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[[ファイル:David - Portrait of Monsieur Lavoisier and His Wife.jpg|thumb|right|260px|ジャック=ルイ・ダヴィッドによって描かれたラヴォアジエと妻{{仮リンク|マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ|fr|Marie-Anne Pierrette Paulze}}の肖像画]]
 
[[ファイル:Antoine Lavoisier Traité Élémentaire de Chimie 1789.jpg|thumb|240px|『[[化学要論]]』([[名古屋市科学館]]展示、[[金沢工業大学]]所蔵]]
 
[[ファイル:Antoine Lavoisier Traité Élémentaire de Chimie 1789 Toppage.jpg|thumb|240px|『[[化学要論]]』([[名古屋市科学館]]展示、[[金沢工業大学]]所蔵]]
 
[[ファイル:Lavoisier decomposition air.png|thumb|240px|マリー=アンヌが描いた実験図。A側の方を熱してAは[[水銀]]、Eは空気である]]
 
[[ファイル:Lavoisier humanexp.jpg|thumb|240px|[[呼吸]]と燃焼の実験]]
 
[[ファイル:Zoom lunette ardente.jpg|thumb|240px|[[ダイヤモンド]]の燃焼実験]]
 
[[ファイル:SeimiKaisouChemistry.jpg|thumb|240px|[[宇田川榕菴]]により描かれた『舎密開宗』。[[蘭学]]として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験図]]
 
[[ファイル:Lavoisier cour Napoleon Louvre.jpg|thumb|200px|[[1853年]]、{{仮リンク|ジャック=レオナール・マイエ|fr|Jacques-Léonard Maillet}}によって作られたラヴォアジエ([[ルーヴル宮殿]])]]
 
[[ファイル:Antoine lavoisier color.jpg|thumb|240px|アントワーヌ・ラヴォアジエ]]
 
[[ファイル:Lavoisier und Nemours.png|thumb|240px|[[研究室]]内の{{仮リンク|エルテール・イレネ・デュ・ポン|fr|Éleuthère Irénée du Pont de Nemours}}とラヴォアジエ]]
 
'''アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ'''(ラボアジェなどとも、[[フランス語]]:Antoine-Laurent de Lavoisier, {{IPA-fr|ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje|}}、[[1743年]][[8月26日]] - [[1794年]][[5月8日]])は、[[フランス王国]][[パリ]]出身の[[化学者]]、[[貴族]]。[[質量保存の法則]]を[[発見]]、[[酸素]]の[[命名]]、[[フロギストン説]]を打破したことから「'''近代化学の父'''」と称される<ref>[[ドイツ]]の[[思想家]][[フリードリヒ・エンゲルス]]はその著書『[[自然の弁証法]]』で、「「'''近代化学の父'''」と呼ぶ人物には[[ジョン・ドルトン]]が相応しい」としている。</ref>{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}<ref name="kotoba1">[http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8 ラボアジエとは] - [[コトバンク]]、2013年3月27日閲覧。</ref>{{sfn|ロイド|2012|p=411}}{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=352}}{{sfn|世界文化大百科事典|1971|p=8}}。
 
 
[[1774年]]に[[体積]]と[[重量]]を[[精密]]にはかる定量実験を行い、[[化学反応]]の前後では[[質量]]が変化しないという質量保存の法則を発見<ref name="kotoba1"></ref>{{sfn|大宮|2005|p=42}}{{sfn|臺、鈴木|2008|p=184}}。また、[[ドイツ]]の化学者、[[医師]]の[[ゲオルク・シュタール]]が提唱し当時支配的であった、「[[燃焼]]は一種の分解現象でありフロギストンが飛び出すことで熱や炎が発生するとする説([[フロギストン説]])」を退け、1774年に燃焼を「酸素との[[結合]]」として説明した最初の人物で、[[1779年]]に酸素を「オキシジェーヌ(''oxygène'')」と命名した{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。ただし、これは[[アレニウス酸|酸]]と酸素とを混同したための命名であった。
 
 
しばしば「酸素の発見者」と言及されるが、酸素自体の最初の発見者は、イギリスの[[医者]][[ジョン・メーヨー]]が[[血液]]中より酸素を発見していたが、当時は受け入れられず、その後[[1775年]]3月に[[イギリス]]の[[自然哲学者]]、[[教育者]]、[[神学者]]の[[ジョゼフ・プリーストリー]]が再び発見し、プリーストリーに優先権があるため、厳密な表現ではない<ref name="wakewakaran">{{Harvnb|Kuhn|1996|pp=53–60}}; {{Harvnb|Schofield|2004|pp=112–13}}。進展中だった[[科学革命]]の中でプリーストリーの他に[[スウェーデン]]の化学者、[[薬学者]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が個別に酸素を発見しているため、正確に特定することは困難だが、結果としてラヴォアジエが最初に酸素を「酸素(''oxygène'')」と命名したことに変わりはない。また[[アメリカ]]の[[科学史]]家の [[トーマス・クーン]]は『[[科学革命の構造]]』の中で[[パラダイムシフト]]の概念で説明しようとした。</ref>。なお、プリーストリーは酸素の発見論文を1775年に[[王立協会]]に提出しているため、[[化学史]]的に酸素の発見者とされる人物はプリーストリーである{{sfn|桜井|2009|p=65}}。
 
 
また、化学的には誤りではあったが物体の温度変化を「カロリック」によって引き起こされるものだとし、これを体系づけてカロリック説を提唱した。
 
{{see|カロリック説}}
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生から学生時代 ===
 
1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な[[弁護士]]である父の下に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃に[[母]]を失い、莫大な遺産を引きついだ<!-- フランス語版より-->。そして[[叔母]]の下で育てられた{{sfn|万有百科大事典|1974|p=641}}。
 
 
[[1754年]]より[[1761年]]まで{{仮リンク|マザラン学校|fr|Collège des Quatre-Nations}}で[[化学]]、[[植物学]]、[[天文学]]、[[数学]]を学ぶ。その後は父の職を継ぐべく[[法律家]]を目指した。
 
 
1761年からは[[パリ大学]][[法学部]]に進学して[[1763年]]に[[学士号]]を修得。翌年[[1764年]]には[[弁護士試験]]に合格して[[高等法院 (フランス)|高等法院]][[法学士]]となるがパリ大学在学中に同国出身の[[天文学者]]である[[ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ]]、[[博物学者]]の[[ベルナール・ド・ジュシュー]]からは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった博物学者、[[鉱物学者]]の[[ジャン=エティエンヌ・ゲタール]]からは[[地質学]]と[[鉱物学]]を、化学者の{{仮リンク|ギヨーム=フランソワ・ルエル|fr|Guillaume-François Rouelle}}からは化学を学んで[[自然科学]]に興味を持つようになる{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}{{sfn|万有百科大事典|1974|p=641}}。また、法学部に[[在籍]]しているにもかかわらず化学の[[講義]]を聴講したり<ref name="kotoba1"></ref>、[[喜望峰]]に滞在して天文学の研究をしたり{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=352}}、ゲタールと共にフランスの[[地質図]]作成に協力した{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。
 
 
その後もゲタールと[[アルザス=ロレーヌ]]などを[[旅行]]して各地を回った際、各地方の[[石膏]]に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエの最初の研究であった{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべき定量実験の兆しであり、推測ではない確実な実験が重視されている{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
 
 
=== フランス科学アカデミー入会から結婚まで ===
 
[[1766年]]に[[フランス科学アカデミー]]が『都市の街路に最良な夜間照明法』というテーマで論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にもかかわらず[[1766年]]4月9日に1等賞を得て{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=352}}、時の[[フランス国王]]であった[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]より[[金メダル]]が授与された。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた[[飲料水]]の[[分析]]した[[結果]]を発表して{{sfn|廣田|2013|p=33}}[[1768年]]5月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。この頃よりイギリスの化学者で[[物理学者]]の[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]が[[水素]]を発見したが、ラヴォアジエは[[水]]や[[燃焼]]に興味を示して、当時支配的であった[[四大元素]]説で「[[水]]は[[土]]に変わることがある」という説があったが、同年末から翌[[1769年]]にかけて、水をガラス容器に入れて101日間も密閉状態で沸騰させた後に正確に重さを測る実験(「ペリカン<ref>ここでのペリカンは[[鳥]]の[[ペリカン]]ではなく形が鳥のペリカンに似ていることからペリカンと名付けられた[[蒸留器]]を指す。</ref>の実験」)を行い、「水は土に変化しうる」という説は正しくないことを示した。
 
 
1768年にフランス科学アカデミーから『空から巨大な石が落下して農夫が働いていた近くの地面にめり込んだ』という報告書の検討を依頼された際、ラヴォアジエは、空から巨大な石が落下することは絶対にないと思い目撃者の勘違いか嘘と返事した<ref>{{Cite book|author=コリン・ウィルソン|title=世界不思議百科|date=1989年6月30日|year=|publisher=青土社|page=15ページ}}</ref>。
 
 
ラヴォアジエは裕福で[[資産]]を十分に持っており、実験器具を買うお金があったにもかかわらず、実験器具を買う費用を資産からは出さず、自分の資産を有利に運用しようと、1768年頃より徴税請負人の仕事([[市民]]から[[税金]]を取り立て経済的に苦しめ[[国王]]に引き渡すかわりに自分は高収入を得る仕事で、しばしば市民を過剰に苦しめたので、当時の市民から憎まれていた職業)に就いた。また、ラヴォアジエにとって実験とは"[[道楽]]"であると物理学者の[[小山慶太]]は述べており{{sfn|小山|2013|p=66}}、週に1日は実験に耽り、ラヴォアジエはその1日を"幸福の1日"と呼んでいた{{sfn|小山|2013|p=67}}。
 
 
[[1771年]]12月6日、徴税請負人[[長官]]のジャック・ポールズ(Jacques Paulze)の[[娘]]である{{仮リンク|マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ|fr|Marie-Anne Pierrette Paulze}}と、[[パリ]]にある{{仮リンク|サンロック教会|fr|Église Saint-Roch (Paris)}}で[[結婚]]する。二人の間に[[子供]]はできなかったものの、妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと[[英語]]・[[ラテン語]]・[[イタリア語]]を学び、<!-- 意味が不明  {{要出典}}[[系統学]]的な-->化学や[[絵画]]の描き方などを習得。そして[[アイルランド]]の[[科学者]]である[[リチャード・カーワン]]やプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に[[翻訳]]し、実験の際には非常に細かい点まで[[スケッチ]]し、記録に残した<ref>{{Citation|last1=川島 |first1 = 慶子 |coauthors= |year=2006|title= ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か? |journal=サイエンスネット |publisher=数研出版 |volume= |issue= 26|pages=6-9 |doi =  |url = http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf |format =PDF|accessdate = 2011-02-04}}</ref>。
 
 
=== 様々な実験から『化学命名法』出版まで ===
 
[[1772年]]頃には貴族の[[地位]]を金で得た。[[1775年]]頃は火薬硝石公社の[[火薬]]管理[[監督官]]となり、翌1776年には兵器廠(砲兵[[工廠]])に移り住み、そこに実験室をつくり、実験の大部分をそこで行うことになった。また、マリー=アンヌも自身のサロンを構え、客人を招いていた{{sfn|廣田|2013|p=33}}。余談だが、この実験室は他の化学者達が集う場所として有名になった{{sfn|世界文化大百科事典|1971|p=8}}。同実験室で[[大砲]]用の火薬を改良し、[[硝石]]の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた{{sfn|ロイド|2012|p=411}}<ref>参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ</ref>。そして、火薬に[[炭酸カリウム]]を入れると[[火力]]が上がることを発見して[[農家]]に報酬金を支払うことで硝石を作らせた。このようにラヴォアジエは[[農業]]にも関心を示し、後に王立農業学会、フランス政府の農業委員会に加わることとなった{{sfn|ロイド|2012|p=411}}。
 
 
1774年1月に上記の「ペリカンの実験」より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し、質量は変化しないとする法則(「質量保存の法則」)を発見。
 
 
当時は燃焼を説明する[[理論]]としては、シュタールのフロギストン説が最も知られ、主流([[正統]])であった。同説は、燃焼とは一種の[[分解]]現象だと説明し、燃焼物中に含まれていた[[フロギストン]]が出てきて熱や炎となる、とされた。ただし、一般に燃焼によって重量が軽くなるのに対し、金属を加熱して金属灰にすると重量が増すことが明らかになっていて、その矛盾が課題になっていた。ラヴォアジエは1772年に、まず[[リン]]を燃焼させる実験を行ってその重量が増加することを確認し、それに続いて[[硫黄]]についても燃焼実験を行い同様に重量が増すことを確認したが、この燃焼実験のときに、[[空気]]が吸収されたことから、燃焼のときに重量が増加する原因は、空気が燃焼物に吸収されることによるのだと考え、1773年初頭に、燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しようと決意した。この段階で、ラヴォアジエはフロギストンの存在を否定したりはせず、「燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる」とした{{sfn|廣田|2013|p=29}}。またラヴォアジエは、吸収される空気は、ブラックが1755年ころ発見した「固定空気」(現在で言うところの「[[二酸化炭素]]」)ではないかと推定していた{{sfn|廣田|2013|p=29}}。
 
なお、ラヴォアジエは[[1773年]][[2月20日]]付けの[[実験ノート]]に「化学に於ける革命になる」と書いた{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
 
 
1774年4月には[[レトルト]]に[[錫]]を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、アイルランドの貴族で化学者の[[ロバート・ボイル]]が提唱した「火の粒子(フロギストン)」は存在しない、と判断。同年の11月12日にフランス科学アカデミーでそれを発表した。なお、同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れ、彼から、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくる、その気体は燃焼を助ける、という話を聴いた{{sfn|廣田|2013|p=28}}。
 
翌1775年に、ラヴォアジエは酸化水銀を強熱してある種の気体を得る実験を繰り返し<ref>注 - [[水銀]]を12日間加熱した</ref>、その気体と「固定空気」(=二酸化炭素)とは別のものだと断定した{{sfn|廣田|2013|p=29}}彼はこの気体と結合することで[[酸]]が生じる、と考えたので、この気体を「''oxygène'' オクシジェーヌ」(酸の素となるもの、と言う意味)と命名した。
 
 
燃焼とは、この気体と物質が結合することだと気づいた。だが実は、[[スウェーデン]]の化学者で[[薬学者]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が1773年頃にその物質をすでに発見しており「傷んだ空気」と呼んでいて、未発表であったにすぎなかった。
 
 
[[1777年]]に燃焼は「物質と気体が結合すること」と説明し、[[1779年]]にその気体を「oxygène(酸素)」と名付けた(実際は水素イオンであった{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}})。
 
 
[[1781年]]にキャヴェンディッシュが、別の ある気体と酸素を混ぜて[[水]]をつくり出した実験に関心を示したラヴォアジエは[[1783年]]にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水は元素でないこと、物質が組み合わさってできているものであることを証明し、その別の気体を、水を作り出す素であるという理屈で「''hydrogène'' イドロジェーヌ」(「水の素」という意味)と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然と完全否定するようになった{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。[[1782年]]から翌年の[[1783年]]にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者である[[ピエール=シモン・ラプラス]]と共に氷熱量計を作り、1777年には、[[動物]]の[[呼吸]]というのは、一種の燃焼であることを実験によって裏付けた{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。(つまり酸素と結合することであると示した)。
 
 
[[1787年]]、ラヴォアジエは同国出身の化学者で医師の[[クロード・ルイ・ベルトレー]]や[[ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー]]、{{仮リンク|アントワーヌ・ド・フルクロワ|fr|Antoine François, comte de Fourcroy}}らとともに、新しい化学用語が書かれた『化学命名法』を著した。これは[[元素]]に新たな定義を与え、物質の[[命名]]法を定め、また、[[水]]の成分が酸素と水素である、と記したものであった。ただし、これについては実はラヴォアジエに先立ってキャヴェンディッシュが既に発見していて、最初の発見者は彼なのだが、かなりの変わり者で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。
 
 
同年の1787年からは彼が所有地を持つ[[オルレアン]]の[[地方議会]]で第三身分の代議員になっていた。フランスでは当時、専制的な王が無駄遣いや贅沢の限りをつくし、国民を苦しめており、1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。
 
 
=== フランス革命勃発、『化学原論』出版から処刑まで ===
 
[[1789年]]、ラヴォアジエは『{{仮リンク|化学原論|en|Traité Élémentaire de Chimie}}(邦訳名:化学のはじめ)』を出版し、そこで現在の[[元素]]に相当する、33の単一物質のリスト<ref name="interfaces">Traité élémentaire de chimie,  p.192。[http://bibulyon.hypotheses.org/2194]  [http://megalodon.jp/2013-0405-0144-32/bibulyon.hypotheses.org/2194]</ref> を示した。これにより、化学の革命を成し遂げた、ともいえる。(ただし、そのリストには[[カロリック]]([[熱素]])も含まれている<ref name="interfaces" />)。
 
13個の[[図版]]はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は[[塩基]]や[[酸]]、[[塩]]に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある{{sfn|万有百科大事典|1974|p=643}}。因みに『化学原論』は出版からその後の10年間、[[ヨーロッパ]]全土で標準的な[[教科書]]とされた{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。なお同年、ラヴォアジエは新たに[[窒素]]を[[ギリシア語]]で「[[生命]]がない」と言う意の表現「アゾティコス」(azotikos)に因んで「アゾート」(azote)と名付けた{{sfn|桜井|2009|p=57}}。
 
 
同年1789年7月14日には[[バスティーユ襲撃]]が勃発し[[フランス革命]]が進行。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。
 
 
[[1790年]]には各温度を測り、体積の[[蒸留水]]の質量を測定して新しい質量の[[単位]]を決議するため新[[度量衡法]]設立[[委員会]]の委員を務めた。この頃にはラヴォアジエの実験の対象は気体の化学から、呼吸と燃焼の関係性を調べる[[生理学]]的なものに移っていった{{sfn|大日本百科事典|1971|p=424}}
 
 
[[1791年]]に徴税請負制度が廃止されたが、ラヴォアジエはフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に財政的な腕が買われて国家財政委員に任命された。ラヴォアジエはフランスの金融や徴税制度を改革しようとした。
 
 
フランス革命がひたひたと進行する中、[[1792年]]ラヴォアジエは政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居(実験室でもある住居)からも引っ越し、科学アカデミーの活動に専念する。しかし、革命によりフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わった。
 
 
[[1793年]][[11月24日]]には革命政府は(それまで専制的な王の手先・共犯者となり市民を苦しめていた者である)徴税請負人を全員逮捕すべく指名手配した。彼ら徴税請負人は、市民から正規の税に加え、しばしば不当で高額な手数料をさらにとり、市民を苦しめていたためである。ラヴォアジエは[[自首]]したが、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に[[投獄]]された。しかし、ラヴォアジエはそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。
 
 
[[1794年]]5月8日、[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]における[[審判]]で「フランス人民に対する[[陰謀]]」との罪<ref>参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ</ref><ref>あるいは「水と[[有害物質]]を[[タバコ]]に混入した」との架空の罪。</ref>で[[死刑]]の[[判決]]が下った。ラヴォアジエの[[弁護人]]はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して[[弁論]]を行ったが「[[共和国]]に[[科学者]]は不要である<ref>La République n'a pas besoin de savants ni de chimistes.</ref>」と[[裁判長]]の{{仮リンク|ジャン=バティスト・コフィナル|en|Jean-Baptiste Coffinhal}}に指摘され、その日のうちに[[コンコルド広場]]にある[[ギロチン]]で処刑された。なお、ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあった[[ジャン=ポール・マラー]]が、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって却下されたこと(定量実験をモットーとするラヴォアジエによれば「実験もせず憶測の内容であったため」却下)への逆恨みによるものである、とも伝えられている<ref>但し、マラーは投獄に関与があった可能性までは排除できないが、[[1793年]][[7月13日]]に殺害されており、処刑に関与があったとは考えにくい。</ref>。
 
 
同国出身の天文学者である[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]は、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」<ref>Il ne leur a fallu qu'un moment pour faire tomber cette tête et cent années, peut-être, ne suffiront pas pour en reproduire une semblable.</ref> とラヴォアジエの才能を惜しんだ<ref>[http://www.uh.edu/engines/epi728.htm No. 728:DEATH OF LAVOISIER]、2013年4月14日閲覧。</ref>。
 
 
[[2013年]]現在ではパリの[[市役所]]には、ラヴォアジエの功績を讃えて像が飾られている。
 
 
== ギロチンの都市伝説 ==
 
ラヴォアジエがギロチンにかけられる際、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行なったという話がある。<ref>[http://x51.org/x/06/05/0417.php 斬首 ― 切断された人間の頭部は意識を有するか] - X51.ORG、2013年4月14日閲覧。</ref>しかしながらラヴォアジエの処刑は35分間で26人を処刑する流れ作業の途中で行われ、その場にはラグランジュら数名の科学者が立ち合ってはいたものの、警察官の列によってギロチンから隔離されており、そのような実験をする時間も猶予もなかった。また、実験を依頼されたのはしばしばラグランジュとされているにもかかわらず、ラグランジュの著書にそのような記述は全くない。よってこれらの話は事実ではなく、[[ギロチン#斬首後に意識はあるか|ボーリュー医師の1905年の論文]]などをもとに[[1990年代]]以降創られた[[都市伝説]]であると考えられる。1998年に[[ディスカバリーチャンネル]]で放送された番組『ギロチン』の中で、神経外科医の解説とともに出所不明のまま取り上げられてしまったことで<ref>Adams, C. "Triumph of the Straight Dope," Ballantine Books: New York, NY 1999. なお番組で解説した神経外科医のRobert Finkは後の取材に対し、この話は知り合いから聞かされた話であり、話の出所までは確認していなかったと答えている。</ref>、この都市伝説が広まってしまったと歴史家のジェンセンは指摘している。<ref name=Jensen>Jensen, W. B. "Did Lavoisier Blink?" J. Chem. Educ. 2004, 81 (5) , 629.</ref>
 
 
また、かつて[[サーモフィッシャー・サイエンティフィック]]社がラヴォアジエの[[デスマスク]]を所有していると主張した時期があるが、こちらも贋作であると考えられる<ref name=Jensen/>。
 
 
== ラヴォアジエの元素表 ==
 
ラヴォアジエは、『化学原論』で、次の33項目を単一物質<ref>敢えて訳せば[[元素]]とも訳せる。</ref>として挙げている。光と熱素、土、ホウ酸基の4つは、現在では元素として扱われていない。
 
{|class="wikitable"
 
!分類!!元素
 
|-
 
|自然界に広くあるもの(5つ)||[[光]]、カロリック([[熱素]])、[[酸素]]、[[窒素]]、[[水素]]
 
|-
 
|非金属(6つ)||[[硫黄]]、[[リン]]、[[炭素]]、塩酸基([[塩素]])、フッ酸基([[フッ素]])、ホウ酸基
 
|-
 
|金属(17つ)||[[アンチモン]]、[[銀]]、[[ヒ素]]、[[ビスマス]]、[[コバルト]]、[[銅]]、[[スズ]]、[[鉄]]、[[モリブデン]]、<br />[[ニッケル]]、[[金]]、[[白金]]、[[鉛]]、[[タングステン]]、[[亜鉛]]、[[マンガン]]、[[水銀]]     
 
|-
 
|土(5つ)||ライム([[酸化カルシウム]])、[[酸化マグネシウム|マグネシア]]、バリタ([[酸化バリウム]])、[[アルミナ]]、[[シリカ]]
 
|}
 
  
== 脚注 ==
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'''アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ'''(ラボアジェなどとも、[[フランス語]]:Antoine-Laurent de Lavoisier, {{IPA-fr|ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje|}}、[[1743年]][[8月26日]] - [[1794年]][[5月8日]])
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== 参考文献 ==
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フランスの化学者。弁護士の家に生れる。コレージュ・マザラン,法科大学で学び,在学中から地質学者 J.E.ゲタールについて地質調査を行い,科学への関心を深めていく。市街の照明施設に関するパリ科学アカデミーの懸賞に応募,注目を集めた (1766)
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 ISBN 4-562-03729-6
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。科学アカデミー会員 (78) ,同幹事長 (87) 。また国家の徴税請負人となり (68) ,1772年には貴族の称号を買収。火薬監督官 (75) 。自分の広大な所有地で農事改良にもたずさわる。革命政権下で度量衡改正委員。しかし旧体制に深くかかわっていたため,逮捕投獄され
* {{Cite book|和書 |author= 植村琢 |authorlink= 植村琢 |coauthors= 崎川範行、[[桜田一郎]][[水島三一郎]] |editor= [[相賀徹夫]] |others= |title= 万有百科大事典 15 化学 |origdate= 1974-10-20 |url= |format= |accessdate= |edition= 初版 |date= |year= |publisher= [[小学館]] |location= |series= [[日本大百科全書]] |language= 日本語 }}
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(93) ,94年ギロチンにかけられ処刑された。ラボアジエの化学研究は包括的な枠組みのなかで既知の諸現象を精密な定量的実験に裏づけられた新しい解釈のもとに体系化し直し,近代化学の壮大な基礎を据えるものであった。代表的な業績を上げると,伝統的元素観に基づいて信じられていた水の土への転換説を決定的に否定したこと (69) ,燃焼に関する従来の[[フロギストン説]]を排して,少くとも 77年までには新しい酸化=燃焼理論を確立したこと,H.キャベンディッシュによる水の分解実験を知り,反フロギストン説の立場から新解釈を加え,水の組成を確定したこと (83) などがある。また彼の研究が精密秤量技術を駆使したきわめて定量的なものであったことは,近代化学研究の基礎となった[[質量保存の法則]]の明確な定式化 (89) を生んだ。さらに革新的な元素観に基づいて,新しい単体表 (33種) を提出し,また新しい化学の術語体系を C.[[ベルトレ]]らとの共著『化学命名法』 Méthode de Nomendature Chimique (87) で提唱した。主著『化学要論』 (89) 。
* {{Cite book|和書 |author=|authorlink=|coauthors=|editor= [[林達夫]] |others= |title= 世界大百科事典 31 ユシーリョ|origdate= 1972-4 |url= |format= |accessdate= |edition= 1972年版 |date= |year= |publisher= [[平凡社]] |location= |series= [[世界大百科事典]] |language= 日本語 }}
 
* {{Cite book|和書 |author=大沼正則|authorlink=大沼正則|coauthors=|editor= [[林達夫]] |others= |title=大日本百科事典 18 よーん|origdate= 1971-9-15 |url= |format= |accessdate= |edition= 1971年版 |date= |year= |publisher= [[小学館]] |location= |series= [[日本大百科全書]] |language= 日本語 }}
 
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|coauthors=|editor=[[鈴木泰二]]|others=|title=グランド現代百科事典 29 ヤシチーリツフ|origdate=1983-6-1|url=|format=|accessdate=|edition=|date=|year=|publisher=[[学習研究社]]|location=|series=|language=日本語}}
 
* {{Cite book|和書|author=|authorlink=|coauthors=|editor=[[鈴木勤]]|others=|title=世界文化大百科事典 11 ラファーワンリ 索引|origdate=1971|url=|format=|accessdate=|edition=|date=|year=|publisher=[[世界文化社]]|location=|series=|language=日本語}}
 
* {{Cite book|和書|author=小山慶太|authorlink=小山慶太|coauthors=|editor=[[小林敬和]]|others=|title=科学史人物事典 150のエピソードが語る天才たち|origdate=2013-2-25|isbn=978-4121022042|url=|format=|accessdate=|edition=初版|date=|year=|publisher=[[中央公論新社]]|location=|series=|language=日本語}}
 
* {{Cite book|和書 |author= 桜井弘 |authorlink= 桜井弘 |coauthors= |editor= 桜井弘 |others= |title= 元素111の新知識 第2版 |origdate= 2009-1-20 |isbn= 978-4062576277 |url= |format= |accessdate= |edition= 第2版 |date= |year= |publisher= [[講談社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
 
* {{Cite book|和書 |author= 大宮信光 |authorlink= 大宮信光 |coauthors= |editor= 阿部林一郎 |others= |title= 世界を変えた科学の大理論100 |origdate= 1998-12 |isbn= 978-4537115109 |url= |format= |accessdate= |edition= 第2版 |date= |year= |publisher= [[日本文芸社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
 
* {{Cite book|和書|author=廣田襄|authorlink=廣田襄|coauthors=|editor=[[檜山爲次郎]]|others=|title=現代化学史 原子・分子の科学の発展|origdate=2013-10-5|isbn=978-4876982837|url=|format=|accessdate=|edition=初版|date=|year=|publisher=[[京都大学学術出版会]]|location=|series=|language=日本語}}
 
* {{Cite book|和書|author=マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ|authorlink=|coauthors=|translator=[[久芳清彦]]|editor=[[川畑慈範]]|title=科学は歴史をどう変えてきたか その力、証拠、情熱|origdate=2011-08-22|edition=初版第1刷|language=日本語|isbn=978-4487805259}}
 
* {{Cite book|和書 |author= 臺靖 |authorlink= 臺靖 |coauthors= 鈴木敏平 |editor= 全国歴史教育研究協議会 |others= |title= 世界史B用語集 改訂版|origdate= 2008-1-31 |isbn= 978-4634033023 |url= |format= |accessdate= |edition= 改訂版 |date= |year= |publisher= [[山川出版社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
 
* {{Cite book|和書|author=井本稔|authorlink=井本稔|coauthors=[[大沼正則]]、[[道家達将]]、[[中川直哉]]|editor=[[竹之内静雄]]|others=|title=化学のすすめ|origdate=1971-11-30|isbn=|url=|format=|accessdate=|edition=初版|date=|year=|publisher=[[筑摩書房]]|location=|series=|language=日本語}}
 
* {{Cite book|和書|author=クリストファー・ロイド|authorlink=クリストファー・ロイド (歴史学者)|coauthors=ほか著|translator=[[野中香方子]]|editor=[[文藝春秋]]|title=137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史|origdate=2012-09-10|edition=第2版|language=日本語|isbn=978-4163742007}}
 
* {{Cite book|和書|author=藤村淳、肱岡義人、江上生子、兵藤友博|authorlink=藤村淳|coauthors=ほか著|translator=|editor=[[東京教学社]]|title=科学 その歩み|origdate=2010-04-01|edition=第22刷|language=日本語|isbn=}}
 
* {{Cite web |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://kotobank.jp/word/ラボアジエ |title= ラボアジエとは |format= |doi= |work= |publisher= [[コトバンク]] |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2013-3-27 |quote=}}
 
* {{Cite book|和書|author=ラボアジエ||translator=[[田中豊助]]、[[原田紀子]]|publisher=[[内田老鶴圃]]|title=化学のはじめ(古典化学シリーズ4)|edition=増補改訂版|language=日本語|isbn=4-7536-3104-4}}
 
* {{Cite book|和書|author=ラボアジエ||translator=田中豊助、原田紀子、[[牧野文子]]|publisher=内田老鶴圃|title=化学命名法(古典化学シリーズ6)|language=日本語|isbn=978-4-7536-3106-3}}
 
  
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Antoine-Laurent de Lavoisier}}
 
* [[ジョン・ドルトン]] - イギリスの化学者。ラヴォアジエ亡き後に[[古代ギリシア]]の哲学者[[レウキッポス]]が提唱した[[原子論]]を展開した。
 
* [[アメデオ・アヴォガドロ]] - イタリアの化学者。[[分子論]]を提唱。
 
* [[元素]]
 
* [[エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧]]
 
* [[アメリカ合衆国の独立]] - ラヴォアジエは[[外交家]]として[[アメリカ独立戦争]]の際にアメリカの味方をした。
 
* [[ラヴォアジエ (クレーター)]] - ラヴォアジエの業績を讃えて名付けられた[[月]]の[[クレーター]]。
 
  
{{Normdaten}}
 
 
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[[Category:フランスの化学者]]
 
[[Category:フランスの化学者]]

2018/10/8/ (月) 18:42時点における版


アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(ラボアジェなどとも、フランス語:Antoine-Laurent de Lavoisier, [ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje]1743年8月26日 - 1794年5月8日

フランスの化学者。弁護士の家に生れる。コレージュ・マザラン,法科大学で学び,在学中から地質学者 J.E.ゲタールについて地質調査を行い,科学への関心を深めていく。市街の照明施設に関するパリ科学アカデミーの懸賞に応募,注目を集めた (1766)

。科学アカデミー会員 (78) ,同幹事長 (87) 。また国家の徴税請負人となり (68) ,1772年には貴族の称号を買収。火薬監督官 (75) 。自分の広大な所有地で農事改良にもたずさわる。革命政権下で度量衡改正委員。しかし旧体制に深くかかわっていたため,逮捕投獄され
(93) ,94年ギロチンにかけられ処刑された。ラボアジエの化学研究は包括的な枠組みのなかで既知の諸現象を精密な定量的実験に裏づけられた新しい解釈のもとに体系化し直し,近代化学の壮大な基礎を据えるものであった。代表的な業績を上げると,伝統的元素観に基づいて信じられていた水の土への転換説を決定的に否定したこと (69) ,燃焼に関する従来のフロギストン説を排して,少くとも 77年までには新しい酸化=燃焼理論を確立したこと,H.キャベンディッシュによる水の分解実験を知り,反フロギストン説の立場から新解釈を加え,水の組成を確定したこと (83) などがある。また彼の研究が精密秤量技術を駆使したきわめて定量的なものであったことは,近代化学研究の基礎となった質量保存の法則の明確な定式化 (89) を生んだ。さらに革新的な元素観に基づいて,新しい単体表 (33種) を提出し,また新しい化学の術語体系を C.ベルトレらとの共著『化学命名法』 Méthode de Nomendature Chimique (87) で提唱した。主著『化学要論』 (89) 。 




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