ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))
日本に来た最初のイギリス人。一五六四年九月二十四日イギリスのケント州ジリンガムに生まれ、少年時代を造船所の徒弟として過ごし、のちに水先案内となる。八八年スペインの無敵艦隊との交戦の際には、イギリス艦隊の一船に船長として参加した。その後オランダに渡り、北西航路の探険航海にも加わった。九八年司令官ヤコブ=マフの率いる五艘からなる東洋遠征船隊に水先案内として加わり、ロッテルダムを出航した。同船隊はマジェラン海峡を通過後四散したが、アダムスの乗り組んでいたリーフデ号は日本への進路をとり、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)豊後の海岸に漂着した。その地点は臼杵に近い佐志生と推定される。アダムスは船長の代理として大坂に行き徳川家康に会見、その後堺の港から浦賀にリーフデ号を回航させた。家康はアダムスを厚遇し、日本橋の近傍に邸を与え、また相模三浦郡逸見に二百五十石の知行地を支給した。彼は水先案内を意味する按針(または安針・行師)の通称で呼ばれていたので、その邸の付近は安針町と呼ばれ、また彼自身三浦の領主として三浦按針の名を用いていた。彼はイギリスに妻マリーと二人の子を残して来たが、江戸で日本人女性と結婚し、ジョセフ・スザンナの二児をもうけた。その女性は日本橋大伝馬町名主馬込勘解由の娘ともいわれているが確証はない。アダムスは家康の側近に仕えて幾何学や数学を教えたこともあり、またその命によってイギリス型帆船二艘を伊豆伊東で建造した。同十八年イギリス東インド会社の派遣したクローブ号が来日し、司令官ジョン=セーリスはアダムスの斡旋により家康から通商の許可を得て平戸に商館を設けた。アダムスは会社と三年間の雇傭契約を結んだ。そして商館のためにシャム貿易を行い、またのちにみずから朱印船主となって安南・東京(トンキン)に渡航した。元和六年四月二十四日(ユリウス暦一六二〇年五月十六日)平戸で病死した。五十五歳。平戸の墓地は所在明らかでないが、神奈川県横須賀市西逸見町には、彼とその妻とを祀った按針塚が残っている。