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− | '''ウィリアム・シェイクスピア'''({{lang-en|William Shakespeare}}, [[1564年]][[4月26日]]([[洗礼]]日) - [[1616年]][[4月23日]]([[グレゴリオ暦]][[5月3日]]))は、[[イングランド王国|イングランド]]の[[劇作家]]、[[詩人]]であり、[[イギリス・ルネサンス演劇]]を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた[[英文学]]の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、[[初期近代英語]]の実態を知る上での貴重な[[言語学]]的資料ともなっている。 | + | '''ウィリアム・シェイクスピア'''({{lang-en|William Shakespeare}}, [[1564年]][[4月26日]]([[洗礼]]日) - [[1616年]][[4月23日]]([[グレゴリオ暦]][[5月3日]])) |
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− | 出生地は[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]で、[[1585年]]前後に[[ロンドン]]に進出し、[[1592年]]には新進の劇作家として活躍した。[[1612年]]ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『[[ハムレット]]』、『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』、『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』、『[[リア王]]』をはじめ、『[[ロミオとジュリエット]]』、『[[ヴェニスの商人]]』、『[[夏の夜の夢]]』、『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』など多くの傑作を残した。『[[ヴィーナスとアドーニス]]』のような[[物語詩]]もあり、特に『[[ソネット集]]』は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。
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− | [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」投票で第5位となった。
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− | 「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国での表記「莎士比亞」([[繁体字]]での表記で、[[簡体字]]では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。「'''沙翁'''」と呼ばれることもある。
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− | == 生涯 ==
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− | 本節ではシェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については[[#作品|作品の節]]を参照。
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− | === 前半生 ===
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− | [[ファイル:Stratford Birthplace2.jpg|thumb|250px|[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]にある[[シェイクスピアの生家]]]]
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− | [[ファイル:pcs34560_IMG2079.JPG|thumb|200px|シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、[[アン・ハサウェイのコテージ|妻アンの実家]]]]
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− | ウィリアム・シェイクスピアは[[1564年]]に[[イングランド王国]]の[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]に生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母[[メアリー・アーデン]]は[[ジェントルマン]]の娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は[[1557年]]ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、[[1564年]]4月26日に[[洗礼]]を受けたことが記録されている。
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− | [[エリザベス朝]]時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は[[聖人暦]]においてイングランドの[[守護聖人]]である[[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス(聖ジョージ)]]を記念する[[ゲオルギオスの日|聖ジョージの日]]にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは[[1616年]]の4月23日([[グレゴリオ暦]]では[[5月3日]])に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。
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− | シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である<ref>[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/genealogy.htm A Shakespeare Genealogy]</ref>。
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− | シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家とも[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信者であった可能性が推測されている。
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− | シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、{{仮リンク|エドワード6世校|en|King Edward VI School, Stratford-upon-Avon}}に通ったであろうと推定されている<ref name=Greenblatt>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'' Quebecor World, Fairfield; United States, 2004, pp. 25 - 28</ref>。校名に冠されている[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている<ref name=Greenblatt/>。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校は[[ラテン語]]文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである<ref name=Greenblatt/>。
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− | シェイクスピアの最初期の戯曲『[[間違いの喜劇]]』に[[プラウトゥス]]の戯曲『[[メナエクムス兄弟]]』 (''"[[:en:Menaechmi|The Two Menaechmuses]]"'') との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される<ref>Honan, Park. ''Shakespeare: A Life''. Oxford: Oxford University Press, 1999, p. 43.</ref>根拠の一つである。[[1482年]]にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である<ref name=Greenblatt/>。
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− | [[1582年]]11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性[[アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)|アン・ハサウェイ]]と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている<ref group="注">実際には[[ショッタリー]]出身。</ref>ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。
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− | [[1583年]]5月26日、ストラトフォードで長女[[スザンナ・ホール|スザンナ]]の洗礼式が執り行なわれた。[[1585年]]には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは[[1596年]]に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。
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− | 結婚後、[[ロンドン]]の劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年から[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]による言及のある[[1592年]](後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる<ref>E. A. J. Honigmann, ''"Shakespeare: The Lost Years"'' Manchester University Press; 2nd edition, 1999, p. 1.</ref>。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である<ref name=Timeline>[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/lostyears.htm "The Lost Years"], Shakespeare Timeline.</ref>。
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− | シェイクスピアが[[ランカシャー]]で教職についていたという説は、[[1985年]]にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである<ref name=Timeline/>。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している<ref name=Timeline/><ref>David Aaron Murray, [http://www.crisismagazine.com/april2005/book2.htm ''"In Search of Shakespeare"''], Crisis Magazine</ref>。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアの[[グローブ座]]株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている<ref>Michael Wood, ''"In Search of Shakespeare"'' BBC Books, 2003, ISBN 0-563-52141-4 p.80</ref>。
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− | === ロンドンの劇壇進出 ===
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− | [[ファイル:Shakespeare Globe Theater 1 db.jpg|thumb|200px|left|ロンドンに復元された[[グローブ座]]]]
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− | [[1592年]]ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、[[エリザベス朝演劇]]の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。[[1592年]]には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]が著書『三文の知恵』 (''"Greene's Groatsworth of Wit"'') において、「<ins>役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の</ins>、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れた[[ブランク・ヴァース]]を自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている<ref group="注">グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『[[ヘンリー六世 第3部]]』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 ("Shake-scene") がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはほぼ間違いないとされる。一方で「成り上がりのカラス」はシェイクスピアではないと解釈する研究者もある。[[河合祥一郎]]はその著書「シェイクスピアの正体」(新潮文庫、2016年)で一章を割いて、通説のシェイクスピアとする解釈を批判し、グリーンが批判した対象は同時代の俳優{{仮リンク|エドワード・アレン|en|Edward Alleyn}}だと結論づけている。 </ref>。
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− | [[1594年]]の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、[[宮内大臣一座]]として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場[[グローブ座]]の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。[[1603年]]に[[エリザベス1世]]が死去して[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が即位したさい、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため[[国王一座]]へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている<ref> William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, ''"The Facts About Shakespeare"'', The Macmillan Company, 1913.</ref>。
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− | [[ファイル:Shakespeare1COA.png|180px|thumb|シェイクスピア家の紋章]]
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− | 高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は[[紋章]]を取得するために[[紋章院]]へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが<ref group="注">当時、俳優はいかがわしい職業とされていた。</ref>、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。[[1596年]]に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである<ref>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'', Quebecor World, Fairfield, United States, 2004.</ref>。
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− | [[1596年]]にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。[[1598年]]にグローブ座で初演された[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]の『{{仮リンク|十人十色 (ベン・ジョンソン)|en|Every Man in His Humour|label=十人十色}}』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの[[四折判]]のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる<ref>1598年刊の『[[恋の骨折り損]]』において、初めて著者名が明記された。それ以前の作品は著者名が記されていなかったか、もしくは[[1623年]]の[[ファースト・フォリオ]]に収録されるまで未刊のままだった。</ref>。
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− | シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『[[ハムレット]]』の先王の幽霊や、『[[お気に召すまま]]』のアダム、『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』のコーラスなどを演じたといわれる<ref>[http://www.enotes.com/william-shakespeare/shakespeares-globe-theater e-notes.com on Shakespeare's Globe Theatre], Shakespeare at e-notes.</ref><ref>[http://www.zeenews.com/articles.asp?aid=367150&sid=ZNS Article on Shakespeare's Globe Theater] Zee News on Shakespeare, accessed Jan. 23, 2007.</ref>。
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− | シェイクスピアは[[1599年]]内に[[テムズ川]]を渡ってサザックへ転居したと見られる。[[1604年]]には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で[[1612年]]に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアは[[ユグノー]]の髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。
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− | 法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンの[[ブラックフライヤーズ]]の不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅[[ニュー・プレイス]]を購入するまでになっていたことが分かる。
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− | === 晩年 ===
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− | [[ファイル:Nash_House_Stratford.jpg|thumb|250px|引退後のシェイクスピアの終の棲家となった[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]にあるニュー・プレイス]]
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− | シェイクスピアは[[1613年]]に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている<ref>Jonnie Patricia Mobley, William Shakespeare, ''"Manual for Hamlet: Access to Shakespeare"'', Lorenz Educational Publishers, 1996, p. 5.</ref>。
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− | シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「[[婚前交渉]]」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が[[私生児]]を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。
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− | === 死 ===
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− | [[1616年]]4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきった[[ニシン]]から伝染した感染症であるとされるが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。
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− | == 死後 ==
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− | シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは[[1596年]]に夭折している。スザンナは医師の[[ジョン・ホール (医師)|ジョン・ホール]]と結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日<!-- 新しく生まれることはないので、この場合は古くなる表現ではないと思う -->、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になった[[ウィリアム・ダヴェナント]]<ref group="注">17世紀の詩人、劇作家。『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』の改作などを執筆している。</ref>の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント([[1656年]] - [[1714年]]、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント([[1657年]] - [[1681年]])という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実なら、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも[[18世紀]]の初めまで存続したことになる。
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− | === 埋葬 ===
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− | [[ファイル:Stratford Holy Trinity Church3.jpg|thumb|250px|left|ストラトフォードの{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}に建立されたシェイクスピアの墓碑]]
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− | シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにある{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの[[十分の一税]]を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる<ref>Graham Holderness, ''"Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth"'' University of Hertfordshire Press, 2001, pp. 152-54.</ref>シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。
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− | {{cquote|Good friend, for Jesus' sake forbear,<br />
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− | To dig the dust enclosed here.<br />
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− | Blest be the man that spares these stones,<br />
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− | And cursed be he that moves my bones.''}}
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− | シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
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− | == 家族 ==
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− | *父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)
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− | *母方の祖父:ロベルト・アーデン
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− | *父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)
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− | *母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)
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− | *兄弟姉妹
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− | **ジョン・シェイクスピア(1558年)- 長兄
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− | **マーガレット・シェイクスピア(1562年 - 1563年) - 長姉
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− | **ギルバート・シェイクスピア(1566年10月13日 - 1612年2月3日) - 長弟
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− | **ジョーン・シェイクスピア(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - 長妹
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− | **アン・シェイクスピア(1571年 - 1579年) - 次妹
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− | **リチャード・シェイクスピア(1574年 - 1613年) - 次弟
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− | **エドモンド・シェイクスピア(1580年 - 1607年12月31日) - 三弟
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− | *甥、姪 - 長妹ジョーンがウィリアム・ハートと結婚して、3男1女がおり、シェイクスピアからみて甥、姪にあたる。
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− | **ウィリアム(1600年 - 1639年)
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− | **メアリー(1603年 - 1607年)
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− | **トマス(1605年 - 1661年)
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− | **ミカエル(1608年 - 1618年)
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− | *妻と子女
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− | **アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日) - 妻
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− | ***スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日) - 長女。医師のジョン・ホールと結婚し、エリザベス・ホールを儲ける。
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− | ***ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 長男。11歳で夭折。ジュディスとは双子。
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− | ***ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - 次女。ハムネットは双子。居酒屋経営者のトマス・クワイニーと結婚し、3子(下記)を儲ける。
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− | *娘婿
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− | **ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - 長女スザンナの夫。スザンナとの間にエリザベス・ホールを儲ける。
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− | **トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - 次女ジュディスの夫。ジュディスとの間にシェイクスピア、リチャード、トマスの3子(下記)を儲ける。
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− | *孫
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− | **エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - 長女スザンナとその夫ジョンの娘。
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− | **シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 次女ジュディスとその夫トマスの長男。1歳になる前に夭折。
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− | **リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日)- 次女ジュディスとその夫トマスの次男。20歳で死去。
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− | **トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日)- 次女ジュディスとその夫トマスの三男。 19歳で死去。
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− | *孫婿
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− | **トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。
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− | **ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。
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− | *曾孫
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− | **孫4人は子を成すことが無かったため、エリザベスの死でシェイクスピアの直系子孫は断絶している。
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− | ;シェイクスピア姓
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− | :精神学者でシェイクスピアファンの[[ジークムント・フロイト]]は、イギリス人ではないような名前に疑念を抱き、{{仮リンク|チャンドス肖像画|en|Chandos portrait}}を見てより疑念を深めた。フロイトはシェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとみている<ref>Jones, Ernest (1961). The life and work of Sigmund Freud vol. 1. Basic Books. p16</ref><ref>Shapiro (2), James (26 March 2010). "Forgery on Forgery". Times Literary Supplement (5581). pp. 14–15.英語版 p185 </ref>。
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− | == 最初の全集の刊行 ==
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− | 没後7年を経た[[1623年]]、国王一座の同僚であった[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集[[ファースト・フォリオ]]が刊行された。
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− | == 作品 ==
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− | [[ファイル:First Folio.jpg|thumb|200px|最初の全集[[ファースト・フォリオ]](1623年)に掲載された肖像画]]
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− | {{main|シェイクスピアの戯曲|en:Shakespeare's plays}}
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− | シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中で最も優れた文学作品として評価されている。[[1623年]]に[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によって編纂された[[ファースト・フォリオ]]において、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている<ref>Leon Harold Craig, ''Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's "Macbeth" and "King Lear"'' University of Toronto Press, 2003, p. 3.</ref>。
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− | 当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『[[ハムレット]]』([[1601年]]ごろ)は現存していない先行作品(『[[原ハムレット]]』と呼ばれる)を改作したものであることや、『[[リア王]]』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている<ref>G. K. Hunter, ''"English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare"''. Oxford: Clarendon Press, 1997, 494-496.</ref>。また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、[[古代ローマ]]や[[古代ギリシア]]を舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料として主に用いたテキストは2つある。前者の材源は[[プルタルコス]]の『英雄伝』(トマス・ノース ([[:en:Thomas North|Thomas North]]) による[[1579年]]の英語訳<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/JC/plutarch.north.html Plutarch's Parallel Lives]</ref>)であり、後者が依拠しているのは[[ラファエル・ホリンズヘッド|ラファエル・ホリンシェッド]]の『年代記』(''"The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"''、[[1587年]]の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』や『[[リア王]]』の素材ともなっている<ref>Richard Dutton, Jean Howard ed., ''"A Companion to Shakespeare's Works: The Histories"'', Blackwell Publishing, 2003, p. 147.)</ref>。またシェイクスピアは同時代の劇作家[[クリストファー・マーロウ]]<ref group="注">シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた。</ref>の文体を借用していると考えられることもある<ref>Brian Robert Morris, ''"Christopher Marlowe"''. 1968, pp. 65-94. ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、マーロウの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えたと述べている。しかしゲイリー・テイラーは ''"William Shakespeare: A Textual Companion"'' p. 116. において、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論している。</ref>。シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』である<ref>Patrick Murphy, ''"The Tempest: Critical Essays"'', Routledge, 2001.</ref>。
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− | シェイクスピアの戯曲のいくつかは[[四折判]]の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「[[問題劇]]」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。
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− | シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する[[本文批評]]が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる<ref>Richard Dutton, "The Birth of the Author," in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, ''"Texts and Cultural Change in Early Modern England"'' (London: Macmillan, 1997): p. 161.</ref>。こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる<ref>Fredson Bowers, ''"On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists"''. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, p.8-10.</ref>。
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− | 一つの作品について極端に異なる二つのヴァージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる<ref>Alfred W. Pollard, ''"Shakespeare Quartos and Folios"''. London: Metheun, 1909, xi.</ref>。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のヴァージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、{{仮リンク|マドレーン・ドーラン|en|Madeleine Doran}}以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのヴァージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 ''"The Division of the Kingdom"'' において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している<ref>Gary Taylor and Michael Warren, ''"The Division of the Kingdoms"''. Oxford: Clarendon Press. 1983.</ref>。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版と[[オックスフォード版シェイクスピア全集|オックスフォード版]]の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。
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− | === 作風・執筆歴 ===
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− | シェイクスピアの劇作家としての活動は[[1592年]]頃から始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『[[ヘンリー六世 第1部]]』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]の著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。
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− | 最初期の史劇『[[ヘンリー六世 (シェイクスピア)|ヘンリー六世]]』三部作(1590-92年)を皮切りに、『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』『[[間違いの喜劇]]』『[[じゃじゃ馬ならし]]』『[[タイタス・アンドロニカス]]』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。
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− | ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『[[ヴィーナスとアドーニス]]』([[1593年]])や『[[ルークリース陵辱]]』([[1594年]])などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『[[ソネット集]]』もこの時期に執筆されたと推定されている。[[1595年]]の悲劇『[[ロミオとジュリエット]]』以後、『[[夏の夜の夢]]』『[[ヴェニスの商人]]』『空騒ぎ』『[[お気に召すまま]]』『[[十二夜]]』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』二部作などの史劇には登場人物[[フォルスタッフ]]を中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。
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− | [[1599年]]に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひそめていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の'''四大悲劇'''といわれる『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』『[[リア王]]』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『[[終わりよければ全てよし]]』『[[尺には尺を]]』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「[[問題劇]]」と呼ばれている。
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− | 『[[アントニーとクレオパトラ]]』『[[アテネのタイモン]]』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「[[ロマンス劇]]」と呼ばれる。『[[ペリクリーズ]]』『[[シンベリン]]』『[[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]』『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。
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− | シェイクスピアは[[弱強五歩格]]という[[韻律 (韻文)|韻律]]を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように[[散文]]の比率が高い戯曲もある。
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− | == 書誌 ==
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− | 推定執筆年代は、[[リヴァーサイド版シェイクスピア|リヴァサイド版全集]]による。
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− | === 戯曲 ===
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− | ==== 史劇 ====
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− | * [[ヘンリー六世 第1部]](''Henry VI, Part 1''、1589年 - 1590年)
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− | * [[ヘンリー六世 第2部]](''Henry VI, Part 2''、1590年 - 1591年)
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− | * [[ヘンリー六世 第3部]](''Henry VI, Part 3''、1590年 - 1591年)
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− | * [[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]](''Richard III''、1592年 - 1593年)
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− | * [[ジョン王 (シェイクスピア)|ジョン王]](''King John''、1594年 - 1596年)
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− | * [[リチャード二世 (シェイクスピア)|リチャード二世]](''Richard II''、1595年)
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− | * [[ヘンリー四世 第1部]](''Henry IV , Part 1''、1596年 - 1597年)
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− | * [[ヘンリー四世 第2部]](''Henry IV, Part 2''、1598年)
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− | * [[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]](''Henry V''、1599年)
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− | * [[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]](''Henry VIII''、1612 - 1613年)
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− | ==== 悲劇 ====
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− | * [[タイタス・アンドロニカス]](''Titus Andronicus''、1593 - 94年)
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− | * [[ロミオとジュリエット]](''Romeo and Juliet''、1595 - 96年)
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− | * [[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]](''Julius Caesar''、1599年)
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− | * [[ハムレット]](''Hamlet''、1600 - 01年)
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− | * [[トロイラスとクレシダ]](''Troilus and Cressida''、1601 - 02年)<sup>P</sup>
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− | * [[オセロ (シェイクスピア)|オセロー]](''Othello''、1604年)
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− | * [[リア王]](''King Lear''、1605年)
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− | * [[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]](''Macbeth''、1606年)
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− | * [[アントニーとクレオパトラ]](''Antony and Cleopatra''、1606年 - 1607年)
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− | * [[コリオレイナス]](''Coriolanus''、1607年 - 1608年)
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− | * [[アテネのタイモン]](''Timon of Athens''、1607年 - 1608年)
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− | ==== 喜劇 ====
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− | * [[間違いの喜劇]](''Comedy of Errors''、1592年 - 1594年)
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− | * [[じゃじゃ馬ならし]](''Taming of the Shrew''、1593年 - 1594年)
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− | * [[ヴェローナの二紳士]](''The Two Gentlemen of Verona''、1594年)
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− | * [[恋の骨折り損]]('' Love's Labour's Lost''、1594年 - 1595年)
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− | * [[夏の夜の夢]](''A Midsummer Night's Dream''、1595年 - 96年)
| |
− | * [[ヴェニスの商人]](''The Merchant of Venice''、1596年 - 1597年)
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− | * [[ウィンザーの陽気な女房たち]](''The Merry Wives of Windsor''、1597年)
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− | * [[空騒ぎ]](''Much Ado About Nothing''、1598年 - 1599年)
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− | * [[お気に召すまま]](''As You Like It''、1599年)
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− | * [[十二夜]](''Twelfth Night, or What You Will''、1601年 - 1602年)
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− | * [[終わりよければ全てよし]](''All's Well That Ends Well''、1602年 - 1603年)<sup>P</sup>
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− | * [[尺には尺を]](''Measure for Measure''、1604年)<sup>P</sup>
| |
− | * [[ペリクリーズ]](''Pericles, Prince of Tyre''、1607年 - 1608年)<sup>R</sup>
| |
− | * [[シンベリン]](''Cymbeline''、1609 - 10年)<sup>R</sup>
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− | * [[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]](''The Winter's Tale''、1610年 - 1611年)<sup>R</sup>
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− | * [[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]](''The Tempest''、1611年)<sup>R</sup>
| |
− | * [[二人のいとこの貴公子]](''The Two Noble Kinsmen''、1613年)<sup>R</sup>
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− | Rは[[ロマンス劇]]、Pは[[問題劇]]ともカテゴライズされる作品である。
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− | === 詩作品 ===
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− | * [[ソネット集]](''The Sonnets'')
| |
− | * [[ヴィーナスとアドーニス]](''Venus and Adonis'')
| |
− | * [[ルークリース凌辱]](''The Rape of Lucrece'')
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− | * [[情熱の巡礼者]](''The Passionate Pilgrim'')
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− | * [[不死鳥と雉鳩]](''The Phoenix and the Turtle'')
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− | * [[恋人の嘆き]](''A Lover's Complaint'')
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− | === 外典と散逸した戯曲 ===
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− | {{main|シェイクスピア外典}}
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− | * [[エドワード三世 (戯曲)|エドワード三世]](''Edward III''、1596年)
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− | * [[カルデーニオ]](''Cardenio'')
| |
− | * [[恋の骨折り甲斐]](''Love's Labour's Won'')
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− | * ほか
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− | == シェイクスピア別人説 ==
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− | {{main|シェイクスピア別人説}}
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− | シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかと主張する人や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかと主張する者もいる。真の作者として推定された人物には哲学者[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]や第17代オックスフォード伯[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]、同年生れの劇作家[[クリストファー・マーロウ]]、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官[[w:Henry Neville (politician)|ヘンリー・ネヴィル]]などがいる。
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− | もっとも英文学者でまともに別人説を取上げる人はほとんどいないようである。全戯曲を翻訳したシェイクスピア研究家の[[小田島雄志]]は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と一蹴している。
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− | 2016年には方言や言語表現のビッグデータの解析により、ヘンリー六世などの17作品がクリストファー・マーロウとの共作であることが明らかとなった<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3105572 シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明] AFPBB 2016-10-25</ref>。
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− | == 備考 ==
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− | * [[日本]]の[[千葉県]][[南房総市]]に、シェイクスピアの生家が忠実に再現されている公園がある。
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− | * ロンドン橋の近くに、[[グローブ座]]が再建されている。
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− | * 2005年4月21日、[[イギリス国立肖像画美術館]]は、多くの本の表紙を飾るシェイクスピアの肖像画『フラワー・シェイクスピア』の描かれた時期が生存中の作ではなく、その死後約200年後の1814年 - 1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
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− | * 2009年3月9日、生前の肖像画と考えられるものが発見された。
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− | * [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「偉大な英国人」投票で第5位となった。
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− | * [[1970年]]から[[1993年]]にかけて用いられた20[[スターリング・ポンド|UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。
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− | == 関連作品 ==
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− | 各作品の派生作品については、その作品の記事を参照のこと
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− | * 映画『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』([[1966年]]、監督:[[オーソン・ウェルズ]]、『リチャード三世』・『ヘンリー四世』・『ヘンリー五世』・『ウィンザーの陽気な女房たち』、およびラファエル・ホリンシェッドの『年代記』を再構成)
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− | * 映画『[[恋におちたシェイクスピア]]』([[1998年]]、監督:[[ジョン・マッデン (映画監督)|ジョン・マッデン]])
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− | * 演劇『ソネットの黒婦人(The Dark Lady of the Sonnets)』:[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]作。『[[ソネット集]]』の黒婦人のモデルとされる女性と、シェイクスピア、[[エリザベス1世|エリザベス女王]]を主たる登場人物として書かれた喜劇。
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− | * 演劇『[[天保十二年のシェイクスピア]]』:[[井上ひさし]]作。『[[リア王]]』『[[ハムレット]]』『[[ロミオとジュリエット]]』をはじめとしたシェイクスピア全作品の筋書き・台詞を組み合わせ、舞台を江戸期の日本に置き換えた戯曲。
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− | * 戯曲の小説化『シェイクスピア物語』:[[チャールズ・ラム]]、[[メアリー・ラム]]
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− | * テレビドラマ『[[未来世紀シェイクスピア]]』([[2008年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、監督:[[二階健]])
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− | * 漫画『[[7人のシェイクスピア]]』:[[ハロルド作石]]作、[[ビッグコミックスピリッツ]]連載
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− | * 映画『[[もうひとりのシェイクスピア]]』([[2011年]]、監督:[[ローランド・エメリッヒ]]) [[シェイクスピア別人説]]をモチーフとしている。
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− | * 舞台『[[Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜]]』([[2016年]]、作・演出:[[生田大和]]、主演:[[朝夏まなと]]、[[実咲凜音]])
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− | * コミック『[[サンドマン (ヴァーティゴ)|サンドマン]]』:[[ニール・ゲイマン]]作。シェイクスピアと作品を扱った短編 ''A Midsummer Night's Dream'' で[[世界幻想文学大賞]]を受賞した。
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− | == 日本の著名な訳者 ==
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− | {{div col||20em}}
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− | * [[坪内逍遥]]
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− | * [[三神勲]]
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− | * [[竹友藻風]]
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− | * [[本多顕彰]]
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− | * [[福原麟太郎]]
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− | * [[西脇順三郎]]
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− | * [[小津次郎]]
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− | * [[中野好夫]]
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− | * [[木下順二]]
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− | * [[平井正穂]]
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− | * [[福田恆存]]
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− | * [[永川玲二]]
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− | * [[野島秀勝]]
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− | * [[小田島雄志]]
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− | * [[安西徹雄]]
| |
− | * [[河合祥一郎]]
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− | * [[松岡和子]]
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− | * [[浅野和三郎]](若き日のみ)
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− | {{div col end}}
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− | 日本で最初の完全なかたちで翻訳されたシェイクスピア劇は『ジュリアス・シーザー』で、1883年に河島敬蔵の訳で大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に連載された<ref>[https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/asano37.pdf 日本における『ロミオとジュリエット』 ]佐野昭子、『帝京大学文学部紀要― 米英言語文化』第37号、平成18年度</ref>。
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− | == 脚注 ==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | === 注釈 ===
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− | {{reflist|group="注"}}
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− | === 出典 ===
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− | {{reflist}}
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− | == 関連項目 ==
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− | * [[イギリス・ルネサンス演劇]]
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− | * [[復讐悲劇]]
| |
− | * [[問題劇]]
| |
− | * [[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]]
| |
− | * [[サミュエル・ジョンソン]]
| |
− | * [[オックスフォード版シェイクスピア全集]]
| |
− | * [[リヴァーサイド版シェイクスピア]]
| |
− | * [[シェイクスピアの性的指向論争]]
| |
− | * [[シェイクスピアの文句を題名にした作品一覧]]
| |
− | * [[:Category:天王星の衛星]] - ほとんどがシェイクスピア作品の登場人物から名付けられている。
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− | == 外部リンク ==
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− | {{Wikisource author|William Shakespeare|ウィリアム・シェイクスピア}}
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− | {{Commons&cat|William Shakespeare }}
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− | * {{青空文庫著作者|264}}
| |
− | * [http://shakes.meisei-u.ac.jp/ 明星大学シェイクスピアコレクションデータベース]
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− | * [http://internetshakespeare.uvic.ca/ Internet Shakespeare Editions]
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− | * {{Internet Archive author|name=William Shakespeare}}
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− | {{シェイクスピア}}
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− | {{Normdaten}}
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| + | イギリスの詩人,劇作家。公式には4月 23日が誕生日とされている。裕福な商人の長男として生れ,父は一時は町長に選ばれたが,まもなく没落したため,彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで,大学に進んだ形跡はない。 18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚,1男2女を得たが,その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。おそらく 20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り,俳優として出発,やがて劇作に転じたものと思われる。劇作は 1590年頃から開始され,最初はバラ戦争を主たる背景とする『[[ヘンリー6世]]』 Henry VI3部作 (1590~92) ,『[[リチャード3世]]』 Richard III (93) ,笑劇に近い喜劇『[[じゃじゃ馬ならし]]』 The Taming of the Shrew (94) を書いていたが,94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ,『[[ロミオとジュリエット]]』 Romeo and Juliet,『[[夏の夜の夢]]』A Midsummer Night's Dream,『リチャード2世』 Richard II (いずれも 95) などの抒情的な作品を発表,さらに愛の喜劇のなかに[[シャイロック]]の悲劇を描いた『[[ベニスの商人]]』 The Merchant of Venice (96) ,[[フォールスタッフ]]の登場で有名な『[[ヘンリー4世]]』 Henry IV2部作 (97) ,生の歓喜のなかにも生きることのきびしさや,ときには生の倦怠さえも暗示する『[[お気に召すまま]]』 As You Like It (99) ,最高の喜劇『[[十二夜]]』 The Twelfth Night (1600) を書いた。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ,生と死,善と悪,罪と罰,仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『[[ハムレット]]』 Hamlet (1600) ,『[[オセロ]]』 Othello (04) ,『[[リア王]]』 King Lear (05) ,『[[マクベス]]』 Macbeth (06) の四大悲劇を創作した。 1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ,『[[シンベリン]]』 Cymbeline (09) ,『[[冬の夜ばなし]]』 The Winter's Tale (10) ,単独作としては最後の『[[あらし]]』 The Tempest (11) を書いた。詩としては,サウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス』 Venus and Adonis (1593) ,『ルクリースの凌辱』 The Rape of Lucrece (94) ,英詩では最大にして最高の『[[ソネット集]]』 Sonnets (1609) などがある。天成の詩人であった彼は[[無韻詩]]を縦横に駆使して韻文劇を創作し,その内容の深さと相まって最高の戯曲をつくり出した。その伝記に不明な部分があるため,シェークスピアの実在に疑問をいだく説 (たとえばシェークスピアは F.ベーコンの筆名であるという) もあったが,現在では顧みられない。 |
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| [[Category:シェイクスピア|*]] | | [[Category:シェイクスピア|*]] |