藤原聖子
藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安3年(1122年) - 養和元年12月4日(1182年1月10日))は、平安末期の后妃。崇徳天皇の中宮、近衛天皇の養母、女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。
摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。
生涯
大治4年(1129年)、崇徳天皇に入内して女御となり、同5年(1130年)に中宮に冊立。時に父忠通は摂政で、在任中の摂関の女の入内は、後冷泉天皇の皇后・寛子以来、八十年ぶりのことであり、忠通は聖子の入内に摂関家再興の望みを託した。しかし、父の希望に反して、聖子は一人の子女も生まなかった。その代わり、鳥羽法皇の皇子・體仁親王(後の近衛天皇)の准母となり、體仁親王が即位した永治元年(1141年)皇太后となった。久安6年(1150年)院号宣下を受け、皇嘉門院と号した。
保元元年(1156年)の保元の乱には父・忠通と夫・崇徳上皇が敵に分かれて戦い、敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流された。板挟さみとなった聖子は同年出家し、清浄恵(せいじょうえ)と号した。長寛元年(1163年)、髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚(れんがく)と号した。
父の没後は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受けた。また治承4年(1180年)に兼実の嫡男・良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが後世における九条家家領の源流となったといわれる。
夫婦関係
崇徳院は女房兵衛佐局を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、退位後も、しばしば上皇が聖子の御所へ御幸、もしくは聖子が上皇御所へ行啓している。ただし、保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、腹々の御子)。
保元の乱の後、崇徳院が讃岐国へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の後鳥羽上皇の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い修明門院はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の女院、かつて天皇の正妃・母后として中宮・皇太后の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。
父・忠通は摂関家の体面を粉々に潰した保元の乱において、辛うじて勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された。
略歴
日付は旧暦。
- 保安3年(1122年):生誕(父は関白藤原忠通・母は北政所宗子)
- 大治3年(1128年)11月9日:入内に先立ち従三位に叙階
- 大治4年(1129年)
- 大治5年(1130年)2月21日:中宮冊立
- 永治元年(1142年)12月27日:皇太后
- 久安6年(1150年)2月27日:院号宣下。皇嘉門院と号す
- 久寿2年(1155年)8月14日:母・宗子没
- 保元元年(1156年)
- 長寛元年(1164年)12月26日:再出家・剃髪
- 長寛2年(1164年)
- 2月19日:父・忠通薨去
- 8月26日:崇徳院、讃岐で崩御
- 仁安2年(1167年)5月23日:封戸を辞退
- 治承元年(1177年)7月29日:崇徳院の謚号を奉る(それ以前は讃岐院)
- 養和元年(1181年)12月4日:崩御
関連項目