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'''国体明徴声明'''(こくたいめいちょうせいめい)とは、[[1935年]](昭和10年)の[[天皇機関説事件]]の中で、[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]を排撃することで政治的主導権を握ろうとした[[立憲政友会]]・[[軍部#日本における軍部|軍部]]・[[右翼]]諸団体が時の[[岡田啓介内閣|岡田内閣]]に迫って出させた政府声明 。
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'''国体明徴声明'''(こくたいめいちょうせいめい)
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[[1935年]](昭和10年)の[[天皇機関説事件]]の中で、[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]を排撃することで政治的主導権を握ろうとした[[立憲政友会]]・軍部・[[右翼]]諸団体が時の[[岡田啓介内閣|岡田内閣]]に迫って出させた政府声明 。
  
 
天皇機関説が[[天皇]]を[[統治機構]]の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、[[大日本帝国|日本]]が天皇の統治する[[国家]]であるとした宣言。
 
天皇機関説が[[天皇]]を[[統治機構]]の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、[[大日本帝国|日本]]が天皇の統治する[[国家]]であるとした宣言。
  
== 国体明徴運動の経緯 ==
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=== 国体明徴運動 ===
 
そもそも[[大正]]期半ばから[[昭和]]初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、[[昭和天皇]]が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。
 
 
 
しかし、軍部の台頭と共に起こった'''国体明徴運動'''の中で、天皇機関説は[[国体]]に反する学説として排撃を受け始めた。
 
 
 
=== 第1次国体明徴声明 ===
 
[[1935年]](昭和10年)[[2月19日]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]本会議の演説において[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。
 
 
 
この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は[[発禁]]となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。
 
 
 
さらに政友会・軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の[[在郷軍人会]]を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935年(昭和10年)[[8月3日]]「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした('''第1次国体明徴声明''')。
 
 
 
=== 第2次国体明徴声明 ===
 
これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。
 
 
 
美濃部も1935年(昭和10年)[[9月18日]]、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。軍部・右翼は国体明徴の徹底を[[岡田啓介|岡田首相]]に迫り、1935年(昭和10年)[[10月15日]]、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した('''第2次国体明徴声明''')。
 
 
 
第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。
 
 
 
以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが[[学術論争]]といった類のものではなく、[[政争]]の道具にされた点である。
 
 
 
つまり[[立憲政友会]]による岡田内閣倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより帝國憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。
 
 
 
== 国体明徴声明全文 ==
 
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恭しく惟みるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ』と宣ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近時憲法學説を繞り國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。
 
|「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)}}
 
 
 
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曩に政府は國體の本義に關し所信を披瀝し、以て國民の嚮ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察す。然るに漫りに外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明し、以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。
 
|「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス(国立公文書館 公文類聚・第五十九編・昭和十年・第二巻・政綱二・地方自治二(台湾・統計調査)・雑載) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:A01200686500
 
* 国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700
 
* 第3185号 10・7・25 国体明徴問題に関する件(海軍省公文備考 昭和10年 P 会議 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034588200 p1~p10
 
 
 
== 関連項目 ==<!--項目の50音順-->
 
*[[国体の本義]]
 
*[[国体論争]]
 
*[[天皇機関説]] - [[天皇機関説事件]]
 
*[[美濃部達吉]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*{{Kotobank|国体明徴問題|2=世界大百科事典 第2版}}
 
  
 
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2018/9/1/ (土) 18:36時点における最新版

国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)

1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明 。

天皇機関説が天皇統治機構の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であるとした宣言。



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