ゲイソン・ゲイソン=ハーディ (初代クランブルック伯爵)
初代クランブルック伯爵ゲイソン・ゲイソン=ハーディ(英語: Gathorne Gathorne-Hardy, 1st Earl of Cranbrook, GCSI, PC、1814年10月1日 - 1906年10月30日)は、イギリスの政治家、貴族。
経歴
1814年10月1日、ロー・ムーア製鉄所の所有者ジョン・ハーディとその妻イザベル(旧姓ゲイソン)の間の三男としてイングランド・ヨークシャー・ブラッドフォードに生まれる[1][2]。
シュルーズベリー校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジへ進学。1836年にバチェラー・オブ・アーツ(BA)の学位を取得した(のちにマスター・オブ・アーツ(MA)の学位も取得)[1][2]。さらにインナー・テンプルに入学して弁護士資格を取得し、北部巡回裁判に加わった[1][2]。
1855年の父の死去後、政治活動に専念する[2]。1856年から1865年にかけてレオミンスター選挙区選出の保守党所属庶民院議員を務めた。ついで1865年から1878年までオックスフォード大学選挙区から選出された[1][2]。
1858年2月から1859年6月にかけて第二次ダービー伯爵内閣の副内務大臣を務めた[2]。
1866年7月から第三次ダービー伯爵内閣の救貧法委員会委員長に就任。1867年5月に内務大臣スペンサー・ホレーショ・ウォルポールがハイド・パークでの暴動を機に内務大臣職を辞すると、代わって内務大臣に転任した。財相・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが中心となって行った選挙法改正を補佐。以降ディズレーリの支持者となる。第一次ディズレーリ内閣でも同職に留任[2]。
1874年2月に第二次ディズレーリ内閣が成立すると陸軍大臣として入閣。1876年から1878年にかけて東方問題・露土戦争が発生する中、ディズレーリの親トルコ政策を補佐した[2]。
1876年8月にディズレーリが貴族院へ移籍し、代わってサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が庶民院院内総務に就任したが、ハーディは彼との折り合いが悪かった[2]。
1878年3月にはインド担当大臣ソールズベリー侯爵が外務大臣に転任したのに伴い、インド担当大臣に就任し、内閣が終わる1880年4月まで在職した[2]。1878年5月にはハーディとノースコートの対立回避のため、クランブルック子爵に叙せられ、貴族院へ移された[2]。同月、勅許を得て名前を家名を「ゲイソン=ハーディ」に変更した[1]。
1885年6月から1886年2月にかけての第一次ソールズベリー侯爵内閣には枢密院議長や陸軍大臣として入閣した[1]。
1886年8月に第二次ソールズベリー侯爵内閣が発足すると、はじめランカスター公領担当大臣、ついで枢密院議長に就任し、内閣が終わる1892年8月まで務めた。同月にクランブルック伯爵に叙せられる[1]。
1895年に政界引退した[2]。1906年10月30日、ケントのヘムステッド・パークで死去[1]。
栄典
爵位
1878年5月4日に以下の爵位を新規に叙された[1][3]。
- ケント州におけるヘムズテッドの初代クランブルック子爵 (1st Viscount Cranbrook, of Hemsted in the County of Kent)
1892年8月22日に以下の爵位を新規に叙された[1][3]。
- 初代クランブルック伯爵 (1st Earl of Cranbrook)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
- ケント州におけるヘムズテッド・パークの初代メドウェイ男爵 (1st Baron Medway, of Hemsted Park in the County of Kent)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
名誉職その他
家族
1838年にジェーン・オアと結婚し、彼女との間にクランブルック伯爵位を継承する長男ジョン・ゲイソン=ハーディや庶民院議員となる三男アルフレッド・ゲイソン=ハーディなど5子を儲けた[1]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 Lundy, Darryl. “Gathorne Gathorne-Hardy, 1st Earl of Cranbrook” (英語). thepeerage.com. . 2014閲覧.
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 DNB, 1912 supplement
- ↑ 3.0 3.1 Heraldic Media Limited. “Cranbrook, Earl of (UK, 1892)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. . 2016閲覧.
参考文献
- 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
- Stanley Woods, Gabriel (1912年). “Gathorne-Hardy, Gathorne (DNB12)”. Dictionary of National Biography, 1912 supplement. London, Smith, Elder & Co. . 2014閲覧.
外部リンク
公職 | ||
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先代: ウィリアム・ナサニエル・マッセー |
副内務大臣 1858年 – 1859年 |
次代: ジョージ・クライブ |
先代: チャールズ・ペラム・ヴィリアーズ |
救貧法委員会委員長 1866年 – 1867年 |
次代: 第11代デヴォン伯爵 |
先代: スペンサー・ホレーショ・ウォルポール |
内務大臣 1867年 – 1868年 |
次代: ヘンリー・ブルース |
先代: エドワード・カードウェル |
陸軍大臣 1874年 – 1878年 |
次代: フレデリック・スタンリー |
先代: 第3代ソールズベリー侯爵 |
インド担当大臣 1878年 – 1880年 |
次代: ハーティントン侯爵 |
先代: 初代カーリングフォード男爵 |
枢密院議長 1885年 – 1886年 |
次代: 第5代スペンサー伯爵 |
先代: ウィリアム・ヘンリー・スミス |
陸軍大臣 1886年 |
次代: ヘンリー・キャンベル=バナマン |
先代: サー・アーグトレッド・ケイ=シャトルワース准男爵 |
ランカスター公領担当大臣 1886年 |
次代: ジョン・マナーズ卿 |
先代: 第5代スペンサー伯爵 |
枢密院議長 1886年 – 1892年 |
次代: 初代キンバリー伯爵 |
無効なパラメータ | ||
先代: ジョージ・アークライト ジョン・ジョージ・フィリモア |
レオミンスター選挙区選出庶民院議員 1856年 – 1865年 同一選挙区同時当選者 ジョン・ジョージ・フィリモア(1856–1857) ジョン・ポーランド・ウィラビー(1857–1858) チャールズ・キンケイド=レノックス(1858–1865) |
次代: アーサー・ウォルシュ リチャード・アークライト |
先代: ウィリアム・グラッドストン サー・ウィリアム・ヒースコート准男爵 |
オックスフォード大学選挙区選出庶民院議員 1865年 – 1878年 同一選挙区同時当選者 サー・ウィリアム・ヒースコート准男爵(1865–1868) ジョン・ロバート・モウブレー(1868–1878) |
次代: ジョン・ロバート・モウブレー ジョン・ギルバート・タルボット |
イギリスの爵位 | ||
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