ルーツィク
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語源
由来は不明。「弓の町」か「ルーカの町」を意味していると言われる。「弓」(ウクライナ語:ルーク)は、市内の北西の境を決めるスティール川の湾曲線のことである。「ルーカ」は、古代における現地の東スラヴ族の一つ、ドゥリーブィ族の頭領の名である。
地理
ルーツィクは、ヴォルィーニ州の東南部に位置する。北と西ではスティール川、南はフルーシェツィ川が流れているが、東は湿地が広がっている。
歴史
- 9世紀 - 10世紀:東スラブ族の一つ、ドゥリーブィ族の根拠地。
- 1000年:ヴォロディーメル1世がヴォルィーニ地方をキエフ大公国に統合し、ルーツィク要塞を築城する。ルーツィク城下町が発達する。
- 1058年:『ルーシ年代記』で初めて登場する。ルーツィク要塞はボレスワフ1世が率いるポーランド勢による6ヶ月間の包囲に持ち堪える。
- 1154年:ヴォルィーニ公国からルーツィク公国が分離。
- 1227年:ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の大公、ダヌィーロ1世のものとなる。
- 1240年:モンゴルのルーシ侵攻。城下町はモンゴル人によって略奪されるが、ルーツィク要塞は落城しなかった。
- 1259年:ルーツィク要塞は再びモンゴル人の包囲に持ち堪える。
- 1340年:ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の臨時首都となる。ルーツィク城が築城される。
- 1388年 - 1430年:リトアニア大公国領となり、ビリニュスに次ぐリトアニアの大公座となる。
- 1429年:ルーツィク城では、オスマン帝国対策をめぐる東ヨーロッパの諸君主の会議が行われる。
- 1432年:自治権が下賜される。
- 15世紀半ば:ルーツィク城が衰退するが、城下町はヴォルィーニ地方の中心地として居続ける。
- 1569年:ポーランド王国の領土となり、当王国のヴォルィーニ県の中央都市となる。
- 1596年:ウクライナ・コサックによって占領される。
- 1648年:フメルヌィーツクィイの乱中、ウクライナ・コサックによって略奪される。
- 17世紀後半 - 18世紀:城下町が衰退する。
- 1705年:スウェーデン軍によって一時的に占領される。
- 1795年:ロシア帝国の領土となる。
- 1895年:鉄道が開通する。
- 1915年:第一次世界大戦中、オーストリアとロシアの間の戦場となる。
- 1917年:ウクライナ人民共和国の領土となる。
- 1919年:ポーランド軍によって略奪される。
- 1921年:ポーランド・ソビエト・リガ平和条約によってポーランドの領土となる。新たに設立したヴォルィーニ県の中央都市となる。
- 1939年:ソ連軍によって占領され、ヴォルィーニ州の州庁所在地となる。
- 1941年:ドイツ軍の占領下に置かれる。その直前、ソ連の秘密警察によって3千人の市民が殺害される。
- 1942年:反独・反ソのウクライナ蜂起軍のゲリラ組織が成立し、軍の部隊が市周辺で活躍する。
- 1944年:ソ連軍によって占領される。
- 1991年:ウクライナが独立する。市は、ヴォルィーニ州の州庁所在地となる。
人口
姉妹都市
- ブレスト、ベラルーシ
- ジェシュフ、ポーランド
- ルブリン、ポーランド
- オルシュティン、ポーランド
- トルン、ポーランド
- ザモシチ、ポーランド
- ビャウィストク、ポーランド
- 湘潭市、中国
- ゴリ、ジョージア
- トラカイ、リトアニア
出身者
- ヴャチェスラフ・シェフチュク : サッカー選手
観光
- Łuck - baszta na zamku 2008.jpgルーツィク城
- Luzk Kathedrale 2004.jpg聖ペトロ・パウロ大聖堂
- Łuck - kościół 2008.jpg三位一体大聖堂
注
- ↑ (英語) (ウクライナ語) 2001年のウクライナ国勢調査
参考文献
- (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
- (ウクライナ語) Історія міст і сіл Української РСР: Волинська область. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1970.
関連項目
外部リンク
- (ウクライナ語) 公式サイト
- ルーツィク(ルーツィク)とは - コトバンク