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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 三浦按針
 
| 画像 = WilliamAdams.jpg
 
| 画像サイズ = 180px
 
| 画像説明 =
 
| 時代 = 江戸時代
 
| 生誕 = [[1564年]][[9月24日]]
 
| 死没 = [[1620年]][[5月16日]]([[元和 (日本)|元和]]6年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]])
 
| 改名 =
 
| 別名 = ウィリアム・アダムス(William Adams、出生名)
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 =
 
| 霊名 =
 
| 墓所 = [[崎方公園]]([[平戸市]])<br />[[塚山公園 (横須賀市)|塚山公園]]([[横須賀市]])
 
| 官位 =
 
| 幕府 = [[江戸幕府]]
 
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]
 
| 藩  =
 
| 氏族 = [[ウィリアム|ウィリアム氏]]→三浦氏
 
| 父母 =
 
| 兄弟 =
 
| 妻  = メアリー・ハイン、日本人某
 
| 子  = デリヴァレンス、ジョン、[[ジョゼフ・アダムス|ジョゼフ]](按針)、スザンナ
 
| 特記事項 =
 
}}
 
  
'''ウィリアム・アダムス'''(William Adams, [[1564年]][[9月24日]] - [[1620年]][[5月16日]]([[元和 (日本)|元和]]6年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]))は、[[江戸時代]]初期に[[徳川家康]]に外交顧問として仕えた[[イングランド王国|イングランド]]人航海士・[[水先案内人]]・貿易家。'''三浦 按針'''(みうら あんじん)の日本名でも知られる。
+
'''ウィリアム・アダムス'''(William Adams, [[1564年]][[9月24日]] - [[1620年]][[5月16日]]([[元和 (日本)|元和]]6年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]))
  
== 生涯 ==
+
日本に来た最初のイギリス人。一五六四年九月二十四日イギリスのケント州ジリンガムに生まれ、少年時代を造船所の徒弟として過ごし、のちに水先案内となる。八八年スペインの無敵艦隊との交戦の際には、イギリス艦隊の一船に船長として参加した。その後オランダに渡り、北西航路の探険航海にも加わった。九八年司令官ヤコブ=マフの率いる五艘からなる東洋遠征船隊に水先案内として加わり、ロッテルダムを出航した。同船隊はマジェラン海峡を通過後四散したが、アダムスの乗り組んでいたリーフデ号は日本への進路をとり、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)豊後の海岸に漂着した。その地点は臼杵に近い佐志生と推定される。アダムスは船長の代理として大坂に行き徳川家康に会見、その後堺の港から浦賀にリーフデ号を回航させた。家康はアダムスを厚遇し、日本橋の近傍に邸を与え、また相模三浦郡逸見に二百五十石の知行地を支給した。彼は水先案内を意味する按針(または安針・行師)の通称で呼ばれていたので、その邸の付近は安針町と呼ばれ、また彼自身三浦の領主として三浦按針の名を用いていた。彼はイギリスに妻マリーと二人の子を残して来たが、江戸で日本人女性と結婚し、ジョセフ・スザンナの二児をもうけた。その女性は日本橋大伝馬町名主馬込勘解由の娘ともいわれているが確証はない。アダムスは家康の側近に仕えて幾何学や数学を教えたこともあり、またその命によってイギリス型帆船二艘を伊豆伊東で建造した。同十八年イギリス東インド会社の派遣したクローブ号が来日し、司令官ジョン=セーリスはアダムスの斡旋により家康から通商の許可を得て平戸に商館を設けた。アダムスは会社と三年間の雇傭契約を結んだ。そして商館のためにシャム貿易を行い、またのちにみずから朱印船主となって安南・東京(トンキン)に渡航した。元和六年四月二十四日(ユリウス暦一六二〇年五月十六日)平戸で病死した。五十五歳。平戸の墓地は所在明らかでないが、神奈川県横須賀市西逸見町には、彼とその妻とを祀った按針塚が残っている。
=== 生い立ちと青年時代 ===
+
{{DEFAULTSORT:あたむす ういりあむ}}
[[1564年]]、[[イングランド王国|イングランド]]南東部の[[ケント州]][[ジリンガム]]の生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳で[[ロンドン]]の[[テムズ川]]北岸にある{{仮リンク|ライムハウス|en|Limehouse}}に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。[[造船|造船術]]よりも[[航海術]]に興味を持ったアダムスは、[[1588年]]に奉公の年限を終えると同時に[[イギリス海軍|海軍]]に入り、[[フランシス・ドレーク]]の指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長として[[アルマダの海戦]]に参加した。翌[[1589年]]にはメアリー・ハインと結婚し、娘・デリヴァレンスと息子・ジョンを儲けている。しかし、軍を離れて{{仮リンク|バーバリー商会|en|Barbary Company}}ロンドン会社の[[航海士]]・船長として北方航路や[[アフリカ]]への航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。
 
  
=== リーフデ号の航海 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
[[Image:LiefdeShip.jpg|thumb|right|250px|17世紀の[[エングレービング]]。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号]]
 
航海で共に仕事をする中で[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]人船員たちと交流を深めたアダムスは、[[ロッテルダム]]から極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟の[[トマス・アダムス (航海者)|トマス]]らと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
 
* ホープ号("希望"の意・[[旗艦]])
 
* [[リーフデ号]]("愛"の意)
 
* ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
 
* トラウ号("忠誠"の意)
 
* フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)
 
司令官の{{仮リンク|ヤックス・マフ|en|Jacques Mahu}}はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして[[1598年]][[6月24日]]、船団はロッテルダム港を出航した。
 
 
 
しかし航海は惨憺たる有様で、[[マゼラン海峡]]を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は[[東インド諸島]]で[[ポルトガル王国|ポルトガル]]に、フライデ・ボートスハップ号は[[スペイン]]に拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で[[太平洋]]を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で[[赤痢]]や[[壊血病]]が蔓延したり、[[インディオ]]の襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
 
 
 
=== 日本漂着、家康の引見 ===
 
[[Image:William Adams 1707 map of Japan.jpg|thumb|right|250px|1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図]]<!-- Pieter van der Aaの作とされる。 -->
 
[[関ヶ原の戦い]]の約半年前の[[1600年]][[4月29日]]([[慶長]]5年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]])、リーフデ号は[[豊後国|豊後]][[臼杵市|臼杵]]の[[黒島 (大分県臼杵市)|黒島]]に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、[[臼杵城]]主・[[太田一吉]]の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は[[長崎奉行]]の[[寺沢広高]]に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた[[大砲]]や[[火縄銃]]、[[弾薬]]といった武器を没収したのち、[[大坂城]]の[[豊臣秀頼]]に指示を仰いだ。この間に[[イエズス会]]の[[宣教師]]たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
 
 
 
結局、[[五大老]]首座の[[徳川家康]]が指示し、重体で身動きの取れない船長・[[ヤコブ・クワッケルナック]]に代わり、アダムスと[[ヤン・ヨーステン|ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン]]、[[メルキオール・ファン・サントフォールト]]らを[[大坂]]に護送させ、併せて船も回航させた。
 
 
 
[[5月12日]](慶長5年[[3月30日 (旧暦)|3月30日]])、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなど[[プロテスタント]]国とポルトガル・スペインら[[カトリック教会|カトリック]]国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である[[江戸]]に招いた。
 
 
 
=== 三浦按針となる ===
 
[[Image:AdamsLetter.jpg|thumb|200px|アダムスが[[平戸市|平戸]]からロンドンの[[イギリス東インド会社|東インド会社]]本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け([[大英図書館]]蔵)。]]
 
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して[[通訳]]を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、[[幾何学]]や[[数学]]、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。
 
 
 
やがて[[江戸湾]]に係留されていたリーフデ号が沈没すると、[[船大工]]としての経験を買われて、西洋式の[[帆船]]を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、[[伊東市|伊東]]に日本で初めての[[乾ドック|造船ドック]]を設けて80tの帆船を建造した。これが[[1604年]](慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、[[1607年]](慶長12年)には120tの船舶を完成させる<ref group="注釈">この船は[[1610年]](慶長15年)になって、[[上総国]][[御宿海岸]]で遭難し地元民に救助された前[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ロドリゴ・デ・ビベロ]]に家康から貸し出され、[[サン・ブエナ・ベントゥーラ]]と名付けられた。</ref>。
 
 
 
この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの[[旗本]]に取り立て、[[苗字帯刀|帯刀]]を許したのみならず[[相模国]][[逸見 (横須賀市)|逸見]]に[[采地]]も与えた<ref>[http://sorairo-net.com/rekishi/jimbutsu/williamadams.html ウィリアム・アダムス(三浦按針)]</ref>。また、'''三浦按針'''("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある[[三浦郡]]にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の[[武士]]として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
 
 
 
[[1613年]](慶長18年)に[[イギリス東インド会社]]の[[クローブ号]]が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する[[朱印状]]を取りつけるなどの手助けをした。[[1614年]](慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官の[[ジョン・セーリス]]と馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていた[[オランダ商館]]より安い賃金だったが、母国[[イギリス商館]]の仕事を手伝った。<ref>[http://archive.org/details/captainjvoyageof00saririch The voyage of Captain John Saris to Japan, 1613『ジョン・セーリス日本航海記』アーネスト・サトウ編] 1900年 ロンドン刊</ref>
 
 
 
=== 家康の死後 ===
 
家康に信頼された按針だが、[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)4月に家康が死去し、跡を継いだ[[徳川秀忠]]をはじめ[[江戸幕府]]の[[幕臣]]たちの方針で貿易を[[平戸]]のみに制限し[[鎖国体制]]を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は[[天文学|天文官]]のみとなり、幕臣や次期将軍候補の[[徳川家光]]らに警戒されながら、按針は憂鬱な状態のまま、[[1620年]][[5月16日]]([[元和 (日本)|元和]]6年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]])に平戸で死去した。55歳であった。
 
 
 
== 徳川家康がアダムスを外交顧問として雇用した理由 ==
 
[[鈴木かほる]]は、徳川家康がウィリアム・アダムスを外交顧問として雇用した理由は、自領の関東[[浦賀]]湊にスペイン人鉱夫を招聘し、スペイン領[[メキシコ]]で行われている画期的な金銀製錬法[[アマルガム|アマルガム法]]を導入するためであり、その交渉にアダムスをあたらせたという新説を提唱している<ref>鈴木かほる「徳川家康の浦賀外交とその意図」『神奈川地域史研究』12号 1994年刊</ref><ref>鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交―[[向井将監]]と三浦按針』[[新人物往来社]] 2010年刊 </ref>。その理由として、アダムスは家康と謁見した際、日本との通商を請うたにもかかわらず、オランダとの通商が成立したのはアダムスの日本来航から9年後の慶長14年(1609年)7月、アダムスの母国イギリスとは慶長18年(1613年)8月であり、しかも、スペインのように家康からの働きかけではなく、両国の東インド会社の使節が派遣されアダムスの斡旋により成立した、いわば家康にとっては受け身であること、家康が浦賀湊の入港を指定したのはスペイン商船のみであること、そのために三浦郡浦賀邸と逸見村の采地を与えたことなどを挙げている<ref>鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針』新人物往来社 2010年刊 110頁 </ref>。浦賀湊にスペイン商船が入港する都度、西国から商人が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わい世界にその名を轟かせた。ウィリアム・アダムスの[[マニラ]](スペイン領)交渉により浦賀フランシスコ修道院が建立され、江戸の修道院とともに関東におけるキリスト教伝播の起点となった。ウィリアム・アダムスが外交顧問としてその本領を発揮したのはこのマニラ渡海であるという<ref>「[https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/kyoudo_kanagawa/kyoudo_kanagawa052_suzuki.pdf スペイン外交と浦賀湊]」『郷土神奈川』52号 [[神奈川県立図書館]] 2014年</ref>。
 
 
 
== 夫人お雪について ==
 
帰国を諦めつつあったアダムスは、[[1602年]](慶長7年)頃に[[日本橋大伝馬町|大伝馬町]]の[[名主]]で家康の御用商人でもあった[[馬込勘解由]]の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年([[明治]]21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の[[菅沼貞風]]『日本商業史』<ref>{{cite book|和書|author=菅沼貞風|title=大日本商業史|publisher=[[東邦協会]]|date=1892|p=389}}{{近代デジタルライブラリー|994052/227}}</ref>が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年([[昭和]]48年)[[石一郎]]の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野正『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない<ref>{{cite journal|和書|author=森良和|url=http://libds.tamagawa.ac.jp/dspace/bitstream/11078/487/1/5_2016_117-134.pdf|title=ウィリアム・アダムズの日本人妻 ―その出自と名前をめぐって―|journal=玉川大学教育学部紀要|issue=2016|publisher=[[玉川大学]]教育学部|date=2017-3-31}}</ref>。
 
 
 
彼女との間には、息子・[[ジョゼフ・アダムズ|ジョゼフ]]と娘・スザンナが生まれている。
 
 
 
== 記念する場所・行事など ==
 
=== 平戸 ===
 
{{multiple image
 
| image1    = William Adams's Deathplace(Hirado-City).jpg
 
| width1    = 250
 
| alt1      = 三浦按針終焉の地(平戸市木引田町)
 
| image2    = MiuraAnjinNoHaka.jpg
 
| width2    = 130
 
| alt2      = 平戸市崎方公園にある「三浦按針之墓」。
 
| footer    = 左:平戸市木引田町にある「三浦按針終焉の地」の碑<br/>右:平戸市崎方公園にある「三浦按針之墓」。
 
}}
 
按針は1609年(慶長14年)、平戸の[[イギリス商館]]開設に関わった。三浦按針終焉の地(平戸市木引田町431番地)には碑が立つ。
 
 
 
三浦按針は、平戸のイギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られた<ref name="miyanaga">{{Cite journal | author=[[宮永孝]] | title=ウィリアム・アダムスの埋葬地は平戸か|url=http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6098/1/43-3-4miyanaga.pdf  | format=PDF | publisher= | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。しかしその後、キリスト教弾圧の中で平戸商館とともに外国人墓地の破壊が行われたため、埋葬地の正確な場所ははっきりしない<ref name="miyanaga" />。1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘される<ref name="miyanaga" />。三浦家は通詞の末裔であり、ひそかに按針の遺骨の一部をもらいうけて埋葬したという口伝があった<ref name="miyanaga" />。
 
 
 
1954年([[昭和]]29年)、イギリス商館跡近くの[[崎方公園]](平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。1964年(昭和39年)、アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした<ref name="Hirado-Anjin">{{Cite web | url=http://www.hirado-net.com/spot/detail/12?gid=3 | title=三浦按針の墓 | publisher=平戸観光協会 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。
 
 
 
=== 横須賀 ===
 
[[神奈川県]][[横須賀市]]の[[逸見 (横須賀市)|逸見]]には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという[[貝葉|唄多羅葉]]や、念持仏が納められている<ref name="anjintoyokosuka">{{Cite journal | title=三浦按針と横須賀|url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/culture_info/documents/miura_anjin_yokosuka_h24_02ver.pdf  | format=PDF | publisher= | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。
 
 
 
横須賀市西逸見町の「[[塚山公園 (横須賀市)|塚山公園]]」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔([[宝筺印塔]])があり<ref name="Yokosuka-Anjinhaka">{{Cite web | url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/kuni09.html | title=三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代、三浦按針は遺言によって、[[江戸城]]を遠く望む逸見の地に葬られたと伝えられるようになった<ref name="anjintoyokosuka" />。また、江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた<ref name="anjintoyokosuka" />。
 
 
 
日本の[[開国]]後、ウィリアム・アダムスの墓探しが行われた。1874年([[明治]]7年)、[[横浜市|横浜]]に住む実業家ジェームズ・ウォルタースによって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされた<ref name="miyanaga" /><ref name="anjintoyokosuka" />。このころには逸見では、これが按針に関わるものという伝承が失われていたようである<ref name="miyanaga" />。ウォルタースは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた<ref name="anjintoyokosuka" />。1902年(明治35年)に結ばれた[[日英同盟]]を契機に「按針塚」周辺の大規模な整備が行われ、[[塚山公園 (横須賀市)|塚山公園]]が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認された<ref name="anjintoyokosuka" />。[[1923年]]([[大正]]12年)[[3月7日]]、「三浦按針墓」として国の[[史跡]]に指定された。
 
 
 
塚山公園では[[第二次世界大戦]]以前から「按針祭」が挙行されていた。日英間で交戦状態になった第二次世界大戦期の中断を挟み、「三浦按針墓前祭」「三浦按針祭」などの名称で記念行事が行われた<ref name="Yokosuka-Anjin">{{Cite web | url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0140/g_info/l100050895.html | title=三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。1997年([[平成]]9年)以後は「[[三浦按針祭観桜会]]」の名称で、毎年4月8日<ref group="注釈">後述する1982年のジリンガム市との姉妹都市提携日。</ref>に挙行されている<ref name="Yokosuka-Anjin" />。
 
 
 
1982年(昭和57年)に横須賀市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降は{{仮リンク|メドウェイ|en|Medway}}市<ref group="注釈">1998年、ジリンガム市と隣接する[[ロチェスター (イングランド)|ロチェスター市]]と合併して発足。</ref>と姉妹都市関係にある<ref name="clair">{{Cite web | url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。
 
 
 
=== 伊東 ===
 
[[Image:william_adams_bronze_ito_city.jpg|thumb|200px|三浦安針像 伊東市渚町 按針メモリアル公園 [[重岡建治]]作]]
 
按針が洋式船を建造した[[静岡県]][[伊東市]]では、「按針メモリアル公園」が作られ、銅像がある。
 
 
 
毎年夏には「按針祭」が開催され、日程の最後には「[[按針祭海の花火大会]]」が挙行される。
 
 
 
1982年(昭和57年)に伊東市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある<ref name="clair" />。
 
 
 
=== その他 ===
 
[[Image:WilliamAdamsMonument.JPG|thumb|200px|「三浦按針屋敷跡の碑」東京都中央区]]
 
*アダムスの江戸屋敷があった地区は按針町と呼ばれた(現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋室町]])。同地(日本橋室町1-10-8)には、「三浦按針屋敷跡の碑」が立つ。
 
*リーフデ号が漂着した[[大分県]][[臼杵市]][[佐志生海岸]]の[[黒島 (大分県臼杵市)|黒島]]には「三浦按針上陸記念碑」が立つ。「三浦按針記念公園」や「リーフデ号到着記念公園」が整備されている。
 
*リーフデ号の船尾像であった[[エラスムス]]像は、旗本・[[牧野成里]]の手に渡り、その菩提寺である[[栃木県]][[佐野市]]の龍江院に「[[貨狄尊者]]」として伝えられた。エラスムス像は国の[[重要文化財]]に指定され、[[東京国立博物館]]に収蔵されている。
 
*出生地であるメドウェイでは、毎年9月中旬に「Will Adams Festival」が開催される<ref name="Yokosuka-Anjin" />。
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* 『日本に来た最初のイギリス人 ウイリアム・アダムズ=三浦按針』P・G・ロジャーズ、[[幸田礼雅]]訳、([[新評論]]、1993年)
 
* 『さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代』{{仮リンク|ジャイルズ・ミルトン|en|Giles Milton}}、築地誠子訳 ([[原書房]]、2005年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ヤン・ヨーステン]]
 
* [[安針塚駅]] - [[京急線]]の駅で[[横須賀市]]にある。
 
* [[将軍 SHOGUN]] - ウィリアム・アダムスをモデルとした、アメリカの[[テレビドラマ|ドラマ]]。
 
* ANJIN〜イングリッシュサムライ〜 - ウィリアム・アダムスをモデルとした演劇作品。2009年12月に[[天王洲 銀河劇場]]において初演。映画撮影され、方々で上映された。
 
* [[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]
 
* [[海外出身の武士の一覧]]
 
* [[ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー]]- 同時代の[[朝鮮半島]]に漂着し、[[朝鮮王朝]]に仕えた[[オランダ人]]。
 
* [[仁王 (ゲーム)|仁王]] - ウィリアム・アダムスを主人公とした、[[PlayStation 4]]向け[[アクションRPG]]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons|William Adams}}
 
*[http://www.y-anjin.com/ 按針のまち逸見を愛する会]
 
*[http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/culture_info/documents/miura_anjin_yokosuka_h24_02ver.pdf 三浦按針と横須賀] - 横須賀市市政策推進部文化振興課
 
*{{Find a Grave|45290396|accessdate=2016-06-12}}
 
 
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:あたむす ういりあむ}}
 
 
[[Category:イギリスの船員]]
 
[[Category:イギリスの船員]]
 
[[Category:江戸幕府旗本]]
 
[[Category:江戸幕府旗本]]

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ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日元和6年4月24日))

日本に来た最初のイギリス人。一五六四年九月二十四日イギリスのケント州ジリンガムに生まれ、少年時代を造船所の徒弟として過ごし、のちに水先案内となる。八八年スペインの無敵艦隊との交戦の際には、イギリス艦隊の一船に船長として参加した。その後オランダに渡り、北西航路の探険航海にも加わった。九八年司令官ヤコブ=マフの率いる五艘からなる東洋遠征船隊に水先案内として加わり、ロッテルダムを出航した。同船隊はマジェラン海峡を通過後四散したが、アダムスの乗り組んでいたリーフデ号は日本への進路をとり、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)豊後の海岸に漂着した。その地点は臼杵に近い佐志生と推定される。アダムスは船長の代理として大坂に行き徳川家康に会見、その後堺の港から浦賀にリーフデ号を回航させた。家康はアダムスを厚遇し、日本橋の近傍に邸を与え、また相模三浦郡逸見に二百五十石の知行地を支給した。彼は水先案内を意味する按針(または安針・行師)の通称で呼ばれていたので、その邸の付近は安針町と呼ばれ、また彼自身三浦の領主として三浦按針の名を用いていた。彼はイギリスに妻マリーと二人の子を残して来たが、江戸で日本人女性と結婚し、ジョセフ・スザンナの二児をもうけた。その女性は日本橋大伝馬町名主馬込勘解由の娘ともいわれているが確証はない。アダムスは家康の側近に仕えて幾何学や数学を教えたこともあり、またその命によってイギリス型帆船二艘を伊豆伊東で建造した。同十八年イギリス東インド会社の派遣したクローブ号が来日し、司令官ジョン=セーリスはアダムスの斡旋により家康から通商の許可を得て平戸に商館を設けた。アダムスは会社と三年間の雇傭契約を結んだ。そして商館のためにシャム貿易を行い、またのちにみずから朱印船主となって安南・東京(トンキン)に渡航した。元和六年四月二十四日(ユリウス暦一六二〇年五月十六日)平戸で病死した。五十五歳。平戸の墓地は所在明らかでないが、神奈川県横須賀市西逸見町には、彼とその妻とを祀った按針塚が残っている。




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