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[[Image:Ctesiphon.jpg|thumb|right|300px|[[ホスローのイーワーン]]]]
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'''クテシフォン'''('''Ctesiphon'''
'''クテシフォン'''('''Ctesiphon''')は[[イラク]]にある[[古代]][[都市]]の[[遺跡]]。[[バグダード]]の南東、[[チグリス川]]東岸に位置する。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[紀元前1世紀]]頃にこの地域一帯を支配した[[パルティア|パルティア王国]]によって建造され、その首都として栄えた。古代より豊かな土壌で知られた[[メソポタミア]]の中心として、また東西交易の重要な中継地としての役割を担い、パルティア滅亡後に[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]の時代になっても首都が置かれて政治と経済の中心地であり続けた。イスラム支配期以降は衰え、廃墟となった。
 
 
 
砂漠地帯に多い日干し[[煉瓦]]や、[[ローマ]]の[[水道橋]]などに見られるアーチを組む技術など、まさに東西の交易の中心地らしい遺跡が数多く残っている。
 
 
 
== 呼称 ==
 
チグリス川を挟んで対岸にあった[[セレウキア]](セレウケイア)と併せて'''クテシフォン・セレウキア'''などとも称する。クテシフォンの名は古代ギリシア語の[[wikt:Κτησιφῶν|Κτησιφῶν]]に由来する。''Ktēsiphôn''はギリシア語化された発音であり、''Tosfōn'' または ''Tosbōn''という発音を復元音とする説がある<ref>''E.J. Brill's First Encyclopaedia of Islam 1913–1936'', Vol. 2 (Brill, 1987: ISBN 90-04-08265-4), p. 75.</ref>。中期ペルシア語([[パフラヴィー語]])やマニ教文書、ソグド語で記載されたキリスト教文書では Tyspwn / Tīsfōn と記載され、近世ペルシア語では تيسفون (''tysfyn'')と表記される。シリア語では{{lang|syr|ܩܛܝܣܦܘܢ}} {{transl|syc|Qṭēsfōn}}と記載された。[[アッバース朝]]以降の[[アラビア語]]資料では طيسفون (''Ṭaysafūn'') または قطيسفون (''Qaṭaysfūn'')と表記され、更に「都市( مدينة Madīna)」の複数形である「アル=マダーイン」 المدائنal-Madā’in とも呼ばれた。アルメニア語史料では''Tizbon'' [[wikt:Տիզբոն|(Տիզբոն)]]と表記された。クテシフォンが登場する最初の史料は[[旧約聖書]] の[[エズラ書]]<ref>Ezra 8:17</ref>であり、Kasfia/Casphiaと表記された。
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[Image:Seleucia map.png|thumb|right|240px|クテシフォン・セレウキア(al-Madā’in)の全体図]]
 
クテシフォンは紀元前1世紀のパルティア王国の時代に脚光を浴びるようになり、ほとんどの王はここを都とした。その重要性のために、ローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または[[東ローマ帝国]])により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。[[トラヤヌス]]帝は[[116年]]にクテシフォンを占領したが、1年後に[[ハドリアヌス]]帝は和平のために返還せざるを得なかった。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは[[164年]]、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。[[197年]]、[[セプティミウス・セウェルス]]帝はクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。
 
 
 
3世紀のはじめに[[サーサーン朝]]がパルティアに取って代わると、クテシフォンは再びローマとの係争地となった。[[295年]]、[[ガレリウス]]帝はクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンを[[ナルセ1世]]に返還した。[[325年]]ごろと[[410年]]、クテシフォン(または対岸のギリシャ人入植地)で[[アッシリア東方教会]]の会議が開催された。
 
 
 
[[363年]]、[[ユリアヌス]]帝は[[シャープール2世]]との戦争中に、クテシフォンの市壁の外で死んだ。
 
 
 
[[627年]]、[[ニネヴェの戦い (627年)|ニネヴェの戦い]]でサーサーン朝に勝利した東ローマ帝国の[[ヘラクレイオス]]帝がサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。[[637年]]、[[正統カリフ]]・[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]の時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻した{{仮リンク|サアド・ブン・アビー=ワッカース|en|Sa`d ibn Abi Waqqas}}が率いる部隊はサーサーン朝最後の君主[[ヤズデギルド3世]]が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、[[カーディシーヤの戦い]]において勝利した。サアド率いるムスリム軍はチグチス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はとチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。征服によって人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地がほかに移り、8世紀始めに[[アッバース朝]]の首都が[[バグダード]]に定められると、都市は急速に衰え、やがて[[ゴーストタウン]]となった。『[[千夜一夜物語]]』に現れる都市「{{仮リンク|イスバニル|en|Isbanir}}」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667-79夜)。
 
 
 
[[1915年]]11月、クテシフォンの遺跡は[[第一次世界大戦]]の戦場となった({{仮リンク|クテシフォンの戦い (1915年)|en|Battle of Ctesiphon (1915)|label=クテシフォンの戦い}})。[[オスマン帝国]]軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ペルセポリス]]
 
* {{仮リンク|ビシャプール|en|Bishapur}}
 
* {{仮リンク|フィルザバード|en|Firouzabad}}
 
*[[ヘカトンピュロス]]
 
*[[ネストリウス派]]
 
  
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バグダードの南東約 40kmのチグリス河岸にあった古代都市。前2世紀[[パルティア帝国]]によって軍事基地として建設され,その後冬の都として発展。前1世紀[[オロデス2世]]のとき,同国の首都となる。2世紀に入ってしばしばローマ軍の侵入を受けたが,226年[[ササン朝]]の[[アルダシール1世]]によって占領され,以後同朝の首都として繁栄。 637年アラブによって占領され,8世紀バグダードの発展とともに衰退した。現在,「ターケ・キスラー」と呼ばれる巨大なボールト天井をもつササン朝期の宮殿遺跡が残っている。
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2018/10/27/ (土) 17:20時点における版

クテシフォンCtesiphon

バグダードの南東約 40kmのチグリス河岸にあった古代都市。前2世紀パルティア帝国によって軍事基地として建設され,その後冬の都として発展。前1世紀オロデス2世のとき,同国の首都となる。2世紀に入ってしばしばローマ軍の侵入を受けたが,226年ササン朝アルダシール1世によって占領され,以後同朝の首都として繁栄。 637年アラブによって占領され,8世紀バグダードの発展とともに衰退した。現在,「ターケ・キスラー」と呼ばれる巨大なボールト天井をもつササン朝期の宮殿遺跡が残っている。



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