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− | {{otheruseslist|[[近代]]以前の歴史用語|近代以降の法用語|非嫡出子|}}
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− | {{出典の明記|date=2013年6月6日 (木) 07:53 (UTC)}}
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− | '''庶子'''(しょし)は、[[正室]]ではない[[女性]]から生まれた子供を指す語。[[結婚]]([[結婚|婚姻]])制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。
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− | 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において[[嫡子]]と差別をこうむることになる。
| + | '''庶子'''(しょし) |
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− | 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。
| + | 家族制度上の用語。古くは「そし」ともいった。律令制においては,庶子は,[[嫡子]] (ちゃくし) に対応するものとして使用されている。したがって,それは,家相続人以外の男子,嫡妻の長子以外の男子,妾の男子の3様の意義を有している。第1の意義の庶子は,大宝,養老の制においては,嫡子に罪疾ある場合に,これに代って選定を受ける地位にあり,また,嫡子よりもいささか劣るが,財産相続権も認められていた。中世における庶子の意義は,律令制におけるそれと同じく多義であった。しかも,この頃においては,惣領支配下の家々の当主もまた庶子と称されたから,その意義はさらに複雑になった。家相続人以外の諸子を意味する庶子の地位は,単独相続が一般化し,かつ取立て嫡子のことも少くなった室町時代以降,すこぶる劣悪化し,江戸時代においては,いわゆる「冷や飯食い」といわれる家長の扶持人に下落した。民法の旧規定では父の認知した私生子を庶子といった。現行民法規定では庶子の名称は廃され,非[[嫡出子]]がこれにあたる。 |
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− | * 相続が認められる社会においては跡継ぎの確保、認められない社会においても一門の繁栄という観点から。相手は[[側室]]等
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− | * 多くの時代において結婚は、影響力や財産の確保を目的とした[[家]]同士のつながりにより行われたため、身分差などで結婚できないとき。相手は[[愛人]]、[[妾]]等
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− | * [[聖職者]]等、父親が妻帯できない職業の場合。
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− | 本来、「庶子」という語は広く婚外子を指す語であるが、その中でも「[[側室]]や[[妾]]が生んだ子供」という意味も持っているため、現代では差別的であるとして通常使われていない。民法旧規定(1898-1947)においては、父親が認知した婚外子を「庶子」と呼んだ(民法改定後廃止)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%81%E7%94%9F%E5%AD%90-73526 私生子 しせいしbastard, illegitimate child]コトバンク</ref>。現行法では「[[非嫡出子]]」、特に近年では「'''婚外子'''」という語が用いられている。[[嫡出]]の項を参照のこと。
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− | == 日本 ==
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− | [[日本]]で最初に嫡子と庶子の身分的差異を明らかにしたのは[[律令制]]における[[蔭位]]であるとされる。[[正室]]のほかに複数の[[側室]]を持っていた当時の[[貴族]]社会では公に認められた正妻の内、最初に婚姻した妻を嫡妻、嫡妻の生んだ長子を嫡子と定めた。蔭位は父祖の位によって子、孫に与えられる[[位階]]を定めたものだがこの中で嫡子と庶子に明確な差をつけた。このため貴族は自らの[[系図]]を作成し、いかに自分の先祖が高位であったか、いかに自分の家系が[[嫡流]]であるかをアピールした。
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− | しかし[[11世紀]]ごろから律令制が形骸化し、貴族社会から[[武家]]社会に時代が移行すると家の興廃を左右する嫡男の概念は変化する。実力や生母の[[家柄]]によって子供の中から嫡男が指名されるようになり、状況によって一度嫡子とされたものが[[廃嫡]]し、正室以外の子供でも認められれば立嫡を経て[[嫡子]]として扱われた。[[嫡子]]以外即ち庶子は家臣となって[[家制度#分家|分家]]し、[[庶家]]を立て、庶流を形成した。嫡流の当主は[[氏長者]]として一門を統率したが、庶流の中には嫡流に従うばかりではなく、凌駕して取って代わるものも出た。[[下克上]]である。
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− | 日本の武家社会(及びその影響下にある社会)においては[[嫡男]]以外の[[家督相続]]権のない男子のことを庶子といい、この場合[[正室]]の子供である無しは関係なく、[[長男]]が嫡男とは限らない。嫡男は[[総領]]などと呼ばれ、庶子は分家して[[庶家]]となり、庶流を形成することがあった。
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− | [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]においては奇しくも3人の[[天下人]]([[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]])の跡継ぎはいずれも庶子である(信長、秀吉は正室との間に子が無く、家康は正室[[築山殿]]との間に[[松平信康|信康]]が居たが若くして自害している)。やがて戦国時代が終わりを告げると、徳川家康は改めて長子相続の原則を明らかにした。
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− | [[江戸時代]]に入り社会が安定すると、本来の嫡男が病弱などの理由で他家や親戚筋から[[養子縁組|養子]]を迎える例が多くなり、場合によっては[[西条藩]]のように嫡子の[[松平頼雄 (西条藩嫡子)|松平頼雄]]が[[廃嫡]]され、庶子の[[徳川宗直|松平頼致(のちの徳川宗直]])が家督相続することすら起こる様になる。これは単純な血統の存続よりも「家」の存続を第一に考える日本の考え方や[[江戸幕府]]による[[末期養子]]への制限、[[将軍家]]や大名家の子息の死亡率が高かったなどによるものである。このことによって兄弟の二・三男や庶出子にも出世のチャンスがめぐってくる確率が増えた。一方「家」にとっては優秀な人材をリクルートするチャンスでもあった。しかし養子の話がまとまらない者は「[[部屋住み]]」「厄介」などと呼ばれ肩身の狭い思いを余儀なくされた<ref>なお、藩によっては[[陪臣]]身分の一門家や家臣の養子になり、[[臣籍降下]]する場合もあった。</ref>。「暴れん坊将軍」こと徳川八代将軍[[徳川吉宗]]は[[紀州藩]]主[[徳川光貞]]が57歳のときに湯殿番であった[[浄円院|於由利の方]]に生ませた子である([[側室]]の子)。[[江戸幕府]][[徳川宗家|将軍家]]において[[正室]]の子は[[徳川家康|家康]]・[[徳川家光|家光]]・[[徳川慶喜|慶喜]]の3名のみである。そのうち[[徳川将軍家御台所|御台所]]の子は家光のみである。江戸時代の将軍に限らず、諸藩大名もほとんどは庶子出身であったとされ、正室出生の人物の方が少ないといえるが、多くの場合は正室の養子とされることで、名目上の家督相続の正当性を保たせた。
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− | === 平重盛の息子 ===
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− | [[九条兼実]]の[[日記]]『[[玉葉]]』によれば、[[嘉応]]2年([[1170年]])当時[[平重盛]]の嫡男は[[平資盛|資盛]](次男)であると記されている。ところが8年後には、重盛の嫡男は異母兄の[[平維盛|維盛]]([[長男]])であると記されている。記録を見ても、資盛の母は下総[[藤原氏]]の出と判明しているのに対し、維盛の母は『[[尊卑分脈]]』では官女としか書かれておらず、素性が知れない女性と推定されている。[[角田文衞]]によれば維盛の母は重盛の室の1人の[[平時信]]の娘で、[[平時子]]達の姉妹の内裏女房の坊門殿と呼ばれていた女性ではないかと書いている<ref>[[古代学協会]]『後白河院―動乱期の天皇』[[吉川弘文館]]、[[角田文衞]]著の『建春門院』から。もしそうだとすると維盛は時子達の甥で[[平宗盛|宗盛]]や[[高倉天皇]]とは母方の従兄弟同士という事になり、母方の力関係が変わってくる事になる</ref>。
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− | また嘉応2年当時における資盛の[[官位]]が維盛のそれよりも高かったことを考慮すると、これは兼実の誤りではなく、庶子であった維盛が立嫡を経て、資盛に替わる嫡子に立てられたと見るべきである。一方、[[洞院公賢]]が編した『[[皇代暦]]』には、小松家(重盛の家系)を相伝したのは資盛と書かれている。これは維盛の[[岳父]]の[[藤原成親]]が[[鹿ケ谷の陰謀]]に関わって失脚したために維盛が政治的な後ろ盾を失い、その後の小松家では実権が資盛に移ったためだと考えられる。
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− | 他にも重盛の正室で成親の妹の[[藤原経子]]の長子で重盛の三男だった清経も、叙爵や禁色を許された年齢が兄2人より早かった。しかし維盛と同じく成親が岳父だった事と、母親が成親の妹の経子だった事もあってか、鹿ケ谷以降は官位の昇進が遅くなっており、兄2人と違って[[公卿]]には至っていない。
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− | === 北条泰時と北条朝時 ===
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− | 鎌倉幕府2代[[執権]][[北条義時]]の正室は有力[[御家人]]・[[比企氏]]の一族で美女の誉れ高い[[姫の前]]で、義時は1年もの間文を送ったがなびかず「絶対に離縁しない」旨の[[起請文]]を入れ、[[源頼朝]]に仲介を頼んでようやく正室に迎えた。義時の長子は[[北条泰時|泰時]]であったが、姫の前の子[[北条朝時|朝時]](名越朝時)が嫡男として扱われた。しかし朝時は3代将軍[[源実朝]]の正室[[坊門信子]]の官女に艶書を届けていたことが露見して実朝の怒りをかい失脚した。義時は朝時を義絶、庶長子の泰時を嫡男とした。父・義時が急死すると泰時が[[得宗家]]を相続し、鎌倉幕府3代執権となった。
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− | 一方、朝時は蟄居を命ぜられていたが戦功をあげて許され、[[鎌倉]]に帰参する。庶流に下った朝時の系統は[[北条氏 (名越流)|名越流]]として一門に列したが、[[宮騒動]]や[[二月騒動]]等で度々得宗家に反目したという。
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− | === 井伊直弼 ===
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− | [[安政の大獄]]を行って大勢の[[志士]]を処刑し、[[桜田門外の変|桜田門外]]で暗殺された[[幕末]]の[[大老]][[井伊直弼]]は、[[彦根藩]]主・[[井伊直中]]の14男として生まれた。母は[[側室]][[君田富|お富の方]]。生まれた時には兄[[井伊直亮|直亮]]が既に藩主となっており、直弼は300俵の[[捨扶持]]を受け、井伊家控え屋敷「尾末町御屋敷」で部屋住みとして暮らした。
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− | 20歳のとき養子の話があるというので弟の[[内藤政義|政義]]と共に江戸に出向いたが、縁組が決まったのは弟だけであり自分は失意の内に彦根に戻った。直弼が暮らした尾末町御屋敷は屋敷とは名ばかりの大名の家族としてはひどく質素な生活だったと言う。直弼はその尾末町屋敷を「[[埋木舎]](うもれぎのや)」と呼び、逆境の中に再起を期して刻苦した。その日記が「埋木舎の記」である。また藩の役人である付人が書いた記録が通称「[[庶子屋敷日記]]」として[[彦根城博物館]]に収められている。32歳の時、兄・直亮の世子[[井伊直元|直元]]が死去。急遽、兄の養子として藩の後継者に抜擢される。35歳で彦根藩主を継ぎ、当時としては遅咲きの花を咲かせることになる。
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− | 直弼が部屋住みとして過ごした15年間の記録は、大名家の庶子がどのような生活をしていたかを知る貴重な資料として注目されている。
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− | == 朝鮮 ==
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− | [[李氏朝鮮]]においては、その歴史を通じて庶子({{lang|ko|서얼}}、庶孽)は差別され、虐げられてきた。朝鮮の基本法典である『[[経国大典]]』によれば、父親が[[両班]]であっても、庶子は出世の道である文[[科挙]]を受験することが出来ない。武科挙と、専門職の官吏を選ぶ試験は受験することができたが、朝鮮では武官の身分は文官に比べて低く、また専門職の官吏は[[中人 (朝鮮)|中人]]という両班と常民の中間の身分の人間がなるものだとされていた。この中人と庶子を合わせて「中庶」という表現があったほど、庶子の身分は制限されていた。
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− | また[[奴婢随母法]]によって母親が[[奴婢]]階級であれば奴婢として、常民であれば常民として一生を過ごさなければならなかった(父が功臣、王族の場合には除外)。[[ハングル]]による最初の小説である『[[洪吉童]]傳』には「父を父と呼ぶことすら許されない」と庶子である主人公・洪吉童が、その身の上を嘆く場面がある。奴婢の女中を母に持つ主人公は父を「アボジ(お父さん)」ではなく「ナーリ(旦那様)」と呼ばなくてはならなかった。
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− | その一方、庶子であることを理由に養育を放棄される(捨てられる)ことはなく、文化的教育も十分に受けることが出来た。[[儒教]]では特に先祖の祭祀を男子が行うとするため、[[男系男子]]の保存という役割を期待されるからであるが、人並み外れた能力と才気を以って生まれた洪吉童にとってこれは“飼い殺し”であった。そしてそんな状況はなにも物語の上だけのことではなかった。
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− | === 太宗と鄭道伝 ===
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− | [[高麗]]までなかった差別ができたのは、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の政敵だった[[鄭道伝]]が庶子だったからだと言う。李氏朝鮮は高麗王朝を[[易姓革命]]によって打倒し樹立した政権であるが、初代[[李成桂]]に対し、建国の功臣・鄭道伝は「宰相論」を展開した。それは、世襲の国王は君子とは限らないが、宰相を中心とする士大夫が実権を握り、政治をリードすれば、国王が暗愚でない限り国家は安泰だというものだった。
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− | 李成桂(太祖)はその意見を容れ、建国1ヶ月にして第2夫人康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の[[李芳碩]]を王世子に指名した。同時に政権樹立に功績があり、強力な王権こそが国家の安定に不可欠だと主張していた五男・[[李芳遠]](太宗)を遠ざけた。
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− | 鄭道伝と意見が対立し、しかも建国時の功績まで無視された李芳遠は、武力クーデターによって異母弟・李芳碩と政敵・鄭道伝を暗殺し、政治の実権を握る。これが[[第一次王子の乱]]である。このように国が乱れたのは、第2夫人康氏の子・李芳碩を世子にたてたこと、それを上申した鄭道伝が庶子の生まれであったことが原因だと上疏する者があった。国王の座に着いた李芳遠はそれを受け入れ、庶子に対する人材登用の道を一切断ってしまった。後に[[宣祖]]によって御批(国王の直接裁可)が発せられ、庶子に対する差別は書面上は消滅する。しかし実際の差別と屈辱は李朝が崩壊するまで消えることはなかった。
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− | === 洪吉童と庶孽党 ===
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− | 『[[洪吉童]]傳』は[[17世紀]]初頭[[許イン|許筠]](きょ・いん)によって書かれた小説であり、大官の庶子である主人公・洪吉童が道術を身につけ、庶民を苦しめる貧官汚吏を懲らしめる物語である。現在でこそどうということはない勧善懲悪ものだが、身分制の厳格な当時としてはおよそ考えられない危険思想だった。ましてやその著者である許筠は、国王の側近でもある高官であった。
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− | 許筠の詩作の師匠、[[李達]]は「三唐詩人」とも呼ばれた第一人者だったが、庶子出身ゆえに官職を得ず、不遇に終わったとされる。許筠は当時の硬直した儒教社会に批判的な眼を向けた。許筠は両班の庶子で組織された[[庶孽党]]と交際し、庶子の差別撤廃を公然と主張した。しかしその主張は容れられず、庶孽党は富商を襲って金品を強奪するなど暴徒化する。
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− | 物語中の洪吉童は仲間とともに国を捨て海を渡り、理想国家を建設する。しかし許筠は理想国家を建設することは出来なかった。[[1618年]]、無名の儒者の讒訴によって4名の同志とともに処刑された。50歳だった。
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− | == ヨーロッパ ==
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− | [[キリスト教]]の影響下においては、嫡出が庶出に優先する考えは古くからあったが、庶子が完全に相続権を失ったのは[[カトリック教会|ローマ教会]]の影響力が強化する11世紀頃からだった。[[ノルマンディー公]]を相続した[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](後にイングランド王)はその過渡期で、王位を継ぐことはできたが、何人かの対抗者との戦いに勝ち抜かなければならなかった。
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− | [[ローマ教皇]]の最盛期と言われる12、13世紀の西欧において庶子で王位についたのは、例えば[[教皇派と皇帝派]]の対立の舞台となった[[シチリア王国]]において、[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]](教皇派の支持)、[[マンフレーディ]](皇帝派の支持)が嫡出の[[王位請求者]]を押し退けて即位している。ローマ教皇の権威が低下した14世紀以降には[[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]、[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]等の例が増えて来るが、前王朝の継承者ではなく新王朝の創始者として見なされている。([[トラスタマラ朝]]、[[アヴィス王朝|アヴィス朝]])
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− | [[近世]]以降になると実力で王位を奪う例が少なくなり、議会などの認可を受けて王位継承順位に沿って継承が行われるようになったため、庶子が王になることは少なくなった。しかし、庶子であるかどうかは教会の認定次第という面があり、[[婚姻の無効]]により嫡子だった者が庶子に落とされたり、結婚の事実があったと認定され、庶子が嫡子とされることもあった([[#メアリー1世とエリザベス1世|後述参照]])。
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− | しかし継承権を有さないために却って、警戒心を持たれず親族として重用され、実力者として実権をふるった者もいる。ただし表向き王の子として扱われても、裏では「不貞の子」という目で見られることもあった。
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− | 一方、庶民においては、様々な社会的差別を受け、貧困などにより死亡率は高かったと言われる。19世紀頃から[[人権]]意識が高まり差別は減少していったが、公的差別がほとんどなくなるのは20世紀になってからである。
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− | === ネポティズム ===
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− | 中世ヨーロッパのカトリックにおいて聖職者は様々な特権を持っており、[[司教]]や[[修道院長]]といった上級の聖職者は、世俗諸侯と変わらない権力を持っていたが、結婚し、跡継ぎの子供を作ることは認められていなかった。このため、親族の子供(甥)に様々な便宜を与えたり、実質的な後継者とすることが行われ、これを[[ネポティズム]](nepotism)<ref>nipote<伊>=甥、姪、孫。ネポティズムで身内びいき。縁故主義と訳される。</ref>と呼んだが、密かに作った庶子を甥と偽ることもあった。[[ルネサンス]]期になると半ば公然と行われ、代表例が[[教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の庶子、[[チェーザレ・ボルジア]]である。
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− | === メアリー1世とエリザベス1世 ===
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− | 厳密な意味での庶子ではないが時代によっては以下のような扱いを受けることがあった。
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− | [[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は王妃[[キャサリン・オブ・アラゴン|キャサリン]]との間に男子に恵まれず、これを[[離婚]]してキャサリンの[[侍女]]だった[[アン・ブーリン]]と結婚した。しかし[[カトリック教会|カトリック]]は教義上[[離婚]]を認めないため、手続をさかのぼって'''[[婚姻の無効#カトリック教会における婚姻の無効|結婚そのものを無効]]'''にした。結果キャサリンの娘メアリー(後の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]])は'''一夜にして[[王女]]から庶子'''となり、あまつさえアンが生んだ娘エリザベス(後の[[エリザベス1世]])の召使いとなる屈辱を味わうことになる。
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− | しかしこの屈辱は後にエリザベスにも降りかかる。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚の際に関係の悪化していた教皇庁と袂を分かち[[イングランド国教会]]を設立する。そして世継ぎ欲しさに次々と王妃を取り替えたのである。庶子として冷遇されていたこの異母姉妹が地位を回復するのは、聡明な[[キャサリン・パー]]がヘンリー8世の6人目の王妃になるのを待たなければならなかった。
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− | 宮廷の権力闘争と民衆の暴動の中、王位についたメアリーは父ヘンリー8世に復讐するかのように[[プロテスタント]]の指導者を次々と(一説には300名以上)処刑し、[[ブラッディ・マリー]](Bloody Mary 血まみれのメアリー)と呼ばれることになる。メアリー1世が死ぬとエリザベスが王位につくがこれに異を唱えたのが[[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・スチュアート]]だった。エリザベスは庶子であり、自分のほうがイングランド王位継承にふさわしいと主張したのである。このもう一人のメアリーはエリザベスの生涯のライバルとなるが、貴族の反乱によって亡命していたイングランドでエリザベス暗殺計画に関与した罪で処刑された。しかしエリザベスは死刑執行書への署名を最後まで渋っていたという。
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− | == イスラム世界 ==
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− | [[イスラーム]]はその宗教法である[[シャリーア]]によって[[一夫多妻制]]が明文化されている稀有な文化である。しかし一口にイスラム世界といっても時代的にも地理的にも広大な範囲をカバーしており、時代によって、また国・地域によっても差異がある。
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− | シャリーアによればイスラム男性は4人まで妻を持つことが許される。この妻の間に順位はなく、4人とも「正妻」であるとされる。[[カリフ]]などイスラムの王侯貴族や一部の富裕商人はいわゆる[[ハレム]](後宮)を形成する。[[オスマン帝国]]のハレムはその最大のもので、1000人を越す女たちがいたといわれ、しばしば日本の[[大奥]]と比較される。ハレムを構成するのは正室と側室、さらにその世話をする女[[奴隷]]であるが、これらの女奴隷は主人の実質的な[[妾]]であって、歴代のカリフ・スルタンらには女奴隷が生母という出自を持つものが少なくない。
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− | イスラムは完全な[[家父長制|父長制]]であり、父親が同じ子供は平等に扱われる。すなわち女奴隷が主人の子供を生むと子供は嫡出子として扱われ、母親は奴隷身分から解放される。またその家に血統の異なる者を入れることで一族の結束が乱れるとの考えから、日本の武家社会とは対照的に養子を迎えることは、建前(シャリーア)の上では禁止されている(実際には、実質的に養子といえる行為・慣行は、抜け道として広く存在したが)。その意味でイスラムに庶子の概念はないとも言えるが、母親の出身が相続に影響することがなかったとは言いきれず、生母の身分や出身などが後宮での権力闘争の原因になることもあった。
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− | オスマン帝国では前君主の死後即位した新帝は、王位争いの対抗者になった兄弟たちと妊娠中の前君主の側室を皆殺しにしなくてはならないという掟があったが、この掟は後期には廃止され、替りに新スルタンの兄弟たちはハレム内の幽閉所(黄金の鳥籠)に死ぬまで監禁されることになった。
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− | == 道徳と庶子 ==
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− | モラル([[道徳]])の禁忌が大きければ、それだけ世俗的権利でも不利になり、結婚を神との契約と考える[[キリスト教]](特に[[カトリック教会|カトリック]])では、庶子には相続権が無く、このため庶子の息子がいるにも拘わらず遠縁の男子が相続権を有するといった人情と離れた事態がおき、様々なドラマを生むことになった。一方、日本では宗教的な禁忌が少なかったため、庶子が相続する例は少なくなかった。また[[儒教]]では道徳的な禁忌は少なかったが、世俗的な区別は明確であった。逆に[[イスラーム]]では父親が認める限りにおいて、側室や女奴隷の生んだ子供でも嫡出子として扱われた。
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− | == 庶子といわれている歴史上の人物 ==
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− | === 日本 ===
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− | * [[桓武天皇]]
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− | * [[藤原道頼]]
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− | * [[藤原国衡]]
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− | * [[平維盛]]
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− | * [[藤原隆忠]]
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− | * [[北条泰時]]
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− | * [[北条時輔]]
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− | * [[織田信忠]] - 一説では[[織田信長|父]]の[[濃姫|正室]]の実子に擬したとされる。
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− | * [[武田勝頼]]
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− | * [[織田信広]]
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− | * [[吉川広家]]
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− | * [[上杉孝長]]
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− | * [[徳川秀忠]]
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− | * [[真田信吉]]
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− | * [[豊臣秀頼]]
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− | * [[前田利常]]
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− | * [[伊達秀宗]] - [[伊予国]][[宇和島藩]]の初代藩主。[[仙台藩]][[伊達氏]]との関係は[[分家]]ではなく同族別家として扱われた。
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− | * [[保科正之]]
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− | * [[上杉定勝]] - 一説では[[上杉景勝|父]]の[[菊姫 (上杉景勝正室)|正室]]の実子に擬したとされる。
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− | * [[徳川吉宗]]
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− | * [[上杉勝煕]] - [[上杉治憲]]が秋月家から上杉家に養子入りする内約が成立した翌年に出生したが、庶子との理由でそのまま治憲の養子入りが行われる。
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− | * [[市川團十郎 (6代目)]]
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− | * [[井伊直弼]]
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− | * [[松平容保]]
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− | * [[島津久光]]
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− | * [[孝明天皇]]
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− | * [[明治天皇]] - のち[[孝明天皇|父]]の[[英照皇太后|皇后]]の実子に擬した。
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− | * [[大正天皇]] - のち[[明治天皇|父]]の[[昭憲皇太后|皇后]]の実子に擬した。
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− | === 日本以外のアジア ===
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− | * [[韓起]]([[晋 (春秋)|晋]])
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− | * [[昭襄王 (秦)|昭襄王]]([[秦]])
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− | * [[章帝]]([[後漢]])
| |
− | * [[和帝 (漢)|和帝]](後漢)
| |
− | * [[孝恭王]](新羅)
| |
− | * [[忠定王]](高麗)
| |
− | * [[粛宗 (唐)|粛宗]] ([[唐]])
| |
− | * [[王昌 (高麗王)|王昌]](高麗)
| |
− | * [[王ウ (高麗王)|王ウ]](高麗)
| |
− | * [[仁宗 (宋)|仁宗]]([[北宋]])
| |
− | * [[正統帝]](明) - 実は宮人の子で、[[宣徳帝]]皇后が実子に擬したという
| |
− | * [[弘治帝]](明)
| |
− | * [[景宗 (朝鮮王)|景宗]](朝鮮)
| |
− | * [[英祖 (朝鮮王)|英祖]](朝鮮)
| |
− | * [[崇禎帝]](明)
| |
− | * [[同治帝]]([[清]])
| |
− | * [[荘献世子]](朝鮮)
| |
− | * [[純祖]](朝鮮)
| |
− | * [[ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ]]([[ネパール王国]]、[[ゴルカ朝]])
| |
− | * [[ラーマ3世]]([[タイ王国]]、[[チャクリー王朝]])
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− | === ヨーロッパ ===
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− | * [[ウィリアム1世 (イングランド王)]]
| |
− | * [[タンクレーディ (シチリア王)]]
| |
− | * [[エンリケ2世 (カスティーリャ王)]]
| |
− | * [[ジョアン1世 (ポルトガル王)]]
| |
− | * [[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)]]
| |
− | * [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]
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− | * [[チェーザレ・ボルジア]](軍人)
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− | * [[ドン・フアン・デ・アウストリア]](軍人)
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− | * [[フアン・ホセ・デ・アウストリア]](軍人)
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− | * [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]](軍人)
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− | * [[アルフォンソ・フェッラボスコ2世]](音楽家)
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− | * [[パヴェル・クシーシュコフスキー]](音楽家)
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− | == 脚注 ==
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− | == 関連項目 ==
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− | * [[正室]]
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− | * [[側室]]
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− | * [[嫡出]]
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− | * [[嫡男]]
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− | * [[総領]]
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− | * [[嫡流]]
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− | * [[庶家]]
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− | * [[婚外子]]
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− | * [[落胤]]
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− | * [[隠し子]]
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| [[Category:親族]] | | [[Category:親族]] |