アデノシン三リン酸
アデノシン三リン酸(アデノシンさんリンさん、adenosine triphosphate)とは、アデノシンのリボース(=糖)に3分子のリン酸が付き、2個の高エネルギーリン酸結合を持つヌクレオチドのこと。IUPAC名としては「アデノシン 5'-三リン酸」。一般的には、「adenosine triphosphate」の下線部のアルファベットをとり、短縮形で「ATP(エー・ティー・ピー)」と呼ばれている。
所在
ATPは真核生物や真正細菌の全てが利用している解糖系でも産生される物質であるため、地球上の生物の体内に広く分布する。生体内では、リン酸1分子が離れたり結合したりすることで、エネルギーの放出・貯蔵、あるいは物質の代謝・合成の重要な役目を果たしている[1]。すべての真核生物がこれを直接利用している。生物体内の存在量や物質代謝におけるその重要性から「生体のエネルギー通貨」と形容されている。
構造とエネルギー
プリン塩基であるアデニンに糖のリボースがN-グリコシド結合により結合したアデノシンを基本構造として、リボースの 5'-ヒドロキシ基にリン酸エステル結合によりリン酸基が結合し、さらにリン酸がもう2分子連続してリン酸無水結合により結合した構造を取る。この、リン酸基同士の結合(リン酸無水結合)は、エネルギー的に不安定であり、このリン酸基の加水分解による切断反応や、他の分子にリン酸基が転移する反応は(切断した両リン酸基の端に、反応により新たに生成する、より安定な化学結合の生成に伴って)エネルギーを放出する。ATPのリン酸基の加水分解や転位反応は、正味の自由エネルギーの減少を伴うエネルギー放出反応となり、あたかもATPのリン酸基同士の結合の切断が生体内の化学反応の実質的な推進力となっているように見えるため、この意味において、この結合は「高エネルギーリン酸結合」と呼ばれている。(結合自体がエネルギーを持つわけではない:この化学結合の切断は、吸エネルギー反応である。)
エネルギーの収支式を以下に示す(ΔG°’(標準自由エネルギー変化))。
ATP + H2O → ADP(アデノシン二リン酸) + Pi(リン酸)
ATP + H2O → AMP(アデノシン一リン酸、アデニル酸) + PPi(ピロリン酸)
この標準自由エネルギー変化は、一般的なリン酸エステル化合物のリン酸エステル結合の加水分解の標準自由エネルギー変化(ΔG°’ = −3〜4 kcal/mol)などに比べ非常に大きいので、このようなリン酸エステル化合物が、ATPからのリン酸基の転移により生成する反応の標準自由エネルギー変化は、全体として負の値となり、この反応はATPからリン酸エステル化合物へのリン酸転移の方向に自発的に進む。 さらに細胞内では、ATP濃度はADPの10倍程高く、リン酸濃度も標準状態 (1.0 M) より、はるかに低い (1〜10 mM程度) ため、細胞内の環境ではATPの高エネルギーリン酸結合の加水分解に伴って実際に放出されるエネルギー(自由エネルギー変化 ΔG)は、より大きくなり、−10〜11 kcal/mol にも達する。
生合成
ATPは主にATP合成酵素において酸化的リン酸化、光リン酸化によって生じる。
ADP + Pi → ATP
GTP(グアノシン三リン酸)については、以下の反応式でATPと相互変換する。
GTP + ADP ⇔ GDP + ATP (ΔG°’ 〜0)
また、細胞内では、酵素(アデニル酸キナーゼ)の働きにより、ATP, ADP, AMPが次の反応による平衡混合物となっており、ATPはADPからも一部再生される。
2 ADP ⇔ ATP + AMP (ΔG°’ 〜0)
ATPの役割
ATPはエネルギーを要する生物体の反応素過程には必ず使用されている。ATPは哺乳類の骨格筋100 gあたり0.4 g程度存在する。反応・役割については以下のものがある。
- 解糖系 - グルコースのリン酸化など
- 筋収縮 - アクチン・ミオシンの収縮
- 能動輸送 - イオンポンプなど
- 生合成 - 糖新生、還元的クエン酸回路など
- 発光タンパク質 - ルシフェラーゼなど
- 発電 - 電気ウナギに見られる筋肉性発電装置
- 発熱 - 反応の余剰エネルギーなど
リン酸基の付加はリン酸基転移酵素(キナーゼ)によって行われる。また、ATP そのものも RNA合成の前駆体として利用されている。
また一方で、ATPは抑制性神経調節性伝達物質でもあり、活動電位に反応して神経から放出され、効果器に影響を与える。
用途
ATPは、医薬品としても利用されている。日本では2011年現在、調節性眼精疲労の症状改善、消化管機能低下が起きている者の慢性胃炎の症状改善、心不全の症状改善、頭部外傷後遺症の症状改善に用いられる[2]。この他、2017年現在、日本ではATPの顆粒製剤のみは、メニエール病や内耳障害を原因とするめまいの改善にも用いられる[3]。なお、消化管機能低下が起きている者の慢性胃炎については軽症患者の自覚症状の改善に有効だったとされている[4]。
歴史
- 1929年 - Fiske、Subbarowら、そしてLoehmannによって独自に、不安定なリン酸結合を持つヌクレオチドとして発見された。当初、ATPはエネルギー通貨ではなく、リン酸供与体の一部として認識されていた。
- 1931年 - Loehmann、Meyerhofによって解糖系にATPが用いられることが明らかになった。
- 1939年 - Engelhardtらによって、筋収縮のタンパク質であるミオシンがATPを加水分解することが明らかになった。同年、フリッツ・アルベルト・リップマンによってATPは代謝に中心的な役割を果たしていることが提唱された。
- 1941年 - セント=ジェルジ・アルベルトによってミオシンがATPによって収縮することが明らかになった。
- 1942年 - セント=ジェルジによってアクチン、ミオシン、ATPが筋収縮の基本的な構成単位であることが明らかになった。
これらのハンガリー学派の筋収縮に関する一連の研究が「ATPは生体のエネルギー通貨」であるという認識を構築していった。また、ATPが能動輸送に関係することが1957年、イェンス・スコウらによって明らかになり(Na+, K+-ATPaseの発見)、ATP利用系のフォーマットが現在に至るまで構築されている。
ATP合成系の歴史については、以下の通りである。
- 1951年 - Lehningerによって呼吸鎖複合体の電子伝達およびATPの合成は共役しているという「酸化的リン酸化」が提唱された。
- 1961年 - Mitchellによってプロトンの電気化学ポテンシャルがATPの合成に寄与していると言う「化学浸透圧仮説」が提唱された。
- 1963年 - Avronによって葉緑体のチラコイド膜上に球状突起が見出され、この構造体がATP合成に関係した酵素であると推定された。
- 1966年 - Jagendorfらによって葉緑体でのpHジャンプによるATP合成系のモデルが提唱された。
- 1975年 - RackerとStoeckeniusによって、脂質二重層を用いたATP合成酵素およびバクテリオロドプシンの実験によってATP合成が電気化学的ポテンシャルによって行われることを明らかにした。
- 1978年 - 化学浸透圧説を唱えたMitchellがノーベル化学賞を受賞した。
- 1981年 - BoyerがATP合成酵素の「回転触媒仮説」を提唱した。
- 1994年 - WalkerらによってウシATP合成酵素のF1サブユニットのX線結晶構造解析が行われ、その立体構造が明らかになった。
- 1997年 - Boyer、WalkerらがATP合成酵素の反応素過程を解明したことによりノーベル化学賞を受賞した。
- 2008年 - 岡山大学森山芳則教授らの研究グループがATPのトランスポーターを特定し、3月25日『米国科学アカデミー紀要 (PNAS)』電子版に掲載・発表された論文において、これを「小胞型ヌクレオチド・トランスポーター (vesicular nucleotide transporter, VNUT)」と命名した[5][6]。
関連項目
- 呼吸
- 解糖系
- 電子伝達系
- ATP合成酵素(ATPシンターゼ)
- アデノシン三リン酸フォスファターゼ(ATPアーゼ)
- 環状アデノシン一リン酸 (cAMP)
- ATP測定法(ATP拭き取り検査)
脚注・参考文献
- ↑ デジタル大辞泉【アデノシン三リン酸】(アデノシンさんりんさん)
- ↑ ATP腸溶錠(p.1)
- ↑ ATP腸溶錠・ATP顆粒剤(p.11)
- ↑ ATP腸溶錠・ATP顆粒剤(p.15)
- ↑ Sawada, K.; Echigo, N.; Juge, N.; Miyaji, T.; Otsuka, M.; Omote, H.; Yamamoto, A.; and Yoshinori Moriyama (April 15, 2008) “Identification of a vesicular nucleotide transporter” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 2008 105: 5683-5686; doi:10.1073/pnas.0800141105
- ↑ VNUTによって神経末端のシナプス小胞に運ばれたATPは貯蔵された後、外部に放出されて痛みを発生させたり血管を収縮したりするため、VNUTが抑制できれば痛み・血管収縮を管理することが可能になる。