com/world/2010/mar/02/ryszard-kapuscinski-accused-fiction-biography|title=Poland's ace reporter Ryszard Kapuściński accused of fiction-writing|first=Luke|last=Harding|date=2 3月 2010|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.herald.ie/lifestyle/sorting-fact-from-fiction-2091128.html|title=Sorting fact from fiction - Herald.ie|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>、「''世界で最も偉大な報道記者''」(独[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]紙)、「''現代の[[ヘロドトス]]''」(独[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング]]紙)<ref name="FAZ">{{de icon}} {{cite news
 
|author = F.A.Z. (corporate author)
 
|coauthors =
 
|title = Ein Herodot für unsere Zeit
 
|url = http://www.faz.net/IN/INtemplates/faznet/default.asp?tpl=common/zwischenseite.asp&dx1={56C34E85-9E00-7DF2-6E43-98583EBF2A27}&rub={01345753-1D51-4A28-9550-C982F21BCDBF}
 
|work = [[Frankfurter Allgemeine Zeitung]]
 
|publisher =
 
|date = 2007-01-24
 
|accessdate = 2007-01-25
 
}}</ref>などと評価される、[[リシャルト・カプシチンスキ]]がいる。
 
 
=== 音楽 ===
 
{{main|ポーランドの音楽|en:Music of Poland}}
 
{{Main2|[[第二次世界大戦]]後のポーランド音楽の展開|ポーランドの現代音楽}}
 
[[ファイル:Bogurodzica rekopis1407.png|thumb|right|200px|『ボグロジツァ』の楽譜(1407年)]]
 
ポーランド音楽の理論的発展の最も初期は[[13世紀]]で[[ノートルダム楽派]]の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『{{仮リンク|ボグロジツァ|en|Bogurodzica}}(神の母)』の[[歌曲]]がこの時代に作られたものと推定されている。この曲は[[ポーランド王国]]が[[リトアニア大公国]]や[[プロイセン連合]]と同盟して[[ドイツ騎士団]]を討った[[1410年]]の[[グルンヴァルトの戦い]]でも合戦の際に歌われたと伝えられる。『{{仮リンク|ブーク・シェン・ロージ|en|Bóg się rodzi}}(神が生まれる)』は歴代の[[ポーランド王]]が戴冠する時に演奏された[[ポロネーズ]]の曲で、後の[[1792年]]には{{仮リンク|フランチシェク・カルピンスキ|en|Franciszek Karpiński}}によってポーランドの[[クリスマス・キャロル]]としての歌詞が作られた。
 
 
[[16世紀]]になるとポーランド音楽は急速に発展した。[[クラクフ]]の[[王宮]]であるヴァヴェル城の宮廷音楽たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに[[帰化]]した{{仮リンク|ディオメデス・カトー|en|Diomedes Cato}}、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の[[首都]]が[[ワルシャワ]]に移された[[16世紀]]の終わり頃より多数のイタリア人音楽家がポーランドにきて長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会を催したり講義をした。ポーランドの音楽家たちは[[バロック音楽]]のスタイル、最新の[[楽器]]、[[通奏低音]]といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。[[17世紀]]初頭からはイタリアの影響を受けて[[オペラ]]が盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかしポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わり頃よりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。
 
[[ファイル:Polonez Pod Gołym Niebem - Korneli Szlegel.jpg|thumb|left|300px|ピクニックで踊るポーランド貴族たち]]
 
ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。{{仮リンク|オスカル・コルベルク|en|Oskar Kolberg}}はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、[[20世紀]]半ばポーランドが[[共産主義]]体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。[[マゾフシェ県|マゾフシェ]]音楽・舞踊団と[[ドルヌィ・シロンスク県|シロンスク]]音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとっては[[コンサートホール]]でポーランドの伝統音楽に触れる良い機会を提供している。現在のポーランド各地には各[[コミュニティー]]の自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。
 
[[ファイル:Chopin portrait 1847.jpg|thumb|left|150px|ショパン]]
 
[[ファイル:43. TKB - Fickowa Pokusa z Jeleśni 03.JPG|thumb|left|200px|[[バグパイプ]]を演奏するグラル人の男性(右)([[ザコパネ]]の音楽祭で)]]
 
[[フレデリック・ショパン]]は、[[マズルカ]]や[[ポロネーズ]]を在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスは主に北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。[[ポロネーズ]]は元々[[シュラフタ|ポーランド貴族]]の[[舞踏会]]での演奏されるもので、[[フランス語]]で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ (Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後ポロネーズはポーランドにおいても国に広まった。
 
[[ファイル:Young Gorals of Zywiec 2008 10.jpg|thumb|right|200px|踊るグラル人([[ザコパネ]]の音楽祭で)]]
 
ポーランド南部の街[[ザコパネ]]を中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地の一つとなった。民俗芸術だけでなく、[[現代音楽]]の作曲家の[[カロル・シマノフスキ]]。シマノフスキはこの地方の住民である「[[グラル人]](「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器や[[バグパイプ]]を用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代では[[バイオリン]]や[[チェロ]]を多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれに良く合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ (krzesany) は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ (zbójnicki) はこの地方独特のダンスである。
 
{| style="border:1px solid darkgrey; background:#eee; float:left;"
 
|{{Audio|A Maiden's Prayer.mid|"乙女の祈り"}},<br />[[Musical Instrument Digital Interface|MIDI]], 3:05 minutes, 13 [[キロバイト|KB]]
 
|}
 
[[ファイル:Theatre Square Warsaw about 1900.jpg|thumb|right|200px|ワルシャワ大劇場]]
 
[[ファイル:Karol Szymanowski.jpg|thumb|right|150px|シマノフスキ]]
 
19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。[[ユゼフ・エルスネル]]は[[フレデリック・ショパン]]と{{仮リンク|イグナツィ・ドブジンスキ|en|Ignacy Feliks Dobrzyński}}を育てた。{{仮リンク|カロル・クルピンスキ|en|Karol Kurpiński}}と[[スタニスワフ・モニューシュコ]]はポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、[[1833年]][[2月]]には当時世界最大の音楽施設である[[ワルシャワ大劇場]]が完成し、[[こけら落とし]]として[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]のオペラ『[[セビリアの理髪師]]』が演じられた。[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]や[[ユリウシュ・ザレンプスキ]]が主な作曲家に挙げられ、[[テクラ・バダジェフスカ]]はアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。
 
[[ファイル:Ignacy Jan Paderewski - Project Gutenberg eText 15604.png|thumb|left|150px|パデレフスキ]]
 
19世紀末から20世紀初頭には[[ヴワディスワフ・ジェレンスキ]]、[[ミェチスワフ・カルウォーヴィチ]]、[[カロル・シマノフスキ]]、伝説のピアニスト[[イグナツィ・パデレフスキ]]は[[第一次大戦]]後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ユゼフ・コフラーは[[十二音技法]]を開拓した。
 
 
第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、[[グラジナ・バツェヴィチ]]、{{仮リンク|ジグムント・ミチェルスキ|en|Zygmunt Mycielski}}、{{仮リンク|ミハウ・スピサック|pl|Michał Spisak}}、[[タデウシュ・シェリゴフスキ]]などが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『[[戦場のピアニスト]]』の主人公として有名な[[ウワディスワフ・シュピルマン|ヴワディスワフ・シュピルマン]]は[[大衆音楽]]の作曲家、[[ジャズ]]調の[[歌謡曲]]『ワルシャワの赤いバス (Czerwony Autobus)』がある。
 
[[ファイル:Krzysztof Penderecki 20080706.jpg|thumb|right|150px|ペンデレツキ]]
 
[[ファイル:Henryk Mikołaj Górecki Polish composer.jpg|thumb|right|150px|グレツキ]]
 
[[第二次大戦]]後の[[社会主義]]時代は[[タデウシュ・バイルト]]、[[ボグスワフ・シェッフェル]]、{{仮リンク|ヴウォジミェシュ・コトンスキ|en|Włodzimierz Kotoński}}、{{仮リンク|ヴィトルト・シャロネック|en|Witold Szalonek}}、[[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]、[[ヴォイチェフ・キラール]]、[[カジミェシュ・セロツキ]]、[[ヘンリク=ミコワイ・グレツキ]]、[[クシシュトフ・メイエル]]、[[パヴェル・シマヌスキ|パヴェウ・シマンスキ]]、{{仮リンク|クシェシミール・デンプスキ|en|Krzesimir Dębski}}、{{仮リンク|ハンナ・クルエンティ|en|Hanna Kulenty}}、{{仮リンク|エウゲニウシュ・クナピック|en|Eugeniusz Knapik}}、{{仮リンク|パヴェウ・ミキェティン|en|Paweł Mykietyn}}などが活躍した。
 
ジャズでは[[クリストフ・コメダ|クシシュトフ・コメダ]]は同国出身のユダヤ系の[[ロマン・ポランスキー]]監督の映画『[[ローズマリーの赤ちゃん]]』の[[映画音楽]]を担当した。
 
[[ファイル:Gdańsk 66.JPG|thumb|left|200px|[[ポーランドバルトフィルハーモニック|バルチック・フィルハーモニック]]([[グダンスク]]、[[ポモージェ県]])]]
 
5年に一度開かれるワルシャワの[[ショパンコンクール]]、[[:en:Sopot International Song Festival|ソポト国際音楽祭]]。
 
[[ファイル:2012-08 Woodstock 87.jpg|thumb|right|200px|プシスタネック・ウッドストック2012]]また、{{仮リンク|プシスタネック・ウッドストック|en|Przystanek Woodstock}}(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベント。[[2010年]]8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちが[[リサイクル]]品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録として[[ギネスブック]]に載ることになった<ref>http://muzyka.onet.pl/festiwal/7757,69623,galeria.html</ref><ref>http://www.google.com/hostednews/epa/article/ALeqM5g20isH7sNuQqEnFXK0QKtou0IfOw</ref>。[[ヴロツワフ]]の[[ジミ・フェスティバル]] (Jimi Festival)<ref>{{cite web|url=http://en.heyjoe.pl/|title=HEY JOE ::1.05.2016:: Guitar Guinness Record::WROCŁAW/POLAND::|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>では毎年世界中から数千人の[[ジミー・ヘンドリックス]]のファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。[[2009年]]には6300人が参加し世界で最も多い人数によるギターの合奏として[[ギネスブック]]に登録されたジミ・フェスティバルが、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、[[2014年]][[5月]]の大会では7344人が「Hey Joe」を演奏して、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7273人)を塗り替えている。{{仮リンク|オポーレ国民音楽祭|en|National Festival of Polish Song in Opole}}は主にポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団が[[オポーレ]]に集まる、まだ共産主義であった[[1980年代]]のうちに既に民俗音楽部門のほかに[[ロック (音楽)|ロック]]部門と[[ヒップホップ]]部門がある。
 
 
=== 美術 ===
 
{{main|ポーランドの美術}}
 
 
=== 映画 ===
 
{{main|ポーランドの映画}}
 
 
=== 住居 ===
 
[[ファイル:Wisla 007.jpg|thumb|left|田舎の木造住宅(南部のヴィスワ町)]]
 
[[ファイル:Ostrowiec Stawki 20071008 1025.jpg|thumb|ポーランドのアパート]]
 
[[ファイル:2007PolskaZako.jpg|thumb|left|[[ザコパネ]]の木造住宅]]
 
[[ファイル:Widok na Lidzbark Warmiński.jpg|thumb|地方の街の住居(東北部ヴァルミア地方)]]
 
ポーランド国内の都市の中心部は[[中世]]の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、[[セントラルヒーティング]]システムが付いている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂があったり、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区の[[カトリック教会]]がある程度人々を結び付けている。
 
 
首都[[ワルシャワ]]に関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。[[高度成長]]を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向け[[マンション]]・[[オフィス]]・[[ホテル]]複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の[[高層ビル]]が新たに出現することになっている<ref>http://www.warsawvoice.pl/view/16781</ref>。
 
 
=== 世界遺産 ===
 
{{Main|ポーランドの世界遺産}}
 
ポーランド国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。[[ベラルーシ]]とにまたがって1件の自然遺産が登録されている。
 
 
史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件([[クラクフ歴史地区]]と[[ヴィエリチカ岩塩坑]])がポーランドにある。
 
 
現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
 
 
=== 祝祭日・年間行事 ===
 
{|class="wikitable"
 
|-
 
!日付
 
!日本語表記
 
!現地語表記
 
!備考
 
|-
 
|[[1月1日]]
 
|[[元日]]
 
|Nowy Rok
 
|新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休)
 
|-
 
|[[1月6日]]
 
|[[東方の三博士|3人の博士]]の日
 
|Trzech Króli
 
|三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。
 
|-
 
|[[1月21日]]・[[1月22日]]
 
|おばあちゃんの日・おじいちゃんの日
 
|Dzień Babci・Dzień Dziadka
 
|21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日
 
|-
 
|[[移動祝祭日]]
 
|脂の木曜日
 
|Tłusty Czwartek
 
|脂っこいものを食べる日。2月中旬、[[謝肉祭]]直前の木曜。
 
|-
 
|[[移動祝祭日]]
 
|[[復活祭]]
 
|Wielkanoc
 
|春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。[[キリスト]]の復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休)
 
|-
 
|[[5月1日]]
 
|[[メーデー]]
 
|Święto Pracy
 
|(休)
 
|-
 
|[[5月3日]]
 
|「[[5月3日憲法]]」記念日
 
|Rocznica Konstytucji 3 maja
 
|1791年に制定された憲法を記念する日。※ヨーロッパで初めての憲法 (休)
 
|-
 
|[[5月26日]]
 
|[[母の日]]
 
|Dzień Matki
 
|
 
|-
 
|移動祝祭日
 
|[[聖霊降臨]]の祝日
 
|Zielone Świątki
 
|復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が[[使徒]]たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休)
 
|-
 
|[[6月1日]]
 
|[[子供の日]]
 
|Dzień Dziecka
 
|
 
|-
 
|[[移動祝祭日]]
 
|[[聖体の祝日]]
 
|Boże Ciało
 
|聖霊降臨節の10日後の木曜日。[[最後の晩餐]]を記念する。2009年は6月11日(休)
 
|-
 
|[[6月23日]]
 
|[[父の日]]
 
|Dzień Ojca
 
|
 
|-
 
|[[8月15日]]
 
|聖母被昇天の祝日
 
|Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny
 
|[[チェンストホーヴァ]] (Częstochowa) にあるヤスナ・グラ寺院 (Jasna Góra) へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休)
 
|-
 
|[[11月1日]]
 
|[[諸聖人の日]]
 
|Wszystkich Świętych
 
|諸[[聖人]]を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く(日本で言うお盆)。 (休)
 
|-
 
|[[11月2日]]
 
|[[死者の日]]
 
|Zaduszki
 
|祖先の霊を供養する日
 
|-
 
|[[11月11日]]
 
|[[独立記念日]]
 
|Narodowe Święto Niepodległości
 
|[[ロシア]]と[[ドイツ]],[[オーストリア]]からの独立を記念する日。(休)
 
|-
 
|[[12月6日]]
 
|[[サンタクロース]]の日
 
|Mikołajki
 
|Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。
 
|-
 
|[[12月24日]]
 
|キリスト降誕祭前夜([[クリスマス・イヴ]])
 
|Wigilia Bożego Narodzenia
 
|教会で[[ミサ]]を行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす(日本のお正月のような雰囲気)。この日は肉を食べてはいけないという慣わしがあり、伝統的に鯉を食べる。
 
|-
 
|[[12月25日]]〜[[12月26日]]
 
|キリスト降誕祭([[クリスマス]])
 
|Boże Narodzenie
 
|クリスマスの日。親戚や家族で集まる。(休)
 
|-
 
|[[12月31日]]
 
|シルヴェスターの夜
 
|Sylwester
 
|大晦日に当たるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。
 
|}
 
※(休)は休日
 
 
=== インターネット ===
 
==== Facebookとnk.plの激しい会員獲得合戦 ====
 
ポーランドでは2006年11月に発足した独自の[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]] (SNS)「[[:pl:nk.pl|nk.pl]]」(旧Nasza Klasa、「ぼくたちのクラス」)が盛んで総人口3800万人の3分の1に当たる1350万人がこれに参加しており、これは卒業した学校の同窓生同士の交流を主体としている。しかし、これと並行して「[[Facebook]]」も登録者数を伸ばしている。
 
 
ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18-49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている<ref>{{cite web|url=http://www.pewresearch.org/2010/12/15/global-publics-embrace-social-networking/|title=Global Publics Embrace Social Networking|first1=1615 L.|last1=Street|first2=|last2=NW|first3=Suite 800|last3=Washington|first4=DC 20036 202 419 4300 | Main 202 419 4349 | Fax 202 419 4372 | Media|last4=Inquiries|date=15 12月 2010|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
最近は国産の「nk.pl」とアメリカ製の「Facebook」の間で激しい会員獲得競争が起きている。ポーランドでは、現実世界でのコミュニティー活動と深いつながりのある「nk.pl」は農村住民や高学歴の人々の間で人気があり、ネット上での活動に限定される傾向が強い「Facebook」は都市住民や低学歴の人々に人気があるという、はっきりした傾向が見られる<ref>{{cite web|url=http://www.thenews.pl/business/artykul150238_polish-social-networking-site-eclipsed-by-facebook.html|title=Radio Poland :: News from Poland|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
 
==== ネット上のメディア ====
 
既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄が付いている。投稿欄の文字数の制限は無いか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。
 
 
インターネット上のメディアで英語版が最も充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。
 
 
== スポーツ ==
 
[[ファイル:Arena-Lodz-mecz.jpg|thumb|[[2009年バレーボール・ワールドリーグ]]、ポーランド-ブラジル戦]]
 
{{main|{{仮リンク|ポーランドのスポーツ|en|Sport in Poland}}}}
 
多くのヨーロッパ諸国同様、ポーランドでも[[サッカー]]の人気が高く2012年には[[ウクライナ]]と共催で[[UEFA欧州選手権2012]]が開催されたが、最も人気のある競技は[[バレーボール]]である。
 
 
その他にも[[ボクシング]]、[[陸上競技]]、[[バスケットボール]]、[[フェンシング]]、[[ハンドボール]]、[[アイスホッケー]]、[[水泳]]、バレーボール、[[重量挙げ]]、[[総合格闘技]]などの競技が人気である。近年は[[モータースポーツ]]に対する人気も上がっている。
 
 
[[サッカーポーランド代表]]の[[ロベルト・レヴァンドフスキ]]、[[ヤクプ・ブワシュチコフスキ]]、[[ウカシュ・ピシュチェク]](3人共ドイツの[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]]で[[香川真司]]のチームメイトだった)、F1の[[ロバート・クビサ]]、女子バレーボールの[[アンナ・バランスカ]]は日本でもよく知られている。
 
 
また[[アダム・マリシュ]]や[[カミル・ストッフ]]などの活躍により、近年では[[スキージャンプ]]の人気も非常に高くなっている。
 
 
== 著名なポーランド人 ==
 
{{Main|ポーランド人の一覧}}
 
以下の人々は、それぞれの分野で世界的に知られている。
 
* ミコワイ・コペルニク(ラテン語名[[ニコラウス・コペルニクス]])【天文学者】
 
* ヤン・ヘヴェリウシュ(ラテン語名[[ヨハネス・ヘヴェリウス]])【天文学者】
 
* [[ステファン・バナッハ]]【数学者】
 
* [[アルフレッド・タルスキ]]【数学者】
 
* マリア・スクウォドフスカ=キュリー([[マリ・キュリー]]・通称キュリー夫人)【物理学者・化学者】
 
* カジミェシュ・フンク(英語名[[カシミール・フンク]])【生化学者・ビタミンの発見者】
 
* [[ヤン・マテイコ]]【画家】
 
* [[ズジスワフ・ベクシンスキー]]【画家】
 
* [[タデウシュ・コシチュシュコ]](コシューシコ)【軍人】
 
* [[アダム・ミツキェヴィチ|アダム・ミツキィェヴィッチ]]【詩人】
 
* [[フレデリック・ショパン|フレデリック=フランソワ・ショパン]]【作曲家・ピアニスト】
 
* [[テクラ・バダジェフスカ]]【作曲家・ピアニスト】
 
* [[イグナツィ・パデレフスキ]]【ピアニスト・政治家】
 
* [[アルトゥール・ルービンシュタイン]]【ピアニスト】
 
* [[カロル・シマノフスキ]]【作曲家】
 
* [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]【眼科医・言語学者-[[エスペラント]]創案者】
 
* [[ローザ・ルクセンブルク|ルジャ・ルクセンブルク]](ローザ・ルクセンブルク)【社会主義者】
 
* [[イレーナ・センドラー]]([[カトリック教会|カトリック]]教徒の慈善活動家)
 
* [[ヤヌシュ・コルチャック]](通称コルチャック先生)【小児科医、孤児院院長、児童文学作家】
 
* [[マキシミリアノ・コルベ]](コルベ神父)【カトリック聖職者・[[アウシュビッツ]]の聖者】
 
* ゼノン・ジェブロフスキ(日本語名[[ゼノ・ゼブロフスキー]]、通称「ゼノ修道士」または「ゼノ神父」)【修道士・慈善活動家】
 
* [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](ポーランド名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ)【カトリック聖職者・第264代[[ローマ教皇]]】
 
* [[クシシュトフ・キェシロフスキ]]【映画監督】
 
* [[ロマン・ポランスキー|ロマン・ポランスキ]](ロマン・ポランスキー)【映画監督】
 
* [[アンジェイ・ワイダ|アンジェイ・ヴァイダ]](アンジェイ・ワイダ)【映画監督】
 
* [[ジョセフ・コンラッド]](ポーランド名テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキ)【作家(英国文学)】
 
* [[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]【小説家】
 
* [[スタニスワフ・レム]]【SF小説家】
 
* [[ヴワディスワフ・ゴムウカ]] 【政治家・統一労働者党元第一書記】
 
* [[レフ・ヴァウェンサ]](レフ・ワレサ)【政治家・元大統領】
 
* [[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]【軍人・共産党元第一書記・元大統領】
 
* [[バーシア|バーシャ・チェチェレフスカ]]【シンガー】
 
* パウエル・ナツラ([[パウエル・ナツラ]])【柔道家、総合格闘家。アトランタオリンピック男子柔道95kg級金メダリスト。】
 
* [[ズビグニェフ・ボニエク]]【サッカー選手】
 
* [[ロベルト・レヴァンドフスキ]]【サッカー選手】
 
* ロベルト・クビツァ([[ロバート・クビサ]])【F1ドライバー】
 
* [[アダム・マリシュ]]【スキージャンプ選手】
 
* [[カミル・ストッフ]]【スキージャンプ選手】
 
* ジェシカ・ジャクボウスキ【医師】
 
* タデウシュ・カントール【劇作家・演出家】
 
<gallery>
 
ファイル:JohannesPaul2-portrait.jpg|ヨハネ・パウロ2世
 
ファイル:Nikolaus Kopernikus.jpg|コペルニクス
 
ファイル:Marie Curie (Nobel-Chem).png|マリア・スクワォドフスカ(キュリー夫人)
 
ファイル:Tadeusz Kościuszko.PNG|コシチューシュコ
 
ファイル:Irena Sendlerowa 2005-02-13(duplicate).jpg|イレーナ・センドラー
 
ファイル:Frederic Chopin photo sepia.jpeg|ショパン
 
ファイル:Paderewski plakat 2007.jpg|パデレフスキ
 
ファイル:Krzysztof Penderecki.jpg|ペンデレツキ
 
ファイル:Karol Szymanowski.jpg|シマノフスキ
 
ファイル:Zamenhof.gif|ザメンホフ
 
ファイル:Janusz Korczak.PNG|コルチャック先生
 
ファイル:Jozef Pilsudski.jpg|ユゼフ・ピウスツキ
 
ファイル:Andrzej Wajda 2004.jpg|ヴァイダ監督
 
ファイル:Henryk-Sienkiewicz.jpg|シェンキェヴィチ
 
ファイル:Stanislaw Lem by Kubik.JPG|スタニスワフ・レム
 
ファイル:Lech Walesa.jpg|レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)
 
ファイル:Adam Małysz at the 2010 Vancouver Winter Olympics.jpg|アダム・マリシュ
 
ファイル:Robert Kubica 2010 Malaysia.jpg|ロバート・クビサ
 
ファイル:Anna Maria Jopek, Empik Junior, Warszawa, 01.jpg|アナ=マリア・ヨペック
 
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== 出典 ==
 
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
+
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=[[小谷賢]] |title=日本軍のインテリジェンス - なぜ情報が活かされないのか |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ 386 |date=2007-04 |isbn=978-4-06-258386-2 |ref=小谷 2007年 }}
 
 
 
{{参照方法|date=2015年11月14日 (土) 12:34 (UTC)}}
 
* {{Cite book |和書 |author=山本俊朗 |author2=井内敏夫 |title=ポーランド民族の歴史 |publisher=[[三省堂]] |series=三省堂選書 75 |date=1980-07 |isbn=978-4-385-43075-1 |ref= }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{sisterlinks
 
|commons = Polska
 
|commonscat = Poland
 
}}
 
* [[ポーランド関係記事の一覧]]
 
* [[ポーランド君主一覧]]
 
* [[ポーランドの大統領一覧]]
 
* [[ポーランドの都市の一覧]]
 
* [[ポーランドの観光地]]
 
* [[ポーランド・リトアニア共和国]]
 
* [[ワルシャワ公国]]
 
* [[フス戦争]]
 
* [[カティンの森事件]]
 
* [[ポロニウム]] ポーランドに因む命名。
 
* [[ユニテリアン主義]] 思想的先駆者は{{仮リンク|ポーランド兄弟団|en|Polish Brethren}} [[1556年]][[1月22日]]に[[ポーランド王国]]で活動を開始、後にそれは[[ポーランド・リトアニア共和国]]で広範囲に伝道されて行った。
 
*[[ポーランドボール]] 同国をネタとしたネットミーム
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
; 政府
 
 
* [http://www.poland.gov.pl/ ポーランド共和国公式サイト] {{pl icon}}{{en icon}}
 
* [http://www.poland.gov.pl/ ポーランド共和国公式サイト] {{pl icon}}{{en icon}}
* [http://www.prezydent.pl/dflt/hisprez.php3 ポーランド大統領府] {{pl icon}}{{en icon}}
 
* [http://www.kprm.gov.pl/ ポーランド首相府] {{pl icon}}{{en icon}}
 
; 日本政府
 
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/poland/ 日本外務省 - ポーランド] {{ja icon}}
 
; 大使館
 
* [http://www.pl.emb-japan.go.jp/index_j.htm 在ポーランド日本国大使館] {{ja icon}}
 
* [http://www.tokio.polemb.net/index.php?document=81 在日ポーランド大使館] {{ja icon}}
 
; 観光その他
 
 
* [http://www.poland.travel/ja/ ポーランド政府観光局] {{ja icon}}
 
* [http://www.poland.travel/ja/ ポーランド政府観光局] {{ja icon}}
* {{Twitter|PolandTravel_jp|ポーランド政府観光局}}{{Ja icon}}
 
* {{Facebook|poland.travel.jp|ポーランド政府観光局}}{{Ja icon}}
 
* [http://www.jetro.go.jp/world/europe/pl/ JETRO - ポーランド] {{ja icon}}
 
  
{{ヨーロッパ}}
 
{{EU}}
 
{{OECD}}
 
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{{Normdaten}}
 
  
 
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2018/8/11/ (土) 14:22時点における版

ポーランド共和国
Rzeczpospolita Polska
国の標語:なし1
公用語 ポーランド語
首都 ワルシャワ
最大の都市 ワルシャワ

面積

総計 312,679km270位
水面積率 2.6%

人口

総計(2014年 38,485,779人(34位[1]
人口密度 123人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 1兆6357億[2]ズウォティ
GDP (MER)

合計(2013年 5177億[2]ドル(24位
GDP (PPP)

合計(2013年8968億[2]ドル(25位
1人あたり 23,273[2]ドル
独立ロシア帝国から
1918年11月11日
通貨 ズウォティ (PLN)
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 PL / POL
ccTLD .pl
国際電話番号 48

注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、ポーランド語: Rzeczpospolita Polska

中央ヨーロッパ東部,バルト海に面する国。北東はロシアリトアニアに,東はベラルーシウクライナに,南はチェコスロバキアに,西はドイツに接する。

平均標高 173m,国土総面積の約 70%が標高 200m以下で,500mをこすのは総面積のわずか 3%である。マズリポモージェの二つの湖沼地帯からなる北部低地から,南に向かって少しずつ高くなり,スデティ山脈カルパート山脈にいたる。最高点はカルパート山脈西部の高タトリ山地(タトリ山地)にあるゲルラホフスキーシュチート(2655m)。

国土のほぼ中央部をウィスワ川が,東端をオドラ川(オーデル川)が,それぞれ多数の支流を伴って流れ,バルト海に注ぐ。気候は全般に大陸性気候で,年平均気温は南西部低地で 8℃,北東部で 6℃。

年平均降水量は約 600mmで,山地では 800~1200mm,中央低地では約 450mm。国土の約 4分の1を広葉樹,針葉樹の混合林が占め,シカ,クマ,キツネなどが生息する。

第1次世界大戦後,一時は絶滅を伝えられたヨーロッパバイソンも保護区外で見られる。

鉱物資源は南部に豊富で,上シロンスク(シュレジエン)の石炭を中心に,硫黄,鉄,亜鉛,鉛,銅などを産するほか,南東部では油田,天然ガス田の開発が進んでいる。ほとんどの住民が西スラブ人に属するポーランド人で,残りは同じ西スラブ系のカシューブ人やドイツ人など。公用語は西スラブ語系のポーランド語

宗教はキリスト教のカトリックが圧倒的多数を占める。国土の約半分が耕地化され,ジャガイモ,サトウダイコン,ライムギ,コムギ,オオムギなどの栽培,ブタやウシの飼育が行なわれる。

工業は 1990年代初めから国営企業の民営化が推進され,食品,機械,金属,石油精製などが行なわれる。主要輸出品は機械,金属,食品,化学製品,家具などで,主要貿易相手国はロシアからヨーロッパ連合 EU諸国に切り替わっている。

1999年北大西洋条約機構 NATO,2004年 EUに加盟。(ポーランド史


出典

  1. Główny Urząd Statystyczny. Baza Demografia. Ludność. Stan, ruch naturalny i wędrówki ludności w I kwartale 2014 r., stan na 31.03.2014. [1].
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.

外部リンク