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'''ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ'''({{Lang-ru|'''Со́фья Васи́льевна Ковале́вская'''}}、ローマ字表記 Sofia Vasilyevna Kovalevskaya 、[[1850年]][[1月15日]]([[ユリウス暦]]1月3日)[[モスクワ]] - [[1891年]][[2月10日]](ユリウス暦1月29日)[[ストックホルム]])は、[[ロシア帝国]]の[[数学者]]。愛称は'''ソーニャ'''、コワレフスカヤは'''コヴァレフスカヤ'''とも訳される。[[旧姓]]は'''コールヴィン=クルコーフスカヤ'''({{Lang|ru|'''Корвин-Круковская'''}})。ロシアでは初めて、ヨーロッパを含めても3番目に大学教授の地位を得た女性である。ちなみに1番目は[[ラウラ・バッシ]]、2番目は[[マリア・ガエターナ・アニェージ]]で、いずれもイタリア人である。
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'''ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ'''({{Lang-ru|'''Со́фья Васи́льевна Ковале́вская'''}}、ローマ字表記 Sofia Vasilyevna Kovalevskaya 、[[1850年]][[1月15日]]([[ユリウス暦]]1月3日)[[モスクワ]] - [[1891年]][[2月10日]](ユリウス暦1月29日)[[ストックホルム]])
 
 
== 家族 ==
 
1850年、[[モスクワ]]で生まれる。父は{{仮リンク|ロシア帝国軍|en|Imperial_Russian_Army}}の[[砲兵]]隊将校(のちに[[陸軍]][[中将]]){{仮リンク|ヴァシーリイ・コールヴィン=クルコーフスキイ_(軍人)|label=ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・コールヴィン=クルコーフスキー|ru|Корвин-Круковский,_Василий_Васильевич_(генерал)}}(1800年 - 1874年)であった。彼は[[クリミア・タタール人|タタール]]=[[リトアニア大公国|リトアニア]]=[[ウクライナ]]系の[[貴族]]の家系である{{仮リンク|コールヴィン=クルコーフスキイ家|label=コールヴィン=クルコーフスキー|ru|Корвин-Круковские}}(クリュコーフスキイとも)の一員で、ソフィアがのちに語ったところでは、父ヴァシーリイは自身を[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]](マティアス・コルヴィヌス)とポーランドの勇士クルコフスキの娘のあいだにできた子の遠い子孫であり、ポーランド古来の貴族であると自負していた。[[1858年]]、彼と兄弟らが再三にわたって申請した結果、ロシア政府当局は彼らに貴族としての地位を認め、姓をコールヴィン=クルコーフスキーとして家名に「コールヴィン」([[ラテン語]]の{{Lang|la|Corvus}}: [[カラス]]に由来するクルコフスキ家の紋章)を付け加えることを許可した。ちなみに「クルコーフスキー、クルコフスキ」も[[ポーランド語]]の{{Lang|pl|kruk}}([[ワタリガラス]])が語源である。
 
 
 
母親エリザヴェータ・フョードロヴナ・シューベルトは[[ドイツ人|ドイツ系]]のロシア貴族{{仮リンク|シューベルト家|ru|Шуберты}}の出身で、その父は{{仮リンク|ペテルブルク科学アカデミー|ru|Петербургская_академия_наук}}正会員で{{仮リンク|歩兵大将|ru|Генерал_от_инфантерии}}の{{仮リンク|フョードル・フョードロヴィチ・シューベルト|ru|Шуберт,_Фёдор_Фёдорович}}、祖父はさらに著名なテオドール・シューベルト(ロシア語名{{仮リンク|フョードル・イヴァーノヴィチ・シューベルト|ru|Шуберт,_Фёдор_Иванович}}、ペテルブルク科学アカデミー正会員の[[数学者]]・[[天文学者]])であり、夫よりも教養豊かな女性であった。
 
 
 
姉に[[作家]]で[[パリ・コミューン]]にも参加した[[革命家]]の{{仮リンク|アンナ・コールヴィン=クルコーフスカヤ|label=アンナ|ru|Корвин-Круковская,_Анна_Васильевна}}(1843年 - 1887年)、弟にロシア帝国軍の将軍になる{{仮リンク|フョードル・コールヴィン=クルコーフスキイ|label=フョードル|ru|Корвин-Круковский,_Фёдор_Васильевич}}を持つ。
 
 
 
{{要出典範囲|ソフィアは父方の祖父が[[ポーランド人]]だったこともあり、19世紀当時ロシアに制圧されていたポーランドの[[革命]]運動に対しては、他のロシア人に比べて深い理解を持っていた|date=2011年5月}}。
 
 
 
== 幼少期 ==
 
ソフィアは、幼少期を{{仮リンク|ヴィーチェプスク県|ru|Витебская_губерния}}・{{仮リンク|ネーヴェリ群|ru|Невельский_уезд}}・{{仮リンク|ポリービノ_(プスコフ州)|label=ポリービノ村|ru|Полибино_(Псковская_область)}}(現[[ベラルーシ|ベラルーシ共和国]])で過ごした。幼少期のソフィアが数学に関心を持つようになったきっかけは父と叔父によって与えられた。父は、家の子供部屋の壁紙が足りなくなったときに、軍隊で[[微積分学]]を学んでいたころに使った[[ミハイル・オストログラツキー|オストログラツキー]]の教科書を破いて貼り付けておいたので、ソフィアは数学記号を眺めながら成長することになった。叔父ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・クルコーフスキーは独学で数学を研究したアマチュア数学者だった。ソフィアはこの変わり者の叔父に憧れ、彼から数学を教わり、子供のころから不思議に思っていた記号の意味を理解して関心を深めたという。
 
 
 
しかし、当時のロシアではどれだけ才能があっても女性は大学に入れなかったので(以下に見るように、彼女が功績を成し遂げたのも、それを評価したのもほとんどが外国においてのことであるのはそのためである)、ソフィアの父は彼女に数学の勉強をやめさせてしまった。そのため彼女は、家族が寝静まった夜中に借りてきた[[代数学]]の本などをこっそりと読んでいたという。
 
 
 
ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた[[物理学]]の教授が[[光学]]に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ[[三角関数]]を知らなかったソフィアは自力でそれを解釈しようとした。彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのと同じ方法でそれについて説明してみせたので、仰天した教授は彼女を「[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]の再来」とまで呼び、家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女の父に嘆願し、父も折れたという。
 
 
 
上述のとおり、当時のロシア人女性は国内で高等教育を受けることができなかった。しかも夫や父親の許可証なしに家族と別居して外国へ行くこともできなかったのである。そのため、[[ドイツ]]や[[フランス]]の大学へ留学することに憧れていた上流階級の進歩的な女性たちの間では、やむをえず[[偽装結婚]]する者が多かった。父から許しを貰えるとは考えられなかったのでソーニャも同じ手段をとることにして、1868年、若き[[地質学]]・[[古生物学]]者{{仮リンク|ウラジーミル・オヌーフリエヴィチ・コワレフスキー|ru|Ковалевский,_Владимир_Онуфриевич}}と契約結婚した。
 
 
 
== ヨーロッパの大学へ ==
 
1869年、コワレフスカヤは[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]へ出発するが、ここでも女性の入学は受け付けていないということを知らされる。何とか大学当局へ食い下がり、講師の許可を得た上で非公式の聴講生として受講する許しを得て、[[レオ・ケーニヒスベルガー]]([[:en:Leo Königsberger|Leo Königsberger]])の下で[[楕円関数]]を学ぶ。他に[[グスタフ・キルヒホフ]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]らの[[物理学]]の講義も受け(受講はしていないが[[ロベルト・ブンゼン]]とも知遇を得ている)、3学期間を優秀な成績で修了した。彼らはみな当時珍しかった女性数学研究者の才能に賛嘆している。直接指導に当たったケーニヒスベルガーは、自分の師である[[カール・ワイエルシュトラス]]に対する尊敬の念をつねづね語っていたので、コワレフスカヤはワイエルシュトラスの下で学ぶ決意を固め、1871年に[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]へ向かう。また、元々革命運動に共感していたコワレフスカヤは、この年にパリ・コミューン下の[[パリ]]を訪れ、コミューンの負傷者の看護を行っている。のちには、姉アンナの夫で革命家の{{仮リンク|ヴィクトル・ジャクラル|en|Victor_Jaclard}}の監獄からの救出にも手を貸している。
 
 
 
ワイエルシュトラスははじめコワレフスカヤの弟子入りを断ろうと思い、テストを兼ねて難しい問題を出すが、彼女が難なく解いたのを見てその才能を知り、以後ワイエルシュトラスはコワレフスカヤが早すぎる死を迎えるまで、公私にわたる指導者・協力者となる。ワイエルシュトラスは彼女を自分の講義に迎え入れようとするが、しかしここでも女性であるがゆえに大学評議員会から拒否されたため、コワレフスカヤの家庭教師として、4年間にわたって個人的な薫陶を授ける。
 
 
 
== 全盛期の業績 ==
 
4年間のワイエルシュトラスの指導を受けたコワレフスカヤは研究テーマを3つの論文をまとめ、[[1874年]]、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]からイン・アブセンティア(in absentia;口頭試験の免除)で数学の[[学位]]が授与された。これらの論文のテーマは「[[偏微分方程式]]についての理論」「(それを適用した)[[土星の環]]の形についての研究」「[[アーベル積分]]についての研究」である。特に[[クレレ誌]](''Crelle's Journal'' )に発表された偏微分方程式についての研究は、[[初期値問題]]の解の存在と一意性を示したもので、現在では「[[コーシー=コワレフスカヤの定理]]」として知られる([[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]が[[特異解]]を、コワレフスカヤが[[一般解]]を与えて理論を完成させた)。また「第3種アーベル積分の明瞭なある区分の還元について」と題されたアーベル積分に関する論文は、ワイエルシュトラスの研究を拡張させたもので、アーベル積分をより簡単な楕円積分に帰着される方法を与えている。その後、この論文は1848年に[[Acta Mathematica|アクタ・マセマティカ]]誌に掲載された。
 
 
 
この年、夫ウラジーミルとの仲は契約結婚から本当の結婚になっている。また、同年に彼女はロシアへ戻ったが、この学位とワイエルシュトラスの強い推挙により数学者としての名声は知れ渡っていたにもかかわらず、やはり[[サンクトペテルブルク大学]]で職を得ることはできず、声が掛かった中で最もマシな職は小学校の算数の先生であったという。落胆の上に父の死なども重なったため、コワレフスカヤは気晴らしのため[[社交界]]デビューしたり文学に手を染めたりなどして(コワレフスカヤの文才については「その他」を参照)、以後6年間にわたり数学からは手を引くこととなり、ワイエルシュトラスとの交友も途絶える。容姿が優れていたため社交界では有名になるが、[[1878年]]に娘を産んで周りが静かになったのをきっかけにして再び数学への情熱が目覚める。
 
 
 
[[1880年]]、コワレフスカヤはモスクワへ行くが、大学で博士号試験を受けることは認められなかった。翌年、教授職を得るため彼女はモスクワを去り、ワイエルシュトラスを頼ってベルリンとパリへ向かった。モスクワを去ったのには、事業に失敗して以降彼女と意見の合わなくなっていた夫との別居という意味も含まれていた。
 
 
 
[[1882年]]から彼女は[[結晶]]体における[[光]]の[[屈折]]に関する研究に打ち込み、3本の論文を執筆する(ただし、この論文が依拠していた[[ガブリエル・ラメ]]の研究に含まれているのと同じ誤りをおかしていることが、1916年[[ヴィト・ヴォルテラ]]によって指摘された)。
 
 
 
[[1883年]]3月、[[パリ]]滞在時に夫コワレフスキーが自殺。ショックを受けた彼女は、引きこもり、拒食、失神、目を覚ますと同時に手元のノートに数式を書きなぐる、という荒んだ生活を続けることになったが、同年の秋には立ち直った。
 
 
 
[[1884年]]秋、[[ヨースタ・ミッタク=レフラー|ミッタク=レフラー]]([[スウェーデン]]の数学者。コワレフスカヤと同じくワイエルシュトラスの弟子で、彼の伝記も書いた。[[関数]]論、[[楕円関数]]論、[[アーベル関数]]論など。当時[[ストックホルム大学]]の学長だった)の招聘により、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、のち[[1889年]]にはロシア人女性としては初の大学教授になった。[[ストックホルム]]は彼女の終生の地となる。
 
 
 
終生の地となるストックホルムで教授職を務める一方、アーベル関数についての新しい理論を適用することにより論文『固定点をめぐる[[剛体]]の[[回転]]について』を完成させ、[[1888年]]にこの研究論文に対してパリの[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]から[[ボルダン賞]]が与えられた。この論文の重要性は疑いようもないものだったので、賞金が当初予定されていた3000[[フランスフラン|フラン]]から5000フランに増額されたという。[[1889年]]、この分野における第2の研究成果によって[[スウェーデン王立科学アカデミー|スウェーデン科学アカデミー]]賞を受賞した。また同年、[[パフヌティ・チェビシェフ|チェビシェフ]]らの推挙によってコワレフスカヤはサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーになった。
 
 
 
[[1891年]]、コワレフスカヤはストックホルムで[[インフルエンザ]]と[[肺炎]]を併発し、41歳の若さで没した。
 
 
 
== その他 ==
 
* コワレフスカヤは、[[フョードル・ドストエフスキー]]と知り合って彼に淡い恋心を抱き、注意を引くためにドストエフスキーが好きな[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]の[[ピアノソナタ|ピアノ・ソナタ]]「[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|悲愴]]」の練習までしたが、ドストエフスキーは姉のアンナにしか関心をもたなかったという。
 
* [[1956年]]と[[1985年]]にはソ連でコワレフスカヤの[[伝記]]映画が作られている。
 
* [[ノーベル賞]]に数学賞がないのは、コワレフスカヤに振られた[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]が、彼女と親しいミッタク=レフラー(ノーベル数学賞があったら受賞していたかもしれない)に嫉妬したためではないかという俗説がある。
 
* 晩年には幼少期の思い出をつづった[[自伝]]的小説を執筆しており(ミッタク=レフラーの妹で友人の文学者アン・シャロット・レフラーが執筆協力)、ロシアやスウェーデンをはじめとして世界各国で極めて高い評価を受けている。日本では[[野上彌生子]]による翻訳がある(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想』[[岩波文庫]])。他に[[小説]]と[[戯曲]]が一篇ずつ残されている。
 
* [[トマス・ピンチョン]]がコワレフスカヤを題材にした小説を執筆していると噂された。その後、2006年に発表された『逆光』''Against the Day'' ではコワレフスカヤの名が数度言及され、別の名前の女性数学者が登場する。
 
*カナダの作家[[アリス・マンロー]]の短編作品『あまりに幸せ』([[Too Much Happiness]])はコワレフスカヤを題材にしている。短編集の邦題は別作品からとった『[[小説のように]]』だが、原著のタイトルはこの作品のものである。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*ワロンツォーワ 著、 三橋 重男 翻訳  『コワレフスカヤの生涯―孤独な愛に生きる女流数学者』東京図書 (1985) ISBN 978-4489001376
 
*I. ジェイムズ 著、蟹江幸博 翻訳  『数学者列伝 II オイラーからフォン・ノイマンまで』 シュプリンガー・ジャパン社 (2007年) ISBN 978-4431712022
 
*マイケル・J.ブラッドリー 著、松浦 俊輔 翻訳  『数学を拡げた先駆者たち―無限、集合、カオス理論の誕生』 青土社 (2009年) ISBN 978-4791791736
 
  
== 関連項目 ==
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ロシアの数学者。ストックホルム大教授。ロシア初の女性大学教授。偏微分方程式に関する論文と、ラプラスの土星の環の形状に関する数学的理論により、ゲッティンゲン大学の博士号取得。文学的才能にも恵まれ、「自伝と追想」などを残す。
{{Commonscat|Sofia_Kovalevskaya}}
 
* [[コーシー=コワレフスカヤの定理]]
 
* [[コワレフスカヤのコマ]]
 
  
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[[Category:ロシアの数学者]]
 
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ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤロシア語: Со́фья Васи́льевна Ковале́вская、ローマ字表記 Sofia Vasilyevna Kovalevskaya 、1850年1月15日ユリウス暦1月3日)モスクワ - 1891年2月10日(ユリウス暦1月29日)ストックホルム

ロシアの数学者。ストックホルム大教授。ロシア初の女性大学教授。偏微分方程式に関する論文と、ラプラスの土星の環の形状に関する数学的理論により、ゲッティンゲン大学の博士号取得。文学的才能にも恵まれ、「自伝と追想」などを残す。




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