ブルボン朝

提供: miniwiki
移動先:案内検索


ブルボン朝(ブルボンちょう、フランス語: dynastie des Bourbons)は、近世フランス王国王朝である。1589年から1792年まで、一時中断を挟んで1814年から1830年まで続いた。文化史の分野ではルイ王朝と呼ばれることがある。これはこの王朝にルイという名の国王が何代にもわたって続いたからである。カペー朝の支流である。

新旧両派の宗教戦争であったユグノー戦争の最中にヴァロワ朝が断絶して、遠縁筋の新教徒でブルボン家アンリ4世がカトリック教徒のフランス国王として即位したことでブルボン朝が成立した。このときメディチ家の財力を受け継いだ。ルイ14世の時代には絶対王政を築き、ハプスブルク家と政略結婚もし、領土拡大など戦果を上げて最盛期を迎えた。

フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去り、ナポレオン1世の失脚により王政復古で舞い戻ったが、七月革命によって再度王位を追われた。現在のスペイン王室は分家にあたる。

歴史

成立

ヴァロワ朝断絶後、ブルボン家当主であったナバラ王アンリがアンリ4世として国王に即位したことによりブルボン朝が成立した。「良王」と称されるアンリ4世は、ナントの勅令による国家の統合と内紛で疲弊した経済の再建を目指したが、宗教紛争の影響により1610年暗殺された。

1610年に即位したルイ13世は幼かったものの、王母マリー・ド・メディシス摂政となったリシュリューの政策によって、フランスの絶対主義体制が整えられていった。またドイツで起こった三十年戦争を表裏一体となって、支援介入し、国際的地位を確立していった。ただしフランス国王を神聖ローマ皇帝に戴冠するという野望は挫折した。

太陽王の時代

アンリ4世の孫が、「太陽王」として有名な絶対君主ルイ14世である。ルイ14世は摂政であったマザランの死後、親政を開始した。このルイ14世の時代にフランスの絶対王政が確立し、フランス文化(ヴェルサイユ文化)と呼ばれる文化も発展した。

ルイ14世はネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争によって領土を拡大し、国際社会におけるフランスの地位を向上させた。その反面、相次ぐ戦争などによって軍事費が膨張し、さらにナントの勅令の廃止(フォンテーヌブローの勅令)のためにフランス資本が海外流出するなど、フランス経済の混乱を招き、財政再建を課税で賄った。

大革命へ

ルイ14世の死後、その後を継いだ曾孫であるルイ15世も、オーストリア継承戦争をはじめとする対外戦争にたびたび出兵して膨大な軍事費を課税で賄った。こうしてフランス革命の遠因を作ることとなった。

ルイ15世の孫ルイ16世の時代にフランスの財政は破綻に瀕した。このため、ルイ16世はそれまで特権階級であった貴族聖職者にも課税しようと1789年全国三部会を召集したが紛糾し、それがフランス革命勃発の直接の原因となった。

フランス革命では、革命政府内部でも権力闘争が起こり、さらにフランスの縁戚であったオーストリアなどの干渉もあってフランス国内は混乱が続いたが、1792年に遂に王権が停止され(8月10日事件)、国民公会によって王政が廃止された。1793年にはルイ16世が処刑された。

ルイ16世の死後、その息子である幼少のルイ17世は革命政府からぞんざいな扱いを受け、1795年に病死した(生存説もある)。これ以降、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)が亡命先でフランス国王を自称した。

王政復古

その後、フランスではナポレオン1世による第一帝政が成立したが、ロシア遠征の失敗でナポレオンは1814年に失脚することとなる。そしてウィーン会議の下、ロシア帝国オーストリア帝国など対仏大同盟諸国の折衝の結果、ルイ18世がフランス国王として即位し、ブルボン朝が復活した。

ルイ18世の死後、後を継いだ弟シャルル10世は絶対王政の復活を目指して議会の解散を強行しようとしたため、国民が反発して1830年七月革命が起こる。この革命によってシャルル10世はイギリスに亡命し、ブルボン家支流オルレアン家ルイ・フィリップが国王となる。この王朝はオルレアン朝と呼ばれ、ブルボン朝とは区別される。

その後ブルボン家嫡流からフランス国王が立つことはなかったが、シャルル10世およびその子孫の復辟を望む人々は一定の勢力を保ち、レジティミスト(正統王朝派)と呼ばれた。フランス・ブルボン家の嫡流が絶えた後、レジティミストはスペイン・ブルボン家(の分流)を正統王朝の後継者として現在に至っている。

歴代国王

復古王政

関連項目