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'''ウィーン'''<!--または'''ヴィーン'''--><ref>[[日本語]]表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準[[ドイツ語]]での[[W]]の発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近い。[[バイエルン・オーストリア語]]では[[:bar:Wean|'''Wean''']](ヴェアン、[[ドイツ語#方言]]を参照)と発音される。なお、漢字による当て字では'''維納'''と表記される。</ref>(標準{{lang-de-short|'''Wien'''}}〈ヴィーン〉、{{lang-bar|'''Wean'''}}〈ヴェアン〉、{{lang-fr-short|Vienne}}〈ヴィエンヌ〉、{{lang-en-short|Vienna}}〈ヴィエナ〉)は、[[オーストリア]]の[[首都]]。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、[[ヨーロッパ]]有数の[[世界都市]]である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは[[ドイツ連邦]]や[[神聖ローマ帝国]]を通じて形式上はドイツ民族全体の[[帝都]]でもあった。[[クラシック音楽]]が盛んで過去に[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]など、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる<ref> 和田奈津子・萩岩睦美『マリア・フォン・トラップ』集英社〈世界の伝記NEXT〉、2012年、14頁。</ref>。
+
'''ウィーン'''<!--または'''ヴィーン'''--><ref>[[日本語]]表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準[[ドイツ語]]での[[W]]の発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近い。[[バイエルン・オーストリア語]]では[[:bar:Wean|'''Wean''']](ヴェアン、[[ドイツ語#方言]]を参照)と発音される。なお、漢字による当て字では'''維納'''と表記される。</ref>(標準{{lang-de-short|'''Wien'''}}〈ヴィーン〉、{{lang-bar|'''Wean'''}}〈ヴェアン〉、{{lang-fr-short|Vienne}}〈ヴィエンヌ〉、{{lang-en-short|Vienna}}〈ヴィエナ〉)
 
 
== 概要 ==
 
[[ファイル:LocationWien.jpg|thumb|'''ウィーンの位置''' 左のアルプス山脈と右のカルパティア山脈(図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもある]]
 
[[ファイル:Wien in Austria.svg|thumb|オーストリアにおけるウィーンの位置]]
 
[[ファイル:Stadtteile von Wien entlang der Donau (gesehen von Nordwesten).jpg|thumb|'''ウィーン市街の遠景''' 左に国際機関本部の集積地([[ウィーン国際センター]])があり、ドナウ川をはさんで赤い屋根の旧市街が広がる。南を向いて撮影]]
 
[[ローマ帝国]]の宿営地[[ウィンドボナ]] (Vindobona) をその起源とし、かつて[[ヨーロッパ]]の数か国を支配した[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア帝国]]の首都であった。[[マリア・テレジア]]女帝時代に栄えた市街は、[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の治下で整備された。[[リングシュトラーセ|リング]]と呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。[[シュテファン寺院]](シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「[[ウィーン歴史地区]]」の名称で[[2001年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。ここには旧王宮である[[ホーフブルク宮殿]](現在は[[オーストリア大統領|大統領]]官邸や博物館、[[オーストリア国立図書館|国立図書館]]などとして使用)・[[ウィーン国立歌劇場]]・[[ブルク劇場]]・[[ウィーン自然史博物館|自然史博物館]]・[[美術史博物館]]、[[ウィーン南駅|南駅]]に近い[[ベルヴェデーレ宮殿]]などが含まれる。
 
 
 
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。[[ドナウ川]]に沿って[[ヨーロッパ]]を東西に横切る道と、[[バルト海]]と[[イタリア]]を結ぶ南北の道(「[[琥珀の道|琥珀街道]]」)である。そこは[[ゲルマン人|ゲルマン]]系、[[スラヴ人|スラヴ系]]、[[マジャル人|マジャール系]]、[[ラテン人|ラテン系]]のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降[[ケルト人]]の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。[[オスマン帝国]]の隆盛時にはヨーロッパからみて[[アジア]]への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。
 
 
 
その地理上の位置は、かつて[[共産圏]]に属した[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ベルリン]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]スラヴ民族の国家[[チェコ]]の[[プラハ]]よりも東であり、[[第二次世界大戦]]後の[[冷戦]]時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
 
 
 
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつて[[ウィーン会議]]の舞台となった世界遺産の[[シェーンブルン宮殿]]がある。これは、[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が狩猟用の別荘として建てたものを、[[マリア・テレジア]]が離宮として完成させたものである。
 
 
 
現在のウィーンは、[[国際機関]]本部の集積地ともなっており、[[日本]]政府も在ウィーン国際機関日本[[政府代表部]]を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。
 
 
 
* [[国際連合ウィーン事務局]] (UNOV)
 
* [[国際原子力機関]] (IAEA)
 
* [[国際連合工業開発機関]] (UNIDO)
 
* 包括的核実験禁止条約機構準備委員会 ([[:en:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization|CTBTO]])
 
* [[国連薬物犯罪事務所]] (UNODC)
 
* [[石油輸出国機構]] (OPEC)
 
* [[欧州安全保障協力機構]] (OSCE)
 
* [[国際新聞編集者協会]] (IPI)
 
* 国際ドナウ河保護委員会 ([[:en:International Commission for the Protection of the Danube River|ICPDR]])
 
 
 
[[2017年]]に発表された「[[世界都市|世界の都市総合力ランキング]]」では、世界14位と評価された<ref>[http://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017] 森記念財団都市戦略研究所 2018年7月19日閲覧。</ref>。ヨーロッパの都市では[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[アムステルダム]]、[[ベルリン]]、フランクフルト次ぐ6位。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|ウィーンの歴史}}
 
 
 
=== ローマ時代 ===
 
ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らく[[ケルト語]]源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
 
 
 
=== ハプスブルク家の帝都 ===
 
[[ファイル:Canaletto (I) 058.jpg|thumb|[[18世紀]]のウィーン]]
 
[[ファイル:Palacio de schönbrunn 01.jpg|thumb|[[シェーンブルン宮殿]]]]
 
[[ファイル:Wien Opernhaus um 1900.jpg|thumb|left|1900年ウィーン国立歌劇場]]
 
中世にもドナウ川沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていた[[バーベンベルク家]]が1155年に[[クロスターノイブルク]]からウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年より[[オーストリア公]]となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称された[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入ると[[ボヘミア王冠領|ボヘミア]]や[[ハンガリー王国|ハンガリー]]を初めとする多くの王国を相続し、[[ドイツ]]の[[神聖ローマ帝国]]の帝位を独占。16世紀前半には[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による[[第一次ウィーン包囲]](1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による[[第二次ウィーン包囲]]を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。[[18世紀]]末には[[ヨーゼフ2世]]により[[ウィーン総合病院]]が開設され、[[プラーター公園]]が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
 
 
 
19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万であった人口は、[[1910年]]には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。[[1873年]]には[[ウィーン万国博覧会]]も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リング)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。
 
 
 
オーストリア=ハンガリー帝国は[[多民族国家]]であり、支配民族であった[[ドイツ人]]は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街では[[ドイツ語]]・[[ハンガリー語]]・[[チェコ語]]・[[ポーランド語]]・[[イディッシュ語]]・[[ルーマニア語]]はもちろんのこと、[[ロマ語]]・[[イタリア語]]までヨーロッパのあらゆる[[言語]]を耳にすることができたと言われる。
 
 
 
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。
 
{{main|世紀末ウィーン}}
 
 
 
=== 第一次大戦と帝国の崩壊 ===
 
[[1914年]]に始まった[[第一次世界大戦]]は[[1918年]]にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、[[チェコスロバキア]]、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。[[第一共和国 (オーストリア)|新しい共和国]]の首都となったウィーンでは[[オーストリア社会民主党|社会主義系]]の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「'''赤いウィーン'''」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごした[[アドルフ・ヒトラー]]はやがて[[ドイツ国|ドイツ]]で独裁者となり、やがてヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し([[アンシュルス]])、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。
 
 
 
=== 永世中立国の首都として ===
 
[[ファイル:Uno_City_Kaiserwasser.jpg|thumb|ウィーン国際センター(国連諸機関の入るオフィスビル)]]
 
1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、[[ウィーン攻勢]]で[[ソビエト連邦]]軍に占領され、その後[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の合意で[[連合軍軍政期 (オーストリア)|米英仏ソ四か国の共同占領下]]に置かれた。1949年の映画『[[第三の男]]』はこの時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。1955年、[[オーストリア国家条約]]の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま[[永世中立国]]として歩むことになった。[[ブルーノ・クライスキー]]首相は[[ウィーン国際センター]]の建設を提案し、ウィーンを[[ニューヨーク]]、[[ジュネーヴ]]に次ぐ第3の[[国連都市]]にすることに成功した。ウィーンは[[国際連合ウィーン事務局]]として数々の国際機関の所在地となった。しかし[[鉄のカーテン]]により、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通し、人口が減少したのはウィーンだけである。
 
 
 
=== 現代のウィーン ===
 
1989年の[[ベルリンの壁崩壊]]は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8か国が[[ヨーロッパ連合]]に加盟したのに加えて、2007年には[[ルーマニア]]と[[ブルガリア]]、2013年には[[クロアチア]]が加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。
 
 
 
ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの[[多国籍企業]]が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハや[[ブダペスト]]などとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。
 
 
 
ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。[[国際会議協会|ICCA]]による2016年の国際会議の開催件数ではパリに次ぎ世界第2位であった。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Wien-Landsat001.jpg|thumb|'''ウィーンの衛星写真''' 中央上から右中央に流れるのが[[ドナウ川]]。画面中央部に向かってドナウ川から分かれる細い流れがドナウ運河。画面中央部にドナウ運河を左側に位置するのがウィーン旧市街である([[ランドサット]]映像)]]
 
{{see also|ウィーンの行政区}}
 
 
 
=== 川と運河 ===
 
市の中央を、北西から南東にかけて[[ドナウ川]]が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は19世紀に大規模な治水工事が行われたことで、現在のようなまっすぐな姿になった。旧市街に接して、[[ドナウ運河]]が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、近年{{いつ|date=2016年7月2日 (土) 15:06 (UTC)}}左岸は[[ウィーン地下鉄|地下鉄]]の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。
 
 
 
=== 森林と公園 ===
 
市西部は[[ウィーンの森]]として知られる森林地帯になっている。散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、現在は市民に開放されている。
 
 
 
元皇室の料地で[[ヨーゼフ2世]]が一般市民に開放した[[プラーター公園]]があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した[[観覧車]]がある。
 
 
 
=== 墓地 ===
 
[[ウィーン中央墓地]]は帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。
 
 
 
[[サンクト・マルクス墓地]]にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、現在は中央墓地に墓碑がある。[[グスタフ・マーラー]]の墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区の[[グリンツィング墓地]]にある。
 
 
 
== 気候 ==
 
ウィーンの気候は[[ケッペンの気候区分]]によれば、[[海洋性気候]]と[[湿潤大陸性気候]]の変わり目に位置する。夏は適度な暑さで平均気温は22 - 26℃の範囲で経過し、最高気温は30℃を超えることもあり最低気温は15℃位である。冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がり12月から3月にかけては降雪も見られる。春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。年間平均降水量は620 mm程度で、ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で年平均降水量が700 - 800 mmになる。平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと市内では乾燥した区域である。
 
 
 
{{Weather box|location= ウィーン
 
|metric first= Y
 
|single line= Y
 
|Jan record high C = 16.7
 
|Feb record high C = 19.1
 
|Mar record high C = 25.5
 
|Apr record high C = 27.8
 
|May record high C = 30.7
 
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|year record high C = 37.0
 
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|Feb high C= 5.1
 
|Mar high C= 10.3
 
|Apr high C= 15.2
 
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|Sep high C= 20.3
 
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|Dec high C= 4.0
 
|year high C= 14.5
 
|Jan mean C = 0.1
 
|Feb mean C = 1.6
 
|Mar mean C = 5.7
 
|Apr mean C = 10.0
 
|May mean C = 15.2
 
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|Aug mean C = 19.8
 
|Sep mean C = 15.3
 
|Oct mean C = 9.9
 
|Nov mean C = 4.6
 
|Dec mean C = 1.5
 
|year mean C = 10.2
 
|Jan low C= -2.0
 
|Feb low C= -0.9
 
|Mar low C= 2.4
 
|Apr low C= 5.8
 
|May low C= 10.5
 
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|Sep low C= 11.7
 
|Oct low C= 7.0
 
|Nov low C= 2.4
 
|Dec low C= -0.5
 
|year low C= 6.7
 
|Jan record low C = -19.6
 
|Feb record low C = -17.2
 
|Mar record low C = -15.3
 
|Apr record low C = -2.7
 
|May record low C = 1.0
 
|Jun record low C = 4.8
 
|Jul record low C = 8.4
 
|Aug record low C = 7.0
 
|Sep record low C = 3.1
 
|Oct record low C = -4.5
 
|Nov record low C = -9.6
 
|Dec record low C = -18.1
 
|year record low C = -19.6
 
|precipitation colour= green
 
|Jan precipitation mm= 37.2
 
|Feb precipitation mm= 39.4
 
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|Oct precipitation mm= 40.0
 
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|Jan snow cm = 18.6
 
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|year snow cm = 68.3
 
|unit precipitation days = 1.0 mm
 
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|Jan sun= 60.9
 
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|year sun = 1804.4
 
|source 1= Central Institute for Meteorology and Geodynamics<ref name="ZAMG">{{cite web|url=http://www.zamg.ac.at/fix/klima/oe71-00/klima2000/klimadaten_oesterreich_1971_frame1.htm|title=Klimadaten von Österreich 1971 - 2000 - Wien-Hohe Warte|language = German| publisher= Central Institute for Meteorology and Geodynamics|accessdate=2012-09-06}}</ref>
 
|date = September 2012}}
 
 
 
== 政治 ==
 
[[ファイル:Döbling (Wien) - Karl-Marx-Hof.JPG|thumb|「'''カール・マルクス・ホーフ'''」と呼ばれる市営住宅は戦間期の「[[赤いウィーン]]」の代表的建築物である]]
 
[[ファイル:Vienna, administrative divisions - Nmbrs.svg|thumb|ウィーンの行政区画]]
 
ウィーンは市であると同時に連邦州である。伝統的に[[オーストリア社会民主党]] (SPÖ) の牙城であり、市議会でも過半数を握っている。市長(=州首相)は直接選挙ではなく市議会で選ばれ、現在は[[ミヒャエル・ホイプル]]である。
 
 
 
前市長の[[ヘルムート・ツィルク]]は、映画『[[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]]』に出演するなど親日家であった。
 
 
 
=== 日本との姉妹・友好都市関係 ===
 
* 1区([[インネレシュタット (ウィーン)|インネレシュタット]])- [[東京都]][[台東区]]
 
* 9区([[アルザーグルント]])- [[兵庫県]][[宝塚市]]
 
* 12区([[マイドリング]])- [[岐阜県]][[岐阜市]]
 
* 13区([[ヒーツィング]])- [[大阪府]][[羽曳野市]]
 
* 17区([[ヘルナルス]])- 東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]
 
* 19区([[デープリング]])- 東京都[[世田谷区]]
 
* 21区([[フローリツドルフ]])- 東京都[[葛飾区]]
 
* 22区([[ドナウシュタット]])- 東京都[[荒川区]]
 
 
 
== 経済 ==
 
2008年、[[プライスウォーターハウスクーパース]]が公表した調査によると、ウィーンの[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は1,220億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり、世界第50位である<ref>[https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP]</ref>。金融業、観光業が盛んで、オーストリアの国内総生産の約5分の1を占める。1921年に始まり2年に1度開かれている[[ウィーン見本市]]は、[[中央ヨーロッパ]]の経済活動に重要な役割をはたしている。第二次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増加である。
 
 
 
== 交通 ==
 
=== 空港 ===
 
[[ファイル:VIE Ankunftshalle.JPG|thumb|ウィーン国際空港]]
 
'''[[ウィーン国際空港]]'''(空港コードVIE)
 
 
 
都心から東南東に約20キロメートル離れた、ドナウ川沿いの[[ニーダーエスターライヒ州]][[:de:Schwechat|シュヴェヒャート]]にある国際空港。[[オーストリア航空]]グループ、[[ニキ航空]]、[[ユーロウイングス]]がこの空港をベースに多くの路線を開設している。2015年の利用者数は2,277万5,044人。冷戦期は小さな空港であったが、現在は西欧と東欧、中東を結ぶ[[ハブ空港]]として大きく成長している。[[フランクフルト空港]]を凌ぎ、最も多くの東欧路線をもつ空港である。{{要出典範囲|date=2016年9月27日|3本目の滑走路の計画があるが、現在環境影響評価などの手続き中である}}。[[1980年代]]前半から、[[成田国際空港]]との間でオーストリア航空によって直行便が運行されているが、円安や団体ツアー客増加による不採算性により<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/86729 オーストリア航空が日本撤退、ウィーンどう行く?]</ref>、2016年9月4日をもって運航を休止した。
 
 
 
[[Sバーン]](国営鉄道)によってウィーン市内と結ばれている。2009年には新しい空港駅と[[ウィーン・ミッテ駅]]をノンストップ16分で結ぶCAT(City Airport Train)が開業した。またリムジンバスがウィーン西駅・中央駅や、スロバキア、ハンガリー、チェコなどを結んでいる。2015年には[[リンツ]]方面からの長距離列車が中央駅経由で乗り入れを開始した。
 
 
 
=== 高速道路 ===
 
西方のリンツや[[ザルツブルク]]、そして[[ドイツ]]方面を結ぶA1と、南の[[グラーツ]]やイタリア、[[スロベニア]]方面を結ぶA2は冷戦期に既に開通していた。1990年代になり、ウィーン国際空港まで開通していたA4がブダペストまで延伸された。またA4から分岐して[[ブラチスラヴァ]]に至るA6が2007年に開通した。
 
 
 
2004年の[[EU拡大]]にともない、新規加盟国からの通過車両が増え、市内のA23では渋滞が激しくなっていたが、A4とA2を結ぶ環状道路の役割をもつS1が2006年4月に供用開始され、リンツおよびグラーツ方面からウィーン空港、ブダペスト方面へ渋滞なしに行けるようになった。
 
 
 
[[ブルノ]]方面への高速道路A5は2010年2月にシュリック (Schrick) まで部分開通、併せて環状線S1の北部区間も開通した。2013年にA5のチェコ国境までの開通が予定されている。
 
 
 
[[オーストリアの高速道路]]は、料金所をもたない。自家用車は[[ヴィネット]] (Vignette) と呼ばれる有効期限のあるシールを購入して貼らなければならないが、その価格は年間72[[ユーロ]]と割安である。2か月有効や、10日有効のものもある。貼らないで走行しているところを見つかると高額の罰金を徴収される。トラックについては車両に積載された装置により走行キロ数に応じて料金を徴収するシステムになっている。
 
 
 
=== 鉄道 ===
 
[[ファイル:Wien Hauptbahnhof, 2014-10-14 (50).jpg|thumb|ウィーン中央駅]]
 
主要幹線は[[オーストリア連邦鉄道]] (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。
 
 
 
かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。
 
 
 
西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かう[[オーストリア西部鉄道]]はEUから[[:en:Trans european network|Trans european network]] (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。このため現在、高規格路線化の工事が順次進められている。2008年末の新車両の導入により最高時速200 km/hで運行されている。ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。
 
 
 
また、ポーランド南部まで延びている[[軌間]]の広い[[シベリア鉄道]]をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。
 
 
 
市内の主要駅は以下の通り。
 
 
 
* [[ウィーン西駅|西駅]] (Westbahnhof):ドイツ、[[スイス]]、リンツ、ザルツブルク、[[インスブルック]]方面。地下鉄U6・U3が発着。市内最大の商店街である[[マリアヒルファー通り]]に近い。オフィスやショッピングゾーンなどを増設するための大規模な増改築工事が2011年に完成。2015年ウィーン中央駅が全面開業後は長距離列車、国際列車は西駅には停車しなくなったが、2011年12月からWestbahn株式会社によるフライラッシング(ドイツ)- ザルツブルク - ウィーン間の列車の始発駅となっている。
 
* [[ウィーン中央駅|中央駅]] (Hauptbahnhof):地下鉄ジュートティローラープラッツ (Südtirolerplatz) 駅の南側に2012年12月暫定開業した。2015年には全面開業し、全ての国際列車、優等列車がこの駅に停車するようになった。
 
* [[フランツ・ヨーゼフ駅]] (Franz-Josefs Bahnhof):[[グミュント]]、[[クレムス]]、[[チェスケ・ブデヨヴィツェ]]方面。かつてはウィーンとプラハを結ぶ特急の発着駅であったが、現在では国内向けの駅となった。駅舎は1980年代に建設された近代建築で外観はガラス張り。線路上を建物が覆っている。駅廃止(シュピッテラウへの集約)も検討されていたが当面存続することが決まった。
 
* [[ウィーン・ミッテ駅|ミッテ駅]] (Wien Mitte):Sバーンの主要路線および、地下鉄U4・U3, 空港特急CATが発着し、チェックイン設備もある。地下鉄を含めた1日の発着列車数がオーストリア国内で最も多い駅である。ミッテは「中央」の意だが、これは駅が市内中央部に位置するためであり、ドイツ語圏でその都市の代表駅をいう「中央駅」(Hauptbahnhof) のことではない。国際列車や長距離列車もほとんど発着していない。2012年末、ショッピングセンターやオフィス、ホテルなどを含むビルに生まれ変わった。
 
* プラーターシュテルン駅 (Wien Praterstern):プラーター公園に近く、地下鉄U1・U2, 路面電車の5・Oなどが通る交通の結節点である。
 
* [[ウィーン・マイドリング駅|マイドリング駅]] (Wien Meidling):ウィーン中央駅が開業するまでの間、南駅の機能は主にこの駅に移されていた。U6やWiener Lokalbahn, 路面電車62などが通じている。西方面からウィーン中央駅に向かう列車はすべてマイドリング駅にも停車する。
 
 
 
=== 市内交通 ===
 
<!--{{main|ウィーン地下鉄}}-->
 
[[ファイル:Rathausplatz, Vienna, Tram line J, tram type ULF A, July 2003.jpg|thumb|left|'''ウィーンの路面電車''' 段差18 cmで世界一床が低いためUltra Low Floor tram (ULF) と呼ばれる]]
 
[[ファイル:MetrokarlplatzWK.jpg|thumb|カールスプラッツ駅舎(オットー・ワグナー設計)]]
 
[[ファイル:Fiaker 1.JPG|thumb|フィアカー(観光馬車)]]
 
市内には[[ウィーン地下鉄|地下鉄]])と[[Sバーン]](近郊電車)、[[ウィーン市電|路面電車]]およびバス路線がくまなく走っている。地下鉄と路面電車は[[:de:Wiener Linien|ウィーン市交通局]]が運営している。かつてウィーンは地下鉄の整備が遅れていたため、世界最大の路面電車王国であったが、現在地下鉄の整備も進み、路面電車は地下鉄の補完的な役割になりつつあるが、それでもなお市交通局の路線総延長は188 km, 路線系統は32系統と、大規模なネットワークを抱える。路面電車の車両はバリアフリーの超低床車(写真)が順次導入されている。これは通称ULFと称し、世界一の超低床である。[[ポルシェ]]社のデザインで、21区にある[[シーメンス]]工場で製作されたものである。また、オーストリア政府の支援のもと貨物輸送を行っており、現在ウィーン市交通局の車両工場と車庫を結ぶ部品配給用の事業用列車が運行されている。2006年にはそれに加え、試験的ながらULFを使用して、クリスマスシーズンのショッピング小荷物の配送を請け負った実績を残している。ウィーン国立歌劇場横にあるオーパー停留所では、保養地である[[バーデン]]までの間を結ぶウィーン地方鉄道の電車が乗り入れてくる光景が見られる。
 
 
 
地下鉄はU1・U2・U3・U4・U6の5路線であり、このうちU4とU6は19世紀末の[[シュタットバーン (ウィーン)|シュタットバーン]] (Stadtbahn) を1970年代末に地下鉄として改築・再利用したもの(一部区間は延伸)であり、建築家[[オットー・ワーグナー]]の手になる建築・インフラ群が現在も多く使用されている。他の3路線は1980年以降に新たに開通したものである。
 
 
 
2006年9月にはU1が北にレオポルダウ (Leopoldau) まで、2008年5月にはU2が翌月開催された[[UEFA欧州選手権|サッカー欧州選手権]]決勝の会場であるスタジアムまで延伸された。2010年には更にドナウ川を超え、22区のアスペルンシュトラーセ (Aspernstraße) まで延長された。昔の飛行場跡地であるフルークフェルト・アスペルン (Flugfeld Aspern) には新しいニュータウン「セーシュタット・アスペルン」(Seestadt Aspern) が建設中で、2013年にはU2がさらにここまで延伸された。現在はU1が南部オーバーラー (Oberlaa) へ延伸工事中で、2017年の開業を予定している。
 
 
 
欠番となっているU5の建設計画も決定した。既存のU2の一部(カールスプラッツ方面 - ラートハウス)をU5に転換し、それをさらに北西部に向けて延伸するものである。延伸第一期はフランクープラッツ (Frankuhplatz) まで、第二期はAKHでU6と接続し、エルターラインプラッツ (Elterleinplatz) に至る。 U2は第一期はラートハウスから南進し、繁華街のノイバウガッセ (Neubaugasse) でU3と、ピルグラムガッセ (Pilgramgasse) でU4と、マッツラインスドルファープラッツ (Matzleinsdorferplatz) でSバーンと接続させる。第二期はさらにヴィーナーベルク (Wienerberg) のビジネスパークに至るという計画である。第一期の完成は2023年を予定している。
 
 
 
ウィーン郊外とウィーン市内を結ぶSバーンは増強計画があり、郊外からの通勤者が鉄道を利用するように、老朽化した駅を改築するなどの措置がとられている。また、地下鉄の終着駅付近を中心にパークアンドライド施設の整備が進められており、安い料金で丸一日駐車をすることができる。長期契約もある。
 
 
 
== 観光 ==
 
[[ファイル:Karlskirche1.jpg|thumb|カールス教会]]
 
[[ファイル:Wien - Stephansdom (1).JPG|thumb|[[シュテファン大聖堂]]]]
 
[[ファイル:Peterskirche Church.JPG|thumb|ペーター教会]]
 
 
 
宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。
 
 
 
また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、[[カールス教会]]など建築分野でも傑作が存在する。
 
 
 
=== 宮殿、大聖堂 ===
 
* [[シェーンブルン宮殿]]
 
* [[ベルヴェデーレ宮殿]]
 
* [[ホーフブルク宮殿]]
 
* [[カールス教会]]
 
* [[シュテファン大聖堂]]
 
* [[ヴォティーフ教会]]
 
* [[ペーター教会]]
 
*[[聖ミヒャエル教会 (ウィーン)|聖ミヒャエル教会]]
 
 
 
=== 劇場 ===
 
* [[ブルク劇場]] ドイツ語圏で最高の格式を誇るとされる劇場
 
 
 
=== カフェハウス ===
 
[[ファイル:Kaffee_Alt_Wien.JPG|thumb|Kaffee Alt Wien]]
 
ウィーンの[[カフェハウス]]は、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で現在でも多くの観光客を惹きつけている。なお、[[ウィンナ・コーヒー]]は「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。
 
 
 
ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。
 
 
 
* [[カフェ・ゲルシュトナー]] (Gerstner):1847年創業。旧皇室御用達 (k.u.k.) でケルントナー通りにある。国立歌劇場内や[[ウィーン楽友協会]]ホール内にも出店しており、コンサートの休憩時間に利用できる。美術史博物館内にも支店がある。
 
* [[カフェ・ラントマン]]:ウィーンで最もエレガントなカフェと呼ばれた老舗。1873年創業。東京の青山に支店がある。
 
* [[ホテル・ザッハー]]:国立歌劇場の裏にある。[[ザッハトルテ]]の元祖。
 
* [[デメル|カフェ・デメル]] (Demel):同じくザッハトルテが名物。旧皇室御用達。
 
* [[カフェ・ハイナー]] (Heiner):旧皇室御用達。
 
* [[カフェ・ツェントラール]] (Central):[[ペーター・アルテンベルク]]、[[アルフレート・ポルガー]]、[[エゴン・フリーデル]]など多くの「カフェ文士」が愛用。ポルガーに『カフェ・ツェントラールの理論』なる文章がある。
 
* グリーエンシュタイドゥル (Griensteidl):[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]など多くの世紀末ウィーンの文人・芸術家が愛用。
 
* シュヴァルツェンベルク (Schwarzenberg):楽友協会や[[ホテルインペリアル]]に近い。リング沿いにある由緒あるカフェ。
 
* ショッテンリング (Schottenring):リング沿いで最も歴史のあるカフェであったが、建物改装を機に閉店。
 
* アルト・ヴィーン (Alt Wien):内装など、店名の通り古さを感じさせる店。
 
* オーバーラー (Oberlaa):歴史は古くないが、ウィーン市内に多くの支店をもつ人気のカフェハウス。
 
* ハヴェルカ (Hawelka):旧市街の中心部にあり、開店以来内装を変更していない。
 
* [[カフェ・ムゼーウム]] (Museum):[[アドルフ・ロース]]による開店当時の内装のままに復元されたカフェ。[[グスタフ・クリムト]]はじめ[[世紀末ウィーン]]の建築家や画家が多く出入りしていた。
 
* ティローラーホーフ (Tirolerhof):自家製の[[アプフェルシュトゥルーデル]]が人気。
 
* [[カフェ・モーツァルト]] (Mozart):国立歌劇場裏。現在ブルグガルテンにあるモーツァルト像はかつてこのカフェの目の前にあった。
 
* ブロイナーホーフ (Bräunerhof):[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]が常連だった。
 
* カフェ・シュペール (Sperl)
 
 
 
=== 美術館・博物館 ===
 
[[ファイル:Maria-Theresien-Platz in Wien.jpg|thumb|[[美術史美術館]]]]
 
[[ファイル:Kunsthistorisches Museum Interior.JPG|thumb|美術史美術館]]
 
[[ファイル:Belveder - widok od frontu - Vienna.jpg|thumb|ベルヴェデーレ宮殿]]
 
[[ファイル:HGM Wien.jpg|thumb|220px|[[ウィーン軍事史博物館]]]]
 
ウィーンの歴史を反映して多数の[[美術館]]・[[博物館]]がある。
 
 
 
* [[美術史美術館]] - コレクションの一部は[[エフェソス]]博物館などの分館にも展示。
 
* [[自然史博物館]]
 
* [[ホーフブルク王宮]]内[[宝物館]] - 美術史美術館の分館であり、[[聖遺物]]として[[聖槍]]([[ロンギヌスの槍]]として知られさらに中央部に聖釘が針金で固定されている)や数々の[[聖釘]]がある。
 
* [[アルベルティーナ]]
 
* [[リヒテンシュタイン美術館]]
 
* [[オーストリア・ギャラリー]](ベルヴェデーレ) - [[ベルヴェデーレ宮殿]]の上宮にある。クリムトをはじめ、オーストリアの画家の作品を集めた美術館。
 
* [[レオポルド美術館]] - [[エゴン・シーレ]]のコレクションでは世界最大のもの。ユダヤ人の眼科医レオポルド博士のコレクションを、オーストリア政府が買い取り美術館にした。
 
* ルードヴィヒ財団現代美術館 [[ミュージアムクォーター]] (MuseumsQuartier) 内。
 
* [[造形美術アカデミー絵画館]] - 造形美術アカデミー(美術学校)の学内にあり、[[ヒエロニムス・ボス]]のコレクションを持つ。[[アドルフ・ヒトラー]]はこの美術アカデミーの受験に失敗した。
 
* [[オーストリア応用美術博物館]] (MAK)
 
* [[ウィーン軍事史博物館]]
 
* ウィーン民俗博物館
 
* ウィーン路面電車博物館
 
* オーストリア演劇博物館
 
* ウィーン犯罪博物館
 
* エスペラント&地球儀博物館
 
* エッセルコレクション - ウィーン北郊クロスターノイブルクにある現代美術館。Baumaxの創業者エッセルにより建てられた。
 
* [[エゴン・シーレ美術館]] - シーレの出身地トゥルン(ウィーン郊外)にあり、デッサンなど小品が年代順に並んでいる。
 
 
 
==== 関連項目 ====
 
* [[ウィーン学団]]
 
* [[ウィーン学派]]
 
* [[ウィーン分離派]]
 
* [[ビーダーマイヤー]]
 
* [[世紀末ウィーン]]
 
 
 
== 教育 ==
 
[[ファイル:Wien - Universität (2).JPG|thumb|[[ウィーン大学]]]]
 
1365年創立の[[ウィーン大学]]は現在の[[ドイツ語圏]]で最古・最大の[[大学]]であり、教官や卒業生から11名の[[ノーベル賞]]受賞者を輩出している。かつてウィーン大学医学部は医学研究において世界的な中心のひとつであった。例えば、精神科医の[[ジークムント・フロイト]]や小児科医の[[ハンス・アスペルガー]]などを輩出しており、日本からも[[斎藤茂吉]]らが留学している。また世界で初めて胃切除を行ったのもウィーン大学教授の[[テオドール・ビルロート]]で、現代においてもビルロートの方法で手術がなされている。この際摘出された標本はウィーン大学で見学することができる。しかし、第二次大戦後はユダヤ人学者が流出したことや鉄のカーテンにより東欧からの人材の流入が止まった一方、アメリカの大学が著しい発展を遂げたことにより、学問の中心としてのウィーンはその地位を失った。しかし現在は再び東欧やドイツなどからの学生の流入が多くなっている。学生数が著しく増加傾向にあるため、各大学の権限が拡大され、入学直後の学期を厳しくして選別を図る措置をとるほか、志望者の多い学科を中心に入学制限が順次導入されている。選考方法は主として入学試験による。
 
 
 
[[エゴン・シーレ]]らの出身校である[[ウィーン美術アカデミー]]はヒトラーが受験して合格できなかったため、後に独裁者になる道を開いてしまった学校でもある。[[アントニオ・サリエリ]]が初代学長だった歴史がある[[ウィーン国立音楽大学]]および、戦後市によって設立された[[ウィーン音楽院]]は多くの著名なクラシック音楽の演奏家を輩出している。この他に国立大学としては[[ウィーン経済大学]]、[[ウィーン工科大学]]、[[ウィーン農科大学]]、[[ウィーン医科大学]](旧ウィーン大学医学部)、[[ウィーン獣医大学]]、[[グスタフ・クリムト]]の出身校である[[ウィーン応用美術大学]]がある。ウィーン経済大学 (WU) は2013年にブラーター内に移転した。
 
 
 
従来のオーストリアでは大学は全て国立であったが、21世紀に入って私立大学 (Privatuni) を認める制度ができたため、多くの私立大学が設立されている。ウィーン音楽院(市立)やリンツのブルックナー音楽院のように既存の学校がこの制度により大学となったケースも多い。
 
 
 
またオーストリア政府は、トップレベルの科学技術研究施設を目標に、Institute of Science and Technology Austriaを設立した。ウィーン郊外のクロースターノイブルクにあり、博士課程の学生および[[ポスドク]]を受け入れている。研究者の多くはアメリカやドイツなど国外から招かれており、教育、研究は英語で行われている。
 
 
 
== 文化 ==
 
=== 音楽 ===
 
ウィーンではモーツァルトやベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍し、「[[音楽]]の都」と呼ばれている。
 
 
 
==== 歌劇場・コンサートホール ====
 
[[ファイル:Wien - Staatsoper (1).JPG|thumb|[[ウィーン国立歌劇場]]]]
 
 
 
* [[ウィーン国立歌劇場]] - 世界で最も有名な歌劇場の一つ。
 
* [[ウィーン・フォルクスオーパー]] - [[オペレッタ]]を上演する劇場。
 
* [[ウィーン楽友協会]](ヴィーナー・ムジークフェライン)- [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の本拠地
 
* [[ウィーン・コンツェルトハウス]] - [[ウィーン交響楽団]]の本拠地
 
* [[アン・デア・ウィーン劇場]] - 1980年代からは[[ミュージカル]]の舞台として役割を果たしたが、2006年より再び[[オペラ]]が上演されるようになった。
 
* [[ローナッハー]]
 
 
 
==== 演奏団体 ====
 
* [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]](ウィーン・フィル) - ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場でオペラの伴奏を行う[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]が、それ以外の演奏会で演奏するときの名前である。数ある[[オーケストラ]]の中でも最も有名なオーケストラの一つである。本拠地は[[ウィーン楽友協会]]大ホール。また、[[グスタフ・マーラー]]の[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]など大規模編成を要する曲を演奏する場合などのように、やや大きな舞台を持つ[[コンツェルトハウス]]で演奏会を行うことも少なくない。毎年元日には[[マチネー]]で[[ニューイヤーコンサート]]を開催する。
 
* [[ウィーン交響楽団]] - 1900年創設。本拠地はコンツェルトハウスだが、楽友協会でも相当数の演奏会を行っている。
 
* [[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団|トーンキュンストラー交響楽団]]
 
* [[ウィーン放送交響楽団]]
 
* [[ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団]] - 例年[[年末年始]]に訪日し、[[サントリーホール]]のジルヴェスターコンサートにも出演する。
 
* [[ホーフブルクカペレ]]
 
* [[ウィーン室内管弦楽団]]
 
* [[ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス]] - 1953年に指揮者[[ニコラウス・アーノンクール]]が結成した古楽器オーケストラ。
 
* [[アルバン・ベルク弦楽四重奏団]] - 現代最高の弦楽四重奏団の一つ。ウィーン音楽大学教授でウィーン・フィルの[[コンサートマスター]]も務めていた[[ギュンター・ピヒラー]]が同僚と結成。2008年限りで解散。
 
 
 
==== 関連項目 ====
 
* [[オーストリアの音楽]]
 
* [[ウィーン楽派]]
 
* [[新ウィーン楽派]]
 
* [[ウィーン少年合唱団]]
 
 
 
=== 舞踏会 ===
 
ウィーンは舞踏会の街でもあり、数多くの舞踏会が[[カーニバル]](ファッシング)シーズン中に開かれている。
 
 
 
* 皇帝舞踏会
 
* 花の舞踏会
 
* ウィーン・フィルの舞踏会
 
* [[ヴィーナー・オーパンバル]](歌劇場舞踏会)
 
* カフェハウスオーナーの舞踏会
 
* お菓子屋さんの舞踏会
 
* 法律家の舞踏会
 
* 仮面舞踏会
 
 
 
=== 食文化 ===
 
==== 関連項目 ====
 
* [[オーストリア料理]]
 
* [[ホイリゲ]] - ウィーン周辺に見られる[[ワイン酒場]]。
 
 
 
=== スポーツ ===
 
[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]に属している[[サッカー]]クラブ、[[FKアウストリア・ウィーン]]と[[SKラピード・ウィーン]]がウィーンを本拠地としている。
 
 
 
また、オーストリアを代表するスタジアムである[[エルンスト・ハッペル・シュタディオン]]では、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]の5つ星スタジアムとしてこれまで[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の決勝戦が4度開催された。2008年6月にスイスとオーストリアの共催で開かれた[[UEFA欧州選手権2008]] (EURO 2008) の決勝戦もここで行われた。
 
 
 
市民の娯楽として[[スケート]]なども盛んであり、冬季は通常のスケートリンク以外に[[ウィーン市庁舎|市庁舎]]前広場にスケートリンクが開場する。
 
 
 
=== ウィーンが舞台となった映画 ===
 
* [[第三の男]] - [[グレアム・グリーン]]の小説及び[[オーソン・ウェルズ]]主演の同名の映画
 
* [[愛の嵐 (映画)|愛の嵐]] - 1973年製作。[[オーストリア自由党]] (FPÖ) が結党された翌1957年のウィーンが舞台である。[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]とウィーンの街を舞台にして、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]員だったホテル夜勤フロント係とユダヤ人女性との[[性的倒錯|倒錯]]した愛が描かれている。親衛隊員たちと[[極右]]思想がオーストリア社会に深く浸透していることも明らかにされている。
 
* [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]] - 原作[[山田洋次]]、主演[[渥美清]]。ケルントナー通り近くに位置する3つ星[[ホテル]]「ツーア・ヴィーナー・シュターツオーパー」(Zur Wiener Staatsoper) は同映画で寅次郎が宿泊したホテル。
 
* [[恋人までの距離]](原題:''Before Sunrise'', 1995年)
 
ほか
 
[[ファイル:Schloss schoenbrunn hdr panorama.jpg|thumb|center|900px|シェーンブルン宮殿]]
 
 
 
== 姉妹都市 ==
 
* {{flagicon|SLO}} [[リュブリャナ]]([[スロベニア]])
 
* {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]([[セルビア]])
 
* {{flagicon|CZE}} [[ブルノ]] ([[チェコ共和国]])
 
* {{flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]([[ハンガリー]])
 
* {{flagicon|CRO}} [[ザグレブ]]([[クロアチア]])
 
* {{flagicon|SVK}} [[ブラチスラヴァ]]([[スロバキア]])
 
* {{flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]([[イスラエル]])
 
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]([[ロシア]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[イラリオン・アルフェエフ]] - [[ロシア正教会]]の前ウィーン[[主教]]。[[神学者]]・歴史学者・[[作曲家]]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wiktionary|ウィーン}}
 
{{Commons&cat|Wien|Vienna}}
 
; 公式
 
* [http://www.wien.gv.at/ ウィーン州政府公式サイト] {{de icon}}{{en icon}}
 
 
 
; 観光
 
* [http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11771 ウィーン市観光局] {{ja icon}}
 
* [http://www.austria.info/xxl/_site/jp/_area/540350/_subArea/540325/_subArea2/540385/_aid/565109/index.html オーストリア政府観光局 - ウィーン] {{ja icon}}
 
 
 
; 文化
 
* [http://www.austrianculture.jp オーストリア文化フォーラム] {{ja icon}}
 
 
 
{{オーストリアの地方行政区画}}
 
{{欧州連合加盟国の首都}}
 
{{ヨーロッパの首都}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
[[オーストリア]]の首都。英語ではビエンナ Vienna。オーストリアを構成する九つの連邦州の一つでもある。オーストリア東部の盆地にあり,[[ドナウ川]]により南北に分けられる。古代[[ケルト人]]の砦に始まり,前1世紀にはローマの軍営地となり,3世紀には人口 1万5000~2万を数えた。1100年頃バーベンベルク家領となり,1137年に都市権を獲得。1156年にバーベンベルク家領オーストリアの首都となった。1288年以降は[[ハプスブルク家]]領となり,特に 1558~1806年は同家の支配する[[神聖ローマ帝国]]の事実上の首都であった。その後 1867年までオーストリア帝国,1918年まで[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の首都として栄えた。歴史を反映して記念建造物が多く,特にゴシック様式,バロック様式の建築や近代建築に優れたものが多い。ザンクト・シュテファン大聖堂([[ウィーン大聖堂]]。1304~1511,1952再建),マリアアムゲシュターデ聖堂(14~15世紀),聖ペテル聖堂(1702~33),[[ベルベデーレ宮殿]](1714~23),[[シェーンブルン宮殿]](17~18世紀),ホーフブルク宮殿(13,19世紀),近代建築の祖オットー・[[ワーグナー]]の郵便貯金銀行(1906)などがある。音楽の都としても知られ,フランツ・ヨーゼフ・[[ハイドン]],ウォルフガング・アマデウス・[[モーツァルト]],ルートウィヒ・ファン・[[ベートーベン]],フランツ・ペーター・[[シューベルト]],ヨハネス・[[ブラームス]],ヨハン・シュトラウス,フランツ・レハール,グスタフ・[[マーラー]],リヒアルト・シュトラウス,アルノルト・[[シェーンベルク]]など,ここで活躍した音楽家は非常に多い。また[[ウィーン国立歌劇場]],[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]などの音楽団体も有名。オーストリア有数の工業都市で,電機,精密機械,化学,繊維など,各種の工業が発達し,州域をこえた大都市圏を形成している。2001年,中心部に広がる歴史地区が世界遺産の文化遺産に登録された。面積 415km<sup>2</sup>。人口 171万4142(2011)。
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[[Category:ウィーン|*]]
 
[[Category:ウィーン|*]]

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テンプレート:基礎情報 オーストリアの州 ウィーン[1](標準: Wien〈ヴィーン〉、テンプレート:Lang-bar〈ヴェアン〉、: Vienne〈ヴィエンヌ〉、: Vienna〈ヴィエナ〉)

オーストリアの首都。英語ではビエンナ Vienna。オーストリアを構成する九つの連邦州の一つでもある。オーストリア東部の盆地にあり,ドナウ川により南北に分けられる。古代ケルト人の砦に始まり,前1世紀にはローマの軍営地となり,3世紀には人口 1万5000~2万を数えた。1100年頃バーベンベルク家領となり,1137年に都市権を獲得。1156年にバーベンベルク家領オーストリアの首都となった。1288年以降はハプスブルク家領となり,特に 1558~1806年は同家の支配する神聖ローマ帝国の事実上の首都であった。その後 1867年までオーストリア帝国,1918年までオーストリア=ハンガリー帝国の首都として栄えた。歴史を反映して記念建造物が多く,特にゴシック様式,バロック様式の建築や近代建築に優れたものが多い。ザンクト・シュテファン大聖堂(ウィーン大聖堂。1304~1511,1952再建),マリアアムゲシュターデ聖堂(14~15世紀),聖ペテル聖堂(1702~33),ベルベデーレ宮殿(1714~23),シェーンブルン宮殿(17~18世紀),ホーフブルク宮殿(13,19世紀),近代建築の祖オットー・ワーグナーの郵便貯金銀行(1906)などがある。音楽の都としても知られ,フランツ・ヨーゼフ・ハイドン,ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト,ルートウィヒ・ファン・ベートーベン,フランツ・ペーター・シューベルト,ヨハネス・ブラームス,ヨハン・シュトラウス,フランツ・レハール,グスタフ・マーラー,リヒアルト・シュトラウス,アルノルト・シェーンベルクなど,ここで活躍した音楽家は非常に多い。またウィーン国立歌劇場ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などの音楽団体も有名。オーストリア有数の工業都市で,電機,精密機械,化学,繊維など,各種の工業が発達し,州域をこえた大都市圏を形成している。2001年,中心部に広がる歴史地区が世界遺産の文化遺産に登録された。面積 415km2。人口 171万4142(2011)。



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  1. 日本語表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準ドイツ語でのWの発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近い。バイエルン・オーストリア語ではWean(ヴェアン、ドイツ語#方言を参照)と発音される。なお、漢字による当て字では維納と表記される。