山中貞雄

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山中 貞雄(やまなか さだお、1909年明治42年)11月8日 - 1938年昭和13年)9月17日)は、日本映画監督脚本家である。京都府生まれ。

来歴

1909年(明治42年)11月8日京都市東山区本町通五条下ルに、扇子職人の父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。

1922年(大正11年)、旧制・京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)がいた[1]。山中自身も少年時より「カツキチ(活動写真きちがいの略)」と呼ばれるほど大の映画好きであった。

1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。城戸品郎監督の助監督に付くが動きが悪く、ロケの届け出専門だった。

1928年(昭和3年)、山中を持て余したマキノは脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に推薦、移籍させる。

同年夏、第一次寛プロがスポンサーに逃げられ困窮。それでも山中は先頭に立ってライトを担ぎ、資金稼ぎのためにアラカンのプロマイドを大阪まで街頭売りに出る毎日だった。が、やがて製作はストップ。また五社協定により自主配給の道も絶たれ、独立プロは失敗。寛プロは解散となった。

12月26日、京都の実家に戻った山中を、兄の作次郎は「人間とも思えぬ形相をしていた。まず風呂に入り散髪してからあがれと云うほどの汚さだった」と回想している[2]。親戚一同は縛り付けるように活動写真から足を洗えと説得したが、心中の灯は消えていなかった。

1929年(昭和4年)2月、脚本家デビューとなる、前年に寛プロで制作した『鬼神の血煙』(城戸品郎監督)が公開される。

この年3月1日、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれ映画復帰すると、旧・寛プロのメンバーも参集、山中もチーフ助監督としてこれに参加。

脚本家としては、筆名に「吉岡貞明」「阿古三之助」、「社堂沙汰夫」がある。この東亜での『鞍馬天狗 前後篇』(山中貞雄名義)、続いて『大利根の殺陣』、『明暦風流陣』(吉岡貞明名義)、『右門一番手柄・南蛮幽霊』(山中貞雄名義)ほか、以降、主幹脚本家として活躍。

1932年(昭和7年)、「むっつり右門」シリーズの脚本で山中の真価を確信したアラカンは、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。この監督第一回作品が映画評論家岸松雄の目にとまり、「寛プロには場違いな天才」と大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねる。

『磯の源太』以降、山中は22歳の若さでインテリ評論層から「日本映画界の巨匠」扱いされたものの、それ以前の寛プロでの山中の仕事は変わらず評論界からは無視され続けた。続く超大作『小笠原壱岐守』が興行4日で打ち切りという記録的な不入り。

同年、シリーズ第10作『天狗廻状 前篇』を最後に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ引き抜き移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』、『街の入墨者』を発表。

1934年(昭和9年)からは、それぞれが所属する会社の枠組を越え、山中、稲垣浩滝沢英輔土肥正幹三村伸太郎藤井滋司萩原遼八尋不二の8名の俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。

1937年(昭和12年)、東京に移り、P.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)で発表した前進座がユニット出演した名作『人情紙風船』を製作、封切り当日に召集令状が届き、平安神宮で壮行会が行われ神戸港から中国に出征した。中島今朝吾中将率いる北支那方面第2軍第16師団歩兵第9連隊第1大隊第3小隊に編入し、第2分隊長として、12月には南京攻略戦に参加した。

その後、中国各地を転戦。翌1938年(昭和13年)9月17日、中国河南省開封市の「北支開封野戦病院」で赤痢により[3]戦病死した。満28歳没。最終階級は陸軍歩兵曹長。

人物・エピソード

「社堂沙汰夫」の筆名から、あだ名が「シャドやん」だった。アゴが長いことから「アゴ」のあだ名もあり、 「阿古三之助」とも名乗った。寛プロでは「吉岡貞明」のほかに、「小仏浩」、「辻喜久江」、「小野三郎」の筆名も山中のものとみられている[4]

伊丹万作井上金太郎から「ヒゲを生やすと顔が長く見えなくなる」と教えられ、コールマンヒゲを生やすようになったが、井上のこの説は小津安二郎の受け売りだった。小津と交流が始まったころから、伊丹に劣らぬ長い顔だった山中はヒゲを生やすようになった。

山中がまだヒゲを生やさなかったころ、あるバーで「先生、先生」と大モテにもてた。山中が天下の色男ぶってすっかり悦に入っていたところ、武田麟太郎と間違えられていたことがわかり、悔しがっていた。

あるとき蒲郡の旅館に泊まったところ、宿帳に「山中貞雄」と書いてあるのを見つけ驚いた。女中にいろいろ聞くと、「アゴの長いところ」、「原稿を書いていた」などという点で、いたずらの主は武麟センセイとすぐわかった。そこで山中は憤然として宿帳に「武田麟太郎」と署名した[5]

山中とアラカン

アラカンによると、マキノでの山中は「なにやらしても間に合わへん、オイゆうたらホーイと返事する」、「もさっとして邪魔になるだけやと、マキノほり出されたんです」ということで、マキノ雅弘が第一次寛プロに推薦した際の言葉は、「マキノでは目が出んよって使ってみてや、どっちもアゴが長いから、相性がええやろ」というものだった。

またこのときの印象は、「才能あんのかいな」、「第一印象は箸にも棒にもかからん、一見バカでんな、落第零点」というものだった。動作がのろく、不精ヒゲを生やし、ドテラを着て会社に来る、タバコの空缶を帯にくくりつけ、灰を膝に落とす。雑誌「新青年」をしょっちゅう読んでいて、着るものもなく、虱を沸かせた乞食のようななりで、洋服を買ってやってもすぐに質に入れてドテラを着てまた会社に来る、というもので、アラカンとしても「往生した」という。

ところがシナリオを読んだところ、「たまげた、二度びっくりや、これ天才やないか」と第二次寛プロの1927年(昭和2年)、『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。「脚本書かしたらええ、監督やらしたらええ、山中の才能を発見したのはワテやと、これが自慢だ」、「マキノは人員過剰やから山中貞雄の出る幕はない。鳥なき里の寛プロならば、自由に羽ばたけるやろと、それが真意やった。そこがマキノ流です、うまいこと眼をつけた、山中をチャッと送り込んで来よった」と語っている。

1929年(昭和4年)3月1日、東亜キネマに錦を飾ったアラカンはすぐに山中を呼びよせ、山中も真っ先に駆けつけた。アラカンは「ヌボーッとしていて、一見とらえどころのない男やったけど、義理人情には厚かった」、「天性のユーモリスト、若いのに包容力のある、おおけな人柄やった」と評している。

カツベンに反感を抱いていた仁科熊彦監督は、「タイトルの字幕と音楽だけで理解できること」をモットーとしていて、山中に「洋画をよく観ろ、観ながらコンテをとれ、映画はカッティングなのだ」と教え込んだという。仁科から洋画仕込みの基礎を学んだ山中は、アラカンに出会って才能を開花させた。仁科は「妙な言い方になりますけど、ちょっと嫉妬したくなるほど、全面的に山中貞雄を信頼していました、寛寿郎氏は」と語っている。アラカンは山中の作品について「人はどうゆうか知らんが、山中これはマキノと洋画の混血でんな。むっつり右門、これシャルロック・ホルムズや、『なりひら小僧』かて地下鉄サムのまがいでっしゃろ、アメリカやフランスの映画から、ひゅっと名場面盗んで来よる」と語っている。

山中はそれまでの監督とは演出が違い、鋭い舌鋒でよく役者を怒らせた。「よーいホイ、精出して演らなあかんで、ああ芝居が腐れとる、腐っとる」、「俺は(編集の)ハサミあるさかい、お前らなんぼでも勝手にさらせ、ちょんぎれちょんぎれや」といった調子だった。

このように「ストーリーもちょんぎれ、フィルムもちょんぎれ」と、「ちょんぎれ」が口癖で、『むっつり右門』の「ちょんぎれの松」は、ここから出来た役名だった。仁科監督は、脚本家・山中の最高傑作は『むっつり右門』だと語っている。『なりひら小僧』は仁科がアラカンに「山中貞雄のシナリオでおやんなさい」と勧めたもので、アラカンは山中の名前を出されれば逆らわなかったという。

山中は非常に気の回る人物だったため、アラカンに重用され、付き人のようにいつもついていた。山中はアラカン全作品の作者であり、チーフ助監督だったが、批評界では全くの無名だった。これが『磯の源太・抱寝の長脇差』で岸松雄に大絶賛されたことで突然変異の「天才」扱いされることとなる。アラカンは「アラカン映画の監督やと、インテリは山中貞雄を馬鹿にしとったんだ。コロッと変わった、キシマツはんの褒め言葉一つで名監督や。批評家えらいものでんな」とこれを皮肉っている。

山中は1932年(昭和7年)の『天狗廻状』で日活に引き抜かれ移籍しているが、これについてアラカンは「当然のことやったんです、山中貞雄にはもう寛プロは狭すぎたんだ」と述べている[6]

山中と「鳴滝組」

山中の住んだ鳴滝は元々映画俳優が多く住むところだったが、1931、32年(昭和6、7年)ごろから「鳴滝に住むと落ち目になる」と言われだして、俳優たちは引っ越していった。昔の駅の標識は右から左に書いていたので、電車の進行に従うと、上りも下りも「きたるな」となるので、稲垣浩は「落ち目になるという噂は、そうしたことに原因があったのかもしれない」としている。鳴滝には代わりにシナリオ作家や監督が住み始め、「ムダめしを食う奴はきたるな。映画が好きな奴は集まれ」と山中が仲間たちに呼びかけたというのが「鳴滝組」の始まりである。

「鳴滝組」の最も大きな仕事として、稲垣は「時代劇のセリフを現代語にしたということ」としている。これは当時として勇気と困難のなかでの仕事であり、稲垣は「現代語を非とする頑迷固陋な評論家もいたなかに斬り込んだ鳴滝組の仕事は、いま考えると若かったことと、同志の集まりで成功したのだと思う」と振り返っている。

山中が応召の赤紙を受け取ったのは『人情紙風船』が完成した時だった。このため、山中は「これが最後の作品になるのは嫌やなぁ」と、暗示的な言葉を残して伏見の聯隊に入った[7]

『人情紙風船』の封切りは、ちょうど第二次嵐寛寿郎プロダクションの解散直後だった。これを観たアラカンは感心し、「山中ともう一度組みたい」と考えて会いに行ったが、山中は赤紙を受け取った後だった。京都東山の旅館「桜屋」で壮行会があり、アラカンも顔を出した。山中は階段から転げ落ちるほど酔い、「オレ戦争行ってどないするんや、要領悪いさかいすぐ死ぬわ」と大泣きしていたという[8]

聯隊では、内地勤務の暗号解読班を命ぜられ、4キロも体重を増やした。山中は「こんな楽な兵隊はない」と喜んでいたが、やがて中支那派遣軍に加わり、1937年(昭和12年)、呉淞の敵前上陸作戦に従事[9]

1938年(昭和13年)正月、山中同様応召した小津安二郎と現地で巡り合う。内地の稲垣らのもとに、山中と小津が「悪運尽きず」と書いた寄せ書きが届く。稲垣らはこれを見て「われわれの杞憂は晴れ、元気で生きて還るようなのぞみをいだいていた」という[10]

この年軍曹に昇進するが、9月17日に「北支開封野戦病院」で赤痢で病死。

友人たちは山中の死を惜しんで「山中会」をつくり、「偲ぶ会」や「山中映画祭」、「シナリオ出版」、「山中貞雄賞」、「建碑」などの事業を行ったが、この碑は山中の菩提寺である大雄寺に建てられた。碑文はキネマ旬報初代社長の田中三郎、題字は小津安二郎による。「梶原金八」の名も山中の死とともに消えた[11]

宮川一夫は随想で「初恋の人(山中)とはついにプラトニックに終わった。最初の夫(稲垣)とはいい仕事をした。今は分かれて再婚(溝口健二)したが、時々先夫のことを思い出す」と書いて山中を偲んでいる[12]

山中は出征中、手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ、友人、知人には、いい映画をこさえてください」と書き遺していた。

後年、鳴滝組の仲間であり山中の親友でもあった滝沢は、彼がたびたび夢枕に出ることがあったと座談会で語っている。

山中の遺産

5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)であるが、ほとんどのフィルム原版が紛失、もしくは戦災で焼失したため、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3作品のみである。ただ、これらも残っているものは戦後の公開版であるためオリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではなく、『丹下左膳余話 百萬両の壺』はGHQ検閲によってチャンバラ場面が削除されたと考えられている。映画評論家の滝沢一によると、『河内山宗俊』のラストでは大立ち回りがあったという。

『磯の源太 抱寝の長脇差』[13]、『怪盗白頭巾[13]、『海鳴り街道[14]、『鼠小僧次郎吉[15]はフィルム断片のみ残存する。『小笠原壱岐守』、『風流活人剱』は1-2分間のフィルム断片を東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、稲垣浩の応援監督としてクレジットされている『大菩薩峠 甲源一刀流の卷』は全篇が同センターに所蔵されている[16]

山中が学生時代に、辞書のページに描いた剣戟、疾走する馬のパラパラマンガを遺していた[17]。2003年(平成15年)、京都文化博物館が同館所蔵の辞書のページを撮影し、3篇からなる2分30秒の『山中貞雄パラパラ漫画アニメ』として公開している[17]

甥に映画監督の加藤泰がいる。山中にもっとも深い影響を受けた1歳下の助監督、「鳴滝組」の仲間であり、のちの映画監督に萩原遼がいる[18]。萩原ら鳴滝組の脚本家たちは、戦後も、山中脚本の映画化やリメイクを行なっていった。 また山本晋也もデビュー作のリメイクに取り組んだ。

おもなフィルモグラフィ

Category:山中貞雄の監督映画

追悼企画映画

山中が日活京都時代、稲垣浩と映画を観た後、三条小橋を通りかかった。このとき突然、新作映画のインスピレーションを得た山中は小橋の東詰に立ち止まって、その構想を稲垣に話して聞かせた。題名は『木屋町三条』で、その内容は「維新の京洛をこの狭い一角で撮る。クライマックスは新撰組の池田屋討入り」というもので、山中は「ヒット間違いなし」と四条小橋まで稲垣と歩きながら話し込んだ。が、このあと友人と出会って酒を飲み、この話はまとまらずに終わってしまった。その後東宝に移った山中は『人情紙風船』にとりかかったので、『木屋町三条』の企画はたち消えとなった。

山中の死後、東宝は追悼映画を企画。題材は山中が果たせなかった『木屋町三条』で、脚本は「鳴滝組」の同人に依頼されたが、メモも残っていなかったので、山中から直接話を聞いていた稲垣が第一稿をまとめた。

稲垣は藤井滋司とともに鳴滝から幾日も木屋町三条に通って筋立てをし、監督には山中の愛弟子である萩原遼があたり、出演は前進座がつとめ、山田五十鈴高峰秀子が姉妹役で特別出演した。

映画は1939年(昭和14年)に公開されたが、題名は『その前夜』に改題された。稲垣は「『木屋町三条』でなかったのは残念である」とこれを惜しんでいる[19]

関連文献

  • 『山中貞雄作品集』、実業之日本社、1998年 ISBN 4408102857 - 全シナリオ
  • 千葉伸夫編 『監督山中貞雄』 実業之日本社 1998年 ISBN 4408102865
  • 千葉伸夫『評伝山中貞雄 若き映画監督の肖像』 平凡社ライブラリー 1999年 ISBN 4582763073 - 『山中貞雄作品集 別巻』の一部の単行本化
  • 加藤泰『映画監督山中貞雄』 キネマ旬報社 1985年 / 新版2008年 ISBN 4873763096
テレビ番組
  • 『天才監督 山中貞雄』、 NHK、2009年11月7日放送

関連事項

  1. 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「山中貞雄」の項(p.427-429)を参照。同項執筆は加藤泰
  2. 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労白川書院
  3. 赤痢の原因については同年6月に遭遇した黄河決壊事件で汚れた河水を大量に飲んでしまったためとも言われる
  4. 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  5. ここまで『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  6. ここまで『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労白川書院)より
  7. ここまで『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  8. 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  9. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  10. 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  11. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  12. 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  13. 13.0 13.1 『山中貞雄日活作品集 DVD-BOX』所収、日活、2004年。
  14. 生誕百年 映画監督 山中貞雄 海鳴り街道、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年1月18日閲覧。
  15. 生誕百年 映画監督 山中貞雄 鼠小僧次郎吉 道中の巻、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年1月19日閲覧。
  16. 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年1月16日閲覧。
  17. 17.0 17.1 上映会情報生誕百年 映画監督 山中貞雄、東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年9月3日閲覧。
  18. 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「萩原遼」の項(p.310-311)を参照。同項執筆は結束信二
  19. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

外部リンク