|
|
1行目: |
1行目: |
− | {{Otheruses|隋の皇帝|煬皇帝と追諡された五胡十六国時代の[[代 (五胡十六国)|代]]の王|拓跋コツ那}}
| |
| {{基礎情報 中国君主 | | {{基礎情報 中国君主 |
| |名 = 世祖 楊広 | | |名 = 世祖 楊広 |
23行目: |
22行目: |
| |注釈 = | | |注釈 = |
| }} | | }} |
− | '''煬帝'''(ようだい{{#tag:ref|「たい」は[[wikt:帝#日本語|帝]]の[[呉音]]である。|group=注釈}}、ようてい{{#tag:ref|「ようだい」は日本古来の読み癖と謂われる。<ref>『アジア歴史事典 vol.9 ム-ワ・補遺・付表』p125-126 [[平凡社]]</ref>|group=注釈}})は、[[隋|隋朝]]の第2代[[皇帝]](在位:[[604年]][[8月21日]] - [[618年]][[4月11日]])。中国史を代表する[[暴君]]といわれる<ref>[[布目潮フウ|布目潮渢]]『隋の煬帝と唐の太宗』p12など</ref>。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は'''楊広'''である。 | + | '''煬帝'''(ようだい{{#tag:ref|「たい」は[[wikt:帝#日本語|帝]]の[[呉音]]である。|group=注釈}}、ようてい{{#tag:ref|「ようだい」は日本古来の読み癖と謂われる。<ref>『アジア歴史事典 vol.9 ム-ワ・補遺・付表』p125-126 [[平凡社]]</ref>|group=注釈}}) |
| | | |
− | == 生涯 ==
| + | 中国,隋の第2代皇帝 (在位 604~618) 。亡国の君主,悪帝として著名。本名は楊広。高祖楊堅 ([[文帝]]) の第2子。隋朝が成立すると晋王に封じられ,開皇8 (588) 年元帥として陳の遠征を指揮してこれを滅ぼした。[[楊素]]と結んで兄の太子勇を失脚させ,同 20年太子となった。即位すると「大業律令」を制定し洛陽に東都を造営,[[通済渠]],[[永済渠]],江南河を開き,[[大運河]]を完成させて,江南の物資を華北に大量輸送する体制を整え,みずから竜舟に乗って豪奢な巡遊を行なった。遠く吐谷渾 (とよくこん) やチャンパ (林邑) ,流求 (台湾) を征し,四方に使節を派遣して入貢を促した。日本から[[小野妹子]]が派遣されたのは煬帝の時代であった。晩年は高句麗遠征に大敗,江都の離宮で侍衛の[[宇文化及]]らに殺害された。 |
− | === 皇帝への即位まで ===
| + | |
− | 後に煬帝と呼ばれることになる楊広は、文帝[[楊堅]]の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の[[陳 (南朝)|陳]]の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。[[591年]]には、[[天台宗|天台]][[智ギ|智顗]]より菩薩戒と「總持」の法名([[居士]]号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。
| |
− | | |
− | 煬帝の生母の[[独孤伽羅]]は一夫一妻意識が強い[[匈奴]][[独孤部]]の末裔出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、煬帝の兄で[[皇太子]]の[[楊勇]]は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を煬帝が利用して自らの質素を宣伝すると共に、腹心の[[楊素]]と[[張衡 (隋)|張衡]]らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。
| |
− | | |
− | [[604年]]に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして逆に[[暗殺]]された、とする話が根強く流布した(『[[隋書]]』「后妃伝{{#tag:ref|{{cite wikisource|隋書/卷36|魏徵|zh|nobullet=yes}}によれば、煬帝は父の愛妾(妃)である[[宣華夫人陳氏|宣華夫人]]に迫ったが、夫人は病室に逃げ戻り文帝にそのことを告げた。文帝は怒り、楊勇を呼ぶように命じたがかなわず(このときの罵りは隋書では「畜生」とある)、その直後に張衡が病室に入ってきて女性全員を下がらせたなかで、文帝は崩御したといわれる。なお張衡は8年後に誅殺される。|group=注釈}}」でも言及している)。
| |
− | | |
− | === 治世 ===
| |
− | 即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた[[楊玄感]]は九族に至るまで処刑されている。
| |
− | | |
− | [[洛陽]]を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城([[長安]])の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し[[大運河]]を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、[[高昌]]に朝貢を求め、[[吐谷渾]]、[[チャンパ王国|林邑]]、流求(現在の[[台湾]]、一説に[[沖縄県|沖縄]])などに出兵し版図を拡大した。
| |
− | | |
− | さらに[[612年]]には煬帝は[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、煬帝に離反して亡命した高句麗から送還された[[斛斯政]]を射殺に処して、その遺体を[[釜茹で]]にするなど、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の[[楊玄感]]の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。[[615年]]8月、雁門において突厥に包囲された。煬帝は多大な賞賜を約束して援軍を募ったが、突厥が撤退すると恩賞を払わず、多くの将士から恨みを買った。各地で[[李密 (隋)|李密]]、[[李淵]]ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて[[揚州市|江都]]に逃れた。
| |
− | | |
− | === 最期 ===
| |
− | 煬帝は反乱の鎮圧に努める中で次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われた<ref name="新十八史略272">駒田『新十八史略4』、P272</ref>。ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、帝星が勢いを失い傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見て、不吉なものを感じて天文官に聞いてみると、「近頃、賊星が帝星の座をおかしています。また日光は四散してあたかも流血のごとき模様を描いております。このまま時が過ぎますと、恐らくは近々に不測の禍が起こりましょうから、陛下には直ちに徳をおさめられてこの凶兆を払う事が肝要と存じます」と述べた<ref name="新十八史略272"/>。この日から煬帝は国事の奏上を受け付けなくなり、奏上する者は斬罪に処すという命令を出した<ref name="新十八史略273">駒田『新十八史略4』、P273</ref>。
| |
− | | |
− | [[618年]]、[[揚州市|江都]]で煬帝は故郷への帰還を望む[[近衛兵]]を率いた[[宇文化及]]・[[宇文智及]]兄弟や[[裴虔通]]らによって、末子の趙王[[楊杲]](13歳)と共に50歳にして殺害された。彼は皇帝として毒酒による自害を望んだが、その最期は家臣2人に真綿で首を絞められるものだった。<ref>「学習漫画 中国の歴史 人物事典」2008年10月8日発行、監修・春日井明、94頁。</ref>。
| |
− | | |
− | == 歴史的評価 ==
| |
− | 煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。
| |
− | | |
− | 大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。しかし大運河の建設は、長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。
| |
− | | |
− | また、共に兄を殺した次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の多い唐[[太宗 (唐)|太宗]]の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)という貶字を[[謚号]]に用い、『[[隋書]]』にも暴君であるように編纂したとする意見もある<ref>布目前掲書</ref>。
| |
− | | |
− | 煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で[[宮崎市定]]・[[布目潮フウ|布目潮渢]]・[[アーサー・F・ライト]]が挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として)誇張されたとする点では共通している。
| |
− | | |
− | 2013年3月、中国[[江蘇省]][[揚州市]]の工事現場で古代遺跡が発見された。2013年11月16日、この遺跡が煬帝の墓であることが発表された<ref>{{cite news |title=日本の書簡に激怒、煬帝の墓確認…中国・江蘇省 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2013-11-17|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131117-OYT1T00307.htm |accessdate=2013-11-17}}</ref>。
| |
− | | |
− | == 詩人としての煬帝 ==
| |
− | 煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える[[抒情詩]]を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。
| |
− | | |
− | === 代表作 ===
| |
− | ; 飲馬長城窟行
| |
− | :[[突厥]]との戦いに赴く遠征軍の雄姿を描き出す。
| |
− | ; 野望
| |
− | :静かな村を描写。
| |
− | ;春江花月夜
| |
− | : 静寂におおわれた長江の夕暮れを描写。
| |
− | | |
− | {| class="wikitable"
| |
− | |+春江花月夜
| |
− | |-
| |
− | !原文
| |
− | !書き下し文
| |
− | |-
| |
− | |'''暮江平不動'''
| |
− | |暮江 平にして動かず
| |
− | |-
| |
− | |'''春花滿正開'''
| |
− | |春花 満ちて正に開く
| |
− | |-
| |
− | |'''流波將月去'''
| |
− | |流波 月を将いて去り
| |
− | |-
| |
− | |'''潮水帶星來'''
| |
− | |潮水 星を帯びて来る
| |
− | |-
| |
− | |}
| |
− | | |
− | == 倭国との関係 ==
| |
− | [[倭国]]が第2回[[遣隋使]](607年)を遣わしたのがこの煬帝の治世で、「{{lang|zh-tw|日出處天子致書日沒處天子無恙}}」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭王{{#tag:ref|『[[日本書紀]]』に記述のない第1回の遣隋使では「{{lang|zh-tw|開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤}}」号を「{{Lang|zh-tw|阿輩雞彌}}」で「{{lang|zh-tw|王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利}}」という。一般に[[多利思比孤|多利思北孤]]は厩戸皇子([[聖徳太子]])と考えられている。|group=注釈}}から送られている<ref>『[[隋書]]』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」</ref>。[[中華思想|東夷]]の島国の王が「天子」を称するのは固より剰え対等な関係を求め、字面では「没落の途にある皇帝」を意味する「日没處天子(倭で日没は方位を表す程度の表現であった)」という語句に煬帝は喜ばなかったが、当時隋は高句麗遠征を控えて外交上倭国との友好関係は必要と判断し、[[裴世清|裴清]]{{#tag:ref|『日本書紀』では[[裴世清]]、これが本名である。『隋書』がまとめられたのは次の[[唐]]の時代であり、当時は唐の太宗[[李世民]]の[[避諱|諱を忌避して]]「世」を欠字にしている。|group=注釈}}を倭国へ派遣した。煬帝在位中に遣隋使はこの第2回を含めて計4回も派遣されている。<!--なお[[日本]]という名称は、702年([[大宝 (日本)|大宝]]2年)の第8回[[遣唐使]]の時に「日本側」から、使用されたものである。--><!--脱線トリビア-->
| |
− | | |
− | == 宗室 ==
| |
− | === 后妃 ===
| |
− | * [[煬愍蕭皇后|蕭皇后]]([[後梁 (南朝)|後梁]]の[[公主]]、[[蕭ソウ|蕭琮]](後主)の姉)
| |
− | * 貴人陳女婤(陳後主の六女)、嬪蕭氏(蕭皇后の[[いとこ|族妹]])、王氏([[李淵]]の姪)、崔氏
| |
− | * 御女唐氏、采女田氏、采女田氏
| |
− | * [[宣華夫人陳氏|陳氏]]、[[容華夫人|蔡氏]]
| |
− | | |
− | === 男子 ===
| |
− | * 元徳太子[[楊昭]]
| |
− | * 斉王{{lang|zh|[[楊カン|楊暕]]}}
| |
− | * 趙王[[楊杲]]
| |
− | | |
− | === 女子 ===
| |
− | * [[南陽公主 (隋)|南陽公主]] ([[宇文士及]]の妻)
| |
− | * [[:zh:杨妃 (唐太宗)|某公主]]([[太宗 (唐)|唐太宗]]妃、呉王[[李恪 (呉王)|李恪]]らの生母)
| |
− | | |
− | == 年号 ==
| |
− | # [[大業]] [[604年]] - [[618年]]
| |
− | | |
− | == 煬帝を扱った作品 ==
| |
− | * [[塚本青史]]『煬帝』上下(日本経済新聞出版社、2011年1月26日 ISBN 978-4532171025 / ISBN 978-4532171032)
| |
− | * [[田中芳樹]]『隋唐演義〈2〉隋の煬帝ノ巻』(中公文庫、2004年3月 ISBN 978-4122043350)
| |
− | * 田中芳樹『風よ、万里を翔けよ』(徳間書店、1991年3月 ISBN 978-4191244931)
| |
− | | |
− | == 脚注 ==
| |
− | === 注釈 ===
| |
− | {{reflist|group=注釈}}
| |
− | | |
− | === 出典 ===
| |
− | {{脚注ヘルプ}}
| |
− | {{Reflist}}
| |
− | | |
− | {{wikisourcelang|zh|隋書/卷03|隋書 巻3 煬帝 上}}
| |
− | {{wikisourcelang|zh|隋書/卷04|隋書 巻4 煬帝 下}}
| |
− | | |
− | == 参考文献 ==
| |
− | {{参照方法|date=2017年11月|section=1}}
| |
− | * [[宮崎市定]] 『隋の煬帝』([[人物往来社]]、1965年)
| |
− | **[[1987年]]に[[中公文庫]]、[[2003年]]に新版。ISBN 4122041856
| |
− | * [[布目潮フウ|布目潮渢]] 『隋の煬帝と唐の太宗』(清水書院、新版[[1987年]] ISBN 4389440446)
| |
− | * [[陳舜臣]] 『中国の歴史 四』([[講談社文庫]]、[[1991年]]、ISBN 4061847856)
| |
− | * [[アーサー・F・ライト]]「Sui Yang-ti: Personality and Stereotype」(『Confucian Persuasion』の一章、[[スタンフォード大学]]、ISBN 0804700184)
| |
− | | |
− | == 関連項目 ==
| |
− | * [[京杭大運河]]
| |
| | | |
| {{先代次代|[[隋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第2代:604年 - 618年|[[楊堅|文帝]]|[[恭帝侑]]}} | | {{先代次代|[[隋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第2代:604年 - 618年|[[楊堅|文帝]]|[[恭帝侑]]}} |
− | {{Normdaten}} | + | {{テンプレート:20180815sk}} |
| | | |
| {{DEFAULTSORT:ようたい}} | | {{DEFAULTSORT:ようたい}} |