「飛騨国」の版間の差分

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{{基礎情報 令制国
 
{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 飛騨国
 
|国名    = 飛騨国
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|一宮    = [[飛騨一宮水無神社]](岐阜県高山市)
 
|一宮    = [[飛騨一宮水無神社]](岐阜県高山市)
 
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'''飛騨国'''(ひだのくに、{{旧字体|飛驒國}})は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。
+
'''飛騨国'''(ひだのくに、{{旧字体|飛驒國}})
 
 
== 概要 ==
 
「飛騨」は飛騨山脈の西側一体を示す言葉で、現在は岐阜県北部に位置する。今日その名を受け継ぐのは飛騨地区北端の[[飛騨市]]だが、自治体としての規模や文化の中心的存在としては、ほぼ中央に位置する[[高山市]]の方が大きく、高山市は「飛騨高山」と呼ばれることが多い。
 
 
 
飛騨山脈の北側に位置する飛騨地方は、雪が多い日本海側型の気候である。飛騨は交通の便から隣接する富山県([[越中]])と経済的文化的な結びつきが強く、両者をまとめて'''飛越地方'''ともよばれる<ref>[http://www.hietsu.jp/block/index.html 飛越協議会「飛越地方とは」]</ref>。一方で岐阜県内の太平洋側地域とは山脈に遮られる形で交通の便が悪かった。
 
 
 
== 「飛騨」の名称と表記 ==
 
古くは「斐太」や「斐陀」と書いた。この表記は現存しており「[[岐阜県立斐太高等学校|斐太高校]]」などに見られる。
 
 
 
「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『[[続日本紀]]』に文武天皇の[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『[[万葉集]]』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。これ以降「飛驒(飛騨)」と表記されるようになった。
 
 
 
『[[和漢三才図会]]』七十にある飛騨国[[風土記]]の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元[[美濃国|美濃]]の内なり。住昔(むかし)、[[近江国|江州]]の大津に王宮を造りし時([[天智天皇]]造営<ref>『風土記 [[日本古典文学大系]]2』 [[岩波書店]] 14刷1971年(1刷1958年) p.461.</ref>)、この郡より良き材(き)を多く出して、[[駄馬|馬の駄]]に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛'''駄'''の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『[[日本古典文学大系]]』(の脚注<!-- p.461 -->)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。
 
 
 
本来は'''騨'''の字ではなく'''驒'''の字を用いて、'''飛驒国'''と表記する。
 
 
 
== 沿革 ==
 
=== 律令時代 ===
 
[[7世紀]]に[[斐陀国造]]領域を中心にして成立した。飛驒は当時辺境地帯を除けば最も[[過疎地域]]であったため税制上の特例が認められた。すなわち、[[庸]]・[[調 (律令制)|調]]を免除されるかわり大工([[官人#仕丁|飛騨工]])が徴発された。これは後世、[[大工|大工業]]が発達する一因ともなる。
 
 
 
=== 室町時代 ===
 
[[京極氏]]が代々飛騨[[守護]]を勤め京極氏の領国だったが、後に京極氏の支流で[[守護代]]の[[三木氏]]が台頭、[[江馬氏]]・[[内ヶ島氏理|内ヶ島氏]]・[[照蓮寺]]などの諸勢力とが、[[上杉謙信]]や[[武田信玄]]、[[一向一揆]]の影響を受けながら争っていた。
 
 
 
=== 戦国時代から江戸時代まで ===
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[姉小路氏]]に改姓した三木氏が悲願の飛騨国統一を達成し、一時的にだが支配していた。[[本能寺の変]]以後は、[[金森長近]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と対立した[[姉小路頼綱]]を攻め、[[高山城 (飛騨国)|高山城]]を本拠地とした。
 
 
 
[[江戸時代]]になると、当初は[[飛騨高山藩|高山藩]]が置かれていたが、後に[[天領|公儀御料(幕領)]]となり[[高山陣屋|高山代官所]](1777年に[[飛騨郡代]]に昇格)が飛騨国を治める事となる。この時代には、飛騨国は[[林業]]地帯として発展し、「飛騨の匠」と呼ばれる[[大工]]を多く輩出した。以来、飛騨地方には、家具などの[[木工]]産業が多く立地している。
 
 
 
=== 明治時代以後 ===
 
[[明治維新]]直後には、天領と呼ばれるようになった旧幕領が[[廃藩置県]]に先立ってまず[[府]]または[[県]]という行政単位に改編された。飛騨国は早くも[[明治]]元年5月(1868年6月)に'''[[飛騨県]]'''となり、そのわずか1週間には'''[[高山県]]'''となった。明治2年(1869年)には県知事[[梅村速水]]の急激な改革に対しての暴動([[梅村騒動]])が発生する。廃藩置県後の明治4年(1871年)に行われた府県合併により、近隣の[[信濃国]]中部南部の諸県と合併して'''[[筑摩県]]'''の一部となった。明治9年(1876年)に筑摩県が廃止された後は、当初旧美濃国のみで構成されていた[[岐阜県]]に編入され、これが現在に至っている。
 
 
 
明治時代には、国家的な重要産業であった[[製糸業]]を担う労働力として、飛騨地方の[[村落]]から、山道を通って[[諏訪湖]]周辺に多くの女性が流出した(『[[あゝ野麦峠]]』)。
 
 
 
平成時代には[[平成の大合併]]が行われて自治体が再編され3市1村まで統合が進んだ。現在の[[高山市]]と[[下呂市]]の大部分、[[飛騨市]]、[[白川村]]は、かつての[[三木氏]]・[[江馬氏]]・[[内ヶ島氏]]の支配領域とそれぞれがほぼ一致している。
 
 
 
=== 近代以降の沿革 ===
 
* 「[http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点では国内の全域が[[天領|幕府領]]であり、[[高山陣屋]]の[[飛騨郡代]]が管轄。(414村・57,182石余)
 
** [[益田郡]](100村・10,514石余)、[[大野郡]](136村・22,264石余)、[[吉城郡]](178村・24,403石余)
 
* [[慶応]]4年
 
** [[5月23日 (旧暦)|5月23日]]([[1868年]][[7月12日]]- 全域が'''[[飛騨県]]'''の管轄となる。
 
** [[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1868年[[7月21日]]) - 飛騨県が'''[[高山県]]'''に改称。
 
* 明治4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1871年]][[12月31日]]) - 第1次府県統合により、'''[[筑摩県]]'''の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、'''[[岐阜県]]'''の管轄となる。
 
 
 
== 領域 ==
 
[[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
 
* [[岐阜県]]
 
** '''[[高山市]]'''
 
** '''[[飛騨市]]'''
 
** [[下呂市]](金山町金山、菅田笹洞、菅田桐洞、弓掛、卯野原、乙原、岩瀬、祖師野、戸部、東沓部、田島を除く)
 
** '''[[大野郡]]'''
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 国府 ===
 
国府は『[[和名抄]]』によると大野郡にあった。『[[拾芥抄]]』では、「大原(大野郡のこと)、府」とある。これは[[平成の大合併]]以前の旧高山市域にあったと考えられている。
 
また、奈良時代前期以前は現在の[[高山市]][[国府町 (岐阜県)|国府町]]にあったとされる説もあるが([[国府盆地]]から[[高山盆地]]への国府移転説)、双方ともに国衙の遺跡はいまだ発見されていない。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
* [[飛騨国分寺]]
 
 
 
=== 神社 ===
 
; [[延喜式内社]]
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社8座8社が記載されている。大社はない。
 
* [[大野郡]] 水無神社 (現 [[飛騨一宮水無神社]]、高山市一之宮町)
 
* 大野郡 [[槻本神社]] (高山市丹生川町山口)
 
* 大野郡 荏名神社 - [[荏名神社]](高山市江名子町)または[[荒神社 (高山市)|荒神社]](高山市江名子町)に比定。
 
* [[荒城郡]] 大津神社 - [[大津神社 (飛騨市)|大津神社]] (飛騨市神岡町大字船津)または[[天満神社 (高山市)|天満神社]](高山市国府町村山)に比定。
 
* 荒城郡 [[荒城神社]] (高山市国府町宮地)
 
* 荒城郡 高田神社 - [[貴船神社 (飛騨市)|貴船神社]](飛騨市古川町貴船町)または[[高田神社 (飛騨市)|高田神社]](飛騨市古川町太江神垣内)に比定。
 
* 荒城郡 阿多由太神社 - [[阿多由太神社]](高山市国府町木曽垣内)または中宮神社(飛騨市古川町 [[大歳神社 (飛騨市)|大歳神社]]に合祀)に比定。
 
* 荒城郡 [[栗原神社 (高山市)|栗原神社]] (高山市上宝町宮原)
 
 
 
; [[総社]]・[[一宮]]
 
* 総社 - [[飛騨総社]]
 
* 一宮 - '''[[飛騨一宮水無神社]]'''
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
* [[大野郡]]
 
* [[益田郡]]
 
* [[吉城郡]] - 古代は「[[荒城郡]]」。
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+ 飛騨国の藩の一覧
 
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
 
|-
 
! [[飛騨高山藩]]
 
| [[高山城 (飛騨国)|高山城]]
 
||
 
*[[金森氏|金森家]]:5万3千石→3万3千石(2万石は[[上有知藩]]に分地)、1600年 - 1692年(出羽[[上山藩]]3万8700石に移封)
 
*[[天領|公儀御料]]:1692年 - 1871年(廃藩置県)
 
|}
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国造 ===
 
* [[斐陀国造]]
 
 
 
=== 国司 ===
 
*[[姉小路高基]]:[[従三位]][[参議]]。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]][[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])に国司に任じられ[[下向]]。子孫が飛騨守を世襲した「飛騨国司家」と呼ばれる[[姉小路家]]
 
*[[姉小路基綱]]:古川姉小路氏当主。[[左近衛中将]]のち[[従二位]][[権中納言]]
 
*[[姉小路済継]]:基綱の子。[[正三位]][[参議]]
 
 
 
==== 飛騨守 ====
 
*[[上道斐太都]] (従四位下) :[[天平神護]]元年 ([[765年]]) 任官<ref>岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年、77頁。</ref>
 
*[[粟田道麻呂]] (従四位下) :天平神護元年 (765年) 任官 (権守)
 
*[[百済王利善]] :天平神護2年 ([[766年]]) 任官
 
*[[秦忌寸伊波多気]] (従五位下) :[[宝亀]]5年([[774年]]) 任官
 
*[[紀大宅]] (従五位下) :宝亀7年([[776年]]) 任官
 
*[[飛鳥部造弟見]] (従五位下) :[[延暦]]3年([[784年]]) 任官
 
*[[藤原貞本]](従五位下):[[弘仁]]元年([[810年]])任官(権守)
 
*[[橘末茂]](正六位上):[[承和 (日本)|承和]]9年([[842年]])任官(権守)
 
*[[菅原兼茂]](正六位上) :[[延喜]]元年 ([[901年]]) 任官 (権掾)
 
*[[藤原辰忠]]:[[延喜]]5年([[905年]])在任
 
*[[大春日道光]]:[[承平 (日本)|承平]]4年([[934年]])在任
 
*[[高階高俊]] :[[天徳 (日本)|天徳]]、[[応和]]の頃 任官
 
*[[藤原茂包]]:[[応和]]元年([[961年]])任官
 
*[[橘是輔]]:[[康保]]2年([[965年]])在任
 
*[[高岳相如]]:[[正暦]]3年([[992年]])任官
 
*[[大春日遠晴]](正六位上):[[長徳]]2年([[996年]])任官
 
*[[大江以言]]:[[長徳]]2年([[996年]])任官(権守)
 
*[[藤原為延]]:[[長和]]2年([[1013年]])任官
 
*[[橘惟通]]:[[万寿]]3年([[1026年]])任官
 
*[[紀忠任]]:[[康平]]6年([[1063年]])任官
 
*[[賀茂定材]] 不詳
 
*[[大中臣隆種]] 不詳
 
 
 
 
 
*[[平繁識]] : [[長治]]2年 ([[1105年]]) 任官
 
*[[平時輔]] : [[保延]]、[[永治]]の頃 在任
 
*[[平時景]] : [[久安]]の頃 在任
 
*[[平景則]] : [[保元]]の頃 在任
 
*[[藤原景家|平景家]] : [[安元]]、[[治承]]の頃 在任
 
*[[平景高]] : [[寿永]]2年 ([[1183年]]) 任官
 
 
 
*[[藤原朝高]] : [[弘安]]年中 ([[1278年]]) 在任 (地頭)<ref>岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年、78頁。</ref>
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
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==== 室町幕府 ====
 
* 1359年~1365年 - [[佐々木道誉|京極高氏]]
 
* 1372年~? - [[佐々木高秀|京極高秀]]
 
* 1379年~? - [[京極高詮]]
 
* 1381年~1391年 - 京極高秀
 
* 1391年~1401年 - 京極高詮
 
* 1401年~1413年 - [[京極高光]]
 
* 1413年~? - 京極吉童子丸([[京極持高|持光]]?)
 
* 1422年~1439年 - 京極持光
 
* 1439年~1441年 - [[京極高数]]
 
* 1441年~1470年 - [[京極持清]]
 
* 1470年~1471年 - [[京極孫童子丸]]
 
* 1472年~1473年 - 京極乙童子丸([[京極高清|高清]]※一度目)
 
* 1473年~? - [[京極政経]]
 
* ?~1508年 - 京極政経?
 
* 1508年~? - [[京極吉童子丸]]
 
 
 
===国人===
 
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;大野郡
 
*[[内ヶ島氏理|内ヶ島氏]] - 白川郷。室町幕府奉公衆。[[帰雲城]]主として西北部に割拠したが[[天正地震]]で帰雲城が崩壊・滅亡した。
 
*[[牛丸氏]] - 牛丸邑。平氏か。小鷹利城主。江馬氏と勢力を競ったが膨張した姉小路氏に追われる。しかし金森長近に属して飛驒攻めで先鋒を勤め、小鷹利城に復帰し三千石を得た。
 
;益田郡
 
*[[姉小路氏|三木氏]] - 竹原郷。後、姉小路氏を名乗る。
 
;吉城郡
 
*[[江馬氏]]:飛騨北部の戦国大名。1582年、[[八日町の戦い]]で姉小路氏に敗れ滅亡。
 
 
 
=== 戦国大名 ===
 
*[[姉小路良頼|三木良頼(姉小路良頼)]]:姉小路氏(国司家)を実質滅ぼした三木直頼の子。[[永禄]]元年([[1558年]])従五位下で任官。翌年、息子に古川姉小路家の名跡を継がせ、国司に任官させる。のち姉小路に改姓。[[従三位]]参議
 
*[[姉小路頼綱|三木自綱(姉小路頼綱)]]:家格向上を狙った父の良頼の手により、[[永禄]]2年([[1559年]])任官。同時に姉小路の名跡を継ぐ。[[大納言]]
 
*[[姉小路氏]](三木氏):飛騨国司[[姉小路家]]の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取る。1585年、[[金森長近]]に敗北して戦国大名としての姉小路氏は滅亡。
 
 
 
=== 織豊大名 ===
 
*[[金森長近]]:[[高山城 (飛騨国)|高山]]3万3千石、1585年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、美濃上有知2万石を加増)
 
 
 
=== 武家官位としての飛騨守 ===
 
'''江戸時代以前'''
 
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'''江戸時代'''
 
*[[立花宗茂]]:[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])任官
 
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== 地理 ==
 
山国なので、[[気候]]は飛騨地方全域[[内陸性気候]]を呈しており、それに併せて大部分は[[日本海側気候]]、一部地域は[[中央高地式気候]]、地域によっては[[豪雪地帯]](一部特別豪雪地帯)で冬季は雪が多い。また、[[スーパーカミオカンデ]]を抱える地方でもある。
 
 
 
* [[山地]]:[[飛騨山脈]]、[[両白山地]]、[[飛騨高地]]
 
* [[山]]:[[乗鞍岳]]、[[槍ヶ岳]]、[[穂高岳]]、[[焼岳]]、[[黒部五郎岳]]、[[双六岳]]、[[樅沢岳]]、[[笠ヶ岳]]、[[御嶽山]]、[[白山]]、[[笈ヶ岳]]、白木峰、[[三方岩岳]]、[[人形山]]、[[猿ヶ馬場山 (岐阜県)|猿ヶ馬場山]]、[[大日ヶ岳]]、[[鷲ヶ岳]]、[[川上岳]]、[[位山]]
 
* [[川]]:[[飛騨川]]、[[馬瀬川]]、[[神通川|宮川]]、[[高原川]]、[[庄川]]
 
* [[温泉]]:[[下呂温泉]]、[[奥飛騨温泉郷]]、[[小坂温泉郷]]等
 
* [[盆地]]:[[高山盆地]]、[[古川国府盆地]]
 
* 旧[[鉱山]]:[[神岡鉱山]]
 
  
 +
現在の岐阜県北部。[[東山道]]の一国。下国。『旧事本紀』によれば,[[成務天皇]]のときに斐陀 (ひだ) 国造が置かれたという。令 (りょう) にも「斐陀国」とみえるが,『日本書紀』仁徳天皇の条には「飛騨国」とある。国全体が山中にあり,経済的に恵まれず,そのため賦役令の規定でも庸 (よう) ,調 (ちょう) ともに免じられ,50戸ごとに匠丁 ([[飛騨工]] ) 10人を出す規定であった。国府は高山市上岡本。国分寺は高山市総和町。一宮は高山市一之宮町の水無 (みなし) 神社。『延喜式』には大野郡,益田郡,荒城郡の3郡を載せているが,益田郡は貞観 12 (870) 年に大野郡から分割された新置の郡であった。『和名抄』には 13郷,田 6615町と記されている。鎌倉時代の守護その他については不明。南北朝時代初期の頃姉小路家綱が国司に任じられたともいう。武家方は京極 (佐々木) 氏を守護とし,室町時代を通じて京極氏の支配が続いた。豊臣秀吉は[[金森長近]]をこの国に封じた。元禄5 (1692) 年金森氏が出羽に移封されてからは天領となり,[[飛騨郡代]]の支配下となった。明治1 (1868) 年5月飛騨県,同年6月高山県となり,梅村速水が知事として3郡を管轄したが,急激な新政の結果,梅村騒動を引き起こした。同4年の廃藩置県後,筑摩県に編入され,1876年岐阜県に合併された。
 +
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
<references />
 
== 参考文献 ==
 
* 岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[下呂市]]
 
* [[飛騨市]]
 
* [[高山市]]
 
* [[白川村]]
 
* [[飛騨國テレビ]]
 
* [[合掌造り]]
 
  
 
{{デフォルトソート:ひたのくに}}
 
{{デフォルトソート:ひたのくに}}

2018/9/1/ (土) 08:21時点における版


飛騨国(ひだのくに、旧字体: 飛驒國

現在の岐阜県北部。東山道の一国。下国。『旧事本紀』によれば,成務天皇のときに斐陀 (ひだ) 国造が置かれたという。令 (りょう) にも「斐陀国」とみえるが,『日本書紀』仁徳天皇の条には「飛騨国」とある。国全体が山中にあり,経済的に恵まれず,そのため賦役令の規定でも庸 (よう) ,調 (ちょう) ともに免じられ,50戸ごとに匠丁 (飛騨工 ) 10人を出す規定であった。国府は高山市上岡本。国分寺は高山市総和町。一宮は高山市一之宮町の水無 (みなし) 神社。『延喜式』には大野郡,益田郡,荒城郡の3郡を載せているが,益田郡は貞観 12 (870) 年に大野郡から分割された新置の郡であった。『和名抄』には 13郷,田 6615町と記されている。鎌倉時代の守護その他については不明。南北朝時代初期の頃姉小路家綱が国司に任じられたともいう。武家方は京極 (佐々木) 氏を守護とし,室町時代を通じて京極氏の支配が続いた。豊臣秀吉は金森長近をこの国に封じた。元禄5 (1692) 年金森氏が出羽に移封されてからは天領となり,飛騨郡代の支配下となった。明治1 (1868) 年5月飛騨県,同年6月高山県となり,梅村速水が知事として3郡を管轄したが,急激な新政の結果,梅村騒動を引き起こした。同4年の廃藩置県後,筑摩県に編入され,1876年岐阜県に合併された。

脚注