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{{参照方法|date=2014年3月29日 (土) 10:36 (UTC)}}
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[[ファイル:南アフリカ戦争,ボーア人によるレディースミス包囲.jpg|left|サムネイル]]
'''ボーア戦争'''(ボーアせんそう、{{lang-en|First Boer War}}、{{lang-af|Eerste Vryheidsoorlog}})は、[[イギリス]]と[[オランダ]]系[[アフリカーナー]](ボーア人あるいはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの[[植民地]]化を争った、2回にわたる戦争。'''南アフリカ戦争'''、'''南阿戦争'''、'''ブール戦争'''ともいう<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/ボーア戦争-131527 |title = 百科事典マイペディアの解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-10 }}</ref>。イギリスは[[シネマトグラフ]]により、世界で初めてこの戦争を動画で記録した。イギリスは戦果をふまえ、オランダの背後にある[[ドイツ帝国]]を脅威と受け止めた。そして[[三国協商]]と[[日英同盟]]・[[日仏協商]]・[[日露協約]]による包囲網を急ピッチで完成させた([[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]も参照)。それまでイギリスが[[栄光ある孤立]]を維持できたのは、[[ユグノー]]資本が民間レベルで列強の国際関係に干渉できたからである。しかしドイツの飛躍的な国力増大を前に、政治を利用した[[総力戦]]で伸張を阻む作戦が立った。
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'''ボーア戦争'''(ボーアせんそう、{{lang-en|First Boer War}}、{{lang-af|Eerste Vryheidsoorlog}}
  
== 第一次ボーア戦争 ==
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ブール戦争,南阿戦争とも呼ばれる。1899~1902年にイギリスと[[ボーア人]]が建てたトランスバール共和国およびオレンジ自由国との間に行われた戦争。
{{see also|en:First Boer War}}
 
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|battle_name=第一次ボーア戦争<br/>{{Lang|af|Eerste Vryheidsoorlog}}
 
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<!--[[ファイル:The_Boer_War_by_Richard_Caton_Woodville.jpg|thumb|戦闘中の騎兵。]]-->
 
第一次ボーア戦争とは、[[トランスヴァール共和国]]を[[イギリス]]が併合しようとした戦争([[1880年]][[12月16日]] - [[1881年]][[3月23日]])のこと。そのため'''トランスヴァール戦争''' (Transvaal War) とも呼ばれる。
 
  
[[19世紀]]、[[17世紀]]ごろから[[ケープタウン|ケープ植民地]]に入植していた[[オランダ]]系移民の子孫であるボーア人たちは、[[アフリカ]]南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。オランダは[[ドイツ帝国]]の経済的繁栄にあやかっており、カトリック勢力の突き上げにあいながら、英仏の[[ユグノー]]資本から脅威と受け止められていた。
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トランスバールで金鉱が発見されて以来,イギリスは同地に大量の移民を行い市民権と選挙権を要求し,また 1881年以降自治を認められていたトランスバール共和国に対し,宗主権を主張した。さらにアフリカ南部にイギリス人が支配的勢力を握る経済・政治上の連合体制の建設を企図,これに対抗してトランスバールは同じボーア人の建てたオレンジ自由国と軍事同盟を結んだため両者の関係は悪化し,1899年 10月戦争が開始された。 1900年6月イギリス軍がトランスバールに侵入しこれを占領,同年9月トランスバール共和国のイギリス併合を宣言。しかしボーア軍がゲリラ戦によって反抗を続けたため戦争は長引いたが,02年5月フェレーニヒンク条約を調印し,トランスバール共和国,オレンジ自由国をイギリス領植民地とすることによって戦争は終結した。
 
 
イギリスのケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めて[[アフリカ大陸]]内部へ[[グレート・トレック|更なる植民]]を開始し、[[ズールー人|ズールー族]]を駆逐して[[1839年]]に[[ナタール共和国]]を建設する。しかし、これは[[1843年]]のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、[[1852年]]にトランスヴァール共和国を、[[1854年]]に[[オレンジ自由国]]を設立。イギリスも両国を承認した。
 
 
 
[[1860年代]]以降、トランスヴァール東部で[[金]]鉱が、オレンジ自由国では[[ダイヤモンド]]鉱山が発見されると、[[白人]]の鉱山技師が大量に流入しはじめた。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化する(この技師たちの中には、後に[[デビアス|デ・ビアス]]社を創設する[[セシル・ローズ]]も含まれていた)。
 
 
 
内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めて[[ズールー王国]]方面へ進出しようとした。しかし、この動きを警戒したイギリスはトランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、[[ポール・クルーガー]]を司令官として[[イギリス帝国|大英帝国]]に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。
 
 
 
この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。
 
 
 
[[1881年]][[2月27日]]、{{仮リンク|マジュバ・ヒルの戦い|en|Battle of Majuba Hill}}で英国軍はボーア人に惨敗。これにより[[1881年]][[3月23日]]、{{仮リンク|プレトリア会議|en|Pretoria Convention|label=プレトリア協定}}が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。イギリスは同年設立した[[オスマン債務管理局]]で仇をとるつもりであった。
 
{{-}}
 
 
 
== 第二次ボーア戦争 ==
 
{{see also|en:Second Boer War}}
 
<!--英語版wiki、 20:17, 12 January 2006より抄訳-->
 
{{Battlebox
 
|battle_name=第二次ボーア戦争<br/>{{Lang|af|Tweede Vryheidsoorlog}}
 
|campaign=
 
|image=[[ファイル:1904 worlds fair boer war program.jpg|250px|]]
 
|caption=
 
|conflict=ボーア戦争
 
|date=[[1899年]][[10月11日]] - [[1902年]][[5月31日]]
 
|place=南アフリカ
 
|result=イギリス軍の勝利、[[フェリーニヒング条約]]の締結。オレンジ自由国・トランスヴァール共和国の消滅
 
|combatant1=[[ファイル:Flag of the Orange Free State.svg|25px|border|オレンジ自由国の旗]] [[オレンジ自由国]] <br/>  {{ZAR}}
 
|combatant2={{GBR}}<br/> [[ファイル:British Raj Red Ensign.svg|border|25x20px|イギリス領インドの旗]] [[イギリス領インド]]<br/>[[ファイル:Flag_of_Australia_(1901-1903).svg|border|25x20px|オーストラリアの旗]] [[オーストラリア]]<br/> {{Flagicon|CAN1868}} [[カナダ]]<br/>{{Flagicon|NZL}} [[ニュージーランド]]
 
|commander1=[[ファイル:Flag of Transvaal.svg|25px|border|トランスヴァール共和国の旗]] [[ポール・クルーガー]]
 
|commander2={{Flagicon|UK}} [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<br/>{{Flagicon|UK}} [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]<br/>{{Flagicon|UK}} [[ホレイショ・ハーバート・キッチナー]]<br/>{{Flagicon|CAN1868}} [[ウィルフリッド・ローリエ]]
 
|strength1=
 
|strength2=
 
|casualties1=
 
|casualties2=
 
|}}
 
第二次ボーア戦争は、独立ボーア人共和国である[[オレンジ自由国]]及び[[トランスヴァール共和国]]と大英帝国の間の戦争([[1899年]][[10月11日]] - [[1902年]][[5月31日]])。
 
 
 
イギリスは既にアフリカ大陸の東西両岸に[[海底ケーブル]]をもっていたので、開戦前の10月3日から電信の[[検閲]]に取り掛かった。またすでに[[ドイツ=オーストリア電信連合|サンクトペテルブルク会議]]で、参加国へ通知した上ならば電信を止めてよいとの言質を得ていたので、14日に[[コード (暗号)|コード]]と[[:en:Cipher|サイファー]]による[[暗号]]電文の一切を禁じた。
 
 
 
イギリスは収容所戦略・[[焦土作戦]]などを国際的に批判されながら長期戦を戦い抜き、最後のボーア人を1902年5月に降伏させた。同月、[[フェリーニヒング条約]]を結んで終戦した。これにより英国は両国を併合した。その後もイギリスは北へ進軍し、[[ドイツ領南西アフリカ]]と[[ドイツ領東アフリカ]]を分断した。
 
 
 
=== 背景 ===
 
[[オスマン債務管理局]]にドイツの資本が割り込んできてイギリスはエジプトへ押し出されつつあった。
 
トランスヴァール共和国で豊富な金の鉱脈が発見されたことにより、英国の何千人もの鉱山技師たちがケープ植民地から流入を始めた。外国人が殺到し、鉱山近くに続々と住み着いたことから、[[ヨハネスブルグ]]の街はほとんど一夜にして[[スラム]]街と変わってしまった。
 
 
 
これらの外国人はボーア人より多かったが、全体としてみればトランスヴァール共和国の少数派のままだった。アフリカーナーたちは彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。これにより、外国人および英国人の鉱山主からボーア人政府打倒の圧力が高まっていた。
 
 
 
[[1895年]]、セシル・ローズはジェームソン ([[:en:Jameson Raid|Jameson Raid]]) による武装クーデターを企てるが、失敗に終わった。
 
 
 
英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。英国植民地の重要なリーダーたちの中にもボーア人共和国の併合を支持する者がいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民地の知事(高等弁務官)[[アルフレッド・ミルナー]]卿、英国植民地相[[ジョゼフ・チェンバレン]]、鉱業シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だと確信していた彼らは、再び戦争を引き起そうとしていた。
 
 
 
オレンジ自由国の大統領マルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、[[1899年]][[5月30日]]に[[ブルームフォンテーン]]でトランスヴァール共和国の大統領クルーガー及びミルナー卿との会議を開いたが、交渉はあっという間に決裂した。
 
 
 
1899年9月、チェンバレンはトランスヴァール共和国に対し、大英帝国臣民への完全に同等な権利を付与することを要求する最後通告を送った。だがクルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。
 
 
 
=== 第1フェーズ:ボーア軍の攻勢(1899年10月-12月) ===
 
1899年[[10月12日]]に宣戦が布告され、ボーア軍はそれ以降、[[1900年]]1月までの間にケープ植民地とナタール植民地に最初の攻撃を開始した。ボーア軍は、[[レディスミス]](Ladysmith)、[[マフェキング]]([[ロバート・ベーデン=パウエル]]指揮下の軍隊によって防衛されていた)および[[キンバリー]]を包囲した。包囲による籠城生活が数週間に及ぶと、これらの街の兵士と市民にはたちまち食糧が不足し始めた。包囲されているこれらの街は、継続的な砲撃にさらされ、街路は非常な危険地帯となった。
 
 
 
この年の12月中旬は、英国軍にとって非常に困難な時期で、特に1899年の[[12月10日]]から15日は「暗黒の一週間」 ([[:en:Black Week|Black Week]]) と呼ばれる。この一週間で英国軍は[[マゲルスフォンテーン]] (Magersfontein) 、[[ストームベルグ]] (Stormberg) 、[[コレンゾー]] (Colenso) において続けざまに壊滅的な打撃を被った。
 
 
 
[[12月10日]]の[[ストームベルグの戦い]]([[:en:Battle of Stormberg|en]])において、英国軍の司令官、Sir William Gatacre将軍は、[[オレンジ川]]の50マイル南での鉄道ジャンクションを取り戻そうとしたが、オレンジ自由国軍の抵抗にあい、死傷者135人、捕虜600人という大損害を被った。
 
 
 
英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、[[歩兵]]が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった。それに対してボーア軍の主体は[[民兵]]部隊で特定の編制をもたず、[[連装式ライフル銃]]を装備した[[騎乗歩兵]]が主体であった。特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行ったのである。
 
 
 
[[12月11日]]のマゲルスフォンテーンの戦い([[:en:Battle of Magersfontein|en]])では、[[ポール・サンフォード・メシュエン]][[男爵]]([[メシュエン3世]])が指揮する14,000人の英国軍が、キンバリーを攻略するために用意された。ボーア軍指揮官であった[[デ・ラ・レイ]] (Koos de la Rey) と[[クロンジェ]] (Piet Cronje) は、英国軍の型にはまった作戦行動を逆手に取り、軍事教則にとらわれない場所に塹壕を掘り、射手(ライフルマン)を配置する作戦を実行した。これが図に当たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出するはずだった英国軍は死者120人、負傷者690人を出す壊滅的な打撃を受けた。
 
 
 
しかし、'''暗黒の一週間'''の最悪の日は、[[12月15日]]のコレンゾーの戦い([[:en:Battle of Colenso|en]])である。
 
 
 
レディスミス救出のためにツゲラ (Tugela) 川を渡ろうとした[[レドバース・ブラー]] (Redvers Buller) の指揮する21,000人の英国軍が、[[ルイス・ボータ]](ボーサ)指揮する8,000人のトランスヴァール共和国軍に待ち伏せされた。砲撃と正確なライフル射撃の組合せにより、ボーア軍は川を渡ろうとした全ての英国軍を撃退した。ボーア軍の犠牲者40人に対して英国軍は1,127人の犠牲者を出し、更に悪いことには退却の際に放置した[[大砲]]10門を鹵獲される体たらくであった。
 
 
 
=== 第2フェーズ:英国軍の攻勢(1900年1月から9月) ===
 
更に英国軍は、レディスミスを攻略するためのスピオン・コップ (Spion Kop) の戦い([[:en:Battle of Spion Kop|en]])(1900年[[1月19日]]から24日)で再び敗れ、ビューラーは再度コレンゾーの[[ツゲラ川]]西側を渡ろうとして、ボータ率いるボーア軍との激戦の末、1,000人の犠牲者を出した(この時のボーア軍側の犠牲者は約300人)([[:en:Battle of the Tugela Heights|en]])。ビューラーは[[2月5日]]に、Vaal Krantzで再びボータの軍を攻撃して([[:en:Battle of Vaal Krantz|en]])、今度も敗北する。
 
 
 
1900年[[2月14日]]に増援が到着するまで、ロバーツ卿指揮下の英国軍が駐屯軍を救い出すための反攻を開始することはできなかった。最終的にキンバリーは、[[2月15日]]に[[ジョン・フレンチ]]将軍の騎兵部隊によって解放された。
 
 
 
[[パールデベルグ]] (Paardeberg) の戦い([[:en:Battle of Paardeberg|en]])(1900年[[2月18日]]から27日)で、ロバーツ卿はついにボーア軍を打ち破り、クロンジェ将軍と4,000人の兵士を捕虜とした。これによりボーア軍は弱体化し、やっとのことで英国軍はレディスミス解放へと駒を進めることが可能となった。
 
 
 
マフェキング解放は、イギリス全土に熱狂的な祝賀を引き起こした(このお祭り騒ぎを表現するために'''''マフェック''''' (maffic) という単語が作られたほど)。同年2月、イギリスは軍を再集結させると、西方から2つの共和国の攻略を開始し、[[3月13日]]には[[オレンジ自由国]]の首都[[ブルームフォンテーン]]が陥落し、[[6月5日]]には[[トランスヴァール共和国]]の首都[[プレトリア]]が占領された。
 
 
 
ほとんどの英国民は2つの首都占領によって、ほどなく終戦に至るだろうと考えていた。しかし、ボーア軍は新たな拠点Kroonstadで会合し、英国の供給網および通信網を寸断する[[ゲリラ戦]]を立案した。
 
 
 
この新たな方針による最初の戦果は、[[3月31日]]、[[クリスチャン・デ・ウェット]] (Christian De Wet) が指揮する1,500人のボーア軍がSanna's Post(ブルームフォンテーンの東23マイルにある給水設備)において、英国軍が厳重に警護するキャラバンを待ち伏せし、155人の犠牲者、428人の捕虜、7丁の銃、117台のワゴンを捕獲したものであった。
 
 
 
最後の“フォーマルな”戦いは、ロバーツ卿がプレトリア近郊でボーア軍野戦兵の残党を攻撃した[[6月11日]]から12日の[[ダイアモンド・ヒル]] (Diamond Hill) の戦い([[:en:Battle of Diamond Hill|en]])であった。ロバーツ卿がダイアモンド・ヒルからのボーア軍の排除に成功したにもかかわらず、ボーア軍の指揮官ボータはそれを敗北と見なさなかった。何故ならボーア軍の犠牲者が約50人であったのに対し、英国軍は162人の犠牲者を出したからである。
 
 
 
こうして、“フォーマルな”戦争は終わりを告げ、戦争は新たなステージに移ることとなった。
 
 
 
=== 強制収容所 ===
 
[[ファイル:Boercamp1.jpg|thumb|強制収容所に収容されたアフリカーナーの女性と子供]]
 
[[ファイル:LizzieVanZyl.jpg|thumb|写真撮影後に死亡した強制収容所に収容されたアフリカーナーの少女]]
 
[[ファイル:VerskroeideAarde1.jpg|thumb|焼き払われたボーア人の家]]
 
{{further|強制収容所}}
 
1900年6月ごろより、英軍司令官の[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|ホレイショ・キッチナー]]は、ボーア軍支配地域で[[強制収容所]](矯正キャンプ)戦略を展開し始める。これによって12万人のボーア人、先住民黒人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払われた。この収容所では2万人が死亡したとされる。
 
 
 
=== 第3フェーズ:ゲリラ戦(1900年9月から1902年5月) ===
 
英国は1900年9月までにトランスヴァール北部を除く両方の共和国を管理していた。しかし、彼らは分隊が物理的に存在する間を制御するのみであった。分隊が町または地区を去るとすぐに、その領域での英国の制御は消えて行った。25万人の英国軍兵士では2つの共和国が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊([[コマンド部隊]])はかなり自由に動き回ることができた。ボーア人指揮官も、ゲリラ戦のスタイルを採用することに決めた。
 
 
 
特別攻撃隊は、いつでも英国人に対し攻撃してよいとの命令を与えられており、各人の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。西トランスヴァールのボーア軍特別攻撃隊は、[[1901年]]9月以後非常に活発に活動した。
 
 
 
いくつかの重要な戦いが1901年9月から[[1902年]]3月の間に起こった。
 
 
 
1901年[[9月30日]]、Moedwilで、そして[[10月24日]]、[[ドリエフォンテーン]] (Driefontein) で、[[デ・ラ・レイ]]将軍の軍は英軍を攻撃するが、強い抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。
 
 
 
1902年2月には、次の大きな戦いが起こった。2月25日にデ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近くのYsterspruitで英軍を襲撃したのである。デ・ラ・レイは敵の分隊を捕虜とし、彼の率いる部隊が相当の長期間にわたって活動できるだけの大量の弾薬を鹵獲することに成功した。
 
 
 
デ・ラ・レイのボーア軍は、メシュエン卿 (Lord Methuen) に率いられた英国軍をVryburgからKlerksdorpまで追跡した。1902年[[3月7日]]の朝、ボーア軍はTweeboschで移動しているメシュエンの後衛を攻撃した。これにより英軍は混乱に陥り、メシュエンは負傷しボーア軍の捕虜となった。Tweeboschの戦いは、デ・ラ・レイの勝利のうちの1つであったが、ボーア軍のこの勝利は、英軍のより強い反応を引き出すこととなってしまった。
 
 
 
1902年3月の後半には、英軍の大規模な増援が西トランスヴァールに送られた。英国軍が待ちに待った機会は1902年[[4月11日]]、Rooiwalで訪れた。ここでGensの軍と合流したのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍の軍と接触した。英軍兵士は山の側に配置され、ボーア軍の騎馬攻撃を十分な距離を持って迎撃し、存分に打ち倒した。これは、西トランスバール戦争、更にはアングロ・ボーア戦争の最後の大きな戦闘であった。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{cite book|author=Thomas Pakenham|title=THE BOER WAR|publisher=Abacus|year=1991|ISBN=0-349-10466-2}}
 
* {{cite book|和書|author=[[岡倉登志]]|title=ボーア戦争|publisher=[[山川出版社]]|year=2003|ISBN=4-634-64700-1}}
 
* {{cite journal|和書|author=[[瀬戸利春]]|title=ボーア戦争 <small>金とダイヤが引き起こした帝国主義戦争</small>|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|journal=歴史群像 2003年10月号|number=61|pages=166-173}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[南アフリカ共和国年表]]
 
* [[ロバート・ベーデン・パウエル]]
 
* [[ヤン・スマッツ]]
 
* [[マフェキング]]の包囲戦
 
* [[アーサー・コナン・ドイル]]
 
* [[ウィンストン・チャーチル]] - 特派員として従軍
 
* [[アパルトヘイト]]
 
* [[強制収容所]]
 
* [[愚者の渡しの防御]]
 
* [[ドイツ映画]]『[[世界に告ぐ]]』[[:en:Ohm Krüger|(Ohm Krüger)]]
 
* [[イギリス映画]]『[[カヴァルケード]]』 - 無事に戦争から帰った二人の運命を描く
 
* [[鷲は舞い降りた]] - 登場人物の重要なエピソードとして、第二次ボーア戦争が登場する
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
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{{DEFAULTSORT:ほあせんそう}}
 
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[[Category:ボーア戦争|*]]
 
[[Category:ボーア戦争|*]]

2018/8/27/ (月) 23:04時点における最新版

南アフリカ戦争,ボーア人によるレディースミス包囲.jpg

ボーア戦争(ボーアせんそう、英語: First Boer Warアフリカーンス語: Eerste Vryheidsoorlog

ブール戦争,南阿戦争とも呼ばれる。1899~1902年にイギリスとボーア人が建てたトランスバール共和国およびオレンジ自由国との間に行われた戦争。

トランスバールで金鉱が発見されて以来,イギリスは同地に大量の移民を行い市民権と選挙権を要求し,また 1881年以降自治を認められていたトランスバール共和国に対し,宗主権を主張した。さらにアフリカ南部にイギリス人が支配的勢力を握る経済・政治上の連合体制の建設を企図,これに対抗してトランスバールは同じボーア人の建てたオレンジ自由国と軍事同盟を結んだため両者の関係は悪化し,1899年 10月戦争が開始された。 1900年6月イギリス軍がトランスバールに侵入しこれを占領,同年9月トランスバール共和国のイギリス併合を宣言。しかしボーア軍がゲリラ戦によって反抗を続けたため戦争は長引いたが,02年5月フェレーニヒンク条約を調印し,トランスバール共和国,オレンジ自由国をイギリス領植民地とすることによって戦争は終結した。

外部リンク



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