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初代リポン伯爵・初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン(英: Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon, 1st Viscount Goderich, PC、1782年11月1日 - 1859年1月28日)は、イギリスの政治家、貴族。
トーリー党内の自由主義派として知られ、財務大臣(在職:1823年 - 1827年)として自由貿易を推進した後、首相(在職:1827年-1828年)を務めたが、閣内分裂や国王ジョージ4世との対立により短期間で総辞職に追い込まれた。その後もホイッグ党、ダービー派、保守党、ピール派と党派を渡り歩きながら閣僚職を歴任した。
1827年にゴドリッチ子爵位、1833年にリポン伯爵位を授爵された。首相を務めていた時期の爵位はゴドリッチ子爵であった。
Contents
経歴
生い立ち
1782年11月1日、第2代グランサム男爵トマス・ロビンソンとその妻メアリー(第2代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク)の次男としてヨークシャーのニュービー・ホールに生まれる[1]。
1796年からパブリックスクールのハーロー校、1799年からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ、1802年から1809年までリンカーン法曹院に在学した[1][2]。
1806年11月にカーロウ・バラ選挙区から選出されて庶民院議員となる。 1807年以降はリポン選挙区から選出される[3]。
リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚
1812年からリヴァプール伯爵内閣の商務庁副長官に就任[4](1813年から陸軍支払長官も兼務[5])。1818年から商務庁長官[6]兼海軍会計長官となり[7]、閣内相へ昇格した[1]。
1823年には財務大臣に栄転した[8]。同時期に外務大臣となったジョージ・カニング、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として自由貿易を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の関税を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した[9]。1825年のロンドン金融危機も金融改革を行うことで乗り切った[9]。
1827年4月にゴドリッチ子爵に叙され[10]、貴族院議員となる。同月に成立したジョージ・カニング内閣には陸軍・植民地大臣として入閣したが[11]、同年8月8日早朝にカニングは急死した[12]。
首相として
政治の実権力を取り戻そうと画策していた国王ジョージ4世は、カニングが死んだ8月8日のうちに独断でゴドリッチ子爵を後任の首相に決定し、同日午後に組閣の大命を与えた。国王はカトリック解放やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、大命にあたってトーリー党守旧派のジョン・チャールズ・ヘリスを蔵相として入閣させるようゴドリッチ卿に命じている[13]。
ゴドリッチ卿はカニングのカトリック解放の意思を受け継ぐつもりだったのでヘリス登用に難色を示したが、国王はヘリス登用に固執しており、ゴドリッチ卿がこの人事に応じないならベクスレイ男爵ニコラス・ヴァンシッタートに組閣の大命を与えるとの方針を示した。ヘリス登用にはゴドリッチ卿の同志であるトーリー党内自由主義派やカニング内閣時代からの連立相手のホイッグ党穏健派(ランズダウン侯爵派)からの反発が激しかったため、ゴドリッチ卿は彼らの説得に手間取ったが、なんとか説得し、彼らに政権離反させることなく、さらにトーリー党内保守派も一部政権に取り込むことに成功し、9月1日に組閣を達成した[14][15]。
しかし国王から派遣された内閣のお目付け役であるヘリスは、内閣発足後ただちにハスキソンと対立を深めていき、内閣は閣内分裂状態となった[16]。
内閣の安定を図りたいゴドリッチ卿は貴族院で大きな勢力を持つトーリー党保守派ウェリントン公爵とホイッグ党急進派グレイ伯爵を牽制する必要性を感じ、12月にウェリントン公爵の兄ウェルズリー侯爵を枢密院議長、グレイ伯爵の親友ホランド卿を無任所大臣として内閣に迎える閣僚人事案を国王に提出したが、これに難色を示した国王は、12月14日にゴドリッチ卿更迭とハロービー伯爵の首相登用を決意した。しかしハロービー卿が組閣の大命を拝辞して上記人事案を受け入れるべき旨を国王に奏上したため、国王も12月19日にゴドリッチ卿更迭の意思を翻意し、ゴドリッチ卿は続投できた[16]。
しかし上記人事案をめぐっては閣内からも反発が起こっており、ハスキソンとヘリスがともに辞職を申し出るに至った。これ以上の政権運営は不可能と判断したゴドリッチ卿は、議会開会を二週間後に控えていた1828年1月8日に国王に辞職を表明した。議会開会前に内閣が崩壊するのは前代未聞のことだった[16]。
首相退任後
その後、ホイッグ党へ移籍し、1830年に成立したグレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権に陸軍・植民地大臣[17]、ついで王璽尚書として入閣した[18]。王璽尚書になった1833年4月にリポン伯爵に叙された[1][19]。
アイルランド国教会の収入を民間に転用させる問題をめぐる閣内分裂では、スタンリー卿(後のダービー伯爵)らとともに反対の立場を取った。結局この問題でスタンリー卿やリポン伯爵らは閣僚職を辞することになった。これ以降リポン伯爵はじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派ダービー派を形成した[20][21]。ダービー派は1839年までに保守党に吸収合併された[22]。
保守党政権の第2次ロバート・ピール内閣(1841年-1846年)では商務庁長官[23]やインド庁長官を務めた[1][24]。
穀物法廃止をめぐって保守党が分裂すると自由貿易を支持してピール派に属した[25]。
1847年5月以降は貴族院欠席が多くなり、事実上引退した[25]。
1859年1月28日にロンドン・パットニーのグランサム・ハウスで死去した[1]。
栄典
爵位
その他名誉職
- 1801年、ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー 州副知事(D.L.)[2]
- 1812年、枢密顧問官(PC)[27]
- 1839年、オックスフォード大学名誉民法学博士(D.C.L.)[2]
家族
1814年にセーラ・ホバート(第4代バッキンガムシャー伯爵ロバート・ホバートの娘)と結婚し、彼女との間に以下の2子を儲ける[26]。
- 第1子(長女)エレノア・ヘンリエッタ(?-1826)
- 第2子(長男)初代リポン侯爵ジョージ・フレデリック・サミュエル(1827-1909):政治家。インド総督などを歴任。
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Jupp, P. J.l. “Robinson, Frederick John, first Viscount Goderich and first earl of Ripon (1782–1859)” (英語). Oxford Dictionary of National Biography. . 2014閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Venn
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「hansard
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ The London Gazette: no. 16651. p. 1983. 1812年9月29日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 16803. p. 2206. 1813年11月9日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 17326. p. 188. 1818年1月27日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 17330. p. 261. 1818年2月7日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 17893. p. 193. 1823年2月4日。. 2014閲覧.
- ↑ 9.0 9.1 君塚(1999) p.49
- ↑ 10.0 10.1 The London Gazette: no. 18356. p. 937. 1827年4月27日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 18362. p. 1081. 1827年5月18日。. 2014閲覧.
- ↑ 君塚(1999) p.53
- ↑ 君塚(1999) p.53-54
- ↑ 君塚(1999) p.54
- ↑ The London Gazette: no. 18394. p. 1892. 1827年9月7日。. 2014閲覧.
- ↑ 16.0 16.1 16.2 君塚(1999) p.55
- ↑ The London Gazette: no. 18753. p. 2539. 1830年12月3日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 19036. p. 665. 1833年4月5日。. 2014閲覧.
- ↑ 19.0 19.1 The London Gazette: no. 19038. p. 705. 1833年4月12日。. 2014閲覧.
- ↑ 君塚(1999) p.62
- ↑ ブレイク(1979) p.50
- ↑ 君塚(1999) p.66
- ↑ The London Gazette: no. 20014. p. 2221. 1841年9月3日。. 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 20226. p. 1654. 1843年5月19日。. 2014閲覧.
- ↑ 25.0 25.1 君塚(1999) p.223
- ↑ 26.0 26.1 26.2 Lundy, Darryl. “Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon” (英語). thepeerage.com. . 2014閲覧.
- ↑ The London Gazette: no. 16632. p. 1579. 1812年8月11日。. 2014閲覧.
参考文献
- 君塚直隆 『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』 有斐閣、1999年。ISBN 978-4641049697。
- ブレイク男爵 『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』 早川崇訳、労働法令協会、1979年。
外部リンク
- テンプレート:Hansard-contribs (英語)
- Frederick Robinson Viscount Goderich - ダウニング街10番地 (英語)
- “[^,*}} の関連資料一覧]”. イギリス国立公文書館. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 (英語)
- テンプレート:Npg name
公職 | ||
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先代: ジョージ・ローズ |
商務庁副長官 1812年 - 1818年 |
次代: トーマス・ウォレス |
先代: チャールズ・サマーセット卿 |
陸軍支払長官 1813年 - 1817年 チャールズ・ロングとともに |
次代: チャールズ・ロング |
先代: 第2代クランカーティ伯爵 |
商務庁長官 1818年 - 1823年 |
次代: ウィリアム・ハスキソン |
先代: ジョージ・ローズ |
海軍会計長官 1818年 - 1823年 | |
先代: ニコラス・ヴァンシッタート |
財務大臣 1823年 - 1827年 |
次代: ジョージ・カニング |
先代: 第3代バサースト伯爵 |
陸軍・植民地大臣 1827年 |
次代: ウィリアム・ハスキソン |
先代: ジョージ・カニング |
首相 1827年8月31日 – 1828年1月21日 |
次代: 初代ウェリントン公爵 |
先代: 第2代リヴァプール伯爵 |
貴族院院内総務 1827年 - 1828年 | |
先代: ジョージ・マレー |
陸軍・植民地大臣 1830年 - 1833年 |
次代: スタンリー卿 |
先代: 初代ダラム男爵 |
王璽尚書 1833年 - 1834年 |
次代: 第6代カーライル伯爵 |
先代: ヘンリー・ラボシェール |
商務庁長官 1841年 - 1843年 |
次代: ウィリアム・グラッドストン |
先代: 第2代フィッツジェラルド=ヴィージー男爵 |
インド庁長官 1843年 - 1846年 |
次代: サー・ジョン・ホブハウス |
イギリスの爵位 | ||
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