ja>CommonsDelinker |
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− | {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=らてんていこく___世界史}}
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− | {{基礎情報 過去の国
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− | |略名 =
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− | |日本語国名 = ラテン帝国
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− | |公式国名 = Imperium Romaniae
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− | |建国時期 = [[1204年]]
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− | |亡国時期 = [[1261年]]
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− | |先代1 = 東ローマ帝国
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− | |先旗1 =
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− | |先代2 =
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− | |先旗2 =
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− | |次代1 = ニカイア帝国
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− | |次旗1 = Lascaris-Arms.svg
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− | |国旗画像 =
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− | |国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
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− | |国旗説明 =
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− | |国章画像 = Blason Empire Latin de Constantinople.svg
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− | |国章説明 =
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− | |国章幅 = <!--初期値85px-->
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− | |標語 =
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− | |国歌名 =
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− | |国歌追記 =
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− | |位置画像 = LatinEmpire.png
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− | |位置画像説明 = ラテン帝国(薄黄色)
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− | |公用語 = [[ラテン語]]<br>[[古フランス語]]
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− | |首都 = [[コンスタンティノポリス]]
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− | |元首等肩書 = 皇帝
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− | |元首等年代始1 = 1204年
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− | |元首等年代終1 = 1205年
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− | |元首等氏名1 = [[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]
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− | |元首等年代始2 = 1206年
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− | |元首等年代終2 = 1216年
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− | |元首等氏名2 = アンリ
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− | |元首等年代始3 = 1216年
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− | |元首等年代終3 = 1217年
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− | |元首等氏名3 = [[ピエール2世・ド・クルトネー|ピエール・ド・クルトネー]]
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− | |元首等年代始4 = 1221年
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− | |元首等年代終4 = 1228年
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− | |元首等氏名4 = ロベール
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− | |元首等年代始5 = 1228年
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− | |元首等年代終5 = 1261年
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− | |元首等氏名5 = [[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]
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− | |変遷1 = 建国
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− | |変遷年月日1 = [[1204年]]
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− | |変遷3 =
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− | |変遷年月日3 =
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− | |変遷4 =
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− | |変遷年月日4 =
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− | |変遷5 = [[ニカイア帝国]]により滅ぼされる
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− | |変遷年月日5 = [[1261年]]
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− | |通貨 =
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− | |注記 =
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− | }}
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− | '''ラテン帝国'''(ラテンていこく、[[1204年]] - [[1261年]])は、[[第4回十字軍]]が[[コンスタンティノポリス]]を攻めて[[東ローマ帝国]]をひとたび滅亡させた後、[[コンスタンティノポリス]]に立てられた[[カトリック教会|カトリック]]国家である。いわゆる[[十字軍国家]]の1つ。正式名は'''ロマニア帝国'''({{lang-la|Imperium Romaniae}})という。ロマニアとは「[[ローマ人]]の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。
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− | [[1261年]]、東ローマ帝国の亡命政権のひとつである[[ニカイア帝国]]に滅ぼされた。 | + | '''ラテン帝国'''(ラテンていこく、[[1204年]] - [[1261年]]) |
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− | == 略史 ==
| + | 1204年,第4次[[十字軍]]が[[ビザンチン帝国]]の首都[[コンスタンチノープル]]を占領したあと,この地に建てられた王国。フランドル出身の[[ボードアン1世]]に始まり,[[ボードアン2世]]にいたるまで 6人の西ヨーロッパの王侯を数えたが,1261年8月15日[[ニカイア帝国]]の亡命政権 (ビザンチン) の[[ミカエル8世]]の奪回により終息。 |
− | 1204年、コンスタンティノポリス陥落後の選挙の結果、[[フランドル伯]]ボードゥアン9世が初代[[ラテン皇帝一覧|皇帝]]に選出された。これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、[[ギリシア]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の支持を得た[[モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]が強力になるのを恐れた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
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− | ボードゥアン9世は、[[5月16日]]に初代皇帝[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]として即位し、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国の[[ギリシャ人]]貴族層を冷遇し、[[東方正教会]]の聖職者達には[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
− | 貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた[[亡命政権]]へ参加したり、[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]](ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。
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− | 一方、ラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世は皇帝ボードゥアン1世と対立し、ギリシアに[[テッサロニキ王国]]を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。
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− | この情勢を見た亡命政権の1つ[[ニカイア帝国]]の[[テオドロス1世ラスカリス]]は、ブルガリア王[[カロヤン・アセン|カロヤン=ヨハニッツァ]]と結んで、ラテン帝国と対峙した。
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− | 1205年、侵攻してきたカロヤン=ヨハニッツァのブルガリア軍と対戦したラテン帝国軍は大敗し、指導者の1人だったブロワ伯ルイは戦死、皇帝ボードゥアン1世は捕虜となった。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノポリスの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、同年には頼みの[[エンリコ・ダンドロ]]も病死し、早くも滅亡寸前となった。
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− | しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟[[アンリ・ド・エノー]]は、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権の[[エピロス専制侯国]]や[[ニカイア帝国]]とも有利な条件で講和を結ぶことに成功する。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、彼の娘と結婚することで和解した。
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− | しかし、1216年にアンリが死去すると帝国は再び衰退しはじめ、1229年にエルサレム王だった[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]を迎えて建て直しを計ったが大勢は変わらず、最後の皇帝[[ボードゥアン2世ド・クルトネー]]の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。1261年ラテン帝国軍が出払っている隙に、ニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、滅亡した。
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− | == 年表 ==
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− | *[[1204年]] - [[フランドル伯]]ボードゥアン9世が、[[5月16日]]に初代[[ラテン皇帝一覧|皇帝]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]として即位。
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− | *[[1205年]] - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
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− | *[[1206年]] - ボードゥアン1世の弟[[アンリ・ド・エノー]]が皇帝に即位。
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− | *[[1216年]] - アンリが死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
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− | *[[1217年]] - アンリの後を継いだフランス人の[[ピエール2世・ド・クルトネー|ピエール・ド・クルトネー]]がローマからコンスタンティノポリスへ向う途中のアルバニア山中で[[エピロス専制侯国]]に捕らえられる。
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− | *[[1225年]] - [[ニカイア帝国]]軍に大敗。[[小アジア]]の領土の大半を失う。
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− | *[[1261年]] - ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、[[7月25日]]の夜中に[[ニカイア帝国]]軍にコンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝[[ボードゥアン2世ド・クルトネー|ボードゥアン2世]]は逃亡。ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに[[東ローマ帝国]]が復活した。
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− | == 関連項目 ==
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− | *[[ラテン皇帝一覧]]
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