「ジュネーブ詩篇歌」の版間の差分

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[[ファイル:Psautier_huguenot_title_1539.jpg|thumb|ジュネーブ詩篇歌(1539)]]  
 
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'''ジュネーブ詩篇歌'''(ジュネーブしへんか)は、[[ジャン・カルヴァン]]の下で作成された、聖書の[[詩篇]]による韻律詩篇の[[賛美歌]]集である。
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'''ジュネーブ詩篇歌'''(ジュネーブしへんか)
  
==歴史==
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宗教改革者 [[ジャン・カルヴァン]]の改革運動の拠点となったジュネーブにおいて,カルバンとその協力者 C.マローおよび T.ベザによって,1562年に完成された 150編のプロテスタント改革派教会の礼拝用聖歌集。フランスの宮廷でフランソア1世の侍従であったマローがダビデの詩篇数編をフランス語韻文に訳して宮廷で歌わせたバラードの節をベザが引継ぎ,新たに L.ブルジョワが加わって加筆編集。スイス,フランスの改革派教会で広く愛唱されたので,フランス・ジュネーブ詩編歌 French-Genevan Psalterとも呼ばれた。
[[ファイル:Psautier_huguenot_ps137_1539.jpg|left|thumb|詩篇137篇(1539)]]  
 
[[プロテスタント]][[宗教改革]]以前、会衆による詩篇歌の讃美は一般的ではなく、修道院の[[聖務日課]]や、[[ミサ]]で司祭と[[聖歌隊]]が[[ラテン語]]で応唱するものであった。これも聖歌隊の揃わない場合は、オルガンが無言で応唱に応じるオルガン・ミサなど儀礼的な状況が一般化していた。だが宗教改革者カルヴァンは、 [[マルチン・ブツァー]]などの先例に影響を受けつつ、礼拝において会衆全体が、母国語で神を讃美するべきであると主張した。カルヴァン以前にも、フランスでは宮廷貴族の間で詩篇のフランス語韻文訳が流行しており、[[クレマン・マロ]]のパトロンでもあったマルグリット・ダランソン([[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の姉で、後の[[マルグリット・ド・ナヴァル]])は、宮廷関係者のうちで最も有力な擁護者であった。カルヴァンも当時の人文主義者のひとりとして、フランス語詩篇歌のことを聞き及んでいたに違いないが、礼拝における詩篇讃美の有用性を主張した点が、宗教(礼拝)改革者としての実践的強調点であった。彼は[[1536年]]、『[[キリスト教綱要]]』初版で、詩篇を歌う重要性について書いている。また[[1537年]][[1月16日]]、[[ジュネーヴ|ジュネーブ]]市参事会に対して、教会において詩篇歌が歌われることを求め、「詩篇歌は私たちを励まして、この心を神に向け、賛美をもって神の御名があがめられるように祈る熱意へと私たちを駆り立てることができるのであります。」と述べている<ref>『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み』</ref>。つまりカルヴァンにとって詩篇歌は、福音説教と同じ地位にあるものであり、神の言葉(聖書)にもとづく詩篇歌のみで讃美することをすすめた。
 
  
[[1538年]]にジュネーブを追放されたカルヴァンは、シュトラスブルク([[ストラスブール]])に亡命していた[[ユグノー]]の会衆を導いた。そこで宗教改革を指導していた[[マルチン・ブツァー]]のもとで、会衆が礼拝で詩篇歌を歌う様子に感動したカルヴァンは、フランス語による詩篇歌を訳し始めた。初期の頃はカルヴァン自身も訳したが、やがて[[1541年]]より桂冠詩人[[クレマン・マロ]]による翻訳が本格化すると、カルヴァンは自身の訳は全て破棄してしまった。[[1544年]]にジュネーブを去って死去したマロに代わり[[テオドール・ド・ベーズ]]が翻訳を引き継ぎ、[[1562年]]に150篇の全訳が完成した。ジュネーヴ詩篇歌は、16世紀中でも英語、ドイツ語、オランダ語、ハンガリー語などに訳され、スイス~フランス以外の[[改革派教会]]でも広く歌われた。
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==音楽==
 
ジュネーブ詩篇歌を特徴付けるものとして、当時のルネサンス期の作曲家たちによる124曲のメロディーがあげられる。シュトラスブルクのマルティン・グライターの作曲もあるが、[[ルイ・ブルジョワ]]、ギヨーム・フラン、ピエール・ダヴァンテスなどの多くのフランス人の作曲家が参加した。カルヴァン自身は詩篇歌を単旋律で歌うことを厳密に守らせるため、ジュネーブでの出版は単旋律に限定したが、リヨンなど他の都市では[[クロード・グディメル]]、クロード・ル・ジュヌによる4声編曲が出版された。ジュネーブ詩篇歌のメロディーは、教会旋法とシャンソンがブレンドされた優雅なもので、1オクターブ内に収まる音階により1音符に1シラブルが充てられる明快さも相まって、その後のプロテスタント教会の讃美歌に大きな影響を与えた。
 
 
 
==日本語訳==
 
詩篇全150篇および「マリアの讃歌」「十戒」「使徒信条」「シメオンの歌」を収録した礼拝歌集『みことばをうたう』(『改革教会の礼拝と音楽』編集委員会)がある(ドイツ・コラール100篇と共に編集)。<ref>[http://www.mersr.org/]『礼拝教典』第二部・改革教会礼拝歌集。「改革派の原点と伝統にたつ公同の教会の礼拝で、現行の「賛美歌」と併用される事を想定しております。すなわち、ジュネーヴ詩篇歌150篇とドイツ・コラール100曲を収録したものです。ジュネーヴ詩篇歌につきましては、日本キリスト改革派教会の全面的ご協力を頂きました。また、ドイツ・コラールにつきましては、生前に日本基督教団・深津文雄牧師のご賛同を頂いたものです。
 
 編集は、日本キリスト教会会員が中心となり、日本キリスト改革派教会会員の方々も参加されました。改革教会礼拝歌集「みことばをうたう」は、このように改革派の流れを汲む教会と教会員の協力によって生まれたものです。」(以上、前書より)]</ref>ここに収録された詩篇歌は、『日本語による150のジュネーブ詩編歌』([[日本キリスト改革派教会]])による。内14篇を収録した[[バッハ・コレギウム・ジャパン]]のCDは、これに基づく日本で最初のCDである<ref>[http://www.michtam.com/lineup_classic01.html#lineup030103]ミクタムレコード、1996年4月29日(30MCD-1026)</ref>。その他、ジュネーヴ詩篇歌は、[[讃美歌 (1954年版)]](1、4、5、6、12、539番)、[[讃美歌第二編]](110番「悪しきたましいは」)、[[讃美歌21]]([[1997年]])、[[聖歌 (日本福音連盟)]]([[1958年]])、[[聖歌 (総合版)]]([[2002年]])に数点収録されている。また、『詩篇抄集』(日本キリスト改革長老教会)<ref>[http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=473 クリスチャン新聞2003年12月07日号:CD「詩篇賛美」発売]</ref>は、[[スコットランド教会]]の伝統を汲んだ詩篇歌を収録している。
 
 
 
==脚注==
 
<references />
 
 
 
==参考文献==
 
*『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み』森川甫 日本基督改革派教会 聖恵授産所 ISBN 4880771023
 
*『日本語による150のジュネーブ詩編歌』日本基督改革派教会 聖恵授産所 ISBN 4880771244
 
*『詩篇抄集』日本キリスト改革長老教会
 
  
 
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ジュネーブ詩篇歌(1539)

ジュネーブ詩篇歌(ジュネーブしへんか)

宗教改革者 ジャン・カルヴァンの改革運動の拠点となったジュネーブにおいて,カルバンとその協力者 C.マローおよび T.ベザによって,1562年に完成された 150編のプロテスタント改革派教会の礼拝用聖歌集。フランスの宮廷でフランソア1世の侍従であったマローがダビデの詩篇数編をフランス語韻文に訳して宮廷で歌わせたバラードの節をベザが引継ぎ,新たに L.ブルジョワが加わって加筆編集。スイス,フランスの改革派教会で広く愛唱されたので,フランス・ジュネーブ詩編歌 French-Genevan Psalterとも呼ばれた。



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