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{{出典の明記|date=2010年3月}}
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名          =セルジューク朝
 
|日本語国名    =セルジューク帝国
 
|公式国名      ='''{{Lang|fa|آلِ سلجوق}}'''
 
|建国時期      =[[1038年]]
 
|亡国時期      =[[1308年]]
 
|先代1        = サーマーン朝
 
|先旗1        = blank.png
 
|先代2        = ガズナ朝
 
|先旗2        = Old_Ghaznavid_Flag.svg
 
|先代3        = 東ローマ帝国
 
|先旗3        = Simple Labarum2.svg
 
|先旗3縁        = no
 
|次代1        = オスマン帝国
 
|次旗1        = Ottoman Flag.svg
 
|次代2        = ホラズム・シャー朝
 
|次旗2        = blank.png
 
|次代3        = モンゴル帝国
 
|次旗3        = Flag_of_the_Mongol_Empire_2.svg
 
|次旗縁3        = no
 
|国旗画像      =
 
|国旗リンク    = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
 
|国旗説明 =
 
|国旗幅 = <!--初期値125px-->
 
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない-->
 
|国章画像      = Seljuqs Eagle.svg
 
|国章リンク    =
 
|国章説明 =セルジューク朝の紋章
 
|国章幅 =  200px
 
|標語          =
 
|国歌名        =
 
|国歌追記      =
 
|位置画像      =Seljuk Empire locator map.svg|thumb|350px|
 
|位置画像説明  =セルジューク帝国の最大版図, 1092
 
|公用語        = [[ペルシア語]]、[[アラビア語]]、[[オグズ語群|オグズ語]]([[テュルク諸語]]のひとつ)
 
|首都          =[[ニーシャプール]]、[[レイ (イラン)|レイ]]、[[エスファハーン]]、[[コンヤ]]、[[メリヴ]]、[[ジェンド]](正式な首都は判明していない)
 
|元首等肩書    =[[君主]]
 
|元首等年代始1 =[[1038年]]
 
|元首等年代終1 =[[1063年]]
 
|元首等氏名1  =[[トゥグリル・ベグ]](初代)
 
|元首等年代始2 =
 
|元首等年代終2 =
 
|元首等氏名2  =
 
|元首等年代始3 =
 
|元首等年代終3 =
 
|元首等氏名3  =
 
|元首等年代始4 =[[1118年]]
 
|元首等年代終4 =[[1157年]]
 
|元首等氏名4  =[[アフマド・サンジャル]](大セルジューク朝最後)
 
|元首等年代始5 =[[1303年]]
 
|元首等年代終5 =[[1308年]]
 
|元首等氏名5  =[[マスウード2世 (ルーム・セルジューク朝)|マスウード2世]](最後の地方政権のルーム・セルジューク朝の最後)
 
|面積測定時期1 =1080年推定<ref> Rein Taagepera (September 1997). "Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia". International Studies Quarterly. 41 (3): 496. doi:10.1111/0020-8833.00053. Retrieved 13 September 2016</ref>
 
|面積値1      = 3,900,000
 
|面積測定時期2 =
 
|面積値2      =
 
|面積測定時期3 =
 
|面積値3      =
 
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|面積測定時期5 =
 
|面積値5      =
 
|人口測定時期1 =
 
|人口値1      =
 
|人口測定時期2 =
 
|人口値2      =
 
|人口測定時期3 =
 
|人口値3      =
 
|人口測定時期4 =
 
|人口値4      =
 
|人口測定時期5 =
 
|人口値5      =
 
|変遷1        =成立
 
|変遷年月日1  =[[1038年]]
 
|変遷2        =バグダッド入城
 
|変遷年月日2  =[[1055年]]
 
|変遷3        =
 
|変遷年月日3  =
 
|変遷4        =大セルジューク朝滅亡
 
|変遷年月日4  =[[1157年]]
 
|変遷5        =最後の地方政権のルーム・セルジューク朝滅亡
 
|変遷年月日5  =[[1308年]]
 
|通貨          =
 
|注記          =
 
}}
 
{{イランの歴史}}
 
  
'''セルジューク朝''' ({{lang-fa|سلجوقیان}}, [[トルコ語|現代トルコ語]]: {{lang|tr|''Büyük Selçuklu Devleti''}}) は、[[11世紀]]から[[12世紀]]にかけて現在の[[イラン]]、[[イラク]]、[[トルクメニスタン]]を中心に存在した[[イスラム王朝]]。'''大セルジューク朝'''は[[1038年]]から[[1157年]]まで続き、最後の地方政権の'''[[ルーム・セルジューク朝]]'''は[[1308年]]まで続いた。
+
'''セルジューク朝''' ({{lang-fa|سلجوقیان}}, [[トルコ語|現代トルコ語]]: {{lang|tr|''Büyük Selçuklu Devleti''}})  
  
== 概要 ==
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[[オグズ族]]の一分派であるセルジューク・トルコ族の建てたイスラム王朝 (1037~1157) 。 10世紀に族長セルジュークに率いられ,東方からシルダリア下流に移ってきてイスラム化した。その孫[[トグルル・ベグ]]の時代にホラーサーンに進出し,王朝の基礎を築いた。彼は 1055年バグダードに入城して,[[アッバース朝]]カリフからスルタンの称号を受けた。第2代[[アルプ・アルスラン]]は小アジア,シリア,アルメニア,パレスチナに進出。第3代[[マリク・シャー]] (在位 1072~92) の時代に最盛期を迎え,大宰相[[ニザームル・ムルク]]の補佐を得て,軍事的封建制 ([[イクター]] ) を中心に国家体制を整え,多くの公共施設を建設した。セルジューク朝の拡大とその小アジアへの進出とはビザンチン帝国を脅かし,十字軍遠征の起因となった。マリク・シャーの没後,王朝は分裂し,カラ・キタイ ([[西遼]] ) の侵入とオグズの反乱のうちに滅びた。この王朝はイスラム帝国としての統治機構と文化とをもったが,軍事機構にはトルコ的形態が強い。ガザーリーや[[オマル・ハイヤーム]],ニザーミーのような学者,文人を輩出し,ニザーミヤ学院が各地に建てられ,イスラム文化の発展に貢献した。なお,この大セルジューク朝から分裂した小王朝をそれぞれ,ケルマーン・セルジューク朝 (41~1186) ,アナトリア (ルーム) ・セルジューク朝(1077~1307) ,シリア・セルジューク朝 (1078~1117) ,イラク・セルジューク朝 (17~94) と呼ぶ。
[[テュルク系]][[遊牧民]][[オグズ]]の指導者[[セルジューク]]および、彼を始祖とする一族('''セルジューク家''')に率いられた遊牧集団(トゥルクマーン)により建国された。この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家の下に結集した様々な集団の集合体というべきものである。セルジューク族のトルコ国家という意味から、かつては'''セルジューク・トルコ'''や'''セルジューク・トルコ帝国'''、'''セルジューク朝トルコ帝国'''という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。セルジュークは[[テュルク諸語|テュルク語]]による人名を[[アラビア文字]]で記したもの( سلجوق Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音した形で、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Sel&#269;&#252;k)といった。
 
  
== 歴史 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{main|[[:en:Great Seljuq Empire]]}}
 
=== セルジューク朝の勃興 ===
 
王朝の遠祖[[セルジューク]]は、[[オグズ族]]のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『[[シャーナーメ]]』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代の[[トゥーラーン]]の王[[アフラースィヤーブ]]の後裔を名乗る場合が多く見られる)。[[10世紀]]後半頃にセルジュークらの遊牧集団は[[アラル海]]の北方から[[中央アジア]]に入り、アラル海東方の[[ジェンド]](現[[カザフスタン]]領)に拠を構え、南のステップ地帯や丘陵部へ定着して[[遊牧]]生活を送りながら[[イスラム教]]に改宗した。このように遊牧生活を守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語で[[トゥルクマーン]]という。
 
 
 
10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下して[[トゥーラーン]](現[[ウズベキスタン]]・[[タジキスタン]])に入り、[[サーマーン朝]]に仕えて勢力を蓄えた。セルジュークの子のひとり、[[アルスラーン・イスラーイール・イブン・セルジューク|イスラーイール]]は、[[11世紀]]初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらに[[アム川]]を南渡して[[ガズナ朝]]の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]に仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南の[[ホラーサーン]]地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入し略奪が行われるようになった。
 
 
 
一方、トゥーラーンに残ったイスラーイールの甥、[[トゥグリル・ベグ]]をリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配した[[カラハン朝]]と対立して[[1035年]]にアム川を渡り、[[1038年]]に[[ニーシャプール]](現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、[[1040年]]にはガズナ朝の{{仮リンク|マスウード1世 (ガズナ朝)|en|Mas'ud I of Ghazni|label=マスウード1世}}の軍を{{仮リンク|ダンダーナカーンの戦い|en|Battle of Dandanaqan}}で破ってホラーサーンの支配を固めた。
 
 
 
トゥグリル・ベグは[[1042年]]にはアム川下流の[[ホラズム]](現ウズベキスタン西部)を占領し、[[1050年]]には[[イラン高原]]に転進して[[エスファハーン|イスファハーン]]を取り、イランの大部分を手中に収めた。また、[[スルタン]](スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。
 
 
 
[[スンナ派]]の[[ムスリム]](イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、[[バグダード]]にいる[[アッバース朝]]の[[カリフ]]に書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者として[[シーア派]]に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝[[ブワイフ朝]]を討つ、という大義名分を獲得した。[[1055年]]、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式に[[スルタン]]の称号を授与された。同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として[[金曜礼拝]]の[[フトバ]]に詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号が[[イスラム世界]]において公式の称号として初めて認められた。
 
 
 
=== セルジューク帝国 ===
 
{{main|セルジューク帝国|[[:en:Seljuq Empire]]}}
 
 
 
[[1063年]]にトゥグリル・ベグは亡くなり、甥の[[アルプ・アルスラーン]]がスルタン位を継承した。アルプ・アルスラーンは傅役([[アタベク]])の[[ペルシア人]]官僚[[ニザームルムルク]]を宰相([[ワズィール]])として重用し、彼のもとで有力な将軍に対する[[イクター]](徴税権)の授与による軍事組織の整備や、[[マムルーク]](奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却した君主権力の確立が目指された。
 
 
 
アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行って領土を広げ、[[1071年]]には[[マラズギルトの戦い]](マンツィケルトの戦い)で[[東ローマ帝国]]に勝利し、[[皇帝]][[ロマノス4世ディオゲネス]]を捕虜とした。この戦いによって東ローマ帝国の[[アナトリア半島|アナトリア]]方面の防衛が手薄になり、セルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなど多くのテュルク系の人々がアナトリアに流入し、アナトリアのテュルク(トルコ)化が進んだ。
 
 
 
翌[[1072年]]、アルプ・アルスラーンの子[[マリク・シャー]]が、イラン東部の[[ケルマーン]]にセルジューク朝の[[アミール]]として地方政権を立てていた伯父、カーヴルト・ベグのスルタン位を狙った挑戦を破り、スルタン位を継承した。18歳のマリク・シャーは全権をほとんど宰相ニザームルムルクに委ね、君主の仕事は狩猟だけであるといわれたほどであった。大宰相ニザームルムルクの補佐を受けたマリク・シャーの時代に、セルジューク朝の支配は最大領域に広がった。西方ではセルジューク朝の権威はアナトリア、[[歴史的シリア|シリア]]、[[ヒジャーズ]]に及び、東ではトランスオクシアナまで支配下に収め、セルジューク朝は中央アジアから[[地中海]]に及ぶ大帝国へと発展した。しかし、この時期にトゥルクマーンの一集団がファーティマ朝から聖地[[エルサレム]]を占領したことが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、また東ローマ皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]がアナトリアの領土奪回のため[[ローマ教皇]]に対して援軍を要請したため、[[1096年]]の[[第1回十字軍]]が編成されることになる。
 
 
 
版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。
 
 
 
セルジューク朝の地方政権の中では、トゥグリル・ベグが子を残さずに没したときアルプ・アルスラーンと戦って敗北したクタルムシュの子、[[スライマーン・イブン・クタルミシュ|スライマーン]]がアナトリアのトゥルクマーン統御のためマリク・シャーによって送り込まれ、[[1077年]]に[[ニカイア]]を首都として建国した[[ルーム・セルジューク朝]](1077年 - 1308年)が有名である。同じくマリク・シャー期にはマリク・シャーの弟トゥトゥシュにより[[ダマスクス]]に[[シリア・セルジューク朝]](1085年 - 1117年)が立てられ、ルーム・セルジューク朝と抗争した。ケルマーンには、先に触れたカーヴルト・ベグの敗死後も、その子孫が[[ケルマーン・セルジューク朝]](1041年 - 1184年)として存続する。
 
 
 
トゥグリル・ベクによって建国されイラク・イランを中心に支配したセルジューク朝の大スルタン政権は、これらのセルジューク朝地方政権と区別するために、'''大セルジューク朝'''とも呼ばれる。
 
 
 
=== 大セルジューク朝の混乱と終焉 ===
 
[[1092年]]、宰相ニザームルムルクがマリクの妃{{仮リンク|テルケン・ハトゥン|fa|ترکان خاتون (همسر ملکشاه سلجوقی)}}に暗殺され、さらに同年翌月[[マリク・シャー]]が38歳で死ぬと、[[カラハン朝]]の王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳の[[マフムード1世 (セルジューク朝)|マフムード]]を支援する勢力と、12歳の長男[[バルキヤールク]](ベルクヤルク)を支援する故ニザームルムルクの遺臣勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。[[1094年]]にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、[[1099年]]に[[十字軍]]がシリアに到来して[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレムを奪ったとき]]も十分な対応をとることができない状態であった。
 
 
 
さらに、バルキヤールクの異母弟[[ムハンマド・タパル]]らがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。この内紛は、バルキヤールクが[[1104年]]、その子[[マリク・シャー2世]]が[[1105年]]に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。
 
 
 
[[1119年]]に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟[[サンジャル]]が、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、[[イラク・セルジューク朝]](1118年 - 1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、[[1123年]]には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。
 
 
 
サンジャルは[[ガズナ朝]]の都[[ガズナ]]を征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。[[1121年]]には現在の[[アフガニスタン]]に勃興した[[ゴール朝]]を服属させ、[[1130年]]にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗した[[ホラズム・シャー朝]]の[[アトスズ]]を攻撃して屈服させた。こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、[[1141年]]に東方から襲来してカラハン朝を侵食した[[耶律大石]]率いる[[契丹|キタイ人]]の[[西遼]]軍を撃退しようと出撃して[[カトワーンの戦い]]で敗れた。
 
 
 
この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。[[1153年]]、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。[[1157年]]のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。
 
 
 
=== イラクとケルマーンにおけるセルジューク朝の滅亡 ===
 
サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。
 
 
 
一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー)とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、[[アタベク]]たちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。[[1194年]]、ホラズム・シャー朝の[[アラーウッディーン・テキシュ]]はイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・[[トゥグリル3世]]を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に[[1186年]]にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。
 
 
 
ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、[[1243年]]に[[モンゴル帝国|モンゴル]]の支配下に置かれた。ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、[[1308年]]に最後のスルタンが没して消滅した。
 
 
 
== 文化 ==
 
セルジューク朝は出自においてはテュルク系ではあるが、行政ではニザームルムルクを始めとするペルシア系の官僚が活躍し、宮廷の公用語は[[ペルシア語]]であった。宮廷にはペルシア語で詩作する文人が数多く集まり、サロンが形成された。セルジューク朝期の有名な詩人としては、数学者・天文学者としてマリク・シャーに仕えていた[[ウマル・ハイヤーム]](オマル・ハイヤームとも)がよく知られている。著作は、四行詩集『[[ルバイヤート]]』がとくに名高い。
 
 
 
セルジューク朝末期にアゼルバイジャンで生まれた[[ニザーミー]]は[[ペルシア文学]]において物語文学の完成者と言われ、叙事詩体によって『[[ホスローとシーリーン]]』、『[[ライラとマジュヌーン]]』などすぐれた長編作品を残した。
 
 
 
学問の分野では、ファーティマ朝による[[シーア派]]([[イスマーイール派]])の盛んな布教に対して危機感をおぼえた[[スンナ派]]において、[[イスラム法学]]や[[神学]]などのイスラムの諸学問を教える専門の学校、[[マドラサ]]がつくられるようになり、宰相ニザームルムルクによって[[バグダード]]などの主要都市に、宰相の名を冠したニザーミーヤ学院が建設された。この時代にマドラサで教鞭を取った学者の中にイスラムを代表する思想家のひとり、[[ガザーリー]]がいる。
 
 
 
== セルジューク朝の君主一覧 ==
 
'''大セルジューク朝'''(1038年 - 1157年)
 
* [[トゥグリル・ベグ]](1038年 - 1063年)
 
* [[アルプ・アルスラーン]](1063年 - 1072年)
 
* [[マリク・シャー|マリク・シャー1世]](1072年 - 1092年)
 
* [[マフムード1世 (セルジューク朝)|マフムード1世]](1092年 - 1094年)
 
* [[バルキヤールク]](1094年 - 1105年)
 
* [[マリク・シャー2世]](1105年)
 
* [[ムハンマド・タパル]](1105年 - 1118年)
 
* [[アフマド・サンジャル]](1118年 - 1157年)
 
 
 
'''ホラーサーン'''(1097年 - 1157年)
 
* [[アフマド・サンジャル]](1097年 - 1157年)
 
 
 
'''イラク・西イラン'''([[イラク・セルジューク朝]]、1118年 - 1194年)
 
* [[マフムード2世 (セルジューク朝)|マフムード2世]](1118年 - 1131年)
 
* ダーウード(1131年 - 1132年)
 
* [[トゥグリル2世]](1132年 - 1134年)
 
* [[マスウード (イラク・セルジューク朝)|マスウード]](1134年 - 1152年)
 
* マリク・シャー3世(1152年 - 1153年)
 
* ムハンマド2世(1153年-1160年)
 
* スライマーン・シャー(1160年 - 1161年)
 
* [[アルスラーン・シャー]](1161年 - 1176年)
 
* [[トゥグリル3世]](1176年 - 1194年)
 
 
 
'''シリア'''([[シリア・セルジューク朝]]、1085年 - 1117年)
 
* [[トゥトゥシュ]](1085年 - 1095年)
 
* 1095年分割
 
** ダマスカス
 
*** デュカーク(1095年 - 1104年)
 
** アレッポ
 
*** [[リドワーン]](1095年 - 1113年)
 
*** アルプ・アルスラーン(1113年 - 1114年)
 
*** スルターン・シャー(1114年 - 1117年)
 
 
 
'''ケルマーン'''([[ケルマーン・セルジューク朝]]、1041年 - 1187年)
 
* [[カーヴルト・ベグ]](1041年 - 1073年)
 
* ケルマーン・シャー(1073年 - 1074年)
 
* スルターン・シャー(1074年 - 1075年)
 
* フサイン・ウマル(1075年 - 1084年)
 
* トゥーラーン・シャー1世(1084年 - 1096年)
 
* イーラーン・シャー(1096年 - 1101年)
 
* アルスラーン・シャー1世(1101年 - 1142年)
 
* ムハンマド1世(1142年 - 1156年)
 
* トゥグリル・シャー(1156年 - 1169年)
 
* バフラーム・シャー(1169年 - 1174年)
 
* アルスラーン・シャー2世(1174年 - 1176年)
 
* トゥーラーン・シャー2世(1176年 - 1183年)
 
* ムハンマド2世(1183年 - 1187年)
 
 
 
'''アナトリア'''([[ルーム・セルジューク朝]]、1077年 - 1308年)
 
* [[スライマーン・イブン=クタルミシュ]](1077年 - 1086年)
 
* [[クルチ・アルスラーン1世]](1092年 - 1107年)
 
* マリク・シャー・イブン=クルチ・アルスラーン(1107年 - 1116年)
 
* [[マスウード1世 (ルーム・セルジューク朝)|マスウード1世]](1116年 - 1156年)
 
* [[クルチ・アルスラーン2世]](1156年 - 1192年)
 
* [[カイホスロー1世]](1192年 - 1196年)
 
* スライマーン2世(1196年 - 1204年)
 
* クルチ・アルスラーン3世(1204年 - 1205年)
 
* カイホスロー1世(2回目、1205年 - 1210年)
 
* [[カイカーウス1世]](1210年 - 1220年)
 
* [[カイクバード1世]](1220年 - 1237年)
 
* [[カイホスロー2世]](1237年 - 1246年)
 
* カイカーウス2世(1246年 - 1257年)
 
* クルチ・アルスラーン4世(1248年 - 1265年)
 
* カイクバード2世(1249年 - 1257年)
 
* カイホスロー2世(2回目、1257年 - 1259年)
 
* カイホスロー3世(1265年 - 1284年)
 
* マスウード2世(1284年 - 1285年)
 
* カイクバード3世(1285年)
 
* マスウード2世(2回目、1285年 - 1292年)
 
* カイクバード3世(2回目、1292年 - 1293年)
 
* マスウード2世(3回目、1293年 - 1300年)
 
* カイクバード3世(3回目、1300年 - 1302年)
 
* マスウード2世(4回目、1302年 - 1304年)
 
* カイクバード3世(4回目、1304年 - 1308年)
 
* マスウード3世(1308年)
 
 
 
== 系図 ==
 
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== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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セルジューク朝 (ペルシア語: سلجوقیان‎, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti)

オグズ族の一分派であるセルジューク・トルコ族の建てたイスラム王朝 (1037~1157) 。 10世紀に族長セルジュークに率いられ,東方からシルダリア下流に移ってきてイスラム化した。その孫トグルル・ベグの時代にホラーサーンに進出し,王朝の基礎を築いた。彼は 1055年バグダードに入城して,アッバース朝カリフからスルタンの称号を受けた。第2代アルプ・アルスランは小アジア,シリア,アルメニア,パレスチナに進出。第3代マリク・シャー (在位 1072~92) の時代に最盛期を迎え,大宰相ニザームル・ムルクの補佐を得て,軍事的封建制 (イクター ) を中心に国家体制を整え,多くの公共施設を建設した。セルジューク朝の拡大とその小アジアへの進出とはビザンチン帝国を脅かし,十字軍遠征の起因となった。マリク・シャーの没後,王朝は分裂し,カラ・キタイ (西遼 ) の侵入とオグズの反乱のうちに滅びた。この王朝はイスラム帝国としての統治機構と文化とをもったが,軍事機構にはトルコ的形態が強い。ガザーリーやオマル・ハイヤーム,ニザーミーのような学者,文人を輩出し,ニザーミヤ学院が各地に建てられ,イスラム文化の発展に貢献した。なお,この大セルジューク朝から分裂した小王朝をそれぞれ,ケルマーン・セルジューク朝 (41~1186) ,アナトリア (ルーム) ・セルジューク朝(1077~1307) ,シリア・セルジューク朝 (1078~1117) ,イラク・セルジューク朝 (17~94) と呼ぶ。



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