「ダライ・ラマ14世」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>Tomatopoteto
 
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox Dalai Lama
+
 
|name        = テンジン・ギャツォ
 
|title      = ダライ・ラマ14世
 
|image      = Dalailama1 20121014 4639.jpg
 
|caption    = ダライ・ラマ14世(2012年10月)
 
|imgw        = 200
 
|reign      = [[1940年]] - 在位中
 
|predecessor = [[ダライ・ラマ13世|トゥプテン・ギャツォ]]
 
|successor  =
 
|chinese    = 丹增嘉措
 
|hindi      =
 
|pinyin      =
 
|tibetan    = བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ
 
|wylie      = bsTan-'dzin rGya-mtsho
 
|pronoun    =
 
|transprc    = Tenzin Gyatso
 
|THDL        =
 
|father      =
 
|mother      =
 
|birth_date  = {{生年月日と年齢|1935|7|6}}
 
|birth_place = {{ROC}}[[青海省 (中華民国)|青海省]][[同仁県]]{{仮リンク|タクツェル村|en|Taktser}}<br />({{TIB}} [[アムド]]地方)
 
|death_date  =
 
|death_place =
 
|signature  = Dalai Lama's Signature.svg
 
}}
 
 
{{Thumbnail:begin}}
 
{{Thumbnail:begin}}
 
{{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1989年|ノーベル平和賞|非暴力によるチベット解放闘争と、チベットの歴史と文化遺産の保存のための、寛容と相互尊重に基づく平和的解決の提唱}}
 
{{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1989年|ノーベル平和賞|非暴力によるチベット解放闘争と、チベットの歴史と文化遺産の保存のための、寛容と相互尊重に基づく平和的解決の提唱}}
 
{{Thumbnail:end}}
 
{{Thumbnail:end}}
'''ダライ・ラマ14世'''([[1935年]][[7月6日]]([[チベット暦]]5月6日) - 、在位[[1940年]] - )は、第14代の[[ダライ・ラマ]]<ref>"The Institution of the Dalai Lama" by R. N. Rahul Sheel in ''The Tibet Journal'', Vol. XIV No. 3. Autumn 1989, pp. 19-32 says on pp. 31-32, n. 1: "The word ''Dalai'' is Mongolian for "ocean", used mainly by the Chinese, the Mongols, and foreigners. ''Rgya mtsho'', the corresponding Tibetan word, always has formed the last part of the religious name of the Dalai Lama since Dalai Lama II [sic – should read Dalai Lama III]. The expression ''Lama'' (Bla ma) means the "superior one". Western usage has taken it to mean the "priest" of the Buddhism of Tibet. The term Dalai Lama, therefore, means the Lama whose wisdom is as deep, as vast and as embracing as the ocean."(和訳:「ダライ」という言葉は[[モンゴル語]]で「海」を意味し、主に中国人、モンゴル人、外国人が用いているものである。これに対応するチベット語の「ギャムツォ」はダライ・ラマ2世以来、つねにダライ・ラマの法名の末尾を構成するものとなっている〔原文ママ - ダライ・ラマ3世を参照せよ〕。ラマという表現は「上人」を意味する。今までの西洋の用法では、ラマをチベット仏教の「聖職者」を意味するものとして捉えている。したがってダライ・ラマという言葉は、海のように深く広大な、包括的な智慧を有するラマを意味している。)</ref>である。法名は'''テンジン・ギャツォ'''({{Bo|t=བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་|w=bsTan-'dzin rGya-mtsho}})。
+
'''ダライ・ラマ14世'''([[1935年]][[7月6日]]([[チベット暦]]5月6日) - 、在位[[1940年]] - )
 
 
1935年、[[アムド]]地方(現在の[[青海省]])の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1940年に即位、1951年まで[[チベット]]の[[君主]]の座に就いていたが、1959年に[[インド]]へ[[亡命]]して政治[[難民]]となり、インドの[[ダラムサラ]]に樹立された[[ガンデンポタン|中央チベット行政府]](現「チベット人民機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家[[元首]]を務めている。亡命後は、法的には領する国土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中にちらばる[[チベット民族]]に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されている<ref>Mark Sappenfield and Peter Ford (March 24, 2008).[http://www.csmonitor.com/2008/0324/p01s03-wosc.html Dalai Lama must balance politics, spiritual role]. ''The Christian Science Monitor'' Retrieved on: May 9, 2008</ref>。また、欧米でも[[チベット仏教]]に関心のある人や複数の著名人の支持を得、[[ノーベル平和賞]]を受賞したことでその国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされるようになった<ref>フランソワーズ・ポマレ 『チベット』 創元社、123頁。</ref>。2011年には、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の長から引退することになった。これを承けた亡命チベット人憲章改定案では「チベット国民の守護者にして保護者であり、チベット人のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され<ref>[http://www.thetibetpost.com/en/news/exile/1623-tibetan-charter-drafting-committee-issues-draft-preamble Tibetan Charter Drafting Committee Issues Draft Preamble] 2013年5月27日閲覧。</ref>、ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くという[[ダライ・ラマ5世]]以来の伝統<ref>ダライ・ラマ5世の時代に(一部を除く)全チベットの再統一が果たされ、ダライ・ラマ5世はその政教両面の最高権威として君臨したとされるが、その後の歴代ダライ・ラマがつねにチベット全体の支配者であったわけではない。その支配権の及んだ範囲は時期によって異なり、7世の代にはその権勢は全盛期と比較して非常に限定的になった。9世から12世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため実権を行使する機会がなく、この時期のダライ・ラマは権威の象徴にすぎなかったとの見方もある。ダライ・ラマ政権の直轄地域も長らく中央チベットの[[ウー (チベット)|ウー]]に限られていた。[[ラサ]]から遠い地方では世俗の領主や各宗派の大ラマがダライ・ラマの権威を認めながらもそれぞれの領地を支配して割拠しており、東チベットの[[カム (チベット)|カム]]では[[清朝]]に服属する在地の諸候が事実上の独立状態にあった。再びダライ・ラマ自身が名実ともにチベットに君臨したのは20世紀に入ってからのことである。Sam van Schaik, ''Tibet: A History'', chap. 7 および、スネルグローヴ他 『チベット文化史』 第8章を参照。</ref>を終わらせることになった<ref>2011年3月、ダライ・ラマ14世は政治的立場からの引退を表明し、それに伴って亡命チベット人憲章が改訂され、憲章上はいまだ元首であると考えられるが、ダライ・ラマの位置づけは政治的指導者から精神的指導者に変更された。His Holiness the 14th Dalai Lama. [http://www.dalailama.com/page.105.htm A Brief Biography.] Retrieved on: May 8, 2008</ref>。
 
 
 
世界的に著名な[[仏教]]指導者の一人であり、チベット仏教の[[ゲルク派]]において最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ[[僧侶]]である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な長ではなく<ref>ロラン・デエ 『チベット史』 春秋社、135頁。</ref>、ゲルク派の教勢が伸長して他派との摩擦が生じた時代に事実上の最高指導者となった学僧[[ダライ・ラマ2世|ゲンドゥン・ギャムツォ]]、そしてその転生者に認定された[[ダライ・ラマ3世|スーナム・ギャムツォ]]に始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転生系譜であった<ref>田中公明 『活仏たちのチベット』 春秋社、97-100頁、同著 『図説 チベット密教』 春秋社、55・57頁。</ref><ref>最初にダライ・ラマの称号を授かったのはスーナムギャムツォ。</ref>が、1642年以降(ダライラマ五世の時代)、[[モンゴル]]などを含むチベット仏教圏に影響力をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった<ref>[[河口慧海]]『チベット旅行記』(三), 講談社学術文庫265 (1978)、[[多田等観]]『チベット』岩波新書91 (1942, pp. 9, 13-14, 14-16, 41-45)、[[青木文教]]『秘密の国 西藏遊記』中公文庫560 (1990, p. 284)、[[田中公明]]『活仏たちのチベット ダライラマとカルマパ』春秋社 (2000, pp. 113-114.)。</ref>。一方、現在のダライ・ラマである14世は亡命後にチベット人全体の政教両面の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意見もある([[#チベット仏教内の関係]]参照)。また、本人は「自分は一介の比丘にすぎない」と語ることが多い<ref>田中公明 『活仏たちのチベット』 春秋社、150頁。</ref>。世俗的な[[称号]]としては、[[パリ]][[名誉市民]]<ref name="asahi080422">「ダライラマ14世を名誉市民に」『朝日新聞』2008年4月22日夕刊2頁参照。</ref>、[[名誉博士]]([[ニューヨーク州立大学バッファロー校]])などがある。
 
 
 
== 来歴 ==
 
=== 生い立ち - 少年期 ===
 
[[File:Dalai Lama boy.jpg|thumb|left|150px|幼年時代のダライ・ラマ14世]]
 
[[1935年]][[7月6日]]、当時の中華民国青海省内のチベット北部[[アムド]](現在の[[青海省]][[海東市]][[平安区]])に属する{{仮リンク|タクツェル|en|Taktser}}の小さな農家にて、9番目の子供<ref>「それまでに8人の子供が生まれていた」とある(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33)。</ref><ref>なお、「子供7人のうちの5番目の生まれ」という説もある(Craig 1997, pg. xxi)</ref>として生まれた。なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。貴族階級でもない。わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5〜6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2〜3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.31</ref>。生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33</ref>。
 
 
 
幼名は'''ラモ・ドンドゥプ'''(''Lha-mo Don-'grub''<ref>チベット語表記。{{Lang|bo|ལྷ་མོ་ཌོན་འགྲུབ་}}</ref>)と名づけられた。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.30</ref>。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.35</ref>。他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.34</ref>。見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.36</ref>。
 
 
 
3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるために[[ガンデンポタン|チベットの政府]]が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。お告げのひとつは、[[1933年]]に死去した[[ダライ・ラマ13世]]の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。
 
 
 
"Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見しその読みが正しかったと確信したという。捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの[[杜松]]が走っている民家を見つけた<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39</ref>。
 
 
 
捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39</ref>。上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマ[[トゥプテン・ギャツォ]]の[[転生]]と認定され、'''ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ'''<ref>チベット語表記。{{Lang|bo|རྗེ་བཅུན་ངག་དབང་བློ་བཟང་ཡེ་ཤེས་བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་}}</ref>(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。
 
 
 
[[Image:Potala.jpg|thumb|left|200px|[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]に登録されたラサの[[ポタラ宮殿]]]]
 
[[1939年]]の夏、[[ラサ]]に向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに3ヶ月かけて移動。ダライ・ラマの夏の離宮である[[ノルブリンカ]](宝石の庭園の意)に入った<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.41-44</ref>。[[1940年]]冬、[[ポタラ宮殿]]に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就任、ラサの[[ジョカン寺]]で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.47-49。教師としてついたのはレティン・リンポチェ(当初上級教師、後に教師からはずれる)、タタ・リンポチェ(当初下級教師、後に上級教師に昇格)、キゥツァン・リンポチェ(非公式の個人教師、元捜索隊長)、リン・リンポチェ(タタ・リンポチェのかわりに下級教師となった)。リン・リンポチェとは親友となった(出典:同ページ)。</ref>。ロブサン・サムテン(1つ上の兄)とともに読み書きの勉強から開始。お経の授業も開始<ref>脚注:[[チベット語]]にはウ・チェンとウ・メという2種類の筆記形態があり、一方は私的な書き物、もう一方は公文書や書簡用となっている(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.53)。<br />
 
脚注:少年のダライ・ラマの生活スケジュールについて<br />
 
朝6時起床、着替えて1時間ほど祈祷と[[瞑想]]。7時に朝食を摂り、それから授業の開始。12時ちょうどに鐘が鳴り、昼休みとなり、子供らしく遊ぶ。1時に軽い昼食。食後すぐに授業が再開。一般教育。午後4時にお茶。その後2人のチェンシャプが来て、抽象的な論題(たとえば「心」の本性とは何か?)といった質問との格闘。午後5時半頃にようやく1日の試練から開放される。7時頃まで絵を描いたりして過ごし、夕食。夕食後は宮殿の内庭を散歩をしながら経典を暗誦したり祈祷をする決まりになっていたが、実際は子供らしく物語を考え出したりして時を過ごしたという(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.53-61)。
 
<br />
 
少年期のダライ・ラマ14世が受けた一般教育のカリキュラムの内容は[[仏教学]]で学位取得を目指す他の僧たちと同じで、主要科目・副科目に分かれ、以下のような内容。<br />
 
主要科目:「[[論理学]]」「[[チベット芸術]]と[[チベット文化|文化]]」「[[サンスクリット]]」「[[医術]]」「[[仏教哲学]]」<br />
 
この中でも「仏教哲学」が一番深遠で、5つに分類されていて、「[[プラジュニャーパーラミター]]([[般若波羅蜜]]=智慧の完成)」「[[マディヤミカ]]([[中観]]=中庸の道)」「[[アビダルマ]](=形而上学)」「[[ヴィナヤ]](=僧院生活の戒律)」「[[プラマーナ]](=[[論理学]]と[[認識論]])」<br />
 
副科目:詩歌、音楽・ドラマ、占星学、韻律・表現法・同義語研究(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.57-58)。
 
 
 
10歳の時から、チベットの僧院教育で基本とされている[[弁証法]]と[[討論]]技術を熱心に学んだ。ダライ・ラマとして仏教哲学を知っているだけでなく、討論にも熟達している必要があったためである(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.58)。</ref>。さらに、精神的(宗教的な)指導者としての教育と同時に、世俗的(一般社会の)指導者としての教育も受け始めた<ref>脚注:政府の会議のある時には、授業は朝10時に中断し、その会議に出席した(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.54)。</ref>。そういった時間以外はその年齢の子供らしく活発に遊んで過ごした<ref>脚注:金属製の組み立て式玩具「メカーノ」で遊んだり、ぜんまい仕掛けの汽車のセットなどがお気に入りだったという。また、他にも板を駆け上ってそこからジャンプするなど、腕白な遊びも大好きだった、という(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.55-57)。<br />いろんな物をばらして組み立てるのが好きだったという(同書p.68)。</ref>。8歳の時には兄ロブサンは私立学校に行き、ダライ・ラマは一人で教育を受けるようになった。姉と一緒に過ごし、ロブサンや母が時々通ってくる、という生活を送る。毎年春先に[[ノルブリンカ]]に移り、半年後の冬の始まりとともに[[ポタラ宮殿]]に戻る、という生活を20歳まで繰り返した<ref>『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.72</ref>。少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中の一人[[ハインリヒ・ハラー]]を兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。
 
 
 
=== チベット亡命政府の長として ===
 
[[ファイル:Flag of Tibet.svg|200px|right|thumb|チベット亡命政府の旗「[[チベットの旗|雪山獅子旗]]」]]
 
[[File:Beijing Station 1954.jpg|thumb|240px|1954年、全人代出席のため訪れた[[北京]]で歓迎されるダライ・ラマ14世]]
 
{{Main|チベット亡命政府|チベット独立運動}}
 
[[1950年]]に[[中華人民共和国]]の[[中国人民解放軍|人民解放軍]]がチベット東部を制圧([[チャムドの戦い]])、[[1951年]]に[[十七か条協定]]により全域を自国に併合。[[1953年]]に[[中国仏教協会]]の名誉会長となり、[[1954年]]に[[全国人民代表大会]]で[[チベット民族]]の代表として常務委員会副委員長<ref>Goldstein, M.C., A History of Modern Tibet, Volume 2 – The Calm before the Storm: 1951–1955, p. 496</ref><ref>[http://voyage.typepad.com/china/2007/01/chairman_mao_lo.html "Chairman Mao: Long Live Dalai Lama!"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100505143746/http://voyage.typepad.com/china/2007/01/chairman_mao_lo.html |date=2010年5月5日 }}. Voyage.typepad.com. 21 January 2007.</ref>に就任する。[[1956年]]には[[西蔵地方政府]]で[[西藏自治区籌備委員会]]初代主任委員に選ばれ、[[周恩来]]の[[インド]]訪問に同行する外交活動<ref>[http://dalailama.com/gallery/album/0/33 Photo Gallery | The Office of His Holiness The Dalai Lama]</ref>などを行うも、1959年にラサで中国に対する大規模な[[デモ]]が発生し([[1959年のチベット蜂起]])、その対応に苦慮して<ref>ダライ・ラマは説得を試みたが、群衆の怒りは止まるところを知らず、中国軍の実力行使で大勢の人々の命が奪われると予想された。自伝によれば、同年3月17日、託宣僧に伺いを立てると脱出を教示され、まもなく市街戦が始まり、もはや自分が宮殿からいなくなること以外に事態を沈静化する手立てはないと覚悟したという(山際素男訳『ダライ・ラマ自伝』文春文庫、217頁)。</ref>、インド北部[[ダラムサラ]]に亡命した。そこで[[ガンデンポタン|チベット亡命政府]]を樹立した後は、同政府の長としてチベットの高度な自治権の存在を訴える活動を行っている。
 
 
 
また、ガンデンポタン(チベット亡命政府)の長としてだけでなくチベット仏教の指導者としても、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]諸国、[[日本]]を始めとする世界各地をたびたび訪れ、仏教の智慧に関する講演、宗教的な対話に関する講演も活発に行っている。
 
 
 
最近の取材では、高齢になったこともあり、ガンデンポタン(チベット亡命政府)の政治的な指導者から引退することを表明している。ガンデンポタン(チベット亡命政府)のサムドン・リンポチェ首席大臣に、その政治的な指導者としての地位と権限を譲る意向を述べている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/071125/chn0711251020001-n1.htm 【グローバルインタビュー】MSN産経ニュース 2007年11月25日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071126133550/http://sankei.jp.msn.com/world/china/071125/chn0711251020001-n1.htm |date=2007年11月26日 }}</ref>。
 
 
 
=== ノーベル平和賞受賞 ===
 
[[File:Dalai Lama Congressional Medal.jpg|200px|right|thumb|ノーベル平和賞のメダル]]
 
[[1989年]]には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、[[ノーベル平和賞]]を受賞した<ref>[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/1989_nobel_peace_prize.html ノーベル平和賞受賞スピーチ - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所, 1989年12月10日]</ref>。ノーベル平和賞の受賞に対しても中華人民共和国政府は完全無視を決め込んだだけでなく、関連図書の持込さえも禁止している{{要出典|date=2009年2月}}。
 
 
 
=== カナダ名誉市民 ===
 
[[2006年]][[9月9日]]にカナダ名誉市民の称号を得た<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2110078/867944 ダライ・ラマ14世にカナダの名誉市民の称号を授与 - AFP通信, 2006年9月10日]</ref>。なお、カナダの名誉市民の称号を受けるのは、[[南アフリカ共和国]]の[[ネルソン・マンデラ]]前大統領に続いて2人目だった<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-28403620071018 カナダ政府、スー・チーさんに名誉市民の称号授与 - ロイター通信, 2007年10月18日]</ref>。
 
 
 
=== パリ名誉市民 ===
 
[[2009年]][[6月7日]]に[[パリ]]の[[ベルトラン・ドラノエ]]市長はダライ・ラマ14世にパリ名誉市民の称号を授与した<ref name="asahi080422"/><ref>{{cite news
 
|author      = パリ=山口昌子
 
|url        = http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090608/erp0906080825000-n1.htm
 
|title      = ダライ・ラマ、パリの名誉市民に 中仏関係は再び悪化へ
 
|newspaper  = MSN産経ニュース
 
|publisher  = 産業経済新聞社
 
|date        = 2009-06-08
 
|accessdate  = 2010-02-25
 
|archiveurl  = https://web.archive.org/web/20090611101452/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090608/erp0906080825000-n1.htm
 
|archivedate = 2009年6月11日
 
|deadurldate = 2017年9月
 
}}</ref>。
 
 
 
== 中華人民共和国との関係 ==
 
=== 中華人民共和国政府の外交との関係 ===
 
ダライ・ラマ14世の訪問先が中華人民共和国と国交がある国の場合、訪問先の政府に対して、"一つの中国"を掲げている[[中華人民共和国国務院]](=中華人民共和国政府)から外交ルートを通じて抗議が入るのが通例である<ref>[http://www.peopledaily.co.jp/j/2000/04/28/newfiles/a1210.html 「すべての政府関係者とダライ・ラマとの会見に反対」中国が発言 人民網日文版 2000年4月28日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080413234729/http://www.peopledaily.co.jp/j/2000/04/28/newfiles/a1210.html |date=2008年4月13日 }}</ref>。そのため、外交的配慮からダライ・ラマ14世に対する[[査証]]発給を拒否したり、もしくは発給に際して滞在中に一切の政治活動を行わない等の条件が付される場合がある。また、中華人民共和国国内でのダライ・ラマ14世の著書や写真の保有・持込は、治安当局の取締対象になる可能性が高い。
 
 
 
中華人民共和国国務院は、ダライ・ラマ14世が[[2008年]]開催の[[北京オリンピック]]を妨害しようとしていると非難した<ref>[http://www.iht.com/articles/ap/2008/03/07/asia/AS-GEN-China-Tibet.php "Dalai Lama wants to sabotage Beijing Olympics, Chinese officials say" - International Herald Tribune, 2008年3月7日]</ref>。中華人民共和国国務院の懸念する通り、ダライ・ラマ14世に追随する亡命チベット人による北京オリンピックへの6ヶ月間抗議運動がインドで発生したり<ref>[http://www.iht.com/articles/ap/2008/03/10/asia/AS-GEN-India-Tibet-Protest-March.php "India stops Tibetan exiles marching to protest Beijing Olympics" - International Herald Tribune, 2008年3月10日]</ref>、ダライ・ラマ14世を支持する組織の要請を受けて[[イギリス]]の[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]が北京オリンピックの開幕式を欠席する<ref>[http://www.afpbb.com/article/2569107 チャールズ皇太子は北京五輪の開幕式欠席の意向 APF通信 2008年1月28日]</ref>などの事態が実際に起きている。
 
 
 
2012年1月7日、[[インド]]の[[新聞]][[ザ・タイムズ・オブ・インディア]]は、西部ムンバイの警察が、中国から6人の[[スパイ]]がチベット自治区からインド国内に侵入してダライ・ラマ14世を暗殺するという情報を入手、インド亡命中のダライ・ラマ14世の警備体制を強化する方針を決定したと報じた<ref>{{Cite news
 
| url = http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012010701001093.html
 
| title = ダライ・ラマ暗殺狙う 中国スパイ侵入とインド紙
 
| newspaper = [[47NEWS]]
 
| publisher = 47NEWS
 
| date = 2012-1-7
 
| accessdate = 2012-1-7
 
}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
中国は、ダライ・ラマ14世と政治家が会見を行った国に対して、報復的な処置を取ることがある。ダライ・ラマ14世と首脳が会見した国は、その後、対中[[輸出]]が2年間にわたり平均8.1%減少することを論証した研究がある。これを「ダライ・ラマ効果」と呼ぶ<ref>{{Cite news
 
| url = http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/10/post-4017.php
 
| title = ダライ・ラマ効果を払拭した英中「黄金」の朝貢外交
 
| newspaper = [[ニューズウィーク]]
 
| date = 2015-10-22
 
| accessdate = 2015-10-22
 
|author= 高口康太
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 2008年の動乱 ===
 
[[2008年]][[3月15日]]、中華人民共和国チベット自治区ラサ市で[[チベット族]]が[[漢族]]を襲撃し、暴徒化したチベット族が商店を略奪・放火する暴動が発生<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00576.htm 「目撃」邦人学生、生々しく語るチベット暴動 読売新聞 2008年3月16日]{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>、治安当局が[[催涙弾]]等で制圧した(→[[2008年のチベット動乱]]参照)。第6代[[国務院総理]][[温家宝]]は、「暴動はダライ・ラマ14世の組織的な煽動によるものだ」と非難し<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/080318/chn0803181804010-n1.htm 「五輪破壊狙った」 チベット騒乱で温家宝首相 MSN産経ニュース 2008年3月18日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080322000449/http://sankei.jp.msn.com/world/china/080318/chn0803181804010-n1.htm |date=2008年3月22日 }}</ref>、ダライ・ラマ14世に対して「チベット独立を放棄し、[[台湾]]([[中華民国]])を不可分の中華人民共和国の領土と認めること」を条件に中華人民共和国国務院とダライ・ラマ14世との平和的な対話を呼びかけた<ref>[http://www.people.ne.jp/a/0539dcd91d52453cb7dcb64d1bf8328a 温総理:ダライとの対話の条件はチベット独立の放棄 人民網日本語版 2008年3月18日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080320010601/http://www.people.ne.jp/a/0539dcd91d52453cb7dcb64d1bf8328a |date=2008年3月20日 }}</ref>。
 
 
 
これに対してダライ・ラマ14世は、暴動が自身の策動によるとの国務院の見解を否定し<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080318-OYT1T00652.htm?from=navr ダライ・ラマ14世、ラサ暴動関与を強く否定 - 読売新聞, 2008年3月18日]</ref>、事態を収拾できなくなった場合はガンデンポタン(チベット亡命政府)の最高指導者の地位を辞任することも表明する<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY200803180353.html 「制御無理なら引退」 ダライ・ラマ、自制促す 朝日新聞 2008年3月18日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080319234758/http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY200803180353.html |date=2008年3月19日 }}</ref>とともに、中華人民共和国国務院との平和的な対話再開に前向きな姿勢を示している<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080319-OYT1T00593.htm ダライ・ラマ14世、中国政府に直接対話再開求める意向 読売新聞 2008年3月19日]{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>。
 
 
 
この動乱における中国共産党によるチベットでの処置について、ダライ・ラマ14世は「文化の大虐殺([[:en:cultural genocide]])に等しい」と述べた<ref>[http://edition.cnn.com/2008/WORLD/asiapcf/03/16/tibet.unrest/index.htmlCNN.com Dalai Lama: China causing 'cultural genocide']{{リンク切れ|date=2010年5月}}</ref>。
 
 
 
=== インターネットでの規制対象 ===
 
中華人民共和国国内では、中華人民共和国国務院の[[フィルタリング技術]]により、[[インターネット]]上でのダライ・ラマ14世に関する議論が制限、統制されている<ref>[http://www.iht.com/articles/2005/04/14/business/net.php "China uses ever more effective Net filters" - International Herald Tribune, 2005年4月15日]</ref>。
 
 
 
[[2009年]]2月に、[[Twitter]]に、ダライ・ラマ法王事務所を称するOHHDL(Office of His Holiness the Dalai Lama)名のtwitterアカウントが作られ、2万人ものフォロワーを集めたが、偽物と判明し、利用規約への違反としてtwitterよりアカウントが停止となる規制対象となった<ref>[http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5iPC3EetHJJfkiyc-t8HxO8xziFcQ "Twitter suspends fake Dalai Lama account"] - [[フランス通信社|AFP]]</ref>。
 
 
 
現在は、OHHDLの情報リンクページとしてOHHDLInfo[http://twitter.com/OHHDLInfo]が復活しており、6万人(2009年7月)以上の[[フォロワー]]に対して、関連情報を提供している。同様にOHHDLInfoは、6万人以上の[[フォロー]]をすることにより、ダライ・ラマ関連情報を求める人同士が相互参照できるようになっている。
 
 
 
[[2010年]]2月には、ダライ・ラマ14世本人が正式にTwitterのアカウントを取得したと報道された<ref>{{Cite web|date=2010-02-23|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/23/news050.html|title=ダライ・ラマがTwitterに登場 今度は本物|publisher=ITmedia News|accessdate=2011-01-10}}</ref>。{{see also|{{仮リンク|ゴーストネット|en|GhostNet}}}}
 
 
 
[[2018年]]2月、ドイツ自動車大手[[ダイムラー]]傘下の[[メルセデス・ベンツ]]が[[インスタグラム]]の公式アカウントに英語で「あらゆる角度から状況を見よ、そうすればもっとオープンになれる」というダライ・ラマ14世の言葉を引用し、さらに「ダライ・ラマによる、人生への新鮮な視点で新しい週を始めよう」という[[キャッチコピー]]を浜辺に停まる白ベンツの広告を掲載したところ、中国人のインターネットユーザーから批判が殺到し、謝罪に追い込まれた<ref>{{Cite news |url = http://www.afpbb.com/articles/-/3161486 |title = 独メルセデス・ベンツ、ダライ・ラマ引用したインスタ画像で中国に謝罪 |newspaper = [[AFP]] |date = 2018-02-07 |accessdate = 2018-02-11 }}</ref><ref>{{Cite news |url = https://www.asahi.com/articles/ASL275FQVL27UHBI027.html |title = ベンツ広告にダライ・ラマの言葉 中国で批判、謝罪 |newspaper = [[朝日新聞]] |date = 2018-02-08 |accessdate = 2018-02-11 }}</ref>。
 
 
 
=== チベット独立を巡って ===
 
[[2007年]][[10月17日]]に行われたアメリカ合衆国議会黄金勲章授章式のスピーチで、「チベット自治区は中華人民共和国の一部であり、あくまでも高度な[[自治]]を求めているのであってチベット独立の考えはない」ことを表明した<ref>[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/071017_us.html 米議会黄金勲章授章式におけるダライ・ラマ法王のスピーチ(英語)]</ref>。また、日本での講演の際は過去に[[毛沢東]]から「[[チベットの旗]]を私たちの赤旗の隣にいつも維持するべき」と言われたとしてその言葉をチベット支援者にも伝えたいと発言している<ref>{{cite news | author = | url = http://www.sankei.com/politics/news/161116/plt1611160036-n3.html | title = 毛沢東は私に「赤い旗の隣に国旗を維持せよ」と言った | newspaper = [[産経ニュース]] | publisher = 産業経済新聞社 | date = 2016-11-16 | accessdate = 2011-11-21 }}</ref>。
 
 
 
=== 交流関係 ===
 
[[中国共産党中央委員会総書記]]である[[習近平]]の父[[習仲勲]]と親交が深く、腕時計を贈ったことがあり<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =http://news.kyokasho.biz/archives/22590| title =オバマ大統領がこのタイミングでダライ・ラマ14世と会談した理由| publisher =| date= 2014-2-24| accessdate =2014-10-23}}</ref>、習近平に対しても腐敗撲滅や反貧困などの姿勢を評価してる<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =http://www.recordchina.co.jp/b86233-s0-c60.html| title =ダライ・ラマ14世が語る現代中国「習近平は勇気がある」―ジャーナリスト相馬勝が単独インタビュー| publisher =[[Record China]]| date= 2014-04-12| accessdate =2018-04-10}}</ref>。習近平は一時はチベット亡命政府に中国との和解を打診したと報じられたことがあり<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =https://www.news-postseven.com/archives/20121222_161584.html| title =習近平氏 チベット亡命政府に高官を派遣し関係改善を打診か| publisher =[[NEWSポストセブン]]| date= 2012-12-22| accessdate =2018-04-10}}</ref>、ダライ・ラマ14世はチベットに高度な自治権を与えようとする習近平を中国国内の強硬派が阻んでるとする見解を示してる<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =http://www.epochtimes.jp/2016/06/25763.html| title =ダライ・ラマ14世「大転換期を迎えている中国、帰れるなら…」| publisher =[[大紀元]]| date= 2016-6-25| accessdate =2018-04-10}}</ref>。[[毛沢東]][[中国共産党中央委員会主席|主席]]を「革命の真の偉大な指導者であり、度々会見して様々なことを学んだ」とする一方で一般的に毛沢東より評価が高い[[周恩来]][[国務院総理|総理]]は「非常にずる賢いと思った。第一印象からして大嘘つきだった」と証言している<ref>{{Cite web|publisher=[[日本記者クラブ]] |title=ダライ・ラマ14世会見記 |accessdate=2016-11-21|url=http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00022415/ }}</ref>。
 
 
 
== アメリカ合衆国との関係 ==
 
[[ファイル:Bush Dalai Lama.jpg|right|200px|thumb|ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領(2001年)]]
 
 
 
=== 米国議会との関係 ===
 
[[2007年]][[10月17日]]、[[アメリカ合衆国議会|米国議会]]から[[議会名誉黄金勲章]]を授与された。[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]第43代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]も授章式に同席した<ref>[http://www.nytimes.com/2007/10/18/washington/18lama.html?scp=4&sq=dalai+lama+gold&st=nyt "Bush and Congress Honor Dalai Lama" - New York Times, 2007年10月18日]</ref>。中華人民共和国政府はこれに対し、[[米中関係]]に悪影響を及ぼすとして強く反発した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/071016/amr0710162127009-n1.htm 中国、米大統領を強く批判 ダライ・ラマで関係悪化も MSN産経ニュース 2007年10月16日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080312021652/http://sankei.jp.msn.com/world/america/071016/amr0710162127009-n1.htm |date=2008年3月12日 }}</ref>。
 
 
 
[[2008年]][[3月21日]]には、[[アメリカ合衆国下院|米国議会下院]]議長の[[ナンシー・ペロシ]]が他の下院議員9名を伴ってインドのダラムサラを訪問し、ダライ・ラマ14世と会談した。米国議会黄金勲章授与でも大きな役割を果たしたペロシは、同月に発生したチベット自治区での暴動と中国政府の治安当局による催涙弾や銃火器による[[暴徒制圧]]への国際調査団への派遣、ならびに中華人民共和国政府との平和的対話の再開に関して、ダライ・ラマ14世への支持を表明した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080321-OYT1T00735.htm ペロシ米下院議長がダライ・ラマ14世と会談、支持を表明 - 読売新聞, 2008年3月21日]{{リンク切れ|date=2010年6月}}</ref>。
 
 
 
=== CIAとの関係 ===
 
{{Main|CIAチベット計画}}
 
[[1998年]][[10月2日]]、ダライ・ラマ14世側は[[アメリカ中央情報局|CIA]]から170万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]にのぼる資金援助を[[1960年代]]に受けていたことを認めた。援助資金は、志願兵の訓練や対中華人民共和国戦用の[[ゲリラ]]への支払に費やされた。またダライ・ラマ14世への助成金は、[[スイス]]や米国での事務所設立や国際的な[[ロビー活動]]にも充てられた。長年にわたってチベット独立運動を支援したCIAの秘密工作は、中華人民共和国・[[ソビエト連邦]]などの[[共産圏]]を弱体化させる目的の一環でもあった<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0CEFD61538F931A35753C1A96E958260 "World News Briefs; Dalai Lama Group Says It Got Money From C.I.A." - New York Times, 1998年10月2日]</ref>。
 
 
 
=== バラク・オバマとの関係 ===
 
[[2010年]][[2月18日]]、[[バラク・オバマ]]米大統領と会談した(同日、[[ヒラリー・クリントン]][[国務長官]]とも会談)。会談でオバマは、「チベットの宗教や文化、言語のアイデンティティーを守ることを強く支持する」と表明、両者は「前向きで協調的な[[米中関係]]が重要である」との認識で一致した<ref>{{Cite news
 
| author = ワシントン時事
 
| url = http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010021900098
 
| title = チベットの人権擁護強く支持=ダライ・ラマの対話路線称賛-米大統領
 
| newspaper = 時事ドットコム
 
| publisher = 時事通信社
 
| date = 2010-02-19
 
| accessdate = 2010-02-20
 
}}{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>。会談の翌日、ダライ・ラマは、自身が少年時代に[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領から受け取り紛失していた書簡の複製を、前日の会談の際に贈呈されていたことを公表した<ref>{{Cite news
 
| author = ワシントン=黒瀬悦成
 
| url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100220-OYT1T00333.htm
 
| title = ダライ・ラマにルーズベルト書簡の複製贈る
 
| newspaper = YOMIURI ONLINE
 
| publisher = 読売新聞社
 
| date = 2010-02-20
 
| accessdate = 2010-02-20
 
}}{{リンク切れ|date=2010年6月}}</ref>。
 
 
 
== インドとの関係 ==
 
[[1959年]][[3月31日]]に、[[ジャワハルラール・ネルー]]初代首相はダライ・ラマ14世のインドへの亡命を受け入れた。1959年[[10月20日]]に開始された中印国境戦争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、[[インド北部]]のダラムサラにガンデンポタン(チベット亡命政府)と多数の亡命チベット人を今日まで受け入れてきた。
 
 
 
[[2004年]][[10月20日]]に[[マンモハン・シン]]第13代首相は、会談の際インド国内でのダライ・ラマ14世の政治活動を認めないと表明した<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/2004/10/21/jp20041021_44467.html インド 国内でのダライ・ラマの政治活動を認めず - 人民網日文版, 2004年10月21日]</ref>。さらに、[[2008年]]にシブシャンカール・メノン[[外務次官]]は、ダライ・ラマ14世はインドを拠点に反中華人民共和国活動をしないことを約束している客人であると述べている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080313-OYT1T00511.htm インド警察、北京五輪反対のチベット難民100人を逮捕 読売新聞 2008年3月13日]{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>。
 
 
 
== 欧州諸国との関係 ==
 
[[ファイル:Dalai Lama 1471 Luca Galuzzi 2007.jpg|right|160px|thumb|[[コローニョ・モンツェーゼ]]滞在中のダライ・ラマ14世(2007年12月、イタリア)]]
 
[[2006年]][[5月30日]]に、[[欧州連合]]本部(当時:[[ブリュッセル]])で開催された宗教指導者を集めた基本権と相互尊重に関する会議に参加した<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2063078/594140 宗教指導者の会議開催、ダライ・ラマも出席 - AFP通信, 2006年5月30日]</ref>。
 
 
 
イギリス政府は、中華人民共和国との国交関係を元に、同国が掲げる"一つの中国"の政策を掲げており、[[ゴードン・ブラウン]]第74代首相が対中関係強化を図っている一方で、王室のチャールズ皇太子は、ダライ・ラマ14世と長年にわたる親交で知られている<ref>[http://www.tibethouse.jp/news_release/2001/Birthday_St_James_Palace_Jun26_2001.html ダライ・ラマ法王66歳のお誕生日、セント・ジェイムズ宮殿で祝われる - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所/チベット亡命政府ロンドン代表部事務所, 2001年6月26日]</ref>。
 
 
 
[[2007年]]9月に、ダライ・ラマ14世は[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の[[アンゲラ・メルケル]]第8代首相と会談した。しかし、中華人民共和国政府が抗議したため2008年[[2月15日]]に[[温家宝]]第10代国務院総理とメルケル首相との間で関係修復が図られ、メルケル首相は、中華人民共和国の掲げる"一つの中国"の外交政策を堅持するとともにチベット独立不支持を言明するに至った<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200802/2008021501129 中独首相、関係正常化を確認=「チベット独立不支持」表明 時事通信 2008年2月15日]{{リンク切れ|date=2010年12月}}</ref>。
 
 
 
== 国際連合との関係 ==
 
ダライ・ラマ14世が率いる[[ガンデンポタン]](チベット亡命政府)は、現在に至るまで[[国際連合]]の加盟国ではない。国際連合は、[[2000年]][[8月28日]]から[[8月30日]]にかけて開催した「[http://www.millenniumpeacesummit.com/ 宗教・精神指導者のミレニアム世界平和サミット]」に世界の宗教指導者を1000人以上も招聘したが、ダライ・ラマ14世は招聘しなかった<ref>[http://www.tibethouse.jp/news_release/2000/news94.html ダライ・ラマ 国連の「2000年世界平和サミット」に招待されず - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所, 2007年7月29日]</ref>。しかし[[国際連合人権高等弁務官事務所]]の設立の根拠である[[ウィーン宣言及び行動計画]]を採択した[[世界人権会議]]には出席し「人権と普遍的責任」と題した演説を行った<ref>[http://www.freetibet.org/about/dalai5 Human Rights and Universal Responsibility]</ref>。
 
 
 
== ローマ教皇庁との関係 ==
 
[[1975年]]には、第262代[[教皇|ローマ教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]と会談した。[[2007年]]12月には、第265代ローマ教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]と会談予定だったが、[[ローマ教皇庁]]は会談を中止した<ref>[http://www.reuters.com/article/topNews/idUSL0767642820071207 "Dalai Lama says sorry he can't meet Pope" - Reuters, 2007年12月7日]</ref>。
 
 
 
なお、[[2008年]]時点で[[バチカン市国]]と中華人民共和国に国交は無い。
 
 
 
== 日本との関係 ==
 
=== 日本政府との関係 ===
 
日本に入国する際は、日本国政府が中華人民共和国の推進する"一つの中国"の立場を外交政策として掲げているため、中華人民共和国への配慮から「政治活動をしない」等の条件がある。
 
 
 
[[2008年]]4月、訪米の途上で[[成田国際空港|成田空港]]へ立ち寄った際、[[安倍晋三]]前総理の妻・[[安倍昭恵|昭恵]]夫人と会談を行った。
 
 
 
=== 日本の宗教との関係 ===
 
麻原とは亡命先のインドで [[1987年]][[2月24日]]と[[1988年]][[7月6日]]に会談した。またダライ・ラマ14世は、オウム真理教から[[布施]]の名目で1億円にのぼる巨額の[[寄付金]]を受領しており、[[1989年]]にオウム真理教が[[東京都]]で[[宗教法人]]格を取得した際には、ダライ・ラマ14世は東京都に推薦状を提出してオウム真理教を支援した<ref>麻原彰晃の誕生 文藝春秋 2006年2月20日 ISBN 978-4-16-660492-0</ref>。
 
 
 
なお、麻原をインドに最初に紹介したのは[[ペマ・ギャルポ]]であるが、数カ月もしないうちに麻原の問題点に気づき、麻原とはかかわらないようにとダライ・ラマ法王庁に上申している。これに怒った麻原は雑誌や本などでペマを批判した。後に麻原はオウム事件を起こすに至るが、ペマは大阪国際宗教同志会平成11年度総会記念講演にて「幸いにして、麻原さんが怒って、私のことを悪く書いて下さったもんですから、助かりました。本当のことを言って……」と回想している<ref>[http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen6.htm 大阪国際宗教同志会 平成11年度総会 記念講演 「チベット仏教とは何か」]チベット文化研究所所長 ペマ・ギャルポ</ref>。
 
 
 
<!-- 阿含宗に関する記述をする場合は阿含宗HP等の一次情報源以外の参考文献を出典としてください。-->
 
[[1998年]]4月に京都で[[念佛宗三寶山無量壽寺|念仏宗無量寿寺]]が主催した「第1回全世界佛教興隆会議」に参加した。また、念佛宗無量寿寺は布施として2億円をダライ・ラマ14世へ寄付したと『[[週刊朝日]]』が報じた<ref>産廃疑惑/ダライ・ラマを招待した謎の新興宗教の「評判」- 週刊朝日, 1998年4月17日</ref>。
 
 
 
[[2008年]]11月、東京都内で[[善光寺]]の若麻績信昭寺務総長らと面会。善光寺がチベット問題への憂慮などを理由として、[[北京オリンピックの聖火リレー]]の出発地を辞退したことについて「チベットを代表してお礼を申し上げる」と述べ、感謝の印として、高さ約21センチの金銅製の仏像「釈迦如来坐像」を贈った。善光寺は[[2009年]][[3月6日]]、この仏像を翌3月7日から一般公開することを発表した<ref>{{cite news
 
|url        = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090306/trd0903061658017-n1.htm
 
|title      = ダライ・ラマ教祖寄贈の仏像、善光寺で公開 聖火リレー辞退のお礼
 
|newspaper  = MSN産経ニュース
 
|publisher  = 産業経済新聞社
 
|date        = 2009-03-06
 
|accessdate  = 2010-02-25
 
|archiveurl  = https://web.archive.org/web/20090310000958/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090306/trd0903061658017-n1.htm
 
|archivedate = 2009年3月10日
 
|deadurldate = 2017年9月
 
}}</ref><ref>{{cite news
 
| url = http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030601000694.html
 
| title = お礼の仏像を公開、善光寺 ダライ・ラマから贈呈
 
| newspaper = 47NEWS
 
| publisher = 共同通信社
 
| date = 2009-03-06
 
| accessdate = 2010-02-25
 
}}</ref>。
 
 
 
[[四国地区仏教会連合]]の招きで来日中の[[2009年]][[11月2日]]に[[愛媛県]][[新居浜市]]の[[萩生寺]]において、ガンデンポタン(チベット亡命政府)樹立50周年およびノーベル平和賞受賞20周年を記念して日本で初めて建立された[[ナムゲル・チュールテン]](チベット式仏塔)の[[開眼法要]]に参加した。また同年10月31日には東京都[[千代田区]]の[[日本外国特派員協会]]で在日外国人記者を相手に記者会見を行った。
 
 
 
[[東日本大震災]]の供養のため、[[2011年]][[4月29日]]に[[護国寺]](東京都[[文京区]])にて[[四十九日]]特別慰霊法要を行った<ref>[http://www.tibethouse.jp/japanquake2011/ ダライ・ラマ法王による東日本大震災犠牲者四十九日(七七日忌)特別慰霊法要](ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 2011年4月23日)</ref><ref>[http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104290321.html ダライ・ラマ、都内で震災法要「深い悲しみわいた」](朝日新聞 2011年4月29日)</ref>。また、同年[[10月30日]]に[[舞洲アリーナ]]([[大阪府]][[大阪市]])、[[10月31日]]~[[11月3日]]に[[高野山大学]]松下講堂黎明館([[和歌山県]][[高野町]])、[[11月5日]]に[[西光寺]]([[宮城県]][[石巻市]])および[[孝勝寺]](宮城県[[仙台市]])、[[11月6日]]に[[聖和学園高等学校]](宮城県仙台市)および[[日本大学工学部]]体育館([[福島県]][[郡山市]])にて講演(石巻では慰霊供養と挨拶)を行った<ref>[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2011japan/ ダライ・ラマ法王2010年11月 来日情報](ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)</ref><ref>[http://www.sanspo.com/shakai/news/111105/sha1111051255013-n1.htm ダライ・ラマが石巻で法要「悲しみ乗り越えて」]([[サンケイスポーツ]] 2011年11月5日)</ref><ref>[http://www.news24.jp/articles/2011/11/05/07193921.html ダライ・ラマ14世、震災の被災地で法要]([[日テレNEWS24]] 2011年11月5日)</ref>。[[2014年]][[4月8日]]に[[宮城県民会館|東京エレクトロンホール宮城]](宮城県仙台市)で開催された「東日本大震災および原発事故被災者のための [[神道]] 復興祈願慰霊の会」にも参列して冥福を祈った<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201404/20140407_13028.html 震災復興願い祈り ダライ・ラマ14世が仙台で慰霊の会]([[河北新報]] 2014年4月8日)</ref>。
 
 
 
== チベット仏教内の関係 ==
 
ダライ・ラマはチベット仏教の中の一宗派であるゲルク派の事実上の領袖であり、チベット仏教にはゲルク派以外にもいくつかの宗派があるが、現在、ダライ・ラマはゲルク派の最高指導者ではなくチベット仏教の最高指導者であると言われ<ref>田中公明 『活仏たちのチベット』 68頁。</ref>、チベット仏教の[[法王]]であるとも言われている<ref>ペマ・ギャルポ 『改訂新版 チベット入門』 日中出版、87頁。</ref>。現に全宗派の管長はダライ・ラマ14世によって認定されている。ゲルク派以外でも、亡命チベット人の{{仮リンク|ソギャル・リンポチェ|en|Sogyal Rinpoche}}([[ニンマ派]])は現在のダライ・ラマである14世をチベット仏教の最高の長とみなしている<ref name="Dzogchen">『ダライ・ラマ ゾクチェン入門』 まえがき</ref>。ただし、近代以前のチベットの宗教と社会を研究している社会人類学ジェフリー・サミュエルは、歴史的にはチベット仏教のいずれの宗派も、ゲルク派を除けば統一的な組織構造をもつ教団があったとは言い難く、ゲルク派にしても、代表者たるダライ・ラマと諸寺院の力関係は時期によって異なり、完全にダライ・ラマによって統率された組織ではなかったとして、ダライ・ラマ14世が亡命後に得たチベット人全体の政治的・宗教的指導者としての立場はそれまでのダライ・ラマとは異なるとしている<ref>[http://www.buddyzm.edu.pl/download/geoffreysamuel.pdf]参照。</ref>。
 
 
 
また、14世はゲルク派の教えのみならず、チベット仏教の超宗派運動の精神を20世紀前半に体現した{{仮リンク|ジャムヤン・ケンツェ・チューキ・ロドゥー|en|Dzongsar Khyentse Chökyi Lodrö}}の直弟子などからニンマ派や[[カギュ派]]の教えも受け継いでおり、ジャムヤン・ケンツェ・チューキ・ロドゥーの弟子であるソギャル・リンポチェは、ダライ・ラマ14世はチベット仏教の全宗派のさまざまな領域において権威者であるとして敬意を表している<ref name="Dzogchen"/>。このように多分に超宗派的な活動を行っているダライ・ラマ14世は、亡命チベット人をまとめ上げる結節点となっており、さまざまな宗派に属する亡命チベット人が政治的な観点から14世の地位を認め、その下に結集している<ref>フランソワーズ・ポマレ 『チベット』 創元社、157頁。</ref>。しかしその超宗派的姿勢がゲルク派内の一部の保守層の反発を招いた{{要出典|date=2013年5月}}ことに加えて、ゲルク派の護法尊ドルジェ・シュクデンを祀ることに公然と反対したことから、ゲルクの主流派から分離したシュクデン派による争議が起こった([[シュクデン]]および{{仮リンク|シュクデン問題|en|Dorje Shugden controversy}}参照)<ref>シュクデン問題については [http://www.dalailama.com/messages/dolgyal-shugden/ganden-tripa/the-shugden-affair-i The Shugden Affair: Origins of a Controversy (Part I)] も参照。</ref>。
 
 
 
=== パンチェン・ラマ10世との関係 ===
 
北京週報の[[李栄霞]]は、ダライ・ラマ14世の故郷タクツェル村への訪問記の中で、以下のように報道した<ref>李栄霞「[http://www.bjreview.cn/JP/2002-42/2002.42-china-3.htm ダライ・ラマ14世の古里を訪ねる:辺境の小さな山村でも、時代が前進する鼓動が…]」北京週報(www.bjreview.com)</ref>。
 
: 1989年1月28日、[[パンチェン・ラマ10世]]が円寂した。この時、中国仏教協会は追悼式への出席をダライ・ラマ14世に特別要請したものの、ダライ・ラマ14世はこれを拒絶した。
 
 
 
=== カルマパ17世の保護 ===
 
[[2000年]]にチベット自治区からインドに逃亡した[[カギュ派]]の活仏[[カルマパ17世]]を保護した<ref>[http://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Karmapa/karmapa22.html カルマパ17世 チベットから逃走 - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]</ref>。
 
 
 
== 後継者に関する論議 ==
 
ダライ・ラマ14世が高齢になったことから後継者について論議がある。本来ならば[[ゲンドゥン・チューキ・ニマ|ダライ・ラマ14世が承認したパンチェン・ラマ11世]]が転生者を認定するのだが、中華人民共和国当局により連行されて行方不明のために、指名もしくは選挙によってゲルク派のしかるべき高位の僧に次期指導者の地位を委ねる旨を示唆している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/071125/chn0711251020001-n1.htm 【グローバルインタビュー】ダライ・ラマ - MSN産経ニュース2007年11月25日]</ref>。
 
 
 
ダライ・ラマ14世は自らは生身の一人の人間であり、そして仏教の一僧侶であって、もし「あなたは仏(some Buddha)のような何かしらの高次の存在(some higher being)の生まれ変わり(reincarnation)か」と問われれば、自分はそれに「いいえ(No)と答える」 と、CNN の Christiane Amanpourとのインタビューの中で述べている<ref>"Buddha's Warriors" - Amanpour Reports, CNN, 2008年8月2日放映</ref>。
 
 
 
また、[[中華人民共和国国務院]]が[[2007年]][[9月1日]]に[[転生]]を届出ならびに許可制とする「[[国家宗教事務局令第5号|チベット仏教活仏転生管理弁法]]」を施行し、活仏の「転生霊童」の認定にあたっては国家宗教事務局への事前申請ならびに許可を必要とすると定めた<ref>[http://www.people.ne.jp/a/94c718e272c54e03bc185f23094aaf09 チベットの活仏、転生者決定に必要な3原則 - 人民網日文版, 2008年3月8日]</ref>。すなわち、中華人民共和国国務院の許可がない活仏は違法で無効とされるとしている。
 
 
 
== 科学との関係 ==
 
ダライ・ラマ14世は1983年の国際会議で神経科学者[[フランシスコ・バレーラ]]と出会い、“科学と宗教の対話”という共通の関心事に基づいて1986年から「精神と生命会議」を共同で始めた<ref>『瞑想する脳科学』永沢哲(講談社選書メチエ.2011)p.71</ref>。以後、同会議は2010年までに18回を数え、脳科学・生命科学から量子力学、宇宙物理学など幅広いジャンルの科学者200人以上と対話が続けられている<ref>同書.p72</ref>。この会議を母体に「精神と生命研究所」(Mind&Life Institute)が設立され<ref>http://www.mindandlife.org/mission/ Mind&Life Institute HP-Mission]</ref>、ここからダライ・ラマ14世と科学者との対話なども出版されている<ref>[http://www.mindandlife.org/product-category/books/ Mind&Life Institute HP-books]</ref>。
 
 
 
== 映画 ==
 
[[ファイル:14th Dalai Lama.jpg|thumb|right|160px|ダライ・ラマ14世(1994年)]]
 
いずれもダライ・ラマ14世の側から描かれているため、中華人民共和国支配下のチベットでの撮影が行えず国外で撮影されている。
 
*『[[クンドゥン]]』(1997年・アメリカ)
 
: [[マーティン・スコセッシ]]が、映画史上初めてダライ・ラマ14世の半生を描いた作品。ダライ・ラマの転生者である少年(後の14世)の発見、彼の成長とチベットを脱出してインドへ亡命するまでの22年間を、歴史的事実に即して描く。
 
*『[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]]』([[1997年]]・アメリカ)
 
: 若き日のダライ・ラマ14世と登山家[[ハインリヒ・ハラー]]との交流を描いた。
 
*『ダライ・ラマ14世』 ([[2015年]]・日本)
 
:来日時、質問者に真剣にそしてユーモアを交えて答えるダライ・ラマ14世の姿と、[[チベット文化]]と[[チベット仏教]]の根付いた地、[[インド]]の[[ダラムサラ]]と[[ラダック]]の取材を通して、ダライ・ラマ14世の素顔、そして[[チベット問題]]の本質に迫っていくドキュメンタリー。監督は[[光石富士朗]]、ナレーションを[[柄本佑]]。EEDとして映画監督の[[山谷亨]]が参加している。
 
 
 
== 社会主義について ==
 
若い頃にはチベットの経典や[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]などの歴史や[[天文学]]の本の他に[[カール・マルクス|マルクス]]と[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の本も読み、中国共産党への入党を希望<ref>{{cite news |title=ダライ・ラマ14世が語る現代中国「習近平は勇気がある」―ジャーナリスト相馬勝が単独インタビュー |url=http://www.recordchina.co.jp/a86233.html |accessdate=2016-10-05 |work=[[レコードチャイナ]] |date=2014-04-12 }}</ref>していた時期もあったことを明かしている。[[マルクス主義]]の「平等な分配」の考えに同意しているが、マルクス主義の極めて物質主義的な観点から人の生存をとらえるという部分は唯一の欠点であるとし、その点については同意していない。自分を「マルクス主義者」<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0521&f=politics_0521_009.shtml ダライ・ラマ「私はマルクス主義者だ」…米ニューヨークで発言 2010/05/21(金) 17:08:46 [サーチナ]]</ref><ref>{{cite news |title=ダライ・ラマ「私は今もマルクス主義者」 |url=http://jp.sputniknews.com/life/20150816/755012.html |accessdate=11 Sep 2015 |work=Sputnik News |date=2015-08-16 }}</ref>とし、「半・マルクス主義者」<ref>[http://www.tibethouse.jp/news_release/2006/060815_hhdl.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]</ref>と呼んでも構わないと語っており、仏教と純粋なマルクス主義が融合した場合には、それが有効な施政方法となることを確信していると述べている<ref>『ダライ・ラマ自伝―亡命の日々に』P.108 参考。</ref>。
 
 
 
== 受賞等 ==
 
*名誉博士号(2006年、[[ニューヨーク州立大学]]バッファロー校)
 
[http://www.buffalo.edu/reporter/vol37/vol37n26/articles/DalaiDegree.html]
 
*[[議会名誉黄金勲章]]([[2007年]][[10月17日]]、[[アメリカ合衆国議会]]
 
 
 
*Honorary Doctorate in chemistry and pharmacy from University of Münster on 20 September, 2007
 
*Honorary Doctorate from Southern Cross University on 8 June, 2007
 
*Presidential Distinguished Professorship from Emory University in February 2007.
 
*Honorary Doctorate in Doctor of Humane Letters|Humane Letters conferred by the State University of New York at Buffalo in September 2006.
 
*Honorary citizenship of Canada in 2006.
 
*Honorary citizenship of Ukraine, during the anniversary of the Nobel Prize on 9 December, 2006 in Mc Leod Ganj.
 
*United States Congressional Gold Medal on 27 September 2006
 
*Key to New York City from Mayor Michael Bloomberg|Bloomberg on 25 September, 2005
 
*Jaime Brunet Prize for Human Rights on 9 October, 2003
 
*Hilton Humanitarian Award on 24 September, 2003
 
*International League for Human Rights Award on 19 September, 2003
 
*Life Achievement Award from Hadassah Women's Zionist Organization on 24 November, 1999
 
*Roosevelt Four Freedoms Award from the Franklin and Eleanor Roosevelt Institute on 4 June, 1994
 
*World Security Annual Peace Award from the New York Lawyer's Alliance on 27 April, 1994
 
*Berkeley Medal from University of California, Berkeley, on 20 April, 1994
 
*Peace and Unity Awards from the National Peace conference on 23 August, 1991
 
*Earth Prize from the United Earth and U.N. Environmental Program on 5 June, 1991
 
*Advancing Human Liberty from the Freedom House on 17 April, 1991
 
*Le Prix de la Memoire from the Fondation Danielle Mitterrand on 4 December, 1989
 
*Raoul Wallenberg Human Rights Award from the Congressional Rights Caucus Human Rights on 21 July, 1989
 
*Key to the city|Key to Los Angeles from Mayor Tom Bradley|Bradley in September 1979.
 
*Key to San Francisco from Mayor Dianne Feinstein|Feinstein on 27 September, 1979
 
 
 
== 著書 ==
 
*[[山際素男]]訳 『ダライ・ラマ自伝』[[文藝春秋]]、1992、文春文庫 1996
 
*[[木村肥佐生]]訳 『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』[[亜細亜大学]]アジア研究所 1986、[[中公文庫]] 1989 新版2001・2015
 
**『わがチベット ダライ・ラマ自叙伝』[[日高一輝]]訳 [[講談社]] 1963
 
*『チベット仏教の概要』日高一輝訳 チベット文化研究会 1978
 
*『この悲劇の国、わがチベット ダライ・ラマ自伝』日高一輝訳 蒼洋社 1979
 
*『仏教のこころ ダライ・ラマ法話集』[[ペマ・ギャルポ]],[[椎名潤]]訳 講談社 1984
 
*『智慧の眼』[[菅沼晃]]訳 けいせい出版 1988
 
*『愛と非暴力 ダライ・ラマ仏教講演集』[[三浦順子]]訳 春秋社 1990
 
*『ダライ・ラマ 平和の哲学』斎藤巌, 斎藤保高訳 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 1992
 
*『ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議』[[大谷幸三]]編訳 [[クレスト社]] 1994、[[徳間文庫]] 1999、[[角川ソフィア文庫]] 2008
 
*『ダライ・ラマ 慈悲の教え』山際素男訳 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 1994
 
*『空と縁起 人間はひとりでは生きられない』大谷幸三訳 [[同朋舎出版]] 1995 のち[[学研M文庫]]
 
*『心と生命 <心の諸科学>をめぐるダライ・ラマとの対話 徹底討議』フランシスコ・J.ヴァレーラ,ジェレミー・W.ヘイワード編著 [[山口泰司]],山口菜生子訳 青土社 1995
 
*『ダライ・ラマの仏教入門 心は死を超えて存続する』[[石浜裕美子]]訳 [[光文社]] 1995、同知恵の森文庫 2000
 
*『ダライ・ラマの密教入門 秘密の時輪タントラ灌頂を公開する』石浜裕美子訳 光文社 1995、同知恵の森文庫 2001
 
*『私たちのゆくえ 心のはしらを探して』ペマ・ギャルポ監訳 [[ベストセラーズ]] ワニの選書 1995
 
*『宇宙のダルマ』[[永沢哲]]訳 [[角川書店]] 1996
 
*『ダライ・ラマの仏教哲学講義 苦しみから菩提へ』[[福田洋一]]訳 [[大東出版社]] 1996
 
*『ダライ・ラマ生き方の探究』ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ,藤田省吾共訳 [[春秋社]] 1997
 
*『ダライ・ラマ瞑想入門 至福への道』ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ監訳 鈴木樹代子訳 春秋社 1997
 
*『瞑想と悟り チベット仏教の教え』[[柴田裕之]]訳 [[日本放送出版協会]] 1997
 
*『ダライ・ラマ、イエスを語る』[[中沢新一]]訳 角川書店 1998
 
*『ダライ・ラマ死をみつめる心』[[ハーディング祥子]]訳 春秋社 1999
 
*『ダライ・ラマ他者と共に生きる』[[田崎國彦]],渡邉郁子訳 春秋社 1999
 
*『ダライ・ラマ日々の瞑想』三浦順子訳 講談社 1999
 
*『幸福論』[[塩原通緒]]訳 [[角川春樹事務所]] 2000
 
*『ダライ・ラマが語る 母なる地球の子どもたちへ』[[ジャン=クロード・カリエール]]共著 新谷淳一訳 [[紀伊國屋書店]] 2000
 
*『ダライ・ラマこころの育て方』ハワード・C.カトラー共著 [[今井幹晴]]訳 [[求龍堂]] 2000
 
*『ダライ・ラマ智慧と慈悲 来日講演集』[[マリア・リンチェン]]訳 春秋社 2000
 
*『ダライ・ラマ365日を生きる智慧』レーヌカ・シン編 [[谷口富士夫]]訳 春秋社 2001
 
*『ダライ・ラマ幸福になる心』山際素男訳 春秋社 2001
 
*『ダライ・ラマ至高なる道』谷口富士夫訳 春秋社 2001
 
*『ダライ・ラマ智慧の眼をひらく』菅沼晃訳 春秋社 2001
 
*『ダライ・ラマ〈心〉の修行』マリア・リンチェン訳 春秋社 2002
 
*『幸福と平和への助言』[[今枝由郎]]訳 トランスビュー 2003
 
*『幸せに生きるために ダライ・ラマが語る15の教え』塩原通緒訳 角川春樹事務所 2003 「世界平和のために」文庫
 
*『ダライ・ラマ14世法王の政治哲学 スピーチ・著作集より 第1巻』A.A.シロマニー編 ペマ・ギャルポ監訳 山本長一 [ほか]訳 万葉舎 2003
 
*『ダライ・ラマ怒りを癒す』三浦順子訳 講談社 2003
 
*『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』ファビアン・ウァキ共著 中沢新一,鷲尾翠訳 角川書店 2003
 
*『ダライ・ラマゾクチェン入門』[[宮坂宥洪]]訳 春秋社 2003
 
*『ダライ・ラマ大乗の瞑想法』クンチョック・シタル監訳 鈴木樹代子訳 齋藤保高原典訳 春秋社 2003
 
*『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』ダニエル・ゴールマン共著 加藤洋子訳 アーティストハウスパブリッシャーズ  2003
 
*『Love?愛ってなんだろう』マリア・リンチェン同時通訳 マーブルトロン 2004
 
*『ダライ・ラマ死と向きあう智慧』ジェフリー・ホプキンス編 ハーディング祥子訳 地湧社 2004
 
*『ダライ・ラマ慈悲の力 来日講演集』マリア・リンチェン訳 春秋社 2004
 
*『ダライ・ラマ般若心経入門』トゥプテン・ジンパ編 宮坂宥洪訳 春秋社 2004
 
*『ダライ・ラマ法王の実践幸福論』ロスアルトス・スタディー・グループ編著 ペマ・ギャルポ訳 あ・うん 2005
 
*『抱くことば』グレート・ザ・歌舞伎町写真 [[イースト・プレス]] 2006
 
*『思いやり』マリア・リンチェン訳 [[サンマーク出版]] 2006
 
*『思いやりのある生活』沼尻由起子訳 光文社知恵の森文庫 2006
 
*『素顔のダライ・ラマ』ビクター・チャン共著 牧内玲子訳 春秋社 2006
 
*『ダライ・ラマが語る般若心経』大谷幸三文 [[角川学芸出版]] 2006
 
*『ダライ・ラマ科学への旅 原子の中の宇宙』[[伊藤真]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}訳 サンガ 2007 のち新書
 
*『ダライ・ラマハートフル・メッセージ』鈴木樹代子訳 春秋社 2007
 
*『ヒューマン・バリュー 人間の本当の値打ちとは』宮坂宥洪編訳 マリア・リンツェン原訳 四季社 2007
 
*『ダライ・ラマのビジネス入門 「お金」も「こころ」もつかむ智慧!』ローレンス・ファン・デン・ムイゼンバーグ共著 岩木貴子訳 マガジンハウス 2008
 
*『ダライ・ラマ平和のために今できること』北川知子訳 [[ダイヤモンド社]] 2008
 
*『ダライ・ラマ未来への希望 来日講演集』マリア・リンチェン訳 [[大蔵出版]] 2008
 
*『ゆるす言葉』[[野町和嘉]]写真 イースト・プレス 2008
 
*『環境について語る』ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 2009
 
*『心の平和』マリア・リンチェン訳 サンマーク出版 2009
 
*『ダライ・ラマこころを導く言葉365』瀧川郁久訳 春秋社 2009
 
*『ダライラマ真実の肖像』クロディーヌ・ベルニエ=パリエス文 神田順子訳 二玄社 2009
 
*『ダライ・ラマ実践の書』ジェフリー・ホプキンズ編 宮坂宥洪訳 春秋社 2010
 
*『ダライ・ラマ スピリチュアル・メッセージ』クンチョック・シタル, 阿門朋子訳 春秋社 2010
 
*『ダライ・ラマの「中論」講義第18・24・26章』マリア・リンチェン訳 大蔵出版 2010
 
*『いのちの言葉 3・11後の日本へ-』写真:[[篠山紀信]] [[世界文化社]] 2011
 
*『ダライ・ラマ希望のことば フォト・メッセージ』[[薄井大還]]写真 春秋社 2011
 
*『ダライ・ラマこころの自伝』ソフィア・ストリル=ルヴェ編 ルトランジェ治美訳 春秋社 2011
 
*『ダライ・ラマ宗教を語る』三浦順子訳 春秋社 2011
 
*『ダライ・ラマの般若心経 日々の実践』マリア・リンチェン訳 三和書籍 2011
 
*『夜明けの言葉』三浦順子訳 松尾純写真 [[大和書房]] 2011
 
*『傷ついた日本人へ』[[新潮新書]] 2012
 
*『ダライ・ラマ宗教を越えて 世界倫理への新たなヴィジョン』三浦順子訳 サンガ 2012
 
*『ダライ・ラマ珠玉のことば108 心の平安を得るための仏教の知恵』カトリーヌ・バリ編 前沢敬訳 福田洋一監修 武田ランダムハウスジャパン 2012
 
*『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力』[[下村満子]]企画・監修 大和出版 2012
 
*『ダライ・ラマ法話 文殊の智慧による救い』クンチョック・シタル,阿門朋子訳 薄井大還撮影 春秋社 2012
 
*『ダライ・ラマ誰もが聞きたい216の質問』ラジーヴ・メロートラ編 瀧川郁久訳 春秋社 2013
 
*『ダライ・ラマ般若心経を語る』大谷幸三取材・構成 角川ソフィア文庫 2013
 
*『思いやること こころを育てるための小さなコツ』ジェフリー・ホプキンス編 長澤あかね訳 東洋出版 2014
 
*『心を見つめる言葉』黒輪篤嗣訳 飛鳥新社 2014
 
*『ダライ・ラマ『菩提心の解説』』マリア・リンチェン訳 大蔵出版 2015
 
 
 
===日本人との共著===
 
*『目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話』[[上田紀行]]共著 日本放送出版協会 NHKブックス 2007、講談社文庫 2010
 
*『優しい人になろう』[[村田吉廣]]共著 講談社 2009
 
*『ダライ・ラマ「語る」』[[相馬勝]]共著 小学館101新書 2010
 
*『ダライ・ラマ法王に[[池上彰]]さんと「生きる意味」について聞いてみよう』池上彰共著 講談社 2010
 
*『空の智慧、科学のこころ』[[茂木健一郎]]共著 マリア・リンチェン訳 [[集英社新書]] 2011
 
*『こころを学ぶ ダライ・ラマ法王仏教者と科学者の対話』[[村上和雄]],[[志村史夫]],[[佐治晴夫]],[[横山順一]],[[米沢富美子]],[[柳沢正史]],[[矢作直樹]],[[河合徳枝]]共著 講談社 2013
 
*『これからの日本、経済より大切なこと』池上彰共著 [[飛鳥新社]] 2013
 
*『小さないじわるを消すだけで』[[よしもとばなな]]共著 [[幻冬舎]] 2014
 
 
 
=== 雑誌掲載の文章 ===
 
*「成田会見全文掲載」季刊誌『ジッポウ』6号(2008夏号)特集「平和なれチベット」ダイヤモンド社、2008年
 
**2008年4月にアメリカ渡航の際の経由地成田空港での記者会見の内容。
 
 
 
===歌詞===
 
*虐待を受けている子供に向けて彼が書いた『Never Give Up』に[[ピーター・ヤロー]]が曲をつけた<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=dZ5dBqd3hj8 Peter Yarrow /ピーター・ヤーロウ - Never Give Up]</ref>。
 
 
 
== 参照文献 ==
 
=== 文献資料 (仏教解説書) ===
 
哲学書、人生論 等々(共著形式も含む)
 
*菅沼晃・訳『大乗仏教入門』[[白帝社]]、1980、ISBN 4-89174-124-4
 
*椎名潤・訳[[ペマ・ギャルポ]]『仏教のこころ―ダライ・ラマ法話集』[[講談社]]、1984、ISBN 4-06-201282-0
 
*菅沼晃・訳『智慧の眼』けいせい出版、1988、ISBN 4-87444-366-4
 
*『素顔のダライ・ラマ14世』ぎょうせい、1990、ISBN 4-324-02071-X
 
*三浦順子・訳『愛と非暴力―ダライ・ラマ仏教講演集』[[春秋社]]、1990、ISBN 4-393-13311-0、ISBN 4-393-13330-7
 
*大谷幸三・訳『ダライ・ラマ「死の謎」を説く―輪廻転生 生命の不可思議』[[クレスト社]]1994 ISBN 4-87712-017-3、[[徳間書店]] 1999 ISBN 4-19-891068-5、[[ザ・マサダ]]2000 ISBN 4-88397-022-1
 
*石濱裕美子・訳『ダライ・ラマの仏教入門―心は死を超えて存続する』[[光文社]]、1995、ISBN 4-334-97096-6、光文社 2000 ISBN 4-334-78005-9
 
*大谷幸三・訳『空と縁起―人間はひとりで生きられない』[[同朋舎出版]]、1995、ISBN 4-8104-2244-5
 
*椎名潤、三浦順子・訳『私たちのゆくえ―心のはしらを探して』[[ベストセラーズ]]、1995、ISBN 4-584-19121-2
 
*石濱裕美子・訳『ダライ・ラマの密教入門―秘密の時輪タントラ潅頂を公開する』光文社、1995、ISBN 4-334-97112-1、光文社2001 ISBN 4-334-78071-7
 
*フランシスコ・J・ヴァレーラ, ジェレミー・W・ヘイワード編著; 山口泰司, 山口菜生子・訳 『心と生命 ―「心の諸科学」をめぐるダライ・ラマとの対話 -徹底討議- 』[[青土社]]、1995、ISBN 4-7917-5382-8
 
*福田洋一・訳『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』[[大東出版社]]、1996、ISBN 4-500-00627-3
 
*永沢哲・訳『宇宙のダルマ』[[角川書店]]、1996、ISBN 4-04-791255-7
 
*柴田裕之・訳『瞑想と悟り―チベット仏教の教え』[[日本放送出版協会]]、1997、ISBN 4-14-080278-2
 
*鈴木樹代子・訳『ダライ・ラマ瞑想入門―至福への道』[[春秋社]]、1997、ISBN 4-393-13319-6
 
*藤田省吾・訳『ダライ・ラマ 生き方の探究』春秋社、1997、ISBN 4-393-13320-X
 
*[[中沢新一]]・訳『ダライ・ラマ、イエスを語る』角川書店、1998、ISBN 4-04-791294-8
 
*田崎国彦、渡邉郁子・訳『ダライ・ラマ他者と共に生きる』春秋社、1999、ISBN 4-393-13323-4
 
*三浦順子・訳『ダライ・ラマ 日々の瞑想』[[講談社]]、1999、ISBN 4-06-208723-5
 
*ハーディング祥子・訳『ダライ・ラマ死をみつめる心』春秋社、1999、ISBN 4-393-13324-2
 
*塩原通緒・訳『幸福論』角川春樹事務所、2000、ISBN 4-89456-190-5
 
*新谷淳一・訳『ダライ・ラマが語る―母なる地球の子どもたちへ』紀伊國屋書店、2000、ISBN 4-314-00874-1
 
*『ダライ・ラマ来日講演集―智慧と慈悲』春秋社、講演録 2000、ISBN 4-393-13332-3
 
*谷口富士夫・訳『ダライ・ラマ 365日を生きる智慧』春秋社 2001 ISBN 4-393-13331-5、2007 ISBN 4-393-13361-7
 
*菅沼晃・訳『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』春秋社、2001、ISBN 4-393-13335-8
 
*山際素男・訳『ダライ・ラマ 幸福になる心』春秋社、2001、ISBN 4-393-13336-6
 
*谷口富士夫・訳『ダライ・ラマ 至高なる道』春秋社、2001、ISBN 4-393-13339-0
 
*[[マリア・リンチェン]]訳『ダライ・ラマ“心”の修行』春秋社、2002、ISBN 4-393-13342-0
 
*+ファビアン ウァキ、中沢新一及び鷲尾翠・訳『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』角川書店、2003、ISBN 4-04-791440-1
 
*三浦順子・訳『ダライ・ラマ 怒りを癒す』講談社、2003、ISBN 4-06-210518-7
 
*今枝由郎・訳『幸福と平和への助言』トランスビュー、2003、ISBN 4-901510-12-6
 
*宮坂宥洪・訳『ダライ・ラマ ゾクチェン入門』春秋社、2003、ISBN 4-393-13340-4
 
*塩原通緒・訳『幸せに生きるために―ダライ・ラマが語る15の教え』[[角川春樹事務所]]、2003、ISBN 4-7584-1013-5
 
*クンチョック・シタル監訳 鈴木樹代子・訳 斎藤保高・原典訳『ダライ・ラマ大乗の瞑想法』春秋社、2003、ISBN 4-393-13338-2
 
*A.A.シロマニー([[ペマ・ギャルポ]]、内田 圭二、山本 長一、水野 光朗・訳)『ダライ・ラマ14世法王の政治哲学―スピーチ・著作集より』万葉舎、2003、ISBN 4-86050-012-1
 
*宮坂宥洪・訳『ダライ・ラマ 般若心経入門』春秋社、2004、ISBN 4-393-13344-7
 
*マリア・リンチェン訳『Love?愛ってなんだろう』マーブルトロン、2004、ISBN 4-12-390066-6
 
*マリア・リンチェン訳『ダライ・ラマ 慈悲の力』春秋社、2004、ISBN 4-393-13348-X
 
*ジェフリー・ホプキンス・編 ハーディング祥子・訳『ダライ・ラマ 死と向きあう智慧』地湧社、2004、ISBN 4-88503-179-6
 
*沼尻由紀子・訳『思いやりのある生活』光文社、2006、ISBN 4-334-78414-3
 
*マリア・リンチェン訳『思いやり』サンマーク出版、2006、ISBN 4-7631-9721-5
 
*宮坂宥洪・訳『ヒューマン・バリュー―人間の本当の値打ちとは』四季社(チッタ叢書)、2007、ISBN 4-88405-527-6
 
*伊藤真・訳『ダライ・ラマ科学への旅―原子の中の宇宙』サンガ、2007、ISBN 4-901679-42-2
 
*鈴木樹代子・訳『ダライ・ラマ ハートフル・メッセージ』春秋社、2007、ISBN 4-393-13360-9
 
*『傷ついた日本人へ』新潮社、2012、ISBN 978-4-10-610462-6
 
 
 
=== 報道資料 ===
 
*『朝日新聞』2008年4月22日夕刊
 
 
 
== 脚注・出典 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Portal 仏教}}
 
*[[ダライ・ラマ]]
 
*[[チベット仏教]]
 
*[[チベット独立運動]]、[[チベット問題]]
 
*[[ノーベル平和賞]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons&cat|སྐུ་མདུན་|Tenzin Gyatso, 14th Dalai Lama}}
 
*[http://www.tibethouse.jp/ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]
 
**[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_in_japan.html ダライ・ラマ法王 来日履歴]
 
*{{Google+|108551811075711499995|Dalai Lama|page=posts}}{{En icon}}
 
*{{Twitter|DalaiLama|Dalai Lama}}{{En icon}}
 
*{{YouTube channel|dalailama|Dalai Lama}}{{En icon}}
 
*[http://dalailama.com/ ダライ・ラマ公式ホームページ]{{En icon}}
 
*[http://www.mindandlife.org/ Mind&Life Insutitute HP]
 
  
{{先代次代|[[ダライ・ラマ|ダライ・ラマの転生]]|14世:1940年 - |[[ダライ・ラマ13世|トゥプテン・ギャツォ]]|-}}
+
[[チベット人]]の精神的指導者。名はテンジン・ギャツォ。1940年第14世としてポタラで即位。中華人民共和国の成立後,中国の一部としてチベット政府が地域自治を行なうべきだとの呼びかけにこたえなかったため,1950年夏[[中国人民解放軍]]により昌都を占領され,中国の和平解放を受け入れて 1951年5月チベット協定に調印した。1954年北京に赴き,全国人民代表大会常務委員会副委員長に選出される。1956年4月チベット自治区籌備委員会主任委員に就任。1959年3月ラサで起こった中国政府に対する暴動が鎮圧されたため,インドに亡命([[チベット暴動]])。以後インドを基盤にチベット独立運動を指導,1960年代初期亡命政府を樹立。1978年12月中国政府はチベットが中国の一部であることを前提としてダライ・ラマの帰国と交渉を歓迎と発表,ダライ・ラマは代表を北京に送ったが合意にいたらなかった。1987年9月アメリカ合衆国議会で「人権5項目」を発表。同 1987年10月ラサで独立を求める暴動が発生。1988年6月ヨーロッパ議会で「ストラスブール提案」を行ない,中国政府から「半独立」,「変相独立」として拒否された。1989年3月ラサで再度暴動が起こり,中国政府は戒厳令を宣言。1989年ノーベル平和賞を受賞。2011年チベット亡命政府代表の座をロブサン・センゲに禅譲した。([[チベット問題]])
{{ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年)}}
+
{{normdaten}}
 
{{buddhism2}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:たらいらま14}}
 
{{DEFAULTSORT:たらいらま14}}
 
[[Category:チベットの僧]]
 
[[Category:チベットの僧]]

2018/10/30/ (火) 08:35時点における最新版

ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1989年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:非暴力によるチベット解放闘争と、チベットの歴史と文化遺産の保存のための、寛容と相互尊重に基づく平和的解決の提唱

ダライ・ラマ14世1935年7月6日チベット暦5月6日) - 、在位1940年 - )

チベット人の精神的指導者。名はテンジン・ギャツォ。1940年第14世としてポタラで即位。中華人民共和国の成立後,中国の一部としてチベット政府が地域自治を行なうべきだとの呼びかけにこたえなかったため,1950年夏中国人民解放軍により昌都を占領され,中国の和平解放を受け入れて 1951年5月チベット協定に調印した。1954年北京に赴き,全国人民代表大会常務委員会副委員長に選出される。1956年4月チベット自治区籌備委員会主任委員に就任。1959年3月ラサで起こった中国政府に対する暴動が鎮圧されたため,インドに亡命(チベット暴動)。以後インドを基盤にチベット独立運動を指導,1960年代初期亡命政府を樹立。1978年12月中国政府はチベットが中国の一部であることを前提としてダライ・ラマの帰国と交渉を歓迎と発表,ダライ・ラマは代表を北京に送ったが合意にいたらなかった。1987年9月アメリカ合衆国議会で「人権5項目」を発表。同 1987年10月ラサで独立を求める暴動が発生。1988年6月ヨーロッパ議会で「ストラスブール提案」を行ない,中国政府から「半独立」,「変相独立」として拒否された。1989年3月ラサで再度暴動が起こり,中国政府は戒厳令を宣言。1989年ノーベル平和賞を受賞。2011年チベット亡命政府代表の座をロブサン・センゲに禅譲した。(チベット問題




楽天市場検索: