パルミラ王国
パルミラ王国またはパルミラ帝国(ラテン語: Imperium Palmyrenum、260年? - 273年)は、ローマ帝国の軍人皇帝時代(「3世紀の危機」)に、通商都市パルミラを首都とし、シリア属州、アラビア・ペトラエア、アエギュプトゥス(エジプト)などを支配し、ローマ帝国から事実上分離・独立していた国家の通称である。パルミュラ王国、パルミュラ帝国とも呼ばれる。
歴史
235年にローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺されて以降、ローマ帝国では短命の皇帝が相次いだ(軍人皇帝時代)。そのような状況において、東方のサーサーン朝ペルシア(226年にパルティアを滅ぼして成立)からの攻撃に対して、259年に皇帝ウァレリアヌスが虜囚となったことに示されるように、余力を失った状態にあった。
その中で、パルミラ市生まれのセプティミウス・オダエナトゥスは自前の軍隊を率いてペルシアからの攻撃への防御に当たっていた。そのため、時のローマ皇帝ガッリエヌスはオダエナトゥスを東方地区属州全域の司令官に任命した。オダエナトゥスもガッリエヌスに対抗して皇帝を僭称したティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスを打倒するなどその期待に応えたが、オダエナトゥスは267年に宴席で一族の者によって刺殺された。
オダエナトゥスの暗殺後、妻ゼノビアが一連の事態を収拾。ゼノビアは自らの幼少の息子ウァバッラトゥスを後継の地位に据え、自身はその後見人となり実権を手中に収めた。ローマ帝国では既に西方でガリア帝国が分離するなど混乱しており、その間隙を縫う形でゼノビアはパルミラを根拠地として、ローマの東方属州であるシリア、パレスティナ、アラビア・ペトラエア、アエギュプトゥスへ侵攻してこれらの地方を支配、ウァバラトゥスに皇帝(アウグストゥス)号を称させるに至った。
270年にローマ皇帝となったルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、アラマンニ族やゴート族を破って北方のゲルマニア人の侵入を食い止めた後、271年夏にパルミラ奪還のため自ら軍を率いて小アジアへ親征した。ローマ軍はビザンティオンなどを陥落させ、パルミラ軍との2度の戦いにいずれも勝利した(この際にウァバッラトゥスは戦死)。ゼノビアはパルミラ市へ敗走、ローマ軍はこれを包囲。籠城戦が長引く中、ゼノビアはパルミラ市を脱してペルシアへ逃走を図ったもののローマ軍に捕らえられ、273年を以てパルミラ王国は瓦解した。
ゼノビアはローマへ護送されるが、エジプトやパルミラ住民がローマ軍撤退後に意を翻して反乱を起こしたため、ローマ軍はパルミラへ戻りこれを鎮圧。アウレリアヌスはパルミラへの略奪を許可した(なお、アウレリアヌスはパルミラ遠征ではどの都市にもそれまで一切の蛮行を許していなかった)。この後、パルミラに繁栄が戻ることはなかった。
なお、ガリア帝国はパルミラ王国が征服された翌年(274年)に降伏した。ゼノビアはアウレリアヌスの凱旋式に参列させられた。