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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-16180, Berlin, Geheimes Staatspolizeiamt.jpg|thumb|right|300px|1934年、[[ベルリン]]、プリンツ・アルプレヒト街8番地のゲシュタポ本部の中央ホール。]]
 
'''ゲハイメ・シュターツポリツァイ'''({{lang-de|Geheime Staatspolizei}}=「秘密国家警察」、[[通称]]'''ゲシュタポ'''、{{lang-de-short|''Gestapo''}}{{#tag:ref|ドイツ語の発音は「ゲスターポ」{{harv|芝健介|1989|pp=98}} と「ゲシュターポ」("{{IPA|geˈstaːpo}}, auch: {{IPA|gəˈʃtaːpo}}", {{Cite book | title = Das Aussprachewörterbuch  | publisher = Duden  | edition = 6  | page = 361}}) がある。ただし日本語においては「ゲシュタポ」と表記されることが多い。|group=#}})は、[[ナチス・ドイツ]]期の[[プロイセン州]]警察、のちドイツ警察の中にあった[[秘密警察]]部門である。
 
  
1939年9月以降、[[ナチス親衛隊]]の一組織であり、警察機構を司る[[国家保安本部]]に組み込まれた。
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'''ゲハイメ・シュターツポリツァイ'''({{lang-de|Geheime Staatspolizei}}=「秘密国家警察」、[[通称]]'''ゲシュタポ'''、{{lang-de-short|''Gestapo''}}{{#tag:ref|ドイツ語の発音は「ゲスターポ」{{harv|芝健介|1989|pp=98}} と「ゲシュターポ」("{{IPA|geˈstaːpo}}, auch: {{IPA|gəˈʃtaːpo}}", {{Cite book | title = Das Aussprachewörterbuch  | publisher = Duden  | edition = 6  | page = 361}}) がある。ただし日本語においては「ゲシュタポ」と表記されることが多い。|group=#}})
  
==概要==
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ナチス・ドイツの秘密国家警察 Geheime Staatspolizeiの略称。 1933年ナチスの政権樹立後,[[H.ゲーリング]]によってプロシア州に創設された。 34年 [[H.ヒムラー]]が長官となり,以後,ドイツ全土に組織を拡大。密告政策と弾圧政策を併用して反対者に対する徹底的弾圧を行い,特にユダヤ人,マルクス主義者を圧殺して,大量虐殺の一翼をになった。[[SS]] (ヒトラー親衛隊) ,強制収容所とともに,ナチス政権独裁の最も野蛮な暴力組織。 36年 SSの一組織である保安警察 SDと一体化され,第2次世界大戦中は占領地のユダヤ人,抵抗運動者,捕虜などに対する最も残忍な取締り機関となった。
[[1933年]][[プロイセン州]]の秘密警察として同州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]が発足させた。[[1934年]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の[[ハインリヒ・ヒムラー]]と[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が指揮権を握り、[[1936年]]に活動範囲を全ドイツに拡大させた。同年に[[保安警察]]の一部局、さらに[[1939年]]には[[国家保安本部]]の第IV局に改組された。
 
  
[[第二次世界大戦]]中には[[ドイツ国防軍]]が占領した[[ヨーロッパ]]の広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における[[反ナチ運動|反ナチ派]]や[[レジスタンス運動|レジスタンス]]、[[スパイ]]などの摘発、[[ユダヤ人]]狩りおよび移送などである。
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== 歴史 ==
 
=== 前史 ===
 
[[1933年]]1月30日、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[ドイツ首相|ドイツ国首相]]に任命され、ドイツ国の政権を獲得した<ref name="阿部(2001)213">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.213]]</ref>。
 
 
 
当時のドイツの首都[[ベルリン]]は、[[共産主義者]]の活動の拠点であり、「'''赤いベルリン'''」と称されることもあるほどであった。ヒトラーは政敵である共産主義者の排除を目論み、腹心の[[ヘルマン・ゲーリング]]をベルリンを州都とする[[プロイセン州]]の[[内務大臣]]に任じた。ドイツでは[[ヴァイマル憲法]]に基づき地方自治が確立され、警察権も中央政府になく州政府に委ねられていた。ゲーリングは早速、警察局長に[[親衛隊中将]][[クルト・ダリューゲ]]を任じるなど警察幹部をナチ党の[[突撃隊|突撃隊員]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊員]]に挿げ替え、[[ドイツ社会民主党]]系のプロイセン州官吏を追放するなどして警察のナチ化を進めた<ref name="ドラリュ(2000)33">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.33]]</ref>。2月6日、ヒンデンブルク大統領は「プロイセンにおける秩序ある統治関係制定のための大統領令」を発令。これはプロイセン州政府の全権限をゲーリングに移譲するものであった<ref name="阿部(2001)217">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.217]]</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-K0108-0501-003, Rudolf Diels.jpg|thumb|right|150px|[[ルドルフ・ディールス]]]]
 
同日、ゲーリングはプロイセン州警察の政治警察部門「1A課 (Abteilung 1A)」の課長にプロイセン州内務省高級官僚[[ルドルフ・ディールス]](彼は当時ナチ党員ではなかった)を任じた<ref name="阿部(2001)217" /><ref name="クランク(1973)271">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.271]]</ref>。この1A課はナチス党政権掌握前の[[ヴァイマル共和政]]時代からプロイセン州警察に存在していた秘密警察部署であり<ref name="ヘーネ(1981)91">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.91]]</ref>、「警察は現行法の枠内で行動する」というプロイセン警察施行令第14条の適用の対象外とされている組織だった<ref name="ヘーネ(1981)91" />。
 
 
 
[[共産主義者]]の仕業とされた[[ドイツ国会議事堂放火事件]]の翌日の1933年[[2月28日]]に国民の権利を大幅に制限する「[[民族及び国家保護のための大統領緊急令]]」([[:de:Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat]]) が、憲法第48条(大統領緊急令規程)により出された。これにより国民は、憲法により保障されていた[[人権]]をほとんど剥奪された。この大統領緊急令の中に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文があった。「強制収容所 (Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁 (Schutzhaft)」という言葉は出てこないのだが、この大統領緊急令が反ナチ党分子を保護拘禁して[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所 (KZ)]]へ送り込む法的根拠となった<ref name="栗原(1997)223">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.223]]</ref><ref>[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.24-25]]</ref><ref>[[#リュビー(1998)|リュビー(1998)、p.15-16]]</ref>。
 
 
 
犯罪者として刑務所へ投獄するためには裁判を経る必要があるが、保護拘禁は「潜在的危険分子」として一時的に拘禁することであるから裁判を行わず、強制収容所へ直行させることができるという利点があった<ref name="栗原(1997)223" /><ref name="ヒルバーグ(1997)下148">[[#ヒルバーグ(1997)下|ヒルバーグ(1997)下巻、p.148]]</ref>。
 
 
 
ゲーリングはこの大統領緊急令の発令後、ただちに[[ドイツ共産党]]員4000人の保護拘禁の逮捕を命じた<ref name="阿部(2001)221">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.221]]</ref>。この命令により3月から4月にかけて2万5000人以上の市民が逮捕されることになったという<ref name="高橋(2000)26">[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.26]]</ref>。
 
 
 
ゲーリングは1933年4月10日に[[フランツ・フォン・パーペン]](ドイツ国副首相)から譲られてプロイセン州首相となっている。
 
 
 
=== プロイセン州秘密警察 ===
 
==== ゲーリングとディールスの指揮下時代 ====
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R97512, Berlin, Geheimes Staatspolizeihauptamt.jpg|thumb|300px|[[ベルリン]]のプリンツ・アルブレヒト街8番地のゲシュタポ本部外観。1933年]]
 
1933年4月26日付通達でゲーリングはプリンツ・アルプレヒト街8番地にあったホテルを接収すると、ここにプロイセン秘密国家警察局{{#tag:ref|「Staat」は州と訳されることが多いが、ドイツ語の文脈では「国家の」を意味する。[[ヴァイマル共和政]]下のプロイセン州 (Freistaat Preußen) は[[ドイツ帝国]]以来の伝統もあり、国家に近い権限を持っていた。|group=#}} (Preußisches Geheimes Staatspolizeiamt) を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった<ref name="阿部(2001)233">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.233]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)92">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.92]]</ref>。これが'''ゲシュタポ'''の原点である。ちなみに「ゲシュタポ」という略称は、郵便局がここのスタンプを作る際、「GESTAPA(ゲシュタパ)」という郵便略号を使ったのが最初である。この頃は秘密国家警察「局(amt)」が「ゲシュタパ」と呼ばれていた{{sfn|芝健介|1989|pp=64}}。その後いつの間にか秘密警察全体が「GESTAPO(ゲシュタポ)」の名で知れ渡るようになったものである<ref name="ヘーネ(1981)92" />。この日に公布された第1ゲシュタポ法は、ゲシュタポを最上位警察とし、その職務は秘匿とし、州内相(ゲーリング)にのみ責任を負うと定めていた<ref name="学研114">[[#学研|『武装SS全史1』、p.114]]</ref>。同日の内相回覧布告により、各[[ドイツの行政管区|県]]毎に秘密国家警察局を補助し、県知事に直属する国家警察部が新設された{{sfn|芝健介|1989|pp=65}}。
 
 
 
秘密国家警察局長、つまりゲシュタポの初代長官 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) には[[ルドルフ・ディールス]]が就任した<ref name="学研114" />。2月22日にプロイセン州内相としてゲーリングが発した補助警察布告により、[[突撃隊]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員が補助警察官として警察の捜査を補助することとなっていたが、4月21日と6月7日の補充規定により、ゲシュタポに対する補助機能は親衛隊のみが担当することとなった{{sfn|芝健介|1989|pp=67}}。
 
 
 
さらに1933年11月30日に「秘密国家警察に関する法」、通称第2ゲシュタポ法が公布され、秘密国家警察局長の上にゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) を置き、長官は州首相(ゲーリング)が兼務するとされた。局長のディールスはゲシュタポ統監 (Inspekteur der Geheimen Staatspolizei) を兼ねることなり、各県の国家警察部は首相の命令下にある統監の直接指揮下におかれることとなった{{sfn|芝健介|1989|pp=68}}。これによりゲシュタポはドイツ国内務省やプロイセン州内務省、各県の指揮下から離れてゲシュタポ長官、すなわちゲーリングの個人的指揮下に置かれる形となった<ref name="学研114" /><ref name="ヘーネ(1981)97">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.97]]</ref><ref name="ドラリュ(2000)81">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.81]]</ref>。また、この時点でゲシュタポは行政訴訟の対象にならないとされ、ゲシュタポの措置に異議を唱えることは不可能になった{{sfn|芝健介|1989|pp=69}}。
 
 
 
なお1933年9月末にはルドルフ・ディールスが一時ゲシュタポ局長を外され、ベルリン警察副長官に左遷されている<ref name="ドラリュ(2000)79">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.79]]</ref>。これはヒンデンブルク大統領の要請によるものであった。大統領の下には各方面からゲシュタポの無法やディールスの不正行為についての直訴が届いていた。これらの直訴にはドイツ国内相[[ヴィルヘルム・フリック]]と[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]が関与していた。フリックはゲーリングがゲシュタポの指揮権を自分から独立した物にしようとしていることに腹を立てていた。一方ヒムラーはゲシュタポの指揮権をゲーリングから奪い取ることを狙っていた{{#tag:ref|内相ヴィルヘルム・フリックがディールス解任に関与していることの情報源は、ジャック・ドラリュ著『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社学術文庫)79ページ。ディールス解任にヒムラーが関与していたことの情報源は、ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)45ページから47ページ。|group=#}}。
 
 
 
ヒムラーの命を受けた[[ヘルベルト・パッケブッシュ]]親衛隊大尉が親衛隊部隊を率いてディールスの自宅を強襲し、彼の共産党との関係や不正の証拠を手に入れようとした<ref name="クランク(1973)58">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.58]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)96">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.96]]</ref>。ディールスは警察を引き連れて急行し、パッケブッシュを逮捕したが、ゲーリングは彼を釈放させ、さらにディールスの自宅にゲーリングの警察が捜査を行い、身に危険を感じたディールスは[[チェコスロヴァキア]]の[[カールスバート]]に身を隠した<ref name="ヘーネ(1981)96" />。ゲーリングが後任としてゲシュタポ局長および統監に据えたのは[[アルトナ]]警察署長[[パウル・ヒンクラー]]であった<ref name="ドラリュ(2000)80">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.80]]</ref>。しかしヒンクラーは、[[アルコール依存症|アルコール中毒者]]で奇行が多く、ゲーリングも10月末には解任せざるを得なくなった。この後、ディールスが呼び戻されて再度ゲシュタポ局長に任命された<ref name="ドラリュ(2000)81">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.81]]</ref>。
 
 
 
ただしディールスは、1933年6月22日には州警察局長クルト・ダリューゲに対し「原則的に将来秘密国家警察局の執行吏はSS(親衛隊)から採用されるべきでしょう」という進言を行っており、親衛隊に迎合する動きも見せていた{{sfn|芝健介|1989|pp=68}}。
 
 
 
==== ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代 ====
 
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の党警察組織である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊 (SS)]]の[[親衛隊全国指導者|全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]と[[SD (ナチス)|親衛隊諜報部 (SD)]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]は、ナチス党政権掌握後、[[バイエルン州]]の政治警察を監督していた。ドイツ国内相[[ヴィルヘルム・フリック]]は、独立傾向のゲーリングと対決するための「実力」を求めて、親衛隊に接近してきた<ref name="ヘーネ(1981)98">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.98]]</ref>。フリックは、1933年11月から1934年1月までにかけてドイツ各州の警察権力をヒムラーに任せていった。ヒムラーの指揮下に入っていないのは[[プロイセン州]]と[[シャウムブルク=リッペ州]] ([[:de:Schaumburg-Lippe|Schaumburg-Lippe]]) の警察だけとなった<ref name="ヘーネ(1981)98" /><ref>[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)、p.76-77]]</ref>。1934年1月30日の「[[ドイツ国再建に関する法]]」により、州の諸高権は国家へ移行し、5月1日には国家の内務省とプロイセン州の内務省が合併された。これ以降プロイセン警察の諸規定が各州に適用される自体が徐々に増加していった{{sfn|芝健介|1989|pp=72}}。
 
 
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|thumb|right|200px|1934年4月20日、[[ベルリン]]。[[ヘルマン・ゲーリング]](右)から「ゲシュタポ長官代理兼ゲシュタポ統監」に任じられる[[ハインリヒ・ヒムラー]](左)。]]
 
フリックと親衛隊からの圧力が強まる中の1934年4月20日、ゲーリングは、ゲシュタポ長官代理とゲシュタポ統監に[[ハインリヒ・ヒムラー]]を任じた{{sfn|芝健介|1989|pp=69}}。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった<ref name="大野(2001)90">[[#大野(2001)|大野(2001)、p.90]]</ref>さらにディールスはライン県知事に転出となり、4月22日、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]がゲシュタポ局長となった{{sfn|芝健介|1989|pp=69}}。
 
 
 
ゲーリングがゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲った理由は諸説あり定かではない。緻密さが要求される警察業務に飽きてしまったとも、自らの名声を秘密警察業務で汚したくなかったともいわれる。ゲーリングのライバルである[[エルンスト・レーム]]以下[[突撃隊]]の隊員たちが「第二革命」を唱えて暴走し始めていたので彼らとの対決のために親衛隊と手打ちする必要があったのではないかともいわれる<ref name="学研114" /><ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.98-99]]</ref>。
 
 
 
ヒムラーはゲシュタポの実質的な運営をハイドリヒにゆだねた<ref name="大野(2001)29">[[#大野(2001)|大野(2001)、p.29]]</ref><ref name="学研115">[[#学研|『武装SS全史1』、p.115]]</ref>。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルプレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった<ref name="大野(2001)89">[[#大野(2001)|大野(2001)、p.89]]</ref>。
 
 
 
1934年6月末の[[長いナイフの夜]]の突撃隊幹部の粛清ではハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが主導的役割を果たしたため、ハイドリヒの指揮下にあるもう一つの組織SDとともにゲシュタポは一連の粛清に深く関与することとなった。ゲシュタポは粛清リストを作成し、さらにその実行である暗殺や処刑にも参加した<ref name="ドラリュ(2000)204">[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.204]]</ref>。ゲシュタポのコマンドは[[エーリヒ・クラウゼナー]]を運輸省内で殺害し、前首相[[クルト・フォン・シュライヒャー]]大将と[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]]少将を殺害した{{sfn|芝健介|1989|pp=70}}。
 
 
 
ハイドリヒは、有能な人材をゲシュタポにかき集めることから始めた。まずバイエルン州警察時代の部下たち、[[ハインリヒ・ミュラー]]、[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー]]、[[ヨーゼフ・マイジンガー]]らをベルリンのゲシュタポへ招集した。さらにベルリンの警察にも目を付け、ベルリンの刑事警察官[[アルトゥール・ネーベ]]を取りたてた。またハイドリヒはドイツ各地から法律家や専門家を集めたが、その中に[[ヴェルナー・ベスト]]博士がいた<ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.181-184]]</ref>。さらに1935年初頭にゲシュタポの機構改革が行われた。各「課 (Abteilung)」を3つの「部 (Hauptabteilung)」に統合することとしたのであった。ゲシュタポは、1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成されることとなり、そのうちゲシュタポ全体の統括と2部の統括をハイドリヒ自身が行い、1部と3部をヴェルナー・ベストが統括した。ハイドリヒの統括する2部は、「マルキシズム」担当課(共産主義者や社会主義者の取り締まり。課長ハインリヒ・ミュラー。)、「反動、非合法活動、教会」担当課(キリスト教会や保守の反ナチ運動取締り。課長フランツ・ヨーゼフ・フーバー。)「NSDAP、堕胎、175頁、純血問題」担当課(ナチ党内反ヒトラー活動、堕胎、同性愛、ユダヤ人との交際取り締まり。課長ヨーゼフ・マイジンガー。)など6つの課から構成されていた<ref>[[#大野(2001)|大野(2001)、p.28-29]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)187">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.187]]</ref>。
 
 
 
1936年2月10日に第3ゲシュタポ法が制定され、以降ゲシュタポの職権はプロイセン州に限らず、全ドイツに及ぶことが定義された。ただしこの法律公布後もゲシュタポは、その正式名称にプロイセン州をふくむドイツ全国を指す「Reichs([[ライヒ]]の)」を冠さず、「Staats」の名称を冠したままであった<ref name="学研114" />。またこの法律によりゲシュタポは法を超越した存在である事が確認された。すなわち裁判所にはゲシュタポの決定が合法であるかどうかの審査権はなく、また裁判所で無罪判決を受けた者であってもゲシュタポは逮捕して「保護拘禁」することが可能となった<ref name="クランク(1973)85">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.85]]</ref>。1936年9月20日にはゲシュタポ局長が各州の政治警察司令官となることが確認された{{sfn|芝健介|1989|pp=72}}。
 
 
 
=== 保安警察・国家保安本部 ===
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R98683, Reinhard Heydrich.jpg|thumb|right|150px|[[ラインハルト・ハイドリヒ]]]]
 
[[1936年]]6月17日、ヒムラーは内相フリックに下属する全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任じられた{{sfn|芝健介|1989|pp=73}}。この地位はすべての警察所管事項を管掌するものであったが、内相の指揮下にあるとは明言されていないものであった{{sfn|芝健介|1989|pp=73}}。6月26日、ヒムラーは州政府の警察権を中央政府に移管させ、政治警察であるゲシュタポと刑事警察(殺人・強盗など凶悪犯罪の捜査にあたる警察機関)の[[刑事警察_(ドイツ)|クリポ]] (KriPo) を'''[[保安警察]]'''(Amt Sicherheitspolizei, 略号: '''Sipo''')として束ね、改めて[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に委ねた(なお[[秩序警察]](オルポ(Orpo)、政治警察でない通常警察)はクルト・ダリューゲに委ねられた)<ref name="クランク(1973)86">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.86]]</ref>{{sfn|芝健介|1989|pp=73}}。
 
 
 
ハイドリヒは保安警察を「行政・法制局」、「政治警察局」、「刑事警察局」の3つに分けた。このうち「政治警察局」がゲシュタポであった。ハイドリヒは政治警察局の局長に[[ハインリヒ・ミュラー]]を据えた。「政治警察局」(ゲシュタポ)は、これまで通り1部(行政・司法)、2部(政治警察)、3部(諜報警察)の3つの部から構成された<ref name="大野(2001)93">[[#大野(2001)|大野(2001)、p.93]]</ref>。
 
 
 
同じくハイドリヒの指揮下にあったナチ党の諜報組織[[SD (ナチス)|親衛隊諜報部 (SD)]]とゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。1935年の段階でゲシュタポ本局の職員の3割がSD隊員であるなど高率であった、プロイセン州全体のゲシュタポ隊員のうちSDは9%に満たなかった(親衛隊員は全体の20%){{sfn|芝健介|1989|pp=80}}。1937年7月1日にハイドリヒは保安警察及びSD長官(Chef der Sicherheitspolizei und des SD、略称CSSD)命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、[[フリーメーソン]]などを専管するとされ、一方ゲシュタポは[[マルクス主義]]、移民、[[国事犯]]を専管とすると定めた。[[教会]]、世界観問題、[[ユダヤ人]]、過激派、[[黒色戦線]]([[ナチス左派]]の[[オットー・シュトラッサー]]の分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている<ref name="学研115" />。しかしSDの独自行動はやまず、1936年の年末に[[アプヴェーア]]([[ドイツ国防軍]]防諜部)とゲシュタポは権限分画を定めた協定を結んでいたが、SDがゲシュタポや官庁に対する監視活動を続け、アプヴェーアは「(SDが)国防上捨て置けない存在」になっていると訴えるほどであった{{sfn|芝健介|1989|pp=83-84}}。
 
 
 
1938年1月には内務省が定めていた「保護拘禁規則」が改定された。これにより保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明確に定められた。また保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定されず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで「予防拘禁 (Sicherungsverwahrung)」{{#tag:ref|「予防拘禁」とは1933年11月以来、ドイツ警察に認められていた「常習的犯罪者」に対する拘束権限である。政治的反対者を対象とする「保護拘禁」とは別物だった。前科2犯以上の「常習的犯罪者」は刑期が終了しても警察の判断で無期限に拘束することができるという制度である<ref name="高橋(2000)40">[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.40]]</ref>。|group=#}}によって強制収容所へ入れていた「反社会分子」をゲシュタポが保護拘禁で強制収容所へ送ることができるようになった<ref>[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.42-43]]</ref>。
 
 
 
ゲシュタポは強制収容所に収容する者の選定権を有したが<ref name="長谷川(1996)50">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.50]]</ref>、収容所そのものの管理権はなかった。これはヒムラーに直属する[[テオドール・アイケ]](戦時中には[[リヒャルト・グリュックス]])の指揮下にある[[親衛隊髑髏部隊]]にあった。ハイドリヒは強制収容所の管理権を欲しがり、その種の工作をしていたが、ハイドリヒへの権力集中を恐れていたヒムラーは最後までこれを認めなかった<ref name="クランク(1973)138">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.138]]</ref><ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.204-207]]</ref>。
 
 
 
1938年1月から2月に保安警察は国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]][[上級大将]]の失脚事件([[ブロンベルク罷免事件]])に関与した<ref>[[#大野(2001)|大野(2001)、p.37-39]]</ref><ref>[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.102-104]]</ref><ref>[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.239-247]]</ref>。
 
 
 
[[1938年]][[6月23日]]には保安警察の警察官はすべて親衛隊に入隊せねばならない旨の政令が出され、ゲシュタポと党との一体化が進んだ<ref name="クランク(1973)86">[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.86]]</ref>。11月11日にはSDが保安警察を支持するため国家の命令に従うという内相布告が行われ、SDの再編問題が課題となりつつあった。[[1939年]][[9月27日]]にはヒムラーの布告により国家機関である保安警察とSDがハイドリヒを長官とする[[国家保安本部]](親衛隊の組織)の下に束ねられた<ref name="大野(2001)15">[[#大野(2001)|大野(2001)、p.15]]</ref>。'''SD'''は同本部の第二局 (世界観調査)、第三局(内国情報)、第六局(外国情報)に分割され、'''ゲシュタポ'''は第IV局 (Amt IV)、[[刑事警察_(ドイツ)|クリポ]]は第V局 (Amt V) に配された{{sfn|芝健介|1989|pp=86-87}}。国家機関と党機関の区別はなくなり、ナチ党が国家機関を飲み込んだ型になった。ハイドリヒは公式には国家保安本部長官ではなく保安警察とSD長官を名乗った{{sfn|芝健介|1989|pp=87}}。これは国家と党の両方からの介入を受けないための措置であった。ここに国家・党を上回り、[[総統]]のみに直属する執行機関が成立した{{sfn|芝健介|1989|pp=87}}。ゲシュタポは国家保安本部の一部局となり、ハインリヒ・ミュラー局長の下に1職員数は約4万5000人に膨張した(1943年の最大規模時)<ref name="テーラー(1993)71">[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.71]]</ref>。このミュラーは「ゲシュタポ・ミュラー」の異名を取るようになった<ref name="長谷川(1996)46">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.46]]</ref>。
 
 
 
=== 戦時中 ===
 
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-R98680, Besprechung Himmler mit Müller, Heydrich, Nebe, Huber.jpg|thumb|250px|左から[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー]]、[[アルトゥール・ネーベ]]、[[ハインリヒ・ヒムラー]]、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]、[[ハインリヒ・ミュラー]]。1939年11月、[[ミュンヘン]]にて]]
 
[[第二次世界大戦]]中、一時ドイツは[[ヨーロッパ]]のほぼ全域を占領下におさめ、ゲシュタポの活動もヨーロッパ中に拡大されることとなった。戦時中のゲシュタポは、ドイツ国内でも[[ドイツによるヨーロッパ占領|占領地]]でも保護拘禁と強制収容所移送を徹底した。特に1941年6月に[[独ソ戦]]がはじまると[[東ヨーロッパ]]でそれは顕著となった<ref>[[#長谷川|長谷川、p.114-115]]</ref>。並行して国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]を組織し、東部戦線で「保安的警察措置」と称した反体制派やユダヤ人の銃殺活動を行っていた。第二局局長を務めた[[フランツ・ジックス]]は後に「ユダヤ系住民を部隊の安全にとって危険な存在とは思っていなかった」と証言しており、実態は治安活動ではなく[[ジェノサイド]]の実行であった{{sfn|芝健介|1989|pp=92}}。
 
 
 
1941年12月に[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部]]総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥は「[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]」と呼ばれる法令の布告を行った。占領地で危険分子とみられた人物はゲシュタポによって「夜と霧」の中に消され、その消息は家族には一切通達されない旨が定められた<ref name="テーラー(1993)285">[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.285]]</ref><ref>[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.118-119]]</ref>。
 
 
 
1942年1月20日にハイドリヒはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画を策定するために[[ヴァンゼー会議]]を主催した。会議には各省の次官の他、ハインリヒ・ミュラー[[親衛隊中将]](ゲシュタポ局長)や[[アドルフ・アイヒマン]][[親衛隊中佐]](ゲシュタポ・ユダヤ人課課長)などゲシュタポ幹部が出席した。絶滅政策は1941年代からすでに始まっていたが、この会議がヨーロッパ・ユダヤ人1100万人の絶滅を初めて公式に取り扱った会議となった<ref name="阿部(2001)535">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.535]]</ref>。ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅が決定されると、アドルフ・アイヒマンの指揮の下にヨーロッパ中のユダヤ人が列車に詰め込まれて移送され、[[絶滅収容所]]や強制収容所へ送り込まれるようになった<ref>[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.185-186]]</ref>。
 
 
 
1942年6月4日、イギリスの支援を受けた[[チェコ人]][[工作員]]による襲撃([[エンスラポイド作戦]])を受けたハイドリヒがその時の負傷が原因で死去した。親衛隊とゲシュタポは報復として[[リディツェ]]・[[レジャーキ]]両村の壊滅を含めたチェコ人虐殺を行っている。1943年1月からは[[オーストリア・ナチス]]出身の[[エルンスト・カルテンブルンナー]]が代わって国家保安本部長官となった。
 
 
 
戦局が悪化する中、反体制分子の監視を強める必要性が強まり、ゲシュタポの権力は肥大化し、ヒムラーですらゲシュタポの影に悩まされることになった。著名なロケット技術者の[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]が、無断で有人ロケット開発の資金繰りをしているという情報を掴み、ゲシュタポは彼を逮捕し、処刑しようとしたが、ヒトラーの仲介により取り止めになっている。その際、ヒトラーはフォン・ブラウンに「私でも説得するのに苦労したよ」と言ったという。
 
 
 
一方でユダヤ系の男性と結婚した女性が、配偶者の解放を求めた{{仮リンク|ローゼンシュトラーセ抗議|en|Rosenstrasse protest}}では、女性達の抗議に屈して彼らを解放するという例外的なケースも存在する{{sfn|芝健介|1989|pp=106}}。
 
 
 
=== 戦後 ===
 
[[File:Topographie des Terrors Neubau.jpg|thumb|right|200px|ゲシュタポ本部跡の博物館「テロのトポグラフィー」]]
 
1945年5月の[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]においてゲシュタポは軍や親衛隊とともに武装解除を命令された。[[ニュルンベルク裁判]]ではゲシュタポは「[[人道に対する罪]]」で告発された6組織(他にナチス指導部、国防軍最高司令部、親衛隊、[[突撃隊]]、ヒトラー内閣)の一つとなった<ref name="テーラー(1993)72">[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.72]]</ref>。弁護側は「ゲシュタポは通常国にある政治警察と変わらない」「ヒムラーが警察長官となっても各州の警察はなんら影響を受けていない」と反論したが{{sfn|芝健介|1989|pp=95-96}}、認められず、有罪が宣告された。
 
 
 
この認定により1939年9月1日以降にゲシュタポ隊員であったものは犯罪組織成員として扱われ、各種の[[非ナチ化]]法廷にかけられることとなった。しかし一部の構成員はその経験や能力を買われ、第2次大戦後の東西両ドイツの警察機構に残る者、東側諸国では[[シュタージ]]等、西側では[[BND]]、[[中央情報局|CIA]]等の構成員となり、中東や南米では治安機関の育成にあたった。ゲシュタポ局長だったミュラーは姿を消し、現在まで行方不明である<ref name="テーラー(1993)72" />。
 
 
 
プリンツ・アルプレヒト街にあったゲシュタポ本部は、1945年2月の空襲と同年4月の[[ベルリン市街戦]]で廃墟となった。ベルリン分断後には[[ベルリンの壁]]が建てられ、40年近くそのままであった。ドイツ再統一後の1990年代に整地、「{{仮リンク|恐怖政治の見取図|de|Topographie_des_Terrors}}(テロのトポグラフィー)」というオープンエアの[[博物館]]となった。
 
 
 
== 捜査手法 ==
 
[[ファイル:Gestapo anti-gay telex.jpg|thumb|right|150px|'''ゲシュタポの保護拘禁(Schutzhaft)書'''(1940年9月5日付)は同性愛者として賜暇中の海軍兵士に接近したHans Retzlaffを[[ザクセンハウゼン強制収容所]]に収容するよう命じている。]]
 
ドイツ国内や占領地域において、[[ナチス・ドイツ]]の[[暴力の独占|暴力装置]]として機能し、普通の人たちにまぎれて「[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]」と呼ばれる深夜から夜明けにかけての予期せぬ突然の逮捕、厳しい訊問や残酷な拷問、劣悪な待遇や拘禁などで知られ、ヨーロッパ中を震え上がらせた。これは、人材の配分が[[武装親衛隊]]、[[ドイツ国防軍|国防軍]]、警察の順になっていたため、ゲシュタポに回ってくるのが社会的不適格者が多かったのが原因とも言われている。ゲシュタポ要員は、その身なりも黒い外套や手袋、黒眼鏡などを用いて人々に不吉な印象を与え、恐怖心を煽るためにやや芝居がかった茶番劇のような手法をとった。さらに粗暴、野蛮さ、気まぐれな振る舞い、怠け癖、皮肉な態度や、時には欺瞞的な温容ささえ示して、思いのままに被疑者を調べ上げる権限を行使した。そのような彼らに対して、ドイツ国民は諦めの気持ちで従順に従った。個人で抵抗するにはあまりにも危険な組織であった。また、国外に逃亡したとしても、ゲシュタポの目からは逃れられなかった。ゲシュタポ構成員は、世界各国のドイツ大使館に派遣され、海外に亡命した反ナチスのドイツ人やユダヤ人の監視・摘発の任務に当たっていた。
 
 
 
== 組織 ==
 
国家保安本部 第IV局(ゲシュタポ)
 
* IV A : マルクス主義者、共産主義者、反動主義者、自由主義者等、ナチズムの敵。サボタージュに対する措置及び総合保安措置。その構成下に6班を有した。
 
* '''IV B''' : カトリック及びプロテスタント教会の政治活動、その他宗教会派、ユダヤ人、フリーメーソン。5班に分かれた。'''[[アドルフ・アイヒマン]]'''はIV B4('''第IV局B課4班''')に所属。
 
* IV C : 強制収容。予防拘束。出版。党業務。ファイルの作成。カード。
 
* IV D : 占領地。在独外国人労働者
 
* IV E : 防諜課。6班
 
** IV E1 : 一般防諜及び工場施設における防諜
 
** IV E2 : 一般経済問題
 
** IV E3 : 西欧諸国
 
** IV E4 : 北欧諸国
 
** IV E5 : 東欧諸国
 
** IV E6 : 南欧諸国
 
* IV F : パスポート。身分証明。外国人監督警察
 
* IV G : 国境警察。
 
 
 
== 階級 ==
 
ゲシュタポは、先輩機関である[[刑事警察 (ドイツ)|クリポ]]と同様な階級制を採用した。文献にしばしば引用される階級は太文字で表記する。<!--訳語については括弧内は対応する陸軍の階級から推測して欲しい。-->
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! エージェント
 
! 管理官
 
! [[秩序警察]]同階級
 
! [[親衛隊 (ナチス)|SS]]同階級
 
|-
 
|
 
|'''Regierungs- u. Kriminaldirektor'''<br />'''Reichskriminaldirektor'''
 
|Oberst d. Polizei
 
|Standartenführer([[親衛隊大佐]])
 
|-
 
|
 
|'''Oberregierungs- u. Kriminalrat'''
 
|Oberstleutnant d. Polizei
 
|Obersturmbannführer([[親衛隊中佐]])
 
|-
 
|'''Kriminalrat'''<br />'''Kriminaldirektor'''
 
|'''Regierungs- und Kriminalrat'''
 
|Major d. Polizei
 
|Sturmbannführer([[親衛隊少佐]])
 
|-
 
|'''Kriminalinspektor'''<br />''Kriminalrat auf Probe''
 
|'''Kriminalassessor'''
 
|Hauptmann d. Polizei
 
|Hauptsturmführer([[親衛隊大尉]])
 
|-
 
|'''Kriminalkomissar'''<br />''Kriminalinspektor auf Probe''
 
|'''Kriminalobersekretär'''
 
|Oberleutnant d. Polizei
 
|Obersturmführer([[親衛隊中尉]])
 
|-
 
|''Kriminalkomissar auf Probe''
 
|'''Kriminalsekretär'''
 
|Leutnant d. Polizei
 
|Untersturmführer([[親衛隊少尉]])
 
|-
 
| -
 
| -
 
|Meister
 
|Sturmscharführer([[親衛隊特務曹長]])
 
|-
 
|'''Kriminaloberassistent'''
 
|
 
|Hauptwachtmeister
 
|Hauptscharführer([[親衛隊上級曹長]])
 
|-
 
|'''Kriminalassistent'''
 
|
 
|Revieroberwachtmeister
 
|Oberscharführer([[親衛隊曹長]])
 
|-
 
|''Kriminalassistent auf Probe''
 
|
 
| Oberwachtmeister
 
| Scharführer([[親衛隊軍曹]])
 
|-
 
|''Kriminalassistentanwärter''
 
|
 
|Wachtmeister
 
|Unterscharführer([[親衛隊伍長]])
 
|-
 
|}
 
 
 
== 構成員数 ==
 
14部時代の秘密警察部にはわずか14名が所属していた。ディールスの局長就任時には40名に増加し、1935年には本局勤務だけで600名を超えていた。1939年10月ごろにはゲシュタポ全体で2万名を数え、うち3000人がSD隊員であった{{sfn|芝健介|1989|pp=104}}。
 
 
 
== 制服 ==
 
どのような制服を着用するかは、ほぼ毎年変更・改訂が加えられたため一概に言えないが[[親衛隊保安部]](SD)とほぼ同じだった。違う点はカフタイトルを付けていないという点と、SDスリーブダイヤモンドに銀色の縁取りを付けているところだ。ベースとなる制服は1932年〜1938年までは1932年型勤務服(通称黒服)、以降は1938年型勤務服だが、1942年にヒムラーから「国家保安本部勤務の者はSS隊員・非SS隊員にかかわらず1932年型勤務服の着用は認めない」と着用禁止令を出されるほどだったのでまだ黒服を着用している者が多かった。
 
襟章については右襟がブランクのものでこれもSDのものと共通である。肩章はSD・[[保安警察]]では1931年〜1938年まで一般SS用のもので以降は陸軍型のものに変わった。これは黒台布は廃止されその上にグリーン台布のものだった。つまりSD/保安警察将校の場合は警察将校と同じものだった。
 
1941年8月には[[武装親衛隊]]と同様となり黒台布の上にグリーン台布の物となった。しかしこれは武装親衛隊の山岳兵科や装甲偵察兵科と混同するので1942年5月に再び警察型に変更されたがこれは兵・下士官のみが対象だったので将校は変更はなかった。したがって出動要請をされる[[保安警察]]は下士官・兵クラスで構成され、さらにはSDは大方が将校だったので変更されたのはゲシュタポと刑事警察で構成された現場の保安警察のみということになる。
 
このようにゲシュタポとその他の親衛隊機関(特にSD)の見た目での区別を非常に分かりくくすることにより、すぐにゲシュタポ隊員と分からないようにする目的があった。
 
しかし、制服を着るか私服を着るかは個人の自己判断のため制服着用を義務づけられることはなかった。
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{reflist|group=#|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[大野英二]]著|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[栗原優]]著|year=1997|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原(1997)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[エドゥアルト・クランクショウ]]([[:en:Edward Crankshaw|en]])著|translator=[[渡辺修]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}|year=1973|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク(1973)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ゲリー・S・グレーバー]]([[:en:Gerry S. Graber|en]])|translator=[[滝川義人]] |year=2000|title=ナチス親衛隊|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887214132|ref=グレーバー(2000)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[高橋三郎 (社会学者)|高橋三郎]]著|year=2000|title=強制収容所における「生」|publisher=[[世界思想社]](新装版)|isbn=978-4790708285|ref=高橋(2000)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジェームス・テーラー]]([[:en:James Taylor|en]])、[[ウォーレン・ショー]]([[:en:Warren Shaw|en]])|translator=[[吉田八岑]]|year=1993
 
|title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー(1993)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジャック・ドラリュ]]([[:fr:Jacques Delarue |fr]])著|translator=[[片岡啓治]]|year=1968|title=ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究|publisher=[[サイマル出版会]]|ref=ドラリュ(1968)}}
 
**{{Cite book|和書|author=ジャック・ドラリュ著|translator=片岡啓治|year=2000|title=ゲシュタポ・狂気の歴史|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594333|ref=ドラリュ(2000)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[長谷川公昭]]著|year=1996|title=ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794207401|ref=長谷川(1996)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ルパート・バトラー]]([[:de:Rupert Butler|de]])著|translator=[[田口未和]]|year=2006|title=ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ;恐怖と狂気の物語|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039760|ref=バトラー(2006)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ]]著|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ(1981)}}
 
**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ(2001)上}}
 
**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ(2001)下}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ロジャー・マンベル]]著|translator=[[渡辺修]]|year=1971|title=ゲシュタポ―恐怖の秘密警察とナチ親衛隊|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|ref=マンベル(1971)}}
 
**{{Cite book|和書|author=ロジャー・マンベル著|translator=渡辺修|year=1984|title=ゲシュタポ―恐怖の秘密警察とナチ親衛隊|publisher=[[サンケイ出版]](上記文庫)|isbn=978-4383023566|ref=マンベル(1984)文庫}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=2010|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ウォルター・ラカー]]著|translator=[[井上茂子]]・[[木畑和子]]・[[芝健介]]・[[長田浩彰]]・[[永岑三千輝]]・[[原田一美]]・[[望田幸男]]|year=2003|title=ホロコースト大事典|publisher=柏書房|isbn=978-4760124138|ref=ラカー(2003)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[マルセル・リュビー]]著|translator=[[菅野賢治]]|year=1998|title=ナチ強制・絶滅収容所 <small>18施設内の生と死</small>|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480857507|ref=リュビー(1998)}}
 
*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史1|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|coauthors  = [[井上茂子]]、[[木畑和子]]、[[矢野久]]、[[永岑三千輝]]|date= 1989年|title= 1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦|publisher  =同文舘出版|chapter=国家保安部の成立|isbn= 978-4495853914|ref=harv}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|3}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:けしゆたほ}}
 
{{DEFAULTSORT:けしゆたほ}}
 
[[Category:ナチス・ドイツの政治]]
 
[[Category:ナチス・ドイツの政治]]

2019/6/13/ (木) 15:44時点における版

ゲハイメ・シュターツポリツァイドイツ語: Geheime Staatspolizei=「秘密国家警察」、通称ゲシュタポ: Gestapo[# 1]

ナチス・ドイツの秘密国家警察 Geheime Staatspolizeiの略称。 1933年ナチスの政権樹立後,H.ゲーリングによってプロシア州に創設された。 34年 H.ヒムラーが長官となり,以後,ドイツ全土に組織を拡大。密告政策と弾圧政策を併用して反対者に対する徹底的弾圧を行い,特にユダヤ人,マルクス主義者を圧殺して,大量虐殺の一翼をになった。SS (ヒトラー親衛隊) ,強制収容所とともに,ナチス政権独裁の最も野蛮な暴力組織。 36年 SSの一組織である保安警察 SDと一体化され,第2次世界大戦中は占領地のユダヤ人,抵抗運動者,捕虜などに対する最も残忍な取締り機関となった。



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