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'''白瀬 矗'''(しらせ のぶ、[[文久]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<ref name="inoue20">[[#井上|井上 (2012)]]、20頁。</ref>([[1861年]][[7月20日]]) - [[昭和]]21年([[1946年]])[[9月4日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[南極]][[探検家]]。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[中尉|陸軍輜重兵中尉]]。幼名は'''知教'''(ちきょう)<ref name="tsunabuchi23">[[#綱淵|綱淵 (1990)]]、23頁。</ref>。
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'''白瀬 矗'''(しらせ のぶ、[[文久]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<ref name="inoue20">[[#井上|井上 (2012)]]、20頁。</ref>([[1861年]][[7月20日]]) - [[昭和]]21年([[1946年]])[[9月4日]]
  
== 生涯 ==
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日本の探検家。陸軍中尉。 1893年に千島列島の探検を行い,さらに千島列島から北極に到達することを計画したが果せなかった。その後,南極探検に転換。 1910年 11月日本を出発して南極大陸に向ったが,冬季のためオーストラリアのシドニーに引返して待機。 12月1日に再出発,開南湾に到達した。その後,南緯 80°5′,西経 156°37′の地点に達し,探検家の名簿と記念の銅柱を雪中に埋め,その付近を「大和雪原」と命名した。この事業は当時の日本の画期的な壮挙として内外に知られた。
=== 出生と陸軍入隊 ===
 
[[文久]]元年([[1861年]])、[[出羽国]][[由利郡]][[金浦町|金浦村]](現在の[[秋田県]][[にかほ市]])出身<ref name="inoue20" />。浄蓮寺の[[住職]]、白瀬知道・マキエの長男として生まれた<ref name="tsunabuchi23" />。南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代の彼は非常にわんぱくで、「狐の尻尾を折る」「狼退治」「千石船を素潜りで潜ろうとして死にかける」「150人と血闘」などを行ったと列挙している<ref name="inoue20" /><ref name="tsunabuchi23">[[#綱淵|綱淵 (1990)]]、23頁。</ref>。
 
8歳(数え年だと9歳<ref name="tsunabuchi23" />)の頃に、[[平田篤胤]]の高弟ともいわれる医師で蘭学者(漢学者とも)の佐々木節斎の寺子屋に入る<ref name="inoue26">[[#井上|井上 (2012)]]、26頁。</ref>。佐々木は寺子屋で読み書きソロバンや四書五経を教え、その他にも[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]や[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]の地理探検、そして[[ジョン・フランクリン]]隊の遭難([[フランクリン遠征]])などの話を聞かせた<ref>[[#井上|井上 (2012)]]、104-106頁。</ref>。白瀬は11歳の頃に佐々木より[[北極]]の話を聞き、探検家を志すようになる<ref name="inoue26">[[#井上|井上 (2012)]]、26頁。</ref><ref name="tsunabuchi23" />。
 
  
この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを教えた。
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{{テンプレート:20180815sk}}
#[[酒]]を飲まない
 
#[[煙草]]を吸わない
 
#[[茶]]を飲まない
 
#[[湯]]を飲まない
 
#寒中でも火にあたらない
 
白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる<ref name="inoue26" /><ref>[[#綱淵|綱淵 (1990)]]、25頁。</ref>。
 
 
 
[[明治]]10年([[1877年]])、母の実家である山形県山形市七日町にある小学校に入学し、明治12年([[1879年]])3月に卒業する<ref name="inoue27">[[#井上|井上 (2012)]]、27頁。</ref>。同年7月に[[僧侶]]となるため上京するが、2ヵ月後に軍人を目指し[[日比谷]]の[[陸軍教導団]][[騎兵|騎兵科]]に入校。同時に幼名の知教という名を矗に[[改名]]した<ref name="inoue27" />。
 
 
 
=== 千島探検 ===
 
明治14年([[1881年]])に教導団を卒業、[[輜重兵]]に転科し[[伍長|陸軍輜重兵伍長]]として[[仙台]]に赴任する。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、[[児玉源太郎]]と知り合う<ref>[[#井上|井上 (2012)]]、27頁。</ref>。
 
明治20年([[1887年]])には仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚<ref name="inoue28">[[#井上|井上 (2012)]]、28頁。</ref>。
 
[[曹長|陸軍輜重兵曹長]]、[[准士官|下副官]]と昇進し明治26年([[1893年]])に[[予備役]]編入した。
 
 
 
明治23年([[1890年]])、仙台で児玉源太郎と再会し、北極探検の思いを伝えた白瀬だったが、児玉に「書生論的空理空論だ」と断ざれてしまう<ref name="inoue28" />。しかし児玉はそう断じた上で、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦めた<ref name="inoue28" />。
 
 
 
児玉の助言に従って白瀬は千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)、[[幸田露伴]]の兄である[[郡司成忠]]大尉が率いる[[千島]]探検隊([[千島報效義会]])に加わる<ref name="inoue29">[[#井上|井上 (2012)]]、29頁。</ref>。
 
探検隊は千島に到着するまでの間に暴風雨による遭難で19名の死者を出しながらも[[千島列島]]に到着。[[捨子古丹島]]に9名、[[幌筵島]]に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は同年8月31日に最終目的地である[[占守島]]に到着、そのまま同島で越冬した<ref>[[#井上|井上 (2012)]]、31頁。</ref>。
 
 
 
翌明治27年([[1894年]])の5月、幌延島の一人が[[壊血病]]で死亡、さらに6月に占守島へ寄港した軍艦「[[磐城 (砲艦)|磐城]]」からは「捨子古丹島の9名の内4名死亡、5名行方不明」という情報がもたらされる<ref name="inoue32">[[#井上|井上 (2012)]]、32頁。</ref>。
 
そして郡司は軍からの強い要請により、「磐城」に乗って帰還することになった<ref name="inoue32" />。この時、郡司は当初全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせないために自分が占守島に残る事を強硬に主張。郡司はこれを翻意させるため、白瀬に成延の代わりとして占守島へ残留することを要望することになる。
 
 
 
白瀬も最終的に郡司の帰還を承諾したが、この2年目の越冬は過酷なものとなった。白瀬を含む4人が壊血病に罹り、白瀬以外の3人は死亡<ref name="inoue33">[[#井上|井上 (2012)]]、33頁。</ref>。壊血病に罹らなかった2人のうち1人は[[ノイローゼ]]となり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどであった。白瀬らは明治28年([[1895年]])8月になって救助されたが<ref name="inoue33" />、過酷な状況に追い込まれたことと<ref name="inoue34">[[#井上|井上 (2012)]]、34頁。</ref>、越冬のため[[日清戦争]]に従軍できなかったことへの悔やみから<ref name="inoue34" />、白瀬は郡司親子を恨むようになり、以後郡司と白瀬の仲は極端に悪化する<ref name="inoue34" />。
 
 
 
明治30年([[1897年]])、[[役種|後備]][[少尉|陸軍輜重兵少尉]]任官。明治33年([[1900年]])、国家事業として千島の経営を[[帝国議会]]に請願、10万円の予算が通過したが、交付されないので密漁船で[[アラスカ]]に渡り、6ヶ月間を北緯70度で過ごした。明治37年([[1904年]])には[[日露戦争]]勃発のため、同年6月に[[召集]]され[[第8師団 (日本軍)|第8師団]]衛生予備廠長となり、10月に出征し明治38年([[1905年]])1月に[[黒溝台会戦]]で右手と胸を負傷<ref name="inoue36">[[#井上|井上 (2012)]]、36頁。</ref>、凱旋後の同年11月に陸軍輜重兵中尉に昇官した<ref name="inoue36" />。
 
 
 
明治42年([[1909年]])、[[アメリカ]]の探検家・[[ロバート・ピアリー]]の[[北極点]]踏破のニュースを聞き、傍目で見ていても痛ましいほど失望・落胆する<ref name="inoue34">[[#井上|井上 (2012)]]、34頁。</ref>。そこで北極探検を断念して目標を[[南極点]]へ変更するが、[[アーネスト・シャクルトン]]が南緯88度23分に到達したと知ると白瀬は意気消沈した。さらに[[イギリス]]政府が[[ロバート・スコット]]が南極探検に来年も挑むと発表すると、白瀬は即座に競争を決意した<ref name="inoue34" />。スコットは[[1910年]]にイギリスの[[王立地理学会]]から支援を受け、科学調査とともに南極点到達を目標にしていた。当時は南極点を目指す探検隊が他にいないと思われ、スコットが最初に到達するものと考えられていた。
 
 
 
=== 南極探検隊の結成と出発 ===
 
[[ファイル:Kainan-Maru.JPG|thumb|250px|[[開南丸]]]]
 
明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を[[帝国議会]]に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)した。衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義援金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。船の調達も難航し予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。最終的には千島探検で険悪の仲となっていた郡司に頭を下げ、積載量が僅かに204トンという木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、[[東郷平八郎]]によって「'''[[開南丸]]'''」と命名された。極地での輸送力は29頭の犬だった。
 
 
 
同年7月5日、神田で南極探検発表演説会を開催、当日中に南極探検後援会が組織され、幹事に[[三宅雪嶺]]・[[押川方義]]・桜井熊太郎・村上濁浪(本名・俊蔵 。雑誌『成功』を刊行する「成功雑誌社」主幹<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=xipyVYaKyvgC&pg=PA158 『立身出世の社会史: サムライからサラリーマンへ』]E.H.キンモンス,玉川大学出版部, 1995</ref>)・田中舎身・[[佐々木照山]]、会長には[[大隈重信]]が就任した。
 
 
 
同年[[11月29日]]、開南丸は芝浦埠頭を出港したが、航海中に殆どの犬が原因不明(のちに[[寄生虫症]]と判明)の死を遂げた。さらに、白瀬と書記長の多田恵一、船長の野村直吉と他隊員との間に不和が起こる。明治44年([[1911年]])2月8日に、[[ニュージーランド]]の[[ウェリントン]]港に入港。物資を積み込んで[[2月11日]]に南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、[[5月1日]]に[[シドニー]]へ入港した。ここで、資金調達のために多田と野村が帰国したが、後援会内部では村上濁浪が会費を使い込んだという疑惑が起きて内紛が発生。一方、シドニーで滞在していた本隊(野宿で過ごし住民の不安を招いたが、のちに解消)でも内紛が発生しており、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえいわれている<ref>白瀬武子「マ元帥と白瀬中尉」、『週刊朝日』昭和26年9月2日号より。これは[[山辺安之助]]らアイヌ隊員によって事前に阻止された。</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Yamato Snowfield.JPG|thumb|250px|大和雪原]]
 
その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーへ戻った多田を加えた隊は、表面上は和解して再び南極を目指して11月19日に出港。明治45年([[1912年]])[[1月16日]]に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、ちょうどこの翌日にスコットが南極点に到達した。同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸で[[ロス棚氷]]・[[クジラ湾]]に向かう。クジラ湾内では、[[アムンセンの南極点遠征|南極点初到達]]から帰還する[[ロアール・アムンセン]]の探検隊を収容するために来航していた[[フラム号]]と遭遇、限られた形ながら接触している<ref>[http://www.shirase100.jp/page1_4.html 白瀬中尉の南極探検] - NPO法人白瀬南極探検100周年記念会</ref><ref>アムンセン隊は白瀬隊が去ってからクジラ湾に到着したため、すれ違いとなっている。</ref>。その後クジラ湾より再上陸し、1月20日に極地に向け出発した。この時には南極点到達を断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とした。しかし、探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分<ref>『[[山と溪谷]]』2018年3月号、[[山と溪谷社]]、 19頁。</ref><ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/白瀬矗-80847 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-21 }}</ref>の地点一帯を「[[大和雪原]](やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、[[日本の国旗|日章旗]]を掲げて「日本の領土として占領する」と[[先占]]による[[領有]]を宣言した([[第二次世界大戦]]の敗戦時に領有主張は放棄。またこの地点は[[棚氷]]であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明。)。この領有宣言はシャクルトンにならって行われた。
 
 
 
白瀬の突進隊数名は上陸地点付近での気象観測、開南丸はロス湾周辺の調査を行い、付近の湾を「大隈湾」「開南湾」と命名した。なお、この地は氷上であり大陸ではない。探検の記録映像『日本南極探検』は[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]が所蔵しており、展示室のビデオモニターでその一部が鑑賞できる。
 
 
 
=== 帰還 ===
 
付近一帯を大和雪原と命名した白瀬隊は、2月4日に南極を離れ、[[ウェリントン]]経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた[[樺太犬]]21頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち6頭は生還)。このため、参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名([[山辺安之助]]と[[花守信吉]])は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されたと伝えられる。
 
 
 
ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの四名は、開南丸ではなく貨客船で日本に帰ってきた<ref>[[#井上|井上 (2012)]]、82頁。</ref>。他の者は開南丸に乗って6月18日に館山に到着し、19日に横浜へ回航、そして20日に出発地である芝浦へ帰還した<ref name="inoue83">[[#井上|井上 (2012)]]、83頁。</ref>。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行った<ref name="inoue83" />。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は4万円(現在の1億5千万円<ref name="sato50">[[#佐藤|佐藤 (2004)]]、50頁。</ref>)の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して<ref name="sato50" />、転居につぐ転居を重ね<ref>[[#佐藤|佐藤 (2004)]]、51頁。</ref>、実写フィルムを抱えて娘と共に、日本はもちろん[[台湾]]、[[満州]]、[[朝鮮半島]]を講演して回り、20年をかけて渡航の借金の弁済に努めた<ref name="sato50" /><ref name="inoue84">[[#井上|井上 (2012)]]、84頁。</ref>。南極地域観測隊第一次隊越冬隊長である[[西堀栄三郎]]は京都[[南座]]で白瀬の南極公演を聞いて、南極探検を志すに至っている<ref name="inoue84" />。その時、西堀は白瀬が南極探検を志した年齢と同じ11歳であった<ref name="inoue84" />。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
[[ファイル:大和雪原開拓者之墓.jpg|thumb|大和雪原開拓者之墓(2005年9月)]]
 
南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、[[ペンギン]]の胃から出てきた140個あまりの石の分類も行われた。[[昭和]]11年([[1936年]])には東京科学博物館(現・[[国立科学博物館]])にて「南極の科学」展が開かれ、白瀬はその講演で出席したほか、同12年([[1938年]])には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡された。
 
 
 
昭和21年([[1946年]])[[9月4日]]、愛知県西加茂郡挙母町(現・[[豊田市]])の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は[[腸閉塞]]であった<ref>[[2007年]][[6月11日]]朝日新聞夕刊より。</ref><ref>[http://hyper.city.nikaho.akita.jp/shirase/page3-1.html 白瀬南極探検隊記念館公式ホームページ]</ref>。
 
床の間にみかん箱が置かれ、その上に[[カボチャ]]二つと[[ナス]]数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇<ref name="sato53">[[#佐藤|佐藤 (2004)]]、53頁。</ref>を、弔問するものは少なかった<ref name="sato53" /><ref name="inoue90">[[#井上|井上 (2012)]]、90頁。</ref>。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった<ref name="sato53" /><ref name="inoue90" />。
 
 
 
白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた[[浄覚寺]]の住職が引き取った。奇しくも、後に第1次南極観測隊隊長となる[[永田武]]は、白瀬の遺族と同じ浄覚寺に疎開していた。
 
 
 
== その他 ==
 
* [[ロス棚氷]]の東岸は、昭和36年(1961年)にニュージーランドの南極地名委員会によって「[[白瀬海岸]](しらせかいがん、Shirase Coast)」と命名された<ref name="gnis-Shirase Coast">{{cite web|url=http://geonames.usgs.gov/pls/gnispublic/f?p=132:3:2770186173268502::NO::P3_ANTAR_ID,P3_TITLE:13745%2CShirase%20Coast|title=U.S. Geological Survey Geographic Names Information System: Shirase Coast|accessdate=2013-04-29}}</ref>。
 
* 白瀬隊の南極探検50周年の記念切手が昭和35年(1960年)11月29日に発行された。この日は白瀬が南極へ向けて出発してからちょうど50年である。
 
* [[秋田県]][[にかほ市]]に「[[白瀬南極探検隊記念館]]」が、[[愛知県]][[西尾市]][[吉良町]]に「大和雪原開拓者之墓」の墓碑がある。
 
* 昭和45年([[1970年]])に日本女性として初の小型ヨットによる世界一周を果たした白瀬京子(1936年~1990年)は、白瀬の弟の孫(本人からは大姪にあたる)。京子は「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長に就任したが、開館直前に死去。
 
* 「[[秋田ふるさと村]]」([[横手市]])のマスコットキャラクターである、秋田犬の「ノブ君」の名前は白瀬に由来する。
 
* 南極観測船「しらせ」の艦名が『白瀬矗』に因んでいるという認識が多いが、公式には「[[白瀬氷河]]」に因んでいる<ref>[http://polaris.nipr.ac.jp/~academy/science/shirase/shirase01.html 世界有数の砕氷船「しらせ」] 国立極地研究所 2013年11月26日閲覧</ref><ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1960/ax19600924_00030_000.pdf 海上自衛隊の使用する船舶の区分等及び名称等を付与する標準を定める訓令 別表第2自衛艦の名称等を付与する標準] 海上自衛隊 訓令第30号 2013年11月26日閲覧</ref>。
 
 
 
== 著書 ==
 
* 『千島探検記』東京図書出版、1897年4月。{{NDLJP|763054}}
 
** 『シリーズ出にっぽん記 明治の冒険者たち 第11巻 千島探検録 竜睡丸漂流記』ゆまに書房、1994年2月。ISBN 4-89668-755-8
 
* 『南極探検』博文館、1913年1月。{{NDLJP|980822}}
 
** 『シリーズ出にっぽん記 明治の冒険者たち 第12巻 南極探検 南極探検と皇太神宮の奉斎』ゆまに書房、1994年2月。ISBN 4-89668-756-6
 
* 『冒険実譚 北極より南極へ』明治図書、1922年10月。
 
* 『私の南極探検記』皇国青年教育協会、1942年11月。
 
** 『人間の記録 61 白瀬矗 私の南極探検記』日本図書センター、1998年8月。ISBN 4-8205-4306-7
 
** 『南極大陸に立つ 私の南極探検記』毎日ワンズ、2011年12月。ISBN 978-4-901622-57-8
 
* 『南極と北極 探検ものがたり』越後屋書房、1944年1月。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 南極探検後援会『[{{NDLDC|950702}} 南極記]』成功雑誌社、1913年
 
* 白瀬『南極探検の今昔』 自然科学と博物館79号、1936年
 
* 白瀬『私の南極探検記』 皇国青年教育協会、1942年
 
* {{Cite book
 
| 和書
 
| author=井上正鉄
 
| year=2012
 
| title=日本南極探検隊長 白瀬矗
 
| publisher=[[極地研ライブラリー]]
 
| isbn=978-4-425-57031-7
 
| ref=井上
 
}}
 
* {{Cite book
 
| 和書
 
| author=[[綱淵謙錠]]
 
| year=1990
 
| title=極 白瀬中尉南極探検記
 
| publisher=[[新潮社]]
 
| isbn=978-4-10-148803-7
 
| ref=綱淵
 
}}
 
* {{Cite book
 
| 和書
 
| author=佐藤忠悦
 
| year=2004
 
| title=南極に立った樺太アイヌ
 
| publisher=[[東洋書店]]
 
| isbn=4-88595-509-2
 
| ref=佐藤
 
}}
 
* [[横田順彌]]『明治の夢工房』、潮出版社、1998年、100-106頁
 
* 朝日新聞社「日本南極観測50周年記念 ふしぎ大陸 南極展2006」、2006年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ロアール・アムンセン]] - 南極点には1911年到達。
 
* [[ロバート・スコット]] - 南極点には1912年到達。
 
* [[大和雪原]]
 
* [[しらせ (砕氷艦)|初代しらせ]]
 
* [[しらせ (砕氷艦・2代)|2代目しらせ]]
 
* [[梅屋庄吉]] - 南極探検隊の記録映画を制作
 
* [[南極地域観測隊]]
 
* [[郡司成忠]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://shirase-kinenkan.jp/ 白瀬南極探検隊記念館公式ホームページ]
 
* [http://shirase100.org/ NPO法人白瀬南極探検100周年記念会公式ホームページ]
 
* [http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/19/ 本の万華鏡 第19回 白瀬矗、南極へ―日本人初の極地探検]([[国立国会図書館]])
 
 
 
{{南極}}
 
{{Normdaten}}
 
 
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{{DEFAULTSORT:しらせ のふ}}
 
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[[Category:白瀬矗|*]]

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白瀬矗.jpg

白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日[1]1861年7月20日) - 昭和21年(1946年9月4日

日本の探検家。陸軍中尉。 1893年に千島列島の探検を行い,さらに千島列島から北極に到達することを計画したが果せなかった。その後,南極探検に転換。 1910年 11月日本を出発して南極大陸に向ったが,冬季のためオーストラリアのシドニーに引返して待機。 12月1日に再出発,開南湾に到達した。その後,南緯 80°5′,西経 156°37′の地点に達し,探検家の名簿と記念の銅柱を雪中に埋め,その付近を「大和雪原」と命名した。この事業は当時の日本の画期的な壮挙として内外に知られた。



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  1. 井上 (2012)、20頁。